熊本熊的日常

日常生活についての雑記

年度末

2010年03月31日 | Weblog
今日は住処のマンションで引っ越す人があった。マンションと言っても、家主が自宅の一部を賃貸しているような部屋で、賄なしの下宿のようなものだ。この時期は引越しが多いので、近所でも引越し風景を目にすることがある。私の部屋のベランダから見える隣のマンションの部屋は昨年夏頃に空いて、以来ずっと空き家のままだ。出て行く人の姿は見かけても入居してくる人の姿はあまり見かけないように思う。

他人様の部屋を借りて住んでいながら、自分の持っているワンルームを人に貸してもいる。いわゆる投資用マンションなのだが、その賃料の入金が今月はとうとう無かった。借り手は東亜管財という会社なのだが、ここもやり繰りがたいへんなのだろう。私がそのワンルームを購入した数年前は西新宿の高層ビルのなかに立派なオフィスを構えていたが、今は会社の規模を当時よりも縮小して、オフィスも小さなビルに引っ越している。家賃の入金は毎月決まった日にあったのだが、昨年後半から月内に入金されてはいたが、日が遅れ気味になっていた。今年に入って1月と2月はもとに戻ったので安堵していたのだが、3月は息切れがしたらしい。2月に同じ企業グループの販売部門の人と話をしたときに、かなり厳しい状況であるようなことを聞いた。

今まさに寒の戻りのような日が続いているが、自転車操業のような暮らしをしていると頭痛の種が尽きることがない。少しずつ寒さが緩んで春が近いと感じていると、このように寒くなってしまう。それでも季節は巡って花が咲くのだから、どうにもならないことを心配してもはじまらない。それにしても、桜は満開よりも今ぐらいの感じのほうが美しいと思う。花が終わって葉桜になった姿もよいと思う。なぜか満開には哀しみを感じてしまう。

四面楚歌

2010年03月29日 | Weblog
愛用のデジタルカメラの電源が入らなくなってしまった。それで、メーカーの修理窓口へ持参して見てもらうことにした。それが今日、修理を終えて手許に戻ってきた。修理内容はメインのプリント基板の交換であった。

カメラに限らず、近頃の電気製品は故障すると、故障の箇所は特定できてもそれを修理することができず、部品を丸々交換するに至ることが多い。先日、携帯電話が通話やメールの途中で電源が落ちるようになってしまったが、これはドコモショップに持っていったら電話機そのものの交換になった。電気製品の内部の機構部品の割合が減って電子部品の割合が増えているということなのだろう。要するに、基板に実装されている半導体やそれらの結合体としての部材が増えており、これらは内部が微細に過ぎて不具合が生じた場合には交換以外に対応のしようが無いということなのだ。

この電子部品の発達によって我々の生活は確かに便利になった。携帯電話などその最たる例だろう。携帯電話というものが登場した頃は、本体がショルダーバッグのようになっていて、しかも重かった。バッテリーはすぐに消耗するので、実際に携帯して使うにはかなり無理があり、自動車電話のように電源が確保されている移動体に付属させて使用されることが多かった。値段も通話料も高額だったので誰もが保有できるものではなく、法人需要が中心だった。それがあれよあれよという間に小さくなり、機能も増え、通話品質も安定し、誰もがひとつやふたつは所有するのが当たり前のものになった。この背景には部品の微細化というものが当然にある。

家電製品も「おまかせ」機能がついているのが当たり前になったのも、機能を特化させたコンピューターを搭載しているからだ。製品全体のデザインに影響を与えずに機能を強化できるのは、そうした電子部品が微細になったからである。

なるほど電子機器が微細になって身の回りのものが便利になるのはけっこうなことである。しかし、微細になるということは肉眼では見えない仕組みを備えているということでもある。最先端の半導体のなかの回路を構成しているのは幅数十ナノメートルの導線だ。「ナノメートル」という単位のものなど、人間の手作業でどうこうなるわけもない。ちなみに、人間の頭髪断面の直径は80ミクロン前後だそうだ。1ミクロンは1,000ナノメーターなので、頭髪断面の直径をナノメーターで表現すれば8万ナノメータ。昔「ミクロ決死隊」という映画があったが、もはやミクロの世界はSFにすらならないのである。

つまり、我々が普段使うものは、その仕組みがよくわからないものばかりになっているのである。勿論、仕組みなど知らなくても使い方さえ知っていれば不自由は無い。ただ、わけのわからぬものをわかったようなつもりになって使うという習慣がついてしまうのは危険なことのように思う。生活を支える道具類が利用者にとってのブラックボックスの塊のようになり、それが利用者の思い通りに動くのなら問題はない。しかし、形あるもの必ず壊れるというのは、依然として普遍性を失わない原理原則のひとつである。そのブラックボックスが壊れて利用者の意図に反した動作をするようになったとき、我々は適切に対応できるのだろうか。

電源を入れるという動作をしたのに、その機器に電源がはいらない、というのは、デジタルカメラなら然したる不都合はないが、例えば病院で患者の治療に使う機器であったり、非常時に動作しなければならない安全装置であったりした場合には、大いに問題があるだろう。一時期問題になっていたプリウスに関する騒動も根は同じことだろう。科学技術の発達を否定するつもりは毛頭無いが、ふと気がつけば自分の生活がわけのわからない機器類に振り回されているというのは怖いことだと思う。

一坪の国

2010年03月28日 | Weblog

子供と一緒に小林賢太郎のライブ「POTSUNEN 「SPOT」」を観てきた。印象的だったのは、最後の「一坪の国」だった。ライブ全体の要のようなもので、全体を総括する位置づけのものだったが、そのなかで語られていた国というものが、個人と国との関係を謂い得ていたように感じられた。ひとりひとりの人間にとって、その人が属する国はその人そのものであるということだ。

例えばオリンピックのとき、テレビの前で日本人選手が出場している競技を観ている「日本人」は、そこに自分を見ているのではないだろうか。だからこそ、その選手の成績が我が事のように感じられるのだろう。「日本」という自分の帰属先の共同体を共有しているというだけで、テレビ映像のなかの「日本人」選手と「日本人」たる自分とが「日本」を通じて一体化されるのである。「国」とは「自分」なのである。

人間に限らず、生物は自他を識別して生きている。自分の安全を図り、他者の排除を図り、自己の世界を形成する。そこに感情や理屈はない。機械的に自他を区別する。時として自己と識別すべきものを他者として排除を図るという過誤を犯すこともある。人体の細胞レベルでそうしたことが発生すれば、それは要するに病気ということだ。免疫系の不全状態ということになるだろう。人間の集団のなかでそうした事態が発生すれば、その集団の規模によって、「喧嘩」「抗争」「紛争」「戦争」などいろいろな呼び方をされる。同じ国の国民どうしであっても、目先の利害の対立のほうが当事者にとって身近な問題であれば、その瞬間は日本という共同体は意識の外に置かれてしまう。「自分」というのはアメーバーのように、その時々の状況に合わせて拡大したり縮小したりするものだ。

ところが、世の中には日本のように単純に「国」と称することのできる国というのは殆どない。国境はめまぐるしく変化し、国民の構成も一定ではないという国のほうが多数派であろう。その不確定な状況が世界に平和が一瞬たりとも訪れない要因のひとつではないかと思う。

2月27日付のこのブログにブルガリアのこと書いた。「ブルガリア」とは「ブルガール人の国」という意味だそうだが、「ブルガール人」というトルコ系の遊牧民はもういない。他の民族と混血してしまい純粋のブルガール人というのは存在しないというのである。では、ブルガリアに住んでいるのは何者なのか。トルコ系の住民とスラブ系住民が中心で他にギリシア系住民もいるという。つまり、宗教はイスラム教もキリスト教もあり、言語はスラブ語系で、料理はトルコ系というような具合なのだそうだ。そこに民族としての統一性も無ければ共有する文化もないだろう。第二次世界大戦後にソ連の衛星国となるまでは王国で、王家はドイツ系だという。それでもそうした人々がブルガリアというひとつの国を形成している。

アメリカは移民国家で、イギリスは正式な国名を「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)」という。ちなみに現在の英国王室であるウィンザー家はドイツ系で、そのドイツも正式国名は「Bundesrepublik Deutschland(ドイツ連邦共和国)」で、つまりは小さな国の連邦だ。

「日本人」として日本で暮らしていると意識することは殆どないのだが、自分と自分が属する国家を当然の如くに重ね合わせて考えることができる人というのは、世界ではかなり少数派なのではなかろうか。幸か不幸か、日本はその起源がよくわからない。一応、記紀に基づいて紀元前660年2月11日に神武天皇が即位した日を建国としているが、それは神話の世界の話なのか事実なのか、今となっては確かめようがない。国の起源が不明瞭ということは、それだけ社会が安定しているということでもある。国民としてのアイデンティティが確固としているので、それを改めて確認しあう必要がないということだ。日本は明治時代になって漸く外国との本格的な付き合いが始まった。ということは19世紀後半までは「国民」とか「日本人」という概念も無かったはずだ。なぜなら、他人を知らずに自分というものは存在し得ないからだ。

結局、「国」とか「国民」というのは、異質の国や国民と対面した状況下で形成される、そこで暮らす人々の「自分」の最大公約数のような便宜的なまとまりとでも言うようなものではないか。世界の人や物の流れが活発になって、世界が地理的にも心理的にも小さなものに感じられるようになったとしても、現在に至る歴史や文化を共有していない人々と同じ共同体に帰属しているという感覚を持つことは難しいだろう。国というものは、結局のところ、個人が自己と重ね合わせることができる程度の大きさ以上にはならないということでもあると思う。グローバルという言葉の持つ空々しい響きもこのあたりに由来するのだろう。


「ハート・ロッカー」(原題:The hurt locker)

2010年03月27日 | Weblog
さて、これは所謂「戦争」なのか。アメリカの兵士たちは誰と戦っているのか。この戦いに勝ち負けがあるものなのか。勝ち負けが無いとすれば、いつ終わるのか。

物語の舞台は2004年のバグダッドで、主人公は米国陸軍の爆発物処理班のひとつ。爆発物が仕掛けられているとの情報を基に当該爆発物を探し出して無力化するのが彼等の任務である。バグダッドに何故米軍が駐留しているのかと言えば、2003年3月に米国が当時のイラク大統領であるフセイン大統領と主要閣僚の国外退去を求めてイラクに対して攻撃を開始し、同年5月に国連安保理で米国と英国によるイラクの統治権限が承認されたからである。つまり、米国はイラクの治安維持に関して責任があったということだ。では爆弾はどのような目的で誰によって仕掛けられていたのだろうか。

多少時代を遡れば、2001年9月の同時多発テロに注目しないわけにはいかない。この犯人グループがイスラム教の過激派組織のひとつであるタリバンに属しているとされるのである。そのタリバンを支援しているのがイラクやアフガニスタンであり、しかもイラクは大量破壊兵器を保有している疑いがある、ということだった。しかし、イラクから大量破壊兵器は発見されていない。欧米諸国に対してテロ攻撃を続けるイスラム過激派勢力は、この作品の舞台となっている2004年以降も一向に駆逐される気配はなく、今もテロ攻撃は続いている。

爆弾テロは、その爆発の現場にいる人々を無差別に殺傷する。特定の殺傷目標があるのではなく、テロそのものが目的と言える。一般市民の生活の場であるところで爆弾が爆発すれば、そこにいる駐留軍関係者も死傷するだろうが、軍とは無関係の市民も死傷する。単純に国連対イラクというような図式で事態を見ることはできないということだ。では、何のためにテロが行われるのか。それが少なくとも日本で見聞する報道からは見えてこない。

そして冒頭の問いに戻るのである。今、イラクで起こっているのは「戦争」なのか。駐留している米軍は誰と何のために戦っているのか。

JR東日本への提言

2010年03月24日 | Weblog
昨日の夜、山手線目白駅付近で架線障害が発生し、現場を通りかかった埼京線の列車が立ち往生して、その電車に乗っていた乗客が1時間半に亘って車内に放置されたのだそうだ。帰宅時間帯で混雑した通勤列車が乗客を乗せたまま1時間半放置されるというのは異常なことだと思うのだが、おとなしく電車の中で1時間半耐えていた人たちも驚異的な精神の持ち主だと思う。私なら30分ほどで我慢できなくなって非常コックを開いて外に出てしまったことだろう。

毎日のように障害が発生しているというのに、そうした非常事態に対してなすすべも無く乗客を車両のなかに放置する神経は人間とは思えない。一体何のために運転手や車掌が乗務しているのだろうか。技術的には無人の鉄道運行システムというのは可能だろう。ゆりかもめや日暮里舎人ライナーは無人で運行されている。地下鉄大江戸線は運転席に乗務員がいるが彼は運転しているわけではなく、駅でのドアの開閉と運行監視をしているだけである。リニアモーターカーは速すぎて運転手の技能ではどうにも管理できないので無人運行となるそうだ。無人まではいかないが、私鉄や地下鉄でもワンマン運転の線区が増えている。

それでは何故乗務員が存在しているかと言えば、雇用確保と組合対策ということなのだろう。表向きは安全確保なのだろうが、非常時に機能しない乗務員に安全確保は不可能だ。乗務員の立場からすれば、指令からの指示を待っていたら結果的に乗客を1時間半も車内に放置することになってしまったということなのだろうが、指示無しに動けない人間を人間とは呼べまい。指令は現場を知らないのである。現場の状況を把握しているのは現場にいる乗務員だ。その乗務員が成す術もなく1時間半も無為に過ごしているようでは、安全の確保など望むべくもない。結局、非常時には自分の身は自分で守るしかないということが今回の件で証明されたようなものだ。それならば、乗務員とは何のために存在しているのだろうか。まさかドアの開閉だけのため、車両の発進と停止のためだけ、ということではあるまい。

ここで、毎日のように運行障害が発生している状況下で遅延を無くす現実的な方法を提案したい。「遅延」というのは何らかの基準があって、その基準に対して遅れるということである。従って、遅延を無くすには基準を無くせばよいのである。つまり、ダイヤを非公開とするのである。列車が運行されているかいないか、という情報だけを利用客に与え、それ以外の情報は開示しないことにするのである。そうすれば遅延という状況は成立しなくなる。現にロンドンの地下鉄では時刻表というものを見たことがない。どこ行きの列車が何分後に到着するという情報がパネルに表示されるだけで、他には障害が発生しているのかいないのか、ということくらいしかわからない。それでも、社会が地下鉄はそういうものだと認知してしまえばそれで通用するのである。

列車が何時来るのかわからないとなると、乗客としては乗り遅れを回避しようという動機が強くなるだろう。当然、今以上に駆け込み乗車が増え、それが障害の原因となる。そこで、逆に駆け込みを奨励するというのはどうだろう。現在は「危険ですから駆け込まないでください」という誰も聞いていないと思われるアナウンスが習慣的に流れている。習慣だから風景の一部と化して人々の耳に入らないのである。時刻表を非開示として、
「次の電車は何時になるかわかりませんので、決死の覚悟で現在停車中の電車をご利用ください」
とかなんとか言うのである。車掌だって人間なのだから、そこはなんとかうまいことを毎回考えて欲しい。運輸関係の仕事というのは痴呆になりやすいもののひとつだそうだ。毎日のアナウンスを工夫するというのは脳の刺激にもなって本人の健康増進にもつながる。そして発車のサイン音は運動会の徒競走の時に流れる音楽にする。電車が着く度にホームの上は高揚した気分で満ち溢れるのである。緊張感が高まるから、かえって駆け込みに伴う事故は減少するかもしれない。できれば、陸上競技場のように改札からホームまでコースが引かれているとよい。自動改札も扉を大きくして、開閉時に競馬場のゲートが開閉するときの「ガッシャッ」という効果音が出るようにすると気分がより高まるだろう。乗客は改札を抜ける度に「よしっ、やるぞ」という気分になるのである。そうなれば、毎日が楽しくなって良いのではないか。構内放送も工夫したほうがよい。電車が着いてドアが開くと
「各車両から一斉に降車が始まりました。先頭は5号車から降りた黒い服の女性、おっと最後尾から降りた男性が猛烈な勢いで中央階段へ向かっています…」
といった具合になるのである。ホーム上の誰もがアナウンスに注意を払うようになるだろう。利用客に駅の構内放送に注意を払うという習慣が定着すれば、非常時の場合にも駅職員から乗客への連絡がスムーズに伝えられるようになることだろう。さらに、人々の気分が高揚すれば、景気にもプラスになるのではないか。鉄道職員にとっても利用客にとっても良いこと尽くめだ。こういうのを妙案と言うのである。

学徒出陣

2010年03月23日 | Weblog

自分の出身大学の卒業式に招かれた。火曜日は陶芸教室のある日なのだが、偶然にも今日は休講だったので、早起きをして出かけてきた。

卒業式というと、少なくとも自分が大学を卒業した頃は晴れがましい気分が漂っていたように記憶している。確かに、今日も晴れがましいことに変りはない。少し早めに会場に着いたので、最寄り駅近くのファーストフード店で時間をつぶそうと思ったら、誰しも考えることは同じらしく、どの店も混雑している。混雑していても和やかな雰囲気で、少しも嫌な感じが無い。駅から会場に至る道は出席者で埋め尽くされ、遠くから眺めると人の頭で黒い波がうねっているようだ。それがぞろぞろと会場に吸い込まれていく。

会場内は区画割がなされているらしく、前のほうから順序良く埋まっていく。私のような招待客の席は2階後方なので会場全体の様子がよくわかる。式は定刻通りに始まり、淡々と進行する。式が始まって多少は静かになったものの、私語が絶えることはなく、学生は前を向いて座っているはずなのに横顔や正面が見えていたりする。これをどうみるかは人それぞれだろうが、式の進行の妨げになるほどの状況ではないので、私としては許容範囲内ではないかと思う。7,000人近い若者が集まっているのだから、それが水を打ったように静まるほうがむしろ異様なことのように思う。

このように平和な卒業式風景なのだが、式辞の内容は、たとえわかりきっていることであっても、やはり衝撃的だった。話の中核は高齢化ということだった。日本は2009年に65歳以上の人口が全体の22.8%となり、既に世界に例を見ない高齢化となっていて、それが2013年には25%を超え、2025年に30%、2055年には40%に達するのだそうだ。今まで誰も経験したことのない爺様婆様ばかりの社会に向かって目の前の若者は旅立つのである。

高齢化の問題点を改めて指摘するまでもないが、端的に言ってしまえば、ものの役に立たない奴ばかりの社会になるということだ。一方で、生きている限りは生活物資が必要になる。必要な財やサービスを得るには対価が必要になる。ものの役に立たないということは生活に必要なものを手当てするための対価を持ち合わせないということだ。年金制度は現状のままでは破綻するのは明らかで、要するに死ぬまで自分で食い扶持を稼がなければならないということなのである。それができればそれに越したことはないのだが、年齢を重ねれば健康を損なうのは自然なことで、社会として高齢者の生存に対する義務を放棄するということでもない限り、労働人口世代に高齢者の生存に関する負担が求められることになる。自分で生計を立てるというのは今でさえ容易なことではない。新興国の成長や地球規模での人口増大のなかで、日本の産業の競争力が維持できるとは思えない。国民経済を支える人も産業も無いなかで、この国はどのようにして存続できるのだろうか。

第二次大戦後、所謂「バブル崩壊」に至るまで、日本経済を牽引してきたのは製造業である。消費者の側から見れば安価で満足度の高い財貨を、生産者の側から見れば比較的利益率の高い財貨を大量に供給することで日本経済は成長を遂げた。経済が成長すれば国民の生活水準が向上する。それは生活コストが増大するということでもある。コストが増大するということはそれを賄う賃金も増加しなければ経済が成り立たない。結果として、日本製品は、かつて世界の消費者にとっては価値であったところの「安価」なものではなくなってしまう。消費者が同程度の満足度を得るものをはるかに安く新興国の企業が供給するようになれば、日本企業の存在価値は失われる。だからバブル崩壊後の20年ほどの間に多くの日本企業やブランドが姿を消したのである。

昨日の同窓会では、ある学友と日経平均が5,000円くらいになるという話をしたのだが、具体的な水準はともかくとしても、この国の経済を支える産業が見当たらないのは確かなことだろう。国家財政の破綻は時間の問題となっており、生産人口が急速に減少するなかでは、よほど効率的に付加価値を創造できる産業をいくつも持たない限り、国民経済の維持は困難だ。

今日の卒業生は、そういう社会に放り出されるのである。かつて学徒出陣として学業半ばで戦地に送り出された学生たちには、敵国を倒すという明確な目標があった。今日、社会に出ていく若者にはそういう明確な対象が無い。目には見えないけれど確実に崩壊を続ける社会のなかで、自分の生計というものを立てなければならない。とりあえずは大きな企業組織に籍を得て目先の生活の目処は立ったと思っているかもしれない。それはあくまで目先のことに過ぎない。その企業もどうなるのかわからないのだから。

なにはともあれ、卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。

※ 卒業式の最後のほうで校歌斉唱があり、招待客も起立して歌うのだが、歌が始まった途端、ものすごい口臭が漂ってきて気分が悪くなったので、途中で退席してしまった。年齢を重ねると、ただでさえ見た目が薄汚くなるのだから、若い頃以上に身だしなみに気をつけるのは当然だが、身体の外見以上に中身に対しても注意を払いたいものである。


選手交代

2010年03月20日 | Weblog
普段持ち歩いているカメラが何の前触れも無く故障してしまった。電源が入らなくなってしまったのである。たまたま近日中に写真を撮らなくてはいけない用があり、急遽、新たにカメラを買うことにした。買うとすれば今持っているカメラの後継機種と決めていたので、ざっとネットで値段を調べてアマゾンで買うことにした。

カメラについては少しこだわりがある。その条件を列挙すれば以下のようなことだ。
1 コンパクトであること
2 レンズ性能が優れていること
3 シャッターを切ってから画像が取り込まれるまでの時間が短いこと
4 手に馴染む重さであること
5 デザインがシンプルであること

候補としてはシグマのDPシリーズとかオリンパスのPENなども考えたが、店頭で実機をさわってみて、いずれもシャッターを切るときの感触がしっくりとこなかった。ライカも考えたのだが、店頭で見る以前に、ウエッブで価格を見て即却下となった。結局使い慣れているものの後継機であるリコーのGR Digital IIIに落ち着いた。現在使用中の初代機とは見た目は同じようだが、レンズが大きくなり明るくなっているのと、シャッターが軽くなっているのが使用感として顕著に認識できる違いである。

昨年8月2日付のブログ「物欲」の中で書いた通り、この製品についてはメーカー主催の説明会に出席して実物を知っていたので、ネットで価格比較をして、業者の信頼性も勘案してアマゾンを選んだ。以前だったら、これほど慎重に選ぶということはなかったが、安い買い物ではないのと、所得が低いという、出費に慎重にならざるを得ない状況があって、今回の買い物は決断までの準備が長かった。あれこれ考えるというのは良い習慣だ。

行列のできるなんとか

2010年03月18日 | Weblog
長谷川等伯展を観ようと思って出かけてみたら、案の定、行列ができていて待ち時間が約70分だという。行列に並ぶということができない性分なので、そこはあっさりと諦めて東京都美術館で開催中のボルゲーゼ美術館展と上野の森美術館のVOCA展を観てきた。

いつも不思議に思うのだが、行列ができる美術展は会場の中に入ると、それほど苦もなく鑑賞できる。勿論、そのために入場規制をして行列ができているのはわかっている。通常、美術展は4部あるいは5部構成というように小テーマ毎にいくつかの区画を設けてある。入場するのに行列ができるものでも、混雑しているのは最初の区画だけで、途中の休憩用の椅子があるあたりを境に観客が顕著に少なくなる。このことが示しているのは、そこに展示されているものが好きで見に来ている人は、実は必ずしも多くはないということだ。「有名だから」「テレビで紹介されていたから」という謂わば名声の確認に来ているだけということなのだろう。極端なことを謂えば行列に並ぶだけで来場の目的はほぼ達しているのである。

極端な例では「モナ・リザ」が来日したとき、会期中の入場者が151万人で歴代の最高らしいが、当時の行列の空中写真を見ると、行列それ自体がひとつの作品のようにも見えるほどだ。それ以前、「ミロのビーナス」が西美に来たときは、83万人の入場者を記録し、日によっては7時間待ちということもあったそうだ。「モナ・リザ」も「ビーナス」もルーブルの所蔵だが、当然ながら、ルーブルでは行列はできない。「モナ・リザ」の前にはかなりの人だかりが常にあるのだが、人の回転が速いので特に待つというほどのこともなく観ることができるし、「ビーナス」なら後ろから前から十二分に堪能できる。

ちなみに、ここ1年以上更新を怠っているサイトがあり、そちらに「モナ・リザ」前の風景の写真を付けている。
http://web.mac.com/nmatch/iWeb/Site1/Blog/B7FE9F26-6079-11DD-9094-00112471E3E4.html

美術展に限らず、身近に行列は数多い。食べ物関係に多いという印象があるが、ラーメン店とかクリスピー・クリームなども、何故行列ができるのか理解できない。「行列のできる店」などと華々しくメディアに取り上げられていた店が閉店に追い込まれたりするのを見聞すると、世の無常というか無情というか、空虚を感じたりもする。新宿のクリスピー・クリームの前にいまだに行列ができているのを目にすると、もし、このままこの人気が衰えなければ21世紀の世界の七不思議として世界中の注目を浴びるようになるのではないかとすら思うこともある。開店直後であるとか何らかのイベントといったもの無しに、店頭にこれほどの客を引きつけているクリスピー・クリームの店舗は同社が展開している世界13カ国の中でもここだけではないだろうか。少なくともロンドンではクリスピー・クリームの店頭に行列ができているのを見たことがない。

閉店に追い込まれた「行列のできる店」は、作っているものが顕著に変化して、その結果として客足が遠のいたというわけではないだろう。新宿サザンテラスのクリスピー・クリームに並ぶ人は、ロンドンのホルボーンで行列のないクリスピー・クリームを見つけたからといって嬉々としてあのドーナツを頬張るだろうか。同じものが異なる文脈のなかで全く違った評価を受けるのは、世の中が関係性というつかみどころの無いもので成り立っていることの証左だろう。それが必ずしも行列に並んでまで体験するほどのものではなく、行列に並ぶことで自分が社会の中に在るということを確認する作業なのではないかと思う。

「海の沈黙」(原題:le Silence de la mer)

2010年03月17日 | Weblog
この作品のようなものは「抵抗文学」と呼ばれるのだそうだ。平和な時代に身を置いて観るには饒舌過ぎるが、このような作品を敢えて作る必要の無い状況に生きることを幸運と捉えるべきかもしれない。

原作はドイツ占領下のフランスで1941年に書かれたもので、映画は1947年に公開されている。ドイツに対するフランス民衆の抵抗を鼓舞すべく書かれたものなので、政治色が強く、その分だけ作品のありようが饒舌で深みに欠けるうらみが無いわけではない。ただ、権力に抵抗するということ、さらに普遍化した言い方をすれば物事を成すということの方法に唯一無二ということはない、ということを気付かせてくれる作品だと思う。そして、沈黙もまた言葉であるということ、言葉とは何かということも考えさせられる。

物語の舞台はドイツ占領下のフランスの地方都市。語り手である「私」と姪がふたりで暮らしている少し大きな屋敷の空き部屋が占領軍によって接収される。その部屋に住むことになったのがドイツ軍の将校だ。一つ屋根の下で3人の暮らしが始まるが、「私」と姪は将校に対して一切口をきかない。将校はフランス語が堪能で、なにかと「私」たちに話しかけてくるが、「私」たちは彼の存在を無視し続ける。将校は、フランス語に堪能であることから示唆されているように、フランスに対して好意的な姿勢を持っている。個人的にはフランスとドイツとの融和を図りたいと考えている。3人の暮らしが始まって半年ほど経ったある日、将校はパリにある占領軍司令部へ出張する。そこでの議論はフランス文化を崩壊させてドイツ化させるというものだった。具体的には占領軍に対する抵抗勢力を強制収容所に収容して抹殺してしまうというようなことである。自軍のそうした占領政策に幻滅した将校は自ら転属を願い出て前線に赴くことにする。3人の暮らしに終止符が打たれることになった最後の夜、将校は「私」たちに転属の理由を語る。相変わらず沈黙を守るふたりだが、その将校の姿勢に同情とも共感ともいえる感情が芽生えてくる。最後の最後、将校とふたりの間にその半年間で唯一の会話ともいえない会話が交わされる。その一言の重さ、空しさ、行間の深さ、様々な思いが作品の最後に溢れ出てくる。何事かを語ることの困難を思い知らされる作品だ。

過去しか見ない

2010年03月15日 | Weblog
職場の若い人と話をしていて、景気の行方についての話題になった。ここ2年くらいはシクリカルに回復するのだろうが、それも知れたものだろうというような話である。その会話のなかで、将来を見るときに中国圏の同僚はありえないような強気の予想を出してくる、というようなことを20代の彼が言うのである。ふと、彼が経済成長というものを経験していないことに気がついた。

今の社会の最前線にいる30歳前後の世代は、物心付いた頃に円高不況、その後、バブル景気があったが、それよりはるかに長期化したバブル崩壊の不況下で思春期を送り、成人する頃に申し訳程度のITバブルがあったが、それも弾けた後の停滞のなかで就職期を迎え、社会人としての生活に慣れてきた頃にはリーマンショックなのである。こういう世代に属する人たちにとって、将来が今よりも明るい状況になっているということが想像しにくいのは自然なことなのかもしれない。

アエラの3月15日号に掲載されていた養老孟司のコラムに面白いことが書かれている。長くなるが引用させていただく。

(以下引用)
…、私が大きな変化だと思うのは、インターネットによって若い人が「過去」しか見なくなったということである。
 インターネットの中にあるものは、全部過去である。誰かのつぶやきは過ぎ去ったことへの感想だし、たとえ未来の予測を立てたとしても、それを述べた時点で「過去にそんな意見があった」に過ぎない。ウェブを検索するのは完全なる前例主義に則った行為だ。…
 若い人には「未来」がないという。当たり前である。インターネットには過去しかないのだから。これだけ大勢の人が過去に浸りきっているのは、有史以来初ではないか。
 新しいものは真っ暗闇の先にある。いまやそんなものに誰も見向きもしない時代になった。それこそが情報化社会の本質である。
(以上引用 出所:「養老孟司の大脳博物館 もう過去しか見ない時代」Asahi Shimbun Weekly AERA 2010.3.15)

そういうこともあるのかなと思いながら読んだ。街を歩けば多くの人が携帯型の情報端末を操作している姿を目にする。機会に恵まれれば、そっと覗かせてもらうことにしているのだが、たいがいはゲームに興じている。それにしても、その気になりさえすれば、所謂「情報」にはいつでもどこでも触れることができる。しかし、その先が無いように思う。人は経験を超えて発想することができない。「情報」という謂わば他人の経験の断片ばかりを目の当たりにしているけれど、自分の手で何かをしたという経験の乏しい人が増殖しているのではないだろうか。新聞の見出しを並べただけのような話しかできないのに、得意になって他人や社会を批判するような人は身の回りにも少なくないし、確かに自分で行動を起こして失敗するよりは評論家的態度に徹しているほうが「ほんとはすごいんだぞ、ワタシ」という自己幻想を傷つけなくて済む。余計なことをして無用な打撃を被るよりは、過去という安定した状況に安住していたほうが、それで済むなら、楽である。

冒頭の20代の同僚の話は、中国圏の同僚が「ありえないような強気」の予想を語るのは彼等の物事の見方が甘いからだ、という結論に至るのである。繰り返しになってしまうが、そういう結論に至るのは、おそらく20代の彼が「強気」の見通しを素直に語ることのできるような個人的経験をしていないからだろう。中国圏の彼の同僚が「強気」の見通しを持つのは、それが彼等にとって自然なことだからに過ぎないのではないか。東京であれ中国圏の某都市であれ、「情報化」ということにおいては同じ状況だろう。その「情報」という膨大な過去の上に立って何を見るのか。そこにその人や社会が置かれた文脈というものがあるのだろう。

東京だよおっかさん

2010年03月14日 | Weblog
春休みで名古屋にいる従兄弟の子供が私の実家に遊びに来ている。テレビ番組で紹介されていた六本木のミッドタウンにある店に行きたいというので、私が案内することになった。

「東京」と言って何を思い浮かべるのかは、勿論、人それぞれだろうが、何がしかのステレオタイプのようなものはあるのだろう。東京に長年暮らしていると、どこであろうと日常風景の一部でしかないので、何の接点もない相手に特定の場所を薦めるということは困難だ。1月に別の従兄弟の子供が来たときには、浅草を歩きたいと言われたのでそのようにした。今回はミッドタウンにあるその飲食店以外は何も手がかりがない。

かなり古いが「東京だよおっかさん」という歌謡曲の歌詞で取り上げられているのは、二重橋、九段坂、浅草の3箇所である。この曲が発売されたのは昭和32年。おそらく、戦争の傷がまだ癒えたとは言えない状況であったろう。歌詞の2番にある九段坂というのは靖国神社のことを指している。「やさしかった兄さん」が九段坂の「桜の下でさぞかしまつだろう」というのである。兄は戦死して靖国に祀られているということだ。多くの人々が悲しみを抱えながらも日々の生活のため、生き残った自分や家族の未来のために必死で生きている、その心の支えを歌ったものだろう。二重橋は皇居、九段坂は靖国神社、浅草は観音様、いずれも宗教の聖地のような場所である。この歌がヒットしたということは、日本人の間に東京が単なる機能としての首都ではなく、心の拠り所としての中心地であるということをも意味していると思う。また、おそらくこの歌詞が原因でかなり最近までNHKがこの曲の2番を放送禁止にしていたという話も聞いたことがある。この曲は150万枚のセールスを記録し、昭和32年の紅白歌合戦への初出場につながるのだが、何故か紅白で歌ったのは「逢いたいなァあの人に」。

さて、従兄弟の子供のほうだが、結局、六本木から銀座へ抜けてお茶を濁した。銀座を歩くは久しぶりだったが、妙に薄汚い街に成り果てたものだとがっかりしてしまった。

フランク・ブラングィン

2010年03月13日 | Weblog
本展を知るまでこの作家のことを何も知らなかった。ロンドンで暮らしていたとき、毎週のように美術館に通っていたが、彼の作品は全く印象に残っていなかった。英国人作家なので収蔵されているとすればTATE Britainなのだが、本展の出品目録を見ると、作品の所蔵先は西美と東博を除くとロンドンではウイリアム・モリス・ギャラリーが多く、次いでRAである。生まれ故郷であるベルギーの美術館に収蔵されている作品も多い。残念なことに主だった作品は松方幸次郎が購入後に保管していた収蔵庫の火災で焼失してしまったのだという。本展の副題にある「伝説の英国人画家」の「伝説」の理由にはそうした事情で失われた作品が多いということも含まれているのだろう。RAの常設にあれば、何度か目にしているはずなのだが、RAの常設会場そのものに関する印象が薄く、ましてや個別の作品に関する記憶は無い。ウイリアム・モリス・ギャラリーには一度だけ訪れたことがあるのだが、生憎その日が閉館日で建物の外観しか知らない。このことは2008年12月29日付の本ブログ「モリスのこと」のなかで触れている。手許にある2009年2月号の「芸術新潮」には松方コレクションの由来に関連してブラングィンについても言及されているが、ここで紹介されている彼の作品は松方を描いた肖像画と松方が構想していた美術館の外観図しかない。尤も、彼のことを知っていたとしても、おそらく注目していなかったように思う。

しかし、こうしてまとまった数のブラングィンの作品を鑑賞すると惹かれるものもある。チケットやチラシに使われている「りんご搾り」や「蹄鉄工」、「パンを焼く男たち」それに「造船」などを観ると、労働に対する敬意のようなものが感じられるのだが、それは彼がウイリアム・モリスの工房で働いていたことと関係があるのかもしれない。モリスの思想については小論集「民衆の芸術」が岩波文庫にあるのでここでは触れないが、所謂ヒューマニズムを基調にした考え方である。おそらくブラングィンもそうした影響を受けているからこそ、彼の描く人物は一介の労働者も海賊もどことなく愛おしく見えるのではないだろうか。

海賊といえば、「海賊バッカニア」の色彩が印象的だ。ロンドンにいた頃、TATE Britainで観た「Modern Painters」という企画展を思い出した。20世紀初頭の英国人画家たちの作品展だったが、ここに並んでいた作品も色彩にこだわって描かれたように感じられるものが多かった。色彩といえば、「白鳥」も素晴らしい作品だと思う。本展のチラシに「海賊バッカニア」と「白鳥」が並んで載っているが、こうして眺めると、全く異なるモチーフなのに構図が似ているように感じられて面白い。展示会場では「海賊バッカニア」と「海の葬送」が並んでいるのだが、この対比も面白い。同じ作家とは思えないくらい視線の違いを感じる。

ブラングィンは画家としての教育は受けておらず、ウイリアム・モリスの工房での勤務や独学を通じて絵画を学んだという。芸術というものが教育によって習得できるものなのかどうかはさておき、彼の仕事は絵を描くことにとどまらず、カーペットや家具などインテリアのデザイン、陶磁器のデザイン、建築の構想、など幅広い。陶磁器はロイヤル・ドルトンが彼の作品を扱っているが、彼の名前が出ているのは極めて限られたシリーズだけで、今となってはどれが彼の手になるものかわからないものが殆どだそうだ。このあたりに陶磁器というものの西洋における位置づけを見て取ることができる。陶磁器は基本的に工業製品であり、そこに作家の仕事を見出すという姿勢がなかったということである。この点は日本に陶磁器をもたらした中国も同じで、日本において歴史の早い段階から陶芸が芸術として扱われていたのとは対照的だ。勿論、現在は芸術としての陶芸は世界的に認知されているが、アーツ・アンド・クラフト運動下のイギリスにおいてすらも、陶磁器が生活用具でしかなかったというのは興味深いことである。

初めて鑑賞した作家であった所為もあるのだろうが、期待していた以上に楽しい展覧会だったので、会期中にあと何回か足を運んでみようと思っている。

ホワイトデーでチョコレート

2010年03月12日 | Weblog
ホワイトデーで職場の人たちに配るチョコレートを谷中のイナムラショウゾウで買った。よほど経済的な余裕があるとか、食べ歩きを趣味にしているというようなことがなければ、こういうところでチョコレートを買ったりしないのではないかと思うのは私が貧乏人だからかもしれない。例えば虎屋の羊羹とか、こういう店のスウィーツといったものは頂いて食べるものであって、自ら買うものではない、というより自ら買えないものだという思考の習慣が染み付いている。困ったものだ。

それで良い機会なので、自分用にも同じパッケージを購入して食べてみた。これが衝撃的な味だった。もちろん、チョコレートであることには違いないのだが、創造的な味なのである。例えば、茅場町のみかわで天ぷらを食べたときに、天ぷらのおいしさというものを改めて発見する。そういう類の創造性と言ったら理解してもらえるだろうか。チョコレートというものにはこういう可能性があるのだということを発見した喜びを感じる味なのである。6個入りの箱なので、まだ全部は食べていないが、「谷中」というのは特に印象的だ。夕焼けだんだんをイメージして作ったと説明書きにあるが、たぶん、この店でしか出会えないような味だと思う。既にブランドが確立して本来の味が失われているような所謂「高級チョコレート」とは明確に一線を画していて、茶会の席に出してもよいと思われるような逸品だと思う。

この店のことを知ったのは2003年か2004年頃のことだったと思う。仕事関係の研修で、鶯谷へ来る用があり、その時に職場の人たちから研修の帰りにイナムラショウゾウのモンブランとロールケーキを買ってくるようにと頼まれたのである。既に注文してあるので代金を支払って商品を受け取ってくるだけでいいから、と言われ、注文に使ったファックス原稿と代金を預かって研修の帰りに商品を受け取りに行った。午後5時近い時間だったが、店の前には行列があった。これに並ぶのかと思ったら、事前に注文をしている人は列に並ばずに店に入ればよいことがわかり安堵した。職場に戻ってモンブランを頂いたとき、その濃厚な味わいに驚いた。以来、数えるほどではあるが、何度かここのケーキを楽しませていただいている。去年だったか一昨年だったか、新たにショコラティエが開店した。谷中墓地がJRの鶯谷と日暮里の間に広がっているが、ケーキ店は谷中墓地を挟んで鶯谷側にあり、今日訪れたショコラティエは日暮里側にある。

縁あって、谷中でお茶を習うようになり、そのショコラティエの前を月に一度通る。先日は子供と国立博物館へ行く途中、夕焼けだんだんの上にあるインド料理店で昼を食べ、このショコラティエで食後のホットチョコレートをいただいてから出かけた。ただ、これまで固形のチョコレートはいただいたことがなかったので、ホワイトデーを機に味見をしてみた次第なのである。

なお、この店はクレジットカードが使えない。自分のささやかな経験に照らせば、クレジットカードが使えない店のほうが良い仕事をしていることが多いように感じられる。

「パレード」

2010年03月11日 | Weblog
映画の予告編のなかの「彼らを待ち受ける、衝撃の結末」というコピーが気になって、観に出かけてきた。確かに最後の場面の微妙な不気味さ加減というのは、いかにも「衝撃の結末」だ。全く違う話だが、そのラストシーンの雰囲気と「ゆれる」の最後の場面での兄ちゃんの微妙な笑顔がなんとなく重なって感じられた。それは「怖い」という形容がふさわしいのかもしれないが、映画や小説でしか体験できないような怖さではなく、日々の生活のなかで折に触れてふと感じるあたりまえの怖さとでも呼べるようなものだと思う。

ついでに「衝撃の結末」が映画を観終わった後も気になって、映画館からの帰り道に書店に寄って原作本を購入して読んだ。文字のほうが空想の余地が大きい所為か、最後のほうの「衝撃」場面までくると確かに引っ掛かるものを感じ、思わずそこから最初に戻って読み直してしまう。読み直してみると、結末に至る伏線がなんとはなしに浮かんでくる。それが伏線なのか、私が勝手にそう思うだけなのか、そのあたりのあやふや感もまた、この物語の流れの上に浮かんでいるようで、心地よい不安感を覚える。心地よいのは、目の前にしているのが現実ではなくて小説だということを明確に意識しているからで、もしこれが現実なら、やはり本来的な意味としての「衝撃」を感じるかもしれない。

ところで、この本を読んで最初に感じる衝撃の内容というのは、夜道を車で走っているときに、何やら衝撃を感じて思わず車を止めた、というような類の「衝撃」、あるいは料理をしていて、少しだけ目をはなした隙に鍋が吹きこぼれていた、というような類のもの、と言ってもよいかもしれない。その時点まで何事もなかったと認識していたのに、実は何事かが静かに進行していて、それがカタストロフィックに露見したときに感じる動揺である。

そして改めて読み直してみたり、映画の場面展開を思い返してみたりすると、なぜ彼が、と考えてしまう。しかし、そこに大きな違和感を覚えることもない。そもそも犯罪に動機は必要なのだろうか。犯罪被害者にとっては酷なようだが、身も蓋もない言い方をしてしまえば、世の中は不条理だ。現実の世界で事件が起こればマスメディアは動機とその背後の物語を想像するのに忙しく動きまわるようだが、熟慮の末の犯行もあれば反射運動のような犯行もある。世に様々な法律があり、莫大な予算を使って国家として警察組織を運営し、それでも足りずに民間の警備会社がいくつもあるのは、そうしたものがないと治安が維持できないからだ。それほど人間というのは邪悪にできているということだろう。善意や理性と呼ばれる理を否定するわけではないが、人間が生き物である限り、生存欲求というものがあり、自我というものがある。自我があれば、自我と対立するものが当然にあるわけで、社会には殺気が満ちている、というのも一面の真理だろう。

個人どうしが諍いを起こし、時に殺し合い、社会集団間でも同様に紛争があり、国家間でも戦争がある。誰とでも円満な関係を持っている人などおそらく皆無だろうし、他国との間に係争案件を抱えていない国というものは存在しないだろう。対立が絶えないのは、欲求の有無云々の他に、思考や行動の論理を共有できていないということもあるだろう。論理は言語によって構成されるが、携帯電話やネットの普及で大きく変貌しているように感じられる。総じて単純化の方向にあるように思うのだが、それがこれから人々の行動原理にどのような影響を与えるのか与えないのか、かなり注目している。

社会、あるいは人と人との関わりということについて「上辺だけの付き合い」というのがこの作品でのキーワードのひとつであるように思う。「上辺」というからには、深いものがあるということが前提なのだろうが、果たして関係性に上辺だの深いだのという違いがあるのだろうか。また、「上辺」と「深い」関係という考え方の背後には「本当の自分」などという幻想があるようにも思う。「自分」に本当も嘘もあるのだろうか。「自分」というのは「他人」が存在して初めて成立する。つまり、「自分」というのは関係性のなかで与えられるものだと思う。関係の強弱が「上辺」だとか「深い」といった感覚をもたらすのだろうが、それとても常に強かったり弱かったりするものではあるまい。不定形の関係のなかで「自分」もまた掴みどころなく変化し続けるものだろう。それこそ映画や小説のなかの言葉で言うところのmulti-verse的に同時並行して展開するのが「自分」という感覚だと思うのである。「自分」は関係性のなかのあらゆる場所にいるけれど、結局どこにもいないのだ。

あけくれの夢

2010年03月08日 | Weblog
出光美術館の特別講座「文学でやさしく読みとく、日本のやきもの」を受講した。文学とやきものとの関係について興味深い話だったが、一際印象に残ったのは、乾山の自作に関するマーケティングである。初めて知ったことなのだが、乾山は完全受注生産だったというのである。しかも、ひとりひとりの客を熟知していたという。

乾山に代表される京焼ブランドは、当時の武家が抱いていた都の文化への憧憬を背景に、時の新興陶磁器であった伊万里に対抗する形で登場したというのである。

伊万里のほうは、海外市場までも視野に置いた大量生産なので、当然に個々の顧客というものへの意識は希薄である。その時々の市場の流行を反映し、売れそうなデザインのものを大量に生産して商流に乗せるという見込み生産の商売だ。大量生産なのでコストは安くなる。人目を引く派手なデザイン、あるいは当時の先進地域である中国の風を感じさせるようなデザインで、市場を席巻するようになったという。

京焼はそうした伊万里へのアンチテーゼでもあったのだろう。使い手である知識階級の人々の教養や好みを知り、そうした人々の美意識を刺激するようなものを目指したということだ。その教養の基礎となるのが、和歌や漢籍であり、能楽であり、要するに文学であった。やきものを通して作り手と使い手が心を通わせたという、単なる商品流通を超えた、それ自体が文学とでも言えるような世界がそこにあったのである。やきものの意匠は単なる装飾ではなく、作り手と使い手との間の何百もの文通にも相当するような深い意味や想いが込められている。

自分が陶芸だの茶道だのと齧り回っている背景には、実はそういう類の豊かさを志向した人間関係を構築できないかという問題意識がある。もう老い先も見えてきたので、最後くらいは少し実があると感じられるようなことをしてみたいのである。

尤も、そんな乾山も自分が盛んにした京焼の世界には満足できなかったようで、このブログのなかで何度か引用している歌を残して孤独死している。

うきことも うれしき折も 過ぎぬれば
ただあけくれの 夢ばかりなる

結局最後に至るのはこのような境地なのであろう。だからこそ、何事か自分の思い描くことを実現して、いくばくかの実の感触を求めつつ、夢心地のまま最期を迎えてみたい。