熊本熊的日常

日常生活についての雑記

藤ノ木土平作品展

2009年06月29日 | Weblog
今、唐津焼ではたいへん人気のある作家だそうだ。通っている茶道教室では氏の茶碗が数多く使われている。自分にとっては馴染みのある作家だが、茶を頂くのに、茶碗の作者が誰であるかということは意識したことがない。手にとったとき、それがしっくりとくるかこないかだけが感じることのすべてだ。しっくりくる、というのは身体との一体感が得られるということだ。茶碗の品質というのは、結局はそういうことではないのだろうか。

今日観た茶碗は、これまで使ったものとは趣の違うものが多かった。作家というのは常に何かしら新しいものを創り出さなければならないという宿命を背負ている。守るべきものと革新するべきものとの程好い加減というものがあるだろうが、その程好さというものは勿論一定したものではないだろう。作り手も人間なら使い手も人間だ。感性が完全に一致することなどありえないだろうし、だからこそ、良いなと思うものと時々出会うくらいの感覚のほうが信頼できるというものだ。

今日観た茶碗のなかでは大中小3つの茶碗が組になっていて入れ子のようにして収納できるという作品があった。これが好きだ。特に中の焼き締めがよいと思った。

「人生に乾杯!」(原題:???)

2009年06月26日 | Weblog
危うく誤解をするところだった。結局、国家が国民の安寧を指向することなど無いのだから、自分の人生は自分で守るしかない、それがどれほど空しいことであっても、というようなことなのかと思った。ところが、最後の部分が作品全体のおさらいのようになっていて、そこで観客はそれまで観てきたことを振り返ることができるようになっている。特に女性刑事の回想部分は作品の本質にかかわる部分でもある。作り手には伝えたいこともあれば、観る人に委ねたいこともあるだろう。最後のパートが無くても作品としては成り立つだろうが、それがあることで、作り手の想いを噛んで含めるように見せている。それをおせっかいだと感じる人がいないわけでもないだろうが、私にとってはあの部分があることで、気持ちや考えが整理され、すっきりした気分で映画館を後にすることができた。

確かに、おさらい部分を観た後で、そのシークエンスを最初に観た時に、少し考えればわかりそうな背後の関係性に思い至らなかった自分にがっかりするという面がないわけでもない。それでも気楽に「あぁ、あれはそういうことだったのかぁ」と思ってしまう自分を「しょうがねぇなぁ」と愛おしく思う気持ちのほうが勝っている。せめて自分くらいは自分のことを無条件で受けいれてやらなければ立つ瀬がないというものだ。

さて、物語ではクライマックスに向かって、強盗を繰り返す老夫婦は捜査の手に追い詰められていく。もちろん、彼等は自分たちが指名手配されていることも、警察の影がすぐ背後に迫っていることもわかっている。それでも、切迫感が無い。それは、老化によって動作も思考も緩慢になっている所為も多少はあるのだろうが、人生の最終場面に立ち、ごく自然に物事を達観する境地に達しているといこともあるだろう。ただ、切迫しているはずの状況とあまり切迫しているようには見えない老夫婦の動きのズレが、この作品にユーモラスな雰囲気を与えていることは、おそらく製作側も狙っていることなのだろう。

年金だけでは生活ができないとか、信じていた国家が何の頼りにもならないとか、要するに社会の矛盾への批判というような視点は主人公たちには無いと思う。生活費が不足して自分たちが暮らす公営住宅の家賃を滞納し、ついには電気を止められても、何をするということもなく普通に暮らしている老夫婦。無い袖は振れないのだから、どうしようもないのである。ついに滞納した家賃のために差し押さえが入り、妻の大切にしていたダイヤのイヤリングが持っていかれたことで、亭主が立ち上がる。要するに、自分の大切な人の大切なものを取り返す、という単純な動機で郵便局や銀行を襲うのである。実はこれは物事を成し遂げるには重要なことだ。目的が単純であるほうが、その達成意欲は強くなるものだ。

亭主が意を決して立ち上がる時、深夜にそっと家を抜け出す。手には妻が草花に水をやるときに使う如雨露とホース。階下の駐車場にある愛車チャイカに歩み寄り、そのカバーを外す。ガソリンがないので、駐車場にある別の車からガソリンを抜き取るのである。如雨露とホースはそのための道具だ。乗りもしないのに愛車は新車の如くに磨き上げられている。亭主にとっては愛する妻、書斎の本、愛車が自分の世界の全てなのである。亭主は共産党幹部の運転手をしていて、この車は定年退職の時に自分が運転していたものを貰い受けたのである。車の愛好家というのではなく、人生の主要な部分を象徴するものというような意味合いがあるのだろう。今、守るべき自分の世界が外部からの脅威に晒されているから、こうして立ち上がったのである。人の自己というものは、案外このように単純でささやかなものなのかもしれない。最初は警察に協力していた妻も、亭主の思いに気付き、亭主と行動を共にすることになる。

いくつかの郵便局や銀行や宝石商を襲い、妻のイヤリングを取り返したところで所期の目的は果たされた。しかし、今や警察に追われる身。一方で、年金生活に行き詰まった老人の単独犯だというのに、警察は逮捕することができずにいる。そこに人々は正義を見てしまう。生活できないほどの小額の年金、生活に困窮して強盗をはたらくことを余儀なくされた老人、それを大捜査網を敷いて追う警察。逃亡を続けながら強盗を繰り返す老人は、警察に追われる犯罪者という、これも単純な図式のなかにあるのだが、犯罪に至った事情やら周辺情報が加わると、権力によって迫害される弱者、という別の単純な図式にすり替わって見えてしまう。メディアに毎日のように登場する老夫婦は、日々の生活に不満を抱える市井の人々にとっての英雄という色彩を帯びるようになる。

結局、主人公たる老夫婦は、逃避行のなかで自分たちの人生を取り戻したのだと思う。勿論、彼等には良心の呵責もあれば、被害者への同情もある。しかし、ダイヤのイヤリングが象徴するふたりの出会いは、おそらく自分の意志で行動した数少ない経験のひとつなのだろう。我々の生活というのはその殆どが習慣によるものだ。困難に直面したり、大きな岐路に立つというのはそう頻繁にあることではない。だからこそ、自分の意志で何事かをつかみ取ることで、自分自身に生気が宿るような高揚した気分を感じるのだろう。この夫婦はイヤリングを取り戻す過程で自分の人生を生きるという意志を取り戻したのだと思う。81歳と70歳の夫婦に未来があるのか、という見方もあるだろう。人の未来というのは、たぶん、時間のことではない。習慣に流されることなく、自分の意志で生きるということこそが人の未来というものなのではないだろうか。そう考えれば、炎上するチャイカの姿は、単なる習慣に寄りかかって生きてきたことへの決別を象徴しているようにも見える。

思うままに駄文を連ねたが、愉快な作品だと思った。

やっぱりゆがむ

2009年06月24日 | Weblog
今日は木工の日。相変わらず電動工具を前にすると怖じ気づくし、鉋はうまくかけられない。

始めてこの木工教室を訪ねたとき、最寄駅の駅前のロータリーには鴨の親子がいて、大勢の見物客を集めていた。親鴨の後について4羽の子鴨が歩いたり泳いだりする様は見ていて楽しい。その子たちもすくすくと大きくなり、見物客はその成長につれて少なくなる。飽きるということもあるだろうし、成長につれて愛くるしさが失われるのはどの生き物も同じである。

さすがに、私の木工の腕前が上達するのと、駅前の鴨が成長するのと、どちらが速いか、などと比較するまでもない。しかし、気にならないわけでもない。

さて、今日は木工の時間が終わった後、木の経年変化について先生に質問してみた。やはり、どれほど古い素材を使っても、経年変化は止まることがないのだそうだ。ましてや、切ったり穴を開けたりといった加工を施せば、反ったり歪んだりするのだそうだ。実際に古い農家を解体したときに入手したという古材で作った家具を見せていただいた。ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で観た古い家具のことがずっと頭にあり、何世紀もの時間を経ても狂いのないように見えるのは何故かと尋ねてみると、狂いが無いのではなく、狂いを逃がす工夫があるのだろうとのことだった。実際、外見からはわからなくても、レントゲン写真を撮ってみると、そうした工夫が明らかになることがあるのだそうだ。そうした工夫を「遊び」などと称することもあるようだが、その遊びこそが木の暴れを緩和させて全体の調和を保つ役割を果たすのである。サステナビリティを保証するには遊びが不可欠だということだ。良い話だ。

至福の時

2009年06月23日 | Weblog
午前4時54分、仙台に着く。札幌を出発した北斗星が本州に入って最初に停車する駅だ。乗降客がいるのかいないのかわからないが、車窓の外に見えるホームの様子からは人の気配というものが感じられない。まだ眠いので寝床に戻る。

午前6時頃、車掌が向かいの10番の客を起こす声で目が覚める。その客は郡山で下車するようだ。外はもう明るいが、曇天なのでさわやかな明るさではない。郡山到着は午前6時38分。もう世の中は活動を始めている。隣に停車中の列車には、かなり客が乗っているし、ホーム上の往来も活発だ。郡山を出発すると、沿線には人の生活が動き始めているという雰囲気が広がっている。時に、列車に向かってカメラを構えている人の姿も現れる。趣味なのか仕事なのかわからないが、朝早くからご苦労なことだ。

氏家を通過するあたりからカメラを構えた人の姿が見えなくなる。列車が格好良く見える場所というのがあるのだろう。ということは、あのカメラオヤジたちは地元の人々ではなく、遠くから写真を撮るためにやって来たということなのだろうか。

写真を撮りにどこかへ出かける、というのと、どこかへ出かけたついでに写真を撮る、というのとでは大きな違いだ。意識や目的が違っていても撮れた写真の出来映えが同じということもあるだろう。写真に限らず、全力を尽くしたけれども力及ばず、ということもあれば、偶然に大きな収穫を得ることもある。それが人生の面白いところでもあるように思う。

ちなみに、カメラオヤジは大宮を過ぎると再び出現する。まず大宮駅のホームに大勢いる。特に東北線や高崎線のホームの東京寄りの端に多い。王子近辺では家の屋根の上に三脚を構えている人もいた。昨今は不景気とかで、世の中には嫌なニュースが多いように感じるが、平日の午前9時台に鉄道写真を撮っている人が大勢いるというのは、世の中が平和である証左だろう。

そんなことを考えながら、寝台でゴロゴロして、ぼぉっと車窓の景色を眺めているのは楽しい。こういうのを至福の時と呼ぶのだろう。

札幌駅で乗り遅れた客がいて、そいつが北斗星の約1時間後に札幌駅を発車する特急北斗20号で函館に向かっているという。札幌出発は61分後なのに函館到着は北斗星の出発予定時刻の7分後になる。「星」が付くのと付かないのとでは平均速度にかなりの違いがあるようだ。北斗のほうには、この北斗星の客が乗車しているから少し急いだのか、時刻表の上での7分の違いが、実際には4分まで短縮されている。確かめたわけではないが、車内放送によれば、この北斗星はそいつを函館で待っていた所為で、函館出発が定刻より4分遅れたとのことだった。函館出発は少し遅れたが、仙台に着くまでに挽回し、本州に入ってからはどの駅にも定刻通り着発した。終点上野には定刻通り午前9時38分に到着した。

この後、一旦、住処に戻り、荷物を置いて陶芸の道具を持ち、すぐに陶芸教室へ向かう。普段通りに午前10時半から午後1時まで作業。今日は鉢の削りだ。なんでもないありふれた形の鉢なのに、厚さが思うように決まらず作業はイメージしているよりも遅れている。その後、教室近くの百貨店の地下でたこ焼きとサンドイッチを買って住処へ戻る。

住処では買って帰ってきた昼飯をいただき、シャワーを浴び、洗濯をする。身支度を整えてから出勤。普段通りに仕事をして、帰宅して家計簿をつけ、メールをチェックしたりネットを眺めたりして、一日が終わる。

東京へ

2009年06月22日 | Weblog
札幌ではおいしいコーヒーが飲みたいと思っていた。8時頃に起床し、9時頃に宿を出る。札幌駅を通り抜けて南口に出て、事前に場所を調べておいたカフェ・ド・ノールへ行く。

札幌グランドホテルの向かいに北海道ビルという古いビルがあり、その地下にある店だ。全体に照明を落とし気味にしたシックな雰囲気である。管球アンプとJBLのスピーカーセットが印象的なオーディオでジャズが流れる。メニューは絞り気味で食べ物はトーストくらいしかない。喫茶店というよりは珈琲屋である。初めての店なのでメニューの先頭にあるフレンチ・ブレンドをいただく。ボディを強めにして酸味を抑えた味で、店の個性が出ていると思う。店の構えに負けないしっかりした味でたいへん満足した。1時間ほどかけて初めての店を味わった。

店を出て、すぐ近くの北海道庁を訪れる。煉瓦造りの旧本庁舎を訪れるのは今回が初めてではないのだが、外観以外は全く記憶に残っていない。改めて内部を眺めてみると、その無骨な造りに時代を感じる。建った当時は開拓途上の原野のようなところに忽然と現れたような雰囲気だったのかもしれない。この建物を眺めていると、昔、テレビで観た「獅子の時代」というドラマを思い出した。

11時半に東急百貨店の入口で友人と待ち合わせた。19年ぶりの再会なので、それなりに時の流れというものは感じられるのだが、再会と言っても、親しく言葉を交わすのは、今回で3回目くらいだ。初めて会ったのは1984年3月にオーストラリアを旅行したときのこと。往復のフライトが同じだったが、着いた何日か目にシドニー郊外のブルーマウンテンで偶然出くわしたのと、さらにその後何日かを経てマウント・アイサからスリー・ウエイズを経てアリス・スプリングスへ向かうバスで一緒になったのと、帰国便に乗るメルボルンで同じ宿に逗留していたというだけで、オーストラリア滞在中は殆ど言葉を交わしていない。帰国後に年賀状とか暑中見舞いのやりとりが続いた程度なのだが、なぜかそうした細々とした交流が絶えることがない。1990年の夏に札幌へ遊びに行った際に、1日街を案内してもらったのが2回目の出会いで、実質的にはこの時に初めて話らしい話をしたのではないだろうか。そして今回の再会である。以前にもどこかに書いたかもしれないが、人と人との縁というのは、毎日のように顔を合わせていても一向に親しくならないものもあれば、たまにしか合わなくても親しさを感じるものもあるから不思議である。結局、今日はかに本家で昼食を共にして、その後、駅ビルのなかにあるイノダコーヒーに場所を移して上野へ向かう北斗星の出発間際まで話をしていた。

北斗星は特に変わったところもない寝台特急なのだが、今は寝台特急というものが珍しい列車になってしまったので、出発風景が普通の長距離列車とは少し違ったものに感じられた。なんとなく、乗客が楽しそうに見えるのである。それはおそらく、多くの人が、この列車に乗りたくて乗車するからなのだろう。自分が好きなことをするのだから楽しいのは当然だ。

北斗星は荷物車を含め12両編成で、私の席は9号車の8番、「ソロ」という名称の個室B寝台である。B寝台でも十分な広さがあり、入口はカード式の鍵がかかるようになっている。これまでに利用した乗り物のなかでは、費用対効果という点でも、単純に快適さという点でも最高水準にあると思う。

津軽海峡の下で就寝前の歯磨きを行う。

札幌へ

2009年06月21日 | Weblog

朝食は朝7時から8時の間に1階の食堂で食べることになっている。身支度を整えて朝食に降りてみると、既に何組かの客がいる。カウンターがあり、その奥で人が立ち働いている気配がある。カウンターから奥へ向かって声をかけ、空いている席に座っていると年配の男性が食事の盆を持って来た。品数が多く、それだけで嬉しくなる。味は特筆するほどのことはないが、一品一品丁寧に料理されているように感じられた。食後に出されたコーヒーはおいしかった。どれほど宿賃の高いところでもコーヒーのおいしいところというのは無かったが、ここは、おそらく一杯ずつ淹れいているのだろう。そういう味だった。

日本で最初にコーヒーが飲まれるようになったのが北海道なのだそうだ。江戸時代に北辺警備で蝦夷地に駐屯した武士の間で、短い冬の日照時間と厳しい寒さによる水腫病の薬として飲まれるようになったという。私が通った珈琲教室の先生は北海道出身で、東京に出てきておいしいコーヒーが無いので自分で喫茶店を始め、今は焙煎業をしているという人である。北海道は日本のなかではコーヒーの本場ということのようだ。

午前8時に宿を出る。雨は降っていないが曇天だ。雲の流れが速いので、そのうち降られるかもしれないと思う。昨日から風力発電の風車が立ち並ぶところが気になっていたので宗谷丘陵へ向かう。

もうひとつ気になっていたのが、津軽藩兵詰合の記念碑である。これはコーヒー豆の形をした石碑で、自国のコーヒー史にかかわる重要なものなので、コーヒー愛好家として無視するわけにはいかない。

国道238号線で宗谷岬へ向かう途中、右手の高台の上に風力発電の風車が林立しているところがあり、その高台の脇を過ぎたところで、陸側へ斜めに小さな通りが伸びている。その通りとの分岐に案内板があり、「宗谷厳島神社」、「宗谷護国寺」などと並んで「津軽藩兵詰合の記念碑」というのが見えた。この小さな通りに入ってからは案内板に従って車をゆっくりと進めていく。すぐに目の前に高地が立ちはだかり、その麓に公園のような緑地がある。ここに厳島神社、旧藩士の墓、津軽藩兵詰合記念碑、護国寺跡が並んでいる。これらの前は芝生になっていて、全体としてひとつのまとまった公園になっている。道に沿って小さな川が流れており、道と川を挟んで公園の向かい側に現在の護国寺がある。江戸幕府直轄の寺院で、葵の御紋がその名残りとなっている。明治中頃までは北蝦夷地唯一の寺院だったそうだ。雨が降っている所為もあるだろうが、人の気配がなく、古の生活も今の生活も想像し難い。

238号線に戻り、宗谷岬方面へ進むと右手に宗谷中学がある。その前を通り過ぎると程なくして、内陸側へ道路が伸びている。道標には「宗谷丘陵」と矢印がある。その道路へ入ると、往来の少ない238号線に輪をかけて往来が少なくなる。少ない、というより、無い、と言ったほうがよいくらいだ。

それでも海や牛が見えている間は、時折、バイクが通りかかったりしていた。稚内へ着陸する飛行機の窓から見えた風力発電の風車を間近で見たいと思い、その風車群へと近づくうちに牛の姿も交通の往来も見えなくなってしまった。

なだらかな起伏が続く草原に数えきれないほどの風車が立っている。道路から風車に至る脇道の入口には鎖がかかっていて風車の根本には立ち入ることができないようになっている。それでも十分間近に風車を見上げることができる。風がほどほどに吹いていて、風車はゆっくり回っている。もし、このまま人類が滅びてしまっても、風車は回り続けて使うあてのない電気をつくり続けるのだろう。稚内では使用電力の7割が風力発電によって賄われているのだそうだ。それほど使用電力が少ないということだろう。

風力発電所を後にして、レンタカーの返却をする空港の営業所へ向かう。少し内陸へ入ると道は森の中を進むようになる。くねくね曲がり、登ったり下ったりしながら進む。対向車もなければ同じ方向に進む車もない。雨が激しくなったり弱くなったりするなかを、ひたすら走る。森はだんだん深くなり、返却の時間は迫ってくる。10時半に返却の予定なのに、10時を過ぎた頃に道の舗装が途絶えて砂利道になる。本当にこの道で大丈夫なのかと不安になるが、今更後戻りもできない。そのくらい走ったのである。こうなれば、進むしかない。どうしてこれほどまでに穴が多いのかと思うような道を、その穴を縫うように進む。路面は酷いが、マーチとはいえ4WDなので思いの外安定した走りだ。砂利道は、やがて舗装された道になり、一安心だ。そして森も抜けて平らな土地が広がるようになると、対向車が現れたり、道路に行き先を示す標識が現れたりするようになる。10時20分頃には空港の敷地内にあるレンタカーの営業所に到着した。

係に人にガソリンを入れてこなかったと告げると、時間に余裕があるようなら、入れ来て欲しいと言われる。最寄のスタンドは238号線と40号線の交差点の手前にあるという。時間に余裕はあるので、そのガソリンスタンドまで行って、ガソリンを入れて戻って来ると、10時45分頃になっていた。本当は、丘珠からの飛行機に合わせて発車するバスに乗りたかったのだが、間に合わなくなってしまった。次のバスは東京からの便に合わせて発車するバスなので1時間近く待ち時間がある。見学デッキで写真を撮ったりして時間をつぶす。

東京からの便は定刻の到着だった。昨日の便と同様、ほぼ満席のようで、到着ロビーは往来が激しい。団体も多いのだが、路線バスの客も多い。ほぼ定員に近い客を乗せた路線バスも定刻通り11時40分に空港を発車する。30分ほどで稚内駅に着いた。が、ここで下車したのは私を含めて5人ほどだ。

列車の出発までは1時間半ほどあるので、まずは腹ごしらえである。あてが在るわけでもなかったので駅構内にある「ふじ田」という店に入る。どこにでもありそうな定食屋という風情で、家族で店をきりもりしているような様子だ。ここのカウンター席に座り、何も考えずに店内の黒板に書いてあった日替り定食を注文した。カウンターといっても、目の前には調味料の箱やら食器などが積まれているので、カウンターの向こう側は見えない。他に料理を待っている客はなく、私の注文が入るとカウンターの向こうで新たな活動が開始された気配がある。揚げ物の音も聞こえてきた。なにが出てくるのかなと思いながら待っていると、盆に乗せられた料理と盆とは別にカレイのフライが登場した。カレイは子持ちで、たぶん塩こしょうを打って揚げただけなのだろうが、とてもおいしい。小鉢の料理は、つぶ貝の煮物、貝と昆布の煮物、さつま揚げとインゲンの煮物、ほうれん草のおひたしなめ茸添え、香の物、みそ汁、そしてご飯である。これで1,000円。この店も、昨夜の料理屋も、今朝の宿屋もみそ汁が旨い。出汁と水の所為だろうか。

稚内から札幌へ行く列車は特急スーパー宗谷2号、4号、特急サロベツの3本である。そもそも稚内から発車する列車は1日8本しかない。先月、北斗星の予約をしたときに、特急サロベツの指定券も一緒に予約しようとしたら満席で取れなかったという経緯がある。その後、キャンセルもあったかもしれないと思い、稚内駅の出札で尋ねてみたが、満席のままだった。団体の予約が入っているそうで、最近はそういうことが多いのだそうだ。尤も、稚内から札幌まで予約が入っているわけではなく、旭川から先は空いていることが多いのだそうだ。団体の予約というのは今の時期は恒常的に入るものなのだろう。通常3両編成がサロベツは自由席車両を増結して4両編成になっていた。

稚内から札幌までは396.2kmで、特急サロベツは全線の所要時間5時間23分である。使用車両は183系気動車。国鉄時代に北海道の都市間特急用として開発された車両だ。民営化後、車両の塗装は華やかになったが、個人的には国鉄時代のほうが好きだ。

出発時間の20分前頃に改札へ行くと20人ほどが並んでいた。すぐに改札が始まり、列はあっという間になくなる。列車は定刻通り13時45分に稚内を出発。南稚内を発ってしばらくすると、進行方向右手に海が広がる。車内放送によると、天気が良ければ利尻富士が見えるのだそうだが、今日は見えない。日は射しているのだが、雲が多い。海が見える区間はすぐに終わり、列車は木々の間を抜けて行く。海岸を後にして最初の停車駅である豊富あたりまでは、右手にこの列車の名前にもなっているサロベツ原野が広がる。左手には鉄道と平行して国道40号線が走っているはずだが、よくわからない。車があまり走っていない所為だろう。

稚内を出発して1時間ほど経つと右も左も森のようになる。手塩川に沿いながら手塩山脈を横切るのである。ぼんやりと車窓を流れる木々を眺めながら、ふと、若い頃に旅をしたデカン高原を思い出した。マドラス(現チェンナイ)からバンガロール、ハイデラバードを経てデリーまで列車で移動したときの、どこかの風景だ。乗っていたのは2等寝台で、エアコンなどなかったからサウナのようなものだった。それでも、車窓を流れる木々にどこか通じるものがあるように感じられた。やがて列車は音威子府(といねっぷ)に到着。天塩山脈を横切った。ここから旭川へ向かって列車は北海道のほぼ中央を南下する。

16時32分、名寄に到着。車内の空席が一気に埋まる。名寄を出ると車窓の風景も一変する。それまでは自然が勝っていたように感じられたのが、人工的なもののほうが力を増したように感じられる。農地が広がり、列車の速度も上がったようだ。そして、駅に着く度に、少しずつ駅周辺の建物の密度が増してくる。

和寒(わっさむ)のあたりで再び木々に囲まれるが、それはわずかの間のことで、すぐに旭川に着く。やがて左手遠方に雪を冠った高い山並みが見えてくる。大雪山かもしれない。線路近くは水田だ。このあたりで稲作ができるようになるまでには多くの人々が並々ならぬ苦労と工夫を重ねたことだろう。遠くの大雪山と近くの水田を見比べながら、自然と人間との間の緊張が感じられる。旭川では乗降客が多い。乗務員もここで交代。宗谷本線はここで終わり、ここから先は函館本線を走る。この列車の終点の札幌まではあと1時間ほどだ。

旭川を過ぎるとそれまでにも増して人の気配が強くなる。鉄道も電化区間になり、いつの間にか複々線区間になっている。並走する道路の交通量も多くなっている。そうこうするうち、札幌市街の灯りが見えてきて、列車は定刻通り19時08分に札幌に着いた。

札幌での宿泊先は札幌駅北口から歩いてすぐのところにあるホテル・フィーノ。じゃらんのサイトで予約した。一泊4,500円。値段が値段なのでまったく期待していなかったのだが、何かの間違いではないかと思うほどきれいなホテルだ。札幌はホテルの激戦地だから、昨今の経済環境を考えればこの程度のお値打ちプランがあるのは当然なのかもしれないが、それにしても嬉しい誤算である。

チェックインを済ませ、荷物を部屋に置いてすぐに駅南口へ出かける。明日会うことになっている友人に電話をかけ、待ち合わせの打ち合わせをする。場所が不安内なので彼女の指定した会食場所周辺まで実際に出かけて行ったほうが確実というものだ。電話の後、駅前で夕食を食べる。

駅前のエスタというビルのなかに「らーめん共和国」というラーメン店のアーケードがある。ここには道内各地の有名ラーメン店が出店していて、昼時には各店に行列ができるそうだ。この時間は行列のあるところはないが、アーケード入口の店はかなり客が入っている。ふたまわりほどして、奥の客の少ない店に入った。名前は「初代」。そもそもラーメンなど滅多に食べないのだが、ここで食べたラーメンは今まで食べたなかで一番おいしいと思った。麺は特別どうというほどのことはないのだが、スープが旨い。この店に限らず、北海道に来てからずっと感じていたのだが、どこで食べた料理も出汁が旨いのである。豊富な海産物があるので、習慣としてそうした地の利を活かした味になっているということなのだろうか。このラーメンのスープも昆布と、何か海産物のようなものの味が効いているように感じられた。身体に良くないのは承知の上で、スープ一滴も残さず完食してしまった。


稚内へ

2009年06月20日 | Weblog
午前7時に住処を出る。途中、セブンイレブンに立ち寄って現金を引き出し、電車を乗り継いで羽田空港へ行く。

事前にヤフーの路線検索で乗り継ぎと時刻を調べておいたのだが、表示された乗り換えが不可能であることがわかった。念のため、ナビタイムでも検索しておいたのだが、こちらに表示のある乗り換えが正解だった。駅によっては、同じ駅名でよいのかと疑問に思うほど乗り換えに時間を要するところがある。おそらく、ヤフーのほうは駅による乗り換え時間の差異をあまり考慮していないのだろう。その点、この手のサービスでは後発であるナビタイムのほうがきめ細かく情報を網羅しなければならない必然性があったとも言える。ナビタイムでは乗り換えに便利な列車の乗車位置まで表示されるのである。

羽田空港駅に着き、改札を出て、階段を上がったところに航空会社の自動発券機が並んでいる。飛行機など滅多に利用しないので、搭乗手続きがこれほど簡単にできるようになっているとは知らなかった。最初に予約を入れた時に使ったクレジットカードを所定の場所に突っ込むと、後は表示される画面を「確認」するだけで手続きが終わり「eチケットお客様控」という紙片がべろっと出てくる。昔はカウンターに並んで航空会社の地上職員から磁気ストラップ入りの大きな厚紙の搭乗券を受け取ったものだ。そのうち、生体認証技術が発達すれば、空港に入った瞬間に自分が何者であるのかが認識されて、搭乗手続きが不要になるのかもしれない。セキュリティチェックは従前通りである。これも、持ち物をX線装置にかけなくても透視できるようになる日が来るのだろう。

稚内へ向かうANA571便(B737-800 167席)はほぼ満員である。旅行会社のバッヂを服に付けている人が多い。団体客のほうは明らかに平均年齢が高い。これまでに貯えたものもあるのだろうし、年金という安定収入があるのだから、不景気などどこ吹く風ということだろう。

飛行機は定刻通りにゲートを離れるが、出発便が多く誘導路上の行列に並ぶことになる。このため離陸までに20分ほどかかった。大都市の空港はどこも似たような状況だろう。自分が乗っている機の前にスカイマークの同型機がある。搭乗するときは飛行機の外観を眺める機会がないので、自分がどのような飛行機に乗っているかわからない。窓から見える他の機を眺めて、なかなか愛嬌のある姿の飛行機に乗っているのだと思ったりする。

羽田を離陸すると眼下にお台場、若洲のゴルフ場、葛西臨海公園、ディズニーランドが見え、その後に建物の密集した地域が続く。その密集度合いが凄い。これほどの建築物が広範囲に密集している地域というのは東京以外にあるのだろうか?阪神大震災級の地震に東京が襲われたら、阪神大震災級の被害では収まらないのだろうと、直感的に了解できる。そんなことを考えていたら地上の姿は雲に隠れてしまった。

雲がようやく途切れたと思ったら、津軽海峡を越えたとろだった。時刻は11時をまわっている。その後すぐに陸は雲の下になり、再び地上の姿が見えたのは機体が着陸態勢に入って高度を下げてからだった。岬に風力発電の風車が並んでいる。11時40分頃に稚内空港に着いた。雨が降っている。風力発電所があるくらいだから、風もそこそこ吹いている。「翼の王国」という機内誌にGeoffrey Bawaという建築家のことが書いてあった。面白かったので、東京へ戻ったらこの人のことを調べてみようと思う。

稚内では空港でレンタカーを借りるように手配しておいた。カウンターに行くと係員は「お待ちしておりました」と言って、カウンターを閉めてしまった。今日午前中の客は私ひとりなのだそうだ。最果ての地に来た、という気分になった。レンタカー会社のワンボックスカーで空港から営業所まで送ってもらい、そこで手続きをして車を借りる。釧路ナンバーのマーチだ。車で営業所を後にして、まずは宗谷岬に向かう。カーナビは当然付いているが必要はない。道路標識があるし、岬なのだから海沿いの道を進めばよいだけのことだ。さすがに交通量は少ない。勿論、制限速度というものはあるが、初めての土地でもあるので、どの程度の速度で走ったらよいのかわからない。つまらないことだが、手本のない状態で自分で物事を決めるというのは勇気が要求される。対向車はときどきあるのだが、自分の前に車は無く、自分の後にも車はない。気持ちが良いというよりも、気持ちが悪い。

それでも、宗谷岬に着いてみると、観光バスが何台も停まっていて、日本最北端の地の碑の周りに人だかりが絶えない。ここは最北端であるという以外には何も無い場所である。最北端であるというだけで、それにまつわる碑がいくつも建ち、観光客がやってくる。立地というのは不動産の価値にとって大きな要素であるということが、ここでも了解できる。

ここにある碑の類は、最北端の碑の他に、間宮林蔵の立像、ラペルーズ記念碑、あけぼの像、宗谷岬音楽碑、宮沢賢治文学碑、祈りの塔、世界平和の鐘、子育て平和の鐘、といったものである。他に宗谷岬灯台があり、旧海軍望楼がある。ちょっとした野外美術館のようである。

ちょうど昼時だったので、ここにあるアルメリアという店でウニ丼をいただく。「通常2,500円のところ本日に限り1,980円」という商店街の安売りのような宣伝文句にひかれて注文してみた。日常の買い物ではウニというものとは無縁なので、これが安いのかそうでもないのかわからないが、あつあつのご飯の上に、たっぷりとウニが乗っているだけだ。こういうのは料理とは呼ばないだろうが、それでもおいしい。

宗谷岬から海沿いの道を稚内市街へ向かう。最北の碑から少し南へ下ったところに間宮林蔵が樺太探検へ出航した場所を示す碑もある。今日は雲が多くて見えないが、海の向こうは樺太だ。

海沿いを走る238号線から稚内市街へ通じる40号線へ右折するあたりになると、かなり街らしくなってくるが、通りを歩いている人の姿が殆どない。一旦、車を稚内駅近くの駐車場に置いて、港のほうへ歩いてみる。港には北防波堤ドームというものがある。モダンなデザインだと思ったら昭和11年完成とある。ドームに沿うて海のほうへ歩いていくと、そこにはC55の動輪が飾られていた。ここは樺太の大泊とを結ぶ連絡船の拠点であった。このC55はここで車両の入れ替え作業に使われていた機関車のものだそうだ。何気ない風景のようだが、喪失した領土というものを初めて意識されられたように思う。東京で暮らしていると日本の国境などというものを意識することがない。国境を目の当たりにすることで、自分の国の歴史というものへの意識が喚起されるように感じた。今も、この動輪が置いてあるところとは別の埠頭から大泊へ往復するフェリーや樺太へのフェリーが出ている。

稚内港を後にして高台の上にある稚内公園を訪れる。ここにも記念碑がいくつもある。氷雪の門、九人の乙女の碑、教学の碑、南極観測樺太犬訓練記念碑、南極観測樺太犬慰霊碑が並ぶ。今日は天候の影響で見ることができないが、天気に恵まれれば、この場所からは樺太が見えるはずだ。北海道も樺太も未開の地であったところが、国家事業として開拓が推進された。北防波堤ドームのデザインに象徴されるように、おそらく、その時代の最新の技術や知識が駆使され、ひとりでも多くの人を開拓へ駆り立てようとしたのだろう。人々がそれぞれの思いを胸に新天地へ渡り、苦労を重ねてようやく生活の基盤が築き上げられようとした頃に、それが一気に瓦解してしまったことへの無念はどれほどであったろうか。太平洋戦争で日本国内が戦場になったといえば沖縄をはじめとする南方の島々のことが自然に思い浮かぶのだが、樺太では日本が連合国に対して降伏した8月15日以降も戦闘が続き、その混乱のなかで最期まで自分の任務を全うした病院の看護婦や郵便局の電話交換手が集団自決を図っていたということは、今回初めて知った。北方四島とは異なり、南樺太はサンフランシスコ条約のなかで日本が明確に主権を放棄した場所なので、再び日本の国土となることは無いのだろう。それにしても、稚内港の防波堤やそこに置かれている蒸気機関車の動輪、その港を見下ろす丘の上に建立された石碑の由来といったものを見聞するにつけ、四肢を切断されたような痛々しさを感じる。その痛みの中身については、ここでは語らないことにする。

稚内公園からノシャップ岬まではすぐである。ここは「喜びも悲しみもいく年月」という映画の舞台になった場所だ。その映画は観ていないし、観る予定もないが、最果ての地で灯台を守る人々を描いた作品であるということぐらいは知っている。今でも最果てではあるが、灯台の下には水族館があり、漁港や土産物店もある。ゴルフコースもあって、そこでプレーをしている人たちもいる。映画の当時とは、おそらく様変わりだろう。風景として気になったのは自衛隊のレーダーサイトである。草に覆われた高台に、緑色の大きな球が点在している様子はコンテンポラリーアートのようにも見える。

今日の宿泊は南稚内駅前にある稚内船員会館だ。バス・トイレは共同だが、朝食付きで一泊4,500円。南稚内の駅も、その周辺の様子も最果て感が漂っていて良いのだが、あまりに最果てだと、夕食をどのようにして調達するかが課題となる。

南稚内の飲食店街と称されるオレンジ通りは駅前から始まっている。それほど長い通りではないのだが、ここがこのあたりで最も飲食店が集中している地域なのだそうだ。寿司屋と飲み屋が多く、営業しているのかいないのかよくわからない店が殆どだ。通りの往来も殆ど無く、どの店も入るのをためらってしまう。結局、その通りのなかほどにある寿司を主体にした料理屋に入る。カウンターの席にすわると、いやでも目の前のケースに並ぶ寿司ネタが目に入る。握りのおまかせとホタテの刺身をいただく。その後、甘いものも欲しくなる。この通りにある工藤菓子店でマドレーヌと月餅と栗まんじゅうを買って宿に戻る。工藤菓子店の菓子はどれも自家製で、どれもおいしかった。ひとつひとつ丁寧に作られた感じの味だった。

食事をして満腹になったところで眠くなった。布団を出して、8時頃就寝。

ゆがむ

2009年06月17日 | Weblog
木工を習い始めて2回目の教室だ。木で工作をするのは中学校の技術科の授業以来である。実家の物置には当時使った道具類があるが、今となってはどれも使い方がわからない。ましてや、木のことなど何も知らない。

驚いたのは、木というものが切った瞬間に歪み始めることである。今、最初の課題としてスツールを作っている。大きな板から座板とか脚といった部材を切り出す。まず、板材の基準となる面を決め、それを平らになるように削る。次に、その基準面と直角に交わる面のひとつと第二基準面として、平面と直角を作る。削った面は平らなので、工作機械の鋼鉄製の天板の上に置くと吸い付いてしまう。それほど平らなのである。その基準面処理を終えた板材から部材を切り出す。当然、部材のなかの基準面は平らであるはずだ。確かに切り出した直後は平らである。しかし、それが1時間もしないうちに微妙に反ったり歪んだりするのである。

年輪を見ればわかるように、木は均等に成長するわけではない。環境の変化に応じて成長速度は変化するし、木の立ち位置によって同じ木のなかで成長の早い部分と遅い部分とが生じる。すると木の組織には疎密ができる。疎の部分と密の部分では吸収している水分量に違いがあるので、その蒸発によって切り出した後の木は形状が不均等に変化する。それを我々は「反る」とか「歪む」と呼ぶ。

切り出した後、長い時間をかけて十分に乾燥させた木材は、形状変化の原因のひとつである水分含有量が少ないので歪みは生じにくい。なんとなく、一枚板で作ったものが高級品で、合板で作ったものはそうでもない、という印象があるが、長期の使用でも歪みが現れないほどに年季の入った一枚板など容易に入手できるものではない。一枚板であることの性能面での長所や短所とは別に、希少性という点でかなりのプレミアムがつくことは容易に想像できる。

それにしても、切断した木がこれほど短時間に変化するとは知らなかった。その変化を目の当たりにしてみると、木は別に「歪む」わけではなく、状況の変化に対応しているだと了解できる。切断されることで、内部の水分分布に変化が生じるのだから、変化は当然である。「歪む」というと悪いことのように聞こえるが、それは人間の側からみた勝手な言い分とも言える。歪むことがわかっているから、我々はそれに対応して歪みの補正をあれこれ考える。合板もその解決法のひとつである。

木が歪むように、人と人との関係も、人とモノとの関係も、人それ自体も常に「歪んで」いる。自分の外にある歪みはすぐに見つけて対応策を施すのに、自分の内部や周囲の歪みには気付くことすらないような気がする。自分の歪みを認識してそれにきちんと対応できれば、少しは生き易くなるものなのだろうか?

「夏時間の庭」(原題:L'heure d'ete)

2009年06月12日 | Weblog
茶碗は茶を飲むための道具であり、花瓶は花を生けるための器である。茶碗だけが、花瓶だけが仰々しくガラスケースに収められて飾られているというのは、動物の剥製標本のような不思議な空気を醸し出す。

工場での流れ作業から生み出されたものであっても、職人の手でひとつひとつ精魂こめて作られたものであっても、使う人あっての道具である。使い手との関係無しにモノだけが存在することはできない。毎日使わなくてもよい。時と場面とに応じて、季節に応じて、使い手との間に気持ちの良い関係を生じてこそ、そのモノの存在意義があるというものだ。何の周辺知識もなく、ただそのものだけを前にして感じられる親しみや違和感というものもあるだろうが、そのモノについての物語を知ることで一層親しみや違和感が増すこともあるだろうし、違和感が親しみに、親しみが違和感に変化することもあるだろう。

人と人との関係にしても同じではないだろうか。毎日顔を合わせていても決して距離が縮まらない相手というものはいるし、たまにしか会わなくても身近に感じられる相手もいる。血縁の有無というのは相手を理解することに関してそれほど重要なことではなく、もっと影響力のある要素というものが人間関係のなかにはいくらでもあるものだ。肉親だから理解しあえるというも、氏育ちが違うから相容れないというのも、どちらも幻想でしかないだろう。

「夏時間の庭」は、どこにでもありそうな、なさそうな、ある家族の風景だ。母親の誕生日に集まった3人の子供たちとそれぞれの家族。父親は既に亡くなって久しく、話題の中心は近く回顧展を開く予定の画家だった大叔父のこと。フランス語がわからないので、字幕と場面とを注意深く見ていないとわからないのだが、母と大叔父、つまり兄と妹とは単に仲の良い関係ということではなかったようだ。これが「叔父」ではなく「伯父」であったとすると、全く別の話になってしまう。

それはともかくとして、母親は愛する兄の思い出が詰まった空間に家政婦と暮らしている。家屋も、そこにある家具や日用品の数々も、もちろん兄が残したスケッチ類も、美術品として高い価値のあるものばかりだが、おそらく彼女にとってはそんな経済的価値などどうでもよいことだろう。それらのモノを通して兄との愛の歴史を反芻しているのかもしれない。しかし、子どもたちにとっては、事情は違う。大叔父といっても自分たちの幼少の頃に他界しているので、その記憶は殆どない。3人ともそれぞれに独立して安定した社会的地位を得ている。家は確かに自分たちが育った場所という点において愛着はあるのだが、そこへの執着はない。子供というのは成長すれば自然に生まれ育った家を離れ、自分の家を築くものである。成長するということは、それまで自分を庇護していた枠組みから独立して、自分の世界を創りあげるということだ。そういう生活史を何世代も繰り返すことが自然な進歩というものだ。

大叔父の回顧展を終え、展覧会とともに世界各地を回った母親は、その疲労の所為もあり、念願の回顧展を無事終えて心の張り合いの失ったこともあり、突然亡くなってしまう。残された家屋敷と高価な家具や調度品を相続することになった子どもたちに相続税がのしかかる。3人の子供たちの間では、遺されたものを受け継ごうとする意志が全く無かったわけではないのだろうが、少なくとも長女と次男は自分の今ある生活を優先する。長男も結局は現実的な対応をすることになる。母の遺志もあり、相続税の免税措置を受けるという事情もあり、遺された家具や調度品はオルセー美術館に寄贈される。

それだけのことである。この映画には特別な出来事が何もない。美術館に並ぶ絵画や家具や調度品は、かつて生活のなかの道具類であり、人々の生活の一部として生きていたものだということが、特別なドラマのない淡々とした生活を描くことで見えてくるのである。美術館に並ぶ器であろうが、自分が普段使っている器であろうが、そのもの自体に意味があるのではなく、それが置かれた関係性にこそ意味がある。人生の豊かさは関係性の密度と濃淡に負うている。わかってはいるつもりだが、自分自身が浅薄なので、豊かな関係性など容易に築くことができず苦悶している。


見た目ではわからない

2009年06月11日 | Weblog
山手線のドアの上にある画面に流れている番組を観ていたら、日本の出版冊数は世界で5位だとあった。アメリカが多いのは感覚的に当然だと思うし、中国が多いのも人口を考えれば納得できる。しかし、日本よりもイギリスの多いと聞かされると意外な感じを受ける。

東京で暮らしていると書店は大型店舗が当り前だと思ってしまう。街中の書店の姿を見て、ロンドンよりも東京のほうが書籍の流通量が多く、その感覚を敷衍してイギリスよりも日本のほうが多いと思ってしまうのだろう。

普段、自分が本を買う時は、アマゾンで検索をして、「本やタウン」というサイトで発注する。このサイトに加盟している某大型書店を利用すると定価の5%引きで購入できるからだ。ただ、「本やタウン」はアマゾンに比べると在庫管理が粗末で反応が遅い。

5月に出たばかりの本を「本やタウン」に5月28日に発注した。今日になって品切れのため注文取り消しとの連絡が入った。発注時、アマゾンでは「2・3日で出荷」と表示されていたものだ。アマゾンで発注していれば、もう読み終わっていたはずだ。このようなことは今回が初めてではない。

要するに、店舗が大型であるとか、大手出版取次業者が関与しているというようなことは、書籍の実際の流通とは別のことなのである。大型店舗といっても、どこも似たような品揃えで存在意義に乏しい。一見したところ目立つものでも、よく見ると内容に乏しいというのでは、単なる広告塔のようなものでしかなく、そこから現実の姿は見えてこないものである。

そう考えると、英語という世界有数の使用人口を擁する言語文化の拠点であるイギリスの出版量が多いのは至極当然だ。ロンドンの大型書店が東京のそれに見劣りするなどということには、たいした意味は無いということなのだろう。

出流を制す

2009年06月10日 | Weblog
現状での本業は給与生活者で、勤務時間は午後4時から深夜0時ということになっている。0時になれば仕事を次のシフトの人に引き継いで、山手線に乗って住処へ戻る。作業の行きがかり上、終電に間に合わないこともたまにはあり、そういうときはタクシーを利用する。

タクシーの料金は原則として勤務先から支給されているクレジットカードで支払う。一般にコーポレートカードというものは、勤務先の勘定でカード会社との決済を行うものだと思っていた。今の勤務先では、決済はカードを利用した社員の個人口座で行うので、適当な時期に経費の精算をして勤務先から現金を調達しておかないと経費なのに自腹を切らされることになる。

経費精算の手続きはネット上で行う。しかし、ネット上では完結しない。作成した書類を印刷し、それに領収書を添付して、経理事務を委託している外部の業者に送らなければならないのである。その業者は沖縄にある。毎日のように東京から沖縄へ、自分たちの領収書を乗せた飛行機が飛んでいる。一方で、ネット上の入力に基づいた経費の承認作業も進行する。申請した経費が最終的に承認されるまでに、4人の承認権限者から「承認しました」というメールが届く。最後の承認メールを受け取ってから数日で当該金額が自分の指定した口座に振り込まれる。まだ、今の職場で働くようになって半年だが、平均的には申請から振り込みまで2週間程度を要している。

物事を適切に処理するのは文明の基本だ。たとえ小額であろうとも、何重ものチェックを行い間違いが無いようにするのは当然のことである。それでも現実にはボーナスの支払いが遅延し、こちらから調査請求をしなければしらばっくれられたりする。

大きな組織のなかにいると、それほど意識されることがないようだが、時間はコストである。作業に時間をかけるということは、それにかかわる人件費をはじめとする経費を使っているということだ。どうでもよいことに時間を費やしていながら、自分は「仕事」をしていると信じている社員を多く抱えることは、よくあることなのだが、組織にとっては悲劇的なことである。

物事には目的というものがある。企業とは「生産・営利の目的で、生産要素を統合し、継続的に事業を経営すること。また、その経営の主体。」だそうだ。営利獲得が目的であるはずの組織で何の価値も生まないことに多大な時間を費やしているとしたら、それはその組織のステークホルダーに対する背任行為とさえ言える。大袈裟なようだが、その通りであろう。尤も、その大いなる無駄が許容されているおかげで、自分の雇用も守られているのだが。

プリンジャムで炭パンを

2009年06月09日 | Weblog
今日の朝食に、炭パンをトーストして、それにプリンジャムを塗ったものをいただいた。炭パンは焼く時に焦がして炭のようになった、というわけではない。生地に備長炭を練り込んだものが食パンのような形に焼き上げられている。見た目は炭のように真っ黒だが、味はただの食パンとさして変わるところはない。炭の効能で整腸作用があり、ミネラル分も豊富なのだそうだ。プリンジャムはプリンのような姿形でプリン風の味がするジャムである。どちらも特別おいしいわけではなく、普通においしい。

ジャムは滅多に使わない。ただ、以前このブログ(4月1日「我が心のプリン」)にも書いたようにプリンが大好きで、その「プリン」にひかれてプリン「ジャム」を買ってしまった。やはり、プリンはプリンとしていただくほうが個人的には好ましいと思うのだが、これはこれとして面白い商品だとも思う。

朝食はたいがいパンである。ドイツ系のパンをトーストせずにそのままいただいている。自分のなかでは、パンはドイツ系、フランス系、食パン系の3系統に分類されている。ドイツ系というのは生地が濃密で、比較的固い焼き上がりである。それを薄めにスライスして、本来ならばバターとか、チーズとか、レバーペーストのようなものを塗っていただく。しかし、私は納豆をのせて食べている。ドイツ系のパンと納豆の相性がよい、というわけではない。単にどちらも好きなので、一緒に食べているというだけのことである。

都内でもドイツ系は滅多にお目にかからないのだが、勤務先のビルの地下のスーパーに平塚のベーカリーから仕入れているものが常時何種類か並んでいるので、たいへん重宝している。東京ではおいしいフランス系のパンを入手するのは容易なことだ。食パンはさらに容易に手に入る。しかし、ドイツ系というのはなかなか見かけない。まだ20代の頃、4ヶ月間ほどドイツのアウグスブルクという町で下宿暮らしをしたことがある。ドイツ語の学校に通いながら、一人暮らしの老婦人宅で用心棒のようなことをしていた。ドイツ系のパンはその時におぼえたのである。当時の観察によれば、ドイツパンというものは、例えば月曜に買ったものをその週のうちに食べ切る、というように時間をかけて消費するのではないかと思った。だから表面が堅牢に焼き上がっていて、日持ちがする、と理解した。対するフランス系は、朝にパンを買い、その日のうちに食べ切る、という消費の仕方をするのではないかと思った。だから表面の固い部分は薄くパリパリに仕上げられている、という理解だ。私の勝手な思い込みなので、本当のところをご存知の方がおられるようなら、是非、ご教示頂きたい。

参考までに、炭パンは東村山の駅前のベーカリーで、ジャムパンは勤務先のあるビルの地下のスーパーで購入した。

公園の手品師

2009年06月06日 | Weblog
子供の頃、8月になると懐メロを特集したテレビ番組が流れていたと記憶している。私の記憶のなかのフランク永井は、懐メロ番組の常連という程度でしかない。だからその曲といえば「有楽町で会いましょう」くらいしか知らなかった。さきほどYouTubeで「公園の手品師」という曲を聞き、なるほどフランク永井という人はすごい歌手だったのだと思ったが、この曲が2度発売されたのにどちらも不発に終わった理由もなんとなく了解できたような気がした。たぶん、普通の人には難しくて口ずさむことができないからだと思う。

今日、草加市文化会館で柳家小三治の独演会を聴いた。「公園の手品師」の話は仲入り後の「小言念仏」のマクラのなかで語られていたのである。マクラでは、売れなかった理由として、愛だの恋だのが歌われていなかったからではないかと語られていた。そのような歌詞の問題もあるかもしれないが、大衆歌謡というものは、誰もが口ずさむことができるというのが売れるための必要条件ではなかったのかと思うのである。過去形にしたのは、もはや時代は大衆歌謡を求めていないように見えるからだ。小三治はコンサートを開くほどの歌唱力の持ち主だから思い及ばないのだろうが、「公園の手品師」のような曲は私が歌うと念仏のようになってしまう。あるいは、そのあたりのことまで読んだ上で、この話を「小言念仏」のマクラにもってきたのだろうか?

小三治の噺はマクラが長いことで有名だ。生で聴くのは今回が初めてだが、文庫で出ている「ま・く・ら」と「もひとつ ま・く・ら」は何年か前に読んである。実際に聴いてみると、マクラの域を超越した確たる世界がそこにあるように感じられた。

古典落語の多くは江戸後期から明治あたりにかけて原形ができあがったものだろう。当然、そこで展開される物語には、現代の生活者には窺い知れない習俗もある。マクラというのは、その噺の世界へと我々を誘う基礎講座のようなものだ。決して単なる口慣らしでもなければ、挨拶代わりのようなものでもない。マクラを通じて、聴き手は無意識のうちに本題の世界の空気に順応するのである。時代を超えて我々の感情に流れる普遍的な感覚を活性化させるという役割がマクラにあるのだと思う。人間というもののなかにある普遍的なものを語るというのであれば、マクラなど振らずに本題だけに賭けるという道もあるだろう。マクラの扱いは、結局のところ、山に登るのに男坂を行くのか女坂を行くのか、というような違いであるように感じられる。大事なのは山に登ること。人間のなかにある普遍的なものの片鱗を感じさせることではないだろうか。

当り前のことだが、落語は生で噺を聴かなければ落語ではない。語るという行為が、全身全霊を総動員したものであり、その語りを聴くという行為もまた、全身全霊を総動員して対峙するものだということを改めて感じた。こんなふうに書くと、難儀なことのように思われるかもしれないが、結局は「公園の手品師」に歌われている銀杏の木のように、状況の変化に応じて、その在りようを自然な状態、無理のない状態に順応させるという双方向性が人間の行為の基本にも通じると思うのである。

今日の演目は以下の通り。
「転失気」柳家三之助
「蒟蒻問答」柳家小三治
 ***仲入り***
「小言念仏」柳家小三治

「ミルク」(原題:Milk)

2009年06月05日 | Weblog
映画を観ることが趣味と言えるほど、多くの映画を観ているわけではないし、映画が好きというわけでもない。それでも、これまでに観たなかで、好きな作品というのはいくつもある。そのひとつに「グッド・ウィル・ハンティング」がある。その監督がガス・ヴァン・サントで、「ミルク」は彼の監督作品ということで観たいと思ったのである。彼の監督作品は他にもたくさんあるのだが、観たのはこれら2作品だけである。二作品だけでこの監督について語ることはもちろんできないが、「ミルク」については期待に違わない作品だった。

興味深いのは、同性愛者としての自分の権利を守ろうと立ち上がった主人公が、政治の世界に足を踏み入れる過程で当初の目的を超越して、人権擁護運動の色彩を帯びてくることである。

もともとハーヴィー・ミルク氏は、自分の性的指向を周囲の人々に認知してもらおうと考えて、同性愛者が迫害を受けずに安心して暮らすことのできる環境作りを目指して社会運動を始めたようだ。それが、同じ悩みを抱える人たちの相談にのっているうちに、同性愛者のみならず、有色人種や高齢者などの社会の弱者を支える運動へと発展、やがて、そうしたマイノリティの利害を代弁すべく政治の世界に入っていくことになる。興味深いのは、自分の利害を守るという意図から始まった活動が、人権擁護という普遍性を持ったものに昇華していくことだ。政治活動が忙しくなるにつれ、ミルク氏とそのパートナーであるスコット・スミス氏との関係がぎくしゃくするようになり、やがて別離に至ってしまう。もともとミルク氏はスミス氏との生活を守るためにこうした運動を始めたはずなのに、その運動が手に負えないほど大きなものになり、2人を引き裂くことになる。

政治にはこの逆のこともよくあるだろう。大きな理想を持って政治の世界に踏み込んだ人が、いつしか自分の名誉と権力に溺れて、当初の理想とは逆の結果を産み出すというようなことだ。

要するに、人というのは独立した存在ではないということなのだろう。その時々の関係性のなかを生きる、かなりヴァーチャルな存在であるように思われる。この映画自体は、ミルク氏の最後の8年間を描いた伝記作品であり、おそらく製作意図としては、困難に立ち向かった英雄伝にあるのだろう。ただ、私には、ひとりの人間がその立場によって本人すらも意図していなかった役割を演じることになるという、人の世とか人生の不思議のようなものが感じられて面白かった。

ただ、最後のところで、登場人物のその後を文字情報にしてスライド形式で流すのは、映画としてはどうなのかと疑問に思う。テレビのドキュメンタリー番組ならいざしらず、映画として表現したいことがあるなら、あのような中途半端な手法は用いずにストーリーのなかに織り込むべきなのではないだろうか。確かに、観客は登場人物のその後に好奇心を抱くだろう。しかし、それにすべて応える必要が映画としてあるだろうか? おそらく、このあたりの感覚が米国と日本との文化の違いにもあるような気がする。