熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2017年8月

2017年08月31日 | Weblog

洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社

この本の購入経緯については5月の「読書月記」に書いた通りである。漸く2巻目を読了。読み始めるとぐいぐいと引き込まれてしまうのだが、他に家に積んであるものもあってなかなか読み始めることができずにいた。

洲之内は私の祖父とほぼ同世代だ。「世代」をどのように定義するかにもよるが、あの戦争を社会人として経験した世代である。戦争中、洲之内は陸軍北支派遣軍宣撫官という非戦闘員として従軍していたそうだ。私の母方の祖父は国鉄職員で戦争当時は宇都宮駅に勤務していた。父方のほうは知らない。父はそういうことを語りたがらないので、こちらも聞かないことにしている。ちなみに私の両親は同い年で、戦争中は小学生だった。

洲之内の書いたものを読んでいると、あの戦争を生き抜いた人とそうでない人との断絶のようなものを感じる。自分は後者だが、こうした書き物が当然に誇張や偏見を含んでいることを考慮しても、戦争経験のある人の強さのようなものを感じるのである。毎度毎度同じことを書くが、人は経験を超えて発想できない。いろいろな意味で切羽詰まった時代を生き抜いた人には己の限界とか潜在力というようなものを自覚した肚の座り方のようなものがある気がする。そういう時代を生きたいとも思わないが、そういうところを生き抜いた人を素朴に憧憬する気持ちもある。

 

東京やなぎ句会編『友ありてこそ、五・七・五』岩波書店

俳句とか短歌というものを詠んでみたいとの思いはずいぶん前からあって、こんなブログを飽きもせずに書き続けているのもその前段階のつもりということが全くないわけではない。今月17日のブログに俳句などを詠んでみたいと書いて、やっぱり思ったときに何か行動しないといけないと思ってアマゾンで検索してこの本に行き着いた。

当たり前かもしれないが、俳句はひとりで詠んでいてもダメだなと思った。句友というものがないと、自分の作ったものを相対化でしないし、たぶん楽しくないだろう。友人を得るには、やはりある程度句や歌を詠むことができないといけないのではないか。それには取っ掛かりがないといけない。取っ掛かりは自分で積極的に追い求めるものか、鷹揚に構えて縁を待つか。うだうだとしょうもないことを考えながら本棚の片隅で埃をかぶっていた歳時記を引っ張り出して、外は埃にまみれているのに中身が新品の歳時記をぱらぱらとめくってみる。

 

『完訳 千一夜物語』(1) 豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳 岩波文庫

2月に西尾先生の講演会(国立民族学博物館友の会 第117回東京講演会)を聴き、一度「アラビアンナイト」というものを読んでみようと思い、中古で岩波文庫の『完訳 千一夜物語』全13巻セットを購入した。

おとぎ話とか昔から伝承されている話というのはその土地の人々の価値観を表現している。そういうものが土地によって異なるから世に諍いが絶えないと語ることもできるだろうし、様々な相違を超えた普遍性があるからこそ争いが絶えないとはいいながらも人類社会としての一定のまとまりを維持していると言えなくもないだろう。座標軸の取り方で同じものを如何様にも解釈できるということなのだが、私はこの1巻目の最初のほうに登場する一文に興味を覚えた。

世事の苦さを味わわんとならば、善良にして親切なれ。
まさしく、命にかけても言わんに、悪人はいっさいの感謝を知らず。
宜しくば、試みよ。アメルの母、憐れなるマジルのごときが、汝の運命ならん。 
(56頁) 

これは彼の地の諺らしいのだが、「善良にして親切」であると悪人に酷い目に遭うというのである。「正直者が馬鹿をみる」ということなのだが、少なくとも文庫の一巻目を読んだ限り、その基調にあるのは小狡い知恵を肯定する考え方であるように思われた。しかし、一方で「善良にして親切」というときの「善」は、翻訳である所為かもしれないが、自分が慣れ親しんでいる「善」を指しているように感じられる。つまり善悪という倫理観の基盤は共通だが、生活上の立ち居振る舞いのハウツーが人々の間の対立を招く素のように感じられたのである。ただ善行だけでは生きていけない、生活には知恵がないといけない、たとえ悪知恵であろうとも、というのが本書のバックボーンとなる考え方のように思われたのである。それはその通りかもしれないが、素直に受け容れられないのは自分だけのことなのだろうか。

ところで、13巻全てを読み終えるのはいつのことになるだろう?

 


正面性

2017年08月30日 | Weblog

新宿で高畑勲と奈良美智の対談を聴く。

奈良美智が描く少女が東日本大震災を契機に正面を向くようになったという話が興味深かった。そもそも彼が描く少女は描き手である彼の仮面であって、仮面をかぶることによって自己を解放しているのかもしれないとのことだ。世に仮面を被るという行為は遊園地の着ぐるみから能面に至るまでいろいろあるし、世界に目を向けてみても仮面を被って行う儀式はいくらもある。宗教的な意味合いのあるものなら、そこに神託の語り手という役割を与えるとか、現世ではない世界を現出させるとか、その儀式に関わる人々にとっての「真実」を描き出すツールや象徴になることがある。肖像を描くというのは自己主張という側面もあるということだろう。それで奈良の少女だが、震災を機に描くという行為に本腰を入れて取り組まないといけないのではないかとのシリアスな思いが強くなったそうだ。

「プロフィール」という言葉がある。人を紹介するときに略歴であるとか実績といったデータを羅列したものを指すことにもつか割れるが、もとの意味は「横顔」だ。横顔が客観的なものを象徴し、正面の姿が主観的なものを象徴すると言えるのかもしれない。人が他者と向き合うとき、相手に真正面を向くのかそうでないのか、相手の真正面を見るのかそうでないのか、というようなことから何を読み解くことができるのかを考えると面白い。

対談の最後のほうで東寺の両界曼荼羅図に描かれている大日如来がスクリーンに映されて正面性という話題に使われていた。たまたま先日手に入れた東寺の土産物で両界曼荼羅図の胎蔵界と金剛界を下敷にしたものを見たら、曼荼羅図に描かれている仏様たちは正面を向いているのもあればそうでないのもある。曼荼羅図は世界観の表現だが、描かれている個々の仏様の大きさや向きや位置を考えながら仔細に鑑賞したら、思いもよらぬ発見があるのかもしれない。老眼が酷くなる前に、曼荼羅図というものをじっくり鑑賞してみたいものだ。


おたっしゃくらぶ

2017年08月29日 | Weblog

何年かぶりで留学時代の仲間が集まった。私の学年が4名、次の学年も4名の計8名。これだけでは多いとは思われないかもしれないが、私の学年の日本人が7名でうち1名が物故、2名が連絡先不明、次の学年が5名で1名が連絡漏れ、ということなので実質的にはほぼ日本人ほぼ全員が揃ったことになる。留学時期が同じ上に実年齢も互いに近い所為もあってこうして集まることができるのかもしれない。皆もうすぐ還暦だ。修了年は1990年と91年。たぶん私以外はそれぞれに充実した会社員人生を全うしようとしているのだろう。だが、そうなると共通の話題がない。行き着くところは昔話に毛の生えたようなものになってしまう。仕方がないといえばその通りなのだが、和気藹々としたところの隙間に哀愁が漂ってしまう。そんなふうに感じていたのは私だけだっただろうか。


一粒万倍

2017年08月28日 | Weblog

今回の旅行でもいろいろな神社仏閣を訪ねたが、その云われを聞けばその土地のカラーのようなものがなんとなくつかめるように思う。大阪といえば都が奈良や京都だった頃の外港のようなところだったのではないだろうか。遣隋使も遣唐使もそれ以前の大陸への使臣も住吉大社にお参りをして住吉大社の近くにあった港から進発したのだそうだ。逆も同様だろう。大陸からやってきた人たちは大阪で陸に上がり都へと向かったのだろう。鞆の浦でそうした瀬戸内海の交通の一端に触れたこともあり、そのついでというわけでもないのだが、住吉大社へ参拝した。

宿を出て荷物を新大阪駅のコインロッカーに預け、御堂筋線、南海を乗り継いで住吉大社へやってきた。南海は関空へのアクセス線でもあり大荷物の客も乗っている。住吉大社に停車するのは各駅停車だけなので、関空へ行くなら別の列車を選択したほうがよさそうなものだが、他人様のことなのでそこは考えない。

住吉大社は「すみよっさん」と呼ばれているのだそうだ。近畿圏は「さん」付けが多い気がする。まず、すみよっさんは和歌の神だそうだ。光源氏が須磨から京へ帰還したことも、皇統が明石入道の血脈に移ったことも、住吉の神意の作用によるのだそうだ。その神託が和歌の形でなされたことから、平安以降はそういうことになったという。ちょっと待ってくれ、と思う。光源氏って、源氏物語のなかの話だろう。作り事じゃないか、と思う。しかし、世の中はあまねく作り事だ。真実だの現実だのといったって、所詮は泡沫のような話じゃないか。源氏物語の中のことが目前のこととごっちゃになったからといって、目くじらをたてるほどのことでもないだろう。はい、和歌の神。

その前が遣隋使遣唐使が航海の安全を祈った神様。遣隋使遣唐使というのは日本の命運をかけて先進地域から先端知識と文化を取り込もうという、今の留学とは全く桁違いの大国家プロジェクト。バカやカスでも金さえ出せば留学できる今の留学とはわけが違う。つまり、国家事業の成就をお祈りする神様でもある。だからなのかどうだか知らないが本宮が4つもある。要するにうんとエライ神様だ。

 エライ神様なのだが、今は大阪の都市域に埋没しているので、例えば伊勢神宮で感じるような神様らしさのようなものは感じない。生活のなかで、何かにつけて気軽にお願い事やお参りをしたくなる神様に見える。だから「すみよっさん」なのだろう。

住吉大社の境内にもいくつかの摂社と末社があるが、「初辰まいり」という参詣ルートがある。毎月最初の辰の日に4つの末社にお詣りすると願い事が成就する、らしい。今日は28日なのでたとえ辰の日であったとしても月の初日ではないし、そもそも亥の日だ。でも、せっかくなのでこのルートでお詣りしてみた。

まずは境内末社の種貸社。御祭神は倉稲魂命。もともとはその名が示唆するように稲種を授かるという信仰だったが、「一粒万倍」という言葉が独り歩きをしてしまったのか、都合のよいように解釈されたのか、資本が増えるというご利益があることにされてしまったようだ。今までいろいろ神社を回ったが、これほどインパクトのある額は初めてお目にかかった。

 つぎが境内末社の楠珺社。御祭神は宇迦魂命。字は違うが種貸社の御祭神と同じ読み方だ。「うがのみたまのみこと」。物事の意味や由来を考えるとき、文字も重要な要素だが音も同じくらい重要だ。しかし「うがのみたま」がどういうことなのか私は知らない。この社の例祭が毎月初めての辰の日なので「初辰さん」と呼ばれているそうだ。ここが近所の社に声かけをして「初辰まいり」を始めたのかもしれない。初辰のお詣りをすると招福猫を受けることができ、48ヶ月続けると「始終発達」の福が授かる、らしい。「福」というと漠然としてしまうが、目に見えるものでは、初辰の日に招福猫の土人形を受け、それを48体集めて納めると一回り大きな招福猫の人形に交換してもらえるのである。その一回り大きな猫を2体と小さいのを48体、つまり3サイクルでさらに大きな招福猫と交換してもらえる。招福猫には右手招きと左手招きがあって、大きな招福猫で一対揃えると大願成就だそうだ。この大願が誰の大願なのかということについては議論があるところかもしれない。いつから始まったことなのか知らないが、小売店のクーポンやポイントに通じる仕組みだ。

三番目は住吉大社の現在の境内から外に出たところにある境外末社の浅沢社。御祭神は市杵島姫命で、いわゆる弁天様だ。ここだけを見れば、今は住宅街にある小さな神社にしか見えないが、万葉集に詠まれている社若の名所だったそうだ。
 住吉の浅沢小野の杜若 衣に摺りつけ着む日知らずも  

締めは浅沢社のお隣の境外末社である大歳社。御祭神は大歳神。素盞嗚尊の子供で五穀の収穫の神様なのだが、「収穫」からの連想なのか「集金」に霊験あらたかなのだそうだ。ここには「おもかる石」という丸っこい石があって、それを持ち上げ、次に願い事を心に抱いてもう一度持ち上げる。二回目が軽く感じられたら、その願いは叶う、らしい。私は世界平和を祈って石を持ち上げたので、二回目がえらく重くなってしまった。

初辰まいりでは、種貸社、楠珺社、大歳社でそれぞれにご祈祷を受けて「稲種引換券」をいただく。翌月、種貸社で前月にいただいた「稲種引換券」を籾種に交換してもらう。前月に3枚の引換券をいただいているはずなので、籾種3粒を手に入れることになる。その籾種を楠珺社で稲穂3本に交換。稲穂を大歳社で御新米3袋に交換していただく。一粒万倍となるわけだ。浅沢社がこの交換の輪に入っていないがどうなっているのか、ということだが、商売には愛想が必要なので芸事や美容の神様である弁天様にあやかりましょう、ということだ。神様のご利益っぽく見えるが、タダでご祈祷を受けるわけではないので、一番ご利益を受けているのは神様自身というかその取り巻きだろう。何事も胴元にならないと儲からないのである。すみよっさんはエライ神様だ。

住吉鳥居前から阪堺電車に乗って天王寺へ向かう。昼時なので食事をする店を探す。最初、阪堺電車の終着駅の脇にあるあべのハルカスのレストラン街を覗いてみる。なんだか全国区の店ばかりで入る気がしなかったので、とりあえず四天王寺へ向かってぶらぶらと歩くことにする。JRの駅を通り抜け、商店街のアーケードを抜け、しばらく行くと大通りから斜めに四天王寺へ向かう参道入り口になった。その手前にお好み焼き屋があったので入ってみた。あまり混んでいなくて、店の人の第一印象も良かったので、そのまま導かれた席に座る。外が暑かったのでテーブルにメニューと一緒に宣伝の広告が出ていた瓶ビールを1本注文。お好み焼きはミックスを注文。暑い日のビール、お好み焼きとビール、オツな組み合わせだ。

腹ごしらえをしたところで、参道を四天王寺を目指して歩く。四天王寺は以前からお詣りしてみたかった。ここは落語「鷺とり」の舞台なのである。噺のことはともかくとして、伽藍の配置が法隆寺に通じるものがあるように思う。私は法隆寺が大好きで、一昨年、昨年と飽きもせずにお詣りしている。現在の伽藍空間が建立当時と寸分も違わないとは思わないが、それにしてもあの空間が大変気に入っている。四天王寺はさすがに焼失を再建を短いサイクルで繰り返しているので、建立の頃からはだいぶ違った姿になってしまっているとは思うが、それでもなんとなく「よし、よし」と思うのである。それにしても、ここはよく焼けたなぁと思うし、よく我慢強く再建を続けたとも思う。それだけ人々に愛されている場所なのだろう。ここも「四天王寺さん」と「さん」付けで呼ばれているのだろうか。

今日は東京へ戻る日なのだが、新幹線に乗る前に、空堀商店街を訪れた。何年か前、みんぱくの体験学習ツアーで昆布のことを勉強した。それ以来、料理はきちんと出汁をとって作っている。出汁に利用する昆布は空堀商店街にある店で購入している。鰹節は東京日本橋の専門店を贔屓にしていたが、このところふるさと納税で高知の四万十から調達していて、日本橋のほうは少しご無沙汰である。味醂と料理酒は岐阜県内の造り酒屋とほぼ決めているが、先日、鞆の浦の保命酒店で味醂も購入して自宅に送ってもらったので、岐阜とは少しお休みということになる。それで空堀商店街の昆布屋だが、いつも電話で注文してばかりでお店にお邪魔したことがなかった。一度店を拝見してみたいと思っていたので、今日はたいへんに良い日になった。

本日の交通利用

0905 万博記念公園 発 大阪モノレール
0910 千里中央 着
0919 千里中央 発 大阪市営地下鉄御堂筋線
0933 新大阪 着
0945 新大阪 発 大阪市営地下鉄御堂筋線
1001 なんば 着
1013 難波 発 南海本線 普通
1023 住吉大社 着
1137 住吉鳥居前 発 阪堺電気軌道
1155 天王寺駅前 着
1452 四天王寺前夕陽ヶ丘 発 大阪市営地下鉄谷町線
1455 谷町六丁目 着
1529 松屋町 発 大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線
1531 心斎橋 着
1536 心斎橋 発 大阪市営地下鉄御堂筋線
1550 新大阪 着
1610 新大阪 発 のぞみ240号
1843 東京 着

 


神々

2017年08月27日 | Weblog

今回の旅行もそうなのだが、近頃はどこかに出かけるとその土地の神社仏閣を当たり前に参拝するようになった。今日は神社仏閣には詣でないが神々に無縁というわけでもなかった。

朝、倉敷の宿を引き払い、岡山に出て新幹線で新大阪へ行く。新大阪から御堂筋線とモノレールを乗り継いで万博公園にある国立民族学博物館を訪れた。今夜は万博公園の駅前に宿を取ってあるので、まずは荷物を預けてからみんぱくへ向かう。

企画展は「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」というシーボルトが日本で集めた文物の展示。本展で展示されているのはシーボルトが日本から持ち出した品々のほんの一部だ。シーボルトが日本に滞在したのは1823年から28年までと1859年から62年までの都合約8年間。どれほどのものを蒐集したのか知らないが、当時の交通事情を考えれば輸送途中で紛失したものも少なくなかったはずだ。それでもその蒐集品が欧州の宮廷や研究機関に収まり現在でもかなりまとまったものがミュンヘンやライデンの博物館に展示されていることを見れば、それが単なる学術研究を意図したものではないことが推察される。

そんなことはともかく、彼の蒐集品をただ眺めているだけでも、日本ってとこは面白いところだねぇ、と他人事のように感心してしまう。意匠とか技術が今の時代から見てもかなり斬新で新鮮だ。そういうもののなかには、今となっては誰もできないようなものも少なくないだろうが、基礎になっているのは天下泰平が定着してすっかり装飾品になってしまった武具の製造技術と素材の扱いではなかったか。それが明治維新で途絶え、かろうじて数寄者の蒐集品や茶道具、喫煙具などとして残るものの、生活習慣の洋風化あるいは「グローバル化」でいよいよ消滅してしまった。「伝統工芸」などと称してそれこそ博物館の展示品のように標本化されて残っているような手業技術がないわけではないが、生活から離れてしまったものは「伝統」とは言えないだろう。日本という自分が生まれ育った国の文物なのに、まるで見たこともないような外国のもののようだ。

こうしてモノを前にすると変化というのものが明らかになるが、例えば自分自身というものも極端なことを言えば昨日と今日とで全く同じというわけではない。物理的な経年変化もあればなにかをきっかにした考え方の変化だってある。過去の自分は他人と同じだ。そういう自分自身の危うさというものを、時に弱さと捉えてみたり優柔不断として戒めてみたりしてきたのが人の社会というものではなかったか。どこにでもだれにでもある危うさ故にそこを克服すべく人知を超越した存在を生活圏のなかに想定しないわけにはいかなかったのではないか。

みんぱくにはたくさんの神々あるいはそのお友達やご親戚の姿がある。人は経験を超えて発想はできないものだが、文化圏を超えたところで、実際の人間や動物の姿を超越した形というのは出てこないものらしい。人知を超えたところのものを表現するのに人知の姿に依存しないわけにはいかないところに人知の限界があるということだろう。

本日の交通利用

0839 倉敷 発 山陽本線 普通
0856 岡山 着
0916 岡山 発 のぞみ8号
1001 新大阪 着
1007 新大阪 発 大阪市営地下鉄御堂筋線
1021 千里中央 着
1035 千里中央 発 大阪モノレール
1040 万博記念公園 着

 


吉備路

2017年08月26日 | Weblog

今回の旅行でやってみたかったことのひとつに在来線をいろいろ乗ってみるということがある。初日に乗った福塩線、昨日は山陽本線、今日は伯備線と吉備線だ。福塩線は期待以上に楽しかった。ああいう乗り心地の線というのは今ではかなり貴重なのではないか。倉敷の駅も面白い。蔵の街としてブランディングを図っているのだろう。駅の施設も海鼠壁風の装飾が施してある。発想としては安直だが、そういう安っぽさが親しみやすさにつながらないとも限らない。吉備線は非電化でたまに桃太郎をモチーフにしたイラストが描かれた車両にも遭遇する。おそらくデザイナーに依頼して考えてもらったのだろうが、こういうのはつまらないと思う。

吉備津神社を訪れることはあらかじめ決めていた。宿をどこに取るかというのは少し迷った。最初、岡山で探したのだが、適当なところが見つからなかったので、倉敷にしたのである。倉敷から吉備津神社へ行くには、山陽本線で岡山に出て、吉備線に乗り換えるのが手っ取り早い。しかし、倉敷は山陽本線と伯備線の分岐駅だ。伯備線に乗らないという選択肢はないのである。

ところで伯備線といえばD51の三重連が牽く貨物列車が名物だった。特に布原信号所と新見の間の橋渡る姿はD51の写真の定番のようなもので、私の家にも従兄弟が作ってくれた大きなパネルがあった。今はすでに電化されて久しく、今日は113系の普通列車で倉敷から総社までのささやかな旅路だ。

総社で吉備線に乗り換える。ここからは非電化単線だ。キハ40系の賑やかな床下を感じつつ田園風景のなかをゆっくり走る。キハ40もそろそろ引退だろう。近頃は非電化区間を蓄電池とモーターで駆動する機関車や列車で運用しようなどと大胆なことになっているようだが、非電化区間というのは要するに何もない土地なのである。田園地帯や山林地帯をドッドッドッと静寂を破るように走るところに生活の存在感とか鉄道というものがあることの安心感といったものがあるのではないか。COxの排出規制など糞食らえだ。ものすごい勢いで世界人口が増えているのだから、小手先の延命策など焼け石に水だ。気象は時時刻々人間の生活に対する脅威の度合いを増すことはあっても穏やかになることなどあるわけがない。そんなことは誰でもわかりそうなものだが、深刻に考えるふりをして、毎年のようにどこかで国際会議を催してどうでもよいことを決めて、遊びに来たんじゃないのよ、みたいな顔をしている人たちがいる。日本でも何年か前に京都で会議が開かれて京都議定書が作られた。京都のほかにどこで開かれたのかと思ったら、京都の次がブエノスアイレス、ほかにマラケシュ、ニューデリー、ミラノ、モントリオール、ナイロビ、バリ、ポンツァ、コペンハーゲン、カンクン、ダーバン、ドーハ、ワルシャワ、リマ、パリなどなど。なんだか観光地ばかりのような気がする。地球環境のことを真剣に議論しようというのなら、サハラ砂漠の真ん中あたりで命がけでやったほうが実ある議論になるのではないか。要するに、キハ40のエンジン音がいいじゃないか、ということだ。

それで総社を発車した吉備線のキハ40だが、順調に走行を続ける。一時間に上下各2本かそこらのダイヤなのだから順調でなくてどうする、ということだ。が、備中高松で下り列車との列車交換を待っていて、その下り列車が近づいて駅のすぐ脇の踏切の遮断機が閉まりかかったところをトラックが通過して遮断機を破壊してしまったのである。下り列車は踏切を目前にして停車し、私たちの乗っている岡山行きは発車できなくなってしまった。たまにしか閉じない踏切なのだからおとなしく停車して列車の通過を待てばよさそうなものだが、よほど急いでいたのか、あるいはぼんやりしていたのか、警報機が鳴って遮断機が下りることの意味を理解できないのか、いずれにしてもトラックを運転していた奴はろくなもんじゃない。自慢じゃないが、私たちが暮らす京王線沿線では踏切というものは滅多に開かないというのが常識だ。聞いたところによれば、ある踏切は一時間のうち52分間閉じたままの時間帯があるそうだ。これほど閉じっぱなしなら、そもそも踏切など設けないほうがよさそうなものだと思う。そう思うのは私だけではないようで、かなり以前から高架化の話があって、沿線の用地買収は少しずつやっているようだ。

それで備中高松だが、遠くに巨大な鳥居が見える。このまま列車が動かないようならここで下車してあの鳥居の神社に参拝しようかという話もちらっと出たのだが、幸いにして備中高松駅から保線員の姿のおじさんが踏切のほうへ道具袋のようなものを持って走って行ったのが見えたのと、巨大な鳥居ということは本殿はうんと先ということである、ということでもあり、このまま発車を待つことにした。その鳥居の主は最上稲荷だ。確かに駅からかなり遠い。幸い踏切の応急修理がすぐに終わって、列車は約10分遅れで吉備津駅に着いた。

吉備津駅を下りて岡山方面へちょっと行ったところに大きな鳥居がある。先ほどの最上稲荷の鳥居よりはこじんまりとしている。つまり、この鳥居と目指す吉備津神社との距離はそれほど遠くはないということである。吉備津神社は本殿が国宝だ。「芸術新潮」の2016年8月号には「厳島神社と並ぶ神社建築の最高峰」との記述がある。なにがどういう点で「最高峰」なのかということについては触れていないようだが、ま、諸々「最高峰」なのだろう。そういう神社だから参拝客がわんさか往来してたいへんなのではないかと多少の覚悟はしていた。駅近くの鳥居を前にしたとき、参拝客と思しき人影は私たち夫婦のほかに誰もいない。人混みが嫌いな割に、こういう場面では不安になる。我ながら我儘だと思う。しかし、神社や寺の参道というのは静かなほうがいい。

参道の突き当たりに丘というか山というか高いところがあって、そこに吉備津神社の本殿拝殿がある。この山こそは名山「吉備の中山」だ。「名山」というのは山容が美しく昔から多くの和歌に詠まれているということなのだそうだ。その山の麓のところが駐車場だがあまり車がいない。たぶん初詣のときには溢れんばかりの大混雑になるのだろうが、普段はこんなものだ。オフとピークの差が大きいと設備のサイズをどうするかというのは難しい問題だ。ま、そんなことはともかく、本殿拝殿へ至る階段の登り口に手水場がある。ここで手を清めて階段を登る。登ったところが拝殿だ。これまでに訪れた大きな神社に比べると間口と建物の高さのバランスが高さ方向に偏っている。間口はそれほどでもないのに天井の位置が妙に高いのである。拝殿を正面に見て右手に回ると迴廊が伸びている。とりあえず迴廊を歩いてみるが、迴廊だからといって本殿の周りをぐるっと回っているわけではなく、一直線でおしまいだ。迴廊の終わりのあたり、吉備津神社の外側に宇賀神社がある。吉備津の摂社かもしれないが、周囲に池が巡りなかなかに立派なので後でお参りすることにする。宇賀神社の手前に弓道場があって、女子高生が練習している。弓道場と宇賀神社の間に御竈殿がある。この竈の下に温羅という鬼の首が埋められているらしい。ここで鳴釜神事が行われる。吉備津の境内に戻り国宝の本殿を外からじっくりと眺めてみる。

参詣を終えて階下の駐車場の片隅にある土産物屋を覗いてみる。まずは甘酒をいただいて一服。妻が職場への土産を物色していて「吉備団子」を手に取る。店の人が、「それはよく出ますよ。黍入りはこちらね」といって別の団子を指す。桃太郎の童謡で「ももたろさん、ももたろさん、お腰につけたきびだんご、ひとつ私にくださいな」とある「きびだんご」は「黍団子」だと思い込んでいたが「吉備団子」だったのか、と衝撃を受ける。

衝撃の余韻が醒めやらぬうちに、駐車場を突っ切って宇賀神社へ向かう。途中、駐車場の脇にかなり高い台座の上から下を見下げるように立った人物の銅像がある。誰だろうと思って近づいてみると犬養毅だった。こういう人を見下げたような銅像を建てるから暗殺されるのだと思ったが、銅像が立てられたのは暗殺の後かもしれない。それにしても、高い台座の上から前傾姿勢で台座の前に立つ人を見下げるように立つ姿というのは、政治家としてどうなのだろう?

宇賀神社にお参りした後、吉備津彦神社へ向けて歩き出す。吉備津神社と吉備津彦神社の間は2kmほどなのでぶらぶらと歩いて移動することにした。ふたつの神社をつなぐのは山の周りを巡る道路。今日も暑いが山側から吹き降ろしてくる風がひんやりしている。この山道の外側を吉備線が走っている。吉備津神社の最寄駅が吉備津で吉備津彦神社のほうはひとつ岡山寄りの備前一宮。吉備津彦神社は備前一宮である。吉備津神社は備中一宮。近くにあるが間に備前と備中の境界線が走っている。

吉備津彦神社にはボランティアの説明員がいる。かなり積極的に参詣客に声をかけてあれこれ話をしてくれる。地域をあげて神社を盛り立てていこうという姿勢が感じられる。それでも参詣客は吉備津神社にくらべると少ない印象だ。名前が似ているし、なによりも同じ主祭神を奉っているのだから、もう少し連携しようとか、互いに参詣客を融通しあうとか、あってもよさそうなものだ。何か根拠があるわけではないのだが、私個人の印象としては、なんとなく互いの存在を無視しあっているような雰囲気がある。神様の世界がどういうことになっているのか知らないが、仲良くやってほしいものだ。

もう昼時なのだが、吉備津神社から吉備津彦神社に至る道には商店はなく、それどころか民家がほとんどなく、吉備線の駅周辺にも商店はほとんどない。尤も、それは想定の範囲内だ。なにはともあれ、岡山へ向かう。朝の吉備線はのんびりした雰囲気だったが、昼は客が多い。備前一宮駅で列車を待つ人もけっこういるし、到着した列車も混んでいる。それでもなんとか乗り込んで岡山駅に到着。田舎の列車はドアの開け閉めを客がボタンを押して行う。岡山に着いても誰もボタンを押そうとしない。つまり、混んでいるが、ほとんど観光客なのであろう。あるいは、このあたりの人はぼんやりした人が多いのだろう。僭越ながら私が後ろのほうから伸び上がってボタンを押した。

とりあえず、駅とつながっているホテルのレストランへ行ってみる。先日、新潟の日航ホテルで飲茶が美味しかったので、ここでも中華の店に入り飲茶をいただく。

岡山といえば桃、とこのブログにも書いたが、あまり桃ばかりが並ぶとちょっとあざとさを感じてしまう。桃は福島も新潟も美味しいものは美味しいが、岡山産と比べると異様な価格差がある。それで桃だが、いたるところで高いやつを売っている。駅の売店、駅ビルのスーパー、駅前の地下街にある広場、どこもかしも桃だらけだ。これだけ桃桃桃桃桃となると意地でも喰いたくなくなる。天邪鬼。

それで岡山だが、私は路面電車にのれれば、それでよいと思っていた。妻は林原美術館だ、後楽園だ、などといろいろ言っていた。それで、路面電車に乗って林原美術館に行くことにした。以前の職場で岡山出身の同僚がいて、彼には岡山の実家に帰るつもりがないと言っていたのを思い出した。働き口がないというのである。そんなことはないだろうと思うのだが、彼曰く福武書店(現・ベネッセ)と林原くらいだというのである。彼と同じ職場だったのは1994年から98年にかけてのことなので、その頃の話だ。その後、林原は破綻した。幸い林原のコレクションを収めた林原美術館は、おそらく多少はコレクションを売却したのだろうが、美術館としての体裁を保っている。

林原美術館では「一挙公開!『清明上河図』と中国絵画の至宝」という企画展を開催していた。ここで展示されているのは林原美術館が所蔵している趙浙の手になるものだ。『清明上河図』といえば張択端の作品だが、これは北京の故宮博物院に所蔵されていて普段は公開されていないのだそうだ。そのホンマモンの『清明上河図』が描かれた当時の風俗を精緻に描き出しており、絵画としての価値もさることながら民俗や歴史の史料としての価値も計り知れないものがあるという。なにより、観る人を魅了するものがあるのだろう。その模写とか触発されて描かれた風俗画がたくさんあるのだそうだ。林原が所蔵している趙浙の作品は実制作者、制作年、作品の移動履歴が確定できることから絵画的価値と史料的価値とが兼ね備わった秀品として我が国においては重要文化財に指定されている。「価値」の評価のことは専門家の領分なので何も言えないが、素朴に楽しい絵だ。他所の国の風景だが、人々の日常というところにまで焦点を絞れば、人の考えることやることというのはそう違わないのではないかと思ってしまう。

もちろん、様々に尺度や基準を換えてみれば個人というものはそれぞれに全く違うとも言えるし、同じだとも言える。そのあたりの感じはなかなか説明できないのだが、この絵が描いている明末の中国の都市風景というものを「楽しい」と感じながら眺めることができるということは、そこに描かれているものと自分の生活との間に何かしら響き合うものがあるということだ。同じような「楽しさ」は、例えばピーター・ブリューゲルが描く16世紀のフランドルの風俗画でも感じるのである。時代や場所が違うのだから描かれている人の形が違うのは当たり前だが、仕草とか様子が伝わってくるように感じられるというところに同じ人間としての何かを想うのである。

林原を後にして、岡山城の敷地を通り抜け、ちょっとオツな様子の橋を渡って、後楽園を訪れる。入園料を払って中に入るといっぺんに視界が広がる。駒込の六義園をでかくしたような印象だ。大名庭園というものには決まった形式のようなものがあり、どちらもそういうものを踏まえて作られているということなのだろう。規模というものは人に与える印象の要素としてとても重要なものだと思う。何事かを表現するのに、同じ対象でも規模の大小によって全く違ったもののように見えることがある。一方で、規模を変えてみても印象にさしたる影響がないこともある。もちろん、見る側の事情というものもあるだろう。大名庭園というものが箱庭の肥大したものと観るならば、規模はどのような作用をするだろうか。盆栽はその木の本来の姿ではなく、その木の特徴的なところを強調して取り出した表現なのではないか。だからこそ、それは松であって松でなく、盆栽の作者が考える松のエッセンス、つまり松を使った作者の世界観の表現であろう。そう考えると庭園というものはあれもこれもと盛り込んで作るものではなく、世界の根源を示すようなものではないだろうか。正直なところ、感動はなかった。

後楽園の正面口の前に県立博物館がある。外を歩いてだいぶ汗をかいたので、涼む意図もあって県立博物館に入る。企画展は赤羽刀と昭和の家財道具だが、総じて歴史に焦点を当てた展示を行っているようだ。今日の午前中に訪れた吉備は古墳時代に繁栄した土地で、主に朝鮮半島からやってきた渡来人が当時の先端技術や文化を伝え、鉄器と土器の生産が盛んに行われたという。当然、そうした高付加価値品の生産によって吉備には富が蓄えられていたはずで、それが巨大古墳群となって今にその名残をとどめている。富が蓄積された土地にはそれ相応に文化も発達するわけで、飛鳥・奈良時代にはここの出身の吉備真備が二度も遣唐使に選ばれて大陸へ留学している。時代は下って戦国時代、岡山一帯を治めたのは秀吉の五大老のひとりでもある宇喜多秀家。関ヶ原で西軍に参加したために八丈島へ配流となる。流人といっても元は大名だ。歌舞伎の俊寛のような寂しいものではなく、家臣団を伴っていた上に正妻である豪姫の実家である前田家からの援助もあり、元大名としては不自由であったかもしれないが一般の島民以上の暮らしは維持できていただろう。こういう宇喜多の話は実はこの博物館にはあまり展示されていない。今の岡山の元になるのは宇喜多よりも世の中が安定した江戸時代の藩主である池田家の時代という認識なのだろう。

ところで宇喜多秀家が配流された八丈島だが、2012年3月に訪れた。この島にはちょっとした縁があるのだが、行ったことがなかったので、失業して暇だった時期に竹芝桟橋から東海汽船に乗って出かけてみたのである。そのときのことはこのブログにも書いた。千畳敷と呼ばれる溶岩に固められただだっ広い海岸があり、その一角に宇喜多秀家と豪姫の石像がお雛様のように海に向かって並んで置かれているところがある。その石像がどの方向に向けられていたのか、今となっては記憶にないのだが海の向こうの日本本土のどこかであることは間違いない。岡山城の城壁に宇喜多秀家が改修をおこなったとされるところがあるのだが、そういうところをぼんやりと眺めなら歩いていて、ふと八丈島の石像を思い出した。

天満屋の地下のイートインコーナーの寿司屋でバラ寿司をいただいてから山陽本線の普通列車で倉敷の宿へ戻る。天満屋から岡山駅まで路面電車で移動。駅前の電停を降りて見上げた空がきれいだった。

 

本日の交通利用

0838 倉敷 発 伯備線 普通
0849 総社 着
0902 総社 発 吉備線 普通
0936 吉備津 着 ダイヤでは0926着だがトラックが踏切の遮断機を破損する事故で遅延
1239 備前一宮 発 吉備線 普通
1250 岡山 着
1413 岡山駅前 発 岡山電気軌道
1420 県庁通り 着
1839 県庁通り 発 岡山電気軌道
1848 岡山駅前 着
1853 岡山 発 山陽本線 普通
1910 倉敷 着 


倉敷

2017年08月25日 | Weblog

宿をチェックアウトし、昨日申し込んでおいた宿のシャトルバスで福山駅まで送っていただく。福山からは山陽本線の普通列車で倉敷へ行く。倉敷の宿は駅のすぐ近くにある。老人ホームだったところをホテルの改装してこの7月に開業したばかりの宿だ。まずは荷物を預けて、今日は倉敷の景観保存地域だけを歩く。

駅前から景観保存地域までアーケード商店街があるのだが、そこそこの観光地を抱えていてもシャッター商店街だ。それでも営業している店も少しはあり、たまたま通りかかったコーヒー豆屋兼カフェで一服する。2階建で1階が豆屋で2階がカフェスペースというよくある造りだ。ちょっと変わっているのは店の中央部分が吹き抜けになっていることだ。豆屋の店頭には生豆が並んでいる。注文を受けてから焙煎するのだそうだ。煎りたての豆を売るというパフォーマンスは目を引くかもしれないが、数百グラム単位で焙煎することにどれほどの意味があるだろうか。ハウスブレンドをいただいたのだが、きちんと落としてある。しかし、これくらいの味を出す店はそう珍しいわけではなく、鞆の浦ミュージアムのカフェのような感動はない。

アーケードが終わったところが景観保存地区の入り口でもあり、ほどなく大原美術館が路地の向こうに見えてくる。このブログに時々書いているが、日本には大英博物館とかロンドン・ナショナル・ギャラリーとかパリのルーブルのような弩級の博物館や美術館はないが、適度な規模で自分の気分や興味の赴くままにふらふら歩いて楽しい美術館がたくさんある。研究者にとっては資料の充実度というのは大きな魅力には違いないが、一般客にとってはデカければよいというものでもないだろう。大原は独自の美術館観を持った美術館という感じがする。そのコレクションのコアは児島虎次郎が蒐めた西洋画の作品群だが、それよりも總一郎館長の時代に形成されたコレクションが面白い。西洋画はここが創設された頃なら蒐集すること自体にも意味があっただろうが、今の時代は飛行機も安くなったので、日本で見なくともルーブルやプラドやウフッツィへ出かけていけば済むことだ。そんなものよりも、總一郎館長が目指した「時代とともに成長する美術館」というものがどういうものなのか、その考え方をコレクションから見出すところに楽しさがある。

外が暑いということもあり、美術館のなかが充実しているということもあり、午前中は大原美術館で過ごし、美術館傍のカフェ・グレコで一服してから倉敷民芸館に行く。東京駒場の日本民藝館のほうは、年末の民芸館展を除けばそれほど混むことはないが、かといって誰もいないというようなこともないだろう。こちらは私たちが訪れたときには誰もいなかった。入館料を払う前にしばらく売店を眺めていたのだが、その間にも誰かが来るというようなことはなかった。入館料を払い、入り口のロッカーに荷物を預け、内部を見学する間、誰に追いつくことも誰に抜かれることもなかった。なんという贅沢な時間だろう。尤も、こういうのも巡り合わせだ。私たちが出ていくのと入れ違いで年配の二人連れがやってきて、門を出たところでBBA軍団がドヤドヤと入ってきた。

中橋を渡ってアイビースクエアへ向かう。この中に大原の別館である児島虎次郎記念館がある。児島の作品と児島に縁の作品がまとまって展示してあるほか、児島が蒐集した古代エジプトの遺物なども展示されている。児島という人はずいぶんいろいろなところへ行かせてもらったものだ。本人と面識がないので何を思って大原孫三郎から資金を得て欧州やエジプトへ出かけていたのか知らないが、真っ当な人間なら責任感とか使命感を胸にしていたであろうし、少し生真面目ならかなりの重圧も感じていたかもしれない。しかし、あまり勢い込んで「学ぼう」などと考えると表層にばかりこだわって肝心なことは何も得られないということもよくあることだ。児島はどうだったのだろうか。

ついでに倉紡記念館も覗いてから、アイビースクエアを後にする。旅行をするときに細かい計画など立てたりしないが、いくつかやってみたいことは意識しておくようにしている。今回は倉敷でジーンズを買う、というのがそのひとつだ。アイビースクエアの前の道を阿智神社方面へ少し行ったところにデニムを扱っている小さな店があったので入ってみた。小さな店なので品数は限られているし、店員もひとりで切り盛りしているようだ。それでも声をかけて商品を見せてもらう。あれこれ説明を聞き、試着して、納得したので一本買い求めた。裾上げだけでほかに直しは必要なかったが、引き渡しまでに一週間程度かかるという。商品を送ってもらうことにして、代金を支払った。ついでにその店員にちょっとした夕食によい店を教えてもらう。2つ挙げてくれた。どちらも和風の料理の店だ。そのデニムの店から近いところだったので、まだ陽は高いが場所の確認をしてみた。

夕食の店の場所を確認して、そのまま阿智神社へ至る長い階段を登ってお参りする。阿智神社は倉敷の総鎮守だ。倉敷には阿智という地名があるが、阿智神社があるのはなぜか倉敷市本町だ。なぜだろう。住所のことはともかくとして、阿智神社の主祭神は宗像三女神だ。海上交通の守護神なのである。今の倉敷を歩くと総鎮守が海上交通の守護神というのはピンとこないかもしれないが、けっこう最近まで阿智神社のある鶴形山が島であったことを想えば納得できる。さきほど阿智神社へ至る階段と書いたが、この階段の登り口あたりが船着場だったというのである。このあたりに限ったことではないが、日本は国土の約7割が山林で平野が少なかったにもかかわらず、経済価値の基準を米に置いていた。当然のことながら、どの地域も米が沢山とれるような手立てをあれこれ考える。山からストンと海に出るような地形のところなら山を削って干拓をする。倉敷は今でこそ美観地区のイメージで海とは距離があるかのような印象だが、臨海工業地域を抱えている。少し南下すればすぐに海なのである。

阿智神社にお参りした後、山を下りてデニムの店で教えてもらった料理屋へ行ってみる。まだ開店には少し間があったので、その前を通り過ぎてマスキングテープなどを扱っている店を覗く。岡山の名物といって何を思い浮かべるかは人それぞれだろうが、mtブランドでおなじみのマスキングテープのメーカーは岡山の会社だ。もともとは蝿取り紙のメーカーだ。そういえば、蝿取り紙を目にしなくなって久しい。子どもの頃、親戚が暮らしていた十条のアパートは台所、トイレが共同で、風呂はなかった。その共同台所に蝿取り紙がぶらさがっていたのを覚えている。しかし、自分の家では使っていなかったので、その頃すでに需要は減少トレンドにあったのかもしれない。いつ頃からマスキングテープに取り組むようになったのか知らないが、うまいことを考えたものだと思う。ぱっと見、コストとして大きいのはテープのデザイン料だろう。逆にいえばデザインに凝らなければ原価率はかなり小さい。生ものでもなければ壊れものでもないので輸送コストもたいしてかからないだろう。それが、一個数百円で売れるのである。たまたま「見切り品」で安売りしているもののなかに横尾忠則がデザインを担当したものがゴロゴロしていたので5つばかり買ってしまった。

デニムの店で教えてもらった料理屋は軒先に「おでん」の提灯をぶらさげていた。年季の入ったカウンターで、一見してそれなりの手間暇がかかっている料理を盛った大きな皿が並んでいる。何がどうというのではないのだが、旨い店というのは見ただけてわかる。本日のおすすめになっている料理を腹がふくれるまで順に頼み、最後に稲庭うどんをいただいて店を出る。ここも鞆の浦と同じように甘めの味つけだ。鞆の浦も倉敷もかつてはたいへんに栄えたところである。そういう土地の味つけというのは、昔は貴重であったようなものがふんだんに使われ、そういうものを以って客人をもてなしたということなのだろう。そういえば、倉敷名物に藤戸饅頭というのがある。日持ちがしないので東京では滅多にお目にかからないが、その土地その土地の饅頭があるということにふと興味を覚えた。

本日の交通利用

0903 鞆の浦 発 宿のシャトルバス
0930 福山駅 着
0945 福山 発 山陽本線 普通
1026 倉敷 着 


鞆の浦

2017年08月24日 | Weblog

朝日は海の向こうからやってきた。宿の部屋は海に面しており、目の前に朝日が昇る。絶景だ。鞆の浦の宿には朝食と夕食をつけて二泊申し込んだ。昨日の夕食は豪華だったが、朝食もたいしたものだ。普段、朝はコーヒーと果物くらいしかいただかないので品数が多いというだけでもびっくりしてしまうのに、丁寧に調理されたと思しきしっかりした味があると、その日はもうそれだけで夜まで満腹するのではないかと食べたときは思う。

ところで、日本の有名な祭りのひとつに祇園祭というものがある。なかでも京都のものが代表格だが、京都は八坂神社の祭礼だ。八坂神社のウエッブサイトにその概要が記されている。

八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。
その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
(京都八坂神社ウエッブサイト) 

そのルーツが鞆の浦という説もあるらしい。昨日このブログに書いた今は同じ福山市内である上戸手の素盞嗚神社の界隈もここ鞆の浦もほとんどの民家の軒先に茅の輪があり、なかにはそれとともに鰯の頭と柊の小枝がぶら下がっている家もある。これは京都八坂神社のサイトで解説されている護符に当たる。それにしても、そうしたものがいまだに当たり前の風景として見られることに驚いてしまう。

鞆の浦の宿の近くに沼名前神社(ぬまくまじんじゃ)の大きな石の標識がある。その石標の彼方に立派そうな神社が見える。この神社は古地図や古い絵図では「祇園社」と記されている。つまり、ここも素戔嗚、蘇民将来、牛頭天王といった神話の世界と関連しているということだ。この神社は祇園社以外にも海上安全の信仰対象である大綿津見命を祀っている。ちょっと面白いのは数ある鳥居のなかに笠木の端が参道沿いの民家のベランダの手すりを突き破っているものがあったり、鳥衾形という珍しい形態の鳥居があることだ。また、社務所の脇に英語の銘板がついた小さな砲がある。古い軍艦に搭載されていたのではないかと思われるが、その由来については何の説明も付されていない。

沼名前神社の近くに安国寺がある。久しく足利尊氏が建立したとされていたそうだが、1949年に行われた仏像修理の際に本尊の阿弥陀三尊像の胎内から発見された血書により、少なくとも鎌倉時代以前の寺であることがわかったそうだ。現在は釈迦堂と枯山水庭園が公開されている。この枯山水庭園の修復を担当したのは重森三玲で、安国寺のチラシに「安国寺本堂庭園」という復元についての解説を寄せている。

安国寺から沼名前神社の参道に戻り、鞆の津ミュージアムのカフェで一服する。ミュージアムのほうは休館だが、カフェは営業している。今日も暑く、外を少し歩き回っただけで大汗をかいてしまった。なにはともあれアイスコーヒーをいただく。一口飲んで驚いた。アイスコーヒーをきちんと淹れている。ホットのほうはそれなりでも、アイスのほうは出来合いのものだったり、ホットで落としたものを単純に冷やしただけというような店が多いのだが、アイスをアイスとして落としているのである。世に能書きばかりでたいしたことのない店が多いが、こういう寡黙できっちりした仕事に出会うととても嬉しい。

一服したところで鞆城跡にある鞆の浦歴史民俗資料館を訪れる。城跡の高台からは鞆の浦が一望できる。ちょうど鞆港で雁木の補修工事が行われており、広範囲に囲いが設置されて中に重機が入っている。風景としてその工事と呼応するかのように資料館直下の民家の修復作業が行われている。長年空き家だったようで、人が住んでいないことによる傷みが感じられる。夏休みの時期の観光地ということでそれなり賑わっているようには見えるが、今や日本中どこでも当たり前に見られる空き家問題についてはここも例外ではなさそうだ。

民俗資料館の展示は祭礼、漁業、潮待ち、朝鮮通信使、保命酒、宮城道雄などについての解説となっている。ちょうど馬出しという男の子の健やかな成長を祈る行事を目前に控えている所為もあるのか、たまたまそうなのか、展示の最初のほうは馬出し関連だ。航海における潮待ちが鞆のかつての発展と密接な関連があり、航海術の発達で潮待ちが不要になることで鞆の浦の存在感も薄れていく。今から振り返れば、景気の良かったときに次の時代へ向けての準備や投資をしておくべきだったと言えるが、人の発想が経験に基づく限り、未だ見ぬ時代への準備などできるものではないだろう。他人事というのはあれこれ気楽に評論できるが己のことというのは様々な選択肢があればあるほど容易に判断を下すことができないものだと思う。喧しく能書きを垂れるのは思慮浅薄の証左であり、真摯に生きる人というのは肝心なことほど寡黙に淡々と取り組むものだと思う。近頃は何かと喧しいが、それだけ時代として浅薄な世の中になっているということなのだろう。

鞆城跡の高台から急な階段を下って駐車場を突っ切り、昨日とは別の保命酒の店を訪ねる。ここでも試飲をさせていただくが、昨日の店の保命酒に比べるとすっきりとした感じ。昨日の店でも保命酒や味醂を買ったが、ここでも店の人の熱意に打たれて同じような組み合わせで購入。酒はあまり嗜まないのだが、なぜか出かけた先で酒類を買うことが多くなったような気がする。

薬用酒の試飲で少し元気が出たところで鞆の浦の象徴のような對潮楼に向かう。その昔、朝鮮通信使の一行がここを常宿のようにしていたそうで、確かに海に面した窓からの眺望が良い。ここは真言宗の寺で海岸山福禅寺といい、對潮楼は寺の客殿だそうだ。御本尊は千手観音だが、隠れキリシタンの観音像もある。一見したところは観音様だが観音像が納められている厨子の裏に黒い十字架がある。マリア観音像が仏像に混ざって本堂に並んでいる事情は知らないが、神仏を拝む気持ちを大事と考えて弾圧を受けていたキリシタンを匿ったのではないだろうか。日本の宗教施設や儀式というのは個々の宗教から見ればかなり土着化変容著しいらしいが、神仏習合の理屈の話ではなく、神仏を拝む気持ちを尊重する風土があったということではないだろうか。

昼時ということで、昨日訪れた地蔵院の近くの飯屋へ行く。ちょっと見たところ営業しているのかいないのかわかりにくいのだが、ちょうど2人連れの男性客が中に入っていくところで、続いて中に入り入り口近くのカウンター席に座る。カウンターの中では女性が3人立ち働いている。妻は刺身定食、私は小魚定食をいただく。地魚のようだが、これほど小さいとおろすのが却って手間ではないかと思われるような小魚を煮たり焼いたりしたものが並んでいる。刺身は鯛と鮪だ。

以前、みんぱく友の会の体験セミナーで九州北部を訪れたときに土地の料理の味付けが甘いと感じたのだが、ここ鞆の浦も味付けが同じように甘い。みんぱくセミナー以前にも醤油の味比べの会に参加したときに九州の醤油が甘いということを聞いた。九州の甘さは大陸から砂糖が日本に伝わった際の伝播ルートと関係があるらしい。一般的な呼称なのかどうか知らないが「シュガーロード」というものを想定すると、それは大陸と九州を結ぶ交易と深く繋がっている。大陸との交易は潮待ちの港として栄えた鞆の浦にも当てはまることである。魏志倭人伝にあるという「投馬国」は鞆のことではないかという説もあるらしい。そこまで遡らなくても、江戸時代の鎖国中に行き来のあった数少ない外国が朝鮮半島を含む中国大陸で、朝鮮通信使が瀬戸内海の航路を利用してここにも何度も訪れている。先ほど書いたように、福禅寺で海の景色を愛で旅の疲れを癒していたというのである。ここもシュガーロード上に位置すると言えるだろう。確かに、かなり最近まで砂糖は贅沢品で、それを使った料理や菓子もたいへんなご馳走だった。よく戦争映画で特攻隊員が出撃間近になると親が配給券を貯めて確保した砂糖でおはぎをこしらえて面会に来るというシーンがある。甘さというのは豊かさの象徴なのかもしれない。だから人をもてなすときの料理は甘い味付けにする、と考えることもできるだろう。

腹が膨らんだところで港のほうへ歩く。太田家住宅というものがある。中が公開されているが入場料をとられる。ボランティアのガイドが何人か常駐していてこの家のことを熱く語ってくれる。この家はそもそも中村家のものだった。中村家は鞆の人ではなく大阪から移り住んだ人が興した家で、漢方の知識が豊かな人だったとのこと。鞆の名物となっている保命酒を考案した人でもあり、中村家住宅は醸造所でもある。江戸時代には中村家が独占的に保命酒を製造して藩に納めたいそう繁盛したらしいが、維新で藩がなくなるとそこに依存していた中村家も危ないことになり醸造業は廃業、屋敷は太田家に譲渡されることになったそうだ。保命酒というのは、ざっくり言ってしまえば、味醂に漢方薬を加えたものだ。味も評価されたというが、滋養強壮剤としても高い評価を受け福山だけでなく全国へ流通したそうだ。後年、石見銀山を調査した際に坑道から保命酒の空き瓶が多数発見されていて、坑夫の活力源のひとつとして利用されていたことがわかったという。それほどのものなので、中村家から漏れ伝えられた製法やそれに対する工夫などを加え明治になって多数の保命酒醸造家が現れ、現在は4軒が残っているというわけだ。

市営の渡し船で仙酔島へ渡ってみる。昨日、福山の駅前にある百貨店のレストラン階にある豆腐料理の店で昼飯をいただいたとき、給仕の人から何もないけれどただ歩くのがなんとも言えなく良いという話を伺った島だ。仙人が酔うほど美しいのでこの名前になったとも言われているらしい。暑いこともあり、体力の限界もあり、30分ほど遊歩道を歩いてから海水浴場の売店でソフトクリームをいただいて鞆の浦へ戻ってしまった。

鞆の浦にはシーボルトも訪れた。鞆港を一望できる高台に医王寺という真言宗の寺院がある。シーボルトはここを訪れ、さらにこの寺の裏手の山道を登って植物の観察をしたらしい。シーボルトの日記には、この街の様子がたいそう気に入ったかのような記述が残されているのだそうだ。この寺に至る急な坂道の途中に民家をギャラリー・カフェに改装した店がある。看板には営業中とあったので、中に入ってみたのだが、いくら声をかけてみても誰も出てくる様子がなかったので、仕方なくそのまま宿へ向かう。

これまで通っていなかった鞆城跡の西側を通っていく。古い寺が並び、それが午前中に出かけた沼名前神社や安国寺につながっている。一日中炎天下を歩いてずいぶん疲れたので、宿に戻っても部屋に直行せず、ラウンジでレモンスカッシュをいただいて一服する。


電車に揺られて

2017年08月23日 | Weblog

近頃の鉄道は普通に走行しているぶんにはそれほど揺れない。子供の頃に乗った電車は東京近郊でもけっこう揺れたような気がしていたが、揺れていたにちがいないとの確信を得た。

以前から妻が鞆の浦に行ってみたいと言っていたので鞆の浦にやって来た。旅行に出るとき、私が心がけていることがいくつかあるのだが、その一つは宿を駅の近くに取るということだ。路面電車の停留所の近辺でもよいのだがバス停ではいけない。鉄道の駅の側に泊まるとなんとなく安心するのである。やはり線路というものの信頼感はただの道路の比ではない。鞆の浦は困った場所だ。鉄道が通っていないのである。

今日は東京から新幹線で福山まで行き、そこから鞆鉄バスで鞆の浦まで行った。「鞆鉄」というのは鞆鉄道株式会社の略称らしい。社名は「鉄道」でも今は鉄道を運行していない。それでも名前だけでも鉄道ということなら可として、出かけて来た。

せっかく福山まで来たので、鞆の浦に行く前に上戸手にある素盞嗚神社にお参りする。福山から福塩線に乗って上戸手で下車、徒歩5分もかからない。こんなふうに書くと便利が良さそうだが、福塩線は上下各1時間に1本かそこらだ。駅から近いとは言っても、便利なんだかそうでもないんだかよくわからない。

日本各地で見られる神事に「茅の輪くぐり」というものがある。その発祥の地がここ素盞嗚神社 だという話もあるようだ。茅輪神事はその趣旨からして祇園祭と通じるので、茅の輪くぐりの発祥ということは祇園祭の発祥地でもあるかもしれない。今は世間一般で「祇園祭」といえば京都の夏の風物詩として認識されているようだが、そもそもは健康祈願の行事だ。夏は高温多湿で身体に負荷がかかることや、食物が傷みやすく食中毒や感染症に罹りやすいことから、健康を祈る神事や行事が夏に多いということだろう。そういう由緒ある神社なのだが、たいへん静かだ。

それで福塩線だが、黄色く塗装された105系のワンマン仕様が往来している。単線だがそれほどきついカーブはないので、調子よく走る。「汽車にゆられて」とか「電車にゆられ」という表現を時々耳にすることがあるが、この線はいい感じに揺れる。鉄道に乗ってる実感がある。何かをしている実感があるというのは人の生活として大変良いことだと思う。夏の平日の昼下がり、乗客の半分程度は高校生のようだ。夏休みでも部活などで登校しないといけないのか、近頃は祝祭日が多いので、夏休みを利用して授業をしないとカリキュラムを消化しきれないのか、いずれにしても制服姿が目立つ。若い人がたくさんいる風景は今時ほっとする。

福山から鞆の浦までは鞆鉄バスで行く。福山駅前から鞆港行きのバスが20分おきに出ていて便利だ。客は下校中の高校生や地元の人ばかりで観光客は私たち夫婦だけのようだ。他の乗客は次々と下車して行き、発車してから約30分後、鞆の浦で下車したのは私たち2人だけ、バスに残った乗客は1人だった。 

午後3時過ぎだったので、ひとまず宿に行って荷物を置いて周辺を歩いてみる。バス停の前にちょっとした土産物屋がある。客は私たちの他には数名で、店員はラジオに耳を傾けている。甲子園での決勝戦、地元広島県代表の広陵高校が戦っている。不思議なもので、試合の実況を聞くまでもなく、ラジオを聴いている人の様子で勝敗の行方がなんとなく感じとれる。

港のほうまで歩いてみたが、午後4時を回ると人影がぐっと少なくなる。それでも日差しはまだ強いので日陰を求めて路地裏を歩いているうちに巨大な保命酒の看板が奥に鎮座している店に行き当たった。大きさも特筆ものなのだが、その長方形の大きな看板の周りを竜の精巧な彫り物が囲んでいて、ちょうど竜の頭が「酒」の字の左下四分の三あたりに被さっている。それを写真に撮りたいと思い、店の人に声をかけた。行き掛かり上、写真を撮るだけで買わないわけにもいかず、試飲させていただいたこともあって、保命酒と味醂を買って自宅宛に送ってもらうことにした。鞆の浦には保命酒を製造している蔵元が4軒あるそうだ。他の3軒も味見をしてみたいものである。

宿に夕食を頼んであり、それが午後6時なので、路地を歩きながら宿の方を目指す。集落の中心が小高くなってるが、それが鞆城跡である。今はその高台に歴史民俗資料館がある。その高台に連なるところに地蔵院という真言宗の寺院がある。ここの十一面観音は立派なもので拝観も可能だそうだが、たまたま僧侶の寄合の最中で本堂に立ち入るのが憚られたので、建物の外だけを拝見して宿への道に戻った。ここは戦災を免れたので古い建物がかなり残っている。昔の建物は商店は商店らしく、医院は医院らしい雰囲気があるような気がする。

宿に戻って一服して、夕食をいただき、大浴場にはいる。極楽である。

本日の交通利用

0710 東京 発 のぞみ9号
1044 福山 着
1115 福山 発 福塩線 普通
1146 上戸手 着
1220 上戸手 発 福塩線 普通
1252 福山 着
1440 福山駅前 発 鞆鉄バス
1512 鞆の浦 着 


正攻法

2017年08月22日 | Weblog

8月11日に電話のあったひかりTVの「会員登録証」というものが先週の土曜日に届いた。無料一点張りの押し売りだったが、会話を録音しているとのことなので社内のコンプラから物言いがついて契約は成立しないかと思った。それが、あれで契約になるらしい。当然にクーリングオフが適用できると思って届いた書類を読んだら、けっこうはっきりと「初期契約解除制度のご案内」という記述があった。それに従って契約解除通知書を作成した。送り先は住所なしで郵便番号(060-8633)と宛名(株式会社NTTぷらら ひかりTV申込受付センター)だけだ。直接乗り込んでくる奴がいるといけないとでも考えたのだろうか。住所は書いてないが、郵便番号で調べれば札幌だ。ほいほいと出かけて行ける場所ではない。それで、送られてきた書類を読んでみると契約主体は加入者である私とサービス提供者である株式会社NTTぷららであるようだ。せっかくなので、解約通知書は窓口であるナントカセンターだけでなく会社を代表している人たちにも送ってあげることにした。それで書類が届いた翌日に所定の解約通知書をナントカセンターと社長以下取締役全員に内容証明郵便で送付した。

無料なら無理強いしても許されるだろうという人を小馬鹿にした了見が気に入らない。今日はチューナーの返送手続きについての電話がかかってきたのだが、「8月24日にヤマト運輸が回収に伺うよう手配しました」と言うのである。こちらの都合などお構いなしだ。この会社は自分たちの都合を一方的に客に押し付けるのが当たり前らしい。その日は留守にする予定なのでその旨を伝えると、「不在票が入ると思うので、そこで回収日を再設定してください」というのである。これも運送賃はタダなのだから言われた通りにしろ、ということなのだろう。規制緩和などで競争環境が大きく変化するなかで既得権に胡座をかいていたら、気付いたときには経営が破綻していた興長銀とか日本航空とか国鉄といったあたりと通じるところがあるのではないか。なにはともあれ、「はい」以外の返事をほとんどすることなく電話を置いた。

チューナーは開梱せずに置いてある。今日、改めて箱を眺めてみたら側面に「本機器につきましては、検査・クリーニングを実施した「リサイクル品」となっております。何卒ご理解の程よろしくお願いいたします。」とある。中古品を月額540円で貸し付けるけど文句ぬかすな、ということらしい。おもしろいねぇ。

ところで、夜、淡路島から玉葱が20kg届く。今年は株式会社五斗長営農というところが送り主だ。昨年は淡路市役所が送り主だった。発送の扱いは昨年も今年も洲本郵便局。今年は「五斗長玉葱物語」というチラシが入っている。これがいい。一読しただけで食べる前からこの営農集団を応援したくなる。夕食の後に届いたのでまだ食べていなくて味のことは語れないが、立派に育った旨そうな玉葱だ。ふるさと納税というのは上手いこと考えたものだと感心する。今年はすでに尾花沢の西瓜、四万十の鰹節、日田の干椎茸をいただき、どれも十二分に堪能させていただいた。この後もいくつか控えているものがある。ふるさと納税は日本各地それぞれの土地の人々が誇りを持って作り上げたものを知るきっかけになっている。大企業というだけで威張っているような輩には退場してもらい、地に足のついた生活をしている人たちを応援し、そのことで自分も励まされるというようなことが当たり前に展開する社会でありたいものだ。

 


ノート一冊使い切る

2017年08月21日 | Weblog

午前中、出光美術館の特別講座を聴講。タイトルは「日本の仏教を学ぼう! 出光コレクションの代表作を通してその特徴と独自性を考える」、講師は同館学芸課長代理の八波浩一氏。仏教はインドで生まれて各地へ伝わったが、当然にそれぞれの土地の文化の影響を受ける。仏教には経典があり、オリジナルのサンスクリット語版はそれぞれの土地の言葉に翻訳されてそこからさらに別の土地へと伝搬する、はずだ。ところが、オリジナルと末端とは必ずしも内容が一致しない。翻訳を経て変化することもあるだろうし、それぞれの土地での布教の都合で補足したり削除したりすることもあるだろう。結果として「仏教」は幅広いバリュエーションを持つことになる。日本の中だけでも経典の解釈に応じて複数の宗旨宗派宗門があるのは周知のことであり、「仏教」と言っても例えばタイの仏教寺院は日本の寺院とはかなり違った外見をしているし、仏像も然りだ。道具立の違いは表現の違いであって本質は同じ、と言えるだろうか?

いくら仏教美術の話であって仏教について語るわけではない、と断りを入れても、仏教美術は仏教の表現なのだから仏教を語らずに仏教美術を語ることは不可能だ。さすがに、今日の講師は慎重に言葉を選びながら講義を進めていた。そんな講義を聴きながら、私は自分がかつて経験したことや見聞きしたことを思い出しては、あれはああいうことだったのかと得心したり、これはそういうことだったのかと感心したりするところがいくらもあった。

今日の講義では触れられなかったが、まず考えないといけないのは「宗教」とは何かということだろう。辞書的な説明では「神仏など超越的存在を信仰して生き方のよりどころとし、安らぎを得ようとする心の働きや行為。また、その教え」(山口秋穂 秋元守英 編『詳解国語辞典』旺文社)であるが、一般的にはウィキペディアにあるように「その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団」というふうに理解されているのではないだろうか。難しいことだと思うのは、「超越的存在」を「信仰」するということであり、そういう「信仰」を「観念」としてまとめて多くの人の理解と信心を得ることだ。「超越的存在」なのだからそもそも表現のしようがないし、現に宗教によっては偶像崇拝を禁止したり戒めたりしている。しかし、具体的な取っ掛かりがないことには観念として受け容れようがない。そこで超絶的存在との交渉能力がある非超越的あるいは半超越的な存在を便宜上想定しないといけない。現実の世界を生きるものと超越的存在とやらをなにかで繋がないと信心もへったくれもないのである。偶像を崇拝してはいけないが、困ったときには「あの人に聞け」と言われるような存在はないわけにはいかないということだ。となると、「あの人」の偶像はそれが自体が信心の対象ではないので可とされる。しかし、人はその偶像とその向こう側との超越的存在とを一体視するようになる、また、そうならなければ信仰というものは大衆の間には広がらない。「月をさす指は月ではない」のだが、月を指し示してくれる人はきっと月に通じている人だと思うのが人情だろう。

たまたま最近、タイの仏像をたくさん拝んだ。日本の仏像と違うと思ったのはお顔の表現がどれもほぼ同じであることだ。日本の仏像は大きくは如来、菩薩、明王、天部、羅漢・高僧などといろいろ分かれていて、それぞれに細かく分かれている。このなかで明王と天部というのは日本の仏教だけのものらしい。確かに、言われてみれば閻魔大王はじめ十王あるいは十三王のお姿は中国系の衣装だ。他の仏様とはちょっと様子が違う。それよりも、仏様というのは「お釈迦様」と呼ばれるように昔インドのほうにあったシャカ族の王子様というたいへん具体的な人物が想定されている。それならば、仏像はそのお釈迦様だけということなので、同一人物の表現はタイの仏像に見られるように同じでなければならないはずだ。真理を悟った姿が如来で悟りを求めている修行中の姿が菩薩、こういうときはこうでああいうときはああ、となるとケースバイケースを想定することで幾通りにも表現が膨らんでしまう。本来を離れて枝分かれを続ければ、物事は複雑化して枝相互で矛盾するようなことも起こるのが自然ではないだろうか。また、当然に人々にはそれぞれの生活というものがある。暑い土地には暑いなりの、寒い土地には寒いなりの、四季がはっきりしていればそれなりのそれぞれの生活がある。「真理」はそれぞれの生活のなかに入り込めるようなしなやかさがないと認められないだろう。するとどうなるのか?

ここ数年、寺社仏閣を訪ねることを楽しんでいるので、信仰とその表現について興味が尽きることがない。うだうだと書き連ねれば際限がないのでもう止めておくが、宗教というものをきちんと考えれば、世の中で日々起こる妙な事件の多くはもっと違った形で対応されるのではないかと思う。対処療法的に犯罪抑止の方法論を複雑化させてたところでイタチごっこのようなものに陥るだけだろう。社会というのはそれを構成する人々が互いを信頼することを前提にしないと成り立たない。その信頼の障害になっているのが何なのか、ということを考えることなく性悪説的な監視を前提にした仕組みにしてしまうと、おそらく居心地の悪いことになるだろう。そして、それは人の自然から乖離したものになるのではないか。そうなると、人は自滅し社会は消滅することになるだろう。心の病が増えているとか、テロが頻発するとか、そういう不穏なことの根っこには人の心の自然の摂理のようなものに反した制度や仕組みがあるような気がする。

ところで、こういう講座とか講演会では必ずノートをとっている。今日の講座でちょうど100シートのノートを使い切った。使い始めは2014年5月31日に日本民藝館で行われた「柳宗悦が選んだ日本のやきもの 九州の陶磁を中心に」(講師:梶山博史(兵庫陶芸美術館))という講演だ。一冊のノートを使い切るとなんとなく気持ちが晴れやかになる。

 


「子別れ」に弁松の弁当

2017年08月20日 | Weblog

午後、東京国立博物館でタイの仏像を拝んでから、鈴本に行く。タイの仏像展「タイ 仏の国の輝き」は先月、友人のS君と観たのだが、うっかり前売り券を余計に買ってしまったので、今日は妻と観てきた。

鈴本は寄席だがこの中席夜の部は「さん喬 権太楼 特選集」と題した特別公演で、団体でなくとも席の予約を受け付けていた。それをたまたま妻が見つけて予約したのである。トリを交替で務める柳家さん喬と柳家権太楼だけネタ出しがしてあり、今日は権太楼が「短命」でトリのさん喬が「子別れ」だ。「子別れ」の前段にあたる「強飯の女郎買い」という噺に弁当が登場する。そのことは昨年6月27日付のこのブログに書いた。「子別れ」のほうには登場しないのだが、夜の部なので弁当を買って小屋に入ろうということになり、上野へ来る途中に新宿の伊勢丹に寄って弁松の弁当を買ってきた。昨年6月に福島原発方面へ出かけた折には「並六」だったが、今日は弁当を選ぶときに昼食後で満腹だったので「並六」よりも量が少ない「赤詰」にした。毎日食べたいとは思わないけれどもたまに無性に食べたくなるものというのがあったりするが、弁松の弁当は私たち夫婦にとってはそういう類のものだ。

本日の番組

柳家小傳次「仏馬」
鏡味仙三郎社中 太神楽曲芸
柳亭左龍 「長短」
橘家文蔵 「寄合酒」
柳亭市馬 「雑俳」
ぺぺ桜井 ギター漫談
柳家喬太郎 「同棲時代」
露の新治 「七段目」
  (中入り)  
伊藤夢葉 奇術
柳家権太楼 「短命」
林家正楽 紙切り 「娘と花火」「相合傘」「パンダ」
柳家さん喬 「子別れ」

開演 17:20  終演 21:10


終日外出

2017年08月19日 | Weblog

午前中は投資用マンションの理事会に出席。竣工してから10数年になるので大規模修繕についての話し合いだ。たまたまNTTドコモから屋上の基地局を設置させてもらえないかとの照会があり、設置を担当する工事業者が概要説明に参加する。先月下旬に大規模修繕へ向けての現状確認のため現地視察を行い、これから時期について検討する。理事のなかにこのマンションのすぐ裏手にお住まいの方がある。そのお家も中層のビルで一部を貸家にしている。少し前にその理事の方のところにもドコモから基地局設置のお伺いがあって断ったそうだ。ご家族が健康への悪影響を懸念されたとのこと。理事会の最初はドコモから相応の賃料収入があるとのことで基地局設置賛成の流れで動き始めたが、その理事が「同じ話がさ、この前うちにも来たんだよ」と家族の反対で断った話になって、基地局設置請負業者の人と我々理事との間で質疑応答が活発化し、1時間ほどのやりとりの後、管理組合総会で改めて話し合うとの結論になった。大規模修繕のほうはオリンピッック前後に実施という予て理事会で話し合われていた通りの方向で収まる。

午後は陶芸。焼き上がりの口径が26cm程度の鉢を作ってもらえないかとの依頼が昨日あり、さっそく鉢を挽く。先生に直されたりしながらもなんとか3つ挽き、これらとは別に2つ挽いてうまくいかずに潰した。3つとも挽きあがりの口径が26cmなので、これでは依頼されたものよりも小さくなってしまう。引き続き次回も鉢を挽かないといけない。いつも思うことだが、ものを作るときは工程の最初、下ごしらえが一番肝心である。陶芸なら土の練りだ。ここをしっかりやっておくと後が順調に進みやすくなる。土の練りというのは「これくらい」というデジタル表示がやりにくい。土を触っていて、自分がちょうどよいと思う柔らかさになるのがよい。そして、求める柔らかさとか固さになったら、土のなかから空気を抜いてやらないといけない。荒練りと菊練りということなのだが、その加減がいまだにドンピシャとはいかない。なんとなくうまくできたなと思うときでも、他のことで思い悩むのだが、これは練りがちゃんとできてないと思うときは、心底がっかりしてしまう。そもそも自分は素人で、作陶の道を極めようなどとは微塵も思ってはいないのだが、やり始めるとついつまらぬ夢想をしてしまう。できなくてがっかりするということは、それだけ自分が真剣になっているということなので、真剣になる対象があることをまずは喜ばないといけない、と自分に言い聞かせて心を鎮める。こういうときは自分の工房を持って毎日土に向かい合いたいと一層強く思うのである。

夜は実家に行って両親と食卓を囲む。実家の最寄り駅に着いたとき、激しい雷雨だった。タクシー乗り場には長蛇の列があり、歩いていくのが現実的かと考えて、しばらく駅ビルのなかの商店をひやかして雨足がおさまるのを待つ。帰りは雨足がうんと弱くなったが、雨は上がらなかった。

 


福島の桃

2017年08月18日 | Weblog

桃が大好物だ。桃といえば桃太郎伝説、岡山の白桃と決まっている。決まっているがここ数年ご無沙汰だ。数年どころかこれまでの無闇に長い人生のなかで数えるほどしか縁がない。今の妻の実家のほうは桃の産地でもある。東京ではあまにお目にかからないが新潟の桃は大ぶりでみずみずしくて旨い。しかし、東京で出回る桃のなかでとりわけ旨いのは福島の桃だ。近頃はどういう仕掛けでそうなるのか知らないが、どこの産地の桃もそこそこに旨くなった。しかし、上っ面の香りや甘さではなく、芯からの旨さのようなものが福島の桃にはあるような気がする。その福島の桃はあの震災以降食べていなかった。桃に限らず明確に「福島産」のものには手を出さなかった。残り少ない人生だ。今更放射能をどうこう気にすることは無いのである。それでも手を出さなかった。素朴に気持ち悪いのである。

学生時代の友人が福島の原発で働いている。彼の誘いで昨年の6月にそっちのほうにでかけてきた。いわき駅前のホテルに泊まり、地元水産会社が経営しているという駅前の居酒屋で彼と呑んだ。翌日は朝食をそのホテルでいただき、昼は米国のケネディ大使も立ち寄ったという海に面した国道沿いの食堂で魚料理の定食をいただいた。原発周辺はようやく立ち入り禁止区域が原発周辺を残すまでに縮小し、復興へ向けてたいへんな勢いで様々な作業が進んでいることが雰囲気として伝わってきた。原発事故のことをとりあえず脇に退けて風景を眺めれば、何変わるところの無い海に近い地域の都市や集落の暮らしが広がっている。でも、いわきから帰った翌日の朝、なんの前触れもなく鼻血が出た。

昨日、妻が勤め帰りに駅前のスーパーで買い物をしてきた。今朝、そのときに2つだけ買ったという福島の桃を食べた。久しぶりにいただく福島の桃。やっぱり福島の桃は旨い。桃の様子をしたものに桃っぽい香りと甘さがついているだけというような安物のハリボテの桃とは違って、芯の芯からの正真正銘の桃なのである。桃が旨いのは一年を通して今時分だけだ。福島の桃、我が家でも解禁としようか。

ところで、今日も近所のコンビニにファックスを送りに出かけた以外は家のなかで過ごした。今日の写真は昨年6月26日に撮影したJR広野駅。


噺の話

2017年08月17日 | Weblog

今日もほぼ家のなかで過ごした。昼頃に郵便局とコンビニに出かけてすぐに戻ってきただけだ。

昨日、「金明竹」を聴いたついでにDVDボックスの小冊子を読み出したら止められなくなり3冊読み通してしまった。私がとやかく書くよりも抜き書きを並べたほうがよいかもしれない。

自由闊達な考えを育むということより、与えられたテーマのなかで百点をとるということに汲々として育っていくなんて残念ながらろくなものにならないですよ。それは大震災があってもどうしていいのかわからない政治家にしかならない。慌てて何かを隠そうとする電力会社の上役にしかならない。これが日本の縮図じゃありませんか。(上巻 38頁)

勉強さえできれば一人前だと思っている、そういうやつらが官僚になったり、政治家になったりして、ろくな国になるわけないじゃないですか。(上巻 55頁)

「いいんだよ、その料簡になりゃあ。その料簡になりゃ、自然にそういう手つきになってくるんだから」(上巻 58頁ほか)

そこでどっちかがどっちかを説得しようとすると、ろくなことにはならないってことは、うちばかりじゃなくて世間を見てよく知ってますから。(中略)正当性と正当性がぶつかるから、そこに生活というものが出てきて面白みが出るわけですね。(上巻 64頁)

晩年の師匠の噺は強く印象づけようという気持ちもない、ただ淡々と、訥々と言葉が並んでいくだけみたいなんです。棒読みといえば棒読みなんだけど、実は棒読みじゃない。それは言葉の裏にちゃんと背景を持っているからなんですよ。シーンを、シチュエーションを、持っているからですよ。心を持っているからですよ。(上巻 69頁)

何かを考えて人を感心させてやろうとか、結果を考えて動いたら、結局、ああ、この程度の芸かというのがだんだん見えてくるんじゃないですか。つまり、修業というのは、芸をどうするかじゃなくて、自分という人間をどうしたらいいんだということかな。自分自身の人間管理。「心邪な者は噺家になるべからず」ってことを小さんはよく言ってましたけどね。「邪」ってどういう意味なのかねえ。(下巻 25頁)

守る会いらない。守らなきゃなくなっちゃうようなものはなくなればいいんです。なくなったらそれに代わるような何かが出てくるんだから。(下巻 28頁)

度量ということは、無理にその思いを込めるということではなくて、自然な人の生き方や、その思いというものを自然に演者が心得て、自然に演じるということかな。無理やりそう思わせるということではなくてね。自然にやることによって聴く人は、ああも感じ、こうも感じるという、多種多様な感じ方をする。そうなってくれれば一番いいなと思うんですね。(中略)だから結局、噺というものは、噺を聴くんじゃなくて、その人を聴くんですよ。その人の生き方や考え方を。(下巻 37頁)

なりきれば、状況もストーリーもわかり、当たり前のように表現されていくというわけです。(下巻 48頁)

人に宣伝してかついでもらわなきゃ町おこしにならない町おこしはおかしい。(中略)中央にいる者が、「地方っていいねえ」って、もっとうらやましくなるようなもっと根本的なものがあるんじゃねえか。それを思いつかないんだな。やっぱり上に立つやつがバカだからでしょう。(下巻 72頁)

「全集」の小冊子のなかに小三治と扇橋の対談があって、そのなかで俳句について語っているところがある。小三治が作った俳句の推敲の履歴が語られているのだが、その変化が面白かった。自分も俳句とか和歌を詠んでみたいと思って本を買ってみたりしたことがあるのだが、どうもいけない。しかし、諦めたわけではないので、いつかなんとかしてみたいとまだ思っている。

暗闇を切りさいてゆく蛍かな(小三治オリジナル)

蛍ひとつ闇の深さを忘れゐし(扇橋による推敲)

やわらかく闇を切りさく蛍かな(小三治による推敲)

やわらかく闇を切りゆく蛍かな(扇橋による推敲)

やわらかき闇を切りゆく蛍かな(鷹羽狩行による推敲)

でもね、この句はおれの句ではなくなっちゃったな、と思った。(小三治)

俳句でいろいろ感じるのは、詠んだ当人じゃなくて、じつはその句を詠んで感じる人の側なんです。でも、得てして、詠んでる人と感じる人は違うことを思ったりすることがある。そこも面白い。落語と同じ。(全集 72頁)

私は最後の「落語と同じ」の「落語」を「生活」とか「暮らし」に置き換えても同じだと思う。 

引用元 いずれもDVDボックスに付属の小冊子
『落語研究会 柳家小三治 大全 上』 TBS 小学館
『落語研究会 柳家小三治 大全 下』 TBS 小学館
『落語研究会 柳家小三治 全集』 TBS 小学館