熊本熊的日常

日常生活についての雑記

散るぞ悲しき

2006年08月24日 | Weblog
齢を重ねるうちに様々な身体能力が衰え、失われて行く。自分が日々無力になりつつあることを自覚するのは辛い。しかし、現実を直視しなければ問題点は解決できない。安らかに人生を全うするというのは思いの外難しいことだと思う。

最近、アップルストアが主催するソフトのセミナーを受講した。平日の昼間であるが老若男女10名ほどの受講生がいた。セミナーのタイトルには「入門」と付いているが、PC用語については多少のリテラシーが要求される。案の定、講義はリテラシーが欠如している人たちの質問で時々中断される。講師は手慣れたもので、そうした質問をこなしつつ、カリキュラムは着実に消化されていく。

高齢者、特に男性は素直に「わからない」と言わない傾向があるようだ。自分が出来ない理由をうだうだと説明してから問題点に向かう。何故つまらぬ見栄を張るのか理解に苦しむが、男性とはそうしたものらしい。わからないこともわかったふりをするから、講師の説明が理解できていないのに、そのまま講義は進行する。かくして、彼の理解は進まず、誤解だけが定着する。彼は何も得ることなく時間が過ぎる。こうして今日も彼の老いは深まっていく。

暇つぶし

2006年08月23日 | Weblog
先週から今週にかけて、平日は毎日のように友人知人と昼食を共にしている。相手の予定にもよるが、どの相手とも1時間以上にわたってゆったりと会食を楽しむことができた。

会食は良いのだが、その後、勤務開始までの間をどう過ごすかというのが悩みの種である。今のところ、特にこれといったことが思い浮かばないので、博物館や美術館へ足を向けることになる。

すでに都内の主だった美術館は全て訪れたと思う。そこにあるのは長い時間の淘汰を経た作品ばかりだ。そうした選りすぐりのものは観る度に心を動かす何かを発している。それはそれで楽しいのだが、もっと他に主体的にできる暇つぶしはないかと探している。

恐るべし、お役所仕事

2006年08月21日 | Weblog
昔、何かの小説で、主人公が役所と喧嘩をするつもりで出かけていったら、担当職員の腰が低く、しかも障害者だったので、すっかり気勢を削がれて相手の言いなりになってしまった、という話を読んだことがある。「権力」という言葉には威圧的な響きを感じるが、その執行方法は一様ではない。

今日、所用で都税事務所を訪れた。窓口の職員は開口一番「いつも納税にご協力頂きありがとうございます」と元気がよい。そう言われれば「いえいえとんでもございません」という気になるものだ。尤も「協力」しているつもりは無い。

気分というものは容易に変化する。口のききかたひとつで相手を意のままに動かすこともできるのだろう。恐らく、権力はそのような術を研究している。「お役所仕事」という言葉には硬直的、非効率、といったイメージを感じるが、少なくとも現場の担当者は百戦錬磨である。お役所仕事を侮ってはいけないと思った。

透明人間の日

2006年08月18日 | Weblog
夏らしい暑い日だった。甘い物でも食べようと思い、丸ノ内の丸善4階にある喫茶コーナーに行った。注文をしてから待つこと30分。何も運ばれてこない。外を歩いて汗だくになっていたが、カウンターの席で日記を書いているうちに汗もひき、落ちついたので、そのまま店を出てしまった。店の出入口にはレジがあるのだが、呼び止められることもなかった。

盆休みの時期で、従業員も普段より少なく、手が回っていないのだろう。注文を忘れられて良い気分になるわけもない。気分が悪くなってから何を持ってこられても旨いと思うわけもない。旨くもないものに金を払うのは不合理である。それなら黙って店を出るのが最善の選択というものだ。

結局、職場近くのタリーズでアイスクリームを食べた。

大病

2006年08月17日 | Weblog
昨日と今日、かつての職場の同僚と昼食を共にした。2人とも私と同年代である。

昨日の相手とは、前回会ったのが記憶に無いほど久しぶりの再会だった。彼は3年前、心筋梗塞で2週間ほど入院したという。以来、薬が手放せなくなってしまったという。

今日の相手とは1年ぶりの再会だ。あまりに痩せてしまったので驚いた。先月、心不全で3週間ほど入院していたのだそうだ。今は、食事制限がいろいろあるという。

暑い盛りを過ぎてから体調を崩し易くなるように、働き盛りを過ぎようとする頃、大病に罹りやすくなるもののようだ。日常生活で意識することはあまりないのだが、人体は複雑なシステムである。個々の部位の不調は無視しうるものであっても、その組み合わせ如何では深刻な事態を招く。どれほど小さな異常でも、それが異常であるならば、原因究明と適切な対応を怠るべきではない。これは身体だけのことではないだろう。

それにしても、歳を取ったものだ。

オアシス

2006年08月16日 | Weblog
また来てしまった。ブリヂストン美術館。今は常設展が開催されている。常設と言っても、その時々で展示する作品や展示位置を変え、様々なテーマを追求している。

ある程度評価が定まった作品は、製作されてから長い年月を経ている。しかし、作品や作者に関する新たな発見や解釈は日々蓄積されている。作り手から離れた作品は、解釈の宇宙のなかを彷徨うのである。

良質のコレクターというのは、その彷徨に道筋を与える者なのではないだろうか。一見、何もない空や、果てしなく広がる海に航路というものがある。芸術作品に対する解釈の宇宙にも意味の光明を与えるのがコレクターである。適切な道筋の上に並べられた作品は、輝きを増すものだ。輝く作品を前にすれば、それを観る者の気持ちが愉快になるものだ。芸術作品の存在意義は、観る人の人生を愉快にすることだと思う。かくして、良質の美術館は人々の生活のオアシスとなるのである。

「紙屋悦子の青春」

2006年08月15日 | Weblog
薩摩弁が脳裏に焼き付いて離れない。「紙屋悦子の青春」の舞台は昭和20年春の鹿児島県。戦争映画ではあるが、映像の殆どは紙屋家の居間である。戦闘も空襲もない。戦争という自分ではどうにもならないことのために、日常の風景から親しい人が、心を寄せる人が、静かに去って行く。それでも生活は、多少の寂しさを残しながらも、静かに続いて行く。戦時中という特異な場面でありながら、人々の日常生活は淡々と続いていく。だからこそ、そこから静かにいなくなった人の喪失感が際立つ。

演劇のような映画である。映像よりも台詞が重い。俳優にとっては負荷が大きい作品のように思えるが、出演者は力のある俳優ばかりなので、安心して映像の世界に浸ることができた。

心のそこからいい作品だと感じると、その良さを語る言葉が見つからない。

交通至便

2006年08月14日 | Weblog
特急の専用車両が走る鉄道沿線は気をつけた方がよい。小田急、西武、東武、京成のことである。各駅停車以外の列車があり、しかも一般車両とは違う特別車両を運行するのであれば、その優先順位は当然高くなる。その特急の他に、一般車両で急行だの準急だのが走る。各駅停車のダイヤは、そうした特別な列車の間隙を縫って編成される。所々で特急や急行の通過待ちを余儀なくされ、本来なら10分程度で行くことができる先に行くのに、倍近い時間がかかったりする。あるいは、各駅停車に乗り遅れると、次の列車が到着するまでの間に、通過列車が通り過ぎるのを待たなければならず、そうした待ち時間を含めると、目的地への到着までに予想外に時間がかかることもある。

しかし、各駅停車しか停車しない駅の近くであっても、不動産の広告などには「交通至便」と書かれていたりする。確かに駅が近いのは便利である。一方で、駅が近ければ、朝早くから深夜まで、鉄道の騒音に曝されるということでもある。さらに駅からの人の流れに面した立地の場合、家の敷地にゴミをポイ捨てされることもある。そうした不愉快を補って余りあるほど便利ならよい。しかし、肝心の交通が不愉快を撒き散らして目の前を通り過ぎるだけならば、それは「至便」とは言えない。

煩悩

2006年08月06日 | Weblog
仙人のような暮らしというものに憧れている。必要最小限の生活雑貨と雨露をしのげる程度の住まいだけで暮らすことができたら心地よいのではないかと思うのである。

今日、自宅で使っているPCがいつ動かなくなっても不思議ではない状態に陥っているので、新しいPCを買おうと思い、新宿へ出かけた。PC類の量販店へ行く途中、たまたま受刑者が日々の作業で製作した家具を展示販売していた。素人眼にも素材が良く、作業が丁寧であることが見て取れた。思わず、そこに展示されていたテーブルや?笥に触れ、こんな家具を使ってみたい、このサイドボードにはあんな茶碗や皿を並べてみたい、などと考えてしまった。

歳を取ったせいか、丁寧な仕事というものに以前にも増して魅力を感じるようになった。物を持たない生活がいい、などと思いつつ、丁寧に作られているものを見ると欲しくなってしまう。自己矛盾が甚だしい。

もちろん、家具は買わず、買おうと思ったPCも買わず、手ぶらで帰宅した。煩悩を抑えるのは経済事情の現実である。自己矛盾を抑制するのは市場経済なのだ。

珈琲豆に思う

2006年08月05日 | Weblog
自宅の近所でおいしい珈琲豆を扱っている店を見つけた。喫茶コーナーがあるので、そこで「本日のストレート」を飲んでみたら、これがおいしかったのである。ちなみにこの豆はコロンビアだった。コロンビアという豆はボディがしっかりしていて香味も豊かで程よい苦みがある、たいへんバランスのとれた豆だが、その良さがきちんと表現されていた。

何故か、味にこだわりを見せる喫茶店の店主というのは神経質そうな人が多い。この店も例外ではない。愛想も無く、ただ求道者のように珈琲を淹れるのである。そういう姿に魅力を感じる人もいるだろうが、それが多数派とは思えない。現に、この店に滞在していた1時間ほどのあいだ、一人の客も来なかった。

酒ならば、まだ味に対するこだわりを持つ人口は大きいかもしれない。しかし、珈琲の味にこだわる人というのは、すくなくとも自分の身の回りには一人もいない。珈琲好きの間で人気の喫茶店というものがあるのだが、そのような店が繁盛しているという話は聞いたことが無い。珈琲関係者というのは、その人なりの使命感とか情熱だけで珈琲に関わっているとしか思えないのである。

ただ、個人的には、そのようなこだわり派の業者には生き残って欲しいと切に願う。おいしい豆の調達に東西奔走し、焙煎に情熱を傾け、抽出に心血を注ぐストイックな姿に共感するのである。

ギネスのアイス

2006年08月04日 | Weblog
友人の友人が白金でカジュアルフレンチのレストランでシェフをやっている。ラストオーダーが午前1時なので、夜勤の私が仕事帰りに立ち寄ることもできる。今日は立ち寄って来た。

昨年12月オープンで知名度が低いせいもあり、人通りのあまりない場所ということもあり、予約なしでふらりと訪れても問題なく席がある。しかし、今日は金曜の夜であるせいか、「ブルータス」に載ったりして知名度が上昇したせいか、少し混んでいた。そんなことはどうでもよい。

要するに、知名度は低いがおいしいのである。今日は「8月の限定メニュー」というコースを頂いた。プロバンスがテーマなのだそうだ。

スタートは冷製ラタトィユ。いきなり旨い。野菜はそれほど好きではないが、それでも旨い。ズッキーニや玉葱に火を通すことで野菜が持つ旨味を引き出し、それを冷やすことで旨味を定着させた、という感じである。トマトのジュレに和えてあるのだが、この相性も抜群。

次が手長海老と夏野菜のサラダ。ソースがすばらしい。

メインはフォアグラのソテーとオリーブのリゾット。不味いはずがない。

もうひとつメインはラムのグリエ。ラムは万人受けする食材ではないが、私は好きである。

そして、デザートにナッツのタルト、ギネスアイス添え。あのギネスビールを使って作ったアイスクリームなのである。タルトはともかく、このギネスのアイスは独創的だ。「へぇー、ギネスをアイスにするとこうなるんだぁ。へぇー」という感想。旨いのだが、味を云々する以前に、このアイディアを評価したい。夏と言えばビール、夏と言えばアイスクリーム、それならビールのアイス、というわけでもないだろうが、これは食べたほうがいい。ギネスのアイス。

ごちそうさまでした。

ちなみに、この店のシェフとソムリエが交代でブログを書いている。愉快なブログである。
http://ameblo.jp/truffles/


「リトル・イタリーの恋」

2006年08月02日 | Weblog
たまにはベタなラブストーリーを観るのも良い。辛い現実に悩む時、おめでたい話は嫌味のようにも見えて、却って気落ちしてしまうかもしれない。世の中を小難しく考えたい時には、この手の話は退屈だろう。ラブストーリーを素直に楽しむには、自分自身が心身ともに健康でなければならないのである。この作品を観て、「あぁ、いい話だなぁ」と思えるような生活を送りたいものだ。それにしても馬鹿馬鹿しい話である。