熊本熊的日常

日常生活についての雑記

今も昔も、或いは、今は昔

2011年06月20日 | Weblog
「自分たちの買ったもの、自分たちの獲たものの代価は考えるけれども、それを作ったものの労力の代価というものを、われわれは少しも考えようとしない。それどころか、そんなものに良心の表示めいたものなどを見せたら、それこそ笑いものにされてしまう。そのように、けっきょく、過去の仕事にも、現在の仕事にも、感銘的なその意義というものにまったく無感覚でいることが、われわれの文明が、いかに無益なものが多いかということをじゅうぶんに説明している。ほんの一時間の楽しみのために、数ヵ年の労役をあたらむざむざと消費してしまうような贅沢な沙汰――幾千人という心なしの金持ちが、思い思いに、用もない自分たちの欲望を満たすために、幾百という人間の生命の代価を、年々蕩尽する不人情などがそれである。文明の食人鬼どもは、自分ではそうとは気がつかないけれども、その残酷なことは、野蛮人の食人種よりもよほど甚だしいし、かれらよりもっと大量の肉を食いたがる。深遠なる人道――洪大なる人間愛は、根本的に無益な奢侈の敵であり、官能の満足や利己主義の快楽に、なんの制限も設けないような社会には、それがどんな様式のものであろうとも、根本的に反対するものなのである。」

さて、これはいつの時代のどの国のことを指した記述だろうか。私はこれを読んで自分たちのことを書いているかのような印象を受けた。ここだけを読めばそう見えるかもしれないが、309ページの文庫本の277ページ目から次のページにかけて書かれていることなので、そうではないことは読んでいる本人にはよくわかっている。この文章は次のように続いていく。

「ところが、極東では、それとは逆に、生活を簡素にするという道義上の義務が、ずいぶん古くから教えられてきている。それは祖先崇拝の念が、この洪大な人間愛を発達させ、育てあげたからである。われわれ西欧人には、この人間愛がない。けれども、かならずいつの日にかは、われわれを滅亡から救うために、この人間愛を求めざるをえなくなる時がきっとくるにちがいない。」

つまり、書いている人は「西欧」の人で、彼が「極東」すわち日本で暮らして考えたことがこのように記述されているのである。書かれたのは1896年。書いたのはLafcadio Hearn、またの名を小泉八雲。岩波文庫の「心」に収められている「祖先崇拝の思想」のなかの一節だ。今日、この本を読了したのだが、この引用に見られるように「今も昔も」というところも「今は昔」というところもあった。よく「時代の変化」というようなことを耳にするが、我々はどれほど「変化」しているものなのだろうか。変化しているとすれば、それはどのような状態へ向かっての変化なのだろうか。