熊本熊的日常

日常生活についての雑記

『落語教育委員会』備忘録

2012年08月30日 | Weblog

喬太郎 子どもの頃に『ぼくの動物園日記』という漫画があったんです。カバ園長の若い頃の実話を漫画にしてるんですけど、時代は戦後すぐで、あるお客さまが上野動物園でキリンにミカンの皮を何となく放ったんです。するとキリンが食べるんですよ。「あ、ミカンの皮が好きなんだ」って、みんながミカンの皮を放ると、キリンは喜んで食ってるんですけど、そのうちバタバタ死んでいくんですよ。解剖すると、ミカンの皮が塊になってバケツに何杯も出てくるんです。消化しないんですね。それで、飼育員さんが「ミカンの皮をあげないでください。キリンが死にますから」って言っても「あんなに喜んで食ってるじゃないか。俺たちだって食えなかったんだ。やっちゃえ、キリンは食ってるぞ」ってあげちゃって。好意なんだけど、キリンは死んでいくんですね。たまにこの話を思い出すんです。(第1章      道徳 噺家の了見、お客さまの了見 35-36頁)

歌武蔵 とにかく何を言うかじゃなくて、誰が言うか、そこが大事なんだよね。酒席でもそうでしょ。何を飲むかじゃなくて、誰と飲むかなんだよ。(第1章      道徳 噺家の了見、お客さまの了見 38頁)

歌武蔵 真打になるまで十数年一緒にいると、師匠の嫌なところとか、おかみさんの嫌いなところがわかるわけ。そうすると、ほんとうの親子になっちゃうんだよ。百パーセント大好きじゃないの。

喜多八 そう、いいこと言う。師匠のことを書いた本でも、みんなわざとらしく書いてて、肌合いが感じられないよな。読む人はそう思うんだろうけど、ほんとうはそうじゃなくて、もっとお互いにドロドロしてて、だからこそ疑似親子なんだからさ。(第2章 社会 師匠と弟子の奇妙な関係 91頁)

歌武蔵 じゃあ、お二人とも『時そば』の時刻のこととか、まあ他のことでもいいんですけど、特に説明や解説は?

喜多八 そういうむずかしいことは、かえって説明しないほうがいいじゃない。

喬太郎 でも、説明なさるかたもいらっしゃいますよね。特に学校寄席なんかに行くと。だけどそうすると、やっぱり落語ってあらかじめ予備知識がないと聞けないんだ、みたいなことになっちゃうのが怖いんです。

喜多八 それだ、そこに落ちた。今は野暮ったい奴が多いんだよ。マクラで、やたらと俺は知ってます、みたいなさ。あんなのは素人のやることだよ。もっとお客さまを信用してやんなきゃダメなんだよ。逆に、私はこれまでです、どうぞあとは勝手にお取りくださいっていうのが、前で勝負するってこと、商売するってことなんだよね。だから、お客さまに「俺は知ってるぞ」って言うのはほんとうは一番野暮ったいんだと思うね。
(第3章 国語 高座と言葉のリアリズム 110-111頁)

喜多八 マクラとか出だしでどうお客さまをつかむかというのは、みんな苦労してるわけですよ。どう計算してるかじゃなくて、職人として何回もやってるうちに、どこか自分でその糸口を見つけていってるなというだけで、無理につくったって無理なわけで、でも若いうちは無理につうろうとしなきゃダメなんだよね。情熱がなきゃね。
 失敗したものが勝ちなのよ。みんな失敗はしたのよ。つまりそれを恐れない度胸があるからこうなってる。
(第3章 国語 高座と言葉のリアリズム 122頁)

喜多八 そう、そう。なまじ突き詰めちゃうと、「それは嘘だよ」って言われたときにそこで破綻しちゃうんだよ。古典でもそうで、どうでもいい人がそういうところを突いてくるんだけど、ほんとうはそういうのはどうでもいいことなんだよな。(第4章 工作 「新しい」噺の作り方)

落語教育委員会
柳家 喜多八,三遊亭 歌武蔵,柳家 喬太郎
東京書籍

多体問題

2012年08月29日 | Weblog

確か同じ題で以前にも書いたような気もするが、内容は全く違うことだ。昨日、職場でリストラと「異例の」人事異動があった。2人退職勧奨を受け、それとは別に自分の上司が異動することになった。異動は昨日の発令で今日先方へ着任という慌ただしさだ。「リストラ」と書いたが、来週月曜に後任が4人入社するそうなので純増だ。いろいろなことがあるものだ。

今の職場はずいぶん前からあれこれいろいろあって、担当役員や管理職のなかには精神を病んでしまう人も何人かおられるとのこと。どうしてそういうことになるのか、傍観者の立場で眺めているとなんとなくわかるのだが、そういうエトセトラを教えてくれた隣の席の人がうまいことを言っていた。小さな水槽のなかで種類の違う魚を飼うようなもの、なのだそうだ。熱帯魚などの飼育経験がある方ならすぐにおわかりになるだろうが、水槽の中に安定的な生態系と魚社会を形成するのは容易なことではない。なによりも水を安定させるのがたいへんだし、魚の組み合わせにも飼う側の経験と知識が必要だ。魚はもちろん1種類だけなら、個体間の問題は皆無ではないが、比較的容易に水槽が落ち着く。2種類でも、その相性というものはある程度知られていることなので、選択を誤らなければなんとかなりそうだ。問題はそれ以上の種類を飼う場合だ。水族館にあるような、棲み分けができるくらいの大きな水槽を準備できるならよいのだが、そうではないと至難というより不可能に近い。これも所謂「多体問題」と言えるのではないか。私のような下々は水槽の中には入れないので、そのなかで右往左往する高級魚を眺めているだけなのだが、右往左往しているほうは相当なストレスを感じているはずなのだ。解のない世界で解を求め、あるのかないのかよくわからない未来を想う。なるほど、精神を病むのも無理はない。ちなみに、今回の解雇も異動も精神の問題とはとりあえず関係のないことのようだ。


やっぱり顔が語る

2012年08月28日 | Weblog

何ヶ月かおきに必ず連絡をくれる友人がいる。今日の午前中、彼から電話があって昼食を共にすることになった。そこでは当然に互いの近況の話になるのだが、私たちが働いている業界は構造不況業種なので、どこがリストラをしたとか、どこが身売りをしたとか、あまり明るいとは言えない話題が多い。尤も、今や日本の産業はどれも構造不況業種なので、我々だけのことではないのだろう。今日のことに限らず、同業の友人知人と私的な会合を持てば、必ずと言っていいほどに雇用に対する不安が話題に上る。

 今日会った彼は、最近、中学の同窓会に何十年ぶりかで出席したそうだ。郊外の比較的農地が多い地域なので、農業をしている人も少なくないとのこと。そこで彼はあまりあくせくしているようには見えない農業をしている友人たちにある種の憧憬を抱いたというのである。それとは対照的に、大学卒業後最初に勤めた先の同期会も同時期にあって、それには出席しなかったが、その写真がSNSにアップされていたそうだ。つまり、どちらも出席者の年齢は同じなのだが、外見がかなり違うというのである。当然ながら、農業をしている人のほうが見た目が健康的で、それもまた憧憬の一要素なのだろう。おそらく、そこには体型の違いだけでなく顔や表情といったものの違いもあるはずだ。

先日、レーピン展で肖像画が面白かったという話をここに書いた。やはりある程度の年齢になると、自分の顔というものを良くしようという強い意志がないと、生活に流されたものになってしまうということなのだろう。その生活がしっかりとしていればそれに越した事はないのだが、椅子取りゲームのような社会のなかで鷹揚に構えているには、やはり強い精神力が必要になる。その力は自分が何を良いと考え、どのように残りの人生を送ろうとしているのか、というような価値観の有無に依拠するのだろう。やはり顔は大事だとの思いを新たにした。


ういろ

2012年08月27日 | Weblog

職場の人に「薄茶ういろ」をいただいた。神戸市長田区にある、ういろや、という店の商品だ。ういろというのは名古屋の名物だとばかり思い込んでいたが、そういうわけではないようだ。この「薄茶ういろ」は、たいへんやわらかで、上品な甘さだ。洋菓子も好きだが、和菓子の繊細な旨さには勝らないような気がする。それは自分が日本人として生きて、日本の味覚に馴染んでいる所為も勿論あるだろうが、それだけではないような気がする。一竿いただいたので、明日と明後日の朝食はういろになりそうだ。


顔が語る

2012年08月26日 | Weblog

子供と一緒にBunkamuraでレーピン展を観てきた。これまであまり観たことのない作家だったので、どのような作品が並んでいるのか素朴に興味があった。「船曳き」は有名だが、同じモチーフでたくさんの作品を描いたとは知らなかった。他の肖像画にも通じることだが、人の顔に強い興味を持っていた人のように感じた。もちろん、顔は人そのものの表象でもあるわけで、そこに興味を抱かない人などいないだろうが、表情の選択というか造りが並の肖像画とは違うように見えるのである。なにがどう違うということは説明できない。ただ、その一瞬の表情の向こう側に、その人の人となりとか感情といったものが透けて見えるような気分になる。

以前、何かで写真よりも画のほうが写実的だ、というようなことを読んだ記憶がある。例えば、事件の犯人を探す際に、指名手配写真というものは当然に配布されるのだが、同時に似顔絵が公表されることも少なくない。犯人逮捕のきっかけになるのは写真よりも似顔絵によって得た証言などに拠ることのほうが多いそうだ。それは、写真が文字通り一瞬のものであって、似顔絵には、本人の顔を見た人の印象が盛り込まれることになり、それが顔だけでなくその人全体の雰囲気をも醸し出すから似顔絵のほうが当事者の表現としては「写実的」なのだ、というのである。

肖像画には、作家の家族のような、それこそ描く対象の内面まで作家が了解しているものもあれば、顧客の求めに応じて機械的に描くものもあるだろう。レーピンの場合は、必ずしも交際の無い相手であっても、そこに対象の精神性を見出そうとする姿勢があるように感じられるのである。それこそ「船曳き」も、人間の集団を風景のように描いているものもあるが、集団のひとりひとりの個性を描き分けようとしているかのようなものもある。歴史上の人物を描くにしても、そこに歴史を感じさせない。無名の人も、知人のように感じられる。そんな人物像が表現されているように見えるのである。

ふと、自分の顔を考える。既にそこにあるものは今更どうしようもないじゃないなかと思う。しかし、機嫌良い時間を重ねればそういう表情が定着し、それが人格にまで及ぶのではないかとさえ思う。逆もまた真。人のセルフイメージと周囲の人々による人物評は違うのが当たり前だが、表情やしぐさといった眼に見えるものを意識しなければ、結局は自分の幻想の奥深くに埋没して世界と上手く交わることができない、ということなのかもしれない。


水を打つ

2012年08月23日 | Weblog

会社帰りに博品館劇場で喜多八の独演会を聴く。いままで落語教育委員会でしか聴いたことがなかったが、ずっとこの噺家の独演会を聴いてみたいと思っていた。漸く念願叶ってみると、期待を裏切ることのないものだった。

開口一番の後、喜多八最初の噺は「粗忽長屋」。先日、よみうりホールで小三治がトリに口演したのも「粗忽長屋」。こうして短い間を置いて師弟の噺を聴き比べるのもおもしろい。もちろん噺だけを比べるなら、今は様々な媒体があるので容易なことなのだが、生で比べるとなるとそれぞれの会場の違いもあるし本人の調子もその時々なのだろうから、一回性の経験だ。

二番目の「青菜」は滑稽話だが、今の時代はこれで笑いを取るのは容易でないような気がする。職人とそれを使う立場の人間の生活観の違いであるとか、噺の舞台となっている時代の一般教養がどのようなものであったのかというようなことがある程度想像できないと面白くないだろう。噺家の技量も勿論大事だろうが、聴き手のリテラシーが問われるのも落語、殊に古典落語といわれるもののひとつの特徴であるように思う。ただ面白おかしく、というのではなく、なるほどこういうことか、と感心するのもまた楽しい。

曲芸を挟んで最後は乳房榎の前半部分。水を打ったよう、という表現があるが、会場全体が噺に聴き入って静かに一体となったところで、「この続きはまたの機会に」というサゲになる。本当に続きはあるのだが、客は噺に聴き入っていた自分に気付き、サゲに我に返ってそれまでの緊張が一気に弛緩するという、たいへん高度な高座だ。その場に自分が居合わせたことの嬉しさを感じるのも落語の愉しみだ。

開演:19時00分
終演:21時30分

演目
ろべえ おでん
喜多八 粗忽長屋
喜多八 青菜
(仲入り)
初音 太神楽曲芸
喜多八 人情噺 乳房榎

会場:博品館劇場


最後の課題

2012年08月21日 | Weblog

久しぶりに陶芸に出かける。自分の仕事の都合に教室の盆休みが続いて3週空いてしまった。工程としては、徳利を挽いた後の乾燥なので、ちょうどよいのだが、他の仕掛かりもあるし、何より自分が土に触る機会を持てなかったことで多少の欲求不満は溜まっていたかもしれない。今日は夜が待ち遠しかった。何かが「好き」と言うときの感覚は、こういうものなのだろう。理屈ではないのである。4月に新しい仕事に就いて以来、時間のやり繰りで多少難儀はしているが、そういう制約があってこその工夫や創意も生まれるかもしれない。事に当たって目先のことを口実にして手間隙を惜しみ、そのままでは現実生活に厄介の種となるかもしれない自分の気持ちに素直に従うことを回避するというのは、もう止めないといけないと思っている。思い返してみれば、好きな事をずっと続けたという経験が無い。人生最後の自分に対する大きな課題のつもりで自分の「好き」を追い続けてみたい。


「ごめんなさい」

2012年08月20日 | Weblog

先月から世間で謂うところの婚活を始めたので、けっこう掲示板上のやり取りに追われて、このブログの更新が疎かになっている。その所為でPVも訪問IPも減少基調に入っている。別にPVが増えたからといって、何か良い事があるわけでもないので一向に差し支えない。この際、これを機に通りすがりのPVが減るように、更新頻度を今のままにしようかと思っている。

ところで婚活サイトだが、予想以上に活発で、正直なところついていけない。活動開始直後は自分からも「申し込み」を出していたが、今はそういう余裕が無い。「申し込み」を頂いて、それを承諾すると掲示板が立つのだが、そのやり取りだけでけっこうな時間的負担になる。今は「申し込み」を頂くばかりで、ついに自分から出したのはこの1ヶ月で皆無だ。いっぺんに何人もの人と、それなりの中身のある会話を続けるのは容易ではない。せいぜい5人くらいが限度ではないだろうか。そもそも私は人付き合いが好きでもないし、そういうことには不器用なのである。それでも、いただいた「申し込み」には全て応じて来た。それが今日初めてお断りしてしまった。相手が10歳ほど年長だったので。


儲け物

2012年08月18日 | Weblog

今日は夜に日本民藝館での講演会があり、その前に時間が中途半端に空いてしまったので、山種美術館に寄ってみた。「美術館で旅行!」というチャラいタイトルだが、これがなかなか見応えのある展示だった。展示は大きく分けると広重の「五十三次」シリーズ、日本画の日本の風景画、日本画の海外の風景画、洋画の風景画、という4つのカテゴリーだ。テーマのまとまりという点でも、作品数という点でも、「五十三次」は面白かった。これは単に江戸日本橋から京都三条大橋までの宿場の風景を並べたというのではなく、時間の流れに留意しつつ、時にそれを崩すことで単調に陥らないようにする、というような配慮がなされているらしい。出発点は江戸の日本橋。「朝之景」とあるように時刻は暁七つ、画面からもわかるように夜明けの時分だ。画面全体の明暗もさることながら、時刻の表現は空の描き方が肝要と言えるだろう。手前の木戸、仕入れた魚介類を天秤棒にぶらさげて歩く魚屋の一団、日本橋を越えてくる大名行列の先頭、その毛槍と円形の火の見櫓が響き合い、その向こう側に広がる明け方の空が刻々を変わりゆくかのように見せている。空の青の濃淡といい、そうした全体の表現といい、こういうものが版画として多くの人々の目に触れていたということに心動かされる。浮世絵とういものはすごいものだなと改めて思う。作り手も、それを需要する側もどちらもだ。今回の展示で初めて知ったのだが、大井川の川越(かわこし)風景は2点ある。嶋田と金谷であり、嶋田のほうは川を越えようというところの風景で、金谷のほうは越えたところの風景だ。同じ場面を2点で表現するというのは、それだけこの川を越えることが大変だったということなのだろう。

箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川

難所と言われた「天下の嶮」箱根より、もっと大変だというのである。その箱根のほうは、ちょっとモダンな感じの画面だ。山のモザイクのような表現が近代以降の抽象画を彷彿させる。

山種美術館は山種証券(現 SMBCフレンド証券)の創業者である山崎種二のコレクションをもとに設立されたものである。証券不況や相続で流出した作品もあるようだが、蒐集の視点に統一性があり、いつ出かけてみてもがっかりさせられることの無い美術館だ。今日は週末であるにもかかわらず、暑い所為なのか、タイトルがいまひとつの所為なのか、来館者も少なくていつになく気持ちよく鑑賞を楽しむことができた。欧米の大都市と違って東京には弩級美術館が無いが、山種のように、ちょっと思いついてふらっと立ち寄って、あぁいぃなぁ、という気分になる美術館が数多くある。こういうところはデジタルで表現できないが、間違いなく「豊かさ」のバロメーターのひとつだと思う。むしろ言語化できない「豊かさ」をどれほど抱えているかということのほうが、GDPだの国民所得だのといったもので測られるものよりも個人の生活にとっては余程重要なのではないか。その「豊かさ」を守り育てるのは、結局はそこで生活するひとりひとりが、そうしたものを眺め楽しむということを生活のなかの当たり前のことにするという以外にはないだろう。そのためにはどうしたらよいか、自ずと明らかだ。


ある夏の夜

2012年08月13日 | Weblog

仕事帰りに小三治の独演会を聴いた。今年はこれで3回目だが、都心の会場で聴くのは初めてだ。人間どうしなのだから、その日その時の感じで同じ噺であっても口演は違ってくるだろう。それにしても、今日はこれまでとはちょっと違う感じを受けた。なにがどう、ということは説明できないのだが、なんとなく突き抜けた感を覚えた。暑さの所為もあったかもしれない。演じるほうも聴くほうも、「たっぷり」ではなく「そこそこ」を求めていたような気がした。

開演:19時00分
終演:20時35分

演目
〆治 ちりとてちん
小三治 湯屋番
(仲入り)
小三治 粗忽長屋

会場:よみうりホール


死装束

2012年08月12日 | Weblog

芸大美術館で開催中の契丹展を観てきた。契丹というのは10世紀頃に起こった遊牧民主体の王朝だそうだが、謎が多いのだそうだ。ひとつには昔のことだという身も蓋もない理由があるだろうが、契丹文字の解明が進んでいないことと、王朝の寿命が200年程度と短かったことによるのだろう。今回の展示は支配階級に属する人の墓とみられる遺跡からの出土品が中心だ。印象深かったのは、死装束だ。王冠、金の面、銀糸で編んだ網状衣装、銀靴。なんとなく宇宙人のような風情(宇宙人に会ったことはないが)を感じる金属尽くしのものだ。美しいかどうかは主観の問題だが、素材と加工技術を見れば、それが貴重なものであるのは誰でも想像ができるだろう。そうしたものが婚礼道具のなかにあったというのである。現在とは比較にならないほど人間の寿命が短かったのは確かだろうし、遊牧民という生活スタイルとしてはできることはできるときにやってしまう、ということで早々と死の準備をしていたであろうことも理にかなっている。それにしても、婚礼と死が結びつくというのは、なにかそこに死生観や人生観の深さを感じる。


伝えること 伝わること

2012年08月11日 | Weblog

谷中の絵馬堂を訪れる。店先に大きな日章旗が出ていて何事かと思ったら、女将さんがロンドンオリンピックを観に行ってきたのだそうだ。日章旗には常連客などから日本人選手への応援メッセージが寄せ書きにされており、それを持って行って来たとのこと。女将さんは直前に大病をされのだが、病み上がりの不安定な健康状況をおして、かねてから予約してあった今回の旅行にでかけてきたのだそうだ。それくらい楽しみにしていたということだ。ロンドンで撮影してきた写真を拝見しながら、現地の模様、殊に開会式の様子を仔細にうかがった。開会式は終ったのが現地時間で午前1時。その後、観客が街へ溢れ出し、パブなどに流れ込んで、あちこちで盛り上がって、あちこちで「ヘイ・ジュード」の合唱が起こり、そんな中を歩いたり地下鉄に乗ったりして宿にたどりついたのが午前4時。おかげで、翌日の女子サッカー対スウェーデン戦を観戦するために乗車することになっていた午前8時発の特急に乗り損なったとのこと。もう帰国されて1週間以上経過しているのだが、興奮さめやらぬといった様子で、聴いているだけでもその興奮とか楽しさが伝わってくるようだった。人に何事かを伝えようとするとき、一番大事なことは伝えたい何事かがあるということなのだということを改めて感じた。そして、自分が心底楽しいと思えば、その楽しさは言葉を超えて伝わるものなのだということも思った。そんなことは当然ではないかと思われるかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。「心底」の抜け落ちたメッセージが氾濫しているような気がする。それは自分の言葉についても言えることだ。美味しい料理と心地よい雰囲気も良かったが、今夜は女将さんのお話をうかがって、そういう勉強もさせていただいたと思っている。ありがたいことだ。


激しく落ち込む

2012年08月10日 | Weblog

2月に広島を訪れたとき、その活気に驚いた。そのことはこのブログにも書いたと思う。そのとき、少し考えれば気づいてもおかしくはなかったのだが、驚いて、その復興に励まされて、それだけで終ってしまったのは自分の思考力の欠如の証左だと今日気づいた。確かに妙なことだと思う。

仕事帰りに銀座シネパトスで『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』を観た。現役カメラマンである福島氏に2009年から2011年まで密着して撮影されたドキュメンタリー作品だ。映画のことは様々なメディアに紹介されているし、トレイラーや各種映画サイトに詳しいので、ここでは書かない。ただ、映像を観ていて感じたのだが、人は原理原則を貫こうとすると狂人のような存在になってしまう。確かに、映像作品化されているとはいえ、福島菊次郎はかっこいい。しかし、身近で暮らす人たちには「へんなジジイ」に見えているのではないだろうかとも思う。逆に言えば、我々の「常識的」な生活というものがいかに妥協と曖昧とに満ちているかということでもある。

いったい何を書こうというのだろう、とこれを読む人は思っているだろう。まず、この映像作品を観て、その上で読み直してもらえば、少しは違って読めるかもしれない。

それで広島だが、日本中至る所が人口減少と景気低迷の長期化に苛まれているなかで、広島も例外ではない。にもかかわらず、活気ある街の風景が現出しているのは人口の絶対数が117万人と大きい所為もあるだろうし、その知名度の高さから観光客が通年で多いという事情もあるだろう。県単位で見ても広島県は人口に関しては中国・四国地方において最大(約285万人、次が岡山県193万人、いずれも住民基本台帳に基づく2012年3月31日現在の数値)で、京阪神と九州北部との間を埋める地理的歴史的位置付けという事情も関係あるはずだ。それにしても、都内ですら年々シャッター商店街が増えているのに、なぜ、との思いが消えなかった。

それが今日観た映画の内容からなんとなく想像がついたのである。おそらく、原発や核処理施設の立地する自治体に様々な名目で様々な施策が打たれるように、広島も特別な土地なのだろう。自然に復興したのではなく、極めて強力な権力の意志によってそうなったのである。そして、その「復興」のイメージにそぐわないものは徹底的に排除されたのである。都市まるごとプロパガンダということだ。そして、そのプロパガンダにまんまとはまったのである。これが落ち込まずにいられようか。

ニッポンの嘘 ~報道写真家 福島菊次郎90歳~ - goo 映画


語り合うために必要なこと

2012年08月09日 | Weblog

別にこの本について何かを語ろうというのではない。一カ所だけ引用する。

「「内容なんか無いし、不用だ。もしあるとすれば全体の一パーセントでよい。」
 ポップアートに内容があるとすれば、知的逆説(パロディー)だ。オルデンバーグの巨大なホットドック彫刻のすばらしさは、ホットドックを実際にくった現代人しか理解できない。永遠美の追求を拒否し続けてきたぼくらにとって、ポップは除夜の鐘のようにがんがん鳴りひびいた。」(篠原有司男『前衛の道』118頁)

誰かと何事かを了解し合う、理解し合うためには、その物や言葉の背後に共通の経験が必要なのである。

ついでにもうひとつ引用する。愛用のほぼ日手帳の7月19日の頁から。

「じつは人の意識ってぜんぜん整理できてなくて、無意識のうちに知ってることや、無意識のうちに整理されていることが、行動において強烈に作用しているんです。だから矛盾も多いし、ロジックでは説明しきれない。ところが、いまの世の中は、「上手に説明できる人」≒「頭がいい人」ということになってる。ロジックは重要だけどあくまで後づけとしての説明。そこを間違うと、屁理屈が得意な人が増えていく。−−−池谷裕二さんが『脳の気持ちになって考えてみてください』の中で」

屁理屈というのは経験の裏付けがないことが多いので、それを得々と語っている人は滑稽に見えることが多い気がする。話を聞いていて、笑うところではないのに笑いがこみ上げてきて困ることが時々ある。

前衛の道 (GYUCHANG EXPLOSION!PROJECT)
篠原 有司男
ギュウチャンエクスプロージョン!プロジェクト実行委員会

ラストピースでピース

2012年08月08日 | Weblog

東京で暮らしていると人口が減ったという実感は湧かない。それもそのはずで、東京都だけ取り出せば、1990年代後半以降人口流入超過状態が継続している。しかし、日本全体では減っているというのは、あちこちで話題になっているので今や周知のことである。我々が生活している場において、数自体が力であるというのはよくあることだ。その上、社会の仕組みが人口が増加を続けるという前提で作られている。典型的には年金がそれにあたる。人口はある程度予測可能なので、人口が減ること自体は想定の内であったはずで、だからこそかなり以前から「制度改革」ということが念仏のようにあちこち至るところで唱えられてきた。もちろん、それで「改革」されたことは少なくないだろうし、消費税率が引き上げられるのもそうした「改革」の一環だろう。誰でも既得権益には敏感なので、「改革」というものがどれほど理にかなったものであったとしても総論賛成各論反対になるのは当然だ。それで本来は仕組みとして、一揃いとして設計された「改革」が部分だけ実施されて様々な新たな不都合が発生するということも、今はまだあまり聞かないが、そのうち出てくるのだろう。しかし、人口減少に伴う不都合や不合理がまだ現実味を帯びる状況にまでは至っていないので、どこか「改革」の真剣さが足りないようにも感じられる。不都合や不合理が現実の生活に濃い影を落とすようになってしまってからでは、どのような「改革」も役には立たないようにも思う。おそらく、そういう深刻な状況に置かれるのが自分なのだと理屈ではわかるのだが、現実味を感じることができない。尤も、そういう時を迎えるまで生きているかどうかもわからない。人口が減り始めた。いまにたいへんなことが起こる。なんとかしなければ。でも、生きているかどうかわからない。自分の経験の無いことを考えなければならないということが、自分自身の「改革」に真剣に取り組むことのできない最大の理由であると思うのだが、生きているかどうかわからないという要素も真剣になれない理由のひとつのような気がする。