熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年6月

2019年06月30日 | Weblog

網野善彦『「日本」とは何か』講談社学術文庫

「日本」とは。かなり当然のこととして我々は自分を「日本人」と認識し、自分の生活の場を「日本」という国だと認識しているのではないか。さすがに「建国記念の日」はどうなのかとは思うものの、「国」の存在を疑う人は少ないだろう。しかし、誰一人として、その確たる源を知らない。旧家で家系図だとか過去帳があり先祖を遡ることができる、という人もいるだろう。疑い出せばきりがないのだが、データというものは創ることができる。人口の増加を見れば一目瞭然だ。10年、100年、1000年、と辿っていけば現在の1億2千万という人口はどんどん減っていく。つまり、日本列島の外から渡ってきた人々も当然にいるにせよ、人口の単位は億から万、千、百、と小さくなっていくのである。今でこそ大名の末裔というと由緒正しい家柄のように聞こえるかもしれないが、戦国大名は悉く成り上がりだ。それをつまらぬ幻想をネタに人を見下してみたり、差別してみたりするのは、己の愚を公表しているようなものだろう。

我々は、自分がなぜ今ここにいるのか、誰も知らない。自分が何者であるかを知らないから他者から承認されたいのである。自我なるものを発散してみたいのである。不安なのだ。互いの不安を舐め合う関係性の総体が「国」なのだろう。そして、「国」というものが確たる存在であると意識するとしないとに係わらず思い込むのである。「共同幻想」などという言葉もある。幻想でもいいから、自己の根っ子として確たる存在を希求するのである。

我々は、「自然」のなかで「命」を得て、日々諸々のことを思い悩んだり、喜んだり、悲しんだり、怒ったりしながら「生きている」と思って「自分」を生きている。本当はすべてが夢のようなものの中のことであって、誰もいないのかもしれない、何もないのかもしれない。「自己」とか「国」とか「日本」とか、全ては幻のようなものなのかもしれない。

 

網野善彦『古文書返却の旅 戦後史学史の一齣』中公新書

網野つながりでの一冊。終戦からそれほど経ていな時期に当時の水産庁が漁村文書を収集・整理して資料館をつくる計画があったという。そのために日本各地の漁村から古文書が集められたが、資料館計画は立ち消えとなり、借り受けた資料は返却されずに放置されることになる。それを返却する作業が筆者らに託された。その顛末の一部が本書の根幹である。当初、数か月で返却することを約束して借りたものが何年何十年と経ってしまうが、その返却作業を通じてそれぞれの土地の変貌を著者が目の当たりにする。その変化に日本の社会全体の変化の何事かが現れている、というところが非常に興味深い。