熊本熊的日常

日常生活についての雑記

スマホの時代

2012年07月31日 | Weblog

携帯電話を取り替えた。2009年1月に帰国して以来、折りたたみ式のものを使っていたのだが、このごろはバッテリーの消耗が早くなったように感じられ、そろそろ交換かと思っていた。たまたま昼休みに職場近くの量販店を覗いたところ、機種を選ばなければ実質無料で新品を手にすることができることがわかり、そういうものにこだわりが全く無いので即決してしまった。一応、乗り換え価格は5,000円を多少切る程度だが、オプションを3つ契約することで1,500円ほど割引になり、さらに通信会社のポイントを利用することでほぼ無料になり、残金の数十円は量販店のポイントで支払い、結局無料なのである。それで手にしたのは昨年の夏モデル。別に電話が使えるならいつのモデルだろうとかまわない。

ここからが問題だ。金を払って、はい、ありがとう、とならないのが電話機だ。機材だけでなく、その後の通信にまつわる諸々の契約というものがある。これに「30分ほどお時間を頂きます」とのことだったが、担当のオネエちゃんが頼りない人だったので、1時間10分ほどかかった。このうち書類に記入したり、何事かを決めたりするのは、確かに30分弱くらいだった。残りの40分は待ち時間だ。何かを記入する、決める、その度にオネエちゃんは楽屋裏へ確認に消えるのである。もう少しちゃんとした人をそれなりの給料を払って雇ったほうが、顧客満足度も高くなるのではないか。シェアががた落ちなのは、たぶんiPhoneが無いというだけのことではあるまい。コストを極限まで削ると、わけのわからない販売員を使わざるを得ないのである。それでも、現場を知らない旧国営企業のエライ人たちは経営データを眺めながら、「ここは削っちゃお」と事業の無人化に邁進する。携帯メールが使えなくなるという前代未聞の事故を起こすのは、販売現場に混乱をきたすのと同じ理由によるものだろう。株式を公開して収益を上げることだけを経営目標に据えるようになったので、数字にならないことには、既存のブランド力と経営資源を駆使することで間に合わせ、コストをかけて顧客満足度を高くしようなどとは考えないということなのである。それで、書類が完成し、電話機が引き渡されるのは、その1時間後である。

夕方に職場を抜け出して電話機を受けとった。なんとなく、街中でスマホとにらめっこをしている人が多い理由が飲み込めた。まず、これは旧来の電話機ではない。電話機能に重点を置いたパソコンだ。電源を入れて、すぐには使えない。まず、OSが起動する。この間数分間。やと立ち上がると初期設定が必要になる。なんだかんだで30分くらいはかかる。あとはどのようなアプリを使うかによって、さらに時間を要する。たとえテンキーであってもキーボードがあった頃が懐かしい。タッチパネルは思うように反応しない。小さな画面では目指す場所を指で押しても、狙ったところに当たらなかったり、うんともすんともいわなかったり。ここでさっきオマケに貰ったタッチペンが活躍する。電話機を受けとるとき、「キャンペーン」と称してオマケをいただいたのだが、これはビーチサンダル、ビーチボール、タッチペン、ストラップの四択だった。ビーチボールにしなくてよかった。

それで、スマホは本質的にはパソコンなので、ネットに接続して用も無いのにあれこれ見たくなる、のが人情だろう。そうやって、携帯電話という個人用端末がことごとくネットに接続したらどうなるだろう。通信会社は通信料収入が増大して笑いが止まらなくなる。「いやぁ、いいねぇ、ははははは…、じゃ、そこも人切ちゃお。どうして必要なら外注すりゃいいよ」ぶちっ。

そういえば、去年の震災のときには電話がつながらなかった。どうでもいいときにはどうでもいいコンテンツでぼろ儲けだが、肝心な時には役に立たない。そういう代物を公共インフラと呼ぶのである。そして、そういう社会を我々は生きている。


リーチ日本絵日記 備忘録

2012年07月30日 | Weblog

自意識過剰の努力が目的の達成を妨げているのだ。(30頁)

歴史的に見れば、工藝というものは、ひとえに普通の暮しの中で健やかさと美しさをゆっくりと開花させて行くものだからである。(33頁)

工藝は誰でも過多より過少を良しとする。(58頁)

真の平和? それは何をもたらすのだろうか。(136頁)

伝統的な手仕事のもつ秘密の一つは、精神的にも肉体的にもむだな労力を払わないということである。(142頁)

明晰で落ち着いた概念的な思考が、同じように明瞭に表現された行動へと自然に移行して行く。(148頁)

材料、形、模様の素裸な気取らない自由な処理。これら朝鮮の焼物は野の花のように育って行く。その素朴な抽象化と形式化は、まったく別個の生活態度から生まれ、私たちの自意識や計算に完全に対峙するものだ。(229頁)

バーナード・リーチ日本絵日記 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社

幽霊に足がないということ

2012年07月29日 | Weblog

幽霊というと透けるような存在感で、腰から下は目に見えない、という姿が日本では一般的なのではないか。しかし、足の無い幽霊の姿が描かれるようになったのは、江戸時代以降のことだそうだ。幽霊というものが絵画に登場するのはもっと前の時代である。中世から近世初めにかけての御伽草子系の絵巻には描かれているが現世の人間とほぼ同じようなものだ。初めて足のない幽霊が登場するのは1673年刊行の浄瑠璃本だそうだ。掛軸に描かれた足のない幽霊は円山応挙の手になるものだという。

いずれにしても、今では当然のように、幽霊は足がない、と思われているが、それはここ300~400年の間に定着した表現のスタイルであって、本当に幽霊がいるかどうか、ましてやそれに足があるとかないとかいうことは、誰も知らないということだろう。さらに言えば、欧米の幽霊は当人が一番お気に入りの服装で現れるとされているそうだが、日本の幽霊は帷子だか浴衣だかわからないような布切れをまとっている姿で表現されることが多い。本当に幽霊というものが存在するなら、登場の仕方も同じであって然るべきなのではないか。

霊感があるとかないとか、強いとか弱いとか言うのは、結局のところは思い込みでしかないのだろう。勿論、人間の五感で感知できることが世界の全てだとは考えていない。しかし、世の中のその手の話、あるいはその手の話を語りたがる人間というのは、どこか妙なことが多い気がする。幽霊が見える、というのは強迫神経症のひとつの症状でもあるという人もいる。まともではないのである。

ただ幽霊の表現に関して感心するのは、足がないことによって、その人物が瞬時にしてどこにでも登場できるように見えることだ。言うまでもなく人間にとって足は身体を支える器官でもあり、移動の手段でもある。移動の自由を極めようというのなら、この世のものとは思えないほどの健脚の持ち主として描かれてもおかしくないだろう。しかし、健脚よりも無いことにしてしまったほうが、移動に関して自由度が飛躍的に高くなるのである。そういう発想の飛躍に感心するのである。


孫帰る

2012年07月28日 | Weblog

横浜にぎわい座で落語会のダブル。13時半から談笑の独演会、18時から落語教育委員会。寄席も一度にたくさんの噺を聞くところだが、独演会や落語会となるとひとつひとつのネタ、ひとりひとりの受け持ち時間が長くなるので、寄席とは全く違った重みというか内容になる。落語はもちろん噺家の話芸だが、生身の人間が演じるのだから、そこにその場における関係性の表れとして噺家の口演を通じてその瞬間の時代とか文化といった全てが凝縮されて表現されている、と大袈裟な物言いもできなくはないだろう。何度注意されても口演中に客席で携帯電話の着信音が鳴るのも、自分では満足に扱うことの出来ない道具を持たないと生活できないという現実とか、不特定多数が上手い事折り合いを付けていこうとすればどうしてもマナーが不可欠だという人としての常識が理解できない畜生が人間界に紛れ込んでいるという現実とか、その場にそぐわない奴でも木戸銭さえ払えば入り込んでしまうという現実といったものを象徴していると見ることもできる。そう考えれば口演中の携帯着信音も鑑賞対象の一部になる。ちなみに、今日は談笑の「芝浜」のはじめのほうで、口演中に電話で話をはじめたお婆さんがいた。それを、しょうがねぇな、とは思いながらも風景の一部としてやりすごす演者も他の観客も今の時代の何事かを物語っている。

ところで喬太郎の「孫帰る」のような噺を聴くと、落語はいいなぁとつくづく思う。人の先入観とか習慣を微妙にずらしたりひっくり返したりするところの面白さ、それを目の当たりにすることで自分のモノの見方が刺激されることの快感、といったものが落語の笑いのなかにあるように思う。ただ人を蔑んだような馬鹿笑いが世の中には蔓延しているし、そういうことにしか笑えない奴が多いのも現実ではある。落語がそうした馬鹿話と一線を画すのは、「孫帰る」のような人の心の奥深いところを、そっと撫でるようなところから起こる笑いにある。落語がもともとは法談だったことのDNAのようなものの表れがこうした新作にもあるのではないだろうか。「孫帰る」では、その孫がじいちゃんとの会話のなかで、この噺の真実を明らかにするくだりがある。そこを潮に会場全体の空気が一変する。たちまち水を打ったようになり、それまでとは別世界が現出する。何の舞台装置もなく、口演だけで、会場という無定形のものが生き物のように様相を変える。その真っ只中に身を置いていることの幸福のようなものは、ほかの演芸ではなかなか無いのではなかろうか。この水を打ったようななかで携帯が鳴ったら、鳴らした奴は即刻死刑だ。

 立川談笑 独演会

笑二 「唐茄子屋」
談笑 いろいろ小咄、「紙入れ」
(仲入り)
談笑 「芝浜」

開演 13時30分
終演 15時40分


落語教育委員会
古今亭菊六(9月21日に古今亭文菊を襲名し真打昇進予定) 「猿後家」
喜多八 「千両みかん」
(仲入り)
喬太郎 「おーい中村君」で終るのかと思いきや「孫帰る」
歌武蔵 「皿屋敷」

開演 18時00分
終演 20時25分

いずれも会場は横浜にぎわい座


ゆらぐ

2012年07月25日 | Weblog

不思議なもので、特にこれといった理由がないのにメールがたくさん来ることがある。広告のメールではなく私信のことだ。昔、ゆらぎ理論というのが流行ったが、私信の往来にも当てはまるということなのかもしれない。ひとつひとつは別にどうということもないものなのだが、そのままに放置できない相手だと、たとえ一言二言でも返さないといけないと思って応対している。そうなると、このブログを書いている余裕がなくなるわけで、今月は更新が滞りがちだ。更新が滞るとPVも減る。しかし、毎日のように書き続けていたこともあって少しずつ増えていたので、これを潮にどこまで減るのか観察してみたいとも考えた。が、空いてしまった日を埋めようと、こうして書いている私はやっぱり小さいなと笑ってしまう。


なかなかの景色

2012年07月24日 | Weblog

陶芸では先週から徳利を作り始めた。先週は結局ひとつもできなかったが、今日はとにかく形にすることだけを心がけて、なんとか4つ挽いた。先生からは「2回目でこれだけできればたいしたものだ」との評を頂いたが、まだまだ徳利にはなっていない。それでも蕎麦汁の容器くらいにはなるかもしれない、という程度のものだ。来週は仕事のほうの関係で陶芸をしている余裕が無いかもしれないが、なんとなく掴みかけた感を覚えているので、ここは続けて徳利を挽きたいところではある。

ところで、先日本焼きに出した壷が出来上がった。白化粧を掛け、飴釉の薄いのを掛け、さらに普通の濃さの飴釉を掛け、鉄赤と黒釉を散らし、酸化焼成にかけた。飴は好きでよく使うが、なかなか良い景色に仕上がった。


Mind the gap

2012年07月23日 | Weblog

朝、ネットラジオでニュースを聴いていたら、ロンドン大学の調査チームが地下鉄の駅を単位とした地域割で、それぞれの平均寿命を試算して地図にプロットしたものを作ったと報じていた。調査方法の詳細はわからないが、結果のほうはたいへん興味深いものだ。その調査によれば、平均寿命が最も長い場所はオックスフォード・サーカスで96歳。最も短いのはDLRのスター・レインで75歳。その差は21年もある。同じ路線でもテムズ川を挟むと格差が生じる姿も見て取れる。ビクトリア線のピムリコは84歳、テムズを挟んだ隣駅のボクソールは78歳だ。これほど極端ではないが、ノーザン線のバンク/モニュメントとロンドン・ブリッジの間、ジュブリー線のカナリー・ワーフとその前後との間、ウォータールーとエンバンクメントやウエストミンスターの間などにもある。

だいぶ昔の話だが、深代惇郎がエッセイでこんなことを書いている。

さて、さきほど紹介した世論調査には、次の質問項目があった。
「階級を識別するのにもっとも重要な要素を、あなたはなんだと思いますか」
回答は、話し方(33%)、住所(28%)、友人(27%)、職業(24%)の順。服装(12%)や車(5%)はかなり低位にある(一人が複数の要素をあげる場合もあるので、回答の合計は100%を超える)。(『深代惇郎エッセイ集』朝日新聞社 23頁)

どこに住んでいるかというのはその人の育ちを物語るらしい。確かに通りひとつ隔てると雰囲気が微妙に変わるというようなところは、殊に欧州や米国の大都市ではよくあることだ。だからこそ、前衛的な人が敢えて難しい環境の地で活動しようというようなこともあって、かつてのスラムが再生したり、逆にそこそこの場所だったところが荒廃したりすることも、これまたよくあることだ。それでもこうして人の平均寿命というデータを見ると、土地の歴史というのは容易には変わらないものなのだとの思いを強くする。

ところで、東京はどうなのだろうか。なんとなく路線によって乗客の雰囲気が違うような気がするのだが、近頃は相互乗り入れで路線毎の差異が薄まっているかもしれない。東京オリンピックの前に首都高を整備したり、町名を変更したり、その土地の歴史を塗り替えるかのようなことを行政が果敢に実行したようだ。その目的はなんとなくわかるが、それで東京の暮らしはどれほど良くなっただろうか。所期の目的は達せられたのだろうか。

Metro Maps of the World: v. 2 (World Maps)
クリエーター情報なし
Capital Transport Publishing

伊東に行くなら

2012年07月21日 | Weblog

職場の旅行で伊東に出かけた。職場、と言っても4人のオッサンというささやかなものだ。上司が「みんなで温泉に行こう」という鶴の一声で、メンバーのなかの最若年が安いツアーを探してきた。東京から往復のバスによる送迎が付いて一泊二食で9,000円程度だという。ネットの口コミサイトは酷評の嵐。恐いもの見たさ、という言葉があるが、そこまで評判が悪いとなると却って行ってみたくなるというのが人情というものだ。

この旅行を手配した人の話によれば、予約は電話でするのだが、その電話が容易につながらないのだという。一月半ほど前に予約を入れたときには部屋も条件もよりどりみどりだったのだが、それから半月ほどして、やっぱりああしようこうしようとなって、条件の変更をするために電話をしたところ満室になっていたという。今朝、バスに乗る所定の場所に行くと、満室だから当然なのだが、バスも満席だ。こりゃやっぱり悲惨かな、と思いきや、宿に着いて通された部屋はこざっぱりとしていて快適だ。これなら食事が酷くても全く問題無いと思わせるほどだったが、食事もサイトに書き込まれているほど酷いものではなかった。ほんとうに美味しいものを頂きたいのなら、そういうところを選べばよいだけのことで、金は渋って実入りだけを求める盗人のような心情だと不満になるのは当然だ。むやみやたらに他人を匿名で非難するのもいるが、褒めるなら匿名でよいが、文句を言うなら正々堂々というのが文明と秩序ある社会の常識ではないだろうか。

目的地に着いたのが午後の早い時間で、昼飯がまだだったので、さっそく街の散策がてら食事に出かける。メンバーのなかに伊東は初めてという人があり、彼にこの地の名物を尋ねられたので、真っ先に思いつくのは金目鯛ですね、と答える。他の人の答えもほぼ同様であったようで、昼飯と土産の干物は金目鯛と決めて歩き始める。とりあえず海へ向かって歩き始め、ほどなく小さな干物屋の前に出る。金目の干物が欲しいというと、店の人は高くてあまり出ないので置かないという。干物はとりあえず置いておいて、昼飯で金目の料理が食べたいというと、その近くにある魚屋の2階にある食堂を紹介してくれた。

おそらく、こうして教えてもらわないとたどり着かない食堂だ。狭い鉄製の外階段を上っていくという所為もあり、道路を歩いていて店の入口に気づかない。それなのに、閑古鳥が鳴いている風ではなく、小綺麗な店内であるところを見ると、これは期待できるかなと思う。4人で、「金目定食」というのと、店の名前を冠した定食に分かれた。あれこれ話をしながら20分ほど待っただろうか。私は店名を冠したほうだったが、金目のあら煮とカマ焼きがあり、これを「金目定食」と呼んでもよいほどの内容だ。なるほど地元の人のお勧めだけあって旨い。

食堂のおばさんに金目の干物を買うのにオススメの店を尋ねてみた。その答え方が良かった。勧めるというわけではないけれど、ウチで食べるのに買っているのは、と言ってその近所の卸売業者を教えてくれた。これまた観光客相手ではないので、店の場所が路地裏にあってわかりにくい。構えも干物屋というより水産物加工作業所という風情だ。それでも手書きで「小売りします」と書いた紙が貼ってある。箱に入ったままの干物をあれこれ見せてもらっているうちに、最初は買うつもりがなかった私も食べてみたくなった。それで実家宛に金目鯛、カマス、サバの味醂干し、鯵を買って送ってもらった。

海のほうを少し散策した後、宿に戻り、たくさんある大浴場をふたつみっつハシゴして、食事の後は近所の川へ蛍狩りに出かける。川が大きいので風情はいまひとつだが、蛍は確かにいた。


On ne voit bien qu'le coeur. l'essentiel est invisible pour les yeux.

2012年07月20日 | Weblog

菅野さんに作っていただいたカバンのインナーケースに刻まれた彼から私へのメッセージが解読できた。サン=テグジュペリの『星の王子様』の一節だ。菅野さんの好きな言葉のひとつだという。そういえば、以前にメールのやり取りのなかで、この台詞が出て来たことがあった。私もその通りだと思う。上辺だけを眺めて物事を「見た」つもりになってしまうと、そこから先に思考が進まない。見たつもり、わかったつもり、というのは思考の大敵だ。ほんとうはどうなのだろう、その向こう側に何があるのだろう、という想像を働かせることがなかったら、世の中は平板でつまらないものに見えてしまうだろう。そうなったら生きていてもしょうがない。生きていてもしょうがない奴とつきあってもしょうがない。「On ne voit bien qu'le coeur. l'essentiel est invisible pour les yeux.って、いいよね」そう言い合える人を大事にしたい。

星の王子さま―オリジナル版
サン=テグジュペリ
岩波書店

大は小を兼ねない

2012年07月17日 | Weblog

陶芸では昨年夏以来、壷を作り続けてきたが、今日はこれまでに経験の無い徳利に挑戦。まずは先生が説明をしながら目の前で2つ挽いてくださったが、いざ自分でやるとなると全く思うようにならない。ポイントは少し厚めに挽くことと、手元の水分を多めに維持すること。口をすぼめたり胴を張らしたり、かなり負荷をかけて挽くので、とにかく摩擦係数を小さくして負荷を小さくするように心がけることが必要だ。なかなか厚さの感覚をつかむことができず、3つお釈迦にする。ようやく徳利らしくなったと思ったら口の加工中に首がもげそうになる。とりあえず形になったのは2つだったが、最後に挽いたのは、首がもげそうにはなったが、なんとなく何かをつかめたような気がした。来週も徳利を挽き続けてみようと考えている。


わっ、くじらだぁっ! ほげぇ!!

2012年07月15日 | Weblog

室戸の捕鯨の生き字引と言われる多田運氏の案内で捕鯨ゆかりの場所を巡る。まずは宿の近くにある「山見」と呼ばれる見張りの人たちが詰めていた見張台跡を遠くから眺める。高いほうが遠くまで見通せるのだ道理だが、見張台が設けられたのは見晴らしのよい山の中腹、地上50mほどの場所だ。なぜその程度の高さかといえば、山見からあれこれ報告や指示を発するのに声が届く程度の高さなのだという。捕鯨は300人ほどの集団で行ったのだそうだが、いろいろある役割のなかで唯一、山見だけが世襲だった。それは視力の良い家系というものがあると認識されていたからだ。身の丈、という言葉があるが、人間が自分の身体能力の範囲内で生活していた頃の物事の仕組みは、無闇に「技術」に頼る今の時代よりもかえって合理的ではないかと思う。

鯨は巨大な生物だ。それを人力とわずかな道具類だけで捕獲しようというのだから、いくら集団で立ち向かうと言っても、命がけであったことは確かだ。もともとこの地で捕鯨が始まったのは秀吉の時代だ。朝鮮出兵後、その報復を恐れて俄に海防意識が高くなり土佐国主は200名の軍兵を土佐湾防衛のために配備した。兵は配備したが、その食い扶は現場責任者に委ねられた。200人もの食糧や生活費を捻出するには何か仕事をしないといけない。その現場責任者、多田五郎右衛門は沖合を行く鯨を眺めて、こいつを食おうと考えたらしい。ただ食うのではなく、鯨を敵船に見立てて軍兵を組織的に運用することで軍事訓練にもなる。こうして1624年に多田が藩の許可を得て鯨船13隻を建造、捕鯨集団である津呂鯨組を組織した。ここに土佐の捕鯨の歴史が始まるのである。この古式捕鯨は明治に入ってノルウェーで開発された銃殺捕鯨が導入されるまで300年近く続くことになる。銃殺捕鯨導入後も引き続き土佐は日本における捕鯨の中心的な位置を占める。

古式捕鯨では捕獲した鯨を浜に上げて解体された。その浜を鯨浜と呼ぶが今でも往時の石畳が残る浜がある。石畳といえば、津呂港近くに王子宮という津呂の町の氏神様を祀った神社がある。ここの入口から本殿まで苔むした石畳が続いているが、かつてはそれが海に続いていたそうだ。厳島神社とはスケールが違うが、同じように海直結の神社だった。本殿内部には寄進された絵馬、船や鯨の模型、漁具、写真などが飾られている。人と自然との関係をどのように認識していたかということが、こうしたものに象徴されている。

土佐でも日本の他の古式捕鯨地でも、捕鯨漁師たちは獲った鯨を供養したという。そうした供養碑を奉納した寺があり、碑だけでなく鐘その他様々な寄進した。それらが今でも残っている。供養するくらいなら捕鯨をしなければよいのに、と思うかもしれないが、人には人の生活がある。「生活が第一」とかいう名前の政党ができたそうだが、その存在に必然性がなくても、当然のように自分(だけ)の権利を主張するのが人間というものだ。

それで、鯨を供養した話だが、今日訪れたのは宮地山中道寺。こちらは室戸にあったもうひとつの鯨組である浮津組を経営した宮地家によって建立された。神仏合祀は珍しくはないが、この寺にも神社がある。住職の説明よれば、仏法を守る守護神として神社があるとのこと。この寺では鯨の位牌を拝見した。たいへん大きな位牌で、ひとつの位牌で千頭分だそうだ。

鯨がもたらした富がどれほどのものなのか、自分の生活史のなかで経験のないことなので想像することすらできないのだが、今でも大型のマグロが1本何百万円という単位で取引されることを考えれば、その何倍かの貨幣価値になることくらいは想像できる。しかし、そういう何百万円もの市場価値のあるマグロを釣り上げるのが容易でないように、鯨をコンスタントに捕獲するというのは至難で、鯨組の経営はしばしば交代したそうだ。それでも挑戦者に事欠かなかったのは、捕獲した時の収入がよほど大きいものだったということだろう。ここ土佐に限らず鯨は「エビス」とも呼ばれ、どの漁港にも恵美須神社がある。日本画や大津絵などに描かれる恵比寿様は鯛を抱えているが、鯨は福の神だったということだろう。

捕鯨の他に、最近室戸を有名にしたのが世界ジオパークとしての認定だ。現在、日本には20カ所のジオパークがあり、このうち室戸を含む4つが世界ジオパークの認定を受けている。世界ジオパークというのはユネスコの加盟認定を得るもので、しかも4年間の期限付きだそうだ。更新のためには審査が必要で、現実に更新できなかったジオパークもあるという。ジオパーク認定のポイントは自然条件もさることながら、その特徴ある自然を地元住民の生活にどのように活かしているかということが重要視されるらしい。室戸の場合は官民一体となった観光誘致や地形由来の深層水を使った商品開発など、町おこしの努力が認められたということらしい。

しかし、室戸市あるいは高知県が一丸となってジオパークの振興に力を注いでいる、というわけでもないらしい。そもそも室戸市は1959年に安芸郡室戸町・室戸岬町・佐喜浜町・吉良川町・羽根村の4町1村が合併してできたものだが、それぞれに拠って立つ生活基盤が異なり、未だに地域によって街並みが異なる。吉良川のように農業中心の土地と旧室戸のような漁業系の集落では家の造りからして違うのである。土地によっては今でも物々交換のような経済が残っているのだそうだ。

尤も、物々交換というのは誰でもできるものではない。前提として目の前にあるものの価値を判断できなければならない。何かと言うとすぐに値段を聞きたがる奴がいるが、そういう輩は貨幣価値以外の価値尺度を持たないということだろう。あるいは持つ能力に欠けているということかもしれない。単一の尺度で全てを測るというのは、物事の表層しか見えず、背後に蓄積された意味を推し量る当たり前の想像力や教養が無いということでもある。若いうちなら仕方がないところもあるが、私自身が余命のカウントダウンに入っているので、残念ながらそういう面白くないのと付き合う余裕がない。結局、生活の豊かさとは楽しさのことだと思う。それを享受するには、たくさんの自分自身の尺度を持ち、臨機応変にそれらを使い分ける能力がなければならない。できることなら、そういう物々交換が今でも息づいている土地で暮らして、多少なりとも自分のモノサシを増やしたり磨いたりしてみたいものだ。ここで実際の話として聞いたことだが、ある人が面倒を見てくれた人への礼に真冬に岩海苔を採って贈ったそうだ。もらった人は、真冬に岩海苔を採るということがどれほどたいへんなことなのかを知らなければ、相手の感謝の念を受けとることができない。知っていればきっと感激するだろう。同じ物を前にして「しょうもないものを」と片付けてしまう人もいれば、「なんてたいへんなものを」と感激する人もいる。市場経済では「透明性」とやらが尊重され、一物一価が原則だが、それで物事が済まされてしまう社会の貧しさに危機感を覚えるようでなければ、人は絶対に幸福というものを感じることはできないだろう。

夜の日本航空便で羽田へ戻る。明日は家事。ほげぇ。


ほんとうのことは誰も知らない

2012年07月14日 | Weblog

早起きをして高知に来た。みんぱく友の会の体験セミナー「鯨と人のくらしを考える」に参加したのである。セミナー最初のプログラムは国立民族学博物館の岸上伸啓先生の講義。捕鯨の歴史について駆け足で概観するものだ。特に印象に残ったのは、捕鯨で天地がひっくり返るような経験をした人々がいるということ、捕鯨をツールに世界を変えることができるということだ。

明治維新は黒船に象徴される欧米の恐喝外交が大きく影響したのは確かだろうが、それ以前に幕藩体制の矛盾が蓄積されていたからこそ、外圧が体制転換の引き金になり得たということだろう。その黒船の来航は当時最大の捕鯨国であった米国が捕鯨船団に対する補給基地の確保を国益として必要としていたことによる。

「捕鯨」というと私はすぐに鯨肉を思い浮かべるのだが、これまでの捕鯨史において食用目的を主体として遠洋捕鯨を行ってきた国は少ないらしい。米国にしても、英国やオランダにしても、捕鯨目的は照明用灯油や石鹸の原料となる脂肪油の確保であったという。脂肪確保後の死体は廃棄していたのだそうだ。捨てるところ無く全て消費するというのは、日本や北欧の一部のほかはイヌイットくらいらしい。

自国の捕鯨船団のために他所の国を恫喝してまで補給基地を設けていたほどの国が、今は反捕鯨を訴えている。なぜなら、もはや捕鯨は国益ではなくなってしまったからだ。19世紀に石油が「発見」されて以来、油は鯨から獲るのではなく、原油を精製して作るようになった。だから欧米は産油国での油田の権益には目くじらを立てるのである。時に過敏に反応して「I’m sorry」というようなことにもなるわけだ。

戦後作られたIWCを中心とする鯨資源の国際管理システムは管理というよりも数ある官僚組織のひとつ、パーキンソンの法則を例証する組織のひとつにすぎなくなっている。要するに、今は捕鯨は本来の目的を離れ政治のツールとなっている。現在、IWC加盟国は88あるが、なかには捕鯨とどのような関係があるのかわからないところもある。アジアではモンゴル、ラオス、カンボジア、欧州ではスイス、オーストリア、サンマリノ、チェコ、スロバキア、他、海がないのに捕鯨を論じるわけである。捕鯨と国益の直接的連関が薄れたことで、かつてのように捕鯨で一国の歴史がひっくり返るというようなことはなくなったのだろうが、捕鯨にまつわる立場によって思わぬところでややこしいことが起こらないとも限らない。

海は世界をつなげている。内陸の国であろうと海路と陸路の組み合わせで往来可能だ。目の前の鯨肉だけで鯨と人の生活を論じることができるほど単純な世界ではないのである。どのような些細なことも火種になりうるし、また逆にそれで友好を深めることにもなるかもしれない。大事なのは現象の背後にどのような考え方、意思が機能しているのかということだろう。本当に「地球環境」などという漠然としたもので人間の世界が動くはずはないのである。


新しいカバンを手に

2012年07月12日 | Weblog

昨日の昼頃、菅野さんから電話をいただいた。かねてお願いしてあったカバンが出来上がったという。ちょうど今日、都内のホテルでポルシェのイベントがあり、そこにブースを設けるので、そこで受け渡しということになった。午後7時頃に会場にお邪魔するということになっていたが、帰り際になってばたばたとしてしまい、職場を出たのが午後7時10分前になってしまった。

近頃、高級車が売れているらしい。「The Porsche Summer Summit」と銘打たれたそのイベントは、終了時間30分前でも熱気に包まれていた。会場入口で菅野さんに電話をしたのだが、これでは着信に気づかないだろうと思ったが、まさしくその通りだった。受付で取り次ぎをお願いして、会場に入れてもらい自社ブース前で接客中だったご本人にお目にかかることができた。いよいよ憧れのカバンとの対面だが、そこで開梱するには混み合い過ぎていたので、カバンの中に入れて使うインナーケースだけ開けてみる。カバンのほうは赤く染めた牝牛の革をはってあるのだが、インナーケースのほうはスクラッチ加工で、水面のようになっていて、見る角度によって表情が変わる。そのインナーの表面に私の名前が刻まれていて、その下に何やらフランス語のようなラテン系の言語でメッセージが彫ってある。何が彫ってあるのか教えて頂けなかったのだが、後でルーペで拡大して解読してみる楽しみができた。

自分が生活のなかで使うものを自分で作る、自分で作れないものでも自分が知っている人が作る、せめて誰が作ったものなのか知ったうえでものを買う、というのは人間の長い歴史のなかでは当然のことであったのではなかろうか。だから、そこにはわざわざ「保証」とか製造物責任にまつわるあれこれの法規を設けなくとも、生活の安全は守られていただろうし、なによりもモノを媒介にした人と人との結びつきがあったのではなかろうか。それが市場原理とやらが神の如くに幅をきかせるようになって、「経済合理性」という不合理に人々が走った結果、モノは消費の対象でしかなくなり、人は孤独に陥るようになった、というのが現状なのではないか。市場原理のおかげで確かに安価で安定した品質のものを好きなだけ手にすることができるようになった。しかし、そこに流通しているのは作り手と使い手が没交渉で価格情報に取引に必要な情報が全て集約される「商品」だけになってしまった。商品は消費されることで商品としての存在意義を持つ。消費されなければ不良在庫というコストでしかなくなってしまう。かといって、消費されれば、それは即ち中古品となり商品価値は減価する。完成して市場に流通し、売買された瞬間に価値が極大化し、その直後に急激に減価する、というのが圧倒的に多くのモノの運命だ。そういうものを使いながら生活している圧倒的に多くの人々もまた、似たような状況に置かれているのではないか。日々自転車操業のように消費を継続することによって生活が成り立っているとしたら、消費しているのは一体何なのか。自分の手に入った瞬間に消えてなくなるようなものを手にするためにあくせくする人生とは一体何なのか。

カバンの受け渡しかたがた、その場に居合わせた「妙乃燻上」の津川さん、浦安のカフェの店長のIさん、インダストリアルデザイナーのIさんと1時間半ほど歓談して失礼させていただいた。午後8時終了とのことだったが、午後9時になってもけっこう大勢の人が会場にいた。菅野さんを拝見していつも思うのだが、自分の分身のようなものを創り続け、それを世に出しつづけることで、そこに人が集うというのが、人の社会のあるべき姿なのではないだろうか。私などのように、創造活動とは無縁にひたすら労働力商品として己の存在を切り売りし続けるというのも滅びの美学として美しい生き方かもしれない。しかし、そんなふうで果たして楽しいだろうか。自問自答するまでもないことだろう。

恵比寿に来たついでに風花に寄る。そこでカバンの入った箱を開け、真っ赤な革張りのジュラルミンケースと対面。圧倒的な存在感だ。その存在感に負けない生活を創り上げないといけない。このケースが今こうして私の手元にあるのは、勿論、菅野さんとのご縁があるわけだが、やはり昨年暮れに失業したことが大きく影響している。あのことをきっかけにいろいろなことを考えた。あれを機に自分の生活を仕切り直し、今このカバンを手にして、ようやく仕切り直した生活が始まろうとしているかのような気分である。


ゆめうつつ

2012年07月11日 | Weblog

虚構に対して現実、というのが一般的な認識ではないだろうか。現実というのはどれほど確たるものなのか、ろくに考えもせずに語られることが多いような気がする。タブッキの作品には主人公が誰かを探して八方手を尽くすが、結局探していたのは自分自身だった、というものがある。『インド夜想曲』がそうだし、この本のなかで語られている『遠い水平線』もそれっぽい。そうした作品を読むとき、迷路の中を彷徨う不安な気分に陥るのだが、その不安感にデジャヴを覚える。おそらく、小説を読んでいるつもり、つまり、虚構だとわかっているつもりでいながら、そこに自分の日常に漂う不安の空気を感じ取るからではないだろうか。果たして、自分が今「現実」だと認識していることがどれほど確かなことなのだろうか。そもそも現実とは確かなものなのだろうか。

蛇足を承知で書くのだが、『古今和歌集』にこんな歌がある。

君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢か現か 寝てかさめてか

これには以下のような説明書きが付く。

業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人に、いとみそかにあひて、またのあしたに、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける

そしてこの歌には在原業平からの返歌がある。

かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ

(以上『新版 古今和歌集』角川ソフィア文庫 296頁)

そういう夢うつつ、虚構のような現実、現実のような虚構もあるものらしい。そんな世界なら夢でもうつつでも、現実でも虚構でもどうでもよくなってしまう。 

他人まかせの自伝――あとづけの詩学
アントニオ・タブッキ
岩波書店

いけるところまで

2012年07月10日 | Weblog

陶芸は午後6時からだが、さすがにこの時間に間に合うというのはなかなか無い。一方で、終わりは午後8時半なのだが、この時間までに片付けを終らないといけない。しかも仕事の都合で出席できないこともある。以前に比べると時間の制約は格段に厳しくなった。しかし、それによって作業時間や段取りというものを以前よりも強く意識するようになった。昼間の仕事もだんだんに考えなければならないことが増えているので、週一回とはいえ、いつまで定時退社できるものかわからないが、引き続き行けるところまでいってみようと思っている。自分のなかで「ぎりぎり」を感じたら、そこから今まで見えなかったものが見えるようになるかもしれない。