熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ふつうの土曜日

2011年06月11日 | Weblog
ここ数週間連続で、土曜日にはなにかしらの予定が入っていたが、ひさしぶりに何も無い土曜を迎えた。とはいえ、今日は月の第二土曜なので茶道の稽古がある。先月は美大のスクーリングで茶のほうを欠席したので2ヶ月ぶりとなった。受付で「今月は久しぶりに皆さんご出席です」といわれたが、長くご一緒させていただいているメンバーの他に、時折新しい方が入られたり、抜けられたりするので、「皆さん」の中身がよくわからなかったりする。そんなことを気にしても仕方のないことなので、「あぁ、そうですか」と流して稽古に入る。

稽古ではもっぱら薄茶点前ということもあり、いつも和気藹々と楽しい雰囲気だ。震災から3ヶ月になるが、いまだに話題の端々にその影響が見え隠れする。先生が、今年の夏は珍しく上高地の帝国ホテルが取れたと喜んでおられた。私には「上高地」も「帝国ホテル」も縁が無いので、そこに泊まるということの意味を理解していないのだが、そこは予約を取るのが至難なのだそうだ。そういうところの予約が難なく取れるのも震災が影響しているのではないかというのである。上高地は信州なので、地震とか放射能は関係なさそうだが、或る種の気分の問題ということなのだろうか。

被災地のほうは一向に復興の気配が無いらしい。直接の知り合いで被災地を訪れたという人は無いのだが、ボランティアなどで行ってきたという人の話が知り合い経由で耳に届くようになってきた。情報サンプルとして決して十分な量ではないのだが、数少ない話の共通するところは、臭いの深刻さだ。瓦礫の下に海産物や海のヘドロが溜まっていて、それが強烈な悪臭を放っているというのである。確かに、臭いはメディアでは伝わらない。しかし、臭いが酷いようなら生活は困難だ。復興の現場の人たちは、そうした伝わりにくいけれど深刻な問題を承知しているだろうが、復興の計画や予算を司る人たちはそういうことをわかっているのだろうか。これから気温と湿度が高くなる。有機物の腐敗が進行すれば、そこに蝿や蚊などの類も大発生することになるのだろう。そうなると単に臭いの問題ではなく、感染症という生命に脅威を及ぼすかもしれないものも蔓延しないとも限らない。事は一刻を争う状況なのではないかと思うのだが、そういう危機感は何故か伝わってこない。

震災から3ヶ月目の東京で暮らす身は、一見したところ、殆どふつうの日常に復している。しかし、まだまだ「ふつう」とは程遠い現実のなかにある。その現実と一見との乖離が、これから何事かを引き起こすことになるのだろうか。

「小冊子の制作」制作レポート

2011年06月10日 | Weblog
16頁から表紙、裏表紙、奥付、目次を除くと12頁になる。「12」という数字から1年間12ヶ月が思い浮かんだ。各月に一葉の写真とそれについての記述を付し、12ヶ月の移ろいを小冊子で表現した。タイトルの「熊本熊的日常風景」というのは、自分が書いているブログのタイトル「熊本熊的日常」から流用したもので、特に意味は無い。

2007年9月に離婚をして以来、毎年、離れて暮らす子供にカレンダーを作って贈っている。写真はそのカレンダーで使ったものを流用した。原則として各月の写真はその月に撮影したものを使っている。日頃からリコーのGR Digital IIIというコンパクトカメラを持ち歩いており、写真のストックを膨らませることを心がけている。撮影するのは、日常生活のなかで当たり前に出会う風景だ。当たり前の風景のなかに、どれだけ多くのことを見出すことができるかということが生活の豊かさの尺度でもあると考えている。しかし、写真撮影そのものに興味はない。あくまで、その時々で興味を覚えたものをカメラで記録しているだけのことだ。

課題小冊子の制作にはマイクロソフトのWordを用いた。左右2段組にして、一頁の下半分に2頁分ずつ写真と文章を付けた。写真もある程度きれいに印刷したかったので、データ量を落とさずにWordに貼り付けた。パソコンがアップルのPower Book G4という6年ほど前に購入した古い機種ということもあり、写真を貼り付けた後のファイルの重さに、多少不自由な思いをした。

用紙はインクジェットで両面を印刷するため、インクの湿気に耐えるものが必要だった。坪量160g/㎡の三層構造の用紙(伊東屋 バイオトップカラー)を用いたが、折り曲げるには使い勝手が悪い。用紙の選択に再考が必要である。プリンターはキヤノンのMP620を使用した。

印刷の際は、用紙の向きを手作業で入れ替え、一枚の用紙を片面2回ずつ印刷して仕上げた。幸い、向きを間違えるというようなことはなく、やり直しをすることなく制作することができた。

初挑戦

2011年06月09日 | Weblog
美大の通信課程に入学して最初の課題に取り組んでいる。「編集研究」という科目の提出課題だ。お題は「16ページの小冊子を作る」というものだ。「16ページ」というのがどのような意味を持つかというと、A3の用紙を半分に3回折り曲げるとA6の16ページになるのである。つまり、課題の趣旨のひとつは、「冊子体と折・折丁の特性を把握する」ということなのだ。この科目は5月の27日から29日にかけてスクーリングがあり、それに出席したので、この課題を提出して合格した後、試験を受けて合格すれば2単位となる。もう6月も半ば近くになるので、そろそろ課題を処理していかないと進級がおぼつかなくなってしまう。

今日は昼間の殆どの時間をこの課題のために費やした。16ページといっても、表紙であるとか裏表紙といった形式上必要なページを除くと実質は12ページである。カレンダーと同じだ。毎年、子供にカレンダーを作って贈っているので、2011年版に使った写真をそのまま流用し、そこに多少文章を付けて体裁を整えて課題として提出することにした。

このブログをはじめとして、普段使っているのはWindowsのパソコンなのだが、写真や音楽のストックとメールはMacを使っている。この課題では写真をWordに貼り付けるので、Macのほうで作業をした。Power Book G4という2005年3月に購入した古い機種の所為なのか、どの機種でもそうなのか分からないが、写真を貼り付けたWordのファイルは重い。ページをスクロールする際に、手元の作業と画面の反応が一致しないので、必要以上にページの上下が多くなり作業効率が悪い。それでも出勤前になんとか12葉の写真を貼り付け、表紙と裏表紙にそれぞれ1葉の写真を貼り、A4両面2枚分の作業を終えた。明日はこれに文章を加える予定だ。

課題としては、A6判16ページの小冊子を2部制作し、制作の編集意図や作業過程を800字程度にまとめたレポートを付けて提出することになっている。

あたりまえの負担

2011年06月08日 | Weblog
木工では今日もヤスリがけに終始。手挽きの断面はどうしても荒れてしまうので、機械で切断するのとは比べ物にならないほどのヤスリがけが必要になる。しかし、形状の関係で電動工具を使って切断するわけにはいかなかったので、これは仕方のないことだ。結局、鋸の跡を完全に消し去ることはできないのだが、それなりに恰好のつく状態にまですることができた。次回は横木を組んで目違いを修正し、改めてヤスリがけになる。マガジンラックという小物でありながら、ヤスリがけに要する時間が長く、最後に布を取り付ける作業もあるので完成までは暫らくかかりそうだ。

今日は先生から端材で作ったというトイレットペーパーホルダーをいただいた。普通サイズのロールが上下に各一巻装着できるようになっているものだ。確かに、予備のロールの置き場所というのは考えることがあるが、こうした小物ひとつでトイレの空間の雰囲気が変化するものである。尤も、そういうことに関心の無い人には雰囲気もへったくれもないのだろう。

木工の帰りにcha ba naでビルマそうめんを頂いた後、その近くのベーカリーで明日の朝食用のパンを買う。天然酵母を使っていることを売りにしている店で、なんとなく敷居の高い印象を受ける店だ。店に入ってすぐ、ライ麦パンが焼きあがったとのことで、奥から板の上に並んだ円盤を膨らましたような形のライ麦パンが運びこまれた。焼きたてのライ麦パンというのは食べたことがなかったので、それをいただくことにした。レジの店員がなぜか妙に嬉しそうにしている。美味しいものをおいしい状態で買ってもらえるというのは、作る側からすれば確かに嬉しいことだろう。その店員の笑顔につられて、まだ食べる前から私のほうまで嬉しくなってしまう。住処に戻って早速少し切り取って食べてみたが、なるほど美味しい。作り手と使い手との距離が短いところに手仕事の良さがあると思っている。互いの姿が見えることで、その媒介となるものは単なる物理的存在を超えた存在感を獲得する。また、そういう存在感を与えられるように作るのが作り手の責任であり、その存在感を受けとめる感性を磨くのが生活者の責任でもある。「責任」というと大袈裟に聞えるが、そうした覚悟を持って生きなければ生活の豊かさなど感じることはできないのではないだろうか。責任を持って生きたいものである。

或る火曜日

2011年06月07日 | Weblog
震災から3ヶ月になろうとしている。直接被害を受けなかった東京でも、あれから「節電」で勤務先のビルの廊下も、夜の街も、昼間の電車のなかも、暗くなった。ここへきてようやくコンビニの看板が復活してきたが、それでも目に見えて風景が変化した。通っている陶芸教室も生徒が少なくなった。私は午前中のクラスだが、以前は午後のクラスの人が始業の1時間前からやってきて、作業が遅い私などはいつも片づけを急かされているかのような風だったのだが、その午後のクラスの人も減ったのか、少なくとも午前のクラスが終わるのを待ちかねるかのように教室に入ってくる人は殆どいなくなった。おかげで落ち着いて片づけができるようになった。

陶芸の帰りに十条へ回ってFINDに寄る。ランチセットのガッパオとコンソメスープをいただき、食後にグアテマラを飲む。オーナーの岩崎さんも店にいて、夏のイベントの話になる。私もそれに出店を出すことになっているのである。まだ、どのようなものを並べるか考えていないのだが、案内状を作ろうかどうしようかとは考えている。イベントは1週間なのだが、私が出店するのは2日間だけなので、案内状を作るほどのことではないのだが、面白いタイトルが思い浮かんだので、暑中見舞い代わりにあちこちに配ってみようかとも思うのである。

1月の個展の案内状は会期終了近くなって何故か急に問合せが増えたらしい。「らしい」というのは私個人にはそのような問合せは一切なく、案内状を置いていただいたお店などの一部で、個展のほうではなくて案内状そのものに人気が出て、コピーを取って対応したところもあるらしい。私のほうに言ってもらえれば、山のような在庫を抱えており、捨てるに忍びないのでいまだに押入れの奥で眠っている。

8月の出店も、案内状を作るとすれば、同じデザイン事務所に発注してみようと思っている。とはいえ、わずか2日間のことだ。いや、わずか2日間のことに案内状を作るという姿勢が大事なのかもしれない。小さな実績を着実に積み重ねることで、人は何事かを学ぶものなのではないだろうか。とはいえ、ただでできることではないので、やはり悩む。

デジタル化ということ

2011年06月06日 | Weblog
カイロプラクティックの先生と話をしていると、年齢が比較的近い所為か昔話になることがある。今日はレコードの話だった。あくまで互いの印象のことでしかないのだが、レコードからCD、CDからネット配信へと、音楽ソフトは時代とともに手軽なものになった。そして、手軽になるのと軌を一にするように音楽は売れなくなっている。レコードの時代は、その形態から、否応なくそれなりの再生装置を準備しなければならず、レコード自体もデリケートなものだったので、傷をつけたりしないように注意を払って扱ったものである。現在のようにいつでもどこでも自分の好きな楽曲を聴くなどということはできなかった。その所為なのかどうかは知らないが、聴くときには聴くことに集中することが自然なことだった。ウォークマンが登場して、カセットテープに録音したものなら、いつでもどこでも聴くことができるようになった。しかし、依然として音源はレコードだった。CDが登場するに至って、レコードという扱いが厄介なものから解放された。私も手持ちのレコードを中古レコード屋に売り払って、CDに買い換えた。ところが、CDの時代になると、肝心のアーチストのほうがぱっとしなくなってきた。例えば、ビートルズのCDは今でもCD屋の店頭で大きな販売スペースを占めている。彼らがメジャーデビューしたのは1962年11月だ。音楽の世界は、その存在感が大きいということなのかもしれないが、店舗という物理的に限定された場所で解散して40年にもなるアーチストの作品が棚のなかで目だっているということは、その後に続くものが無いということだ。音楽が売れないので音楽会社も経営が成り立たない。音楽会社の経営が不安定なので、新しい音楽家への投資は細る一方だ。ますます新しいアーチストは出てこない。同じことは映画にも言えるし、おそらく電子ブックが普及すれば書籍の世界も現状に輪をかけて低迷を深めることになるのだろう。

音源や映像がデジタル化されることで扱いが簡便になり、いつでもどこでも楽しむことができるようになったことで、我々は一生懸命に聴いたり観たりしなくなった。日常生活の風景の一部になることで、ありふれた消費財になってしまったのである。デジタル化というのは、たまたまそうした技術的な側面が簡便化の推進力となったというだけのことで、どのような事情にせよ、簡便になること、簡単にできるようになること、というのは物事の価値や生活のなかの位置づけを大きく変えることにつながることが多いように思う。

よく言われることだが、様々な道具類、特に電化製品の普及で、我々の家事労働の負担は軽減されている。しかし、軽減されて浮いた時間や労力が、どれほど人々の生活を豊かなのものにしただろうか。「手軽」とか「便利」ということの本当の意味は何だろうか。

漠然と感じることなのだが、手軽や便利になって失われることの最たるものは身体感覚だろう。自分の手で何事かの過程を加えることで最終形のものを得る、ということが少なくなっている。手間隙をかけるということが、あたかも忌避すべきことであるかのように世の中が流れてきたように思う。家事もそうだが、工業製品にしても工程の短縮と簡略化を目指し、自働化が進む一方だ。結果として確かに生活は手軽で便利になった。その代わり、身の回りに得体の知れないものが増えた。かつて自動車はある程度自分で手入れのできるものだった。今は電子部品が増えて、ちょっとした不具合でも指定工場に持ち込まなければならない。購入して間もない携帯電話が通話途中に電源が落ちてしまうというようなとき、電話会社のサービスカウンターに持ち込むと、修理をしてくれるのではなく新品と交換になる。今、修理可能な機械というのはかつてに比べてかなり少なくなっている。そして、不具合があれば交換するということに我々も慣らされつつある。「馴らされている」と言うほうが正確かもしれない。都合が悪くなれば修理や修復を考えるのではなく、それを捨て去って別のものに代えることが当たり前ということは豊かなことなのか。機械を人間に置き換えてみると、寒々とした生活風景が想像される。

呼吸

2011年06月05日 | Weblog
生きていくためには呼吸という行為が不可欠だ。吸って吐いての繰り返しだが、吸いっぱなしというわけにもいかず、吐きっぱなしというわけにもいかない。吸うのと吐くのとが釣り合うことで、生命を維持することができる。生理として呼吸が必要なように、精神にも何事かを吸収することと、それによって生み出したものを表現することとのバランスが必要であるように思う。精神の呼吸が何を指すかというのは人それぞれだろうし、時代によっても違うはずだ。

今の日本なら、不景気だのなんだのと言っても、すぐに生活に困窮するようなことは、天災に見舞われるといったことがない限りは少ないのではないだろうか。然したる不自由もないまま、それどころか必要以上の庇護の下に成人して社会に出る、という人が殆どなのではないだろうか。いきなり社会に放り出されて、吸うの吐くのと意識する余裕もないままに、日々新しいことに追われて、気がつけば10年や20年は経っている、というのがありふれた状況のように思う。「新しいことに追われて」といっても、多くの場合は企業その他の組織のなかでの経験である場合が殆どだろう。勿論、若いうちから起業する人もいるが、それは日本という文脈では依然として少数派だ。組織の一員としてとは言いながら、そこでの経験がそれまでの保護者の庇護の下での生活には無かったことばかりであるのも現実だ。そうやって、でかい図体になってから、ようやく人として自立する機会を得るというのは、世界を眺めてみれば恵まれたことであるには違いないだろう。

問題はそこからだ。社会人になって数十年経ったところで、果たして本当に自立できているのかということだ。組織に属していてもフリーターであっても賃労働の機会に恵まれている限り生活はできる。賃労働の機会に恵まれるというのは、市場経済という我々が置かれている社会の一員として機能するということだ。しかし、賃労働というのは賃金を支払う側にとって都合の良い場合においてのみ供給される就労機会であって、そうした条件に適合しなくなれば適合するように身の丈を合わせ続けなければならない。「身の丈を合わせる」と言っても、自分でどうにかなることとならないことがある。組織という合理性に貫かれているはずのものと、個人という合理性を超えた存在との乖離が、年齢を重ねるごとに大きくなっていくような気がするのである。

組織というのは分業によって機能する集団であり、分業によって継続性を確保しているという性質を持つ。つまり、健全な組織のなかのひとつひとつの仕事は、極端な言い方をすれば誰でもできるようになっているはずなのである。現実には職種によって賃金に大きな差がある。賃金の高いものは、それなりに高度な技能が要求され、その技能は「誰にでもできる」類のものではないから高い賃金を払うことになる、というのはおそらく幻想だ。組織やそれが置かれた文化や習慣でたまたま「高度な技能」と認識されているに過ぎないことがいくらもあるはずだ。組織というものは、本来的に突出した要素を抱え込んでは成立しない。

人体を考えてみればわかりやすい。確かに心臓や脳のように致命的機能を持つものはある。しかし、さらに掘り下げてひとつひとつの細胞というレベルで眺めれば致命的なものなどないだろう。肝心なのは予測可能な機能を予測可能な期間において発揮するという、ただそれだけのことだ。個々の要素が同質でも、それによって構成されるそれぞれの組織が、与えられた状況に応じた個性を持つことで、その組み合わせによって発展性を獲得するのである。個々の要素の個性が強すぎれば、そもそもそれらが集まったところで「組織」と呼ぶことができるような機能集団は成立しないだろう。

組織の中ではひとりひとりの労働者は末端から経営者に至るまでひとつの細胞と同じだ。内閣総理大臣だろうが東京電力の社長であろうが、代わりはいくらでもある。組織の存続を決めるのは、組織が置かれた状況であって組織そのものではない。状況というのは個別具体的なものではなく、つまり、目には見えないのである。歴史上の名宰相や名経営者は、その「状況」があればこそ名を成したのであって、何時如何なる状況でも同じように機能したどうかは証明することができない。

書いているうちに、書こうと思ったことから逸れていくのだが、要するに、自分が精神の呼吸を上手くできていないと感じられるのである。「人生50年」という言葉が、平均寿命が80年を超えている現代でもしばしば聞かれる。それでも実際に50年近く生きてみれば、その言葉が妙に腑に落ちることがいくらも出てくる。そして、その期限を超えて生活を考えたときに閉塞感を覚えるようなことが増えてくるのである。そのような閉塞感や生きることの違和感を覚え始めたのは40代に入った頃からで、あれこれと対策を打ってきたつもりなのだが、大きな潮流のようなものには逆らうことができないという当然のことを改めて思わないではいられない。昔のエライ人が「40にして惑わず」と語ったが、惑う余地が限られてくるのである。「不惑」というと堂々とした語感があるが、要するに「先細り」ということだ。細っていても先があると思えるうちは生きることを考えないといけないので窒息しそうになりながらも精神の呼吸を考えないといけない。誰もがそんな窮地を生きているのか、私だけが窮地に陥っているのか知らないが、私だけだとしたら、まことに面目ないことである。

芹沢介美術館

2011年06月04日 | Weblog
初めて仕事以外で静岡市を訪れた。先日の「工芸」のスクーリングで先生に薦められたのと、今日から企画展が始まるとのことだったので、ちょうど良い機会だと思ったのである。芹沢介美術館はもちろんのこと、芹沢という人のことも知らなかったのだが、作品を眺めてみれば、見覚えのあるものがいくつかあった。これまでは、染物への興味がそれほど強くなかったので、ひとつひとつの作品の作家名を意識していなかっただけで、けっこう頻繁に美術館の類に足を運んでいれば自然に目に入る高名な作家だった。

今年はどのような理由があるのか知らないが芹沢関連の企画展が多い。手元にあるチラシや案内状などの類だけを並べてみても以下の通りになる。

3月11日~7月18日 大阪日本民芸館 「民藝運動の作家達 芹沢介を中心として」
6月4日~8月28日 芹沢介美術館 「巨匠・芹沢介 作品でたどる88年の軌跡」
7月5日~9月4日 日本民藝館 「芹沢介と柳悦孝 染と織のしごと」
7月29日~9月5日 島根県立美術館 「宗廣コレクション 芹沢介」
          同展は松涛美術館、岡崎市美術館、京都文化博物館へ巡回

このほか、柏市郷土資料展示室で実質的に常設に近い展示があるようだ。

今日始まったばかりの「巨匠・芹沢介」では作品が年代順に展示されているのだが、年代が後になるほど作風が明るくなっているように感じられる。こんなふうに或る作家の作品を年代順に並べると、それが造形作品であれ、文筆であれ、初期のもののほうが印象的であることが多い。落語家のDVDボックスを通して観たときにも、必ずしも「名人」と呼ばれるようになってからの芸が感心するものとは限らない。

しかし、芹沢の場合は、年齢を重ねる毎に作品に厚みが加わっているように感じられる。展示に添えられている年譜や説明を読み、それによって余計な先入観が入り込む所為なのかもしれないのだが、沖縄を訪れたことと、空襲で家財や作品を全て失ったことが大きな転機になっているような気がするのである。そのあたりの時代を経て何がどう変化したのかということは、私の拙い文章力ではいかんとも説明しがたいのだが、敢えて一言で表現すれば、霧が晴れたような感を受けるのである。それ以前とそれ以降で、どちらが良いとか悪いというようなことではない。何かが吹っ切れたというか、何かを見つけたというか、肝の据わり具合が大きく変わったのではないかと思われるのである。

とはいえ、どの作品もそれぞれに眺めていて嬉しくなるようなものばかりだ。初期の作品なら、会場に入ってすぐのところにあった「杓子菜文間仕切」、後期なら「竹波文着物」や「草花文着物」のようなものが好きだ。「鯛泳ぐ文着物」も面白い。売店で手拭を買おうと思って商品を眺めてみたのだが、いまひとつ購買欲をそそられるものが無い。むしろがっかりするようなもののほうが多い。そんなはずはないだろうと、並んでいるものをひっくり返してみながら探して、ようやくこれならと思える風呂敷と手拭を探し出した。他に客もいなかったので、売り場の係の人と少し話をしたのだが、近頃は手の込んだものを作る人がいなくなってしまったのだそうだ。私が選んだ風呂敷は在庫が残り数点で、それを売り切ってしまうと後の入荷はおそらくないだろうという。手拭のほうはこの美術館オリジナルのものなので、当面のところは大丈夫なようだ。

馴染

2011年06月03日 | Weblog
このところタクシーで帰宅する日が続いている。今の職場で働くようになって2年半になろうとしている。毎日タクシーを利用するわけではないのだが、タクシーのほうは客待ちをする場所をある程度決めているらしく、最近は「お客さん、3回目ですよ」などと声をかけられるようになった。こちらが記憶している場合もあるし、そうでない場合もある。運転手のほうの記憶違いという可能性もあるだろう。それでも、今週だけで「3回目」に2回遭遇した。単に同じ運転手にあたったというだけのことなのだが、そうやって声をかけられると、何故か親しい人に街でばったり出会ったかのような嬉しさを覚えるものだ。昨日というか今朝というか、乗ったタクシーの運転手も「3回目」で、互いの出身地の話題になった。その運転手の実家は岩手県の海に面した場所で、3月の地震で津波の被害に遭ったのだそうだ。しかし、そこは青森県に近い地域で、犠牲者はひとりもなかったという。自分とは全然関係ない相手なのに、その運転手のご両親を含め地域の人たちが無事であったことに、我が事のようにほっとした。「袖振り合うも多生(他生)の縁」などという。こういう出会いも縁なのだろう。街でふと出遭った人と気軽に会話ができるというのは、昔は当たり前のことであったはずなのではないだろうか。それが今は、自分から余程意識的に行動しない限り、そういう何気ない会話を気軽に交わす相手を持つことが容易ではない。普段、コーヒー豆を買う店や、陶芸の帰りに寄るカフェや、散歩がてら立ち寄るカフェなど、私が街で気軽に会話ができる場所や相手はまだまだ少ないのだが、なるべく自分からいろいろな場所に出かけて、そういう人や場所を少しでも多くしてきたいものである。

街道をゆく

2011年06月02日 | Weblog
郵便物の受け取りがあって、雨のなかを実家経由で蕨郵便局まで出かけてきた。旧中仙道に面した巣鴨の住処を出て、JR板橋駅までその旧道を歩く。埼京線で戸田公園駅まで行き、やはり中山道に面した実家に寄って、たまっていた郵便物を受け取り、そのなかにある不在票を手に、やはり旧中仙道に面した蕨郵便局まで歩く。

実家がある地域は、私たちが引っ越してきた頃は工業地域で、かなり最近まで大きな工場が残っていた。最後に撤収したのがミツカン酢の工場で、その跡地はマンションになった。託児施設付ということで、分譲の際にはたいへんな人気だったのだそうだ。実家のあるマンションも工場跡地に建っている。工場が立地する以前は水田地帯だ。今は暗渠になったり埋め立てられたりしてわからなくなっているが、注意して眺めると、かつては用水路だったと思しき細く真直ぐな道がある。地名も「戸田」というくらいだから、土地の歴史はなんとなくわかる。今でもこのあたりの土地持ちらしき屋敷が点在していて、同じ苗字の表札がかかっていたりする。

市境を過ぎ、国道17号が本道と旧道に分岐すると、旧道沿道には年季の入った家並が現れる。以前、このブログにも蕨の風景を書いたことがあるが、蕨駅西口から駅を背にまっすぐ西へ向かう商店街は、さすがにかなり寂れてしまっているが、今でも機能している雰囲気がある。郵便局で郵便を受け取った後、その商店街を駅へ向かって歩く。呉服屋が何軒もあるのが面白い。和服を着る習慣のある人がどれほどいるのか知らないが、呉服屋という商売は、来店客を待つのではなく、既存客やその紹介の客のところを回って商売を取るものだろう。理屈から言えば店舗は不要かもしれないが、店舗があることで信用というものの足しにはなるはずだ。これほど呉服屋がある商店街というものが、その土地のどのような事情を象徴しているのか、調べてみると面白いかもしれない。学生の頃、蕨の呉服屋の子の家庭教師をしたことがある。私がそのお宅にお邪魔するのではなく、彼に来てもらって教えていた。当時、蕨郵便局の近くにボーリング場があって、たまにそこで一緒に遊んだりもしたものだ。今頃どうしているのだろうか。

商店街のなかの少し大きな構えの米屋の店先に七輪が並んでいた。「炭コンロ」と黒のマジックで書かれた手書きの札がついている。2,300円とも書いてある。勿論、炭やそれらを扱う道具類も並んでいる。震災の後になって並べたのではなく、以前からずっとこうして並んでいるような佇まいだ。飲食店で炭火焼の店があるが、炭で焼いたものは美味しく感じる。それが単に気分の問題なのか、炭が燃焼するときに発する何物かの効用で本当に旨味が増すのか、というようなことは知らない。七輪を買ったとして、それをどこで使うか、と考えた。やはりベランダということになるのだろうが、今の住処のベランダには樹脂がコーティングしてあるので、そのまま置くと厄介なことが起こるだろう。何かを敷いてその上で、ということになるのだろうが、その何かがすぐには思い浮かばなかった。思い浮かんだら、七輪を手に入れて、魚とか野菜を焼いてみようかと思う。

蕨駅から京浜東北線で東京へ出る。銀行に用があったので、それを済ませ、遅めの昼食をオアゾの小松庵でいただく。蕎麦について特別こだわりがあるわけではないのだが、ここの蕎麦は美味しいと思っていて、それほど頻繁に足を運ぶわけではないけれど、機会をみつけてはこうしてお邪魔する。この店の本店は駒込にあって、時として行列ができることもあるのだが、私は本店よりもこの丸の内店のほうが美味しいと思っている。

出勤までは時間が中途半端に余っていたので、職場のあるビルの入居企業用のラウンジで実家から持ち帰ってきた郵便物を開封したり、ラウンジに備え付けてある雑誌を読んだりして時間をつぶした。郵便物のなかに、2週間前のスクーリングで提出したレポートが講評と共に返送されてきたものがあった。概ね良好な評価で、「すばらしいレポートでした」と書かれていた。その前の週のスクーリングで厳しい評価をいただいた後だったので、やれやれと思う。そう思ったら眠くなった。

初桃

2011年06月01日 | Weblog
こんな肌寒い衣替えがいままでにあっただろうか。衣服というのは気候に合わせて着るものであって、暦に合わせるものではないので、衣替えだからといって、何が何でも夏服を着なければならないというわけでは、勿論無い。昨日今日という単位で気温が平年に対して大きく振れることがあっても、長い期間をとれば季節は着実に巡っている。今日は今年初めての桃を手にした。持ったときの感触がまだ硬いので、食べるのは二三日先になりそうだが、さすがに今の時期のものは小ぶりである。包装には「JAふくおか八女 福岡県産」とある。私の住処には昨年11月頃から青森県産のリンゴも毎週届いている。今時分のリンゴは冬の頃に比べれば味が多少は落ちるので、例年なら3月いっぱいで発注を止めてしまうのだが、今年は震災があったので、なるべく東北地方のものを消費するように心がけている。そんなわけで、今日は桃とリンゴが同居しているのである。国内産の桃とリンゴが同時にいただけるという事実を前に、この国の大きさを実感している。