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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

モスクワシティのウズベク通り

2012-10-18 03:31:47 | ヨーロッパ

 ”Heart Magnet” Sogdiana

 ウズベキスタン出身、ロシアポップス界で活躍中のソグディアナ嬢の2008年作アルバムであります。
 ロシアで行われたタレントコンテスト参加をきっかけに見出され、2006年に15歳でデビューアルバムを出した、なんて資料があるんで、これは2ndあたりなのかな?いずれにしても画像なんか見ると、年齢よりずっと大人っぽいですな。

 ソグディアナというのは、そもそも苗字なのか名前なのかあだ名なのか?と思ってウィキペディアなど探ってみると、下のような文章に突き当たりました。

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ソグディアナ(Sogdiana)は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。
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 う~ん、何やら意味ありげだ。この名前でロシアポップス界に殴り込むのには、どのような思い入れがあるんだろう?

 アルバムを聴いてみても、あちこちにウズベクらしい中央アジアの匂いが散りばめられています。今のロシアポップスにありがちな単調な打ち込みリズムに乗って、いかにも中央アジア・イスラム圏らしい響きの弦楽器やら打楽器やらが走り抜ける。うたわれるメロディも、エキゾティックな音階の民族調のものになっている。
 このへんで、ワールドミュージック好きの血は、いやがうえにも騒ぎ始める訳ですな。ただ・・・あんまり学術的に音楽を聴いていない身の悲しさ、これがリアルなウズベクの民族音楽を反映したものか、それともロシアのアレンジャーがひねり出した作り物の異国情緒なのか、そのへんがよくわからないというもどかしさがある。いや、いかにもそんな感じのサウンドでもあるんですわ。

 しかし実際、この”民族色”は彼女がロシアで歌手としてやって行く上で一つの”売り”になっているのは、アルバムの作りから考えてもありうるのであって、そのあたりのいかにも芸能界らしい虚実皮膜のありよう、ドキドキさせられるのでありますなあ。




ジャズなパリの欠伸のブルース

2012-10-05 02:09:31 | ヨーロッパ

 ”Confidentiel”by Serge Gainsbourg

 フランス人による「ジャズの芸術性」への指摘があったおかげで、ジャズは「黒人の音楽芸術」なる立ち位置を得、それを商売にさえできるようになったのだ、なんて論を聞いたことがある。
 フランス人とジャズの秘めたる共犯関係については、ずっと以前に映画、「ラウンド・ミッドナイト」に対する悪口、という形で、この場に書いた。

 ろくに食えないアメリカに見切りをつけて、ジャズを芸術扱いしてくれて自分たち黒人を芸術家として優遇してくれる、それなりの仕事もあるらしいヨーロッパに旅立つ老ジャズマン。やって来たジャズマンにいちいちくっついて歩き、ジャズの芸術性に関して、やかましいほど賞賛を繰り返すパリのジャーリスト。そいつに対し、「俺はクラシックも聴くよ、あれは最高だ」なんて言ってみせるジャズマン。

 ここに共犯関係は成立する。「ジャズは素晴らしい。そいつを生み出した黒人は偉大な芸術家だ」と褒め称えることで、フランス人は「芸術の偉大なる理解者」の立場を得る。
 黒人は芸術家扱いを、ついでに人間扱いをしてくれた返礼に、「あなたがたが我々を人間扱いしてくれる限り、我々黒人は決して、”黒人は白人より偉大だ”などと言い出さないことを誓う」との証しとして、「クラシックも最高だ」と言ってみせたのだ。「人間扱い」の前に「2流の」の言葉が秘められていることは、気がつかないフリをしていよう。

 こうしてフランス人は”芸術の理解者”の地位を得る。そこでは、いくら黒人を褒め立てても、なにしろ「クラシックも聞くよ」の言質を得ているのだ、自身は黒人に追い抜かれる心配はない。黒人は芸術家の立場を得る。白人の定義した”芸術”という名のドッグ・ランの中において。
 「ラウンド・ミッドナイト」というのは、そんな汚い契約の構造を描き出した映画と思うのだが、たとえばどこぞのサックス吹きのように、「ジャズ好きにはたまらない映画ですね」とか、能天気な感想を述べたりする御仁もいる、というお話。

 前置きが長くなった。ここに取り出したるは、シャンソン界の風雲児、セルジュ・ゲンズブールが1963年にリリースしたアルバム、”コンフィデンシャル”である。というか、彼の作品、これしか持ってないんだが。先の文章をお読みになればお分かりのように、私、フランス人って嫌いなんだよね。
 で、このアルバムは例外的に好きで、時に取り出しては聴いてみるのだった。

 全編、ほぼギターとベースのみをバックにして、ゲンズブールのクールなボーカルが響く、という構成。ゲンズブールの書いたメロディも、バッキングのセンスも、ジャズ色の濃いものとなっている。歌詞対訳を見ると、まあいかにもパリのエスプリなんでしょうか、ひねくれ倒した内容となっている。意味とか考えてもしょうがないんだろうね。
 ゲンズブールのボーカルが、一貫してクールではあるんだが、いかにもシャンソン臭い古めかしい背筋を伸ばしたものだったり、ときに、それこそジャズっぽく崩したものになったりするのが面白い。曲によって歌唱法を使い分けているという感じでもないので、このアルバムが過渡期でもあったのだろうか。だから、うん、ほかのアルバム聴いてないから分からないわけね、私には。

 犬の糞で薄汚れたパリの裏町で、自らの抱えた焦燥を、たとえば、今、イッチャンナウいジャズの乗りに翻訳したらどんなものなのだろうと思い浮かべる若きゲンズブールがいる。
 つまんねえ話だぜと唾を吐き、咥えタバコを踏み消して街角を去っていった奴の後ろ姿に、通奏低音のように絡みついて消えない一群の音列が響いていた。



ナポリに還る日

2012-08-24 02:36:24 | ヨーロッパ

 ”NOA:Noapolis - Noa Sings Napoli”

 ともかく。「日本の夏ってこんなにハードだったっけ?」とぼやきつつ、ブログの更新もままならない日々が続いているわけでありまして。いやホントに、この7月8月なんて、サボった日の方が多いくらいで、ひどいものだな。
 などと言っていたら酷暑に打ちのめされる体と心へのひと時の慰謝となる一枚がイタリア方面から現れた。ノア、という人はこれが初対面だけど、若手の地味な実力派、みたいなポジションの人だろうか。古いナポリの古謡というか大衆歌ばかりを弦楽四重奏をバックにじっくり歌い上げた、ナポリへの愛に溢れた一枚であります。

 冒頭に置かれた「はるかなるサンタルチア」が、もう好きな曲なんで嬉しくなってしまうんだけど、この曲名を挙げると、いわゆるイタリア民謡の有名な方の「サンタルチア」を思い出して、「ああ、それなら知ってる」なんて答えが返ってくるんで残念だ。私の手元にはこの歌の日本語訳詞の付された楽譜が載っている”世界の民謡”なんて古い本があり、おそらくは”歌声喫茶”の時代などに我が国でも愛唱されたんではないかと想像するんだが。
 ともかくこの歌は好きでした。歌に現れる、光あふれるナポリの港を恋しがる船乗りの想いと、遠く離れた南イタリアの地に憧れるこちらの気持ちがうまい具合に重なり合って、実に切ない。こんな歌を聴いていると、心底、ナポリの港に帰りたくなってくるねえ。いや、行ったことはないけどさ、そもそも。

 なんてことを言っていても仕方がないが。あ、「帰れソレントへ」も入っていますな。その種の、小学校で習ったような”イタリア民謡”と、後年、音楽ファンになってから、マニアックな店でやっと手に入れたイタリアの知る人ぞ知るトラッドバンドのアルバムに入っていた、ドロドロのアレンジで聴かせるナポリの伝承歌が、ごく自然に同居しているのがなんだか不思議なこのアルバム。そしてその両者が裏表でもなんでもなく、どちらも等価にナポリである、という当たり前の事実。
 現地ナポリの人々にはこのアルバム、どのように聴こえるんだろうか。

 ノア女史の歌唱は、ともかく掌のうちで慈しむように心を込めて、ナポリ伝統の美しいメロディを描き出すことだけを心がけているように感じられる。時に生ギターも加わる弦楽四重奏もイマジネーションにあふれるプレイを聴かせてくれ、安心して心を任せることができる。
 聴いていると、歌の主人公はほとんど南の陽光かとも感じられて来ますな。マイナー・キーで進行していた語りだしの部分が終わり、サビの部分でメジャーに転調。光あふれる。この展開って、元ネタはナポリじゃないかとまで思えてくるんだが。
 ともかく転調とともに地に満ち溢れる南の陽光のイメージ。それを全身に浴びて吹きこぼれ、天にまで伸び上がろうとする溢れる歌心、その想い。ナポリの人々って一体なぜ、ここまで深い憧れを胸に育んだのだろうか。

 懐かしいです。帰りたいです。古き、懐かしきナポリの街角に。うん、行ったことはないけどさあ。




シンジケート・リスボン

2012-07-11 05:26:57 | ヨーロッパ

 ”Lisbon Bass”

 「人生の終焉の時を、地球上どこでも好きな場所で迎えられるとしたら、君はどこを選ぶ?ワールドミュージック・ファンとして回答したまえ」なる質問を以前された際、私は「それならポルトガルのリスボン。そのような場所があるなら、暖かい陽の差す裏町の、古い石畳の道に置かれたオンボロの椅子の上がいい」と答えたものです。
 こんなこと言うと、よほどポルトガル音楽のファンなのだろうと思われるかも知れませんが、実はそうでもない。ポルトガル国籍の音盤、数え上げても数枚しか持っていないのであって。例えばかの国の大衆音楽の代名詞といってもいいだろうファドなんかでも、宿命がどうのこうの、なんて重苦しい話題が多くて、どうも聞く気になれなかったりするのですな。
 だったらどうしてポルトガル?といえば、やはりかの国が地球上のあちこちに撒き散らしていった音楽の種の記憶に心惹かれるものがあるのでしてね。

 大航海時代の幕開けとして七つの海に乗り出していった海洋国家のロマン・・・とか言っても、その一方では他の土地を暗黒大陸扱いし搾取する大迷惑な植民地主義の種もまたまき散らしていたりもしたのだが、そのへんのやましさも含めて、なにか”後ろ向きの憧れ”みたいなものをポルトガルに感じてならないのですな。
 世界音楽の消息を訪ねると、あちこちで出くわすこととなるポルトガルの足跡。定かのようで、何やら頼りなく、それは時の向こうで揺れている・・・

 などと言いつつ、そのポルトガルの今を伝える、オムニバス・アルバムであります、これ。
 なにやらポルトガルと南米やアフリカなど、大洋を超えて連なるコネクションの中から浮かび上がって来た音楽群のようだけど、そのようなものが存在しているのか。
 どこまで自然発生的なものなのか、詳しいことは知らず。まあ、どれも庶民が勝手気ままに紡ぎ出した音楽群であるのは、その全体像のホットなとっ散らかりようからも想像がつく。
 まあ基本は、打ち込みのリズムに乗っかるシンセから掛け声やらピアノやら、といった作りのエレクトリックな、ナウくて猥雑なダンスフロア御用達の物件ばかり。

 聴いていて何度も感じるのは、どの曲からも程度の差こそあれ伝わってくるどうしようもないあったかさ、人懐こさの類い。ドイツ人なんかの作った”鉄の夢”系列の冷徹な叙情とは大違いの緩いそして、通奏低音として奏でられる貧乏くさい感傷の提示。こういうのがサウダージって奴ですか?
 冒頭の、いかにもヨーロッパらしいクールな曲調から、順を追って聴いて行くうち、徐々に体温が、人間くささが増して行く構成になっている。終わり近くにはややへんてこではあるものの、普通のサンバを聞いているのとあんまり変わらなくなって来る。こいつが太洋の彼方、時の向こうからポルトガルに押し寄せた返り波の響きなんだろうか。



マントラの夜

2012-07-01 04:54:00 | ヨーロッパ

 ”Hosianna Mantra”by Popol Vuh

 さきほど、福島第1原発4号機の冷却装置が停止している、との情報がネット経由で入ってきた。しかも、予備の冷却装置も起動できない状態、とのこと。何が原因なのかわからないのだが。
 4号機といえばご存知、破損した建屋内部に、大量の使用済燃料棒が貯蔵されたプールを抱えた、ある意味一番心配な部署である。そのプールの冷却機能が失われたとなれば。このまま回復できなければ。遠からず3・11以上の惨事となるのは必至だろう。

 4号機のプールが抱え込んだ燃料棒の、今のところは眠っているエネルギーは、これまで人類が行なってきた核実験全てに匹敵する、なんて話を聞いた気がするが、これは私の非科学脳のうろ覚え、あまり頼りにはならない。が、どのみち、大変に危険な状況にあるのは事実なのだろう。冷却能力が失われたままならば。そのエネルギーが解き放たれてしまえば。

 人々の寝静まった土曜の深夜、コンビニへの買い物の道を歩きながら、なんだか不思議な気分だった。とても穏やかな、まるでこの平和が侵されることなく続いて行けるものであると信ずることが可能であるかのような夜の街が、そこにはあったから。

 政府も東京電力も、この事件を大きくは報じないようにするのだろう。そして闇から闇で処理してしまい、なにごともなかったかのような顔をして、「ええ、「原発事故は終息しておりますよ」と言い放つ。いや。今回、処理できればいいのだが。
 「それはカチカチとちらついて終わる」とはウイリアム・テンの小説のタイトルだっけ。ストーリーも忘れた小説の、タイトルだけをふと思い出した。

 ドイツ・プログレ界のある意味で極北に位置する”静寂系”バンド、ポポル・ヴーの最高傑作と呼び名も高い、”ホシアナ・マントラ”である。
 以前ネットで、「このジャケにピンときたら、もうオッケー、すぐにこの盤を買い求めなさい、絶対損はさせない」なんて書き込みに出会ったことがある。まあでも、それで当たりかもな。こんな絵に反応してしまう心の持ち主向きの音ではある、確かに。

 無骨なゲルマン民族が描いた、精緻を極めた魂の音楽。クラシック、ではないんだけれど、その種の美学に律せられた音楽。賛美歌、ではないんだけれど、芯に深い宗教的な祈りを込めた音楽。

 ロック、なんて言葉は軽く裏切ってくれる静粛なる音世界の展開。たおやかに流れる弦楽アンサンブルの調べと、たおやかに流れるピアノの描く音の稜線。この世とは別のどこかにある楽園の風の匂い、日差しの肌触り。どこまでも広がる穏やかな情景を、音楽は描き出す。
 唯一のアジア人メンバーである女声ヴォーカルが、「クラシックのソプラノ・ボーカルを学んだ人が、遠くの部屋で練習をしている」くらいの密やかさで、そっと音楽に寄り添う。
 そして、ブルース探求より初めて、いつの間にかふと地上を離れ、この世ならぬ音楽を希求することとなった、みたいなドイツ・サイケデリック特有の不思議なニュアンスを持つ、澄んだエレキギターのイマジネーション豊かなアドリブが、どこまでもどこまでも天上目指して登って行く。

 非在の楽園からの調べに耳傾ける夜明け近く。風はなんの歌も歌わず、ただ夜空を吹き抜けて行く。




起源と音楽

2012-06-03 04:24:12 | ヨーロッパ

 ”Ursprung”by Pantha Du Prince & Stephan Abry

 ドイツのエレクトリカのミュージシャンが、同国の伝説的ロッカーとのコラボで作り上げた硬質なイメージの世界。
 タイトルは「起源」という意味だそうだ、このアルバム。ジャケに広がるのは流氷だろうか。中に封入された、暗くよどんだ空の下の雪に覆われた海辺や、オーロラや、夜の教会の写真などからも、どうやら北方をイメージせよ、という運びらしい。

 打ち込まれるリズムの上で、シンセやギターによるミニマルな繰り返しのうちに提示されるのは、張り詰めた、時に不安なイメージの断片。具体的なメロディラインは全く提示されず、音の断片の積み重ねの上に、”起源”の幻が積み上げられてゆく。

 太古の広大な原生林の中に誘い込まれるような幻想に酔いしれているといつか、淡々と積み上げられていたかに思えたイメージの集積が、驚くほど凶暴な相貌を帯びて、こちらの意識に襲いかかってくる。遠い昔に忘れられた悪夢の甦りか。
 この音楽を作り上げた後、ミュージシャンたちも「訳の分からないものが出来てしまった」と感想を漏らした、とか。




ワルシャワの面影

2012-05-17 05:20:26 | ヨーロッパ

 ”Nie ma Cię obok mnie”by Iwona Loranc

 Iwona Loranc。彼女はポーランドの歌手である。なんて事ぐらいしか書くこともないんで弱ってしまうが。まあ、検索をかけても、ポーランド語が分かる人ならなんとか情報もつかめるでしょ、てなものである。

 彼女の歌と出会ったのは、2年ほど前の冷え込む冬の夜、別のことを調べるためにYou-tubeを徘徊していたら、偶然遭遇し、その後、なんとなく彼女の作品をのぞき込むようになった。
 はじめからめちゃくちゃ気に入った、というわけではない。あんまり愛想が良いとは言えない歌だ。ただなんとなく心に引っかかってしまって、ある日ふと思い出しては聴きたくなる、そんなタイプの歌手だ。

 彼女は暗く沈んだ、ハスキーというよりは、ややしわがれた声で、自らの心の暗闇をのぞき込むように歌う。何を歌っているのか分からぬが、なにやら揺るがぬ意思、みたいなものを感じさせる。背筋を伸ばした感じで、あまり感情に左右されずに、あくまでクールに。その影に、ストイックに押し殺した感情の燠火が燃えている、そんな感じか。旧東欧には、時にそのような個性の歌手が生き残っいるようだ。

 サウンドは、これも東欧らしいモノクローム調で、時に素っ気ない打ち込みのリズムが支配し、時にクールなジャズが流れ。でも、そのさらに奥に、70年代アメリカン・フォークの残滓が仄かに匂う瞬間がある。彼女の趣味か、より年上らしきプロデューサーの思い入れか。
 歌われる歌はどれも、彼女の歌い方にふさわしく背筋の凛と伸びた感じの理知的な曲であり、それが東欧名物無機的ポップ・サウンドに乗って歌われると、1960年代のSFに出てきた不思議な未来都市から響いてくる歌に聴こえないでもない。

 吹雪に閉ざされた情熱が、目を伏せ通り過ぎる後ろ姿のワルシャワの街角など、想う。



荒れ野の果てに

2012-05-07 04:59:35 | ヨーロッパ

 ”Translucida”by Qntal

 ドイツのエレクトリック古楽バンド。という紹介で合っているのかどうか。
 ともかく演奏されるのは、何百年も前にヨーロッパ各地で書き記された詞、散文などにメンバーが曲をつけたもの。
 歌詞に使われた字句の出どころの多くは”何世紀頃、××で”といった表記で作者名もなく、全体としては”トラディショナル”とクレジットされているので、それこそ古文書に見つけた落書きのたぐいの、無名氏による片々たる文字列の採取のようだ。

 それに対してメンバーが書下ろしたのは、古楽っぽい、あるいはトラッドっぽい汎ヨーロッパ的香気の漂う、アルカイックなメロディである。
 打ち込まれる、パワフルな機械のリズム。古楽器の音色を模したシンセのアンサンブルが刺激的な音の流れを形成する。
 そんな電子楽器メインの演奏に乗せてボーカル担当の女性メンバーが、クラシック・ルーツっぽい、優雅な響きのある発声で歌い上げる。その、どこか悲嘆の響きもある美声は、電子楽器たちの黒く渦巻く流れと絡み合いながら、ヨーロッパの枯野をさすらう。

 収められた歌の全てに、挽歌の佇まいを感ずる。過ぎてしまった運命を深く悼む響きがある。ディープヨーロッパのブルース、なのかも知れない。



去りにし海の記憶

2012-04-07 02:55:02 | ヨーロッパ

 ”Marinai,Profeti e Balene”by Vinicio Capossela

 タイトルの意は、「船乗りと鯨と預言者」だそうな。歌われているのは、まだ帆船で大海を渡っていた頃の海洋奇談集とか、そんなものだろうか。
 ジャケ写真からこちらを見つめる疲れきった水夫、そんなものを気取ったジャケ写真の放つ、強力なアナクロ志向のくすんだ輝きに「こいつは何かある」と思えてならなかった。これもジャケ買い道の道草行。

 Vinicio Capossela はイタリアのシンガー・ソングライター。ドイツのハノーヴァーで生を受け、イタリアのロマーニャで育った。1990年代にデビューし、この作品が13作目のアルバムというのだから、もうベテランといっていいのだろうが、私にはこの作品が初対面である。
 海の出来事をテーマに作品を作ってみたくなったと、メルヴィルの名高い「白鯨」をはじめとする海洋文学にのめり込み、クレタ島、およびエーゲ海各所でレコーディングを行なった。CDが2枚組になったのはおそらく、最初からの目論見ではなく、制作の過程で構想が膨らみ、一枚では収まりがつかなくなったからではないか。歌に収まり切らず、大量に溢れた言葉がナレーションとしてアルバム各所にてんこ盛りとなって収められていることから、それはわかる。

 コンパクトなバンド編成から、大編成のコーラス隊を従えたオペラ仕立ての作品まで、収められた歌は様々な形をしているが、どれも不思議にモノクロの印象で、大昔の白黒映画を見ているような感じだ。海をテーマとしたアルバムというとまっ先に思い出される、イギリスのロックバンド、プロコルハルムの名作”ソルティ・ドッグ”の、あのカラフルな活劇絵図とは、ずいぶん違った手触りだ。
 Caposselaが、もともとがマニア好みの地味な作風のアーティストゆえ、そのような手触りの作品となったかとも思われるが、もうひとつ、彼が「白鯨」に代表される文学を仲介として、海洋における古き時代の冒険行のイメージをつかんでいったからではないか。

 シンと静まり返ったカビ臭い図書館で、Capossela が海の奇跡に触れた古文書に読み耽る。遠い昔に海で生きた者たちの血の騒ぎや恐怖、失意や栄光の記憶に寄り添おうと文字を追う。感覚を研ぎ澄まし、遥かな空間の向こうに微かに木霊している、遠い遠い日の海の響きを感じ取る。
 それはまだ海が人々のロマンの象徴として水平線の彼方に輝いていた時代の記憶。霧の彼方に消えていった伝説の白鯨やエイハブ船長の物語。そんなものを夢見るのは、すでに滑稽な営為と結論が出てしまったのかもしれないが、かまわず彼は時代遅れの巨大帆船のようにイマジネーションの大海に泳ぎ出して行く。



エーゲ海の春

2012-04-02 05:11:58 | ヨーロッパ

 ”Ege'ye Sevdalandik”by Elcin Bulut

 四月の最初の日、日曜日は、昼過ぎに表に出てみたらこれがいかにも生まれたばかりの春というのか、爽やかな光差す久しぶりのうららかな風景だったので、「おお、ついに春がやってきたのだ」と嬉しい気分になったものだ。通りを行く観光客諸氏の話し声も容器に響く。おう、そういえば今日は今年初めての我が市の花火大会の日ではなかったか。それでこんなに街も人が多いのだな、浮かれているのだな。
 私は予定を変更し、いつもより軽目の上着を着、愛用のバイクにまたがって用事をすましに出かけたのだが、こいつはとんだ早合点で、降り注ぐ日差しは確かに春真っ盛りのそれだが、吹き抜ける風は昨日とあんまり変わらない真冬のような冷たい代物だったのだ。ひどい目にあった。まったく、気まぐれな天候の奴めが。いつまで我々をコケにすれば気がすむのだろう。

 というわけで、トルコの女性歌手の、春の足声の聴こえる一枚など。
 もっともこのアルバム、ちょっと不思議なところがある。歌手もレコーディングに関わったスタッフもトルコ人、歌われている歌もトルコのものらしい。ところが、聞いてみた感じはまるで、ギリシャの大衆音楽にしか聴こえない代物ばかり収録されているのだ。まあ、古代より領土を取った取られたとやっている両雄のこと、文化の多少の混乱は、特に驚く必要もないことと考えるべきなのかもしれない。
 そんな次第で今回、トルコ女性の歌うエーゲ海の春の頌歌に耳を傾け、せめて音盤の向こうに春の到来を幻視しよう、という企画であります。

 それのしてもこの女性、どのようなキャリアの歌い手なのだろう。などと興味をもってしまうのは、彼女が歌の実力、結構怪しい人だからだ。こんな具合に音程が狂いそうになったり声量が足りなく思えたり、といった局面の度々訪れる人が、実力派歌手ひしめくトルコの大衆音楽シーンで、よくCD出せたな。
 見た目も、頼りないアイドル歌手とかではない、それなりの貫禄を感じさせる人なんで、もしかしたら歌以外の分野で高名な人なのかな、などとも思うのだが、未だよくわからない。
 でも、そんな彼女の若干頼りない歌がこの場合は良い効果を出していて、春の海ののったりとまったりと陽の光を浴びて温んで行くのどかな感触を、うまいこと伝えてくるようにも感じられるのであります。うん、いいんじゃないかな、これで。