三味三昧 笛三昧

津軽三味線奏者、笛・尺八奏者、たまに胡弓奏者、なぜかアマ無線家
音楽好き趣味三昧人間「くまりん」のお気楽日記です

自己紹介文を作ってみました。

2024年07月10日 16時41分36秒 | しょーもない徒然日記

入院生活は3週間目に突入しました。連休明けの来週からはようやく体重をかけてのリハビリが開始します。もう2週間ぐらいかな、頑張ります。

入院前に、所属しているKCJ(全国CW同好会)の副会長さんから、会報に載せる自己紹介文を書いてくれという依頼がありました。暇な息災病人ですので先日からせっせと書いてみました。会報に掲載されるのは2~3ヶ月後ですが一足早く自分のブログに画像なしのバージョンをアップします。会報にはこれに画像を数枚加えて文章ももう少し推敲したものになります。



KCJ会員紹介コーナー原稿

                            JH9CDZ

1.アマチュア無線編

 小学校5年生の時だったと記憶しています。新潟在住の父方の従兄(15歳上)が富山の片田舎の我が家へ遊びに来ました。車に長いモービルホイップをつけて、車内にはトランシーバーがセットされて、自宅前から見知らぬ人と楽しそうに話しているのを目撃したのがあまりにも衝撃的でそれが私の無線の原点です。

この従兄が近くに住んでいれば私の無線人生もかなり速くにスタートしていたと思いますが彼は250キロも離れた新潟県、インターネットなんてない昭和の時代、どうしたら無線を始めることができるのか、小学生なりに考えた結果が当時流行っていた通信教育でした。どうやってその教材費を工面したのか記憶にありませんが、多分祖母に嘘をついて出してもらったのでは無いかと思います。
無線をやりたい一心で一生懸命に勉強して国家試験の願書まで出したのですが、私の住んでいた富山の片田舎から国試の行われる石川県金沢市まで行くのは大変なことで、おまけに試験当日が小学校の行事と重なったもので、大正生まれで戦争帰りの超頑固親父を説得するすべも無く、学業第一だと頭ごなしに言われて泣く泣く諦めました。おまけにどこから聞いてきたのか、大体そんな金のかかる趣味は自分で金を稼ぐようになってからやるものだと一喝されて、小熊少年の夢ははかなく消え失せたのでした。

 時は流れて約10年後、某専門学校時代に隣の机に座っていた同級生がなんとバリバリのアマチュア無線家だったのです。ずっとくすぶっていた私の無線への情熱が当然の如く再燃しました。
専門学校卒業して就職後に勉強再開、講習会なんて便利な制度があるなんて事も知らないし、とりあえずは問題集をさらって国試に望みました。1979年に晴れて電話級アマチュア無線技士取得、翌年開局。貧乏な社会人一年生ゆえ、前述の同級生から安価で譲り受けたTR7500GⅡ1台のみでの開局でした。これでも十分楽しめました。
翌年前述の同級生が1アマを受けるというので、ならば自分は2アマへと闘志を燃やし、まずはモールスを覚えると事だと言われて欧文モールスの練習用テープをダビングしてもらい、ついでにともらった和文モールスのテープもすり切れるほど聞いて練習しました。開局の翌年2アマ合格、1アマの無線通信術も科目合格。しかしその後超ブラック業界の常で仕事に忙殺されてなかなか1アマの無線工学の勉強が進まず、頭の柔軟なうちに受験しておくべきだったと後悔しています。それでも若い頃に覚えた和文もほぼ完璧に記憶していますので、頑張って練習した甲斐があったと思っています。
話はそれますが、小学生時代の小熊少年にあれほど反対した超頑固親父ですが、私が和文モールスの受信練習をしているのを見て、実は戦争中通信兵で満州へ行っていたのだと語り出しました。戦争中のことは全く口にしたことの無い親父が、「イトー」「ハーモニカ」って覚えたもんだ、とポツリと言ったのを覚えています。
友人もいない見知らぬ石川金沢の地で就職、開局したのですが、アマチュア無線のおかげで友人も沢山できました。KCJのJA9CZJ松盛さんもその頃からの知人で、貧乏生活の我が家に冷蔵庫をお下がりでいただいたり、移動運用に誘っていただいたりと大変お世話になりました。

 年は流れて1987年、楽しかった石川県を離れて富山へ戻ります。当然アンテナもすべて撤去して引っ越したので、しばらくは開局当時と同じVUのGP一本という寂しい環境になりました。これを打開するのに移動運用を始めたのはこの頃です。立山山頂から50MHzの4エレHB9CVで夜通し運用したのも良い思い出です。また当時流行っていたパケット通信にのめり込んだのもこの頃です。
パケット通信をやるようになり、ちょうど時を同じくしてインターネットが盛んになり、確実にアマチュア無線のアクティビティは下がっていき、年間交信数が一桁という年も。
開局当時にアクティブだった友人もほとんど無線から去り、自分はというとなんとか免許を継続しているだけのような仮死状態になっていた2014年、JA9CZJ松盛さんから突然の電話が。8J9VLP(QRPデー特別記念局)を運用したいので、協力してくれないかとのこと。冷蔵庫の恩義ではありませんが二つ返事で受諾。VLP(Very Low Power)なので当然CWでの運用が主、この日から心機一転頑張ってCWの耳慣らしのリハビリを開始、パイルに耳がついていくように移動運用も再開しました。某OMに言われてパドルの左手打ちにも挑戦して何とか矯正しました。以来10年間毎年8J9VLPの運用を続けています。


2.音楽芸能編

小学生の小熊少年の無線への夢が一旦途絶えた頃、母方の叔父から古いクラシックギターを貰いました。中学校へ入った頃、無線の時と同じく当時流行っていた通信教育で勉強開始。他にすることと言ったらラジオの深夜放送を聞くぐらいしかないのでみるみる上達、
しかしやはり戦争帰りの超頑固親父は音楽にも理解を示すこと無く、新しいギターを買ってくれる筈もありませんでした。高校は吹奏楽部に入り、ホルン漬けの日々を送ります。
専門学校時代は一旦音楽は中断しましたが、就職後は市民バンドに入ってホルン吹きに戻り35歳まで続けました。
ちょうど市民バンドを退団した頃、義母(嫁の母)が民謡三味線を習うというので一緒について行くことに、加賀山流民謡教室でした。ちょうど民謡全盛期に陰りが見え始めた頃ですが、これが私の民謡の第一歩となりました。
その当時の師匠の元で研鑽をして15年ほど経った頃、師匠の勧めで津軽三味線の先生の元へ通い始めます。何故かこれが大いにハマってしまい、翌年から毎年GWに青森で行われる津軽三味線の大会へ通うようになりました。元来ハマったらとことんまでやるタイプ、当初は全くかすりもしなかったのですが、そのうち入賞できるようになり、2014年には津軽三味線世界大会のミドルC級(40~59歳)で優勝することができました。最近は指導者に徹していますが、今でもGWの青森通いだけは継続していて、移動中や青森滞在中には無線の運用も楽しんだりしています。
 津軽三味線の傍ら、2002年から米谷流の民謡尺八の教室に通い始めて、昨年師範に昇格しました。一時期大ブームだった尺八も奏者の数は10年ほど前の統計では全国にわずか数千人、この尺八人口の中でも民謡尺八奏者はその約1割程度と言われています。その1割の民謡尺八奏者も高齢化で激減していて、我が富山県では68歳の私がなんと現役民謡尺八奏者最年少なのです。少年時代からの音楽経験が功を奏したのか、はたまた街で一番の三味線の名手だったという祖母のDNAを受け継いだのかはわかりませんが、最近では津軽三味線に尺八にとステージに追われて忙しい日々を過ごしています。

3.これから

CWでの移動運用の楽しさにハマったコロナ禍前の2019年頃から、何か継続性のある目標を持ってアマチュア無線を楽しみたいと考え、多くの選択肢の中から選んだのが「アウト・ドア賞」です。毎月1回以上移動して50局以上と交信して、それを1年間続けると取得できる賞で、これを2年、3年・・・と継続すると2年賞、3年賞・・・が交付されます。今年春には「アウト・ドア賞5年賞」をゲットしました。大体近隣の市町村は行き尽くしましたので、これからは隣接の県へ遠征しようといろいろ計画を練っています。またGWに通っている青森県の市町村からも継続して運用したいと考えています。アウト・ドア賞10年賞以上をゲットしていらっしゃるOMさんもいらっしゃいます、その後ろ姿を追って体の続く限り移動運用を楽しみたいと思います。

他人から「そんなに2足も3足も草鞋を履いてよくやってるね」と言われますが、若い頃から限られた時間をやり繰りして好きなことを続けるのが私のモットー、これからも仕事の合間を見て体の続く限りアマチュア無線も音楽芸能活動も頑張りたいと思っています。

                              おわり
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入院2週間です。

2024年07月09日 19時00分08秒 | しょーもない徒然日記
今日で入院2週間、手術から13日です。
リハビリが長くて、あと2週間程度の予定です。

この4人部屋ではいろんな人間模様があります。
人ごとだと笑い話のように思えるでしょうが実は当事者は大変なのです。
あまりにも気が散って本もまともに読めません。
ほんとうに看護師さんたちは我慢して笑顔を絶やさないでいるのには感動します。

その1
「便出た」「便ほじって」「お茶買ってきて」「テレビカード買ってきて」「お茶入れて」「イヤホン落ちた」「電気消して」「たすけて~」・・・・・・と言って一日に何十回もナースコールする爺さん。すぐに看護師が来ないと延々とナースコールを繰り返してます。

その2
明日手術だから大丈夫だろうと言って、面会時間が終了してもずっと大声でしゃべっている老夫婦。4人部屋って事わかってるのかな~

その3
やたらと若い看護師さんに媚びを売ってイチャイチャしている爺さん。
これは全員に言えます。
逆に媚びも売らずに淡々と受け答えしてる私の方が少数派なのかも。

その4
なすびと大根が嫌いなので食事には入れないでほしいと、無理な注文をする爺さん。
それはできませんと看護師に言われてもなかなか諦めませんでした。

その5
これは病室ではありませんが、車椅子用トイレが使用中では無かったので勢いよく扉を開けたら、用を足しているおっさんが・・・。
ごめんなさいと言って外で待機していたら、一言もなしで睨み付けて出て行かれました。
鍵かけないで用たしてるほうが悪いんだろうよ、と思いましたが諍いを起こしても仕方ないので、再びごめんなさいと言っておきました。なんか一言言えよ!

てな感じで、いろいろありすぎです。
歳を重ねると我が儘でどうしようもなくなるようです。

かくいう私も、カタカタとキーボード叩いてばかりでうるさいやつだ、と思われていること必至です。

抜糸も済んで、外反母趾の矯正手術の後、元に戻らないように装具をして過ごしています。
足関節固定術の所はいまだに痛みが残っています。

あと2週間弱、頑張ります。

今日は画像なし、あしからず。
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入院中

2024年07月05日 19時59分00秒 | しょーもない徒然日記

昨年に続いて今年も足の手術のため入院中です。
6月25日に手術をして、10日が経過しました。
若い人で早ければ術後3週間ほどで退院できるようですが、もう高齢者だし4~5週間かなと考えています。

昨年は右膝の人工関節置換手術でしたが、今回は左足関節変形症の固定手術と外反母趾の矯正手術です。
これで痛い痛い手術も完結の予定ですが、どうなりますか?

最初に右足関節変形症で固定手術をしたのが2016年。
その時に左足関節変形症も進行しているので、そのうち手術しないといけないだろうと言われていました。
その矢先に何が原因か右膝が悲鳴を上げたので、医師の話では体の中心に近い方から順に手術しないといけないとかで、昨年春は右膝の人工関節置換手術でした。

今年春に右膝人工関節置換から1年目の定期検診の時に、医師から、次は左足関節と言われて主治医も専門の医師にバトンタッチされ今回の手術になりました。
ついでに、年々酷くなっていた外反母趾の矯正手術も併せて行うこととなりました。

大体何で両足の足関節(足首)の変形症になったのかというと、思い当たることがいくつかあります。
まずは足関節を最初に捻挫したのが高校の体育の授業の時、その後何度も同じ所を捻挫するようになり、20代から登山を始めたのですが、山でも何度か捻挫しています。
両足ともに捻挫するのが癖になって来たようだ、でもたいしたことは無いだろうと、せいぜい行っても接骨院ぐらいでお茶を濁していたのが原因です。しっかり整形外科で診察してもらって治療していれば、と今頃になって思っても後の祭りです。
最初に診てもらった隣町の整形外科の院長に、「左右ともに靱帯がほとんど残っていなくてぶらぶらな状態なので、早めに手術しないと歩けなくなるよ」と言われて今の病院を紹介され、最初の手術が2016年でした。

若いときの怪我は大丈夫と思うことなかれ、しっかり治しておかないとこうなるよという見本です。
特に若い頃スポーツをやっていた方、お気をつけください。

今回レントゲン写真をいただきました。
左足関節をプレートとボルトで固定してあります。



昨年の入院では4週間全く空を見ることができない廊下側の場所だったので、入院中ずっと気分が重いままでした。
今回の入院も4人部屋ですが、入院時に「できれば窓側で」という希望を出したので、今回は「わずか」に空が見える窓側になりました。
全く見えないよりは遙かにマシです。




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元旦地震

2024年01月02日 18時59分40秒 | しょーもない徒然日記
2024年1月1日(元旦)

初詣から帰ってきてからしばらくして、シャック(書斎)で投函もれの年賀状の印刷をしようとパソコンで住所録を開いたときに、スマホに地震アラームが鳴って1回目の揺れが来ました。

はじめはそんなに強い揺れでは無かったので安心した数分後、再びアラームが鳴って今度は激しい揺れが来ました。
だんだん揺れは激しさを増して、まるでテレビの地震再現映像を見ているかのような感じで、本棚の本はまるで雪崩のように崩れてくるし、平積みしてあったCDやDVDのケースは飛び散るし。
なんと言っても無線やオーディオを収納している机の上のラックが何センチも横方向に行ったり来たり揺れているので慌てて手で押さえましたが、結局スピーカーやHDDドライブなどの周辺機器が机から落下しました。
1~2分ほどの揺れでしたが、もっと長い時間揺れていたような気がします。
今までに経験したことの無い強烈な揺れでした。



揺れがおさまってから、他の部屋を見て回ります。
私の「三味線部屋」も悲惨なことに。
今までにまでいただいたトロフィーや盾の類いは全て棚に置いてあっただけなので、これも本棚の本と同じく雪崩のように崩れて床に転がっていました。
幸いなことに台座が少し欠けたのがひとつあっただけで他はほぼ無傷だったのが幸いでした。
今では過去の遺物となったカセットテープが机に大量に積んであったのですが、これは見事になだれ落ちてあちこちに散乱していました。
今ではあまりお目にかからないカセットテープですが、民謡民踊では未だに多く流通していますので、なかなか処分できないメディアです。
クローゼットの中も大変な事になっていて、なかなか開かなくて苦労しました。
幸いなことに三味線、尺八は全てケースに入っていたので無傷でした。



さて、一番大きな被害があったのが仕事部屋(技工室)。
この部屋は観葉植物を棚に置いてあったので、これが全て落下していました。
また揺れで机の引き出しが開いたところにこの観葉植物が落ちてきたもので、大変な事になっていました。
幸い機械等の落下は無かったものの、後始末に結構時間がかかりました。
実はこの3部屋ともに大晦日に私が大掃除をした部屋で、何の因果か大晦日と元旦2日続けて大掃除をしたことになります。

後片付けは夜にはほぼ完了。
でも断水していてトイレが使えません。
夜中に車で10分の「道の駅雨晴」まで行って、幸いにも水が出たので用を足してきました。
道の駅は4日まで休業らしいですが、トイレは使えます。
駐車場には仮眠中と思しき車が3台。
海岸からすぐのところにある道の駅なので、津波警報が出ている中、駐車場での仮眠はどうかと思います。













夜は寝ていても揺れが来ると目が覚めます。
余震はまだまだ続くのでしょうか、揺れが来るとつい身構えてしまいます。
速く収束してほしいものです。

生徒さんの実家では車庫が倒壊して、中にあった車が出せないということでした。
我が家は何とか持ちこたえたし家族も猫たちも無事だったので、ほっとしています。






今回気が付いたことをいくつか。

1.地震や災害が続いている中、安否確認のメールや電話が多すぎます。
メール等はまとめて夜遅くに返信したりしましたが、結構片付けの手が止まるし、なんと言ってもスマホの電池の減りが速い。
出来れば1~2日後で落ち着いてからメールや電話をして欲しいなと思います。

2.断水になることがわかっていれば、予めバスタブに貯めたりとか対処できますが、突然の災害時のために普段から飲料水をストックしておかなければならないと思いました。
我が家はエコキュートなので、非常時にはタンクから水を得ることが出来るらしいのですが、説明書を見ないとその方法がわからなかったので、今回説明書の非常時の部分だけスキャンしてスマホに取り込んでおきました。

3.我が家はファンヒーターしか無くて、停電に備えて移動用のポータブル電源を持っているのですが、いつもは車庫の奥に置いてあるのでこれは部屋に置いておいた方が良いと思います。
ほんと現代人は電気と水が無いと大変です。

4.最後にいつも大きな地震の度に言われることですが、家具類の固定ですね。
いろいろと固定方法を考えているのですが、暇をみてやらないといけないなと痛感しました。
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初詣へ行って来ました。

2024年01月02日 17時38分08秒 | しょーもない徒然日記

2024年1月1日(元旦)

今年もよろしくお願いいたします。
今年はまた初心に帰って、SNS同様にブログの方にもなるべくアップするように心がけます。

さて、例年は2日に行っている初詣ですが、今年は天気が良かったので元旦の午前中に行って来ました。
ずっと30年ほど、初詣は高岡市伏木の気多神社に行っていたのですが、足や膝の調子が悪くなった昨年からは階段の多い気多神社はやめて、地元の伊勢玉神社に詣でることにしました。
JR氷見駅からすぐのところにあり、駅の駐車場や駅前郵便局駐車場に車を停めれば便利です。





毎年干支の大きな絵馬が飾られていまして、これも楽しみのひとつです。











破魔矢を買って帰りました。


さて、この初詣の数時間後に強烈な地震の揺れに襲われることになります。
ちゃんと今年も平和な一年でありますように、とお詣りしてきた筈なのに、、、、
それは次の投稿で詳細をアップします。


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闘病記2023~その5

2023年04月22日 11時29分40秒 | しょーもない徒然日記

4月19日(水曜日)

朝からシャワー、リハビリの機械と忙しく動き回って、その後6階のリハビリ病棟へ移動しました。
比較的元気な人が多い病棟です。
機械は120度3日目。
なんとか耐えています。

入院以来他の入院患者と話をすることなんてなかったのですが、向かいのベッドのおじちゃんとしばらく話をしました。
同じ主治医で、やはり膝の手術をされたようです。
お互いリハビリ頑張ろうとエールを交換しました。

リハビリでは杖を使わないで30mほど歩きました。
後は階段の昇降。
なんとか順調に進んでいるようです。

ベッドは窓側ではないので、晴れているのか曇っているのかかわかりません。
廊下に出ると外が見えるのでトイレに行くたびに外を眺めます。



夜はウシガエルから解放されて平和な夜が戻ってきました。。
耳栓をして布団を頭からかぶって寝ていたことが嘘のようです。
近くを走るあいの風とやま鉄道の心地よいジョイント音がかすかに聞こえて、521系電車かな、EF510牽引の貨物列車かなと判別しているうちに眠りに落ちました。








4月20日(木曜日)

6階に移って2日目です。
機械は120度4日目。
どうも朝はまだ筋肉がこわばったままなので、朝一の機械は気が重いです。

リハビリは順調なようで、リハビリの兄ちゃんの話ではそろそろ退院しても大丈夫なレベルとか。
看護師さんにも話をしておくと言ってましたが、さてどうなるか。
週末病院にいてもリハビリはないし、機械をかけるだけなのであまり意味は無いかと思うのですが、判断するのは先生なので果たしてどうなるか?

昨夜から「52ヘルツのクジラたち」を読み始めて、これも一気読みしました。
以前から気になっていた本ですが、なかなか忙しい身の上なもので落ち着いて読む暇もないだろうと諦めていた本です。
入院の前日に買って持ってきていました。
さすが本屋大賞受賞作だけあって良い本でした。



ウシガエルから解放されて平和な夜が続いています。
空気を揺るがすような爆音鼾の人は個室へ入ってもらうべきですね。








4月21日(金曜日)

11時を回ってからようやく機械をかけるという。
昼食にかかってしまうぜ、と言ったのにそのままセットしていった。
昼食は11時50分に運ばれてきたので、結局15分ほどそのまま機械が動いていて食べられず。
ま、特に何も影響はないのでかまわないのですが、連携がうまくとれていないなぁという感じです。

120度は5日目。
大分慣れてきましたが、やはり辛い。

できれば今週末にでも退院したいという話はリハビリの兄ちゃん、看護師のねーちゃんにも話してあるのですが、なかなか進みません。
退院は来週かなと、思っていたら夕方になって突然話が急展開、明後日の日曜日に退院できることになりました。
退院できるとは言ってもしばらくは自宅療養ですから、GW明けぐらいから社会復帰かなと思います。

向かいのベッドのじいちゃんも突然来週の退院が決まって、お互い良かったねと話しました。

夜は平和な日々が続いています。
夜は結構FF510の貨物列車が走ってるんですね。








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闘病記2023~その4

2023年04月19日 13時07分55秒 | しょーもない徒然日記

4月16日(日曜日)

日曜日で看護師さんの数も少なくひっそりとしています。

リハビリの機械は115度。
前回の115度よりも辛くなかったのですが、ある看護師さんの話では足の固定の仕方でも多少変わるということなので、どうなのか・・・。

頑張って闘病記を3分割でブログにアップしました。

実はいろいろと大変でした。

まずはiPhoneで撮った画像をパソコンに取り込むために、iCloudのインストールから設定を始めます。

なんとか画像はパソコンに取り込んだものの、何故か画像サイズの縮小ができなくてすったもんだ。
縮小するソフトの問題かと思い、違うソフトを拾ってきて試しても駄目。

パソコンの初期設定ではファイルの拡張子が表示されていないので、もしかしてと思い拡張子を表示するとやはりHEICファイルでした。
HEICはiPhone独自のファイルなので、まずこれをJPGに変換することから開始。
ここまでで結構時間がかかりました。

とりあえず昨日の分までアップ完了。
後は3~4日ごとにアップしようと思います。

かくして平和な日曜日はパソコンに振り回されて終了。

夜は眠剤のおかげで21時から3時頃までほぼ熟睡できます。
その後朝方までは浅い眠りが続きますが、以前のように慢性睡眠不足状態からは脱却しました。









4月17日(月曜日)

朝の回診で術後2週間ということで抜糸となりました。
何針か途中まで数えていたのですが、先生が何かしゃべったのでその時点でわからなくなり終了。
包帯がとれたらしっかり数えてみます。

リハビリでは杖の歩行訓練が再開。
今日から階段の昇降訓練も開始しました。
病棟内での杖での移動も許可されて、退院に向けてようやく出口が見えてきたかな、という感じです。

病棟での杖の移動が許可になったので、2週間ぶりに立って小用をたすことができました。
座っての小用は男性の場合尿道が長くて湾曲しているので、尿が尿道に残ってしまうことがありすっきりしないことがありますが、立って用をたすと重力で出てくれるので残尿感なくすっきりします。

機械は120度にチャレンジ。
リハビリの後だったからか、あまり辛く感じることもなく終了。

息災病人で、もっともっと暇を持て余すかと思っていましたが、痛いのと体勢が決まらないのが辛くて予想外でした。

隣のベッドにいた氷見の漁師さんは病棟が変更になってウシガエルから解放されましたし、向かいのベッドのおじさんも明日病棟変更らしいです。
私はずっとこのままなのかなぁ、
とりあえず眠剤で多少寝られるようになりましたが、先が思いやられます。







 

4月18日(火曜日)

ようやく看護師さんから退院の話がチョロッと出ました。
階段の昇降訓練がある程度進めばOKなのかなという感じです。
もうしばらくの辛抱かな。

明日6階のリハビリ病棟へ移動するようです。
ウシガエルとは今夜が最後の試練のようです。
このウシガエル君、看護師のねーちゃんが来るとやけにテンション上がりまくりで、大きな声でしゃべってます。看護師も私らみたいなじじぃばかり相手にしてるより若い兄ちゃんの方が楽しいのかテンション上がりまくりでキャッキャッとうるさいこと頻り。
なんだかなぁって感じです。

機械の角度は120度。
なんとか耐えています。

ようやく本を読む元気が出てきて、住野よるさんの「恋とそれとあと全部」を一気読みしました。「君の膵臓をたべたい」の作者です。









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闘病記2023~その3

2023年04月16日 16時13分54秒 | しょーもない徒然日記
4月12日(水曜日)

この病棟では月水金がシャワーの曜日らしくて、午前中にシャワーをしました。

機械は昨日と同じく115度。
これでも十分辛くて、少し尻を浮かせたりして回避していますが大変です。
やはり腿の筋肉が突っ張って痛いので、1時間にわたる拷問のような感じで、泣きそうになります。

米谷会の昇級試験の顛末をブログにアップしました。
先日病室の携帯に本部から電話があり、看板ができたので今月下旬に送りますとのことでした。
これでようやく師匠に並ぶことができました。
さらに「一生稽古」です。

ウシガエルは相変わらず健在。
これが爺さんやおっさんなら仕方ないなぁと思うのですが、若い兄ちゃんなので余計腹立たしく感じます。
以前入院していたときも、相撲取りみたいな鼾や息づかいの若者がいて難儀した記憶がありますが、どうも困ったものです。








4月13日(木曜日)

今日は結婚記念日。
43年も経ちました。

当時勤めていた医院の隣の獣医師が、「13日の金曜日でなくてよかったな」などと失礼な事を言ったのが今でも記憶から消せずに、結婚記念日は忘れません。

機械は120度。
リハビリのねーちゃんが、みんな上のほうへ逃げたりしてますよ、と言ったのを思い出して実践してみますが、辛いのは変わりありません。 なんとか1時間耐えましたが、こんな逃げていては意味ないような気もします。

杖での歩行訓練は30mほど。
なるべく手術をした右足にもしっかりと体重をかけて歩くことを心がけてみました。

入院してこの方、ウシガエルと痛みのために熟睡したことがなくて、どうもこんなことでは精神的にもいけないと思い、夜ナースステーションに行って理由を話して睡眠導入剤(眠剤)をお願いしてきました。
効果は絶大で、朝までほぼぐっすり眠ることができました。








4月14日(金曜日)

昨日の120度がだめだったのか、腿の筋肉痛がひどくて歩行器で歩くのにも右足に体重をかけると痛い。
リハビリのねーちゃんに話をしたら、あまり無理をしない方が良いとのことで、杖での歩行訓練はなし。

機械は5度戻して115度でした。
115度なら、ピークでちょっと腰を浮かして逃げないと痛いけど、なんとか1時間は終了。
腿の筋肉痛が収まればもっと楽になるような気がしますが。

1時間が経過してナースコールをしましたが、一向に機械を片付けに来ません。
結局機械が終了して1時間以上経過してから他の看護師が片付けに来ました。
自分でセットした機械は責任もって片付けに来るべきではないですかね。
いろんな看護師がいて、人間観察には飽きません。

昨日からこの闘病記を、メモと記憶を頼りに書き始めました。
明日か明後日にはアップできるかな。

夜、看護師のねーちゃんに再び眠剤をお願いしました。
医師に言って処方してもらうということになりました。
おかげでこの日もほぼ熟睡できました。
耳栓はしているのですが、空気の振動で耳栓越しにウシガエルは聞こえてきます。







4月15日(土曜日)

この日の担当看護師はしっかり者のおばちゃん看護師。
機械の120度についてちょっと話をしたところ、他の看護師とは違う考えのようで。
120度で1週間やらないと退院できないと脅す看護師もいたのに、この看護師は無理をしてまで120度にこだわることはないとのこと。
ただ、階段の上り下りが大変なので、できれば120度ほどまで曲がる必要があるとのこと。
こんな話を聞いたのは初めてでした。

この日は無理をせず110度で。

コロナ禍で面会は禁止されていますが、土日に限り荷物の受け渡しができます。
妻に頼んで下着の入れ替えをしました。
入院も5回目ともなれば、必要なものはほぼわかっているので、特に不足なものもなく普通に生活しています。

この部屋のウシガエルはどうも起きていてもうるさくて、大声で長電話してみたり、いちいちかけ声やため息もうるさいし、こんなことを書いているとどんなくそじじいかと思われるかもしれませんが30程度のあんちゃんです。
困ったものです。

眠剤は医師から処方されたようで、この日は言わなくても看護師が持ってきてくれました。
おかげでなんとか普通に6~7時間眠れています。







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闘病記2023~その2

2023年04月16日 15時45分14秒 | しょーもない徒然日記
4月7日(金曜日)

一人で車椅子でトイレへ行っても良いよという許可が出ました。
ちょっと気が楽になりました。

機械は90度、だんだんとしんどくなってきました。

リハビリでは歩行器を使って歩行訓練開始。
近日中には車椅子ではなくて歩行器でトイレへ行ったりするようになるらしい。

まだまだジンジン痛むので、テレビを見たりパソコンを触ろうかという気にならない。

加えて、この病室には昼夜問わずウシガエルが一匹いて、ウシガエルがたまに豚舎に変わったりで、ゆっくり寝ていられません。
ちょっとウトウトっとするとウシガエルが鳴き始めて睡眠が中断されます。
予防策として耳栓を持参していますが、このウシガエルには効果なし。
多分この部屋のウシガエルの他の二人も大変な目に遭っていると思います。

こればかりは、本人に文句言うわけにも行かないし、看護師さんに言ってもどうなるわけでもないし、ひたすら我慢かな。








4月8日(土曜日)

病院はお休みですが、リハビリはありました。
歩行器による歩行訓練が続きます。
機械は100度、だんだん辛くなってきました。



トイレは歩行器で一人で行っても良いとの許可が出たので、得意な車椅子は却下されました。
まだ歩行器では不安ですが、慣れていかなければね。



朝ドラ「らんまん」が始まっていますが、月曜の朝(手術前)に第1回を見たきりで、テレビを見る気力がなかったのでそのままになっていました。
BSで1週間分まとめてオンエアされるので、午前中は「らんまん」を一気見。

午後からちょっと元気が出てきたので、入院後初めてノートパソコンを開いて1週間分のメールチッェクをします。

テザリングの設定がうまくいっていないようで、繋がったり切れたり。
東洋通信の担当に電話して対策をお願いしようかとも思いましたが今日は土曜日。
いろいろ触っていたらなんとか回線が切れたりしないようになりました。
退院したら一度しっかり聞いておこう。

6月の8J9VLP運用お願いのメールを作っておくったら、疲れ果ててエンド。








4月9日(日曜日)

今日も病院はお休み。
でもリハビリはあります。

機械は昨日辛かったので今日も100度。

とりあえずパソコン開いてメールチェック。
その後先月の米谷会昇級試験の顛末記を書き始めますが、なかなか根気がなくて続きません。
まぁ長文なので何日かに分けて書こうと思います。

VLP運用お願いメールは、IPFさんが真っ先に返信してくださいました。
毎年お世話になってありがたいことです。

ウシガエルは収まる気配なし。
慢性睡眠不足です。






4月10日(月曜日)

4月2日から数えて8日ぶりにシャワーを浴びました。
とにかく頭が気持ち悪かったので、すっきりしました。

リハビリは杖での歩行訓練開始。
まだ不安一杯で右足に重心をかけられません。
ま、ゆっくりゆっくりですね。

機械は110度。
膝の関節と言うよりも、腿の筋肉が突っ張って痛い。
リハビリのおねーさんの見立てでは、術前から膝の痛みでこの腿の筋肉がしっかり伸びていなかったのではないかと言うことでした。

相変わらずテレビを見る気力もなく、朝ドラ「らんまん」と、火野正平の「こころ旅」だけ。








4月11日(火曜日)

リハビリの機械は最終目標120度。
しかしあまりの辛さですぐにギブアップ。
5度戻してもらって115度でなんとかフィニッシュ。
120度で1週間しないと終わらないと脅されているのだけど、この痛みには耐えられません。

米谷会昇級試験の顛末記はなんとか書き終えました。
明日もう一度誤字脱字等の確認をしてアップ予定。

ウシガエルは相変わらず。
睡眠は1~2時間刻みでしかとれません。



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闘病記2023~その1

2023年04月16日 15時07分23秒 | しょーもない徒然日記

私事、4月2日に入院、3日に膝の手術をして現在お隣高岡市の病院でリハビリ中です。
3週間程度の入院ということなので、なんとか4月下旬には退院させてもらえそうです。

では事の顛末を順に。


昨年8月の北日本民謡決勝大会の日、いつもの如く重い荷物を抱えて富山オーバードホール近くの横断歩道を渡っていたところ、青信号が点滅し始めたので年甲斐もなくダッシュしたんです。
その瞬間右膝にピリッと痛みが走って腰砕けのようになりました。
この時はそんなに重大な事になるとは思っていなくて、ちょっと膝に違和感がある程度で平気で翌週の青森遠征も行ってきました。

どうも違和感がとれないので、昨年秋頃に近所の整形外科を受診しますが、毎回注射を打って痛み止めをくれるだけ。
これが4~5ヶ月続きました。

ところが今年2月の中頃、突然症状がひどくなって杖を突かなくては歩けないような状態になりました。
これは近所の整形外科に任せていてはだめだと思い、7年前に足関節の手術をしたときに紹介状を書いていただいた隣町の整形外科を受診しました。
この整形外科の先生、口は悪いけど実に鋭いんです。

この先生の見立てでは変形性膝関節症で多分人工関節だろうとのことで、すぐに足関節の手術をしてもらった大きな病院へ紹介状を書いていただきました。


4月2日(日曜日)

翌日が手術なので、前日から入院です。





60歳を過ぎてから入院するのはこれで5回目、いずれも同じこの病院です。
それまでは高校生の時に交通事故で入院して以来、入院なんてしたことがなかったのに。1回目は62歳の時に右足首の手術。
2回目はその翌年鼠径ヘルニアの手術。
3,4回目は一昨年大腸憩室炎の手術でした。

午後から入院のため妻に送ってもらって病院へ。
ピンピンして元気なのはこの日だけですが、テレビを見る気持ちにもなれずちょっとだけ読書をして就寝。



4月3日(月曜日)

午前より手術。
デイルームのところで妻に手を振って手術室へ。
気がついたら手術は終了してベッドで再び妻に手を振ってそのままICUへ。

実は2回目の入院・手術の後、病室へ戻ってきてから二度心停止している(房室ブロックと言うらしい)もので万全を考えて一晩ICUで様子見ということになったらしいです。

術後の痛みは尋常ではなく、痛みで全く眠れず。
朝方にどうしても我慢できなくて鎮痛剤の注射をしてもらってほんの少しうとうととできました。
膝の手術は痛いんだとあちこちから脅されてはいましたが、ここまで痛いとは想像を遙かに超えていました。


4月4日(火曜日)

ICUは一晩だけで、午前中に一般病棟(一日だけ個室でした)へ移ります。
相変わらず痛みに耐える一日でした。
個室なので周りを気にしなくて良かったのはこの一日だけでした。

まだ尿管カテーテルが入ってるので、自由に動けず。
ただ驚くことに、膝の可動域を確保する機械によるリハビリが、手術の翌日の今日から始まりました。
60度から始まって、120度まで10度/日刻みに角度が増加するそうです。
点滴も次から次へとあって、ずっと一日寝たままです。






4月5日(水曜日)

病室が個室から4人部屋に移動。

尿管カテーテルが抜けました。
これが入っているとどうも気になって嫌いです。
代わりにトイレへ行くのに車椅子が来ました。
まだ靴が一人で履けないので、トイレへ行来たくなると看護師さんに車椅子の介助をお願いしなければなりません。

この病室、手術で出て行く人、新たに入院する人等で出入りが激しくてドタバタしています。
機械は70度、今のところまだ平気です。

相変わらずジンジンと痛むけど、手術翌日よりは多少和らいできた気がします。








これは手術前


手術後


4月6日(木曜日)

相変わらずジンジン痛みます。
寝ているときの態勢が悪いのか、朝方が一番しんどいです。

車椅子は7年前の入院で駆使していたので得意なのですが、トイレの時は看護師に言うこととなっているのでちょっと面倒。
単に付き添いだけなのですが。
靴は履き方の要領がわかったので、ひとりで平気で履けるようになりました。

未だにパソコンを開ける元気もなく、スマホを少々触るだけです。

機械は80度。
少しずつ辛くなってきました。










その2へ続く
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どうやらコロナに感染したようです。

2022年11月03日 19時11分43秒 | しょーもない徒然日記
11月3日(文化の日)

昨日2日の朝から体調が悪くて、37度~38度の熱が出て、おまけに咳が止まらなくてしんどい思いをしていました。
もしやと思いたまたま手元にあった抗原検査の簡易キットで調べたら、なんと陽性でした。




すぐに地元の厚生センターに電話したところ、明日の朝かかりつけの医院へ連絡して再検査してもらうようにとのこと。
月曜日にインフルエンザワクチンを打ってきたので、その影響で陽性反応が出たとも考えられますが、この症状ならまずはコロナで間違いないだろうと思います。
たまたま検査キットがあったので、家内も調べましたが陰性でした。

オミクロン株の潜伏期間は3日ほどだという事なので、遡ると土曜日辺りに感染していた事になります。
土曜日は津軽三味線富山教室で、その後は高岡の三味線屋さんによって帰りました。
翌日曜日はバンクシー展へ行って、その後クロスランドおやべ、福岡ミュゼカメラ館とあちこち回ってきたので、日曜日かもね。
さてどこで感染したのでしょうか。





昨日から今日に描けてJA9コンテストHF電話の部があって、体調が戻れば今朝からでも参戦しようと思っていたのにそれどころでは無く、解熱剤を飲んで寝ていました。
JA9コンテストHF電信までにはしっかり復帰したいと思います。

思い起こせば昨年の文化の日も最悪で、JA9コンテストの最中に腹痛が酷くなって、コンテストは途中で離脱、救急の受付からそのまま入院でした。
持病の憩室炎の悪化でした。
どうも私にとって11月3日文化の日は鬼門のようです。
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あけましておめでとうございます。

2022年01月01日 12時49分04秒 | しょーもない徒然日記

2021年は慌ただしく過ぎ去ってしまい、2022年の元旦を迎えています。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、昨年10月以降ブログを更新していなかったのですが、実は11月再び憩室炎が再発してしばらく入院していました。
退院後は、しばらくコロナ禍で何も無かったイベントが、なぜか11~12月に集中してあり、 加えて本業も忙しくなってブログを書くどころではありませんでした。
年末ギリギリまで超多忙な日を送っていて、年が明けてようやくパソコンの前にゆっくり座ることが出来ましたので、昨年11月からのあれやこれやを回顧しながら書き記してブログにアップしようと思います。

さて、まずは11月の憩室炎の再発・再入院のことから。


11月3日(文化の日)

2日~3日はJA9コンテスト電話でした。
昨年に続き今年も電話の部は7MHz部門にエントリーの予定で前日は早々に就寝して、早朝からコンテストに臨みました。

実は夜中から腹痛がしていたのですが、なんとか我慢できる程度だったので午前6時すぎからそのままコンテストを開始。
相変わらずOTHレーダーのノイズがありますが、なるべくノイズのすくない周波数でCQ呼び出しをします。
ただちょっと時間的に出遅れたようで結構周波数が埋まっていて、苦戦しました。

快調に呼ばれ続けているうちに腹痛がだんだんひどくなって、午前8時を過ぎた頃からどうも熱も出てきたようで寒気がしてコンテストどころでは無くなり、午前9時を過ぎた時点でコンテスト継続は無理と判断してリタイヤ。
体温を測ると39度近いし、解熱鎮痛剤を飲んでしばらく横になって様子見をしました。

午後になっても一向に腹痛も発熱も治まりません。
実はこの2日前の11月1日に、大腸内視鏡検査をして異常なしと言われていたのですが、なぜ突然こんなことになるのかと思い、検査していただいた病院の救急外来に電話したところすぐに来てくださいとのこと。
ただ、このコロナ禍のご時世、まずは発熱外来に来てくださいとのことでした。

16時に発熱外来に来てくださいと言われて時間通りに行ったのですが、発熱外来に入れてもらったのは1時間後。さらに抗原検査で陰性になって救急外来に入れてもらったのはさらに1時間後でした。
その間も腹痛は全く治まらず、熱も下がらずしんどい思いをしました。

CT検査の結果、前回(7月入院)の時と同じ憩室炎なのでそのまま入院してくださいとのこと。
何の準備もしてきていないのに(心の準備を含めて)即入院となりました。
前回よりは痛みが激しくて、大腸から小腸まで炎症が広がっているらしいとのこと。
起き上がったり体勢を変えたりるするのも激痛で大変です。
前回同様、絶食で腸を休めながら抗生剤を点滴する治療が始まりました。
























今回は入院後の回復が早くて、8日目で退院となりました。
同室の患者さんの行動がちょっとびっくりだったので、スマホのメモ帳にブログの下書きを書いて暇を潰していました。
それを貼り付けてみます



*病院にて「患者模様いろいろ」

・向かいの病室のじいちゃん
1日に何度もスナックのママと思しき人物から電話がかかって大声で喋ってる。丸聞こえで恥ずかしく無いのだろうか。
看護師のねーちゃんの言うことを毛頭聞かない、小便の量を計るからと言われてるのに、流してしまったと毎回同じ事を繰り返しをしている。
早朝に外へ散歩に行ってタバコを吸っているらしい、困ったものだ。
午後からもずっと行方不明に、きっとどこかへ脱出しているのだろう。
看護師は右往左往して困っている。
夜になるとイヤホンでテレビを見て時々大声で笑ったり奇声を上げたりする、気味悪いのでやめてほしい。

・斜め向かいのじいちゃん
やはり病室で大声で電話をしている。
やたらと看護師ねーちゃんに点滴の針の処置にクレームを付けている。
看護師のねーちゃんに爪を切らせている、文句も言わずに切ってる看護師はえらいです。
看護師にいちゃもん付けるのが楽しいのか、何人も被害にあっている、ベテランの看護師はさらっと受け答えして去って行くが、若い看護師は捉まってあーだこーだ文句を言われている。

・退院して行った向かいのじいちゃん
看護師のねーちゃん達に、「目が可愛いので、20年若返った」と同じ言葉を繰り返している。
退院するまでに何十回聞いたことか。
看護師の皆さんも大変だ。

・隣のあんちゃん
ばったり鉢合わせしたが、180センチ以上ある巨漢。
看護師さんは体重が100キロ超でいつもの体重計では計れないと大騒ぎ。
相撲取りの取り組み後の息づかいに似てちょっと耳障り。
いびきが変則でまるでブタ小屋にいるようで、気になって眠れない。
と思っていたら、ウシガエルにみたいになってきた。これでは眠れたもんじゃない。
耳栓の効果では全く追っつかない。
おかげで今回の入院中とんでもない睡眠不足でした。

人生いろいろなのでした。。。


というわけで今回は8日間で退院。
血圧の薬が切れていたので、その日のうちにかかりつけの内科医院へ行き顛末を話したところ、かの先生ががぼそっと、「内視鏡で憩室を刺激したかな・・・」と呟きました。
そんなこともあるのですかね、無事に回復してシャバに戻ってこれたことだし、あまり深く追求しないことにします。

ただ食事に気を遣って消化の良いものを食べるように、便は溜めないようにしています。
アルコールは前回7月のの入院以来やめました。というか前回あまりにも辛い目に遭ったので、飲みたいという欲求が起きなくなったのでそのまま断酒が続いています。
もう半年が過ぎました。
毎晩、青汁を牛乳に溶かして飲んで就寝しています(笑)
ま、そのうち呪縛が解けて飲み始める日も来るでしょうが、当分はこのままです。

まずは11月上旬のお話でした。

つづく。
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18日間の闘病記(その2)

2021年08月02日 09時12分47秒 | しょーもない徒然日記
~その2です~


7月22日(木・祝日)

この日から4連休なので、ひたすら暇な入院生活です。
日中読書とテレビで起きて脳を動かしていないと、夜に眠れなくなると思うのですが、夜はやはり眠れません。
相部屋のおじさん達のいびきの大合唱でまず無理です。
明け方になると皆さん静かになるので、ようやくうとうととできますが、やはり慢性的に寝不足が続いています。

看護師さん達はしっかり交代で休みのようですが、主治医の先生は毎日必ず顔を出されました。頭が下がります。

元気ならこの4連休はどこかへ移動して無線をする予定だったのですが、我慢の4連休になってしまいました。

バッグの中を確かめていたら、ラッキーなことにICレコーダーが入っていました。
民謡からJUJUまでいろんな音源も入れてあったので、結構な暇つぶしになりました。

この日からは3分粥です。
とは言ってもお粥にはほど遠いです。




7月23日(金・祝日)

我慢の4連休、2日目。

この日も3分粥ですが、おかずが少し付いているのが嬉しいです。
熱はほぼ平熱まで下がりました。

昼は読書と、ICレコーダーに入っている音楽鑑賞で過ごします。

こういう病棟なので、トイレが汚れていることが多々あります。
きっと汚したのがわかっていても、綺麗に掃除する気力も無い人が多いのかもしれませんが、困ったものです。
何度綺麗に拭いて掃除をしたことか。


7月24日(土曜日)

我慢の4連休、3日目。

この日から5分粥。
多少お粥の中の粒が大きくなったかなと思う程度の差です。



昨晩はオリンピックの開会式があったそうで、私には関係ないことですが。
ツイッターでいろいろ書いてあるのを読んで、大体の雰囲気は解りました。

テレビはどこの局を見てもオリンピックばかりなので、いい加減嫌になってきます。
たまたま見ていたTBSの報道特集で、オリンピックの関係者が弁当やおにぎりを廃棄しているのをやってました。
全く罰当たりな行為です。


7月25日(日曜日)

我慢の4連休、最終日。

この日から7分粥。
だいぶ全粥に近づいてきました。
おかずも結構形のある物になってきました。
しかしなぜか不安なので、時間をかけてしっかりと噛んで食べています。



コロナワクチン2回目の接種日でしたが、入院中なので妻に電話してもらいキャンセルしました。
2度目のキャンセルです。
主治医の先生に聞いたところ、1回目の接種から多少間隔がが空いてもかまわないので、退院後に2回目の予約をして接種してくださいとのことでした。

相変わらず日中は頑張って読書と音楽鑑賞でエネルギーを使っているのですが、夜はなかなか眠れません。


7月26日(月曜日)

朝6時に採血で起こされます。
確か1日おきに朝6時に採血で起こされているような気がしますが、実は明け方にようや眠りについて気持ちよくなったところで起こされるのです。

この日から全粥になりました。
お粥って言ったらこれですよね。



午前中に主治医の先生がいらっしゃって、血液検査の結果も良いので明後日28日退院にしようかとおっしゃいました。
ようやくこの入院生活の出口が見えました。

4連休中は病院の規則でシャワーが使えなかったので、6日ぶりにシャワーを浴びました。退院の目処も立ったので、気持ちがすっきりしました。

入院中にこの本を読破しました。
去年買って本棚の肥やしになる寸前だったところでした。
なかなかこの類いの本をしっかり読む機会なんてないのですが、暇に任せてさいごまで読みました。
大体においてテレビからの情報を鵜呑みにしているので、目から鱗のことが多々ありました。




7月27日(火曜日)

やはり全粥です。
お昼に肉が出たのにはびっくりしました。
まだ自信が無いので、しっかり噛んで食べましたが・・・。

テレビはどこの局もオリンピックばかりなので、BSでドキュメンタリーなどをやっているとこれ幸いと見ていました。

数年前に整形外科で入院していたときは、テレビばかり見ていてテレビのカード(1000円で18時間くらい見られるらしい)を何枚も使ったのですが、今回は1枚使い切らずに終わりました。

夜になって、入院最後の晩くらいゆっくり眠りたいものだと思い、看護師のにいちゃんに睡眠導入剤を頼んだのですが、後から持ってきますと言ったきり結局持ってきてくれませんでした。
悪寒が来てるのに布団を掛けていっただけのにいちゃんといい、どうもこの病院の男性看護師はおかしいです。


7月28日(水曜日)

この日は循環器科を受診して10時半に退院ということでしたが、なかなか循環器科からお呼びがかからず、結局私服に着替えて退院準備をしてから循環器科へ行ってくださいとのこと。

11時には家へ帰れるかと思っていたのに、結局はお昼頃でした。

左下腹部、S状結腸のあたりはまだ手で押すと痛いのですが、普段は痛みも無く大丈夫なくらいまで回復しました。
あとは通院で検査をして、内視鏡検査もしてという流れになるそうです。

以上、今回の発熱~入院顛末記でした。
抗原検査~PCR検査のことや、憩室炎の治療など参考になることがあれば幸いです。
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18日間の闘病記(その1)

2021年08月02日 09時04分06秒 | しょーもない徒然日記

7月16日から約2週間、入院生活をしておりました。
無事退院して8月から心機一転、職場復帰します。

発熱から入院、退院までの18日間の経緯を記しておきます。


7月11日(日)

日中は元気に富山市まで行って「いとみち」を観てきました。
夕飯は、たまにはウナギでも食べようかということで、すき家でウナ牛を食べて帰宅。
何の前兆も無く全く普通の平和な日曜日でした。

夜になって、コロッケパンの残りが冷蔵庫にあったのを食べて、焼酎の炭酸割りを作って飲み始めようかという時に、突然悪寒が来て体が震えて止まらなくなりました。
とにかく寒いので上着を着込んで体をドライヤーで温めてなんとか悪寒は収まりましたが、体温を測ると39.4度。
慌てて解熱鎮痛剤を飲んで体温を下げてそのまま寝ました。


7月12日(月)

解熱鎮痛剤を飲むと、大体5時間程度は熱が下がるので、その間に仕事をしますが、今になって思うとよくあの状態で仕事なんかしてたなと思います。
約5時間ほどで解熱剤が切れて体温が上がってくると一気に39度台まで上がるので、一日に37度から39度の間を何度行ったり来たりしたことか。
とりあえずこの日は解熱鎮痛剤でなんとかしのぎました。


7月13日(火)

もしかして新型コロナだったら大変な事だと言うことで、富山県の相談センターに電話したところ、氷見市内の発熱外来を紹介していただきました。
さっそく発熱外来の医院に電話したところすぐ来てくださいとのこと。
入り口は正面では無く裏の通用口から入って、すぐの検査室で待つように言われました。

こちらでは抗原検査をしていただきました。
結果はコロナ、インフルエンザともに陰性。
ただ、抗原検査は100%ではないので、しばらく様子を見て肺炎の症状や味覚障害などの症状が出たらすぐ連絡するようにとのことでした。

もしこの抗原検査で陽性が出れば、ようやく市民病院へ紹介状を書いてもらってPCR検査ということになるらしいです。
濃厚接触者や、スポーツ選手などはすぐにPCR検査を受けられるようですが、普通の発熱患者にとってなかなかPCR検査までのハードルは高いようです。

とりあえずコロナではなさそうだとのことでしたが、相変わらず熱は下がらず解熱鎮痛剤が切れると39度まで上がります。
発熱するときは全身寒いし、解熱剤を飲むと汗だらだらになるし、この日も同じ繰り返しが続きました。


7月14日(水曜日)

全く熱が下がらないので、前日の発熱外来の先生に電話したところ、もう一度来てくださいとのこと。
再度抗原検査をしていただきましたが、陰性でした。

先生から他に何か思い当たる事は無いかと聞かれましたので、以前住民健診で引っかかって大腸内視鏡検査をしたときに、S状結腸に憩室があるので突然痛くなったりすることがあるかもしれないと言われたのを伝えました。
そのときは我慢できないほど腹が痛いと言うことも無かったのですが、重苦しい感じはしていました。

先生の機転ですぐに血液検査と超音波エコーで診察をしていただきました。
診察の結果S状結腸が広範囲に腫れていて、これが発熱の原因だろうということで、抗生剤の点滴をしていただきました。
解熱鎮痛剤をいただいて帰宅。


7月15日(木曜日)

やはり一日中熱が上がったままで、数時間おきに解熱剤で熱を下げてその間に仕事を片付けます。
日曜日の晩に発熱してからは食事を摂る気力も無く、ゼリーだけで過ごしていました。


7月16日(金曜日)

発熱外来の先生から、この日もう一度来院するように言われていたので向かいます。
今度はコロナの疑いがないので、正面玄関から入ってくださいとのことでした。

すぐに大きな病院へ紹介状を書くから、この足ですぐに行ってくださいとのこと。
慌ただしく一旦自宅に立ち寄ってから高岡市内の病院へ向かいました。

外科の先生への紹介状だったので、最悪手術かなと思っていたのですが、CTの画像を外科の先生と内科の先生が見てくださいまして、結局内科での緊急入院となりました。
病名はS状結腸憩室炎です。

まさかそのまますぐに入院になるとは思ってもいなかったので、何の準備もして無くて、夜になって妻にいろいろと持ってきてもらいました。
ただ、このコロナ禍で面会は一切不可なので、家族はナースステーションに荷物を預けて、それを看護師さんが病室まで持ってきてくれるというシステムになっていました。

とりあえず当分の間絶食で、腸を休めるそうです。



解熱剤は点滴なので速効で熱が下がりますが、やはり数時間でまた39度台に戻ります。
寒いのと暑いのとの繰り返しでただただ体力が消耗しているような気がします。

主治医の先生は、美人の女医さん。
まさかこんな美人の女医さんに当たるとは、この日のサプライズその2でした。


7月17日(土曜日)

絶食2日目。
栄養は点滴で入れてあるので大丈夫とのことですが、水しか飲めないのは辛いです。

夜になってまた悪寒がきで震えが止まらなくなりナースコールをしたのですが、男性の看護師が来て「寒くないようにふとんをかけておきますね」と行って帰って行きました。
悪寒で震えが止まらないのだから、熱いタオルで背中を暖めるとかなんとか対処できないのかよ、と思いながら震えてました。
5~10分ほどで悪寒と震えは止まるのですが、何のためのナースコールなんだ、と震える体で思いました。

相部屋なので夜はおじさん達のいびきでなかなか寝られません。
妻には耳栓の差し入れをお願いしておきました。


7月18日(日曜日)

相変わらず熱は上がったまま下がらず。
数時間に一度点滴で解熱剤を入れてもらいますが、解熱剤が切れるとあっという間に38~39度に戻ります。

絶食は続いていて、水のみというのはやはり辛いです。


7月19日(月曜日)

未明に解熱剤を点滴してもらいましたが、その後あまり熱は上がらなくなりました。
とは言っても37度台ですが。
11日の晩に発熱してから9日ぶりにようやく高熱から解放されたことになります。
男性の陰嚢はサーモスタットなので、発熱すると熱を放出するように伸びきってしまいます。
私の陰嚢も、高熱のためほぼ9日間伸びきっておりましたが、ようやく元の状態に戻りました。
S状結腸の炎症が治まってきたのかもしれません。

1週間以上前から何も食べていないはずなのに、この日と翌日に黒い便が3回ほど出ました。看護師さんの話では、出血したのがS状結腸にたまっていて、それが出たのだろうとの事でした。
結構な量の出血があったようです。


7月20日(火曜日)

発熱しなくなったので、一気に体が楽になりました。
熱のあるときは、本など読む気にもなれず、テレビも観る気力も無かったのですが、本を読もうという気力が少し戻ってきました。

何日ぶりかでシャワーを浴びました。
点滴は一時ストップして、腕を保護してのシャワーです。
とにかく汗で髪の毛が爆発していたので、すっきりしました。

しかし依然絶食中、水だけは辛いです。
ジュース系もだめらしいので、ほんとにひたすら水だけです。

夜はほとんど眠ることができなくて、細切れに寝ていますが睡眠不足です。
妻の差し入れの耳栓がなかったらもっと悲惨だったかもしれません。


7月21日(水曜日)

この日の朝から食事が出ました。
とは言ってもまずは「重湯」からスタートです。
しばらく口からは水しか摂取してなかったので、久しぶりの水以外の物です。





午後から病室の引っ越しで、3階から6階へ移りました。
病院の都合だと思いますが、ようやく看護師さんの顔と名前が一致してきた頃だったので、ちょっと残念でした。

腸の血管に血栓があるとのことで、循環器科の先生の診察を受けて、血栓を溶かして血液をサラサラにする薬を処方していただきました。


~その2へ続く~
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市の住民健診の予約が始まりました。

2021年06月28日 22時59分30秒 | しょーもない徒然日記
今年度の市の住民健診の受付が始まりました。




コロナの影響で今年は完全予約制なのだとか。
去年までははがん検診のみ予約だったのですが、基本健診含めて完全予約だそうで。

それは良いとして、予約が電話だけでネット予約は無いのだとか。
コロナワクチンの接種予約はネット予約ができたのに、住民健診はできないの?
どうも時計が逆回りしているようで、どこの発展途上国の話かよ、と思いませんか。

去年は悠長に構えていたら、コロナのせいで毎回の検診者数を制限していてもうすでに予約を打ち切りましたと言われ、結局集団検診は受けることができなくて、仕方なくかかりつけの内科の先生にお願いした経緯があります。
それも良いのですが、平日に何度も通わなくてはならないのが面倒なのです。

さて今日から予約開始ということで、今年は早めに申し込まなくてはと思い、朝から電話をかけまくりますが全く繋がりません。
結局40回ほどかけたところでようやく繋がり、無事予約できました。
結構な時間の無駄でした。
家内はお昼頃になってようやく繋がったそうです。

受付のねーちゃんは、結局パソコン画面を見ながら予約の処理をしているので、実に無駄なことやってるなと思いませんか。
そのままネット予約もできるようにすれば良かったのではないの??
去年から腐るほど時間はあったはずなのにその間何してたのでしょうかね。


先日の「リコンファメーションのお知らせ」といい、今回の電話予約といい、やっぱりおらっちゃの市は腐ってます。

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