熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年4月

2018年04月30日 | Weblog

三遊亭圓生『噺のまくら』小学館

これを「読書」に入れてしまっていいものか躊躇したが、本であることに違いはないので入れることにした。表題の通り噺のまくらを集めたものだ。

まくらは噺家が客の様子であるとか自分自身の調子であるとかを推し量るためにその場に一石を投じるようなものなのだろうが、その後に続く噺の世界観のきっかけでもある。だから単なる雑談や小噺でいいはずがない。かといって、特に古典では今の人が知らないような道具立てが登場するのでそうしたものの事前説明が必要だからとそれに終始するのは噺ではない。間とか滑舌といった技巧は達者だが世界観の感じられない噺家というのがいるが、それは芸ではないだろう。それで売れて稼ぎが良ければ本人は満足なのだろうが、聴いてる方は、こいつは馬鹿だねぇと哀れになって、愉快に笑うことができない。いわゆる落語家は700-800人程いるらしいが、その人たちがみんな本当の芸人だったら、そういうことが起こるこの国は大したところだ。

これは本にまとめたものなので圓生の噺のいいとこ取りで、その上、大手と呼ばれる出版社から出ているので上手に編集されているには違いない。それにしても、さすがに「名人」と呼ばれるほどの人のまくらはは大したものだと感心する。「一石」だけ集めて本になってしまうのだから。

 

関山和夫『庶民芸能と仏教』大蔵出版

「手前味噌」という言葉がある。寺の生まれで仏教を軸に生活と生涯を送った人だから、そのアイデンティティが仏教の上に成り立っているのは想像できる。それにしても、庶民芸能悉く仏教と関連がある、という結論を並べられてしまうと読むほうは食傷する。関連があるからどうなのか、というところに踏み込まなければ中学生の自由研究とそれほど変わらない。本書は1988年刊行『庶民文化と仏教』を改題して新装版にして2001年に発行したものだ。この調子で「文化」と言われてしまうと流石にまずいのではないかとの判断が筆者か編集者にあって題を「芸能」に限定したのかもしれない。仏教は外来のものである。仏教が伝来した当時は知識というものが観念的なものと実務的なものとに分化していなかっただろう。思想も科学技術も知見として一括りに伝来したのではないか。それが受け容れられたのは実務的な知識が生活に直接的に役に立つからであり、実利があるからその背後にある倫理的なものも併せて理解されたのではないだろうか。つまり、受け容れる下地となる倫理観や科学観があったはずなのだ。その下地を無視するわけにはいくまい。本書にはその下地に対する洞察はおろか、そこに対する想像すら働いている様子が感じられない。読んでいて書いた人のことが気の毒に思われた。

 

日経コンストラクション編『すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~11年>』日経BP社

「原子力」というものに漠とした期待感があった。子供の頃に手にした図鑑とか本には未来のエネルギーとしての夢のようなことが書かれていた、と記憶している。もちろん原爆のことも教育や世間で言われていることを通じて認識していたし、中学校の学級文庫に『はだしのゲン』は全巻揃っていたし、そういう系の映画やドキュメンタリーの上映会のようなこともあった。それにしても、公の姿勢としては原子力エネルギーの利用推進という方向にあったことは間違いない。その証拠にこの国は世界屈指の原発立地国だ。個人的な原発との関わりということで言えば、まず第一に東電管内で生活している。大学卒業以来、給与生活者として生きてきたが国内で転居を伴う異動や転職は経験がない。現在は東電管内で稼働中の原発はないが、新潟県知事がああいうことになってもならなくても、柏崎刈羽の再稼働は時間の問題だろう。第二の関わりは学生時代に反原発運動をしているサークルに在籍していた。原発の是非など考えたこともなかったのだが、ゼミで一緒になった人に「畑を手伝ってくれない?」と言われて手伝った「畑」がそういうサークルが開拓しているものだった。だからといって原発の是非を考えるようになったわけではなかった。相変わらず自分のなかでは原子力は漠とした「未来のエネルギー」だった。そういう淡い期待に疑念が生じたのは仕事で六ケ所村の再処理施設を見学したときだ。「再処理」というものが現時点では実質的に不可能であるという現実を目の当たりにしたのである。科学技術が新たな展開を見せて将来は変わるのだろうが、今の「再処理」が意味するところは「埋めておく」ことである。つまり、核廃棄物を安全な状態に加工することができないということであり、それは即ち核というものを十分にコントロールいないということでもある。そういう状況のまま原発が何十も建設され運用されていたということなのである。見学させたほうの意図としては、廃棄物がいかに厳格に管理され、廃棄物をただ廃棄するのではなく、そこから利用可能なウランとプルトニウムを抽出して廃棄物を減量しエネルギーサイクルとしての効率を高くする「再処理」ということをアピールしたかったのだろうが、あれなら見学などさせないほうがよいと思う。

その廃棄物の問題が福島の原発事故で急拡大した。原発まるごと廃棄物になったのである。使用済み核燃料から利用可能なものを抽出して後は埋める、というようなほのぼのとした姿勢では対応できない規模の廃棄だ。原発や廃棄物の処理というようなことについては門外漢なので何も書くことはないのだが、そういう事故が起こった後の風景についてなら思うところはいくらもある。2016年6月に福島の原発近くまで出かけてきたことはこのブログに書いた。風景として印象的だったのはフレコンバックの山。除染土を詰めたものとのことだったが、そのまま積み上げておくわけにもいくまい。かといって受け容れ先が容易に見つかるとも思えない。となると汚染土が詰まったフレコンバックの山は本当に山になってしまうかもしれない。原発施設のがれきほどではないにしても、汚染されているとして削り取られた表土である。そういうものだけを集めればどういうことになるのか。本書は廃炉作業の記録なので除染土のことは書かれていないが、除染土と違って廃炉が完全に完了するまで発生し続ける汚染水を貯蔵するタンクのことは書かれている。発生し続けるものをタンクに収め続けることはできるはずがないのだが、なにもしないわけにはいかないからとりあえずタンクは作らないわけにはいかない。いつかはタンクに収めきれなくなるのだから漏水があろうがなかろうがどうでもよいのかもしれないが、漏水の事実がある以上、そこに対策を打たないわけにはいかないので、漏水しにくいタンクに置き換える作業が発生する。同時にタンクの新設も続けないわけにはいかない。増え続ける核廃棄物は積み上げて置いたり、タンクに収めておいたりする以外にどうしようもない。ただ貯めておくだけなのである。これを一体どうしようというのだろうか。「中間貯蔵施設」という言葉を見たり聞いたりすることがある。これはそういうものを貯蔵する施設だが、何に対する「中間」なのだろうか?最終的に害のないものへ分解なり再生なりを行うことに至る「中間」なのか、最終的に廃棄なり貯蔵なりを行うことに至る「中間」か、単にたらいまわしの「中間」なのか。そこを明確にしなければ「中間貯蔵施設」の建設に同意する自治体など現れないのではないか。そうこうするうちにフレコンバッグの山が本当の山になり、結果として、今その山がある場所が「中間貯蔵施設」と化す可能性がないと断言できる人がいるのか。

名目としては、帰宅困難地域を解消しかつてそこで営まれていた生活を回復する、という方向で物事は進んでいるのだろう。増え続ける汚染廃棄物や汚染水を前にして何を「回復」するというのか。原発の事故があったから福島はこういうことになっているが、福島だけの問題ではないだろう。原発を抱える自治体共通の問題であり、原発に依存する仕組みのなかで暮らす我々全員の問題でもある。尤も、切実な問題として認識している人などいないだろうが。

2012年の2月に広島を、9月に長崎を訪れた。被爆から70年近くを経て、原爆モニュメントのような施設以外に放射能汚染を感じさせるようなものはなかった。何事もなかったかのように街を歩き、その土地の飲食店で飲み食い、その土地の宿で眠った。広島名物のもみじ饅頭や長崎のカステラを土産に買い求めて友人知人に配れば皆喜んで食べてくれる。いつか福島の原発周辺もそうなるだろうか。原爆と原発の大きな違いは核廃棄物発生の量とサイクルだ。福島の場合は爆発事故を起こしたのでこういうことになっているが、平常稼働している原発でも量の違いこそあれ廃棄物は発生し続ける。その一部を「再処理」することはできるのかもしれないが、全部を安全な廃棄物になど、少なくとも今は、できるはずがないだろう。日常生活から生み出される当たり前の廃棄物でさえ有害なものが多数含まれているのだから。

どういうわけで原発ありきの社会になったのか知らないが、とんでもない意思決定をしたものだと呆れかえってしまう。確かに、人は必ず死ぬ。安全安全と騒いでいたら物事は前に進まない。果たしてそうなのか。それでいいのか。そもそも我々は前に進まないといけないものなのか。なぜ前に進まないといけないのか。本書では廃炉作業が遠隔操作の無人重機で進められている様子が紹介されている。今回の廃炉作業を通じて無人で重機を操作する技術やノウハウがずいぶん蓄積されたのだそうだ。今は人が遠隔で作業をしているが、やがて人に代わってAIが遠隔で作業をするようになるのかもしれない。そうなると、廃炉作業はほぼ無人で行われることになる。やがて、世の中がすべて無人になって生産も消費も無人で行われるのだろう。無人なら安全など考える必要がない。無人はやりたいほうだいだ。無人こそがユートピア。今の技術というものはそう語っているような気がする。

篠山紀信の写真が印象的だった。特に卒業式の日の中学校の教室とか児童が持ち物を残して避難した後の小学校の教室。ついさっきまでそこで当たり前の生活があったのに、突然断絶した跡だ。たぶん避難した子供たちの多くは今もどこかで暮らしているだろう。そういうことではなく、当たり前だと思っていたものが突然終わることの不気味さに慄くのである。

 

 

 


伊豆下田にて

2018年04月15日 | Weblog

伊豆の下田にやってきた。とある宿屋の半額券と地元交通機関の無料券を頂いたので、私の両親を誘って遊びに来たのである。私が高齢なのだから、その親は気の遠くなるほど高齢だ。それで駅で観光タクシーをお願いして市内の史跡をざっと回ってもらった。何の予備知識もなくやってきたのだが、たいへん面白かった。

世間ではグローバルだのなんだとの喧しく言うようだが、要するに隣の芝生が青く見えるというだけのことだろう。自分になくて他人が持っているらしいものが気になってみたり欲しくなってみたりするというだけだ。そういうことを喧しく言うというのは、つまり、自分というものが貧弱なのだろう。その昔、鎖国していた頃、見たこともないような大きな鋼鉄製の蒸気船が突如現れた。そこから見たことのない種類の人間らしきものが上陸してきて聞いたことのない言葉を話す。しかもごっつい銃のようなものを手にしている。自分の知識経験を超えたものを目の当たりにしたとき、人はどうするのだろう。自分ならどうするのだろう。そんなことを思うと頭の中が真っ白になって、小便をちびりそうになる。

下田の街の面白さは、目の前にある少しくたびれた街並みの向こう側に、多くの人々、殊に権力の側にある人々に小便をちびらせたであろう歴史の現実の痕跡が見え隠れしているところにある。寺というのは、今は宗教施設として認識されているが、そもそもは要人が宿泊したり話し合いをしたりする場所でもあった、というようなことを何かで読んだ記憶がある。突然、黒船が現われたとき、接待場所として寺が使われるのは当時の感覚として当然のことだったのだろう。玉泉寺に至ってはアメリカ総領事館になってしまう。向こうの人からすれば使い勝手が悪かっただろうが、他に適当なところがないのだから仕方ない。総領事館ともなれば、そこに衣食住が伴う。曹洞宗の寺院であっても日本初の場が境内に設けられ、日本での牛乳発祥の地となり、当然に日本初の外人墓地もできる。初物尽しで華やかだが、明治になって社会が変わり、テクノロジーも変化して下田の風待ち港としての役割が不要となったり、外交施設も当然に東京へ移転し、廃仏毀釈で寺の立場が悪くなるといった、それまでの下田やそこの寺院の繁栄を支えていた要素が悉く消滅する。大正になると関東大震災、昭和には太平洋戦争で米国ゆかりの史跡は破壊の対象だ。戦後は一転してそうした史跡の復旧が図られるが、それにしてもよくぞ時代の荒波を耐えて現在の姿をのこしたと感心する。

ところで、ペリー提督だが、日本が明治維新を迎える前、1858年3月4日に心臓病で亡くなっている。享年64。初代米国総領事タウンゼント・ハリスのほうは1862年に帰国、1878年2月25日に喀血して亡くなった。享年74。ハリスが総領事の職にあったのは1855年から1859年まで。1859年に公使に昇任し、1862年に帰国。玉泉寺に総領事館を開設したのは1856年9月3日、1858年に日米修好通商条約を締結、1859年には下田の総領事館を閉鎖して江戸元麻布の善福寺に公使館を開設。江戸に移っても寺なのである。維新以前、日本で洋館があるのは長崎など極めて限られた場所なのだから仕方がない。ハリスには所謂「唐人お吉」の話があるが、これは作り事で敬虔な聖公会信徒で生涯独身しかも童貞だったと言われている。

日本にとっては開国がその後の歴史の激動をもたらす大きな出来事であったが、開国に至らせた相手側のほうにとってはどうだったのだろうか。関係というものは本来的に非対称であるような気がする。非対称ゆえに力学が生じて物事が動くのだと、漠然と思うのである。非対称であるのは当事者が一瞬たりとも静止していないからだ。今日のこのブログを書いている私は、書き始めからここに至る間、物理的には確実に経時変化している。細胞が物理的生理的に変化すれば思考もなにがしかの影響を受けているはずだ。私だけではなくありとあらゆるものが時々刻々変化を続けている。物事の安定というものは本来的に幻想かもしれない。それでペリーとハリスのその後だが、手元にある山田風太郎の『人間臨終図巻』におもしろい記述がある。

ペルリの来航は、要するにアメリカの中国貿易と捕鯨の基地として日本の港を欲したからであったが、百余年後、アングロサクソンは、日本人による捕鯨反対のリーダーとなった。彼らの必要性、不必要性が、その時の世界の掟となる。もっとも、ペルリはユダヤ人であった。(2巻 412頁)

日本駐在をもふくめて十一年間海外にあった彼は、親戚知人とも疎遠になり、日本を開国させた功績も南北戦争とその余波の騒ぎのため、ほとんど世人の注目をひかず寂しく死んだ。日本では大久保利通の暗殺された年。このアメリカのハリスといい、イギリスのパークスといい、幕末の日本を震撼させた碧い眼の人物たちは、それぞれの本国ではほとんどだれも知らない辺境の一外交官に過ぎなかったのである。(3巻 354-355頁)