「日本人」というとき、日本という国の国民という意味と日本人という民族であるという意味を同じことと考える人が圧倒的に多いのではないだろうか。政治的あるいは地政学的な意味での人間の集団が民族的な意味での人間の集団と同一視されているのである。これは国民国家(”Nation-State”に対する訳語)であって、世界を見渡せばそのような単一民族によって構成される国のほうが少数派だろう。Nationというのは”a country considered as a group of people with the same language, culture and history, who live in a particular area under one government”(Oxford Advanced Learner’s Dictionary 6th edition)という意味で使われるのが一般的らしいが、この定義のなかの”who live in a particular area under one government”という部分は後から付いたもので、もともと地理的な限定はなかったらしい。Stateのほうの意味が”a country considered as an organized political community controlled by one government”(同上)なのだから、先の定義に従えばNation-Stateというのは意味の重複になってしまう。ちなみに同じ辞書でnation stateは”a group of people with the same culture, language, etc. who have formed an independent country”とある。
どうしてこんなことを書き始めたかというと、パレスチナ自治区が国連加盟を申請したからではなく、今日、アイヌ文化についての講演を聴いたからだ。アイヌといえば北海道の土産物くらいしか思い浮かべることができなかったのだが、今日の講演で初めて知った興味深いことがいくらもあった。この講演は国立民族学博物館で来月から開催される「千島・樺太・北海道 アイヌのくらし ドイツコレクションを中心に」という特別展に因むもので同館の友の会会員を対象に行われた。この特別展の名称に「ドイツコレクション」とあるが、日独交流150周年記念事業のひとつである。まずは、なぜ、ドイツとアイヌが結びつくのか、ということにおおいに興味をそそられた。
日本でアイヌといえば北海道、北海道といえばアイヌ、と何の疑いも無く連想する人が多いのではないかと思う。民族と国家との関係については、これまでも大小様々な問題や論争があり、おそらくこれからも様々なことが続くのだろう。それで、ドイツとアイヌだが、今回の特別展にはライプツィヒ民族学博物館所蔵のアイヌ資料が多数展示される。現在確認されているだけでも欧州には1万点を超えるアイヌ資料が存在するそうだ。そのうち約4,500点はロシアにあるが、ロシアを除く欧州約20カ国に目録上は約6,800点、確認できているものでは約5,700点があり、その多くがドイツ語圏の博物館等に所蔵されている。欧州にあるアイヌ資料は、江戸時代後期に長崎出島経由で渡ったものもあるが、多くは明治から1930年前後にかけて欧州の国々がそれぞれに収集したものだ。
欧州の国境線が現在のような姿で確定したのはそれほど昔のことではない。私が生まれた後だけを取り上げても、ソ連の崩壊、ドイツ統一、ユーゴスラビアの分裂、といったものがあり、さらに過去100年まで遡っても2回の世界大戦とそれに伴う変動がある。日本で日本人として暮らしているとあまり意識することもないのだが、「最後の授業」のような風景というのは、欧州では身近なことと感じる人が多いのではないかと思う。要するに、欧州の歴史というのは戦争の歴史と言っても過言ではないような時代があったということだ。そうしたなかで、人間のあるべき姿として、自然と一体となり平和に暮らす「高貴なる野蛮人」を標榜するかのような考え方もあったようだ。例えば「啓蒙主義の時代」というものがある。17世紀後半にイギリスで起こり、18世紀に主流となってフランス革命にも影響を与えたと言われる。そのなかで理想郷として考えられたのがアイヌの社会であったというのである。やがて19世紀の帝国主義時代を迎える。欧州列強が世界中に植民地を持つようになり、自ずと自らを頂点とする思考を持つに至る。欧州世界が地球上で最も文明の進んだ地域であり、他は劣っている野蛮な世界なので、支配して教化してやらねばならない、ということだ。ユーラシア大陸にしても、もともとはコーカソイドが広く分布していたのに、野蛮なモンゴロイドに侵略を受け、アジアを放棄せざるをなくなってしまったが、気の毒なことにアイヌが極東に取り残されてしまった、という考え方があったのだそうだ。つまり、当時の欧州の人々はアイヌをコーカソイド、白人だと思っていたらしい。
そうしたなかで、1823年6月、シーボルトが長崎出島のオランダ商館の医師として来日する。彼は出島の中で開業するとともに、出島の外で鳴滝塾を開き日本人医師などに蘭学の教育を行う。オランダ商館長の江戸参勤にも同行し、その道中に日本の自然を観察、江戸では北方探査を行った最上徳内や高橋景保などと交流を持つ。そうしたなかで、アイヌ資料も入手して、欧州へ送っている。一方で、当時はロシアの流刑地だった樺太に流されてきた政治犯などのなかにアイヌ研究を行うものも現れていた。やがて19世紀後半に日本が開国をすると、アイヌ資料も活発に欧州へ渡るようになる。
1867年のパリ万国博覧会では日本も幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展する。このとき、幕府の展示のなかにアイヌ資料もあったというのである。アイヌ資料の展示はこの後の万博の日本展示の定番となる。それは、日本側が見せたいと考えたというよりも、万博運営側から働きかけがあったのではないかとの説もあるらしい。そうなると、学術研究だけではなく骨董商もアイヌ資料の収集に乗り出すようになる。
つまり、欧州の人々にとっては、自分たちとルーツを共にする人々が極東の僻地で生き延びていて、野蛮ながらも平和で高貴に暮らしていた、という幻想を抱いて研究をしていたようなのである。
研究が進めば、アイヌがコーカソイドであるという説が怪しくなる。それとともに欧州でのアイヌに対する関心は薄らいでいくのである。第二次大戦後は欧州でアイヌの研究は行われなくなり、殆どの資料は退蔵され、資料の存在そのものが忘れ去られていくことになる。1980年代になって、ボン大学の研究チームが欧州の博物館にあるアイヌ資料の所在調査を行い、その量の膨大さに日本の研究者が驚愕するということになったのだそうだ。
自分が何者であるか、というようなことは逆境にあるときほど強く意識されるものなのではないだろうか。現実を厳しいものと感じるときほど、あるべき自分は高貴で美しいはずだと思いたくなるものなのではないだろうか。例えば、欧州列強が産業革命から重商主義、帝国主義の時代を迎え、世界中に植民地を持ち、繁栄を謳歌していたとき、極東の少数民族に興味を寄せる感覚には、勿論、世界の隅々まで支配しようという意図もあっただろう。しかし、啓蒙主義の時代に芽吹いた、人としてのあるべき姿を思い描いた思考の歴史が、その後の物質的繁栄の影でも依然として続いていたのではないだろうか。おそらく、人の欲望は無限だ。そのときどきで富とされるものを手段を尽くして手に入れ、他人のものをも収奪し、これ以上はないというところまでいったとしても、満足はできないものなのである。世に大小様々な争い事が絶えないというのは、結局のところは満足できない欲望の深さの所為だろう。わかっていてもやめられない、でも、足るを知り高貴な生活を送っている人が現実に存在しているとしたら、それはとてつもない大発見になるかもしれない。物質的繁栄を目指して人と人とが、国と国とが、鎬を削っているなかで、まったく異質の価値観に生きる人々が存在しているとすれば、それこそが求めるべき理想郷かもしれない、と考えることに不思議はないだろう。尤も、そういうところにこそ富が秘蔵されていると睨んで侵略の対象とすることにも不思議はないのだが。