何が妙かと言えば、登場人物が善人ばかりなのである。小さな島の集落内での物語なので、互いに人となりや日常生活のあれこれについてよく知った仲であることが、ひとりひとりの行動に規制をかけているという面は、確かにあるだろう。しかし、人はそれほど単純ではなく、限られた中にあってさえ、多種多様な様相を見せるのが自然なのではないだろうか。ここに登場する人たちは、思考や行動が一貫し過ぎているように感じられるのである。
そして妙であることの最大の点は、出来過ぎた結論だ。あまりに出来過ぎていて、そこにかえって不穏なことの影のようなものが見え隠れしていると読んでしまうのは私だけだろうか。「嵐の前の静けさ」というが、この幸福感に満ちた物語のなかに、思わず不幸の種を探してしまう。それは、この作品を書いた作家のその後を知っているが故の先入観かもしれないし、作品自体の純粋さに対して自然に覚える違和感の所為かもしれない。なにより最後の段落が妙に意味ありげに思われるのである。
「少女の目には矜りがうかんだ。自分の写真が新治を守ったと考えたのである。しかしそのとき若者は眉を聳やかした。彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知っていた。」(新潮文庫 133刷 188頁)
このような単純に純粋な物語こそ、読者がそれぞれの経験や思考の習慣に応じて全く異質の想いを抱くのではないだろうか。素直にこの物語を受け容れることが出来ないのは、私のいかなる経験や思考に起因するのだろうか。読み終えたとき、呆気なさを感じると同時に、そう感じる自分の過去を検証してみたくなった。
5月28日付の本ブログで取り上げた「『こころ』は本当に名作か」という本のなかで、小谷野は「潮騒」を「通俗小説」という一言で片付けている。そして「通俗」になるのは、三島が男女の恋というものを実感をもって感じることができなかったからだとしている。確かに、恋愛小説のように見えながら、「潮騒」には男女がいない。しかし、それは「ダフニスとクロエ」をなぞるということによる制約の故かもしれないし、恋愛小説の形をとりながらも、現代絵画の幾何学模様のようなものを描こうとしたのかもしれないではないか。物事に評価を下し、自分にとっては価値を感じないものを切り捨ててしまうのは、あらゆるものを抱え込んで生きていくことのできない我々にとっては自然な営みではある。ただ、捨ててしまいながらも、なぜか気になるというようなものもあるだろう。尤も、私がこの作品を切り捨ててしまうことができないのは、私がそれだけ「通俗的」である所為かもしれない。