熊本熊的日常

日常生活についての雑記

蓄積の効用

2011年06月25日 | Weblog
今月9日、10日、12日のこのブログで話題に取り上げた小冊子の課題が評価とともに返送されてきた。評価Aで合格したので、後は試験を受けて合格すれば単位取得となる。試験のことはあまり頭になく、8月も9月も試験のある日に既に予定を入れてしまったので10月に受験するつもりでいる。改めて、自分が履修している科目の試験日程を確認すると、おそらく、全ての科目の受験はできないのではないかと思われる。新学期開始から3ヶ月目にして、早くも留年の危機に直面することになった。

ところで小冊子についての講評だが、高評価のポイントとなったのは、構図がしっかりしていること、日常のなかに季節の変化をとらえる視線、規定通りの体裁、ということだった。丁寧な助言も個別具体的に記載されており、たいへん勉強になった。

「構図がしっかりしている」ことの背景として、これまでに撮りためた写真から素材を選んでいるという点が挙げられていたのと、コメントのなかに掲載した写真そのものに対する好意的評価があったことは嬉しいことだ。以前にも書いたように、写真撮影にはそれほど興味は無かったのだが、褒められると興味が湧いてくる。「豚もおだてりゃ木に登る」を地で行くような己の心情の変化に苦笑を禁じえない。

写真については、毎年子供にカレンダーを作って贈るために素材として撮りためている。子供という特定の個人の眼を意識しているのが、結果的には面白い写真のストックにつながっているのだろう。ただ、正直なところ、写真を撮るというのは、やはり辛い。デジタルカメラなので、数多く撮影して良いと思えるものだけを選び出すことは、理屈としては可能である。しかし、シャッターを切る一瞬を大事にしないことには、「面白い」写真などそもそも撮影することはできないのではないか、という思いがある。たまに恵比寿の写真美術館や、都内のギャラリーで開催されている写真展なども観ることがあるのだが、そうしたなかで眼を惹くのは、フィルムが貴重品であった時代や国の写真家の作品だ。一見したところは、他の数多いる写真家の作品と顕著な差異は無いように思うのだが、何かしらその前を素通りし難い何物かを感じてしまうのである。それは結局のところ、写真を使って何事かを訴えたいと思う心が表出しているということではないだろうか。毎度、繰り返しになってしまうが、
「言葉より先に人のこころありき、ってことを何年か続けているうちにみつける。わかってきた、ってことかなぁ。そっから芸は始まっている。どんな芸でも。音符を並べるうちは音楽家になれない。文字を並べるうちは文筆家にはなれない。結局はそれを通した心を述べるための手段でしかない。音符も、文字もね。」
という「小三治」のなかの言葉が全てだろう。

こんなふうに毎日書いているブログにしても、気がついたときに撮影している写真にしても、自分の「心」をどのように伝えるか、という思いがなければ意味が無い。また、人に伝えるに足るだけの「心」を持つように精進を続けなければ、生きている甲斐も無いということだろう。