熊本熊的日常

日常生活についての雑記

地縁血縁

2018年08月31日 | Weblog

宿は甲突川の近くにあり、対岸が加治屋町だ。ここは明治維新前後に活躍した人々が生まれ育った地域で、そうした土地と人物の歴史を展示説明する鹿児島市維新ふるさと館という施設がある。午前中はこのふるさと館を見学したり、周辺を散策して過ごす。西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、などなど日本の近代史に必ず登場する人物たちが同じ町内の出身なのである。郷士教育という薩摩藩独特の人材育成システムがあったにせよ、権力中枢を担う人物が同一地域の出身者に集中するというのは、異様だ。しかし、それを異様と思うのは自分が薩摩の外の人間であるからで、そこに生まれ育った人にとっては当然と感じるのかもしれない。当然と思うなら、薩摩という土地が日本そのものであると認識しても不思議はないだろう。では、今はどうなのだろう?もちろん、人によって違うだろうが、この土地の一般的感情として鹿児島は他所とは違うという意識が強いのだろうか?

昼頃に駅前に集合してバスでしょうぶ学園へ。ここが今回の民藝夏期学校の会場である。何の予備知識もないままに、ここに来た。障がい者施設は珍しいものではないが、かといって自分には何の具体的知識とか体験といったものがない。小学生の頃、「特殊学級」と呼ばれるクラスがあり、そこに少し様子の違う子供たちがいたということはあった。小学5年のときだったか、そのクラスが無くなり、他の学校か施設に転校した子もいたが、一般の学級に編入した子もいた。記憶にあるのはH君のことで、隣のクラスではあったが、新設校で児童数が少ないこともあり、学校の委員会活動や児童会の活動といった学級を超えた児童間の交流もあり、多少の接点があった。昨今何かと話題のいわゆる「いじめ」があったかどうか、それは本人や周囲の感じ方の問題でもあるので、あったとも言えるし無かったとも言えると思う。私の認識としては、H君は「いじめ」には遭っていない。いじめるには問題が多すぎて、その前にあれこれみんなで面倒を見ないといけないという感じだったと思う。「いじめ」に遭っていたのはU君やY君で、H君は素朴に面白がってその「いじめ」の側に立ったり、素朴に正義感を発揮して「いじめ」を阻止する行動に出てみたり、ちょっと超然とした存在だった。みんな今頃どうしているかな?

しょうぶ学園に入所していたり通所したりする人たちは、H君よりもたいへんな感じがした。図工の時間にH君がどんなものを作っていたのかということについては全く記憶がない。しょうぶ学園の人たちは、専門のスタッフの支援があるとはいえ、陶芸、木工、紙製品、刺繍、布製品、絵画、園芸、その他様々な生産活動に従事している。今日はその作業風景を一通り見学させていただいた。どのような意識で作業に従事しているのかは、それこそ人それぞれだと思う。一心不乱に手を動かしている人もいるし、我々見学者に自分の作品を誇らしげに見せてくれる人もいる。そこに精緻さとか職人芸的な形式美のようなものは感じられないが、自分の生活のなかに取り入れてしっくりきそうな感じは受ける。人の手の仕事は自分と世界とを自然につなぐような気がする。人の手が作ったものを使ったり消費したりすると、そのことがとても自然に自分のなかに取り込まれるような感覚を覚える。料理はその典型だし、生活の道具類なども手仕事のものはその場の雰囲気を好ましい方へ変化させるような気がする。しょうぶ学園の人たちが作ったものは、誰かに強制されて作ったり、自己を主張するために作ったりしたものではなく、作ることが自然であるように作ったものなので、使う人が安心できるのではないだろうか。

 

 


鹿児島

2018年08月30日 | Weblog

初めて鹿児島を訪れた。台風の時期に台風の通り道のようなところに出かけるのもなんだが、参加したい行事があるのでこうなった。その行事は明日からだが、せっかくの機会なので前日に出かけて街歩きをすることにしたのである。街とは言いながら、知人の勧めがあって桜島を訪れた。

空港からバスで鹿児島中央駅に着いたのが昼前。予約しておいた駅に近い宿に荷物を預け、駅構内にある観光案内所で桜島への行き方を尋ねる。教えられた通り、路線バスでフェリー埠頭へ行き、フェリーに乗船する。路線バスもフェリーも市営だ。しかも、フェリーは終日運行している。最初、観光振興策の一環かと思ったが、桜島が活火山であることを思えば当然の行政だ。火山活動に朝も夜も関係ない。島の交通手段を常に可能な限り確保してしかるべきだ。尤も、フェリーの様子はそんな緊張したものではない。15分程度の間隔で発着している船にちらほらと車と人間が乗り、15分程度の船旅をする。のんびりしたものだ。

島のフェリー発着所は工事中だが、既に建屋の方は完成して小綺麗になっている。ここのカフェでちょっとしたランチセットも頂けるので、今日の昼食はここにする。ランチセットはチキンバーガーかカレーライスだ。カレーライスの方を注文する。カレーライスは黒米を使い、ご飯を島にカレーを海に見立てた盛り付けだ。ご飯の山は桜島なのだろう。その上に大きなサツマイモのチップが乗っている。噴煙のつもりか、今日のような雲に覆われいる様子なのか。

暑いのであまりうろうろせずにフェリー埠頭の周囲を散策するだけにする。まずは月讀神社に参拝。8世紀初頭に創設されたとされているが、そもそもの場所は噴火で埋まり、現在の位置へは昭和15年に移設されたそうだ。鳥居も社も見た目には新しく、戦後に建てられたもののように見える。人の出入りはけっこうあって、私たちが境内に滞在していた20分ほどの間に観光と思しき人たちが何人も参拝に訪れた。このところあちこちの寺社仏閣を訪れているが、寺に比べると神社はなんとなしに陰気な雰囲気のところが多い印象を受ける。明治神宮だとか春日大社だとか華やいだところもあるのだが、街角の小さな神社は社だけで宮司が常駐していない所為もあるのかもしれないが、素直に柏手を打ちにくい雰囲気を醸しているところが多い。月讀神社は宮司が常駐する桜島最大の神社であり、陰気というようなことはない。

神社を後にして、ビジターセンターを目指す。国民宿舎の敷地を抜けてすぐのところにある。桜島の成り立ちのようなことがわかりやすく展示されている。外が暑い所為もあって、ここではゆっくりとひとつひとつの展示を見る。それにしても活火山の麓で暮らすというのはどういうことなのだろう。生まれ育った土地への愛着なのか、何か他に理由があるのか。土地というものと切り離されて生きてきた自分には想像がつかない。展示のなかには噴火で被害を受け、島を離れることにした一家が積もった火山灰を押しのけるように生えた草木を目にして、島に残ることにしたという物語を漫画で表現したものがあった。話としては美しいが自分にとっては説得力がいまひとつの感が否めない。

ビジターセンターから海側に出ると足湯のできる公園のような場所がある。足湯場は観光客で賑わっているが、殆どが外国の人のようだ。フェリーにも外国からと思しき人の姿が目立った。世間では「インバウンド」という言葉が飛び交っているが、そのうち「インバウンド」抜きに経済が成り立たないようになるのだろう。土地の人とか他所の人というような区別が意味を成さないようになるのかもしれない。

ビジターセンターの近くに地元生協のスーパーがある。店内を覗いてみるとこの土地ならではの商品がたくさん並んでいて眺めているだけで楽しい。鹿児島に行ったら是非食べてみようと思っていたものがいくつもある。例えば落語の「鹿政談」ではマクラに各地の名物の話をすることがある。そこにしばしば登場するのが鹿児島の薩摩揚だ。いまどきは世界中のものがネット注文で簡単に手に入る。しかし、その土地のあたりまえに旨いものをその土地であたりまえに食してみたいではないか。このスーパーにも地元メーカーの薩摩揚がたくさん並んでいる。地魚ではなんといってもキビナゴだ。もちろん東京の料理屋でも刺身だろうが天ぷらだろうが普通に食べることはできる。その土地のものをその土地の人が食べるようにして食べてみたいではないか。そうでなければ遠くまで来た甲斐がない。

そのスーパーの近くに道の駅がある。どのようなものが並んでいるのか素朴に興味があって覗いてみる。西郷隆盛の肖像をモチーフにしたTシャツとか、切干の桜島大根、ヒジキなどを購入する。

フェリーとバスを乗り継いで鹿児島中央駅前に戻る。駅前にあるイオンの大型店の食品売り場を覗いてみる。さすがに商品は全国区のものが圧倒的だが、冷菓売り場に「むじゃき」の「しろくま」が何種類も並んでいる。たぶん酒類の品揃えも鹿児島仕様なのだろう。店を出て、ひとまず宿にチェックイン。

宿は素泊まりプランなので、夜は天文館のほうへ食事にでかける。飲食店がたくさん並んでいるので何の不自由もないのだが、宿の部屋にあった「地元の味」の飲食店に「正調薩摩料理」という看板の店があったのでそこを目指す。予約を入れなかったが、午後6時前ということもあり、なんなく入店できた。「基本のコース」というものと店の人が進める焼酎をいただいた。どの料理もたいへん美味しいが、印象に残ったのは揚げたての薩摩揚だ。薩摩揚だけ追加でいただく。

 


読書月記2018年8月

2018年08月29日 | Weblog

小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 第一巻〜第二巻』岩波文庫

寺田寅彦といえば「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉。科学者であり夏目漱石に師事した文筆家でもある。昔は今ほどに物事が細分化されていなかったこともあるのかもしれないし、寺田の才能がもの凄かったのかもしれないし、あるいは全く違う理由で広く活躍したのかもしれない。寺田が生きたのは1878年から1935年。いつの時代の人が書いたものも、大きな違いはないように感じられる。心ある人が何を好ましいものと思うのか、どのようなことに心痛めるのか、そういう価値観が時代を超えてこうして今あたりまえに文庫本という手軽なメディアで伝えられるのは何よりの証左だろう。

人の考えることというのは数百年程度のオーダーで変わるものではないとの思いは「徒然草」や「エセー」を読んだ時に覚えたことなので、それよりも手前の作品である本書の読後感で特筆されることではない。むしろ、今自分が目にしているあれこれの100年近く前の姿に興味を覚える。例えば百貨店の商品券についての記述がある。

正面の階段の上り口の左側に商品切手を売るところがある。ここはいつでも人が込み合っていて数百円のを持って行く人もあれば数十円のを数十枚買って行く人もある。そうかと思うと一円のを一枚いばって買って行く人もある。ともかくもここは人間の好意が不思議な天秤にかけられて、まず金に換算され、次に切手に両替される、現代の文化が発明した最も巧妙な機関がすえられてある。この切手を試みに人に送ると、反響のように速やかに、反響のように弱められて返ってくる。田舎から出て来た自分の母は「東京の人に物を贈ると、まるで狐を打つように返してくるよ」といって驚いた。これに関する例のP君の説はやはりやはり変わっている。「切手は好意の代表物である。しかしその好意というのは、かなり多くの場合に、自己の虚栄心を満足するために相手の虚栄心を傷つけるという事になる。それで敵から砲弾を見舞われて黙っていられないのと同様に、侮辱に対して侮辱を贈り返すのである。速射砲や機関銃が必要であると同様に、切手は最も必要な利器である。」いかにもP君の言いそうな事ではあるが、もしやこれがいくぶんでも真実だとしたら、それはなんという情けない事実だろう。(第一巻 131頁 「丸善と三越」 )

物事を単一の尺度で表現するというのは本来的に無理な事だろう。液体の計量にはその容量に着目してリットルだとかccだとかで計ることもあれば重量で計ることもある。温度なら摂氏だとか華氏で計るだろうし、速さなら時速だとかbpsだとかだ。確かに数字というはっきりとしたもので表すというのは万人に伝えやすいかもしれない。しかし、それはあくまで便宜だろう。例え同じものの同じ計測でも、それをどのように受けとめるかというのは受け手側の事情による。「台風ン号が時速20キロでナントカ島の西100kmのあたりを北北東に進んでいる」という時、それが速いのかそうでもないのかということは自分とその台風との関わりによって違う。そもそも係数化できることというのは、その程度のことでしかない。人の暮らしには単純に計ることのできないことの方が圧倒的に多いものだ。だからこそ、人には知恵が必要なのである。数字に換算して安心しているような知能というのはものの数ではない。世の中がかつてに比べて暮らしやすくなっているのかいないのか知らないが、「情けない事実」が蔓延しているようだと暮らしにくいと感じるのではないか。

二巻読んで付箋を入れたところは他にもあったのだが、読み直してみると特にどうというほどのこともなかった。上に引用したところにしても、わかりきったことなのだが、なんとなく書いてしまった。