熊本熊的日常

日常生活についての雑記

国勢調査

2010年09月30日 | Weblog
世帯員全員について
 氏名および男女の別
 世帯主との続き柄
 出生の年月
 配偶者の有無
 国籍
 現在の場所に住んでいる期間
 5年前にはどこに住んでいましたか
 教育
 9月24日から30日までの1週間に仕事をしましたか

就業者・通学者について
 従業地又は通学地
 従業地又は通学地までの利用交通手段

就業者について
 勤めか自営かの別
 勤め先・業主などの名称及び事業の内容
 本人の仕事の内容

世帯について
 世帯員の数
 住居の種類
 住宅の建て方
 住宅の床面積の合計

これが国勢調査票の調査項目だ。今日、ネットで提出したが、どの項目も改めて調査するほどのことなのだろうか。「調査票の記入のしかた」という冊子の表紙には「平成22年国勢調査は、人口減少社会にある日本の未来を描く上で欠くことのできないデータを得るために実施するものです。」とある。裏表紙には「行政施策の基礎資料としての利用」「学術、教育、企業などの広範な分野での利用」「各種法令に基づく利用」ともある。しかし、この調査票にある項目は、日常生活を営む上で必要な役所への届けを自治体や省庁の枠を超えて一元的に管理すれば明白になるようなことばかりだ。手書き帳票の時代ならいざ知らず、デジタル化されたデータとして役所の帳票が管理されているのだから、それらをまとめて解析すれば済むことだ。何故、この国ではそういうことができないのだろう。

具体的に何の役に立つのかよくわからない調査票を作って配布して回収して集計するという一連の作業のためにどれほどの費用が使われ、その結果としてどのような効用があるのだろう。「てびき」の裏表紙にある「行政施策の基礎利用」の項目には「安全な暮らしや住みよい街づくりなどの施策に活用されます。」とある。こうした統計調査があるおかげで我々の生活は今のような姿だというのだろうか。未来を描いて、それをどうしようというのだろうか。

さすがに統計の用途に関しては説得力が無いと自覚しているらしく、裏表紙の末尾に統計法の抜粋が掲載されている。「第5条 2 総務大臣は、前項に規定する全数調査(以下「国勢調査」という。)を10年ごとに行い、国勢統計を作成しなければならない。ただし、当該国勢調査を行った年から5年目に当たる年には簡易な方法による国勢調査を行い、国勢統計を作成するものとする。」要するに決まりごとだから答えろ、というわけだ。

極めつけは統計法の抜粋の最後の部分だ。「第61条 次の各号のいずれかに該当する者は、50万円以下の罰金に処する。」答えないと罰金だぞ、と脅して締める。おそらく「調査票の記入のしかた」の裏表紙まで読む人は少ないだろうから、脅迫の効果がどれほどか疑問があるのだが、この冊子を作った人や組織の品格が文面や紙面構成に表れているようで面白い。

国民が国の施策に協力しようという空気を醸成するには、罰則も必要だろうが、政治家や公務員のような立場の人たちが、国民の為に真っ当に職務に携わっているということを示すことではないだろうか。政権が毎年交代しても生活が変らないのは、それだけ国民の政治に対する期待や信任が低いということでもある。その上、警察の汚職がけっこう頻繁にあったり、警官が落し物として届けられた財布の中身をくすねて、しかもそれでアダルトサイトの会費を払ってみたり、検察が証拠の捏造をしたり、というような、社会秩序の根本を揺るがすようなことが日常茶飯事となっているようでは国勢に関心を持てというほうに無理がある。

規格外

2010年09月29日 | Weblog
規格外のリンゴが2kg届いた。私にはどこがどのような規格から外れているのか全くわからない「つがる」だ。多少色付きが悪いとか、多少歪んでいるとか、小ぶりであるというようなことはあるが、そうしたことが商品として成立しないことになるような要素であるとは思えない。2つ食べてみたが、ほど良い実の締り具合と口腔一杯に広がる爽やかな甘さが調和していて、美味しい。これのどこに商品としての不都合があるというのだろうか、と思うような素晴らしいリンゴだ。

ロンドンで暮らしていたとき、スーパーに並んでいる果物や野菜類は、大きさはばらばらで、品質もけっこういろいろだった。それでも、ばらばらであることで不便や不都合を感じたことは無く、だからこそそうやって流通しているのである。

規格には、例えば工業製品のJIS規格や農林規格のJAS規格のように、それが無いとたいへん不便なものもあるのは事実だし、それが我々の生活を円滑にしている面は確かにある。しかし、それは単なる利便性のみならず、使う人の安全にも関わるようなことだからこそ存在意義があるのであって、闇雲に形や大きさを揃えているわけではあるまい。農産物を作るときに使用する農薬の種類や量のようなことについての規格は無ければならないだろうが、農産物そのものに関して美味しくて安全であるという以上に何が必要だというのだろう。

農産物以外にも我々の生活には無数の規格が様々な場面に使われている。果たして、それらの規格のなかで、本当に必要なのはどれほどだろうか。規格を設ければ、それを監視監督する組織が必要になる。そこで雇用が発生するが、それは同時にコストが発生するということでもある。コストに見合う以上の価値が、その規格を守ることで生み出されるものがどれほどあるだろうか。安全というのはそうした価値のひとつだろう。そう考えてみれば、世の中は無用の規格に溢れているのではないだろうか。

世の中に無用な規格が溢れているとすれば、我々の頭の中も無用な決め事で一杯になっているということだ。単なる習慣や既存の慣習に従っているだけで、自分では何も考えようともせず、なにか良いこととか真っ当なことをしているつもりになっている、というようなことが多々あるものだ。考えてみて、意味が無いという結論に達した習慣や慣習は無視してみるとよい。無視した当初は多少の波紋を広げてみるものの、結局何事も起こらないようなことは、無視しても差し支えないということだ。そうやって生活をシンプルにしていけば、生じた余裕でそれまで気付かなかったことを発見するかもしれない。それが自分の生活を大きく変革することになるかもしれない。大事なのは考えること、安易に権威に付き従わないこと。

ところで、今回は生の落花生も届いたので塩茹にして食べた。落花生は生を自分で茹でて食べるのが一番旨い食べ方だと思う。残念ながら生の落花生というのは、あまり流通していない。おそらく鮮度管理が難しいからだろう。今日の落花生は千葉県の八街産直会によって栽培されたものだそうだ。

余計なこと

2010年09月28日 | Weblog
以前にも何度か書いているように、陶芸は茶碗から皿へ、一個挽きへと、比較的短期間のうちに新しいことを始めている。それで、少しでも早く習熟しようと、轆轤を挽く機会を多く持つように心がけていた。気がつけば、素焼きの作品が溜まっていたので、今日はそれらの素焼きに施釉をした。

以前はどの釉薬をかけようかとか、どのような模様を付けようか、というようなことを考えたのだが、近頃はなるべくシンプルに仕上げることを心がけている。釉薬なら透明とか土灰といった地の風合いが活きるようなものにして、掛け分けだの化粧など余計なことはしない。2006年10月に陶芸を始めて、途中2007年10月から2009年3月までのブランクを経て、実質的には2年半しかやっていないのだが、そこで得たのは、私が余計なことをしないほうがよいのではないかという感触である。

土も釉薬も様々な種類があるのだが、どれもそれほど純度の高い性質のものではない上に、基本は手作業なので、成型から焼成に至るどの工程でも成り行きで作り手の個性が出てしまう。焼成の窯のなかはどうすることも出来ないが、土や釉薬の不純物とか窯の中の位置による温度変化の差異などで思いもよらぬ景色が現れたりもする。そうした勝手に出てしまう作品の個性をそのままにしたほうが、余計な手を加えるよりもよほど面白いものになるのではないかと思うのである。

これから先のことはわからないが、少なくとも今は一通りの技法を学習している最中なので、成型に集中することにして、絵付けや化粧はやるとしても、もう少し成型に習熟した後にしようかと考えている。

それで、今日の施釉だが、底に少し皹が入っている茶碗と皿には粘度の高い長石釉をかけ、他は土灰と卯の斑をかけた。焼成は酸化にするものもあれば、還元にするものもある。長石も土灰も主成分は長石のオーソドックスなものだ。釉薬のことも追い追い勉強するつもりではいる。

衣替え

2010年09月27日 | Weblog
今日は長袖のシャツを着た。2週間ほど前までは暑くてどうしょうもなかったのが嘘のようだ。衣替えで何が変るというわけでもないのだが、冬物衣類を引っ張り出したついでに押入れから掛け布団を出し、入浴時に使う石鹸をそれまでの液体ボディソープから固形石鹸に変える。別に石鹸と衣替えは何の関係もないのだが、例の梅原作品のひとつ埼玉県秩父郡皆野町の商工会が販売している「シブガキ男の石鹸」を購入したのである。しかも、シャンプーまで。

梅原作品は、作品集「ニッポンの風景をつくりなおせ」を通して観ると、なんとなく共通した雰囲気がある。同一人物がデザインしているのだから当然といえば当然なのだが、それが上手いと感心する場合もあれば、クサイと苦笑してしまう場合もある。「男の石鹸」は上手いほう。だから高いと思ったけれども買ったのである。「男の石鹸」の箱は部屋に飾るのにもよい。これを捨ててしまうのはもったいない、と思うほどの素晴らしいデザインだ。

まだ今日から使い始めたところなので肝心の効能のほうはわからない。これまで住処で使っている石鹸類はすべて液体だったので、固形石鹸を置いておくソープディッシュがない、と思ったら、自分が作った焼き物の小皿がいくらでもあった。液体石鹸は容器に収納されているので、これまで浴室の匂いを意識させられることはなかったが、固形石鹸は露出した姿で皿の上にちょこんと置いてあるので、浴室内にその香りが充満する。ムンムン匂うのではなく、ほのかに香る。これがいい。私は好きだ。

皆野町商工会からは石鹸のほかに柿酢も買った。これもさっそく野菜炒めに振りかけて食べてみた。が、「柿」のほうの香りは控えめで、あくまでも「酢」なのだということがわかった。

さらについでに、梅原作品のひとつ、高知県黒潮町の黒砂糖を釜ごと買うことにして、契約書を今日発送した。釜ごと、と言っても釜半分だ。と言っても10.5kg。とてもひとりで使いきれる量ではないので、友達に配って歩こうと思っている。私は愛想が無いので、愛想代わりにするつもりだ。まず自分で食べてみて、美味しければ、その美味しいという気持ちを共有できそうな相手に持っていこうと思う。それほどでもなければ、相手かまわず配ろうと思う。この黒砂糖はサトウキビから作る砂糖だが、サトウキビに関しては強い思い入れがある。それはこのブログの1985年2月24日のところに書いてあるように、初めてサトウキビというものの甘さと旨さを体感したのはインドのバンガロールの商店街でのことだった。サトウキビを搾ってライムを少し加えただけのジュースは、良く言えば青汁、悪く言えば泥水のような外見だ。慣れない土地と暑さで身体が参っていた所為もあるだろうが、その見てくれの悪い、それなのに店の前に人だかりのできているほどのジュースの味といったら、「命の水」とはこういうもののことを指すのではないかと思われたほどだったのである。果たして、高知の黒砂糖はバンガロールのサトウキビジュースの記憶を甦らせるのか。楽しみにしている。黒潮町から届いた契約書に添えられていた手紙によると、現在はサトウキビ畑の手入れをしているところだそうだ。収穫して砂糖になって届けられるのは今年の年末らしい。

4時から飲み屋

2010年09月26日 | Weblog
学生時代の友人と何年かぶりに会うことになった。待ち合わせは午後4時にJR桜木町駅改札。ずいぶん早い時間だとは思いつつ、あるいはお茶だけで済ませなければならない状況でもあるのかもしれないとも思い、時間のことは何も触れずに同意した。

少し早めに住処を出て、横浜美術館で開催中のドガ展を観てから待ち合わせ場所に向かった。友人と落ち合い、久闊を叙しながら歩き始める。野毛に飲み屋街があるという。そのまま話をしながら飲食店街に入ると、4時でもけっこう客が入っている。横浜というところがそういうところなのか、都内の飲食店もそうなのか、私は知らないのだが意外な印象だ。友人は横浜市民なので、店の選択などは彼に任せてついていく。飲食店街の奥のほうにある「うだつ」という炉辺焼きの店に入る。さすがにまだ客はいない。カウンターの席に通され、飲んで食べて語り合い、午後8時半頃になって腰を上げた。

彼とは同じゼミの同じサブパートで、彼はゼミの代表でもあった。卒業して就職した業界が違うのでそれぞれの世界で25年を経て、昨年後半から今年前半にかけて同窓会が多かったという流れのなかで、たまたまFacebookで互いを再発見した。私は夜勤で平日の夜の自由がきかず、彼のほうは家庭があるので週末にそうそう勝手なこともできず、なかなか再会の機会を設けることができなかったのだが、今日ようやく実現した。

何年か前に互いの職場が近かったことがあり、人形町あたりで飲んだことがあったが、それ以来の再会だ。不思議なもので、生活している世界が違っても、会話が途切れることもなく、話題は次から次へと湧いてくる。店にいるので、何も注文せずに会話だけしているわけにもいかないから、4時間半ほどで切り上げることになったが、そういう枠がなければもっと会話が続いていた。私のほうは学生時代から交流が続いている友人というのはいないのだが、彼のほうは同じゼミの仲間の何人かとは今も時々会っているようなので、そうした仲間で近いうちに再会することにして、今日はお開きとなった。

ところで、時間つぶしのつもりで出かけたドガ展は予想外に面白かった。もともとドガという作家にはそれほど興味は無く、2008年7月にオルセーを訪れたときもそれほど印象には残っていない。ただパステル画が多いということが意外に思われた程度だ。そのパステル画が多い理由を今日知り、それと同時にまとまった作品を観て、以前に比べるとこの作家に対する関心は格段に高くなった。

展示会場を俯瞰してすぐに気付くのは、絵のスタイルが目まぐるしく変化していることである。裕福な家庭に生まれ、絵を描くことに関して親からも理解を得て、というようにたいへん恵まれた環境にあり、官立美術学校に入学してアングル派のルイ・ラモートに師事、アングル本人とも何度か会ったらしい。アングルは彼に「若いあなたは線をたくさん引くことだ。とにかく多くの線を引くことだ。記憶を辿って引いてもいいし、実物を見ながら引いてもいい。」というようなことを言ったようだ。作品とそのデッサンを並べて展示したものも少なくなかったが、アングルの言葉によほど影響されたのか、それともそもそも彼のスタイルなのか、緻密な描写が特徴的だ。人物の肖像をメインにした作品は、アングルを彷彿させるきめ細かい肌に描かれている。アングルと違うのは陰の強さだろうか。

しかし、そうした緻密な表現は1860年代までで、70年代以降はあの踊り子の作品のような、対象の個性よりも画面全体によって表現するスタイルへと変化する。それは視力の衰えという身体面での制約から、細部を緻密に描き上げることに無理が出るようになった所為もあるだろうし、彼の絵に対する考え方の変化のようなものもあるのだろう。それでも72年の「東洋風の花瓶の前の女性」や73年の「綿花取引所の人々」はまだ写実的な印象が色濃く残るが、73-76年の「バレエの授業」や76-77年の「エトワール」になると、それまでの作品とはずいぶん印象が違ったものになっている。また、「エトワール」はパステル画であることも印象が変った理由のひとつにはなるだろう。80年代に入り描かれるようになる裸婦像はもはや裸婦ではなく、裸婦を通してその向こう側にある目には見えない何物かを描き出そうとしていることがはっきりしてくる。ドガはアイルランドの作家ジョージ・ムーアに自分が描く裸婦像について説明している。
「今まで裸婦はいつも見る者を意識したポーズで描かれてきた。私の描く女性たちは、自分が存在すること意外には関心のない、単純で実直な人間なのだ。たとえばここに描かれたひとりの女性は足を洗っている。君はまるで鍵穴から覗いているような感じがするはずだ」(オルセー美術館 絵画鑑賞のてびき 日本語版 130頁)

彼が若い頃、師と仰いだアングルの裸体画とは次元の違う世界に入っている。時系列を追ってひとりの作家の作品を眺めることで、ひとりの人間の思考の成長や成熟が手に取るように観て取ることができる。そこに多少なりとも自分の思いや経験を重ねることができれば、絵画は単なる二次元世界の客体ではなく、自分自身の何事かを語る大きな口のようにも見えてくる。静寂であるはずの展示空間はその瞬間ざわめいているように感じられ、自分の心はときめいているように思われる。絵画を眺める愉しみは、その一瞬に出会うことでもある。

旬のもの

2010年09月25日 | Weblog
9月15日付のブログに書いた四万十栗の渋皮煮が届いて、今日晴れていただいた。マロングラッセと同類なのだろうが、マロングラッセよりも自然な甘さで、手間隙をかければ自分でもできそうだが、栗の皮を剥くのはやはり面倒で、おいしく煮たものを瓶から取り出すだけでいただけるなら、多少高くても買ってしまおうか、という商品だ。今の時代、栗は年中入手可能かもしれないが、産地限定となると収穫は年に一回だけである。今、まさに日本列島は栗の収穫時期を迎えている。今、この栗を食べておかないと、次は来年だ。来年を無事に迎えることができればよいが、そんな保証はどこにもない。となると、多少高くても食べておいたほうがよい。甘いものを食べるとほっとした気分になるのもよい。好きなものを頂いて、ほっと一息。世間は騒がしいことばかりだからこそ、せめて自分の半径3メートルくらいは落ち着いた感じにしたいものだ。

落ち着いた、といえば、今日はお茶の稽古があった。月に一回で家ではおさらいも予習もしないので、なかなか覚えないのに、先月は菅野さんのところに遊びに出かけてしまったので、2ヶ月空いてしまい、さすがに少し辛かった。来月は9日に稽古があって、24日にいよいよお茶会デビューである。客で入るだけなのに、今からドキドキしてしまう。

BASE BALL BEAR

2010年09月24日 | Weblog
昨日のブログに本棚が窮屈になってきたと書いたばかりなのに、今日はアマゾンに発注しておいたBase Ball BearのDVDが届いてしまった。しかも2点。

以前、「リンダ・リンダ・リンダ」という映画を観て、とても愉快な作品だと思った。先日、障害者団体向け割引制度悪用事件のことをブログに書くのにいろいろ検索をしていたら、何故か「リンダ・リンダ・リンダ」が引っかかった。結局、関係なかったのだが、その映画の主演のひとり関根史織の名前に必ず付いている「Base Ball Bear」が気になって、検索してみると、YouTubeの映像が良かったのでDVDを観たくなった。で、アマゾンのサイトに飛んで発注した次第である。

バンドというものが一般にどのように形成されるものなのか全く想像もできないのだが、このバンドは高校の学園祭に出場するために結成されて今日に至っているのだそうだ。音楽として彼らがどうなのか、というようなことは全くわからないのだが、DVDを買って良かったと思っている。

自分が高校生の頃を振り返って見れば、確かに学園祭のためにいくつものバンドが結成されていた。しかし、それが学園祭終了後も続き、しかもメジャーデビューに至った、などという話は聞いたことが無い。結局、どれほど音楽が好きであるかとか、その好きであることを十二分に支持するに足る才能に恵まれていること、そうした才能がバンドとして結びつくこと、音楽だけでなく集団としての秩序と統率が取れていること、そうした全てが世に認められる幸運に恵まれていること、などなど数え上げればきりがないほどの要素を兼ね備えているバンドだけがメジャーデビューを果たし、継続的に活動できるということなのだろう。

それにしても、バンドというだけでもカッコいいと思うし、それが続いているのも羨ましいと思う。自分の高校時代は「不毛」を絵にしたような3年間で、大学もそれほど愉快ではなく、就職してから漸く調子が出て、結婚して子供ができて、自分の親との関係とか結婚生活とかが様々な軋轢でボロボロになり、今なんとなく落ち着いた。世間では年を取るということを否定的に捉える傾向があるように感じるのだが、私は年齢を重ねることが楽しくてしょうがない。髪は薄くなるし、肌は乾燥するし、眼はよく見えなくなるし、体力も落ちてくるし、転職の誘いも来なくなる。それを悲しいとか寂しいと思う考え方もあるのだろうが、そうした変化を経て見えてくるものがたくさんある。人との関係もそうだし、世の中の記号論的な諸々もそうだ。

そうした眼で学生時代を振り返れば、月並みだが、もっと遊んでおくべきだったと思う。遊びというのは、その時々の本分とは関係のないことという意味でのことだ。勿論、所謂教育は必要だが、机上の知識を積み上げたところでそんなものは生きる上では何の役にも立たない。肝心なのは生活能力をつけること。生きる上では他人との関係が不可欠なのだから、様々な形の関係を作ったり壊したりという経験を重ねることが必要だと思う。未成年という社会の保護下にある身分で、学校という同質集団にあるときに、ローティーンならまだしも、高校生や大学生くらいの年齢にもなって学校以外に生活が無いというのは過保護だろう。その過保護に甘んじていた自分が情けない。

人は生まれることを選択できない。生を受けたらそれを受け止めて最期まで行くしかない。それは幸運かもしれないし災厄かもしれない。しかし、それが許されるなら、人生は楽しまなければ嘘だと思う。生きることの喜びというのは、いろいろあるだろうが突き詰めてしまえば他人とのつながりを実感することだと思う。生活のあらゆることが市場原理に支配され、何事もデジタルで表現されるのが今の時代というものだが、それは多種多様の無数の事象を社会という枠のなかで管理しようとすれば、数字という共通言語で律することが必要だからだ。個人としてそうしたデジタルの世界にどこまで付き合うかはそれぞれの勝手だが、数字で物事を推し量っている限りは生身の人間と関係することなどできない。市場原理のなかで生きなければ社会生活に支障が出るが、それはそれとして付き合いつつ、自分の価値観も追求しないことには生活のなかの不足感から逃れることはできない。人は思いの外、深く複雑にできているものだ。もっと早くそういうことに気がついていればよかったのだが、最期が視野に入ってくる年齢になって漸く見えてくるのが人生の皮肉というやつなのかもしれない。

ところで、今日手にした2点のDVDは以下の通り。「映像版『バンドBについて』第1巻」はビデオクリップ集で、2005年12月の「CRAZY FOR YOUの季節」から2008年1月の「17才」までの10曲が収められている。「LIVE;(THIS IS THE) BASE BALL BEAR. NIPPON BUDOKAN 2010.01.03」は2枚組みで1枚目が武道館ライブの本編で2枚目はアンコール部分と翌日の下北沢GARAGEでのライブの一部。武道館公演の翌日に下北沢のライブハウスで公演、しかも曲は殆ど被らないというところが好感度を刺激してくれる。現在のメンバーでの結成から8年だそうだ。なんとなく続いている理由がライブの映像から感じられるのだが、それを書いたら直後に解散というようなことになると、私も決まりが悪いので、せめて10年くらい経過するまで余計なことは書かないことにする。

終日、雨が酷くて

2010年09月23日 | Weblog
雨が降るのは珍しくないが、終日降り続けるというのは滅多にあることではない。そういう時には家のなかで過ごすに限る。

現在の住処で暮らし始めて1年8ヶ月。30㎡の空間を出来るだけシンプルに使うことを心がけてきた。時々に話題にしている通り、日々の食材については生協の宅配を調達先として一本化し、朝食用のパンだけは勤務先近くの神戸屋とか成城石井で扱っているベッケライサトーのパンを買っている。米と肉は実家から調達。生鮮品は1週間以内に消費できる分しか発注せず、冷凍品は必要最小限にとどめているので、余計な在庫が無い。衣類は傷みがひどいものに限って買い換えるようにしているので、これも余計なものが無い。但し、以前はトレッキングに出かけることがあったが、ここ数年はすっかりご無沙汰なのでトレッキング用品は不良在庫化している。尤も、これはそれほど大きな問題ではない。最近気になり始めているのが本とDVDとCDだ。読み終わった本はアマゾンのサイトで売りに出すか、子供に譲っているので、まだそれほど邪魔にはなっていないが、そろそろ本棚のやり繰りに工夫が要求されるようになってきた。

本は、読み終わった後どうするかが問題だ。再読する本はそれほど無い。それなのに手許に置いておきたいと思うものがある。特に美術展の図録とか写真集とか美術雑誌のような大型本が厄介だ。雑誌はちゃんと読むのだが、他は殆ど開くことがない。今日のように時間の空白が生じたときなどに、手にとってぱらぱらとめくると、今度はその手が止まらなくなってしまう。それはそれで厄介なことである。日々の暮らしのなかで片付けておいたほうが好ましい雑多なことがあるので、ぼんやり本や写真を眺めている場合でもないのだが、こういう時間はとても愉快だ。

今日、手にしたもののなかでは2006年に世田谷美術館で開催された「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」の図録が面白かった。世田谷で現在開催中のヴィンタートゥール展を観てきたことを19日付のこのブログに書いたが、そのメインの作品のひとつであるルソーの「赤ん坊のお祝い」との対比で小出樽重の「子供立像」と「ラッパを持てる少年」を掲げている。実際に小出は好きな作家のひとりにルソーを挙げており、自分の息子を描いたこれらの作品にルソーの幼児像の雰囲気を重ねるのは面白い見方だと感心した。他にも、ブリヂストン美術館にあるルソーの「牧場」が、もとは土田麦僊が渡欧した折に買い求めたものだということが書いてあったり、土田と共に渡欧した小野竹喬もルソーの作品を購入しているとか、植田正治がルソーを意識して撮影したという作品があるとか、ついつい引き込まれてしまうようなことがいくらもあった。

写真集ではマグナムの「IN OUR TIME」が面白い。やはりヴィンタートゥール展に出品されていたジャコメッティ(子)の作品と関連するのだが、ブレッソンの作品にアトリエでのジャコメッティを撮影したものがある。ブレッソンの作品は、その構図が幾何学的で美しく、しかも偶然そういう構図になった瞬間を巧みにとらえているとことに感心する。ブレッソンには被写体との信頼感のようなものも溢れている。モデルやタレントでもないかぎり、カメラを向けられれば人は緊張するものだろう。それでもブレッソンが写したポートレートは、どの人も素を晒しているような雰囲気がある。それはカメラを構えている側と写される側との間に、たとえ瞬間的であるとしても、信頼関係が確立されているということだろう。そうした諸々にブレッソンの魅力があり、私は彼の作品が好きだ。彼が自分の作品を語るドキュメンタリー映画「瞬間の記憶(原題:HENRI CARTIER-BRESSON BIOGRAPHIE D’UN REGARD)」は映画館でも観たし、DVDも持っている。

ほかにもいくつかの本や写真集などを眺めたり、家事をしながら志ん生の落語を聴いているうちに、あっという間に1日が過ぎてしまった。雨がひどくて家にいるときも、それはそれとして愉しい。

暑くても寒くても

2010年09月22日 | Weblog
このところようやく暑さが和らいできたと思っていたが、今日は暑さがぶり返した。明日は気温が下がるらしい。例年になく暑い日が続いた夏の終わりに、気温が日替わりで上下すると、身体への負担は大きくなる。身の回りには風邪気味の人の姿が目立つようになり、街では喪服姿も目立つ。私は無理をしないことにしているので、今日のような暑い日には昼寝をする。

昼寝をしていられる人はよいが、例えば農作物などは根があって身動きがとれないので、期待されたような収穫を得られないという事態に陥ったりする。今月に入り、生協の宅配品に中止や規格・価格変更、産地変更などが急増している。こうした予定変更品は一見して先月よりも増えているのに、自分が注文したものがそうした変更、特に中止になることはかえって減っている。天候異常の影響を最も強く受けている葉物野菜を注文しないことや、運が良いことの所為だろう。予定変更に当たらなくても、品質の低下は全体として避けられないとの印象も受けている。自然のことはどうすることもできないし、妙に操作を試みてそれが裏目に出ることもあるだろうから、こうしたことは仕方が無いと受け容れるしかない。

ちなみに、生協から農作物の作柄状況についての説明文書が先週の配達品のなかにあった。総じて降雨不足と高温の影響があるのだが、地域によって多雨や花の時期での低温の影響というところもある。自分の身の回りが猛暑と騒いでいると、日本全国が猛暑なのかと思ってしまうが、必ずしもそういうことではないという当然のことを改めて思い知らされる。その作柄状況だが、例えば以下のような具合である。

葉物野菜:降雨不足と高温の影響で品薄
 群馬県・長野県 9月6日までの降雨不足でレタスやキャベツが小玉傾向
 関東地方 発芽および発育不良、畑におけるトロケや焼けなどで収量低下
果菜類:高温の影響で品薄
 東北地方 着果不良や樹勢弱などで収量低下
 関東地方 着果不良、樹勢弱、害虫などで収量低下
根菜類:高温多雨で品質ばらつき
 じゃがいも 北海道で中心空洞
 人参 北海道で病害、トロケ、割れ
 たまねぎ 北海道で小玉傾向 病害も
 大根 北海道・東北で軟腐など病害多発 害虫も例年より多い
 ごぼう 関東で生育遅れ
 里芋 生育遅れ 小玉傾向
果物
 りんご 出荷遅れ 規格外多発
     4月後半の開花時期が低温だった影響でサビ果多発
     フジを中心とした晩成種では開花時期の低温による変形果が多発
     また夏場の高温で赤く色付くのが遅れ
 柿 色付き悪く収量も低下
     開花時期の低温で落花多発
 梨 出荷遅れ 規格外多発
     開花時期の低温
 ぶどう 出荷遅れ 収量低下
     山梨では開花遅れと6月までの低温で出荷遅れ その後に病害も
     長野では開花時期の低温で不受精の巨峰が発生
     東北でも不受精あり

こうした不作の時こそ産地を支援しないと、生産者は安心して農業に取り組むことができない。良いときだけの付き合いというのは、結局は上っ面だけの脆弱な関係しか生まない。そう考えて、これまで通り、食材の調達を生協に一本化している。私ひとりの発注などものの数にも入らないのだが、大事なのは生きる上での原理原則だと思う。これが振れてしまうと、自分の生活だけでなく自分の存在そのものが危うくなるように思う。よく考えて、その上で決めたことは安易に変更しない、という動作を生活のなかのひとつひとつのことに貫徹することで、生きる上での安心感とか自分自身への信頼が醸成されると考えている。

ところで、今日の昼は届いたばかりのニラを使ってチヂミを作って食べた。勿論、具はニラだけではなく、玉葱や冷凍のシーフードミックスも使った。ちゃんとした韓国料理屋で食べるようなわけにはいかないが、十分満足のいく出来だった。

ワイルド・ギース

2010年09月21日 | Weblog

前田大阪地検特捜検事を逮捕 証拠隠滅容疑、地検も捜索。(共同通信) - goo ニュース

テレビや新聞と無縁なのでよくわからないが、妙な「事件」だとの印象が強い。おそらく、村木さんとは全く関係のないところにある勢力あるいは個人に圧力をかける目的で、「障害者団体向け割引制度悪用事件」を発掘したのではないだろうか。つまり、割引制度を悪用したことを問題にしたのではなく、社会的地位を失墜させることなど容易なのだぞ、という脅しのためにこの「事件」を持ち出したということだ。

事件が明るみになり、最初の逮捕者が出たのが昨年2月で、そこから広告代理店社員、家電量販店社員、厚生労働省職員、郵便事業会社職員などが次々と逮捕されている。刑事事件の裁判が平均的にどれほど時間を要するものなのか知らないが、逮捕された人々の一審判決が出始めるのが昨年8月からなので、裁判というよりは事務手続きに近いものだろう。ということは、被告が罪状を認めているということでもある。しかし、村木さんは逮捕が昨年6月14日で一審判決が今月10日なので、これは裁判らしい裁判だったといえる。ところが、24日までに控訴をするか否かを決定することができる検察側が早々と今日、上訴権を放棄してしまった。村木さんが犯罪者であるとの確信があればこそ、起訴に踏み切ったはずだろうが、検察側が提出した証拠が悉く不採用となって無罪判決が下った上に、本件の主任検事が証拠隠滅で逮捕されるという事態に至っては、裁判を継続することなどできるはずもない。

そもそもこれは実在した「事件」だったのか、という疑問すら湧き起こる。これまでに有罪判決を受けた人たちは罪状を認めているのだが、なかには判決が下りてから罪状を否認して控訴している人もいる。なんらかの約束事があったのが、それが反故にされたので一転して罪状を否定している、というのは穿ち過ぎだろうか。おそらく事件の「発見」から現在に至る1年半ほどの間に、その背後にあった事情が大きく変化したのである、と、思う。

昔、「ワイルド・ギース(原題:The Wild Geese)」という映画を観た。アフリカの某国でクーデターが起こり大統領が誘拐されてしまう。その国に利権を持つ鉱物資源開発会社が自社の利権を守るべく傭兵を雇い、大統領の身柄確保を図る。この傭兵の中心人物たちが主役なのだが、晴れて大統領を無事に発見し、身柄を雇い主のもとへ届けようと、迎えの飛行機がやってくることになっている空港に待機していると、その飛行機が予定通り現れる。ところが着陸直前になって雇い主の企業からパイロットに連絡が入る。大統領はもういらないと。飛行機は着陸せずにそのまま飛び去ってしまう。新政府とその企業との間に利権を継続する旨の取り決めが成立したのである。取り残された傭兵たちは、多くを犠牲にしながらも、なんとか一部は帰還を果たす。1978年の作品で、私は映画館で観てとても感動したのだが、それほど評判にはならなかったように記憶している。検索してみたらYou Tubeに予告編が上がっていた。

今回の事件が主任検事の逮捕に至ったのを見て、ふとこの映画を思い出した。


「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ(原題:HET NIEUWE RIJKSMUSEUM)」

2010年09月20日 | Weblog
ドキュメンタリー作品が好きだ。といってもそれほど多く観ているわけではないのだが、ここ3年ほどの間に観たものでも「小三治」や「キャピタリズム」はそれぞれに面白かったし、もっと前に観た「カバの約束」もいろいろ感心しながら観た。「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」も、描かれている当事者にとっては切実な問題なのだろうが、作品の鑑賞者としては愉快なものだった。

原題は「HET NIEUWE RIJKSMUSEUM」で単純に訳せば「新国立美術館」あるいは「国立新美術館」だ。なぜ「ようこそ」なのか。あと末尾の「へ」も重要だ。その本当の理由は知らないが、私が考える理由は後ほど。

公共施設のように大勢の人々が関わるものの建設とか取り壊しとか大規模改修といったことを、誰もが納得できるようにとりまとめるということは不可能ではないだろうか。日頃の仕事や地縁血縁の範囲内での決め事ですら、なにかと軋轢を生じるのが一般的だろう。人それぞれに我があり、それぞれの秩序を持って生きているのだから、何人も集まって、互いに大小様々な利害が絡むようなことを決めるとなると、どうしても話が通じない人が現れてみたり、あちらを立てればこちらが立たずというような事態に陥ってみたり、議論が噛み合わなくなるのが当たり前だ。そうした場合に、どのように事態を収拾するかというところにそれぞれの文化があるように思う。しかし、自我に拠る問題とか個別最適の集合が全体最適にはならないことなどは、洋の東西を問わない普遍性のあることではないだろうか。

「ようこそ」はアムステルダム市街の国立美術館が舞台で、事の起こりは建物の中央を貫通していた通路の構造だ。欧州の古い大型建築物によくあるように、この美術館もシンメトリックな外観になっており、中央部分を三連アーチの大きな通路が貫通している。つまり、美術館に用の無い人が、単に通り抜けるためだけに美術館を通過する。アムステルダム市街は中央駅南側に広がる旧市街を核に環状に運河と道路が整備されていて、美術館はその規模の大きさ故に環状道路を少し外側に膨らませる瘤のようになっている。このため、特にオランダで普及している自転車の利用者にとっては、美術館を突っ切ることが近道になる。このため、美術館の貫通通路は地元住民にとっては交通問題なのである。

当初の改装案では、三連アーチによって三分割さている貫通通路の真ん中を歩道にして、館内部分に地階へ向かう大きな階段を設け、そこから館内へ入館者を誘導するようになっていた。三分割されている通路は真ん中が広く自転車が通る両端は狭くなっていること、入館者は自転車道を否応なく渡ることから、その案を知った地元のサイクリスト協会という市民団体が異議を唱えたのである。結局貫通通路は確保され、しかも真ん中の通路の幅と両端の2本合わせた通路幅を比較すれば、おそらく自転車用も歩行者用もそれほど変らないので、どちらを自転車用にしてどちらを歩行者用にするかというのは朝三暮四的なことのように感じられないこともない。しかし、例えば東京の道路事情で首都高の合流や分岐のぎこちなさが渋滞の原因となっていることを見れば、交通の流れは微妙なことで大きく変化するというのは確かであり、サイクリスト協会が異議を唱えるのも尤もなことだ。

一方で美術館側としては、建物も展示物の一部との認識があるので、安易な妥協は許されないという心情がある。しかも、市民団体の動きに呼応して行政や政治が当事者である美術館側に頭ごなしに改装案の修正を迫ったかのような印象を受けているので、特に改装の設計を担当している人たちや責任者である館長たちも黙って修正に取り組む状況ではなくなってしまう。

結局、何度も美術館と行政と市民団体との対話集会を重ね、改装案に修正を加え、ようやく工事許可が下りて、当初の予定を何年も超過して現在工事が進められている。振り返ってみれば、ちょっとしたボタンの掛け違いが事を大きくしている。それと、当事者意識の差異だろう。市民にしてみれば、美術館は美術館である以前に都市景観であり、そこに実質的に公道と化している通路があると認識されている。美術館は当然に美術館であり貫通しているとは言いながらも通路は美術館内部のものだと認識している。その差異をそのままに計画が動き出してしまったから、軋轢が生じてしまったということだろう。

全ての問題は美術館の入口の問題なのである。そこで、邦題が「ようこそ」となるわけだ。入口は物理的に美術館の入口でもあり、今回の騒動の入口でもある。一見すると妙に長いタイトルだと感じるのだが、映画を観終わってみれば、なるほどと思う。この映画は遠い国の美術館の問題を描いているのだが、我々は身近に大小無数の入口問題を抱えている。生活の中でこの美術館の改装問題と似たようなことに直面している人は、自分の問題の解法のヒントとして観てしまうかもしれないが、人は常に軋轢の芽を抱えて生きているというより普遍的なことも考えさせられる作品だ。

知らない町

2010年09月19日 | Weblog
世田谷美術館で開催中の「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」を観てきた。

この展覧会のチラシをはじめて見たとき、「ヴィンタートゥール」が人の名前なのか都市の名前なのか、それとも他のものなのか、全くわからなかった。これはスイスの都市で、チューリッヒの近くに位置するスイスで6番目に大きな都市だそうだ。今でこそチューリッヒの衛星都市のような位置づけだが、その昔はスイス経済の拠点のひとつで、国内最大の銀行であるUBSの前身のひとつUnion Bank of Switzerlandや、現在はフランスのAXAグループ傘下にあるが2007年までは欧州屈指の保険会社であったヴィンタートゥール保険はこの町から生れた。偶然だがUBSもAXAも私のかつての勤務先だ。そうした由緒ある都市の美術館ということで、そのコレクションも欧州屈指の良質なものなのだそうだ。

展示は8章立てとなっている。
第1章 フランス近代Ⅰ
第2章 フランス近代Ⅱ
第3章 ドイツとスイスの近代絵画
第4章 ナビ派から20世紀へ
第5章 ヴァロットンとスイスの具象絵画
第6章 20世紀Ⅰ 表現主義的傾向
第7章 20世紀Ⅱ キュビズムから抽象へ
第8章 20世紀Ⅲ 素朴派から新たなリアリズムへ

今回どのようないきさつでこれほどの規模のコレクションが日本に巡回してきたのか知らないが、全体的に小品が多い印象があるものの、見応えのある内容だ。注目したのは第1章にあるモネの「乗り上げた船」、第2章ではチラシやチケットにも使われているゴッホの「ジョゼフ・ルーラン」、第4章と第5章のナビ派、第6章のパウル・クレーの初期の作品、第8章では、やはりチラシやチケットにも使われているアンリ・ルソーの「赤ん坊のお祝い」、そしてモランディとジャコメッティだった。第3章の展示は初めて観る作品ばかりだったが、それほど強い印象は受けなかった。

この夏に国立新美術館で開催されていたオルセー展でもナビ派が大きく取り上げられていたが、今回も2章を使ってナビ派が紹介されている。単なる偶然なのか、どこかの何かの意図があるのか知らないが、偶然ならおもしろいことだ。私はナビ派というものを2008年の夏にオルセーを訪れたときに初めて知った。そのときは日常風景のなかの人の様子のなかにある何気ない艶かしさのようなものを感じたが、先のオルセー展や今回のヴィンタートゥール展では艶よりも理屈っぽさのようなもののほうに関心が向いた。

ジャコメッティ(子)は2点だけの展示だ。2006年に日本でジャコメッティ展が巡回したときは神奈川県立近代美術館葉山で観たあと、もう一度観てみたくなって川村記念美術館へも出かけた。ブランクーシも好きなのだが、やはり好きな作家の作品はひとつふたつちょろちょろ観るよりは、まとめてその世界に浸りたいと思う。

パウル・クレーというと、ブリヂストン美術館にある「島」に馴染みがある所為か、あの点々スタイルの作品が思い浮かぶ。今回展示されている2点の作品は片方がその点々スタイルに至る以前の「水脈占い師のいる風景」と点々スタイルの「ごちゃごちゃに」だ。昨年、Bunkamuraで「ピカソとクレーの生きた時代」が開催されて、クレーの作品をまとめて観る機会に恵まれた。

ところで、青山二郎がこんなことを書いている。
「一人の画家の、同一傾向の画をずらりと並べることは、画家は気が附かないから個展などと遣つてゐるのだらうが、素人眼には甚だ殺風景なものである。見事な個性は薄められ、個性だと思つたのが一種の職人芸だつたのかと言ふ印象にもなり兼ねない。造形美術に、これは避け難い性質でもあるが、画家の個性の限界の問題にも依るのである。」
(「青山二郎全文集 下」ちくま学芸文庫 168頁)

同じ作家のまとまった量の作品を並べたときに、それが殺風景というか単調に感じられるのか、逆に心踊るように感じられるのか、それは画家の技法や技量のような物理的な要素だけではなく、画家なり画なりについての物語を持って観るのか、何の予備知識や先入観も無しに観るのか、描かれているものと見る側の個人的経験との間に重なるものが有るのか無いのかというような、画についての関係性も大いに影響するのではないか。

尤も、別にジャコメッティについて、個人的な関係性があるわけもなく、特に重なりあうようなエピソードを持ち合わせてもいない。ただなんとなく好きというだけで、好きなものはたくさん観たいという素朴な感情だ。確かに、なかにはまとまると殺風景なものもある。おそらく、作家の個性だけではなく観る側の個性との相性が多分にあるのだろう。

今日は子供と一緒に出かけてきた。まず美術館のなかにあるレストランで腹ごしらえをしてから、いろいろ話をしながらゆっくりと観てまわり、帰りに用賀駅への途中にある工房花屋で一服する。ここは名前の通り花屋なのだが、カフェ営業もあり、骨董の販売もしている。倉庫のような建物で、天井が高く、インテリアが骨董なので、個性の強い雰囲気だ。カフェのメニューはコーヒーまたは紅茶とケーキのセットだけしかない。いろいろメニューを揃えたところで、実際に注文が入るのは殆どコーヒーなのだろうから、こういう一本勝負的なメニューも現実的だと思う。コーヒーはやや深煎りで抽出も良く、おいしかった。ケーキはベークドチーズケーキ。こちらもおいしいし、深めのコーヒーに良く合う。コーヒーとケーキを頂いた後、店内を見て回ったのだが、骨董と言ってもテーブルとか扉といった大きなものが多い。全部が売り物というわけではなく、店舗の備品として使用しているものが多いようだ。

子供と別れた後、大学時代の友人と原宿の山居で会食。昨年12月以来の再会。ひとりの時間も楽しいが、親しい人たちと過ごす時間も楽しい。

一二三

2010年09月18日 | Weblog
自分が何を観に行こうとしているのか理解せずに出かけるということが続いている。先日の「SHIMOKITA VOICE」もそうだったが、今日の「三三・山陽・茂山の壱弐参之笑」もそうだ。会場に出かけ、幕が開いたところで落語と講談と狂言の会であることがわかった。これもチケットを予約するときに「三三」だけに反応した結果だろう。それでも、先日の下北も楽しかったが、今日のも愉快だった。

今日は午前中に掃除や洗濯などの家事を済ませ、12時45分頃に住処を出た。裏通りをぶらぶらと歩き、山手線を跨ぐ陸橋を越え、南へ向かう。所々に古い商家が残る街並みを歩いて不忍通りへ。信号を渡り、少しだけ護国寺方面へ進み、日産のディーラーを背に路地へと入る。この路地の突き当たりが文京区立第十中学校なのだが、この通りは民家なんだか店舗なんだかあやふやな家屋が点在する楽しい家並が続く。突き当たりを右に折れてしばらく行くと小石川植物園の森が見えてくる。植物園の塀に沿って網干坂を下ると塀の内側に赤い壁の洋館が見えてくる。今日は天気が良いので青空の下で赤い洋館が一段と映える。この建物は現在は東大総合研究博物館小石川分館だが、その昔は医学校であったものだそうだ。植物園を過ぎ窪町東公園交差点を左に折れる。向かうところは橙灯

先週来たときには建物の中の階段の踊り場にあった看板が今日は建物の外に出ている。この違いは何を意味するのだろう。階段を上ると、店の入り口の前で蚊取り線香が煙をくゆらしている。扉を開くと靴が一足。客はいないようだ。今日も前回と同じように「こんにちは」と声をかけて中に入る。巣鴨の住処を出てからここまで約30分。これから外を歩くのが気持ちのよい時期になるので、出勤前に立ち寄るのにちょうどよいかもしれない。

今日はハムとチーズのホットサンドと野菜スープとコーヒーをいただく。野菜スープはヴィシソワーズ風だが温かいもの。抑え気味の味付けがなんとなく身体と馴染むように感じられておいしい。使っている野菜は御茶ノ水にある有機野菜の専門店から配達されるものだそうだ。特に有機だとか無農薬といったものにこだわるわけではないのだそうだが、どうせならあまり使わないに越したことは無いし、おいしいに越したことは無いという。もっともなことだ。ホットサンドに使うパンはCORBのもの。CORBもカフェで、私は訪れたことはないのだが、店のサイトを見ると使っているコーヒー豆はGLAUBELLから仕入れている。GLAUBELLは私がコーヒーの抽出を習っていたところだ。ちなみに橙灯で使っているコーヒー豆はオオヤコーヒーから仕入れているがGLAUBELLの狩野さんとも面識はあるのだという。紹介でそれまで面識のない人と知り合い、会話のなかで共通の知人を見出して、そこから新たな話題が生れる、というようなことはとても愉快だ。

橙灯の坂崎さんはこのところ出張イベントが多く、今日から始まるBIWAKOビエンナーレにも会期終盤の11月初旬に尾賀商店で予定されている文具に関するトークイベントのパネラーとして参加するという。今日はこのカフェでの会話のなかで、出身地のことなどが話題になり、私が6月に京都に出かけたことなどを話に振った。その際に自分のなかで欠くことのできない経験が京阪電車のことで、その話のなかで滋賀県が登場し、そこからBIWAKOビエンナーレになるのである。欠くことが出来ない経験、とはいいながら久しぶりに話題にしてみると地名などの細かなことについての記憶は薄れている。話しながらそういう自分に苦笑する。

14時15分頃に橙灯を出て、茗荷谷から丸の内線に乗り、後楽園で南北線に乗り換えて王子に出る。北とぴあには15時10分前頃に着く。「三三・山陽・茂山の壱弐参之笑」の開演は15時。ちょうどよい時間だ。

開演して初めて知ったのだが、この公演は狂言と落語と講談を組み合わせたものだ。落語はともかく、狂言と講談は殆ど縁がないので、特に講談についての解説が興味深かった。尤も、落語のなかに講談が劇中劇のように取り入れられたものもあるし、過去に落語会で講談師が演者に名を連ねたものもあるので、全く聞いたことがないというのではないのだが、「講談とは」とか「講談と落語の違いとは」というようなことについてまとまった話を聞いたのは今回が初めてだと思う。素朴な疑問として、何故、講談の人気が衰退し落語はそれなりの地位を確保できているのかということだ。解説のなかで、講談のはじまりが武士に対して武士としての心構えを説くということから始まったこと、文字の読み書きができる人が少ない時代に講釈本を読んできかせるというスタイルで始まったために本を読むことができるということ自体が見世物的希少価値を備えていたこと、ということに鍵があるように思う。江戸時代においては戦が殆どなくなってしまったので武士としての在り様というものにリアリティがなくなってしまったこと、泰平の時代が続いたことで識字率が上昇して本を読むことができるということの希少性が失われたこと、が講釈師の存在意義を揺るがしたということはあるだろう。それにしても、明治の頃までは都市部において町内に講釈場が少なくとも一軒はあったと言われていたほど大衆演芸として浸透していたものが100年ほどの間に絶滅に瀕する状況にまで衰退したことの説得力ある理由が想像できない。

狂言は能の幕間の気分転換のようなもの、と理解している。つまり、能の世界があっての狂言だと思う。わかりやすさとか気軽さで狂言だけを本来の文脈から抜き出してしまって、果たして存在し続けることができるものなのだろうか。闇雲に伝統を守ればよいということではないが、そもそもの在り様を抜きにして形だけを残すというのも意味はないだろう。芸に普遍性があるなら、それに磨きをかけつつ、それぞれの時代を反映した演じ方のようなものを追求するという地道な作業の積み重ねによってしか、物事というのは継承されないのではないだろうか。部外者なので言いたい放題だが、とりあえず観客を集めるということではなしに、現代に通じる、そして未来にもつながる真髄を見出すことができなければ、滅びてしまっても仕方が無いように思う。それが歴史というものではないだろうか。

落語についても同じことが言えるだろう。現在は東西合わせて約700名の噺家がいるそうだが、数は力とはいいながら、それで安泰というわけでもないだろう。人間の精神の在り様に果たして普遍的な何かがあるのか、というような感情の根源に対する問い無くして話芸はあり得ないだろう。少なくない古典が仕込みを必要としながらもなおも語られ続けているのは、そこに人間の在り様の何事かを語る普遍性が横たわっているからに他ならない。新作はそれが作られた時点では賞味期限はわからないが、噺の寿命は作者がどれほど深く人間を観察して作っているかということに尽きると思う。何の道具立ても必要としない芸だからこそ、噺の作り手と語り手の洞察力が直接問われる厳しい芸だと思う。そうした落語家の眼を問うことが、落語を聴く愉しみだ。

演目
狂言 「附子」 茂山宗彦、茂、童司、神田山陽
講談 「十番斬り」 神田山陽、柳家三三
落語 「風邪うどん」 柳家三三、茂山宗彦
(休憩15分)
講談 「裏窓」 神田山陽
落語 「ダイヤルMをまわせ」 柳家三三
狂言 「梟」 出演者全員

開演 15:00
閉演 17:30

会場 北とぴあ さくらホール

つれづれ

2010年09月17日 | Weblog
午前中に勤務先の保険組合を通じて申し込んだ歯科検診があり、出勤までかなり長い時間をつぶさなければならなかった。同じ午前中の用事でも陶芸や木工のときは着替えなければならないので住処に戻るのだが、今日は着替えの必要はない。ちょうどよい機会だったので、ひさしぶりにキフキフで昼食を頂き、その後渋谷に出て映画を観ることにした。

キフキフのシェフである原さんが来週から今月一杯、フランスへ旅行に出かけるという。このところご無沙汰していたこともあり、旅行前に会いたくなった。11時半の営業時間には少し早い時間に着いてしまったので、同じ建物のなかで開催されていた「日本叙勲者協会写真展」というものを眺めてみた。近頃はカメラの操作性が向上して、誰でもそこそこの写真を撮ることができるようになったので、素人でも面白い写真が多い。それでも、構図や光の具合にいまひとつ詰めが甘いところが素人らしく、こういうことはやはり職業として手がけている人にはなかなかかなわないと思う。

キフキフ開店直前に店に入る。他に客がいないのをいいことに、少し原さんと話をする。フランス行きはずっと温めていたことで、今回は常連客のなかの希望者3名と一緒にパリとプロバンスを回るという。客と一緒に、というのはおそらくついでのことで、何か考えがあるように感じられた。というのは、今回の旅行のために4月に人を雇って特訓し、ランチくらいは任せることができるようにしてあるという。遊びに行くためというにしては、周到に過ぎるではないか。今の店を始めて1年が過ぎ、いろいろ考えるところが出てきたのではないだろうか。他人事ではあるのだが、ちょっと気になるので、これから少し注目してみたい。

今日頂いたのは鶏肉のグリルにマスタードソースをかけたもの。デザートにキャラメルのアイスクリーム。このアイスは自家製だと思うが、原さんのブログにはアイスクリームへの思いが書かれたものがある。トラッフルの頃にはいろいろ変ったアイスクリームを作ったりもして、ビールのアイスクリームなどは面白い味だった。そういえば、先週、橙灯で食べたアイスも自家製のおいしいものだった。

キフキフを出て、バスで渋谷に出る。白金高輪駅前から恵比寿あたりまでは305号線を行くのだが、車窓の風景は古くからある商店と今風の飲食店が混在する。寺院も多い。白金高輪のバス停も松秀寺の前だ。このその混ざり具合に加えてそこそこの起伏が面白い街並みを形成しているように思う。この街並みは外苑西通りと交わる恵比寿三丁目交差点あたりまで続く。近隣に鉄道の駅はなく、公共交通機関はバスだけという一見不便な地域だが、その割には街の雰囲気に活気が感じられる。毎度コーヒーの話で恐縮だが、カフェやコーヒー豆を扱う店も、立地が悪いのに繁盛しているところがある。人の流れというのは不思議なもので、駅に近いから人が集まるということでは必ずしもない。マーケティングの専門家に言わせれば、あれこれと理屈を並べるのだろうが、そういう言語化できる要素だけで商店や街並みの繁栄や没落を語ることはできないように思う。

バスは渋谷駅南口のバスターミナルが終点だ。ハチ公前のスクランブル交差点を渡り、道玄坂下から東急百貨店本店に向かってゆるやかな坂を登る。東急手前を左に折れ、少し行ったところでラブリングストリートに入る。この通りはラブホ街だが、かつてに比べるとホテルはずいぶん少なくなったように感じられる。以前、企業再生に関わっていたとき、この街のホテルで売りに出されていないものはないという話を聞いたことがある。もう10年近く前のことなのだが、当時に比べるとさらにこうしたホテルの需要は減少しているだろう。それはコンドームの売上が減少の一途を辿っていることからも想像されるが、若い人たちがセックスをしなくなっているらしい。一方で50代以降の世代で性病やHIV系の病気が増えているようだが、これは局地的な現象だろう。現実として日本の合計特殊出生率は2005年の1.26を底に下げ止まったかに見えるものの、1.2台とか1.3台といった水準は人間の社会としてはこれ以上下がりようのない水準なのではないだろうか。ラブリングストリートのホテルが何に置き換わっているかというと、飲食店や映画館、ライブハウスなどである。まだ人寄せ場所である限りは未来があるように思うが、これらの施設も経営が成り行かなくなるようだと、この国もいよいよ終わるのだろう。

松涛郵便局前交差点から少し登ったところに単館映画館のコンプレクスビルがある。今日はそのなかにあるユーロスペースで上映中の「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」という長いタイトルのドキュメンタリー映画を観る。映画のことは後日改めて語るつもりだが、期待に違わぬ面白い作品だった。ドキュメンタリー作品は一般に撮影に時間がかかる。自然を相手にしたものは、製作者が意図した映像をものにするのに最低でも1年はかかるものだし、人間の社会もある意味では自然と同じだろう。この作品もアムステルダム国立美術館の改装工事が始まる2004年から館長が辞任する2008年まで4年間に亘って撮影された映像から構成されている。ドキュメンタリーは、勿論作り手の製作意図があって、その意図に沿って編集されるのだが、素材となるひとつひとつの映像やエピソードは人間社会も含めての自然現象である。この自然が持つ力というのは何よりも強い。そしてその強さが面白い。何がどう強いのか、それはやはり後日機会があれば語りたい。

映画は15時45分頃に終わり、渋谷から銀座線と丸の内線を乗り継いで職場に向かう。先週前半までの暑さが嘘のような気持ちのよい天気でもあり、気分の良い一日だった。

手書きの範囲

2010年09月16日 | Weblog
7月27日付「暑中見舞い」で、今年の暑中見舞いは手書きにこだわって16通しか出さなかったと書いた。手書きに対する返信は手書きでないといけないと思うのか、はがきによる返信5通は全て手書きだった。昨日届いた5通目の主は、英国留学時代に同じ学生寮にいた人だ。といっても、その人は学生ではなく、ある大学の歯学部に籍を置く研究者で、当時は文部省の在外研究員制度を利用して研究者として活動されていた。手書きの文字というのは、達筆とか悪筆というようなこととは別に、驚くほど個性的だ。自分の書く文字もかなり癖が強いのだが、その先生の文字も個性的だ。文字で人柄がわかるのかどうか知らないが、私はその先生が書く字もその人自身も大好きなのである。昨日も届いたはがきをしばらく眺めていた。

人が生きる時間は限られている。その限られたなかで、果たしてどれほど多くの人と永続的な関係を構築することができるものだろうか。ちなみに、今年の暑中見舞いの相手16人は知り合ってからの期間の平均が20年で、一番長い人で29年、短い人で7年だ。単に知っているというだけではなく、自分の考えというようなものを交換できる相手というのは、それほど多くは得られないのではないだろうか。昨日届いたはがきを眺めながら、自分にとって交際可能な相手というのは、できれば直接対面できるような物理的かつ心理的な距離にある人、直接対面できなくても手書きの文字で通信できる心理的距離に居る人、くらいのものではないかと思った。

手書き文字による通信というのは、書かれている文面以上の情報量を擁している。音声との決定的な違いは、物事を表現するのに要する時間だろう。その時間の中身は書くという作業によって占められている部分もあるが、書くまでの思考と書きながら書いた文字を見て思考の修正が行われるという部分もある。書くほうが発信するまでにより多く思考するのである。そして、書いたものは残る。これも重要なことで、感情に流されて書いたものを読み直して没にする、ということもできる。墨やペンによる文字の場合は、筆圧の変化も文字に現れる。それは単なる癖に過ぎないこともあれば、感情の変化を表現している場合もある。もちろん、それは書いた本人にしかわからないかもしれないが、読むほうも想像くらいはできる。また、句読点の打ち方にも個性がある。点の多寡も、書き手の持つ「間」とか思考のリズムや習慣など何事かを表しているのだろう。

自分は書くことが好きだという所為もあるのかもしれないが、書いた文章によるやり取りが出来ない相手とは付き合うことが出来ないように思う。自分にとっての交際範囲は手書き文字による交流を図ることができる相手に限られるような気がする。そうは言っても、はがきや手紙を書く機会はそれほどない。暑中見舞いを書くのにGペンを買ったが、暑中見舞いを書いて以来使っていない。次に使うのは年賀状を書くときだろうか。しかし、そういうことではいけないと、昨日届いたはがきを眺めながら少し気持ちを引き締めた。

果たして手書きのはがきや手紙は私の生活を変えるだろうか。