子供と会うときは美術館に行くことが多い。自分が行きたいのでつき合わせているだけなのだが、嫌がらないので、これまでのところは行き先は私が決めている。今日はサントリー美術館で開催中の「おもてなしの美 宴のしつらい」を観に出かけた。
ひとりで美術館に行くときもそうなのだが、腹ごしらえをしてから出かけることにしている。今日は国立新美術館の中にあるレストランで昼食をいただいた。国立新美術館には何度も足を運んでいるが、このレストランに入るのは今回が初めてだ。何時見ても客で賑わっていて気にはなっていた。
店に入って、まず、座席配置の密度の高さに驚かされる。美術館の内部の施設なので、食事が主たる目的ではなく、美術館を訪れた人の空腹を満たすという目的で設置されたのだろう。それにしてもテーブルは必要最小限の大きさしかなく、それらが建売住宅のように並んでいる。案内されたテーブルの両側は、いかにもデートの途中という感じの男女だった。席が近いので会話がよく聞こえる。ふたりの時間を楽しもうと思うなら、こういう店を選ぶべきではない。しかし、おかげで私たち親子には、その後の会話のネタができて良かった。親子のような親しい間柄なら、過酷な環境でもそれを嗤って過ごすことができるが、そうでないと、このような「とっとと食って、さっさと出てくれ」といわんばかりの店で食事をするのは辛い。テーブルクロスはお粗末なのにナプキンは木綿製でご丁寧なことに店のロゴをあしらった刺繍まで施されている。このあたりのバランス感覚の悪さというのはコンテンポラリーアートのようでもある。
もう午後1時を回っていたので、1日限定70食のランチセットは売り切れていて、プリフィクスのコースで注文することになった。メニューにはしばしば意味不明の言葉が並んでいるのだが、そういうものはひとつひとつ店の人に尋ねることにしている。店によっては、店員がそうした質問に答えることができないこともあるが、ここの店員は面倒臭そうであったけれど、すらすらと答えてくれた。このあたりの店員との会話の間合いも妙に不愉快だ。
極めつけは料理である。コストパフォーマンスは良くはない。その上、別料金でなんとかという有名なバターを注文することができる。パンは当然にコースに含まれているが、バターは別料金というのは決して珍しいものではない。が、そのバターが包装されたまま出てきたのには驚いた。まるで学校給食のマーガリンのようだ。いくら有名なバターでも冷蔵庫から出してそのまま客席へ直行というのでは、そのバター本来の味が出ないだろう。何事も物事には最適な環境というものがある。バターにしても程好い温度とか粘度といったものがあるはずだ。それをつけるパンも、どこかの高級スーパーで売っているような味だ。「高級」であってもスーパーは所詮スーパーでしかないということだ。
有名な料理人がプロデュースした店らしいが、これほど客をなめた店に入るのは久しぶりのような気がする。
食事を終えてサントリー美術館へ向かう道すがら、子供に
「それにしても酷い店だったなぁ」
と言うと
「みんなバイトなんだからしょうがないじゃない」
ときた。思わず、
「えっ、バイトなの?」
と尋ねると
「そういうもんなんじゃないの?ああいうところは。」
まだ私の半分も人生を生きていないのに、世の中の骨組みのところはよく理解しているらしい。友達とカラオケに遊びに行くときは、そのカラオケで飲食物を注文するのではなく、友達どうしで調達しあったクーポン券などを利用してマックやコンビニで飲食物を調達して持ち込むのだそうだ。カラオケだのマックだのコンビニだのという、バイトが支える社会にどっぷり浸かって生活しているので、バイト社会に対する嗅覚が発達しているのだろう。
ひとりで美術館に行くときもそうなのだが、腹ごしらえをしてから出かけることにしている。今日は国立新美術館の中にあるレストランで昼食をいただいた。国立新美術館には何度も足を運んでいるが、このレストランに入るのは今回が初めてだ。何時見ても客で賑わっていて気にはなっていた。
店に入って、まず、座席配置の密度の高さに驚かされる。美術館の内部の施設なので、食事が主たる目的ではなく、美術館を訪れた人の空腹を満たすという目的で設置されたのだろう。それにしてもテーブルは必要最小限の大きさしかなく、それらが建売住宅のように並んでいる。案内されたテーブルの両側は、いかにもデートの途中という感じの男女だった。席が近いので会話がよく聞こえる。ふたりの時間を楽しもうと思うなら、こういう店を選ぶべきではない。しかし、おかげで私たち親子には、その後の会話のネタができて良かった。親子のような親しい間柄なら、過酷な環境でもそれを嗤って過ごすことができるが、そうでないと、このような「とっとと食って、さっさと出てくれ」といわんばかりの店で食事をするのは辛い。テーブルクロスはお粗末なのにナプキンは木綿製でご丁寧なことに店のロゴをあしらった刺繍まで施されている。このあたりのバランス感覚の悪さというのはコンテンポラリーアートのようでもある。
もう午後1時を回っていたので、1日限定70食のランチセットは売り切れていて、プリフィクスのコースで注文することになった。メニューにはしばしば意味不明の言葉が並んでいるのだが、そういうものはひとつひとつ店の人に尋ねることにしている。店によっては、店員がそうした質問に答えることができないこともあるが、ここの店員は面倒臭そうであったけれど、すらすらと答えてくれた。このあたりの店員との会話の間合いも妙に不愉快だ。
極めつけは料理である。コストパフォーマンスは良くはない。その上、別料金でなんとかという有名なバターを注文することができる。パンは当然にコースに含まれているが、バターは別料金というのは決して珍しいものではない。が、そのバターが包装されたまま出てきたのには驚いた。まるで学校給食のマーガリンのようだ。いくら有名なバターでも冷蔵庫から出してそのまま客席へ直行というのでは、そのバター本来の味が出ないだろう。何事も物事には最適な環境というものがある。バターにしても程好い温度とか粘度といったものがあるはずだ。それをつけるパンも、どこかの高級スーパーで売っているような味だ。「高級」であってもスーパーは所詮スーパーでしかないということだ。
有名な料理人がプロデュースした店らしいが、これほど客をなめた店に入るのは久しぶりのような気がする。
食事を終えてサントリー美術館へ向かう道すがら、子供に
「それにしても酷い店だったなぁ」
と言うと
「みんなバイトなんだからしょうがないじゃない」
ときた。思わず、
「えっ、バイトなの?」
と尋ねると
「そういうもんなんじゃないの?ああいうところは。」
まだ私の半分も人生を生きていないのに、世の中の骨組みのところはよく理解しているらしい。友達とカラオケに遊びに行くときは、そのカラオケで飲食物を注文するのではなく、友達どうしで調達しあったクーポン券などを利用してマックやコンビニで飲食物を調達して持ち込むのだそうだ。カラオケだのマックだのコンビニだのという、バイトが支える社会にどっぷり浸かって生活しているので、バイト社会に対する嗅覚が発達しているのだろう。