熊本熊的日常

日常生活についての雑記

夏の香

2010年07月31日 | Weblog
暑いので汗をかく。これは自然なことである。汗をかけば汗臭くなる。これも自然なことである。汗の臭いが好きだという人もいるだろうが、それを不快に思う人もいる。外に出れば、周囲への気配りというのは多少なりともするのが文明というものだ。

実家からの帰り道、埼京線に乗って、席が空いていたので座った。ベンチシートの真ん中あたりである。右側の端に白い半ズボンで素足に白い革靴の30代くらいの男性が腰掛けて携帯をいじっていた。最初は股を少し開き気味にして座っていたのが、足を組んだ。組むというより右脚を左肢に乗せたような形である。途端に妙な臭いが漂ってきた。私と彼との間には2人分くらいの空間があるにもかかわらず、結果として私のほうに近づいた彼の右足付近から強烈な臭気が噴出しているのである。

「うっぐっ」と思いつつそのまま座っていた。次の駅で太った若者が私と素足兄さんの間に座った。少しは防護壁のようになるかもしれないと、期待した。程なくして、デブ兄ちゃんの嗅覚が刺激されたらしく、自分が着ているポロシャツの胸の辺りをつまみあげて自分の胸部の臭いを嗅ぎ始めた。自分も臭いのだろうが、彼の嗅覚を刺激したのが自分の体臭ではないことを確認できたと同時に、その臭いのもとに見当がついたのだろう。座った位置を少し私のほうにずらしてきた。

女性の靴は足を覆う部分が小さいので素足で履いてもそれほど支障はないのだろうが、男性の靴は足をすっぽりと覆うので、そこに足の表面から分泌される諸々が滞留することになる。靴下には様々な役割があるのだが、殊男性に関しては、そうした諸々の吸収も期待されている。吸収されるものがなく、しかも夏の暑い中を歩き、他の季節異常に諸々が多いときに素足で革靴を履いたらどういうことになるかという想像力が働かないということに驚愕せざるを得ない。

埼京線というのは何かと話題の多い路線だが、そうした話題の背景には沿線の文明が希薄であるということもあるのかもしれない。例えば同じようなことが東横線でも経験できるのか、ということだ。東横線といえば、近々、渋谷駅が地下に移り、地下鉄副都心線との相互乗り入れが始まる。東横線沿線住民の間ではこの動きに対して否定的な意見が多いのだそうだ。副都心線には既に西武池袋線と東武東上線が相互乗り入れをしており、そうした路線とつながることで、自分たちが住んでいる地域の資産価値が低下することを懸念しているのだという。そんな馬鹿なことがあるものか、と思うのは私がこれまで所謂「高級住宅街」というものとは無縁の暮らしを送ってきたからで、そうしたしょうも無いことに敏感な人というものは確かにいるのだろう。

そういえば、実家に届いていた私宛の郵便物のなかに、出身高校の広報誌があった。来年から高校の新入生の募集を止め、本格的に中高一貫教育に移行するという記事があった。公立ですら中高一貫校が生れている時勢なので私立ならなおさらのことなのだろう。中高一貫化の理由がいろいろ書いてあったが、結局のところは公立中学の質の低下というものがあるということなのだろう。都内では小学生の7割が私立や国立の中学を受験する、という話を聞いたことがある。東京は私立校が多いので、それだけ選択肢が多い結果として、受験者も多くなるという事情もあるだろうが、公立校を避けたいと思わせるような状況があるのも事実なのではないだろうか。

平和な時代が長く続いた結果として、社会の階層分化が進行するのはよくあることだろう。個々人にとっては、そうした階層に護られることで生活の安定が得られるのかもしれないが、社会としては果たしてそれはよいことなのだろうか。人の生活というのは世界中とつながっている。好むと好まざるとにかかわらず、自分が生れ育った環境とは全く異質の暮らしを送る人々と生活を共有しているのである。そうしたなかで生き抜くには、多様な文化や文明に対する対応力というようなものも当然に必要だろう。階層化によってそうした多様性を経験する機会が少なくなってしまうのは、結果として人の活力を奪ってしまうことになるのではないだろうか。小泉政権が任期満了で終わった後の、安倍、福田、麻生、鳩山のボンボン宰相政権がいずれも短命に終わっているのは、詰まるところは本人の人としての強さに欠けるものがあったから、また、そうした強さを試される経験が首相に就任するまでに十分に蓄積されていなかったからということではないのだろうか。

身体から獣並みの臭気を発する奴と触れ合う機会を忌避するのではなく、そういう輩とも折り合いをつける能力を養うことが生きていく上では重要であるように思う。それにしても臭かった。

銀座にキャバクラ

2010年07月30日 | Weblog
今週はタクシーで帰宅する日が続いている。今日の帰り、運転手との会話のなかで、近頃は夜通し遊ぶような人がめっきりいなくなってしまった、ということが話題になった。銀座の夜もかつてに比べるとすっかり寂びれ、今ではキャバクラまで出現する事態となっているという。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

社会人になって最初の10年くらいは銀座は私にとっては敷居の高いところだった。職場は丸の内や日本橋界隈だったので、夜、仕事を終えた後に上司に連れていってもらうのは、その上司が部長とか課長だと有楽町止まりで、役員だと銀座だった。それも銀座の真ん中ではなくて、少し外れた場所にあって、常連でもない限りは気がつかないような地味な佇まいの店だ。店内に入ると、なんとなく和やかな雰囲気が漂っていて、出される料理も、一見するとどうということのないものなのだが、口に運べば、下ごしらえや調理に並々ならぬこだわりがあるかのような、いかにも料理人が作った料理なのである。もちろん、メニューなどないし、客と店の人との阿吽で事が運ばれる。カウンターで隣の上司の横顔を眺めながら、かっこいいなぁ、と思ったものである。

やがてバブル崩壊後の不況が終わる気配を見せず、ずるずると続いていくと、勤務先は外資に買収されることになり、自分も就業機会を求めて転職を繰り返すことになって今日に至っている。自分の生活も落ち着かないが、世間も似たようなものらしく、銀座も表通りに牛丼チェーンの店舗が出現し、かつて靴屋だったところはユニクロになり、海外からもカジュアルブランドの店が進出し、路地裏にはコインパーキングが虫食いのように点在し、という具合だ。

2005年4月以来夜勤なので、夜に出歩くことは無くなってしまったが、少なくとも街並みを眺める限り、ずいぶん寂しくなったように感じられる。そして、自分が他人からかっこいいと思われる可能性も潰えてしまったようにも感じられる。それもまた寂しいことだ。

Why before how

2010年07月29日 | Weblog
ハンス・コパー展を観てきた。コパーの作品は、製作手法としてはリーの作品と同じで素焼き無しの本焼き一本勝負。シンプルな造形もリーに通じるものがある。しかし、やはり表現というものはその人固有のもので、コパーの作品も一つ一つの要素は陶芸としては特に変わったところのないものでも、ひとつのまとまったものになると、彼固有のものが現れる。ひとつのものが角度を変えることで全く違ったものに見えるというところに彼なりのこだわりがあったように見受けられる。また、実用というよりは鑑賞用のようでもあるが、実用としても違和感が無いような微妙な感じも彼独特の味わいではないかと思う。実用と観賞用の大きな違いは、焼き物が主となることを想定するのか、焼き物が従となってそこに用いられる花や料理が主となることを想定するのかの違い、と言ってもよいだろう。引き立つのか引き立てるのか、役割の違いによって自ずと造形も違ったものになるものだが、そうした境界をあやふやにすることで、そこに深みを見出すことも可能なのだろう。

コパーはロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アーツで講師も務めるが、学生には「どうやって作るかを考える前になぜ作るのかを考えなさい」と指導していたそうだ。戦間期のドイツにユダヤ人として生まれたがゆえに、多感な青年期に生存の危機に晒され、自分が何故生きるのかということを否応なく考えさせられた経験から出た考え方なのかもしれない。単純な造形なのに、見る角度によって違ったものに見える彼の作品に込められているのは、やはり、存在するとはいかなることなのか、という問いのようにも感じられる。

微妙な振動

2010年07月28日 | Weblog
今、木工では時計を作っている。今日は筐体の側板を組み合わせる接合部分の加工とガラスを嵌める溝を切る作業だ。これは、枠となる木に幅2mm深さ5mmの溝を切るのだが、使用する昇降盤の刃の厚さが2mmなので、理屈から言えば、昇降盤の刃やガイドを一度設定してしまえば、それで全ての枠木に同じ溝を切ることができるはずである。

端材の木片を使って、材料を刃に当てるガイドの位置と刃の出方を決める。端材はかなり堅い木だ。位置が決まり、深さも決まり、材料を切る前に端材で改めて切れるはずの溝を確認する。その溝に、やはり端材の2mm厚のガラス板を通してみる。ほぼぴたりなのだが微妙に緩い。そして、位置決めに使った材ほど堅さを感じない材料を切ってみる。するとガラス板はきつくて溝にはまらない。

作業をしていてそれとは感じないのだが、切る材料の堅さによっては材の抵抗に遭って刃のほうが微妙に暴れるのだそうだ。結果として刃の振動分だけ刃の厚さよりも微妙に広い幅の溝になってしまう。刃がさほどの抵抗なく切削できる材ならば振動はそれだけ少なくなり刃の幅に近い幅の溝になる。

この微妙な違いというのが面白いと感じられた。木の堅さというのは種類によって様々だが、それほど違いはないと感じられるようなものの間でも、やはり違いはあるものだし、同じ材であっても、繊維の疎密などによって、刃の受け止めかたに違いがある。

違いというものをどの程度意識するかにもよるのだが、「同じ」ものというのは案外少ないのかもしれない。

暑中見舞い

2010年07月27日 | Weblog
毎日暑いが、夜中の風には秋の気配が感じられるようになった。以前にも書いたかもしれないが、私が今住んでいる部屋は四方に窓があるので、無風で無い限り、必ず風が通っている。その方向は毎日微妙に変化している。北側は浴室や脱衣場などが固まっているところなので、その窓はブラインド式になっていて、普段は多少隙間を設けておく程度にして開放することはないので、こちら側から風が吹き込むようなことはない。主に東側の窓から風が入るか、西側の掃き出しから入るか、によって温度の上がりかたが違うように感じられる。西側から風が吹き込むときはたいてい暑いのだが、今週は西側から吹いても苦になるほどの暑さは感じない。身体が暑さに慣れたということもあるのかもしれないが、梅雨明け後の一週間こそ辛かったものの、土用を境に大気が夏から秋へと移ろい始めたように感じられるのである。

何度か暑中見舞いのことを書いたが、結局、梅雨明け直後に16通発送できた。他にメールで1通だけ出した。メールのほうはさすがにすぐに返信が来るが、はがきで出したほうにも既に2通の返信と1通のメールがあった。今週はそのメールの主と昼食を共にすることになっている。不思議なもので、はがきの返信は2通とも手書きでびっしりと書かれたものだった。

面倒だと思いながらも手書きでせっせと書いたものに、手書きの返信があると、なんとなく文字面以上のものが感じられる。年賀状とか暑中見舞いというのは、もともとは実際に相手のもとに訪れることだったのが、はがきという姿に簡略化されたものだそうだ。誰が考えたのか知らないが、はがきの大きさというのは手に取るのにちょうどよいような気がする。そのはがきの上に綴られている文字を目にすると、それを書いている人の姿が想像される。これなら簡略化されていても挨拶として十分に通用すると、妙に腑に落ちた。

四季の移ろいがあり、そのなかで人の生活も変化する。その節目に縁のある人々と心通わすというのは、自分もその自然の変化のなかに自然とともに生きているということを感じさせる。活字の文章も当然それを書いた人がいるのだが、手書きのほうが書き手の存在をより強く感じるものである。ちょっとしたことなのだが、はがきの往来があるといだけで、日々の雑事に追われがちな生活に花が咲いたような心持になった。

炎天下に池袋・目白

2010年07月26日 | Weblog
昨日は子供と池袋界隈を歩いた。と言っても繁華街嫌いの私が池袋駅周辺を歩くはずは無い。池袋駅構内で待ち合わせ、地下鉄で要町に出る。まずは熊谷守一美術館を訪れる。

10時半の開館時間少し前に着いてしまったが、建物の前にある大きな木が気持ちのよい木陰を設けていてくれて、待つのはそれほど苦にならない。今の時期は常設展で、3階の貸ギャラリーではバンコク在住で熊谷の弟子筋である坂本修の個展が開催されていた。

熊谷の作品は「天狗の落とし札」と呼ばれていたのだそうだ。4号の作品が多く、ここでも展示品の多くが4号だ。戦後の作品は殆どが抽象画に近いスタイルだが、色の面で画面を構成するという点はマチスに通じるものも感じられる。理屈はともかくとして、芸術新潮2009年10月号の記事のなかで、岐阜の柳ヶ瀬画廊のオーナーである市川博一氏が語っている言葉が全てだと思う。

「この部屋はいつも熊谷守一だけを飾っているんです。なぜかというと、朝、戸をあけて電気をつけたときに、なんか気分がいいんです(笑)。疲れていてもね、画廊の掛けかえで熊谷先生の絵を1点掛けると、モヤモヤをすーっと吸いとってくれる。…」
(芸術新潮2009年10月号 159頁 小山登美夫の見た、訊いた、買った)

何故だかわからないが、私も熊谷の、特に所謂「守一様式」の油絵作品を見ていると、妙に気分がよくなるのである。熊谷守一美術館の1階に展示されている作品のなかでは、サイズが他のものより大きい所為もあるのかもしれないが、一番奥の正面にある「仏前」が印象深い。白いのは饅頭かと思ったら卵だという。それも家で飼っていた鶏のものだそうだ。熊谷の長女が亡くなって、その仏前に卵を供えたのを描いたという。そうしたエピソードまで知ってしまうと、なおさらのこと、忘れ得ぬ作品のように感じられてしまう。

熊谷守一美術館を後にして、エコール・クリオロに寄ってケーキとコーヒーでもいただこうかと思わないこともなかったが、歩き始めると、暑さについつい足が駅へ向かってしまった。

地下鉄で江戸川橋まで行く。江戸川公園を通り抜け永青文庫へ向かう。しかし、あまりに暑いので、江戸川公園を通り抜けて、川を渡り、永青文庫とは反対側にあるリーガロイヤルホテルで一服することにする。ちょうど昼過ぎだったので、ここで昼食にする。料理の種類を子供が選び、結果として入り口近くにあるファミレスのようなレストランに入る。

店の入り口には週末限定のビュッフェの看板が出ていたが、私がビュッフェ嫌いなので、メニューからオーダーする。なぜか子供が「大人のオムライス」で私は「オムレツライス」を食べる。要するにどちらもオムライスなのだが、ソースが違う、ということのようだ。味は値段相応の美味しさ、ということにしておく。

ビュッフェというのは、その姿が牛小屋や豚小屋あるいは養鶏場のようで、なんとなく食事を自分の皿に取っていると嫌な気分になってしまう。

腹と気分が落ち着いたところで、永青文庫に行く。現在開催中の展示は「神と仏 日本の祈りのかたち」。展示されているものは多くはないが、眺めていて飽きないものばかりだ。今回の展示のなかでは、中国古代の石仏からなんとなく目が離せなかった。

永青文庫を出て目白通りにあるバス停で目白駅方面へ行くバスに乗る。できれば練馬車庫行きに乗って下落合3丁目で下車したかったのだが、来たバスが目白駅行きだったので、それに乗って、目白から歩いた。歩き始めると暑いのですぐに休みたくなる。それでたまたまそこにあったLaCucina Caffeというところに入って小休止。落ち着いたところで再び歩き始めてアダチ版画へ。

アダチ版画は浮世絵版画の複製を手がける代表的版元のひとつで、かつて西巣鴨にあった。実は、「アダチ版画」の名前も先ほど言及した芸術新潮2009年10月号で初めて知ったのである。米国のとあるボンボンが日本の浮世絵に魅せられて、よりによって日米関係が険悪の度を深めている1940年3月に新婚旅行と浮世絵の買い付けを兼ねて来日したという。7月までの5ヶ月間を版画の買い付けやら作家との交流やらに費やし、当時は西巣鴨にあったアダチ版画でも17,850枚の版画を買ったという。この枚数は、そのボンボン、ロバート・ムラー氏が遺言により浮世絵とその関連品を遺贈したスミソニアン協会アーサー・M・サックラー・ギャラリーに残る領収書の記載に基づいたデータだそうだ。実際に購入したのは、それ以上である可能性が当然に高いのである。その記事のなかの「西巣鴨」という文字に思わず反応してしまった。自分が今住んでいる地域にあったというだけで、なんとなく興味を覚えていて、いつか訪れてみたいと考えていた。今日は目白に来る機会を得たので、ようやく念願がかなった。

住宅街の一角にある建物で、看板がなければそれとはわからない。地下がショールームになっていて、中に入ると、誰もいなかった。物音に気付いて出てきた店の人に一礼して、店内を見せてもらう。やはり江戸時代の誰もが知っているようなものが人気があるのだろう。そういうものの展示が殆どで、現代のものは数点だけだ。技術の継承という点では江戸時代のものも重要なのだろうが、複製は複製でしかない。もっと新しいものがあれば面白いのにと思ってしまう。

別れ際になって、子供が相談事を持ち出ししてきた。文化祭に小説家を呼んで講演をしてもらおうとしているのだが、電話をかけても応じてくれる人がいない、というのである。しばらく立ち話をして、あとでメールをすることにして別れる。西武新宿駅近くにある「みつばち」で「氷ごまミルク」を頂いてから住処へ戻る。

藍より青く

2010年07月25日 | Weblog
昨日、日経ホールで雀々と志らくの二人会を聴いてきた。ふたりともそれぞれの師匠を彷彿とさせる噺ぶりだった。どこがどう似ているというような個別具体的なことではない。なんとなく枝雀や談志の雰囲気が漂うのである。

「刷り込み」と呼ばれる現象がある。もともと動物の生活史のなかで、ある特定の認識や行動が獲得されることを指すらしいが、人間にも似たようなことがあると思う。躾のなかにはそういう側面もあるだろうし、習い事や進学、就職といった新しい社会経験において、最初の出会いが大きな影響を及ぼすというのは誰しも体験として了解できるのではないだろうか。私も最初の就職で、最初に配属された職場の上司や先輩たちの言動や行動には大きな影響を受けたと今でも思う。落語家も未成年のうちに師匠の家に住み込んで、芸事はもとより、その世界のしきたりや作法といったものを身につけるのだから、当然に師匠や兄弟子の影響というのは強く受けるのだろう。

「青は藍より出でて藍より青し」という言葉もある。もし、人の能力というものが誰でも同じなら、弟子はその師を超えることは無いはずだ。しかし、現実は超えない者もあれば遥かに超える者もある。能力というのは個人のなかで完結するものではなく、それが置かれた社会や時代や文化といった文脈のなかで規定されるものだろう。超えたのは本人の才能や努力も勿論あるだろうが、それだけではなく、超えることができなかったのは、才能や努力に不足があったということもあるかもしれないが、やはりそれだけではないのだと思う。

また、能力というものは果たして比較可能なのかということも考えなければなるまい。個別具体的な行為において、それを人より正確にできるとか、短時間でできる、というのは特定の尺度から見た結果であって、それが行為全体として、その場に与える影響もまた、行為とそれを取り巻く状況との関係性のなかで決まってくるものだろう。

今回の落語会で、志らくがマクラのなかで語っていたが、例えば「紺屋高尾」という噺を聴くには、花魁というものが何者で、吉原というところがどのような場所で、紺屋職人というものの社会的地位がどのようなもので、といったことを知らなければならないが、かといって、そういうことをいちいち説明していたのでは噺にはならない。「紺屋高尾」という噺が誕生した時は、当然にそこに盛り込まれている風俗は当時の社会の常識であったはずだ。演者という行為者と、聴衆という被行為者との間に物事の理解ということについての共通の基盤があるなかで噺を口演する場合の「能力」と、そうした基盤が無いなかで聴衆を魅了する「能力」とは全く別のものだろう。例えば吉原に遊郭があり、花魁というものが現に存在していた時代に「紺屋高尾」を語る落語家に必要とされる能力と、いまこうして「紺屋高尾」を語る志らくに要求されている能力は違うものなのである。遊郭がなくなってしまった後であっても、その名残が社会に残っている時代と今とでは、やはり噺家に求められるものは違うだろう。それを同じ落語家というだけで過去の伝説の「名人」と目の前の演者とを比べることは不可能だ。

事は落語だけの問題ではない。我々は不用意に「能力」ということを口にして、人を比較するのだが、たいていの場合は、「能力」が意味する内容を考えたことはなく、単なる数字や世間の評判といった表層だけで並べているだけだろうし、人そのものをそもそも理解していないことが多いだろう。世間の口などというのは無責任なものなのである。

さて、今回の落語会だが、二人会というと看板二枚がそれぞれ一席ずつというものもあるなかで、二席ずつ、しかも大ネタだったということ、前座が前座にするにはもったいないような人だったこと、出演者のチームワークが良かったことから、中身の濃いものだった。前座と「手水廻し」のマクラが念入りで、会場の感度やリテラシーを十分に把握した上で、「手水廻し」本題に入り、その盛り上げられた会場の雰囲気に乗ってマクラなしで「紺屋高尾」が続き、中入りに至る。噺自体もよかったが、演者たちがどれほど意識しているのかいないのか知らないが、前座と看板2人とのチームワークのようなものが感じられ、緩急自在に会場が操られている面白さ、操られる快感のようなものがあって、中入り前に前に十分心が熱くなったように感じられた。

中入り後は「疝気の虫」と「さくらんぼ」というナンセンス噺で、こういうものこそ噺家の力量が要求されるのだが、見事というしかないものだった。これまであまり考えたことがなかったのだが、独演会と二人会というのは異質なものだということに気がついた。

余談だが、私と同じ列にかつての職場の同僚夫婦がいて、落語会がはねてから駅まで話をしながら歩いた。久しぶりに会ったので、これもまた短時間ではあったが、楽しかった。

2010年7月24日のネタ
「普請ほめ」紅雀
「手水廻し」雀々
「紺屋高尾」志らく
(中入り)
「疝気の虫」志らく
「さくらんぼ」雀々

開演 13時30分
閉演 16時30分

会場 日経ホール

言いたくないが

2010年07月24日 | Weblog
「言いたくないが」と前置きをしてから愚痴や説教を垂れる人がいる。言いたくないなら言わなきゃよさそうなものだが、結局滔々と話が続くのだから本当は言いたいのだろう。わざわざ「言いたくない」と言ってまで何事を語り始めるのかと思って聞いていると、大概は情緒的で論理の破綻した話である。自意識過剰なのか、思考力に重大な欠陥があるのか、いずれにしてもろくなものではない。

しかし、間違ってもその相手に向かって「ろくなものではない」などと言ってはいけない。このような困った状況を最短時間で乗り切るには、しおらしく愚痴や説教が終わるのを待つことである。ただ待つのではない。聞いている、御説御尤である、という同意の姿勢を明確に示すことが必要だ。人は社会性の強い生き物なので、孤独に陥ることを嫌う傾向が強い。自分に寄り添う誰かがいる、という認識を持たせることが相手の不満を緩和する最善の策である。同意しているかいないかということは問題ではない。どうせ深い考えがあるわけではないのだし、不満が噴出するのは一時のことである。

一時といえば、5分10分も一時だが、人の人生丸ごとにしたところで一時のようなものだろう。不満は自分で解決しようとしなければ永遠に解決できない。不満の原因を他者に求めている限り希望は無い。そんなことにも気付かないのは気の毒なことである。言葉のかけようもない。結局、ただ聞いているよりほかに仕方がない。

Twitter

2010年07月23日 | Weblog
ふと気になってTwitterのアカウントを作った。案の定、kumamotokumaというユーザー名が既に使われていた。「熊本熊本家」とか「熊本熊本舗」にしようとしたらkumamotokumahoまでしか入力できない。そこで「熊本熊スペシャル」ということでKumamotokumaSPとした。

別にあそこで何事かをつぶやこうというつもりはない。ふと熊本熊という名前が使われているのかどうか知りたかっただけである。

濱田庄司は自分が作ったものに印を入れなかった。若い頃は入れていたが、ある時期から入れなくなった。その理由についてNHKの番組の中で語っていたことが印象的だった。その番組の録画を5月に栃木県立美術館で開催されていた「知られざる濱田庄司」展の会場で観た。

曰く、自分の手で作ったものは誰が見てもそれとわかるものである。敢えて印を押さなければ自分が作ったとわからないようなものは所詮その程度のものでしかない。さらに言うなら、見て自分が作ったとわかってしまうようなものも本物とはいえない。誰が作ったのかわからない、自然に生れてきたようなものに見えてこそ、本物の創造ではないかと思う。

その録画映像が流れる大型テレビに私は釘付けになってしまった。なにか言葉なり文章なりがあって、それを見聞した人が「いかにも○○さんらしい」と思うような言葉は、まだまだ薄っぺらだということだろう。物事を深く考えれば、あたりまえのことのように世の中に流布していることが、いかに「あたりまえ」ではないかという問題に突き当たる。ほんとうのことを突きつけられると、人は沈黙するしかなくなってしまう。そこには人の個性などというものが入り込む余地は無いはずだ。その個性を超えた普遍性を追い求めるのが哲学者であり、個性に拘るのが評論家である。

まだアカウントを開設しただけで使っていないので、まだ想像の域を出ないのだが、Twitterというのは評論家ごっこをして遊ぶところだと思っている。もちろん、ブログも。

暑い

2010年07月22日 | Weblog
梅雨が明けてから一段と暑くなった。今日も暑かった。去年の夏はエアコンを使ったのが1日だけだったが、今年は既に7日前後は使用していると思う。それで、これまでの日本での最高気温はどれほどなのかと思い調べてみた。

気象庁のサイトによると、これまでにおいて40℃以上の最高気温を記録したところが以下の14箇所である。

山形県 山形 40.8℃ 1933年7月25日
山形県 酒田 40.1℃ 1978年8月3日
群馬県 館林 40.3℃ 2007年8月16日
群馬県 上里見 40.3℃ 1998年7月4日
群馬県 前橋 40.0℃ 2001年7月24日
埼玉県 熊谷 40.9℃ 2007年8月16日
埼玉県 越谷 40.4℃ 2007年8月16日
山梨県 甲府 40.4℃ 2004年7月21日
静岡県 天竜 40.6℃ 1994年8月4日
静岡県 佐久間 40.2℃ 2001年7月24日
岐阜県 多治見 40.9℃ 2007年8月16日
岐阜県 美濃 40.0℃ 2007年8月16日
和歌山県 かつらぎ 40.6℃ 1994年8月8日
愛媛県 宇和島 40.2℃ 1927年7月22日

もちろん、気象庁の観測地点にはなっていないところで40℃を超えたところはあるだろうが、あくまでデータとしてこのようなものがあるということだ。

一般的感覚として南は暖かく北は冷涼という印象があるが、日本列島においては緯度と最高気温の分布とはあまり関係がないようだ。14箇所中6箇所が関東甲信越で2箇所が東北であるが、九州や沖縄では40℃以上を記録していない。また、近年は温暖化ということがやかましく言われているが、14箇所中8箇所が21世紀になってからの記録だ。

一方、最高気温が30℃を下回っているところがあるのかどうかも調べてみると以下の6箇所だった。

北海道宗谷地方 本泊 29.3℃ 2006年8月17日
北海道宗谷地方 礼文 26.8℃ 2006年8月12日
北海道日高地方 えりも岬 25.5℃ 1984年7月29日
北海道渡島地方 高松 29.9℃ 2007年8月14日
福島県 鷲倉 27.6℃ 1987年6月7日
熊本県 阿蘇山 29.7℃ 1956年8月4日

さすがに北海道が目立つ。40℃以上のほうに九州が入っていないのに、30℃未満のほうには1箇所だが、九州が入っているのは意外な気がした。

気候と人間の営みとの間でどれほどの関係があるのか知らないが、経済活動が活発なところの気温が高いようにも見える。おそらく、人間の活動というよりは地形の影響のほうが大きいのだろう。自分が暑いのを苦手にしているので、気温が高いというだけで過酷な環境のように感じてしまう。ちなみに、個人的に経験した最高気温は45℃くらいだ。1984年3月にオーストラリアのアリス・スプリングスでのことだ。昼間の街はゴーストタウンのようで、夕方になって気温が下がると人の姿が現れるのが印象的だった。もし、温暖化という方向性が現実のものとなり、日本全体の気温が平均的に上昇したら、いったいどのようなことが起こるのだろう。日本だけが上昇して、他が変わらないとしたら、どうなるのだろう。日本も含めて世界全体が温暖化するとどうなるのだろう。素朴な疑問は尽きない。

端材整理

2010年07月21日 | Weblog
木工は、これまでに作ったものに使った材料の端材がたまってきたので、それらを活用するべく、小物をいくつか作る予定である。教室の端材も利用可とのことなので、端材といっても仕上がりの大きささえ工夫すれば作るものの選択肢はかなり大きい。まずは、時計を作ることにする。通販で時計のムーブメントを調達したので、これを使って置時計を作る予定だ。先週は材料を前にして、おおまかな設計図を書いたので、今日はそれに従って材料の切り出しをした。箱型のシンプルな形状なので、加工の難易度は高くはないと見ている。シンプルでいて手間隙はしっかりかける、そんなものを作りたい。

攻めて果てて

2010年07月20日 | Weblog
陶芸は、今日は先週挽いたものの削りだ。5月最終週から皿を作り始めている。茶碗のような器に比べると、皿は形が不安定な分、土が軟らかい段階でも形を保持できるよう高台周辺中心にかなり厚めに挽く。このため削りのときは、器類に比べると、厚く挽いた分だけ余計に削ることになる。削るときは、裏返しにするので、削る前に表側を観察して削りの位置や厚さの見当をつけておかなければならない。轆轤を挽き始めてちょうど1年が経過したところなので、そろそろそうした作業にも慣れていないといけないのだが、削りはどうしても慎重になり、結果として出来上がったものの底が厚めになってしまうことが、まだ多い。底が厚いということは、それだけ重いということでもあり、重いということは使いにくいということでもある。

今日削ったのは直径20cmほどの皿が2枚と茶碗が1つ。皿は1枚目は無難に削ったが、少し削りが甘かったと感じた。あまりにも削り足りないときは、轆轤の上に戻して更に削るのだが、一旦轆轤から外してしまったものを改めて置き直すと中心が微妙にずれてしまって、かえって上手くいかないこともある。先生の指導を拝見していると、さすがに難なく置き直して、しかも大胆に削りすすめていくのだが、私が同じことをしたら作っているものが破綻してしまう。それで、多少の不満は飲み込んでしまう。

そうした伏線があって、2枚目の皿を削り始めた。高台も決まり、高台の内側を削っていると、考えている以上に深く鉋が入ってしまう。妙だなと思ったときには、高台が陥没していた。高台以外の部分は狙った通りの薄さになっていたので、惜しいことをしてしまった。

気を取り直して、茶碗を削る。皿に比べると、茶碗は挽いた段階でかなりの程度まで完成形に近いところまでできているので、削るのは高台の整形のようなものである。しかし、今日は2枚目の皿を削るところから、「ぎりぎりまで攻めてみる」という気分になっていたので、自分としては普段よりも大胆に削ってみた。結果としては、それで上手くいったと思う。

素焼きがあがったものがあるので、来週はそれらに施釉してもよいのだが、それは来週でなくともよい工程なので、来週も轆轤を挽くつもりでいる。もちろん、作るのは皿。なんとなく了解できるまで皿を作り続ける。

会心作は偶然に」で紹介した茶碗と同時に焼成に出した茶碗の残りが焼きあがってきた。同じ土から同じ時間に轆轤を挽き、同じように削って、素焼き、施釉、という工程を踏んでも、同じようには焼きあがらない。結局、そのロットで作ったもののなかで、上手くできたと思えたのは、あのひとつだけだった。面白いものである。

真夏の和服

2010年07月19日 | Weblog
淡交会の講演会があり、中野サンプラザへ出かけてきた。演題が「樂茶碗・歴代の時代背景と特徴」というものだったので、お茶の先生からご紹介いただき、茶碗の話だったので出席することにしたのである。

講師は茶道資料館食卓学芸顧問とか三井記念美術館参事といった肩書を持つ赤沼多佳先生。たいへん厳しい感じの人で、それだけに講演も歯切れがよく聞きやすかった。たまたま先月、京都の樂美術館を訪れたので、その時の記憶が残っており、興味深く拝聴することができた。

講演もさることながら、淡交会の催しということで、出席者は和服の女性が圧倒的に多い。サンプラザホールが7割弱程度埋まる聴衆があり、その過半が和服の女性となると、その様子だけでも面白い。しかも、講演が終わると、この集団が一気に駅に向かって流れ出すのである。猛暑日の昼下がりとはいいながら、休日なので中野駅前はそれなりの人出がある。そこに和服姿の集団が交ざり込む。サンプラザ前では威圧感すら覚えるほどの集団が、わずか数百メートルの間で街に溶け込んでしまうのである。この相変化のような現象に眼を奪われてしまった。

ところで、真夏に和服というのは着ていてどういうものなのだろう。なんとなく、身に纏っている布が洋装よりも多いので暑いのではないかと、他人事ながら心配になってしまう。しかし、和装は日本の風土のなかで形成されたものである。洋装が入ってくる以前でも今日のような暑い日はいくらでもあっただろう。そうしたなかで現在まで継承されている文化なのだから、それなりの必然性はあるのだろう。

と、考えているくらいなら、自分で和服を着てみるのが一番なのだが、物心付いてから着物を着たことがない。せいぜい旅館に泊まったときに宿に備え付けの浴衣に袖を通すくらいのものだ。とはいえ、やはり暑いときに着たいとは思えないのである。

峠の釜めし

2010年07月18日 | Weblog
横川へ出かけてきた。片道3時間、普通列車での移動だ。実際に乗車しているのは2時間半程度だが、乗り換えで時間がかかる。特に下りの場合、高崎からの信越線が特定の時間帯を除いて1時間に1本というダイヤなので、生活に効率を求めるタイプの人は、この信越線のダイヤに合わせて予定を組むとよいだろう。高崎は新幹線を利用すれば最速列車で東京から50分で到達できる。

5月の連休の頃だっただろうか。偶然、かつての信越本線、横川=軽井沢間の一部が遊歩道になっているということを知った。以来、そこを歩いてみたいと思っていて、ようやく今日になって実行した次第である。できることなら今の時期ではなく、もう少し早い季節に訪れたいものだ。今日は特別だったのかもしれないが、とにかく暑かった。

一応、前の晩は少し早めに就寝し、今日は6時頃に起床するつもりでいた。しかし、午前3時就寝、午前8時に起床、というリズムができあがりつつある。何の強制力もない自分の遊びのためというのは、そうしたリズムを打破するには、いまひとつ力不足のようで、それでも午前7時15分頃に起床した。朝食の支度をして、それをいただき、身支度を整えて午前8時半に家を出た。途中、コンビニに立ち寄って現金を少し引き出し、最寄り駅から山手線に乗って池袋に出る。池袋では、ちょうど8時47分発の湘南新宿ライン小金井行きが入線するところだった。これに乗って大宮へ向かう。

ドアの脇に立って外を眺めていると、京浜東北線の駅のホームの大宮寄り先端部分にはカメラを構えた人たちがかたまっている。沿線にも所々にカメラを手にした人たちがいる。今日は何事があるのだろうと思っていると、ちょうど与野駅のあたりで寝台特急カシオペアとすれ違った。たぶん、これがカメラを構えている人たちのお目当てなのだろう。去年、北海道へ旅行に出かけたとき、稚内から札幌を経由して鉄道で東京まで戻ったが、確かそのときにも沿線でカメラを向けている人たちがいたのを思い出した。あまり早いと光の加減とか、そもそも起床できないとか、ひとそれぞれに事情があるのだろうが、不思議とカメラを構えている人の数は大宮を過ぎると増えるのである。多くの人が撮影するのと同じ場所で同じような写真を撮るのが、どれほど愉快なのか知らないが、ご苦労なことである。

小金井行きは定刻通り9時9分に大宮に到着。ここで9時18分発の普通列車高崎行きに乗る。さすがにここから立ちっぱなしというほど体力に自信は無いので、素直に空いている座席に座り、終点まで爆睡。高崎駅構内に入線する際にポイント通過で列車が大きく揺れた拍子に目が覚めた。定刻通り10時42分到着。

ちなみに、この列車は途中の北本で大宮を9時26分に発車する特急草津31号に追い抜かれる。この草津に乗れば、高崎には10時19分に着くので10時23分発の信越本線横川行きに、ちょうどよい具合に接続する。私が乗った9時18分と同時刻に大宮を発車するMaxとき311号に乗ると高崎には9時52分に到着するが、これに接続する横川行きは、やはり10時23分発なので、速い列車に乗ればよいというものでもない。

さて、10時42分に高崎に着くと、横川へ行くには11時19分発の列車に乗ることになる。高崎駅で下車するのはこれが初めてだったが、思いの外、こじんまりとした駅である。横川行きの列車を待つ間、トイレに行ったり、ホームの端から端まで歩いてみたり、うろうろしていたので、待ち時間は殆ど気にならなかった。この横川行きは折り返し列車ではなく、車庫から出てきた列車だ。乗ってみるとわかるのだが、1時間1本のダイヤでも、列車は満員にはならない。日曜という所為もあるのだろうが、なんとなく和やかな雰囲気が漂うなか、列車は高崎を後にする。

最初の停車駅は北高崎。ここを過ぎると車窓の風景に緑が深くなる。大きな川が流れていて、その彼方に高崎観音が小さく見える。次の群馬八幡を発車すると、列車の速度がそれまでよりも速くなる。沿線にはときどき大きな工場の姿がある。安中あたりでは東邦亜鉛、磯部では信越化学。安中と磯辺でけっこう多くの客が降りてしまった。横川には定刻通り11時52分到着。この連休中、一日一往復だけ運転の蒸気機関車牽引列車SL碓氷が停車していたので、ここにもカメラを手にした人たちが大勢いた。

昼時なので、なにはともあれ腹ごしらえである。横川なので、いわずと知れた峠の釜めしを食べる。かつて信越本線が横川から先まで延びていた時代なら、碓氷峠を越えるために列車にEF63を2両一組にした補助機関車を連結するため、横川駅と峠の向こうの軽井沢駅では停車時間が長かった。それで、列車を降りて駅で釜めしとお茶を買ってゆっくりと列車に戻って食べることができたものである。今でも軽井沢駅で釜めしを売っているが、のんびりと列車を降りて駅弁を買って、というような悠長なことをしているほど停車時間は長くはない。

それで今日の昼飯だが、駅前には釜めしを調理販売している「おぎのや」の店舗がある。しかし、昼時はさすがに満員で店の前には並んでいる人もある。そこで駅構内の売店で釜めしを買い、駅前のテント下にあるベンチでいただくことにした。

初めて峠の釜めしを食べたのは学生時代にサークルの合宿で軽井沢へ行ったときだっただろうか。記憶が定かではないのだが、サークルの先輩で軽井沢に別荘がある人がいて、そこで合宿があった。社会人になってからも、勤務先の保養所が軽井沢にあり、新入社員時代に研修で行ったことがある。軽井沢というと峠の釜めし、だったと記憶している。高校時代も林間学校の施設が中軽井沢にあったが、このときはバスだったので釜めしは食べていないと思う。その後、信越本線には縁が無く、長野新幹線開業後の2006年12月にヴォーリズ設計の別荘が売りに出たというのを聞いて、買う気もないのにわざわざ見に出かけ、翌2007年8月に友人の別荘に遊びにでかけたことがあり、どちらの機会においても峠の釜めしを食べたことは記憶にある。2007年8月の時は東京へ戻るときに、軽井沢の駅で買って新幹線の車中で食べて帰ったので、そのときの釜がいまでも手もとにある。勿論、今日買った釜めしの釜も持って帰ってきた。この釜で一合の米を炊くことができる、らしい。

腹ごしらえが済んだところで、12時20分に駅前を出発する。遊歩道は鉄道文化むら脇から始まる。遊歩道の起点に「峠路探訪 ウォーキング・トレイル アプトの道(起点)」という大きな看板がある。

歩き始めてしばらくは左手に鉄道文化むらの展示車両を見ながら進む。京都の梅小路機関区が蒸気機関車の動態保存拠点として整備されたのに対し、高崎に電気機関車の同様な施設を作ろうと、引退した機関車が集められたが、結局その計画は白紙になってしまったのだそうだ。長野新幹線が開業し、横川駅構内に広大な遊休地が生れることになって、電気機関車展示の話が復活、但し、動態保存ではなく静態保存でEF63のみ動態保存ということで現在の鉄道文化むらが開業したということらしい。ここでは所定の研修を受講することで実際にEF63を運転することができる。これは鉄道にそれほど興味がなくても好奇心をくすぐられるのではないだろうか。その研修はかなり先まで予約が入っているそうだ。

妙義山は緑深いが、かなり急峻な山々の集合体だ。その山々を背景に鉄道車両が並んでいる風景が妙に印象的だ。今自分が歩いている遊歩道もその山々の一部である。横川駅を出て緩い上り坂が続くが、鉄道にしてみたら緩くはないのだろう。遊歩道として整備されている横川=旧線めがね橋(碓氷第三橋梁)区間がどれほどの勾配なのか知らないが、横川=軽井沢間全体の最大勾配は66.7‰だそうだ。長野新幹線でも30‰の勾配が連続しており、勾配対策が施されている車両が使われている。

先月、京都を訪れた折に佐川美術館まで足を伸ばし、そこから京都へ戻るときに京阪を利用したということをこのブログでも書いた。そのなかで私は「上栄町から四宮に至る京阪電車は登山電車のように山間を縫うように走る。路面電車が一転して登山電車になるのだ。」と書いた。この区間の最大勾配が61‰である。鉄道愛好者の間でどの程度話題になるものなのか知らないが、碓氷峠という日本で屈指の鉄道難関区間を走行するのに、アプト式だの専用機関車による粘着運転だのと工夫をこらしてきたが、その難関に準じる急勾配区間を含み、路面電車のように道路上の軌道も走行し、地下鉄にも乗り入れるという京阪の800系電車はそれぞれの区間の特殊性に対応する機能を備えている。碓氷峠越えという明治時代の鉄道草創期における難所で先人たちが知恵を絞った成果やその後の技術開発の歴史が、一見したところは普通の都市型電車でしかない涼しげな色使いの4両編成に反映されていると思うと、きちんと歴史が積み重ねられている感じがして、なんとなく嬉しい。見たり乗ったりする側からすれば「嬉しい」だけで済むのだろうが、運行している側からすれば、日本国内を走る鉄道車両のなかで最も高コストではないかと言われているそうだ。

鉄道と道路の大きな違いは、道路というのは任意の場所で立ち止まることができるのに対し、鉄道は原則として駅でしか停まらない。道路沿いには商店が並ぶが、線路沿いに商店が並ぶことはない。横川を出発して信越本線の線路だったところを舗装した遊歩道をあるいていくと、そういうわけで何もない場所が丸山変電所跡まで続く。途中、上信越自動車道の斜張橋の下をくぐるが、このあたりの何も無い感じがたいへん気に入った。

丸山変電所を過ぎるとほどなく霧積川橋梁を渡る。どういうわけだか知らないが、私は橋が好きだ。この橋はごくありふれた桁橋なのだが、とてもいいと思う。何がいいのかと問われても答えようがないのだが、何気なく深い谷を越えているところなどはしびれてしまう。さきほどの斜張橋のような大仕掛けのものも美しいとは思うのだが、どちらかというと関係者以外は名前もしらないような普通の橋が好きだ。霧積川橋梁を渡って、何もない気持ちのよい道を歩いていくと、ほどなく峠の湯という施設に到達する。ここは鉄道文化むらからのトロッコ列車の終点でもある。今の時期、トロッコ列車は一日5往復の運行だ。

峠の湯がある場所はアプト式時代の旧線と粘着運転が開始された新線とが分岐する地点だ。ここから先の遊歩道は旧線だったところである。新線のほうは草が生い茂り、線路を覆い尽くしていた。峠の湯は素通りして、先に進む。ただでさえ道行く人影は疎らだったのが、峠の湯を過ぎると更に人通りは少なくなる。無くなると言ってもよいほどだ。

すぐに横川を出て最初のトンネル1号隧道に入る。それほど長いトンネルではないのだが、トンネルを歩くというのはなんとなく緊張するものである。但し、この1号隧道は少しカーブしていて、すぐに出口が見えてしまう。出口が見えるのは一向に差し支えないのだが、今日のように暑い日は、トンネルのなかのひんやりとした空気を期待してしまう。その期待が期待だけで終わってしまうということだ。

トンネルは、煉瓦積みの内壁で、長年に亘って地下水が染み出している所為で、いい感じにその煉瓦が苔むしている。2号隧道も同じような感じだが、横川側3割程度が金属材とコンクリートで補強されている。この2号トンネルを抜けると眼前に碓氷湖が現れる。坂本ダムによって堰き止められた人造湖で、なんとなくそれらしい雰囲気だ。明日、この湖岸でイベントがあるらしく、会場設営作業がちょうど始まったところだ。遊歩道の崖上側には崖にせり出すように建物が建っている。さらに行くと喫茶店と雑貨店の看板が出ている。妙なところに店を出すものだと思いながら、そこは通り過ぎる。帰りに気が向いたら立ち寄ることにする。

碓氷湖を過ぎるとトンネルが連続している。3号から5号に至る3つのトンネルだ。5号隧道は少し長い。入ってすぐに長いと感じる。中の空気がひんやりしているからだ。それまで人通りが殆ど無かったのに、このあたりに来ると人の姿が多くなる。

5号隧道を抜けたところが碓氷第三橋梁、通称「めがね橋」である。途中、写真を撮りながら歩いてきたので、横川からわずかに4.7kmしかないのに、到着したのは出発してから1時間25分後の13時45分だった。この橋は全長91メートルの四連アーチ橋で川底からの高さは31メートル。現存する煉瓦造りの橋としては国内最大規模で、他の鉄道関連施設と共に「碓氷峠鉄道施設」として重要文化財に指定されている。完成当初は強度不足が問題となったらしいが、見た目にはそのような脆弱さは感じられず、それどころか妙に安心感を覚えるほどだ。橋の上から下を見下ろすと道路が走っており、駐車場もある。ここに至る直前のトンネルあたりから人の姿が増えたのは、車で来て遊歩道に登ってきた人たちなのだろう。道路近くの橋脚部分には落書きが見られる。このあたりにはニホンザルが生息しているそうなので、おそらく猿の仕業だろう。人間の姿をしていても、まともな教育の無いものは猿と同じなので用心しなければならない。

遊歩道は橋を渡りきったところまでである。この先も遊歩道として整備する計画があるのだそうだが、年代物の鉄道軌道なので整備が容易ではないらしい。めがね橋を上から見たり、下に降りて見上げてみたりして、14時05分に来た道を引き返し始める。

碓氷湖の近くに看板が出ていた喫茶店を訪ねてみる。手作りのケーキがあると書いてある。遊歩道を外れ、急斜面を上り詰めたところはログハウスの雑貨店だ。中には木の実を加工した小物類とか手書き風の絵葉書とか古い写真の絵葉書などが並んでいる。隣にもう少し大きなログハウスがあり、そこが喫茶店だ。これらの店の遊歩道からのアプローチは裏口にあたる。遊歩道で看板とその背後に続く獣道のような細い急坂を見たとき、「来るなら来てみろ」といわんばかりの構えだと、面白く思ったのだが、やはり正面は国道18号に面している、ごく普通のドライブインのような店だった。めがね橋に向かう途中、崖からせり出しているように見えたのは、同じ敷地内にある、かつてドライブインだった建物だ。駐車スペースの片隅に少し離れて2つの犬小屋があり、それぞれに小屋の主がぐだぁっとしている。何度も書くようだが、とにかく今日は暑い。

店の入り口は上から下まで硝子が入った扉だ。中を覗いてみると客は誰もいない。奥のテーブルでおそらく私と同世代かやや若いくらいの女性が木の実を使った小物を作っていた。
「こんにちは。暑いですねぇ。」
と言いながら扉を開けて中に入る。店のひとはそれまで作業していたものを片付けてカウンターの中に入り、お冷とおしぼりを持ってくる。テーブルにあるメニューから手作りだというチーズケーキと深煎りだというブレンドコーヒーを注文する。コンロに火を入れ、コーヒーの仕度が始まる。豆を挽くところから始まる。ちらっとカウンターの中を覗くとカリタのドリッパーが見えた。ハンドドリップのようだ。

店の名前はMINI MINI。店内にはMINIの写真が何枚も貼ってある。奥の棚には「CG」のバックナンバーがびっちりと並んでいる。店の人のご亭主が車の愛好家なのだろう。

この店を始めて今年で25年になるのだそうだ。かつてはドライブの人やバイクのツーリングの人たちが客だったが、特にバイクの客は年々減って今では殆どいなくなってしまったという。10年ほど前に遊歩道が整備されると、ハイキング客が増え始め、今では客の殆どがハイカーだそうだ。そのハイカーも5年ほど前をピークに減っているという。

一年のうちでは、5月の新緑と10月の紅葉の時期が人の往来が増えるという。今の時期は暑いので人通りはそれほど無いのだそうだ。そんなこんなで、四方山話を交わしながら、この店には14時20分から15時まで滞在した。ケーキもコーヒーもおいしかった。

店を出て雑貨店の脇を通り抜けて崖の坂道を遊歩道へと戻る。そこからすぐに遊歩道を外れて今度は碓氷湖へと降りていく。めがね橋へ向かうときには、トラックから資材を降ろしているところだったが、今は大きなテントが張られ、中に椅子やテーブルが並べられつつある。その設営が行われている広場のようなところには何台か観光客のものと思しき車が駐車してあるのだが、人影は疎らである。なにがあるわけでもない、ただのダム湖だ。

遊歩道に戻り横川を目指す。峠の湯のところで、ちょうどトロッコ列車がやって来るところに遭遇した。横川には転車台が無いので、機関車が客車を押す形で近づいてくる。かなりゆっくりとした速さで、遊歩道を走りながら、走行する列車に乗っている家族の写真を撮っている人がいるほどだ。

峠の湯から横川にかけては、往路では遮るもののない日向のなかを歩いたが、復路では上信越自動車道の斜長橋と鉄道文化むらの間が切り通しになっていて、その区間だけは日陰になっていた。少しほっとする。復路は下り坂の所為か、往路に比べると歩みが速い。碓氷湖を出て30分ほどで鉄道文化むら前に到着。時刻は15時50分だったので、鉄道文化むらに入場することにした。

入場してすぐのところに資料館兼事務棟となっている建物があるが、それほど目を引くようなものは展示されていない。広々とした敷地内に展示されている実機を眺めながら散策するというのが、ここでの楽しみ方ではないだろうか。国鉄が民営化されて鉄道車両はデザインに遊びが出てきたように感じられる。ここに並んでいる車両は多くが国鉄時代に完成したもので、塗装こそ民営化後のものもあるが、やはりそういうものは取って付けたような感が否めず、造形と色使いというのは一体のものだということが改めて確認できる。個人的にはカラフルな現在の車両よりも国鉄時代の実直な感じのするもののほうが好きだ。電気機関車にしても小豆色のただの箱のようなものがカッコいいと思う。

暑いなかを鉄道車両を眺めてうろうろする、という状況で、ふと昔訪れたニューデリーのNational Rail Museumを思い出した。出張でインドを訪れたとき、たまたま土日をはさむ日程になっていて、この間は自由行動だった。このときに滞在していたのがTaj Palace Hotelで、ふらふらとあてもなくホテルの周りを散歩していて偶然見つけたのが屋外型の鉄道博物館だった。インドの鉄道博物館ということで、年代物の実機は殆どが英国製だった。大学の卒業旅行でインドを訪れたのが1985年で、このときの出張は1995年。ヨガを始めたのが2005年、という具合に、5のつく年はなにかとインドに縁がある、と思っている。なんとなく、2015年もインドに関係したことが身に起こるような気がして、楽しみにしている。

鉄道文化むらは17時閉園だ。16時30分には正面入り口が閉鎖されるので、帰りは閉園15分前だったので通用口から外に出る。夕食もこちらで済ませていこうと思い、駅前のおぎのやに入る。昼とはちがって客は私以外に2組だけだった。売店で食べる釜めしと店舗で食べるものとで何か違いはあるのだろうかと思いながら、釜めしを注文した。売店で売られているものと同じものが出てきた。

帰りは横川発17時12分の高崎行きに乗る。車内は7割以上が空席。行楽帰りらしい人たちばかりである。高崎で18時ちょうど発の上野行き普通列車に乗り、赤羽で下車。赤羽では19時38分発の埼京線新宿行きに乗って池袋には19時46分に着いた。

2010年07月17日 | Weblog
思い出したように自分が持っているカメラのメーカーが主催する写真講座や撮影会に出かけてみる。今日は銀座で壁の撮影会に参加した。これはRing Cubeで開催中の「壁 – 地球に垂直な平面」展に連動したワークショップだ。本展の作家である杉浦貴美子氏のナビゲートで銀座の街の壁を撮影するというのが今日のお題である。

壁の写真とは、と文字で説明するよりも実物を見るのがわかりやすいだろう。できればウエッブよりも銀座の三愛ビルの展示会場を訪れるなり、氏の写真集を見るなりするのがよいと思う。壁と言っても、その表面のテクスチャーに焦点をあてて観察するのか、もう少し広い面で観察するのかによって同じ壁でも様々に見える。その違いがまた面白くもある。

今回のワークショップ参加者が撮影したものは、私のものも含めて各自3枚ずつ杉浦氏のサイトのなかにある「公開されている写真」というページに本展の会期中、今月25日までアップされている。PCでも勿論見ることはできるのだが、iPadだと地図情報と組み合わせて見ることができる。これまであまりiPadには興味が無かったのだが、今日、展示会場で初めて実機に触れてみて、欲しくなってきた。たぶん、まだ買わないとは思うが。