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絵本の話を中心に、好きなもの、想うことなど。

いつだっていろいろ教えてくれる

2013-09-07 15:41:05 | 好きな本

さて、こっからが本編というか、書きたかったことですが。



この本のはじめの方にこういう箇所があったのです。

あ、その前に、『閉経記』とはどんなエッセイなのかー。

内容紹介には、更年期を生きる女たちに捧ぐ喜怒哀楽エッセイ と書かれています。
もうすこし説明を加えておくと、伊藤さんはカリフォルニアに夫(外国人)、次女、三女(ハーフ)
複数のペットとともに住んでいて、熊本に89歳になるお父さんが、犬と一緒に住んでいます。
お母さんはその10年くらい前に亡くなっています。子育てエッセイの時になじみ深かった
長女は、結婚して、赤ちゃんが生まれましたーそう、伊藤さん、本の中盤(だったかな)で
おばあちゃんになるんです。

見開き2ページづつのエッセイにはそれぞれタイトルがついていて‥
 
 楽も苦も
 今も昔も
 梅雨の空。  

この題名のページの、ここに、ひっかかったのです。

 母の末期は、病院で寝たきりだったけど、どんどん興味がせばまっていき、
わかることも少なくなっていき、残った興味は自分の家族のことだけになった。
(中略)
 いっぽう父は(まだ生きているけど)、やっぱりどんどん興味がせばまっていって、
わかることも少なくなって、今は自分のことしか考えたくない。それが野球と
相撲と時代劇だ。子どものときから好きだったことなんだと思う。家族のこと
はどうでもいい。

年老いてきた親をお持ちの方は、うんうんそうそう、と頷いているかもしれない
ですね。私も、母や、義母のことをあれこれ思い、ああわかるなあと思っています。

そして、この「残った興味は自分のことだけ」っていうの、最近別のところで
読んだことに、はたと気がついたのです。




この本は、ブラッド・ピット主演で映画化された『ベンジャミン・バトン』の原作で、
作者はフィッツジェラルド。映画のように盛りだくさんの内容ではなく、年老いた
姿で生まれてきたベンジャミン・バトンが、年齢を重ねるほどに若返っていき、
最後は赤ちゃんになって終わるという、まさに数奇な人生が淡々と描かれています。

話の終盤、「大きくなって」もう幼稚園に行くこともできなくなったベンジャミンは、

糊の効いたギンガムの服を着た子守のナナが彼の小さな世界の中心になった。

もうすこし「大きくなって」

長い一日が午後五時に終わると、ベンジャミンはナナと二階に上がって、
オートミールやどろどろの離乳食をスプーンで食べさせてもらった。

そして最終的に、

ベンジャミンは覚えていなかった。さっき飲んだときミルクは温かかったか
冷たかったか、日々はどのように過ぎていったかを彼ははっきりと覚えて
いなかったーベビーベッドがあり、慣れ親しんだナナがいるだけだった。
そしてもう、ベンジャミンは何も覚えていなかった。腹が減れば泣くー
それだけだった。


そっくりじゃないですか?

ベンジャミン・バトンは、容姿というか体も若く若くなっていき、最後は生まれた
ばかりの赤ちゃんになるのですが、私たちごくフツーの人々は、容姿や機能は
衰えていくけれど、精神的には実は「若返っている」という言い方もできるのでは、
と思ったのです、というか、気づかされたのです。

なんだ、そこだけはベンジャミンと一緒なんだ、と思えば、もしかして今後
尚老いてゆく母や、夫や(年上なので)、そして自分自身にさえ、腹立てても
しょうがないと思えるかも、と思ったりしています。


+++


ほんとうに、伊藤さん、えらいなって、読みながら何度も思いました。
ひとり娘ゆえしかたがなかったのでしょうが、病院で寝たきりになってしまった
お母さんをみとり、熊本で一人暮らしが寂しい寂しいというお父さんを励まし、
毎月!カリフォルニアから熊本に行っているんです。
(ひとり娘の親としては、こういう苦労を娘にかけてはいけないなあと思います)

で、自分はその間、いわゆる更年期なわけで‥体の変化がおもしろいと書いては
ありましたが、もちろんおもしろいだけのはずはないし、なにより、太りますからね、
この年齢は(と、ここで私のココロの声が突然大きくなってます・笑)。
そして、太っている自分あるいは太り始めている自分を認めてしまうか、抗い続けるか
で日々悩ましいわけだし。いったん認めたふりをしていても、誰だってほんとは
認めたくなんかないわけだしね。

そうかそうかそうなんだあ、これから数年かけて私(の身体)もまだまだ変わって
いくんだなということをふむふむと頷きながら読み終わってみると、だからって
その後に、何にもいいことが残っていないわけじゃないよ、とちゃんとそこまでも
教えてくれて‥特に、最後からふたつめの章あたりは、読んでいてうっすら
涙がにじんだりします‥やっぱり伊藤比呂美さんについていこうかなと、思っています。


最後に、すごーくうまいなあこういうところ、と思った箇所を書いて、終わりにします。
自分の生活のあれこれをそこまで書いて(言って)しまっていいの?というようなことも、
こういう感性に裏付けされていればこそ、と思うところです。
(着物になんてちっとも興味がなかった著者が、友に連れられていった初めての
呉服屋さんでの場面、というか、はなしです。)

 すると、奥さん二人があたしを立たせ、わらわらと、あたしの首に衿みたいなものを
巻きつけて、反物を押し当てた。サリーみたいに巻きつけて、反対側からまた襟元に
押し当てた。布地が白い衿の上で交差されて、ほんとに着物を着てるように見えた。
胸元でするりと結んで、帯を合わせた。残りの生地はさらりと落とした。反物が、
読み終わった巻紙の書状のように生地を広げながら転がっていって止まった。
ほらこうやって、これはいかが、こんなのもよございますよと、たちまちに数十の
反物があたしに巻かれた。
 からだに当ててみたのは一回に一つずつだったのに、今こうして目を閉じて
思い出してみると、いちどきに、何十反もの絹の織物たちが、あたしにまといつき、
巻きつけられ、余った分をたたみの上に落とされて、さらさらと流れていったような
気がする。あたしから、何十反ぶんの布が、さらさらと流れていったような気がする。

コメント (4)
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