熊本熊的日常

日常生活についての雑記

積み上げるということ

2011年05月31日 | Weblog
陶芸で、作業の進捗の結果、40分ほど時間が余ってしまった。以前なら、そういう時は帰ってしまったのだが、今は1分でも惜しいという気持ちが強く、久しぶりに碗を挽いてみた。もう何ヶ月も皿ばかり挽いていたので、作り方を忘れてしまったかと心配していたのだが、それは杞憂だった。一個挽きの皿では毎回難儀をしているのだが、久しぶりに挽いた碗は、なんとなく思い通りに手元の土が動くような心持で形ができあがった。考えながら難儀をするという体験、つまり経験を積み上げることで自分のなかに何事かが蓄積されていくということの表れが、今日の碗、あるいはそれを作っている自分なのかもしれない。

住処に戻ると珍しく手紙が届いていた。差出人は知り合ってから30年ほどになる友人だ。それを手にした瞬間、封を切らずとも内容は概ね想像がついた。先日、この友人が私に見合いのような席を設けてくれたのである。手紙はそのフォローアップだ。当事者2名とそれぞれに付き添いが付いて合計4名で会食をした。手紙の主が私の側の付き添いで、彼女の友人が相手側の付き添いだ。私以外の3名が全員歯科医。うまく話がまとまると歯無にならずに済むかもしれないという結構な話だ。その後、当事者だけで喫茶をして、それなりに会話は弾んだのだが、後が続かない。一応、礼状のような葉書を相手に送ったが、それに対する反応はなく、要するにこれっきりなのだろうと思う。

それで手紙の内容だが、想像通りだったので、なんだか可笑しくなってしまった。字面だけを見れば様子伺いなのだが、行間から叱咤激励が溢れている。尤も、字面のほうでも人に言われて納得したとかいう言葉が記されている。
「縁が無くて… というのはおかしい。自分から作る、作っていくという気持ちがないと縁などできない」
のだそうだ。そうは言っても、相手のあることなので、気持ちだけ空回りしてもどうなるものでもないだろう。なにはともあれ、こちらのほうも積み上げることが肝要ということだろうか。なかなか難儀なことである。

書棚が語る

2011年05月30日 | Weblog
金に縁が無いのだが、稀に銀行に出向かなければならないことがあり、今日は午後の早い時間に住処を出た。早い時間に出かけないといけないのは、単に銀行の窓口が午後3時という信じられないような早い時間に閉まってしまうからというだけのことで、要件自体は待ち時間を含めても15分程度しかかからない。そんなわけで、銀行での用と出勤時間との間に中途半端な空白の時間が生じてしまった。幸い、勤務先が入居しているビルには、入居企業向けのラウンジのようなものがあるので、そこに置いてある雑誌を読んで暇を潰した。

「芸術新潮」では5月号から内田樹が「実践的すまいづくり論」という連載を始めている。最新号である6月号ではその2回目「間取りを決める」という内容だ。自分がこの先、家を建てるようなことになるとも思えないのだが、生活空間をどのように捉えるかということにはかねてから素朴に関心がある。それは住宅というレベルに限らず、部屋であろうが、地域であろうが、国であろうが、生態系であろうが、面白いと思うのである。内田の記事で琴線に触れたのが、「書棚が語るもの」という章だった。なかでも次の一節に膝を打つ思いがした。

「本棚は「その人が何を読んだか」ではなく、「どんな世界につながりたいと欲しているか」を教えてくれます。その意味で、本棚は社会に向けられた窓なんですね。」
(「芸術新潮」2011年6月号 108頁 「内田樹 実践的すまいづくり論 ②間取りを決める」)

改めて自分の本棚を眺めてみると、自分がつながりたいと欲している世界がはっきりと見える。一言で言えば、浮世離れしている。それはとても健康なことに思える。なぜなら、日々の暮らしが余裕に乏しい世俗の極みのようなものなのだから、生活空間のなかにそうしたものとは対極の世界への窓が開かれていることで、自分のなかの均衡が維持されているはずなのである。物理的な制約で手持ちの本を全て現在の住処の小さな本棚に納めることはできないので、古いものは実家で借りているトランクルームに移してあるのだが、それらも一緒に並べることができるとすれば、自分がつながりたいと欲した世界が年齢を重ねることでどのように変化しているのか、逆に何が変化せずに続いているのか、というようなことがわかって面白いだろうと思う。

もし、これから自分が好き勝手に構想した住まいで暮らすことができるとしたら、壁一面に書棚を作りつけた部屋をひとつ作りたい。寅さんのようにカバンひとつで動くことのできる生活にも憧れるのだが、空間というものへの興味も尽きない。

ありふれてはいけない生活

2011年05月27日 | Weblog
スクーリングに出席してから、へろへろになって出勤した。職場の席に「FYI」と書いたポストイットの付いた新聞記事の切り抜きが置かれていた。5月26日付の「三谷幸喜のありふれた生活556」とある。思わず吹き出してしまった。記事を置いてくれた同僚は、前日に雑談のなかで三谷の離婚が話題になったので、そのことについて当事者が書いたものを私に読ませたかったのだろう。あるいは離婚経験者である私に、何か語らせてみたかったのかもしれない。

私の反応に気付いた隣の席の同僚が
「なに、なに」
と尋ねてきたので、
「これ、机の上にあったんだよ」
と、その記事を渡した。読み始めてすぐ、
「へぇ、で、熊本さんは何年だったの?」
というので、
「俺は15年と何ヶ月か。同じくらいだよ。」
と答える。その「ありふれた生活」の要旨は、私の理解では以下の3点だ。

・ 結婚16年にして離婚したこと
・ 離婚原因は「生き方」「考え方」の相違
・ 彼女が家を出て行ったこと

文章の量としては「相違」の具体例と、相手への気遣いが大部を占めていたが、そういう説明や相手への一応の敬意を表明するのは、人として当然のことであり、離婚の実質的な中身とはあまり関係のないことだろう。メディアに露出することを生業にしている人が、ドロドロした話をこういう連載エッセイに書くわけにはいかない。事実や実感がどうあれ、結婚生活やその相手を立てておくというのが、この場合の真っ当な書き方だ。それでも、「些細な」行き違いが積もり積もって深刻な溝になる、というのは実感を伴って諒解できる。生き方とかいうようなものを真剣に考えれば考えるほど、そうした人としての根本のところで相容れない相手との距離は離れていくしかないのである。

隣の席の同僚には交際中の相手がいるらしいが、まだ結婚にまでは至らないのだそうだ。離婚やそこに至る諸々を話した後、
「でも、一回くらいは結婚したほうがいいよ」
と言っておいた。
「何事も経験だからね。いろいろな経験を積むことで人生は絶対に豊かになるから」
とも言った。彼女はそれには同意しつつも、
「でも、女の側から結婚を言い出すわけにはいかないでしょ」
などと言う。プロポーズをひたすら待っているらしいのだ。ただ待っているのだけでは物事は動きようがないと思うのだが、仕事の引継ぎの合間に、そうした深い話に突入するわけにもいかず、
「でも、よく考えたほうがいいよ。それじゃ、おつかれさま」
と、引継ぎを済ませて自分のシフトに入った。

私の所属するチームには6人の女性がいるのだが、そのうち5人が未婚だ。しかも、もう若くはない。傍目に、このまま死ぬまで独りだろうな、と思う人は何人もいて、そこには共通したものがある。何がどのように共通しているのか、なかなか言葉では尽くせないこともあるので、ここには書かない。私も現在は彼女たちと同じく独り身だが、同類になってしまうと希望がなくなってしまう。他人の振り見て我が振り直せ、などとも言う。もう何時死んでも不思議のない年齢に達しているのだが、生きている限りは、最後まで人間関係に纏わる希望を捨ててはいけないと思っている。

AEROPRESS

2011年05月26日 | Weblog
ニューヨークの同僚が休暇で一時帰国をするというので、今、コーヒー界の一部で評判のAEROPRESSという抽出器具を買ってきてもらった。さっそく使ってみたが、評判通りに手軽な器具だ。仕組みは至って簡単で、注射器の化け物のようなもののなかにやや細かめに挽いたコーヒーを入れ、そこに湯を加えて、注射器のようにシリンダーで中身を押し出すのである。”Coffee and Espresso Maker”ということになっているが、圧力を加えることで抽出するという意味ではエスプレッソなのだが、本物のエスプレッソとは違い、マキネッタで淹れたものに近い。「エスプレッソ」というもののステレオタイプを追い求める人にとっては話にもならないだろうが、単純にコーヒーをおいしくいただきたいという人にとっては選択肢の一つに加えられる。シリンダーを押し込むところに多少慣れが要求されるように思うのだが、それ以外は特に難しいことはなく、下手にペーパードリップやネルドリップに挑戦するよりも確実かつ簡便にレギュラーコーヒーを楽しむことができる。仕組みが簡単ということは手入れが簡単ということでもある。毎日使う道具にとって、手入れが簡単というのは大きな利点である。さらに細かいことだが、付属のペーパーフィルターは水洗いすることで繰り返し使うことができるらしい。これはハニービーンズの羽入田さんに伺った情報だ。

ちなみに、器具に付属の説明書には、湯を注いだ後、10秒ほどかき混ぜると書いてあるのだが、焙煎鮮度の高い豆を使えば自然に粉が膨張して湯と馴染むので、かき混ぜてしまうとかえって雑味が出てしまうのではないかと思い、そこのところは説明書を無視した。結論としては、かき混ぜる必要は無い。あと、今日はまだ試さなかったのだが、シリンダーを本来の向きとは逆さまにしてセットして、湯を注いで蒸らしてから本来の向きに戻して抽出すると、粉が混じることなくクリアなコーヒーになるそうだ。昨年8月にロンドンで開催されたという第3回エアロプレス・ワールドチャンピオンシップの映像をYouTubeで観たが、そこに写っていた人も逆さにセッティングをしていた。

ここしばらくの間、私はネルドリップで淹れているのだが、これからは、時間に余裕の無いときなどはAEROPRESSを使おうと思う。勿論、ネルとプレスとでは味は違う。どちらが旨いということではなく、違うということだ。同じ豆で違う味を楽しむというのも、生活のなかの豊かさではないだろうか。

ところで、AEROPRESSを買ってきてくれた同僚のとんちゃんはTATE'S BAKE SHOPのChocolate Chip Walnut Cookiesという土産まで用意してくれていた。アメリカのクッキーというとソフトタイプを想像する人が多いかもしれないが、このクッキーはハードタイプで、素朴で健康的な味わいのある美味しいものだ。クッキーの包装の底に値札が付いたままになっているのが愛嬌だが、ニューヨークとはいえ、アメリカでこの価格ならそれなりの内容のあるものだろう。彼女は、AEROPRESSの代金はいらないと太っ腹なことを言うのだが、それでは申し訳ないので、五穀亭でビビンバをごちそうさせてもらった。その後、場所を凡に移して、コーヒーを飲みながら出勤直前まで楽しく語り合った。

かぼちゃ粥

2011年05月21日 | Weblog
スクーリングはしんどい。先週もこのブログに書いたが、金土日という3日間をひとつの単位として、毎日朝9時から夕方5時半まで講義や実技がある。夜間勤務なので、木曜日の勤務が終わって帰宅するのが金曜の午前1時過ぎで、それから1時間ほど後に就寝し、午前6時半頃には起床して朝食や身支度をし、スクーリングに出席の後、出勤して同じように深夜の帰宅で、翌日のスクーリングになる。土曜は勤めが無いので、普段よりは早めに就寝できるが、加齢の所為もあって、疲労がすぐには抜けない。日曜日は普通に睡眠をとってスクーリングに出席しているにもかかわらず、疲労はますます深まる。

そんなわけで、土曜はどよんとした気分だ。こういう日は食欲も無いのだが、食事を抜くと疲労が進行するのではとの危惧もあり、消化に良くて健康的なものをいただくのがよいだろうと考えた。今日は昼休みにスクーリング会場近くの韓国料理店で薬膳のセットをいただいた。思いついたように一食ばかり薬膳を食べたからといって、何がどうなるものでもない。あくまで気分の問題だ。それでも、料理自体はたいへんおいしく頂いた。この店は自分の生活圏からは少し外れているのでたまにしか利用しないのだが、今年は震災直後の休日にここで会食があったのに引き続いての利用だ。便利な立地だが、おそらく店内のレイアウトに工夫があるのだろう。客がそこそこに入っていても、落ち着いた雰囲気なので、会食にも利用できるし、こうしてひとりでふらりと入っても満足のいく応対を期待できる。わざわざ足を運ぶほどのところではないのだが、気に入っている店のひとつだ。勘定を払うとき、店の人に勧められるままに、最近始まったという会員カードを作った。

身体がしんどいときは、せめて食事くらいは、ほっとできるような時間にしたいものだ。

手染の手拭

2011年05月20日 | Weblog
東京都足立区にある旭染工を訪ねた。ここは浴衣、手拭などの染織業者だ。白生地に練地を施す作業から始まって、型付、染色などを経て仕上げに至る一連の作業がそれぞれの専門職の手によって行われている。注染という技法が用いられ、完成した手拭は表だけでなく裏にもしっかりと染色されている。自宅に戻って日頃使用している手拭を改めて見ると、15本のうち両面が染められているのは6本だ。「○○染」というように染色技法を謳っている製品は両面が染められていて、ノベルティグッズとして無料で配布されているものや、土産物のような形態で販売されているものは片面染めだった。こうして改めて手にしてみないと意識もしないようなことだが、知ってしまうと、これから店頭に並ぶ商品や頂き物の手拭の裏が気になるようになるのだろう。

生活の豊かさというのは、手拭の裏への関心に象徴されるような、自分を取り巻くものに対する意識とか知識の深さを指すのではないだろうか。それはとりもなおさず、自分自身の在り方に対する意識の深さと言うこともできるだろう。日常の用に供される品々は、自分を取り巻くものと自分とのつながりを象徴していたりする。傍から見れば何でも無いものであったとしても、それらが自分自身の一部と感じられるならば、それこそが豊かさを表現するものなのではないだろうか。だからと言って、そうした自分の拘りに執着するあまりに費用が嵩むとか、量産できないがために希少価値が大きくなるといった結果、もの本来の用途との兼ね合いであまりに不釣合いなほど高額になってしまうと、人々の日常には組み込まれにくくなってしまう。自分の琴線に触れるようなもので、しかも日常生活のなかに自然に埋没しているようなものというのはなかなかありそうで無いものだ。尤も、手に入りそうで容易に手にすることができないからこそ、そこに豊かさがあるともいえる。

鴨が来て

2011年05月18日 | Weblog
木工教室のある東村山の駅前に今年も鴨の親子がやって来た。震災があっても、元原発が放射能を撒き散らしても、春先の気温が低くても、来るべきものは来るのだと、以前にも増して感慨深く、水の上を行く鴨たちを眺めた。

不思議なもので、駅前の池には1家族しかいない。鴨の生態については全く知らないが、一世帯あたりの縄張りが大きいのだろう。人間のように長屋に住むという感性はないらしい。

木工教室を初めて訪れた日も、駅前の池に鴨の親子がいた。あれから2年になる。木工は、勿論、道楽なのだが、楽しいとか辛いとかというようなこと以前に、すっかり自分の日常生活に埋没してしまった。そのように感じられるのは、おそらく、生活に必要なものを作り、出来上がったものを生活のなかで用いているからではないだろうか。もはや特別なことではないのである。

家事を毎日繰り返していても、漠然とやっているだけでは、そこから何も生まれない。日常に埋没してしまったと感じることの背後に、そういう惰性化への危険が潜んでいる。以前にも書いたが、いまだに図面を引いてから作るということをしたことがない。ちょうど先日、製図に関連した授業を受けたところなので、今度こそ、買い揃えた製図用具を駆使して製図を引いてみようと思う。

踏み込む

2011年05月15日 | Weblog
スクーリングの最終日は、作品を提出し、その講評を先生から頂く。初めてのことで何かと不案内で、提出時間までに完成させることはできなかったが、一応提出できる状態にまではなんとか漕ぎ付けることができた。

この授業を受講したのは私を含め10名だった。私が唯一の美術未経験者だったので、さすがに作品の出来には歴然とした差が出た。講評は教室の前の壁に10名の作品を並べて掲示し、ひとつひとつについて作成者がコメントをし、先生が講評をする、という形式だった。一枚の室内図、しかも、絵画的要素が濃厚とはいえ、基本的には図面の一種なので大枠としては同じようなものが並ぶはずです。それが、室内のインテリアや窓から見えるものによって、全く違った個性を持つに至る。それだけでも面白いのに、先生の講評のなかには作成者の個性について言及する部分もあり、それが少なくとも私に関しては図星であったので、驚いた。10数年前に美大出身の人とメールの遣り取りをしていたことがあるのだが、その人が私のメールの文章について指摘したことと同じことも含まれていた。それを端的に言い当てているのが、「踏み込みが足りない」「自分の周囲にバリアのようなものを張り巡らしている」というようなことだった。

手仕事に限らず、その人の行動一般に敷衍してみても、やはりどのような些細なことにもその人の個性というものが出るものだ。それはその人の性格とか物事の考え方というようなものが反映されている。逆に言えば、性格というものは変えようがないのかもしれないが、考え方を変えれば行動も変化するということだ。考え方を変えたつもりでも、行動がそれに伴っていなければ、単なる「つもり」に過ぎないということだろうし、意識しなくとも行動に変化が生じていれば考え方の何事かが変化しているということだ。陶芸や木工をやっていて感じるのだが、一歩踏み出す、腹を決めて思い切る、びくびくしない、というようなことが作品を完成させる上で大きな要素になる。それは土に加える手の力だったり、鋸を引くときの刃の当て方だったり、という些細なことなのだが、そういうことを繰り返すことで、些細な姿勢の変化が心のありようという大きな変化にまで及ぶのではないだろうか。思い切ってやってみたら上手くできた、という小さな経験を積み重ねることで、精神そのものが強くなるということではないかと今更ながら感じている。

自分のことを自分が好ましいと思えるような人物に変えようと思いながらあれこれやってきたつもりだったが、10数年を経て結局は何も変わっていなかったのかと、苦笑を禁じえないような現実を経験できたことも、それはそれとして価値のあることだ。「バリアを張り巡らしている」というつもりはさらさら無いのだが、そう解釈されても仕方の無いような性向は確かにあると自覚しているし、「踏み込みが足りない」のは百も承知している。それをなんとかしようと思いながら、いろいろやってきたつもりなのだが、そう簡単に自分というものが変わるものでもないのも確かなことだ。自分が好きな自分を目指すというのが、生きている限り背負い続ける課題なのだろう。

ところで、スクーリングの講評のなかで指摘されたことで成程と印象に残ったことがもうひとつある。それは、根幹部分ではない枝葉、どうということもない部分をいかに表現するかというところが、作品全体を大きく変化させることになるということだった。室内図であれば、壁の表現というようなことだ。そのどうでもよいところで、いかに遊び心を表現することができるか、というところに創造性の一端が表現されるというのである。勿論、全体の構成がきちんと考えられている上でのことなのだが、一見どうでもよさそうなところを、どうでもよいなりに自分を表現するというのは生活のなかでも、生き心地とか暮らし心地を案外大きく左右することなのかもしれない。

長い日

2011年05月14日 | Weblog
昨日は午前6時45分に起床、身支度を済ませて7時15分に住処を出る。8時少し回った頃に吉祥寺に着き、駅前のベーカリーカフェでモーニングセットを頂いた後、8時半頃に学校に着く。9時から17時半頃まで何回かの休みを交えながら図法の実習。テーマはパースを起こすこと。実習の後、出勤して午前2時半まで勤務。そして今朝も6時45分に起床して、同じように吉祥寺の学校へでかけて実習に取り組む。今日は実習の後、日本橋で友人と会食。

製図は中学生の頃に技術家庭科の授業で経験して以来のことだ。慣れないことを時間を気にしながらやるのだから、消耗しないはずはない。疲労を超えて消耗なのである。それでも、自分が今まで意識しなかったようなことに目を向ける機会を得るというのは嬉しいことだ。立体を平面に翻訳するようなものなので、物事の考え方にも応用できるようなことがいくらもあるだろう。

ところで、今日の飲み会の店だが、我々以外に客が無かった。予約客しか受けない店なのでそれほど大きな規模ではない。以前に利用したときにはもう少し賑やかだった記憶があるのだが、他人事とは言いながらも心配になってしまう。先日聞いた話によると、家庭向けのビールテイスト、なかでもビールの消費量はここ数ヶ月の間、前年比でプラスに転じているのだそうだ。業務用は相変わらずのマイナスで、全体としてはなおもマイナスとのこと。家庭で水入らずの食卓を囲むのはけっこうなことだが、社会生活が貧弱になった結果として家庭に回帰しているとしたら、それもまた心配なことだ。創造とか創作というのは、結局は他者との交流のなかで発想が刺激されて生まれてくるものだろう。学校や職場のような場所でも勿論新たな刺激に満ちた出会いはあるだろうが、友人や仲間と打ち解けて会話をするなかで、新たな発見や気付きが生まれることも少なくないはずだ。概して飲食店の経営が厳しいと伝えられているが、それは不景気によるものばかりではなく、社会の変化の傾向として、人々が個人の世界から踏み出すことが減っているという所為もあるのではないかと思う。自分が意識しなかったことに目を向けるようになる機会を得るのは楽しいことなのだが、その楽しさを求めないというのは、なんだかもったいないことのような気がする。自分の世界とは異質なものに関わりあうのは、自分のなかの秩序が乱されて不愉快に感じられたり恐怖を覚えたりすることもあるかもしれない。しかし、そうした緊張のなかからしか、生きることに本当に必要なことは身につかないのではないだろうか。

スマホの時代

2011年05月13日 | Weblog
久しぶりに朝の通勤通学時間帯に鉄道を利用した。

思い起こせば高校生の頃の通学が一番大変だったような気がする。当時、バスで西川口へ行き、京浜東北線で赤羽に出て赤羽線(現在の埼京線)に乗り換える。池袋からは山手線で新大久保まで通うのである。当時の赤羽線は首都圏屈指の混雑路線だった。池袋の山手線ホームでは入場規制が実施され、階段の下でしばらく待つのは当たり前だった。しかも現在のように車両に空調があるわけではなく、赤羽線に至っては埼京線に代わるまでとうとう空調付きの列車は無かったのではないだろうか。あれほどの混雑をもう長いこと経験していない。それでも、利用客が勝手知ったる人たちばかりという所為もあり、秩序が確立していた。それは単に習慣化されていたから混乱が無かっただけなのかもしれないし、平均的な人間の精神とか忍耐力が今とは違っていたのかもしれない。

今はその秩序が少し怪しくなっている。気になるのは乗降の順序だ。降りる人の流れが終わって乗る人が動き出す、というリズムのようなものが乱れている。降りる人の動きが妙に緩慢だ。確かに多くの人が停車前に降りる心積もりでいて、ドアが開くと足早に出口へ向かうのだが、そうした流れから外れて奥のほうから人を掻き分けて出てくる奴が必ずいる。そういう輩はたいてい携帯機器を手にしている。降車の流れが不規則になるから、乗るほうも乱れることにならざるを得ない。

携帯電話の普及と高機能化で、我々はいつでもどこでも電話やメールをしたり、ネットに繋がったりできるようになった。そのことで我々の行動の生産性は飛躍的に向上したはずである。その気になれば、寸暇を惜しんで仕事や勉強ができるのだろうし、なによりも外出先で必要な行動を起こすことができるので物事が以前にも増して迅速に進む、はずである。ところが、バブル崩壊の1990年前後をピークにした景気悪化は一向に落ち着く様子はない。個人の情報化の効果は一体どこに現れているのだろうか。結局のところ、携帯機器は「猫に小判」「豚に真珠」の類のものでしかなかったということだろうか。そもそも我々の生活に四六時中意思疎通を図ったり情報を遣り取りする需要が無かったということなのだろうか。あるいは、道具の進歩によって使い手の知能が退化したということだろうか。

そう思って眺める所為なのだろうか、手に持った携帯端末を指で摩っている人の横顔はどか間が抜けていると感じられることが多い。携帯電話をスマホに代えて生活はどのように良くなるものなのだろうか。仕事の効率が増えて所得が倍増するのか。コミュニケーションが活発になって人間関係が豊かになるのか。そうだとしたら、まことにけっこうなことである。

2011年05月10日 | Weblog
陶芸では相変わらず皿を作っている。今日は先月中旬に本焼きに出しておいた5枚が焼きあがってきた。一番大きなものは素焼きの前の乾燥段階で縁にひびが入っていたのだが、これはサイズが大きくなると中心部と辺縁で土の乾燥の度合いに差が大きく生じることによるものだそうだ。大きなものになると、乾燥の方法にも注意をしないといけない。他の4枚は無事に焼きあがっている。5枚とも別々の釉薬を掛け、掛けることについては何も工夫はしなかった。まだ、そういう段階ではないと思っている。まず形をきちんと挽く。それにシンプルに釉薬を掛ける。そういうスタイルを当面は続けるつもりでいる。今回焼きあがった5枚は白マット、透明、卯の斑、飴、青マットを掛け、全て酸化焼成だ。模様や化粧や絵などの装飾を施さなくとも、窯のなかで勝手にできる模様のほうがどれほど面白いことか。写真の皿は乾燥段階で縁にひびが入り、そのまま素焼き、施釉を続けたものだ。ひびを埋めることも狙ったので、粘度の高い白マットを濃い目に掛けたのだが、少し斑ができた。そのまま焼いたら形は歪み、梅花皮ができた。ひびのなかには釉薬で埋まったものもあるが、埋められないほどの深いひびが2つ、向かい合うように残った。きちんと挽けていないじゃないかと突っ込まれそうだが、なかなか面白い佇まいになったと喜んでいる。

東京駅

2011年05月09日 | Weblog
今、東京駅は工事中だ。丸の内の赤レンガ駅舎の工事がいつから始まったのか、記憶が定かでないが、かなり長いこと工事をしているような気がする。以前、この駅舎には東京ステーションギャラリーというのがあって、工事で営業を停止する前の最後の企画展は建築家の前川國男を取り上げたものだったような記憶がある。駅舎が白い覆いで囲われているので中を歩いていると気が付かないのだが、先日、信号待ちで少し距離を置いて眺めていたら、既にドームが完成していた。東京駅は赤レンガ駅舎だけでなく、丸ごと工事中なのだが、赤レンガ駅舎は完成当初の姿に復元するらしい。

東京駅の開業式は1914年12月18日。青島包囲軍凱旋式も同時に開催された。この年、第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟を口実に8月23日、ドイツに対し宣戦布告を行った。宣戦布告に先立ち、日本はドイツに対し膠州湾租借地を日本側へ引き渡すよう求めた。受け容れられるはずがないことを承知の上でのことだ。10月31日、日本軍は膠州湾租借地のドイツ軍本拠地である青島に総攻撃をかける。約一週間後に青島は陥落した。その凱旋を東京駅の開業に合わせたのである。東京駅の工事は何年も前からのことで、青島攻略は開業直前のことだ。最初から予定して一緒にできることではない。

今でこそ東京駅の丸の内側は日本を代表するオフィス街だが、東京駅開業当時はただの野原だったという。何もなかったからこそ、そこに大規模な建築ができたのである。開業当時の東京駅には丸の内側にしか出入り口がなかった。八重洲側へ出るには、一旦丸の内側に出て、ガードを潜っていかなければならなかった。駅舎を正面から見ると中央に皇室専用口があり、それを挟んで3階建のドームが並び、片方が入り口専用、片方が出口専用だったそうだ。こうした構造について開業当初から批判があったようだが、これは敢えてこうした造りになっているのだという。

赤レンガ駅舎を背にして立てば、正面は皇居である。東京駅に降り立った人は否応なく皇居を拝むことになる。東京駅を発つ者は意識するとしないとにかかわらず天皇の懐から恰もその手足であるが如くに出立する恰好になる。人の流れとして、駅舎から無造作に人が出入りするというのは景色としてまずいのである。到着客はひとつの流れとして駅前、皇居前に来なくてはならず、出発客はおなじように駅へ吸い込まれていかないと恰好がつかないということになる。当時、国民は啓蒙君主たる天皇の赤子であり、皇居の前では秩序ある動線を成さないわけにはいかなかったのである。事実、遠方へ送られる兵員は皇居前で隊列を整え、東京駅から戦地へと赴いたのである。つまり、東京駅は皇居と外との間の門のようなものとして計画されている。天皇即ち国家という時代の皇居の門といえば、日本と外国との間の門でもある。

東京駅開業に先立つ1913年6月10日に東京からパリまでの鉄道切符が発売になった。鉄道および連絡線を最低8回乗り換え、16日程度を要したそうだ。当時、船でフランスを目指すと50日を要したので、鉄道がいかに速いか明白だ。この鉄道の一等料金は417円25銭。公務員の初任給を基準に現在の価値に換算すると100万円ほどになるのだそうだ。この切符の日本側の起点は発売当初は新橋駅だが、東京駅開業後はもちろん東京駅になる。手元に東京からベルリンまでの切符の写真があるのだが、16枚綴り32ページ。表紙は日本語、次のページはロシア語、その次が英語とロシア語の併記、というような具合だ。日本と大陸の間は連絡船を使うことになるが、日露戦争前からあったのは敦賀=ウラジオストク航路。1905年に下関=釜山航路と大阪=大連航路が開業している。ちなみにJTBの創立は1912年3月。東京駅開業の翌月1915年1月から外国人に対する鉄道院委託乗車券の販売を開始している。東京駅は単なる鉄道駅ではなく、日本の玄関でもあったのである。

その後、日本と欧州を結ぶ鉄道路線は第一次世界大戦、ロシア革命、日本のシベリア出兵などにより一旦は途絶する。しかし、1925年に日ソ間に国交が結ばれると日欧鉄道路線の復活機運が高まり、1927年8月から再び日欧間が一枚の切符で結ばれる。ちなみに、現在、東海道新幹線に使われている「ひかり」と「のぞみ」は、当時、釜山から朝鮮半島を縦断して南満州鉄道に乗り入れて長春(新京)まで結んでいた急行列車の名称でもある。この日本と欧州を結ぶ路線は1941年6月23日に停止され、以後、復活することはなかった。

鉄道の技術は東京駅開業当時に比べれて大きな進歩を遂げたことは改めて語るまでもない。速度は勿論のこと、安全に関しても、先日の震災で営業運転中の新幹線車両が1両たりとも脱線事故を起こしていないのがなによりの証左だ。しかし、駅の位置づけは、その国の国際社会や世界経済のなかでの位置とも絡んでくる。現在工事中の東京駅丸の内側煉瓦駅舎は、来年、創業当時の姿を再現して完成する。物理的には開業当時と同じ外観かもしれないが、その存在が意味するところは、果たして開業当時と比べてどうなのだろうか。

「週刊朝日」の1942年10月11日号に鉄道開設70周年を記念して「鉄道の将来を語る」という座談会の記事がある。そのなかで技術院の技師である下山定則氏が当時計画中であった所謂「弾丸列車計画」、東京=下関を広軌鉄道で結ぶ計画について興味深い発言をしている。

「東京、下関の高速列車ですが、それを私がさつきいつた将来の大きな構想から考へると、満州から支那、さらに南の大陸を全部繋いだ鉄道網といひますか、さういうものができてくるときには、トンネル技術も相当進むでせうし、さうなれば、上海から長崎の海底鉄道もできるだらう、さう考へると、東京、下関間の広軌の意義がハッキリして来るその時には、さらにトンネル技術も大いに進歩して、インドのヒマラヤ山脈もトンネルで突き抜ける。パミル高原なんかもバッと上ってゆく。さうして東京から真っ直にベルリンにゆく。或ひは昭南島にゆく。さうなつて初めて東京・下関間の新幹線がモノをいふわけです。」

日本列島を縦断する幹線鉄道は、それだけで完結するのではなく世界の鉄道網の一部として機能するというのである。下山氏の「私がさつきいつた将来の大きな構想」とは大東亜圏での鉄道の位置づけについてである。氏は飛行機、船、自動車と鉄道を比較しながら、鉄道の役割を長距離大量輸送と述べている。氏が語っているそれぞれの輸送機関の進歩は、ほぼ当たっている。科学技術についての的確な洞察を踏まえ、日本の鉄道網を一国内で完結するのではなく、欧州までも視野に入れながら語る、その発想の大きさに興味を覚えた。

ほぼ100年前、東京駅はそういう大きな視野のなかで計画され建設されたのである。当時に比べれば、外国に出かけるのは格段に手軽になった。しかし、手軽に外国に出かけることができる、だからといって、世界規模で物事を発想することができる、わけではないのが悲しいところだ。交通や通信の発達で行動範囲が大きくなった一方で、我々の発想は矮小になっているというようなことはないだろうか。来年完成する東京駅の赤レンガ駅舎は一体何を語りかけてくるだろうか。

薄暗い街

2011年05月08日 | Weblog
昨日とは打って変わって暖かな晴天に恵まれる。午後、陶芸教室で私の先生の助手をしておられる人が荻窪のギャラリー・カフェで個展を開いているので拝見に出かける。原発事故以来の節電で山手線は空調を切っているので車内はかなり蒸し暑い。夏本番となったらどうなるのだろうと今から憂鬱になる。窓際の人が気を利かせて窓を開ければ少しはマシなのだろうが、生憎な状態で終始した。新宿で中央線に乗り換えると、こちらは駅の間隔が長い所為なのか、普通に空調が入っていてほっとする。しかし、照明が全て消えていて、車内が薄暗く、その様子がなんとも不気味だ。

個展会場のギャラリー・カフェは駅からすぐのところにある。一見して元は一般住宅だ。旗地で入口がわかりにくいが、建屋に至るアプローチがきれいに手入れされていて、ちゃんと迎えられている感じがする。玄関も住宅時代のままのもののようだが、扉の脇の細長い壁がガラスになっているのは、おそらく店舗に改装する際に手を入れたのではなかろうか。午後4時過ぎだったが、私が店に入った時点では他に客はいなかった。店内はギャラリーというよりカフェに物品の展示棚が少しあるという様子。カフェはカウンターのほかにテーブル席がひとつというこじんまりとしたものだ。カウンターは石材で、内装はこげ茶の木材と象牙色の壁のシンプルで清潔感溢れるもので、凛とした雰囲気が気持ちよい。店の人も落ち着いた感じで、居心地のよい店だ。作品を一通り拝見してから、コーヒーを一杯いただき、帰りがけにぐい呑みを一つ購入する。酒は飲まないのだが、佇まいが気に入ったので買うことにしたのである。

カフェを出て、中央線で新宿へ行く。世界堂でスクリーングに使うものを買い揃える。陶芸だの木工だのを道楽でやっているが、美術や工芸の専門教育を受けたことがないので、美大の通信課程に編入しても、授業を受けるのに必要な道具類を何一つ持っていない。こまごまとしたものだが、数が多いので、それなりの出費になる。世界堂の良いところは、必要なものが全て揃うことと、少なくとも定価よりは安いことだ。たいへん重宝する店だ。

新宿から山手線で大汗をかいて巣鴨に戻る。冷蔵庫にあるもので夕飯の支度をして、頂いて、一息ついて、片付けものを済ませると、連休もおしまいだ。去年の黄金週間もこれといったことはしなかったが、今年も何事もなく終わった。何事も無いのが何よりだ。何事かがあるというと、たいていはろくなことではない。それは私に限ったことなのか、世間一般としてそんなものなのかは知らない。ただ、街を歩いていると、あまり楽しそうに見える人というのがいない。見える、というのは多分に私の主観であることは承知しているが、総じて楽しげな世の中とは言えないのは確かであろう。

自分の置かれている状況を人に語るとき、冗談めかして、「坂の上の雲」の秋山好古のようなものだ、などと言う。日露戦争で敵のなかで孤立したとき、それでも耐えに耐えて後の形勢逆転につなげるのである。何が何でも軸足をしっかりとさせなくては、壊走するしかなくなってしまう。軸さえ保持できれば、そこを基点にして新たな展開が可能になるかもしれないのである。今は、その耐えているところだ、と言うのである。「坂の上の雲」とか日露戦争の黒溝台会戦といったことを知らない人には、秋山だの軸足だのと言っても何のことやらわからないだろうから、そういうことがわかる相手にしか語れない。そういう孤立感にも耐えなければならないが、耐えたところでその先に何があるのか知らない。

松山巌の「群集」を読んでいる。今、日露戦争で疲弊した戦後の世相のところなのだが、明治という時代も日本にとっては綱渡りの連続だったことが感じられる。その後の歴史を見るにつけ、なんだかんだと言いながらも今の自分がなんとか食いつないでいるのは奇跡のようなものだと思う。必然とか偶然ということをあまり考えもせずに口にしたりするが、突き詰めてしまえばすべては偶然なのではないだろうか。黒溝台でわずか8千の秋山支隊が、当時世界最強といわれたコサック騎兵10万の猛攻に耐えたのは、秋山の思考や指揮の卓越もあったかもしれないが、無数の偶然や僥倖に拠るところが大きいのではないか。時代が下って、太平洋戦争で焦土と化した日本が復興を遂げたのは、そこに冷戦という国際政治の構造のなかで日本の復興を急がねばならない状況が、日本の占領を主導した米国にあったという偶然に拠るところもあるのではないだろうか。

勿論、物事を成すのに志を持って精進することは必要だろう。しかし、そこに人、時、地の運といった、その人個人の努力だけではどうすることもできない要素が加わらなければ事は成らないだろう。好ましい偶然、あるいは僥倖を得るには、それを得ることができさえすれば歩みを進めることのできる状態を整えつつ、それが訪れるまで逆境を耐えるよりほかにどうしようもないのではないだろうか。耐えた先になにかがあろうがなかろうが、耐えるか堕ちるか二者択一でしかないから、ただ耐える。それでは希望がないから、耐えた先に何かがあるという幻想を抱く。生きるというのは、そういうことなのだろうか。

雨ニモマケズ

2011年05月07日 | Weblog
朝から雨だったので、夕方まで住処から出なかった。小三治のDVDボックスを漸く全て聴き終わり、改めて人とか芸とかの経年変化というものを見る思いがした。噺家の修行というのは、一体どのようなものなのだろうかと素朴に疑問に思う。やはり何事かを意識しながら、日々生活を送っているということなのだろうが、その「何事」と「意識する」ことの中身に興味を覚える。時々、落語会に足を運んだりするのだが、同じ噺でも演じ手によってずいぶん違ったものになる。よく「間」ということが言われるが、それは単なる調子とかリズムというものではなく、その人の内面から発せられる説明不可能な何かなのだろう。その説明不可能なものは、持って生まれたものということもあるだろうし、経験や意識で増えたり減ったりするものでもあるのだろうが、要するに、人に教えたり伝えたりできる類のものではないことは確かであるような気がする。

雨があがってから、住処を出た。実家へ行くのに、少し早めに出て、FINDに寄ることにする。別に用があるわけではないのだが、引き篭もりのような状態になってしまうのは、精神衛生上良くないので、なるべく人と交わることを心がけている。そうは言っても、日々の生活はどうしても単調になる。特に雨が降ったりして、出かけるのが億劫な状況に置かれてしまうと、休日などは住処から一歩も出ることなく終わってしまいそうになる。根が社交的なほうではないので、自分にとってはそれが自然なのである。意識しないと、つい安易に流れる。FINDには30分ほど滞留するつもりだったが、つい1時間近く長居をしてしまった。

実家から住処へ戻るとき、駅のホームで下弦の月に気が付いた。月の様子の割には、少し気温が低いと感じられる夜だった。