とのさま不経済新聞 by 雲葉

「よるのとのさま」から改題(2013年2月1日)

「通路は開けるように」(ジャイアント馬場)

2010年07月11日 | 新聞投書から
  昨日付の朝日新聞「声」欄の「若い世代」から。投書者は相模原市中央区の11歳女の子です。

手すりを使い歩く子に暴言

  私の学校には障害のある子が通う支援学級があります。朝会や音楽などを一緒に、給食をみんなで楽しく食べています。
  ある日、学年で体育館に移動する時、支援学級の子が階段で手すりにつかまって歩いていました。後ろに並んだ私たちは、その速さに合わせてゆっくりと階段を下りていたら、後ろにいた2人の男子が「早く行けよ」「そんなの抜かせよ」と言ってきたのです。私は友達と一緒に「そんな言い方はないでしょ」と注意しました。そしたら「じゃぁ抱っこすれば」と言ったのです。
  私はものすごくショックを受けました。なぜそんなことを言うのか。支援学級の子は手すりにつかまって頑張って一生懸命歩き、私の友達も手を貸し支えているのに。
  世の中に体の不自由な人は大勢います。今の言葉を聞いたら、どんなにショックでしょう。みんなが心から笑顔でいられる世の中を考えなくてはいけないと思います。
(引用終)


  障碍がある人を気遣う優しい心は大切にしてほしいものです。しかしこの投書には大きな疑問が生じます。

  この学校の階段はひとりかふたりが歩くのがやっとというほど狭いものなのか。さもなくば階段に広がり他の人の通行を妨げていることになんの疑問も感じないのかということです。

  非常階段や業務用通路でなければ前者はちと考えにくいでしょう。ましてや支援学級があるほどの学校です。後者とすれば投書者にも思慮が足りなかったと思わざるを得ません。やって来たのが後ろからの男子2名だけだったからまだしも、反対側から来た人がいたらどうしたのでしょう。大人数で通路を塞いだまま支援学級の子が下りるまで待ってろとでも言うのでしょうか。少し通路を開ければいいだけの話です。“障碍”を大義名分にすれば自分たちの行動が何もかも正当化されるわけではありません。

  過去に何度か書いてますが、拙者にも親戚に障碍のある子がいて、たまに遊びに来ると拙者とぶらり旅をするのを楽しみにしています。彼も歩くのに少々難儀があるため、電車を降りてエスカレータに乗る際には、他の人が通った後からゆっくりと乗るようにしています。

  『みんなが心から笑顔でいられる世の中』を作るためには、まず自分自身の行動を省みる必要があるのではないでしょうか。投書者はまだ11歳。公共の往来の真ん中で他の迷惑も省みず世間話に興ずるオバハン予備軍とはなりませんように。