熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年5月

2019年05月31日 | Weblog

毎月、読書月記のページにはその月に撮影した写真を付けるのだが、今月は連休があったにもかかわらず、撮った写真がなかった。以前はそういうときには別の年の同じ月に撮った写真を上げていたが、そういうことはしないことにした。

 

南伸坊 糸井重里『黄昏』東京糸井重里事務所

連休に部屋の整理を試みたが上手くいかなかった。本が本棚に入りきらない状態が常態化しているので、二度と読みそうにない本を選びだしてブックオフに持っていこうと思い手にした本のひとつがこれだった。結構厚い本なのだが、読みだしたら面白くて、結局手放さないことにした。

ネットのニュースで団地での孤独死の話を読んだ。69歳の男性で、死後3年ほど経て白骨化した状態で発見されたのだそうだ。「69歳」というのが死亡時の推定年齢なのか、発見時の年齢なのか、忘れてしまったが、そんなことはどうでもいい。なぜ3年間も死んだことがわからなかったかというと、家賃や水道光熱費が滞りなく支払われていたからだそうだ。孤独死というのは、死臭で周囲が気付くことも少なくないが、そういうものの未納が続いて集金の人が発見することも多いらしい。自分も古い団地で暮らしているのでよくわかるが、昭和40年代に建てられた団地は玄関前は吹き晒し、室内は驚愕の安普請で隙間だらけだ。多少の臭いが出ても気づかれないかもしれない。その点、金銭の問題ははっきりしている。それで死後3年して発見された白骨死体だが、そうしたものが銀行の自動引き落としになっていて滞りがなかったので死んだことが認識されず、預金が底をついて未納になったので発見されたのである。自動引き落としというのは一人暮らしになったら考えものだ、と思うと同時に、自分はどんなふうに死ぬのだろうかと結構真剣にあれこれ想像した。

本書の発行は2009年だが、コンテンツはそれ以前に『ほぼ日刊イトイ新聞』に掲載されたもので、著者たちが還暦頃のものらしい。本書のなかで故人となった知人友人の話をする箇所もあるが、死というものがリアルに捉えられているとは感じられない。しかし、ここに書かれているような会話ができるような年代というのは、死がそう遠い先のことではないということでもある。読みながら、自分もこういう会話のできる相手が欲しいとは思うのだが、残念ながら私は白骨のクチだろう。

 

アーサー・ビナード『日本語ぽこりぽこり』小学館

この著者の書いたものを読むのは楽しい。先月同じ作者の作品を3冊買い求め、2冊は先月のうちに読み終わり、最後の1冊がこれである。

how silent! the cicada's voice soaks into the rocks

これは或る俳句の英訳だ。一見して俳句に「!」はマズいだろうと思うのだが、英語ネイティブである著者によるともっと根本的なところに問題があるらしい。オリジナルはこの俳句だ。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

冒頭の英語訳は、元の句の解釈がなっていない、とはっきりは書いてないが、ほぼそういう内容のことが書かれている。アメリカの人に日本語の解釈のことを指摘されるというのは日本人として面目ないことだが、本書に書かれている著者の主張は尤もなことだと私も思う。翻訳に限らず、表面を取り繕っただけの仕事が世間では妙に目立つような気がするのは私だけだろうか。取り繕って事足れりとしているというのは、要するに考えていないということだ。尤も、いちいち考えていては仕事にならないという事情もあるのかもしれない。今は世の中全体が思考を拒否しているかのような造りになっている。そういうなかで、例えば本書のようなものを読むと、はっとさせられるのである。はっとして、気持ちがいい。

 

上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波文庫

以前、須賀敦子の文庫全集を読んだ時にも感じたのだが、本人が公開することを前提にせずに書いたものを、その死後に公開するというのは如何なる動機に拠るのだろうか。西田の学問のほうの業績については何も知らないが、本書に収められているものを読む限り、フツーの人との印象しか持たない。

日記のほうは、その時代の世相を知る手がかりとしては大変興味深い。特に西田は近衛文麿、木戸幸一といった政府要人と個人的な関係があり、一般の人々よりも政府内部の動きについて多くを知っていたと思われる。特に昭和20年の日記はそういう人々にも触れたものなのである。結果を知った上で読んでいるから余計に思うことかもしれないが、この期に及んで大言壮語を繰り返し戦争継続に拘泥していた軍部とはいかなるものだったのか。

確かに、戦争というのは勝たなければ意味がない。歴史が後講釈で成り立っていて、「意味」は後講釈によって創られる。『日本語ぽこりぽこり』のなかで紹介されていたビナードの母方の祖父の言葉がその本質を端的に表現していると思う。曰く「戦争っていうのは、金儲けのためにやるに決まっている。思想なんかあとからくっつくんだ」。明治維新でも、日清・日露でも、そこで成り上がった人々が必ずいて、その後の政治経済に大きな影響を及ぼしている。日中戦争から続く太平洋戦争を直に知る人々はいなくなっているが、その後始末は終わっていない。火種はなおも燻っていて、なにかの拍子に燃え上がろうとしているように見える。尤も、それは国家という枠組みとは違った括りでの闘争だ。人間は面白いものだと思う。

 

岡野弘彦編『日本の心と源氏物語』思文閣出版

万葉集講座をきっかけにこういう本を読むようになった。「恋」というものについても考えるようになった。本書の岡野先生の書いたところから「恋」についての直接的な記述を拾ってみる。

日本語の恋というのは、「相手の魂をこちらへ乞い寄せようとして双方が恋いこがれあう状態だ」という。(略)その一番核になっているのが歌である。つまり、言葉による心の牽引であり、「言葉による魂の格闘」なのだ。そして相手の魂をねじ伏せ、あるいは魅了することによって魂を引き寄せようとする。だから歌のかけ合いは、本来激しいものなのだ。(10頁)

古代人の大事な言葉というのは、言葉が空に働くことは絶対にない。(24頁)

霊魂信仰の様相は一々記録されるはずはなく、我々が記録を通して緻密に知ることはできない。つまり、一番奥深い神秘な部分というものは、昔の人はそう軽々しくは語らないものである。まして文字になどしない。だから歴史的な記録にそういうものが残ってくるということはまずありえない。(58頁)

恋の歌、相聞の歌は、平安朝の人々にとって最も大切な和歌の題材であるが、その表現は100%真剣な恋の告白に必ずしもなっていない。恋の儀礼というか、恋のエチケットをできるだけ華やかに、美しく表現しようとする。それがまた当時の人々の誇りでもあり、大変高く評価せられた。それが近代に入ると、リアリズムや自然主義などの影響を受けて、深い恋歌、あるいは伸びやかな恋歌、美しい恋歌がほとんどなくなった。それとともに情熱的な本当の恋もなくなったと言ってもよい。(63頁)

大事な恋歌の心を持ち続けてきた天皇の御歌から恋歌が失われたのは明治天皇からであろう。明治10年ころまでは、天皇は衣冠束帯で化粧をしていられたのだが、それが一変して軍服に変わる。そのころから、宮中の月次の歌会に「恋」という題が出なくなった。天皇はたとえ題詠でも恋歌など詠むべきものではないという雰囲気になった。恋の歌に情熱がなくなって、それと共に日本の軍国化が深まっていったと言えよう。(66頁)

このように「あそび」は、葬送のためというよりも魂の復活のために歌をうたい、楽を奏し舞いをまうことである。魂をよみがえられせ、生々とした活力を与えることは死を前提とした場合に限らない。むしろ、より積極的に生活の中でしばしば、恒例や臨時の「あそび」を催して、生活の活力を豊かにする術としている様子は『源氏物語』の随所に示されている。光源氏が人間としてあらゆる面で卓越した才能を示すのは、物語の主人公として当然のことだが、とりわけ歌舞音曲の名手として、華麗な印象を折目節目に際立たせるのは、魂のあそびの伝統の具現者としてあるべき姿なのである。(82頁)

こうした引用からわかるように、「恋」は男女のことではない。所謂色恋に表れる人の心の動きの奥底を広く人の営み全体に通じるものとして、時々の政治にまで示唆を与えるものだと思う。要するに、歌を詠むことを通じて人心という言葉にはならないけれどもそれを生む得体のしれないもののを想像しているのである。「恋」とは人と人との魂の遣り取りだ。それこそが社会の核である。それを思い考えずして社会に安寧はない。政治を司り、国を司る立場にあればこそ、なおさら「恋」を考えなければならないのである。

岡野先生は宮内庁御用掛として昭和天皇の作歌指南役を務め、今上天皇皇后両陛下の皇太子皇太子妃時代にも和歌の進講をしている。戦後の昭和天皇がどのような御歌をお詠みになられたのか、それが戦前のものとどう違うのか、興味のあるところではあるが、私のような下々にとっては永遠の謎だ。

それにしても、ただの思い付きで「万葉集講座」なるものを受講して、それまでなら考えもしなかったようなことを思い考えるようになった。歌を詠むというのは、やってみるとほんとうに面白くて、これがきっかけでこれから先の人生が変わるかもしれないとさえ思う。人生というのは何があるかわからないし、「何」のきっかけは他者との出会いや交流だ。生きるということは、つくづく面白いものだと思う。

 

中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』新潮文庫

この学問の方法論のことを知らないので、ここに書かれていることがどこまでその世界での常識なのかわからない。面白くはあるのだが、けっこうツッコミたくなるところも少なくない。以前にもこのブログのどこかに書いた気がするのだが、人類の歴史というのはそう長いものではない。何を以て「普遍的」などというのか知らないが、言葉に普遍もクソもあるものなのだろうか。本書は学術書ではなくエッセイなので、気楽に読み流すべきなのだろうが、内容が内容だけに、行きつ戻りつしながら読んでページ数の割には読了まで時間がかかってしまった。