熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ありがとう 2010年

2010年12月31日 | Weblog

今年読んだ本
1 司馬遼太郎「翔ぶが如く」全10巻中4巻以降 文春文庫
2 永六輔「職人」岩波新書
3 芥川龍之介「地獄変・偸盗」新潮文庫
4 宇田賢吉「電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ」中公新書
5 関秀夫「博物館の誕生 町田久成と東京帝室博物館」岩波新書
6 柳宗悦「手仕事の日本」岩波文庫
7 四柳嘉章「漆の文化史」岩波新書
8 吉田修一「パレード」幻冬舎文庫
9 白洲正子「能の物語」講談社文芸文庫
10 池田晶子「無敵のソクラテス」新潮社
11 古今亭志ん生「びんぼう自慢」ちくま文庫
12 小林秀雄「モオツァルト・無常という事」新潮文庫
13 阿刀田高「イソップを知っていますか」新潮社
14 石坂泰章「サザビーズ 「豊かさ」を「幸せ」に変えるアートな仕事術」講談社
15 ロラン・バルト「明るい部屋 写真についての覚書」花輪光訳 みすず書房
16 木村宗慎「利休入門」新潮社
17 オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」南風椎訳 講談社文庫
18 青山二郎「青山二郎全文集」上下巻 ちくま学芸文庫
19 濱田庄司「無盡蔵」講談社文芸文庫
20 河野哲也「レポート・論文の書き方入門」慶應義塾大学出版会
21 辰濃和男「文章の書き方」岩波新書
22 大野晋「日本語練習帳」岩波新書
23 湊かなえ「告白」双葉文庫
24 小山登美夫「見た、訊いた、買った 古美術」新潮社
25 濱田庄司「窯にまかせて」日本図書センター
26 熊谷守一画文集「ひとりたのしむ」求龍堂
27 熊谷守一「へたも絵のうち」平凡社
28 入江敦彦「イケズ花咲く古典文学」淡交社
29 福沢諭吉「学問のすゝめ」岩波文庫
30 川口葉子「東京カフェを旅する」平凡社
31 篠原匡「おまんのモノサシ持ちや!」日本経済新聞社
32 梅原真「ニッポンの風景をつくりなおせ」羽鳥書店
33 坂田和實「ひとりよがりのものさし」新潮社
34 松本哉「貧乏人の逆襲!タダで生きる方法」筑摩書房
35 山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」岩波新書
36 宮部みゆき「我らが隣人の犯罪」文春文庫
37 「小林秀雄全作品 18 表現について」新潮社
38 海部俊樹「政治とカネ」新潮新書
39 久松真一「茶道の哲学」講談社学術文庫
40 「小林秀雄全作品 19 真贋」新潮社

今年観た映画
1 「海角七号(原題:海角七號)」銀座シネスイッチ
2 「キャピタリズム マネーは踊る (原題:CAPITALISM: A LOVE STORY)」新宿武蔵野館
3 「カティンの森 (原題:KATYN)」岩波ホール
4 「抱擁のかけら(原題:LOS ABRAZOS ROTOS)」新宿ピカデリー
5 「おとうと」 新宿ピカデリー
6 「人の砂漠」 新宿バルト9
7 「パレード」 シネ・リーブル池袋
8 「海の沈黙(原題:le Silence de la mer)」岩波ホール
9 「ハート・ロッカー(原題:The Hurt Locker)」新宿武蔵野館
10 「コロンブス 永遠の海(原題:Cristovao Colombo O Enigma)」岩波ホール
11 「川の底からこんにちは」 ユーロスペース
12 「間宮兄弟」 GyaO!
13 「キャタピラー」 ヒューマントラストシネマ有楽町
14 「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ(原題:HET NIEUWE RIJKSMUSEUM)」ユーロスペース
15 「太陽の帝国(原題:Empire of the sun)」 GyaO!
16 「RAILWAYS」 DVD
17 「玄牝」 ユーロスペース
18 「ハーブ&ドロシー(原題:HERB & DOROTHY)」 イメージフォーラム

今年聴いた落語会・演劇・ライブなど
1 柳家小さん、柳家三三、神田陽子、やなぎ南玉 (かめありリリオホール)
2 春風亭小朝、三遊亭楽太郎、春風亭昇太 三人会 (東京厚生年金会館)
3 笑福亭鶴瓶 Japan Tour ゲスト:林家たい平 (秩父宮記念市民会館)
4 柳家三三 独演会 (なかのZERO小ホール)
5 三遊亭小遊三、春風亭昇太 二人会 (草加市文化会館)
6 Live Potsunen 2010 「SPOT」by 小林賢太郎 (東京グローブ座)
7 柳家小三治 独演会 (アミューたちかわ)
8 桂文珍 独演会 ゲスト:春風亭昇太 (国立劇場 大劇場)
9 林家たい平、柳家喬太郎 二人会 (蕨市民会館)
10 第四回 千住落語会 (シアター 1010)
11 初夏の若手三人会 柳亭市馬 立川談笑 柳家花緑 (関内ホール)
12 柳家花緑 独演会 (行徳文化ホール)
13 桂雀々 立川志らく 二人会 (日経ホール)
14 柳家喜多八、三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎 三人会 (横浜にぎわい座)
15 SHIMOKITA VOICE 2010 (shimokitazawa GARDEN)
16 金春会定期能 (国立能楽堂)
17 三三・山陽・茂山の壱弐参之笑 (北とぴあ さくらホール)
18 柳家三三 独演会 (練馬文化センター)
19 柳家喬太郎 独演会 (松戸市民会館)
20 立川キウイ すがものさんま祭り (西巣鴨 スタジオ・フォー)
21 柳家小三治 独演会 (志木市民会館 パルシティホール)
22 立川志の輔 志の輔らくご (日本橋三井ホール)
23 桂雀三郎 柳亭市馬 二人会 (日経ホール)
24 花緑落語 2010 「宮部みゆき『我らが隣人の犯罪』(文春文庫刊)より」(赤坂RED THEATER)

今年観た美術展など
1 国宝 土偶展 (東京国立博物館)
2 清方ノスタルジア (サントリー美術館)
3 DOMANI・明日展 (国立新美術館)
4 現代工芸への視点 装飾の力 (国立近代美術館工芸館)
5 安井曾太郎の肖像画 (ブリヂストン美術館)
6 おもてなしの美 宴のしつらい (サントリー美術館)
7 小村雪岱とその時代 (埼玉県立近代美術館)
8 麗しのうつわ 日本やきもの名品選 (出光美術館)
9 フランク・ブラングイン (国立西洋美術館)
10 ボルゲーゼ美術館展 (東京都美術館)
11 VOCA展 (上野の森美術館)
12 小野竹喬展 (国立近代美術館)
13 花 (国立近代美術館工芸館)
14 福田繁雄のヴィジュアル・ジャンピング (ギンザ・グラフィック・ギャラリー)
15 藤本能道 命の残照のなかで (智美術館)
16 三井家のおひなさま (三井記念美術館)
17 美の饗宴 東西の巨匠たち (ブリヂストン美術館)
18 アートフェア東京 (東京国際フォーラム)
19 マネとモダン・パリ (三菱一号館美術館)
20 長谷川潾二郎展 (平塚市美術館)
21 ルーシー・リー展 (国立新美術館)
22 小倉遊亀展 (宇都宮美術館)
23 知られざる濱田庄司 (栃木県立美術館)
24 大河内泰弘・鎗田和平 2人展 (ギャラリー洋陽社)
25 茶 喫茶のたのしみ (出光美術館)
26 建築はどこにあるの? ほか (国立近代美術館)
27 山本安朗 個展 (黒田陶苑)
28 利休古流 平成二十二年度いけばな展 (東京美術倶楽部)
29 印象派はお好きですか? (ブリヂストン美術館)
30 徳川家康の遺愛品 (三井記念美術館)
31 浜口陽三展 メゾチントの冒険Ⅰ (ミュゼ浜口陽三)
32 オルセー美術館展「ポスト印象派」 (国立新美術館)
33 樂歴代展 (樂美術館)
34 新緑祭釜 (北村美術館)
35 茶書にみる茶の湯の歴史 (茶道資料館)
36 冷泉家 王朝の和歌守展 (京都文化博物館)
37 樂吉左衛門館茶室見学 (佐川美術館)
38 竹久夢二展 (佐川美術館)
39 追悼展 平山郁夫 (佐川美術館)
40 中国の小さなやきもの (細見美術館)
41 良寛遺墨展 (何必館・京都現代美術館)
42 書跡の美 古写経・古筆・墨跡 (五島美術館)
43 伊藤若冲 アナザーワールド (千葉市美術館)
44 住友コレクションの茶道具 (泉屋博古館 分館)
45 伝統美と匠の世界 第1回新作日本刀刀職技術展覧会 (大倉集古館)
46 智恵子抄 (智美術館)
47 ACT ART COM (The Artcomplex Center of Tokyo)
48 朝鮮陶磁 柳宗悦没後50年記念展 (日本民藝館)
49 モーリス・ユトリロ展 (損保ジャパン東郷青児美術館)
50 古屋誠一メモワール. (東京都写真美術館)
51 侍と私 (東京都写真美術館)
52 紅心小堀宗慶展 (目黒区美術館)
53 屏風の世界 (出光美術館)
54 常設展 (熊谷守一美術館)
55 坂本修個展 (熊谷守一美術館)
56 神と仏 日本の祈りのかたち (永青文庫)
57 ハンス・コパー展 (汐留ミュージアム)
58 マン・レイ展 (国立新美術館)
59 日本美術のヴィーナス (出光美術館)
60 ウィリアム エグルストン:パリ-京都 (原美術館)
61 Tetsuo Iida Ambivalent Images II (The Artcomplex Center of Tokyo)
62 日本の染 絞り・型・筒描(日本民藝館)
63 三菱が夢見た美術館(三菱一号美術館)
64 日本叙勲者協会写真展(高輪コミュニティぷらざ)
65 ザ・コレクション・ヴィンタートゥール(世田谷美術館)
66 小堀四郎と鷗外の娘 ひと筋の道(世田谷美術館)
67 ドガ展 (横浜美術館)
68 日本伝統工芸展 (日本橋三越本店)
69 アントワープ王立美術館展 (東京オペラシティアートギャラリー)
70 こどものにわ (東京都現代美術館)
71 河井寛次郎 生誕120年記念展 (日本民藝館)
72 ヘンリー・ムア 生命のかたち (ブリヂストン美術館)
73 上村松園展 (東京国立近代美術館)
74 茶事をめぐって 現代工芸への視点 (東京国立近代美術館工芸館)
75 南宋の青磁 (根津美術館)
76 街のなかの太郎 (岡本太郎記念館)
77 ハンブルク浮世絵コレクション展 (太田記念美術館)
78 ゴッホ展 (国立新美術館)
79 国宝源氏物語絵巻 (五島美術館)
80 円山応挙 空間の創造 (三井記念美術館)
81 茶陶の道 天目と呉州赤絵 (出光美術館)
82 バウハウス・テイスト バウハウス・キッチン (汐留ミュージアム)
83 EUPHRATES展 (ギンザ・グラフィック・ギャラリー)
84 銀座とショーウインドウ/アウスレーゼ広告展 (HOUSE OF SHISEIDO)
85 日本民藝館展 新作公募展 (日本民藝館)
86 ラファエル前派からウィリアム・モリスへ (横須賀美術館)

今年聴講した講演、参加したワークショップ(敬称略)
1 オンラインストレージ入門 (株式会社リコーMFP事業本部CPS事業室)
2 日本を離れた日本コレクション紀行 (ヘルベルト・プルチョウ 城西国際大学教授)
3 「麗しのうつわ」への招待 文学でやさしく読みとく、日本のやきもの (出光美術館学芸員 柏木麻里)
4 MOVIE+TOUCH&TALK「十三代今右衛門 薄墨の美」(ポーラ伝統文化振興財団 東京国立近代美術館工芸館 共催)
5 五島美術館の古筆 (五島美術館 学芸課長 名児耶明)
6 How Small Can You Get? (Prof. Paul O’Brien, University of Manchester)
7 「壁 - 地球に垂直な平面 -」展開催記念撮影会(写真家 杉浦貴美子、株式会社リコー)
8 樂茶碗・歴代の時代背景と特徴(茶道資料館嘱託学芸顧問 赤沼多佳)
9 今話題の介護準備学(フリージャーナリスト 太田差惠子、ノンフィクションライター 松原惇子)
10 美人画の見方 美しい女性の条件 (出光美術館 学芸員 廣海伸彦)
11 河井寛次郎の器でお茶をのむ (河井寛次郎記念館 学芸員 鷺珠江ほか)
12 蛭谷和紙 川原隆邦氏のお話会 (日本民藝館)
13 福建省の陶磁器と陶磁貿易 (出光美術館 学芸員 金沢陽)


どれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に深く感謝申し上げます。


新聞バッグ

2010年12月30日 | Weblog
新聞を保管するバッグではない。新聞で作るバッグだ。既にこのブログに何度も登場している梅原真の著作で紹介されている「伊藤さん」考案のものである。この新聞バッグにはいくつか種類があるのだが、今日、私は「Type A」を作ることに挑戦した。

今はエコだのなんだのと喧しく、買い物をしたときの包装も「簡易包装」などと称されるものが使われていたりするのだが、私が子供の頃は通常の包装が今で言うところの「簡易包装」よりも更に簡易であったような記憶がある。新聞紙で包んだだけ、というようなことが当たり前であったように思うのである。八百屋も魚屋も然り、瀬戸物も普段使いの数茶碗などは箱になど入ってはいない。流通が大資本に集約されるようになって個人商店が姿を消すのと軌を一にするように、包装もけばけばしくなってきたような印象がある。

古くなった新聞紙はまとめて古紙回収に出されるのが現在の一般的なリサイクル経路なのだろうが、読み終わったものを包装紙として利用して、その後に古紙回収に出せば、なお一層のこと資源の有効活用になる。新聞紙というのはよく出来た紙で、丈夫で適度な吸湿性があり、古い記事でも暇つぶしの種になる。最近は出かけなくなったが、トレッキングに行くときは、必ず新聞紙をリュックのなかに入れておいたものである。いざというときには防寒具の足しになるからだ。

その優れた素材である新聞紙を材料にしてバッグを作るのである。用意するのは新聞紙と糊。やはり何度もこのブログに書いているように、私は新聞というものを購読していない。その私の職場の隣の人の席には古新聞が積みあがっている。そこで試しに尋ねてみた。
「ね。その新聞紙。もらってあげよっか。」
そうやって半月分ほどの日経新聞を調達した。

ひとつのバッグを作るのに、2枚の新聞紙が必要だ。これらを折り曲げたり糊付けしたりしてバッグになる。切るという作業は無い。いざ、作り始めてみると、いくつかの難関工程がある。まず、マチをきれいに折ること。最後に縁を折り込んできれいにするところ。自分が不器用だとは思わないのだが、それでも、この2箇所の工程は難渋した。あと、糊付けの場所とタイミングも工夫が要る。

先日、後楽園の近くにあるホームセンターで調達した糊と刷毛を使って、いろいろ悩みながら4時間近くもかけて新聞バッグ作りに取り組んだ。2つほど失敗したが、12個のバッグを作った。このうち3個は縁の加工まで終わった完成形だ。残りは縁のところの作り方を工夫してみようと思っている。正月休みの間に、もう少し作ってみるつもりだ。

三ツ矢サイダー

2010年12月29日 | Weblog
勤め先の勤務時間が午後5時からなので、平日の夕食は職場がある近辺の店で弁当などを調達している。オフィス街なので、持ち帰りができる食に関しては選択肢が限られており、どの店の惣菜や弁当もほぼ食べ尽した感がある。飲料も同様で、コンビニに並ぶペットや紙パックの飲料はほぼ全て口にした。好きで口にするものというのは無い。コーヒー飲料にしても茶系飲料にしても乳製品にしても、大量生産されるものに使われる原料の姿を想像すると、素朴な疑問が次々に湧いてきて食欲が失せてしまうのである。普段は炭酸飲料は飲まないのだが、今日に限って、飲料の棚の前に立ち尽くしていたら、三ツ矢サイダーのボトルに書いてあった「飲まれつづけて127年」という文言が目に入った。それでなんとなく普段は口にしない三ツ矢サイダーを飲んでみた。

味についてどうこう語ることもないのだが、その127年前のことが気になって、ネットで検索してみた。驚いたことに、その起源は皇室で消費する炭酸水だった。宮内省が兵庫県の平野鉱泉を用いて炭酸水を生産する御料工場だ。それが三菱に払い下げられ、明治屋が権利を得て1884年に「三ツ矢平野水」として販売したのが市販の始まりだそうだ。市販開始後の1897年に改めて皇太子時代の大正天皇の御料品に採用されたとある。

近頃は「皇室御用達」などと冠したもので旨いものは無いような印象が強く、時々そのようなものを街で見かけると思わず「目黒のさんま」という噺を思い浮かべてしまう。それはさておき、三ツ矢サイダーに限らず、もともとはやんごとなき人々のためのものが、時代と共に大衆化するというのはよくあることだ。

今の時代、やんごとなき人だけしか消費できないようなものというのは、どのようなものがあるのだろうか。おそらく、そんなものは無いのではないか。金額が高くて庶民には手が出ない、というようなことではない。庶民でも金を払えば手に入るものばかりなのではないだろうか。そういう状況こそが、市場原理の帰結だろう。経済力の下で人々が平等、つまり、市場原理と民主制は一体のものだ。金さえ払えば、我々は何でもできる。これは果たして幸福なことなのだろうか。幸福とはあまり関係のないことなのだろうか。

ところで、幸福とは何だろうか。世が世なら皇族しか飲むことのできなかったサイダーを飲むことのできる幸せ、というようなことはあるまい。

塩むすび

2010年12月28日 | Weblog
昼に塩むすびを握って食べた。ご飯に塩をまぶしただけの簡単なものだが、こういうものにこそ旨いという感覚の源泉が詰まっているように思う。

先日、朝日新聞のサイトのなかで与那国海塩という会社の創業者のことが紹介されていた。その人に興味を覚えたが、だからといって与那国島まで行くわけにもいかないので、その人が作っているものを味わってみようと思った。その人が作っているのは塩だ。紹介記事を読んだ日のうちに、その塩を買いに行った。

平釜という昔ながらの道具を使って、昔ながらの方法で作っているそうだ。昔ながらの作り方は、作り手に熟練を要求するので、すぐには商品になるような塩はできないという。塩作りの工程についても興味はあるのだが、ここでは触れない。与那国海塩は創業9年目にしてようやく黒字になったそうだ。

創業者の伊藤さんが何故、生まれ故郷の仙台でもなく、長年暮らした東京でもない与那国島に渡って、それまで経験したことのない塩作りを始めることにしたのか、というようなことは記事からはわからない。勝手な想像だが、それまでの自分なら選択しないようなことを敢えて実行することで、何か大きな転換を図りたかったのではないだろうか。伊藤さんがその決断をしたのは、ちょうど今の私くらいの年齢の時だ。置かれた状況は人それぞれに違ってはいても、50年近い年月を生きれば、否応なくそこに自分の生活という現実ができあがる。問題は、それを素直に受け容れ継承できるかということだ。

今、比較的安定した世界に暮らす人々の平均寿命は70年を超えている。日本に至っては80年をも超えている。今年7月26日に厚生労働省から発表された「平成21年簡易生命表」によれば、男性の平均寿命は79.59年、女性が86.44年で、いずれも過去最高を記録した。しかし、「人生50年」といわれていたのは、それほど昔のことではない。日本人の平均寿命が60年を超えたのは男性が1951年、女性は1950年のことだ。それまでの何百年あるいは千数百年に亘って積み上げられた文化や習慣は、「人生50年」基準で組み上げられているのではないだろうか。そこに80年の現実を当てはめることで、生活感覚という部分で違和感を覚えるのは当然なのかもしれない。確かに現象としては、離婚であったり失業であったりというような家庭も含めた社会生活での出来事があるにしても、その背後には自分自身の肉体的精神的現実とそれを取り巻く環境の成り立ちとの乖離が、なんとなく生き辛い世の中の基にあるような気がする。

さて、おにぎりというのはあつあつのご飯を握るだけという単純なものだ。塩むすびは、握る手のひらに塩をつけるだけのことだ。握るときにご飯の熱さを我慢する必要はあるが、それ以外にこれといったものはない。誰でもできる。ご飯だけというシンプルな食べ物を塩という昔ながらの調味料で極上に美味く頂く。そういうことのなかに、その文化の水準というようなものが表現されているように思う。米にしても塩にしても、それを収穫するまでに言いようの無いほど多くの手間隙、労力、技能、熟練、労苦、根性、愛情、情熱、その他諸々を注ぎ込んでいながら、見た目には単純この上ない姿。手に持てば心地よい暖かさで、口に入れれば味を超越して幸福感が広がる。こういうものに豊かさを感じないとしたら、我々は永久に「豊か」にはなれないのではないだろうか。

歳末

2010年12月27日 | Weblog
ズボンを買った。行きつけの百貨店に行ったのだが、紳士用品売り場というのは、ここに限ったことではないだろうが、いつでも空いている。

ズボンという用途を満足するだけなら、ユニクロで必要十分だ。ただ、そう思って見る所為なのかもしれないが、ユニクロの衣料品は一見してそれとわかる、ような気がする。それでも経済性を優先すれば、身体中ユニクロに包まれることになる。見栄を張るわけではないのだが、美意識として、それはいかがなものかと思う。下着とか家の中で着るスエットなどはそれでいいとして、外から見えるものまでユニクロばかりというのは、どうなのか、と思うのである。いくら色柄のバリュエーションが豊富であったとしても、そういう服装の人が多いので、なんとなく人民服や国民服を連想し、そこから悲惨な歴史まで思いが馳せてしまうのは私だけだろうか。

私自身、ユニクロ愛用者だ。下着はすべてユニクロ製で、しかもかなり以前から使っている。それで気がつくのは、昔の製品は表裏にプリントが入っていたが、最近のは表面だけにしか柄が入っていなくて、裏面は無地だ。材質も同じ「綿」でありながら微妙に質感が違う。おそらく、プリントを片面にして、材質も変更したことで、コストが下がっているはずだ。下着なのだから、プリントが片面だろうが両面だろうが関係ない、という考え方は理解できる。しかし、感情というか気持ちの問題として、コスト最優先の発想で作られたものを身につけるということに抵抗を覚えない感性というのは危険ではないだろうか。

いろいろなところで引き合いに出されることだが、戦間期のドイツでナチスが政権を獲得したときの選挙の得票率は33%だったという話を聞いたことがある。しかし、政権獲得後は周知の通りの独裁へと一気に進むのである。生活の健康ということを考えるとき、「どうでもよい」と思って切り捨てたことのなかに、実はどうでもよくないことがあって、気がついたときには手の施しようがなくなっていた、ということは少なくないのではなかろうか。病気もそうだろう。最初は微細な病変が、あるところまで進行するとカタストロフィックに拡大して手遅れとなる。どの程度までの進行で発見するか、というのは身体の健康を守る上では重大なことだ。「身体」を社会、技術、産業、企業、文化、文明、などいろいろに置き換えても、通じるものがあるのではないだろうか。

安物がいけないというのではない。無闇に贅沢をしたり、無意味に華美を誇るよりも、質素や倹約のほうが健康といえるかもしれない。しかし、下着の素材を両面プリントから片面へ、という現象の背後にある発想に注目する必要はないのかということだ。なんでも金さえ出せば手に入る、というのは現代の真実だと思う。しかし、銭金というのは、あくまでも評価のための便宜であって、それ自身が価値ではない。ものを買うのであれば、そのものを作るのに要した多くの人々の手間隙を単一尺度に便宜的に換算したものが価格なのである。昔、ベンツのCMで「高い100円もあれば、安い100万円もあります」というようなものがあったが、それは貨幣が尺度のひとつにすぎないことを上手く語っていると思う。同じものであっても、評価する人によって価値は様々に付されるのが自然であるはずだ。そのものの何に注目するかによって、価値は一様ではないからだ。自分にとって何が大事なのか、という自分なりの尺度を持たない限り「豊かさ」の本当の意味はわからないのではないだろうか。

できることなら、顔馴染のテーラーで、店の人と相談しながら、自分だけのズボンをつくってもらって身に着けたい。それをやろうと思えば、私の所得ではとうてい手の届かないような店に行くしかないだろうし、そんなところと顔馴染になどなれるはずもない。しかし、何十年か前までは、街の商店街の一角に、そういうことができる店が当たり前に存在していたのである。スーツや和服は、単に「買う」のではなく、「誂える」ものだったのである。「誂える」ということは、誂えたひとだけのものだ。人民服のようなものではなく、そこにその人の個性がきちんと反映されていたはずのものだ。

値段だけを見るのではなく、その仕事を想像するという、ちょっとした配慮が我々ひとりひとりにあれば、わずかではあるかもしれないが、雇用が生まれ、それによって社会全体も多少は潤うような気がするのだが、どうだろうか。

動揺

2010年12月26日 | Weblog
陶芸の作品展に出品するものを整理していたら思ったよりも少ないことに動揺した。陳列を工夫したり、陶芸以外のものも持ち込むなどしないと場がもちそうにない。尤も、もしも出したものが売れてくれれば、家の中の収納に余裕が出て、たいへん助かる。なんとか来ていただいた人の目を楽しませることができて、なおかつ私も助かるというような工夫はないものかと思案している。

今日は久しぶりにプールで泳いだ。3,000m泳ぐつもりでいたが、2,900mまで泳いだところで足が攣った。とりあえず、足を伸ばしながらプールを一往復歩いたら症状が治まったので、残り100メートルを泳いで予定通り3,000mにした。泳いでいるときは、何往復目を泳いでいるかを意識しているのだが、それ以外にいろいろ考え事をしている。考え事、といってもろくなことは考えていないのだが、今日は年賀状の文面をどうしようかと考えながら泳いでいた。なんとなく考えがまとまって、気が緩んだのがよくなかったのかもしれない。

年賀状は手書きだ。手書きで書ける範囲にしか出さない。全く出さなくても特に差し障りは無いとは思うのだが、なかには年賀状のやりとりだけで30年続いている相手もいるので、そういう関係も面白いのではないかと思っている。その人から、昨日、クリスマスカードが届いて、陶芸の作品展に来てくれるという。お互いに相手のことがわかるのかどうか、それが不安の種だ。

去年、北海道を旅行したとき、札幌で20年ぶりに友人と会った。駅前の東急百貨店1階かに本家向かい側入口のベンチで待ち合わせ、私のほうが先に着いて、ベンチに座っていた。しばらくして、ニコニコしながら手を振って近づいてくるおばさんがいた。そうかなとは思ったのだが、それに私の隣に座っていたおばさんが反応して手を振り返していたので、ちがうな、と思ったら、やっぱりそうだったのである。少し動揺した。もし、あのとき、私の隣に座っていたおばさんが誤って反応しなかったら、私は彼女を認識できていた、と思う。

そうかと思えば、以前、仕事で東アジアから東南アジアにかけて手分けをして、ある調査をするということがあった。私が属していたグループではなかったのだが、ある街で、夜にメンバー数名で食事に出かけたとき、そのなかのひとりに
「先輩!お久しぶりです!」
と声をかけてきた人がいたそうだ。声をかけられたほうは、誰かなと思いつつ、なんとなく話をしていると、偶然なのだろうが、大学時代に思い当たる人がいて、しかも大学名であるとか、サークルとか、話が一致したのだそうだ。それで、
「ご案内しますよ」
という言葉に従ってついて行ったら、ぼったくりバーだった、ということがあったそうだ。

気をつけないといけない。

衝撃

2010年12月25日 | Weblog
年賀状を書かないといけないと思いつつ、その前に個展の案内状も少しは消化しないといけないので、10月に送られてきた大学の名簿を見ながら、宛名を書いた。学生当時も今も人付き合いの良いほうではないので、知っている名前というのはそれほど多くはないのだが、相手が覚えていようがいまいが、とにかく知っている名前を拾い上げて、案内状の宛名に記していた。クラス順に並んでいる名簿のあるところへ来て、ふと手が止まった。

そのひとは、まだ教養課程の頃に少人数で受講する授業で一緒になった人だ。特別親しいというわけではなかったのだが、なんとなく話をするようになって、帰り道が同じ方向でもあったので、たまに一緒に帰ったりした程度だ。それでも、なにかのやりとりで、彼女がケーキを焼いて持ってきてくれたことがあった。女の子にケーキを焼いてもらうなど、それまで経験したことがなかったので、嬉しいには違いないのだが、それ以上に思い切り照れてしまった。ただそれだけのことで、そこから付き合うようになった、というようなこともなく、それでも同じ学部なので専門課程に進んだ後もたまに学内で会えば挨拶を交わす程度の間柄でしかなかった。

その彼女の名前のところに、「物故」とあった。今日、こうして名簿を開くまで思い出すこともない人だったのに、何故か衝撃を受けた。漸く回復し始めた体調が途端に崩れてしまい、結局、夕方に実家へ出かけるまで、ずっと家のなかで過ごした。

悲しいというより焦りを感じた。自分の死ということは、けっこうよく考えるのだが、自分の友人知人の死というのは、あまり現実味を持って考えたことがなかった。身の回りでは同僚の妻が病気で亡くなるとか、友人の弟が水難事故で無くなるという事例はあるのだが、自分が直接知っている相手が亡くなるのは初めてのことかもしれない。月並みだが、自分にとって大切だと思う相手との付き合いは、きちんとしておかないといけないとの思いを新たにした。

クリスマス

2010年12月24日 | Weblog
あまり人混みのなかを歩くことがないので、世間の様子に疎いのだが、クリスマスイブともなると、それなりに盛り上がるものなのだろうか。勤務先では外国人と一緒に働いているのだが、今日は海外の反応が悪い。仕事で連絡をしても返事がなく、ロンドンは半ドンだ。おかげで簡単な作業なのに前に進まないということになる。夜食を買いに、勤務先近くのベーカリーへ行くと、店員が全員、サンタの帽子を被っていた。クリスマスのベーカリーといえば、イギリスではクリスマス・プディング、ドイツではシュトーレンがつきものだ。どちらも、それほど美味しいものだとは思わないが、そもそも保存食なので味は二の次でよいのだろう。なぜか都内のベーカリーでは圧倒的にシュトーレンの扱いが多く、クリスマス・プディングは見かけない。

1989年のクリスマスはドイツのアウグスブルクという町で過ごした。その年の夏にホームステイをした家から往復の航空券付で招待状が届いたのである。以前にも書いたかもしれないが、「家」といっても独居老人だ。当時77歳のご婦人で、68歳の妹さんとお金を出し合って、航空券を手配してくれたのである。当時、私はイギリスのマンチェスターという町で暮らしていた。実は、このとき、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのチケットを押さえ、ウィーンで年末年始を過ごす予定にしていた。あのときはクラウディオ・アバドゥが指揮をすることになっていたと記憶している。しかし、せっかくの好意を無にするわけにはいかないので、ウィーンのほうはキャンセル料を払い、アウグスブルクで過ごすことにした。

アウグスブルクの家に着くと、妹さんがテレビのニュースを観ていた。ちょうどベルリンの壁が打ち壊されるところが映っていた。歴史が変わる瞬間だ。その日のテレビはずっと、ベルリンの壁ばかり映していた。

ドイツのお菓子というとバウムクーヘンを挙げる人が多いかもしれないが、私の限られた経験のなかでは、ドイツでバウムクーヘンを見たことがない。しかし、シュトーレンは確かにあった。日本で年始に親戚を訪ねて回るように、そのときアウグスブルクでは、家主のベルタ・クルークさんと一緒に、彼女の息子さんたちの家を訪ねたり、妹のレジー・ナウマンさんと一緒に、彼女の娘さんの家を訪ねたりした。どこでもシュトーレンはあるのだが、それぞれに贔屓のベーカリーがあるらしく、どこもそれぞれに違ったものに見えた。

ベルタさんには息子さんがふたりいて、ふたりとも医者だ。次男のほうがベルタさんの家から徒歩10分ほどのところに住んでいるのだが、彼は教会の聖歌隊のメンバーでもあった。それで、ベルタさんといっしょに彼の聖歌隊がいる教会のクリスマスミサに出かけた。見よう見真似で十字を切ったり、膝を折ったりして、私にとっては意味不明のミサを聴き、賛美歌を聴く。「賛美歌が上手い教会」というものがあるのだそうで、ベルタさんお勧めの教会のミサをはしごした。でも「説教が長い教会」はパスなのだそうで、今となってはいくつの教会を回ったのか記憶に無いのだが、言葉はわからなくとも楽しかったという暖かな感覚だけは残っている。

ベルタさんの家はアウグスブルク市内だが、レジーさんのお宅は郊外のボービンゲンという村だ。アウグスブルクからボービンゲンまで鉄道で行く。駅前からバスに乗って、終点のバス停のまん前がレジーさんの家があるアパートだった。ここは森の端に位置している。クリスマスの時期は凍て付くような寒さで、森全体が凍り付いている。日照時間は短いのだが、日が昇ると、外では雨が降っているような音がする。雨ではなくて、陽に照らされて木や葉に付着していた氷が落ちてくる音なのである。そんな森の中を歩いて上を見上げると、降りしきる氷の粒に木漏れ日が反射して、おとぎの国にでも来たような幻想的な風景に包まれる。寒さも忘れ、その場に立ち尽くしてしまう美しさだった。

何十回もクリスマスを過ごしたけれど、あの1989年のクリスマスが、私のなかでは唯一のクリスマスだ。まだ漠然と未来を明るいものと信じていた、人生のなかで最も幸福な時代の記憶かもしれない。

油断大敵

2010年12月23日 | Weblog
仕事納め、などと書いて気分が緩んだ所為か、今日は床から離れることができなかった。食欲は普通にあるのだが、倦怠感と頭痛で長い時間起きていることができない。無理をしても仕方ないので、素直に寝る。夜、野暮用があって出かけたのだが、街はそれなりに年末モードだ。近所に有名な寺院がある所為かもしれないが、クリスマスというよりは正月を迎えようという雰囲気が身の回りに漂っている。「とげぬき地蔵」として知られている高岩寺は、本殿正面の階段に板を張ってスロープ状に変えてある。きっと初詣客が転んだりしないようにとの配慮なのだろう。出かけるついでに後楽園の近くにあるホームセンターに立ち寄ったのだが、店先には門松など正月飾りが並んでいた。

野暮用を済ませ、帰宅する際、あまり身体が辛かったので、終電までには余裕があったのだが、タクシーを利用した。その運転手も、今日は静かな日だったと語っていた。年末の宴会関係は昨夜がピークだったでしょうね、とのこと。タクシーを降り、ここ数日、少しだけ寒さが緩んでいる真夜中の空気のなかを住処へ戻る一瞬の静寂がなぜか心地よい。それでも身体は辛いので、すぐに就寝。

仕事納め

2010年12月22日 | Weblog
今日は冬至。今週は陶芸も木工も年内最終日を迎えた。まだ勤めのほうは残っているが、気分としてはこれで今年も終わったとの感が強い。陶芸や木工でも何かがあるというわけではない。毎回ただ黙々と作業に取り組んでいるだけのことだ。それで人と知り合うというような余裕もないし、きっかけも無い。それでも振り返ってみれば、なにがどうということはないなかにも、これまでになく濃い一年だったと感じている。これまで悶々としていたものが解き放たれたように日々の生活を送ることができた。何はなくとも充実したというような気分を持つことができるというのがありがたいことである。

普遍性

2010年12月21日 | Weblog
別に蒐集しているわけではないのだが、葉書でおもしろいと思ったものを手元に残してある。少し整理をしようと思い、陶芸の帰りに無印でA4サイズの葉書ホルダーを3つ買ってきた。それぞれ80枚収納できるようになっている。一冊を工芸品関係、一冊を写真、一冊をその他、というようにして葉書類を収めていったら3冊ともほぼ一杯になり、追加が必要になってしまった。

葉書には自分宛に送られてきたものもあれば、カフェなどに置かれていたものもあり、なかには買ったものもある。整理して眺めてみると、それなりに楽しいが、やはり買ったものに良いと感じるものが多いように思う。特にHouse of Shiseidoで買った古い広告類をあしらったものがいいと思う。戦前のものが多いが、今の時代でも十分に使えるのではないかと思えるほどだ。

広告には、その時代の空気と印刷技術が反映されているはずだ。そうしたことを超えて、今、この瞬間でも目を引くのは、人の感覚というものがそれほど変わるものではないということだろう。

House of Shiseidoのミュージアムショップには、ここ1年近く、買おうか買うまいか迷っているものがある。復刻版の香水「菊」だ。勿論、香水に興味があるのではなく、その瓶に興味がある。公式にはあくまでも資生堂という組織の作品なのだが、その瓶のデザインを担当したのが小村雪岱であることは公知のことだ。雪岱の作品であるという先入観があるから欲しいと思うのかもしれないが、丸みを帯びた薬瓶のような姿が妙に艶かしい。

ちなみに、私が使っている砂糖と塩の容器は、理科の実験器具を扱っている売り場で調達した薬瓶だ。妙な自己主張が無く使いやすさに徹している姿が美しいと思っている。

茶金

2010年12月20日 | Weblog
落語には茶碗を題材にしたものがいくつかあるが、この「茶金」もそのひとつだ。以前にこのブログでも「はてなの茶碗」というタイトルで取り上げている。

茶金こと茶屋金兵衛は京都木屋町に店を構える当代屈指の焼き物鑑定家。この人が眼に留めて、「はてな」と首を一回かしげると、その茶碗には100両の値打ちがつく、と言われるほどの人である。江戸で道楽に身を崩して、逃げるように京都へ流れてきて油屋を営んでいる八っあんが、音羽の滝の前にある水茶屋で弁当を食べ終えて一服しているところへ、この茶金が現れて茶を飲んだ。茶金はその汚らしい清水焼の数茶碗を取り上げて、「はてな」と首をかしげた。しかも、六回も。それを見ていた油屋は、嫌がる水茶屋のオヤジとすったもんだの末に10両でその茶碗を手に入れた。

一週間後、油屋はその茶碗を茶金の店に持ち込み、300両で買ってくれと言う。最初に応対した番頭は茶碗を見るなり「清水焼の茶碗はサラで6文、フルなら1文の値打ちもない」と冷たい返事。油屋は怒って番頭を殴りつけてしまう。騒動を聞いて店の奥から茶金が現れる。油屋は茶金に、この茶碗に見覚えはないか、と詰め寄る。茶金は茶碗のことを思い出し、「あれはぽたりぽたりと漏るのや」というのである。つまり、値打ち物どころか、安物のしかも不良品なのである。油屋が自分が使った茶碗をわざわざ持ち込んできたことに感じるものがあった茶金は、油屋が有り金はたいてその茶碗を手に入れたというので、茶碗をかたに油屋に10両貸し与えて、その場は一件落着。

数日後、茶金は近衛殿下の茶会に招かれる。そこでの雑談のなかで、「先日、こんな粗忽者がおりまして、」とその茶碗の話を語った。すると、殿下はそれが見たいと言い出し、茶金は早速持参する。殿下も茶碗が漏るのを不思議がり、色紙にその茶碗にまつわる歌をしたためる。茶金はその歌を喜び、茶碗と色紙を一緒にして仕舞っておく。

さらに数日後、近衛殿下がかしこき方にお目通りをした折に、この茶碗の話をする。すると、「その茶碗、朕が見たいぞ」とのたまう。すぐに茶金にその話が伝わり、茶金は立派な糸柾の箱を拵え、警護の役人が付いて、茶碗をご覧に入れることになった。やはり面白がって、このかしこきお方が短冊に歌を書き、箱にも一筆書き付けた。

茶碗はたちまち京の噂となり、欲しがる人が引きもきらない。最初は手元において置こうとした茶金だったが、1,000両の値が付いたときに手放してしまった。茶碗は水茶屋にあったときから全く変わらぬ清水焼の数茶碗だが、それに高貴なお方の御色紙、短冊、箱書きが付き、すっかり有名になってまった。茶碗そのものは数茶碗、つまり雑器だが、そこに様々なエピソードが付随することで、唯一無二の価値を持つに至るということだ。

今日、出光美術館の特別講座を聴講したのだが、そのテーマが「福建省の陶磁器と陶磁貿易」だった。主に16世紀から17世紀頃、中国から日本へ運ばれてきた陶磁器のことが語られた。最近になって当時の沈没船が発掘され、日中韓の陶磁貿易の一端がさらに明らかになったとのことだったが、その沈没船の話のなかで興味を覚えたのは、日本向けの荷のなかに、明らかに使用済みの器類があったということだ。

当時、中国といえば陶磁器生産の世界的な最先端地域であり、陶磁器は中国の主要輸出品でもあった。その中国から日本へ輸出された品物には、もちろん新品も多数あるのだが、中古品ばかりを集めて詰めた箱が、沈没船のなかから発見されたというのである。これは、当時の日本にそうした需要があるということを示すばかりではなく、今とは比較にならないほど危険の大きかった海上交通を利用してまで輸入するということは、それ相応の相場があったということでもある。雑器をそのものとしてではなく、威信財や茶道具として使うという、趣味というか美意識というか、ものの在り様に対する認識のスタイルのようなものがおもしろい。

今でこそ、茶道具というのは奢侈品になってしまったが、もともと茶道は禅宗を体現したものであり、その基本的な精神は、無いことを活かし有り合わせを活かすことだ。そこから「見立て」というものも生まれる。しかし、16-17世紀の沈没船から日本向けの中古茶碗類が大量に見つかるということは、既に当時において「見立て」が暴走して無の思想が形骸化していたということだろう。尤も、雑器を名物にするということは、無から価値を創り出すということでもある。

創造の過程に関心が向かわずに、市場価値という表層しか眼に入らない人が多いから、贋作にまつわる悲喜こもごもの話題が絶えない。それもまた人間というものの何事かを語るエピソードだ。表層しか見ない、見ようとしない、ということが悪いことだと言うのではない。むしろそうすることによって、我々は世間と円滑に折り合いをつけることができる。敢えて表層しか見ない、というのも生きる上での知恵だろう。しかし、表層であることがわかっていて、そこしか見ないというのと、表層が世界のすべてだと信じるのとでは、生きている心地がずいぶん違うのではないだろうか。

注:「茶金」についての記述は「五代目古今亭志ん生 名演集」(コロンビアミュージックエンタテインメント)のなかにある、NHKラジオで1956年1月27日に放送されたものに拠る。

色即是空 空即是色

2010年12月19日 | Weblog
例の黒砂糖を菅野さんのところへ届けようとご都合伺いのメールを出したら、今日ということになった。トレーディングポストの青山店の店長ご夫妻と、たまたまキーホルダーを贈答品用に発注しようとされている方が同席で、津川さんの燻製を頂きながら歓談することになった。

普通に暮らしていると、人間関係は狭くなる一方だ。人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。おそらく、一生の間には、普通に暮らしていて自然に知り合いが増える時期というのもあるのだろう。年齢を重ねても、財力や権力に恵まれれば、それが人を吸引するということもあるだろう。しかし、社会の最も活発な活動領域から身を引いてしまった後は、余程意識的に他者と交際を結ぼうと努力しない限り、人は最期の姿に向かって進むものではなかろうか。

人と人とが出会うきっかけは様々あるだろうが、長く付き合うには、自分の意思で相手を選ぶことが基本になる。例えば、学校や職場での出会いは、偶然そこに集められた結果として関係を結ばざるを得ない。嫌でも容易に逃れられないが故に、そうした場においては何かと不幸なことが起こるのである。出会いに限ったことではないが、自分の判断で行動した結果なら、それがどのようなものであれ、素直に受容できるものだ。不平不満が多いのは、結局、自分で考えて行動していないことの証左でもある。

人との出会いについても、近頃は個人情報を晒すことに過剰に敏感になって、警戒ばかりが先行する畜生のような感覚の持ち主が増えているのではないだろうか。どこでも通用するような価値ある個人情報の持ち主などは極めて限られている。心配する以前から杞憂に終わることがわかっているようなことを思い煩うよりは、自分が属する文化や文明をもっと信頼したほうが、結果としては豊かな時間を得るのではないだろうか。「文化や文明」を信頼するというのは、真っ当に考えて導き出される論理を信じるということだ。己の欲望に従って、どう考えても怪しい儲け話などを無闇に信じるということではない。

要するに健康な思考というものに拠って、自分を信じ、その自分が一部となっている社会を信じることが、真っ当な豊かさというものだろう。その自分を取り巻く関係性の糸や網を辿ることによって、新たな地平を求めて行けば、それだけ重ねていく時間が豊かなものになるのではないだろうか。結果として不都合なことに遭遇しても、その眼前の不都合すら、長い眼で見れば深い洞察の材料になるだろう。

ところで、「自分」ということを喧しく書いているが、これは不定形だ。実体として在るものではなく、関係の結節点として、見方によっていかようにも見える幻想のようなものかもしれない。実体が無いという意味においては、それは「空」であるとも言える。だからこそ、自分の存在を確認すべく、「空」を埋めるかのように、人は物理的な存在を求めるのだろう。したがって、そうして手に入れた身につけるものや身の回りのものというのは、単なる「もの」ではなく、幾重にも絡まる関係性の表現として在るものなのだと言える。そう考えると、たとえボールペン一本選ぶにしても、あれこれと思い悩むことになる。それは楽しいことでもあり、けっこう辛いことでもあったりする。

海辺を歩いて美術館へ

2010年12月18日 | Weblog
横須賀美術館で開催中の「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」を観に出かけてきた。子供と9時半に巣鴨駅で待ち合わせ、都営三田線、都営浅草線、京浜急行を乗り継いで馬堀海岸で下車。そこから1時間ほど歩いて横須賀美術館へ。

馬堀海岸駅から線路沿いを浦賀方面へ行く。横浜横須賀道路の下をくぐって最初の角を左へ折れ、そこから海沿いに出るまで直進する。あまり高い建物の無い地域ということもあり、青空が広がっているという所為もあり、空が広く感じられる。再び蛇行している横浜横須賀道路の下をくぐると、フェニックス並木の道路に出る。ここは高潮対策として整備された護岸で、道路に面した壁に絵が描かれている。この絵の部分を「うみかぜ画廊」というのだそうだ。「うみかぜ画廊」の向こう側は海だ。海上交通の要衝である浦賀水道は大小様々な船舶がひっきりなしに往来する。天気が良いので遠くに富士山も見える。

東北出身の同僚が語っていたのだが、彼が東京に初めて出てきたときに一番感動したのは富士山が見えたことだったそうだ。私は子供の頃から見慣れているので、きれいな姿だとは思うが「感動」するほどのことでもないと感じていた。彼に言わせれば、富士山の見える景色こそ日本の原風景、なのだそうだ。身の回りの風景を見て、自分が日本人であることを感じる瞬間というのは、晴れ渡った冬の日に富士山とそれに連なる山々の後ろへ陽が沈む頃の空の色、その下に広がる山々のシルエット、それらを包む大気、そうした諸々の組み合わせを前にしたときの胸膨らむような気分を感じる時かなとも思う。

浦賀の海の水は思いのほか透明度が高い。近くには走水海水浴場もあるくらいだから、そういう水質なのだろう。おそらくこのあたりも高度経済成長の時代には、海水浴ができるような水質ではなかったと思う。環境対策の努力もあっただろうが、それ以上に東京湾周辺の工業地域が縮小した効果のほうが大きいのではないだろうか。

海水浴場周辺は宿泊施設や海産物店などが散在して、なんとなくそれらしい雰囲気だが、さすがに都内から日帰り圏ともなると泊りがけで遊びに来るような人は少ないのではないだろうか。それでも、そうした店舗の過半は営業しており、海辺の道路の交通もそこそこ活発だ。その道路を観音崎方面へ歩く。海水浴場入口を通り過ぎると上り坂になり、その坂の上で振り返ると、横須賀の海の向こうに富士山が見える、というなかなかの絶景だ。

坂を越えたところに走水漁港がある。ここから釣り船で出かける人も少なくないようで、駐車場は満車に近い。漁港の隣は防衛大の訓練施設でカッターボートが吊り下げ器具に装着されて並んでいる。この施設の隣が京急ホテルだが、その海側にボードウォークが整備されている。ちょうど満潮時のようで、歩道ぎりぎりまで波が押し寄せていた。京急ホテルの向かいが、今回の目的地、横須賀美術館である。

今回は立ち寄らなかったが、馬堀海岸駅から美術館に至る途中には、走水神社をはじめとする神社仏閣があり、それぞれに云われのある碑や塚などがあるらしい。なんと言っても走水は神話に登場する場所なのである。何も無いところに神話は生まれないだろうから、そうした神話の世界を訪ねる目的でこのあたりを歩くのも面白いかもしれない。ちなみに、走水という場所は、日本武尊が東征の際に、海が荒れて船が沈みそうになったところで、妻の弟橘媛命が海神の怒りを慰撫するために身を投げ、航海の安全を図ったところなのだそうだ。こうした云われがあるから、ここに防衛大や軍事基地がある、のかどうかは知らない。

横須賀美術館に着いたのは12時半。腹ごしらえをする時間だ。美術館にはアクアマーレというイタリアン・レストランがある。東京の広尾にあるアクアパッツアのシェフ日高良実氏がプロデユースしているが、地元で調達できる食材を取り入れたメニューとなっている。なかなか人気のある店なので、既に満席で順番待ちの人の列もある。ただ、天気が良いとは言え、この時期なのでテラス席は空いている。小一時間ほど歩いた直後で、多少は身体が暖まっていた所為もあり、今更食事場所を求めて彷徨うのも野暮だと思った所為もあり、テラス席でジャケットを着たまま食事をすることにした。「おすすめ」というコースを注文するが、子供はメインに肉料理を選択し、私は魚料理を選ぶ。味のほうは値段以上のものだと思う。尤も、野菜嫌いの子供のほうは、付け合せの温野菜と格闘しているようだった。

今日はここまでの道すがらの会話のなかで、進路のことが話題になった。子供はそろそろ将来のことを自分で決めなければならない時期になり、それなりに悩んではいる様子だ。経験したことのない何事かを決断するというのは勇気の要ることではある。私がもし、改めて子供と同じ立場で進路を決めるとしたら、という仮定の話なら何とでも選択肢を設定することはできる。しかし、それは私のことであって子供本人のことではない。自分の人生を生きるのは自分だけなので、参考意見として私の話をすることはできても、それがどの程度の参考になるのかは聴く側の判断だ。

おそらく、子供が自分の進路を考える上で、参考にできることがあるとすれば、それは身近な人の生活の様子そのものではないだろうか。なかでも一番身近な他人である親の姿というのは否応なく眼に入るものだろう。これまで、このブログのなかで何度となく書いているが、人は関係性のなかでのみ存在する。自分というものを形作る関係のなかで、親子という関係はやはり無視できない強いものだろう。親がその場しのぎの取り繕った安直な生き方をしていれば、心ある子供はそういう親を軽蔑すると思う。結果として親子関係は軋む。自分が真摯に何事かを考え、その自分の考えに忠実に生きていれば、現象面での結果がどうあれ、子は少なくとも真摯さを評価するのではないだろうか。自分で考えることなしに、習慣や世間にべったりと依存していると、子はその醜悪さを嫌悪するだろう。また、その嫌悪の情が子供自身の関係形成にも悪影響を及ぼすことになるのではなかろうか。

親が子供のためにできることは、きちんと生きること以外に何もないとさえ思う。物質的な面での扶養であるとか、遺産であるとか、形のあるものというのは、その大小はともかくとして、誰でも提供できるものだ。しかし、生きる姿は各自各様であり、その人だけのものだ。それは不定形で、言語化することも困難で、明確な形態を伴って表現することはできないけれど、それこそが親から子へ継承できる唯一無二のことだと思う。

あれこれ考え、一生懸命生きて、それでも伝わらないのなら、もうどうしようもない。しかし、単に習慣や世間に流されて思考を怠っているのなら、そもそも伝えるものが創られていない。「伝わらない」という現象面での結果は同じことかもしれないが、あるものが伝わらないのと、伝えるべきものがないのとでは、後々の可能性のあり方が全く違う。何事かがあるのなら、いつかそれに気付く可能性は残されている。生きるのは自分だが、生きることに意味があるとすれば、それは人から人へ、あるいは世代から世代へ、何事かをつないでいくことだと思っている。

ところで、「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」だが、展示にもう少し工夫があってもよいのではないかと思う。音声ガイドはやはり欲しい。A&Dオーディオガイドとかカセット・ミュージアムといった業者があるが、そうしたところに発注する経費がなければ、手間隙がかかることは十分想像できるが、自作して頂けるとありがたい。今年5月の連休に宇都宮にある栃木県立美術館で観た濱田庄司展では美術館自作の音声ガイドが無料で提供されていた。業者が制作する専用端末を使ったものと違って、iPod nanoを利用したものなので使い勝手の悪さは否めなかったが、それでも制作スタッフの熱意は伝わってくるし、なによりも展示品に対する理解が高まる。

企画展のタイトルが「ラファエル前派からウィリアム・モリスへ」なのに、両者の関連がいまひとつわかりにくいのもいかがなものか。限られた作品を駆使して何らかのテーマを表現するのだから、作品を展示するだけでは不十分だろう。せめてウィリアム・モリスが何者であるか、モリス商会がどのような活動をしていたのか、ということはきちんと、しかもわかりやすく説明するべきではないだろうか。ついでに、ラファエル前派の画家たちとウィリアム・モリスの人物相関図のようなものがあると、鑑賞者の関心をより強く引くのではないだろうか。

美術館というのは作品の収蔵と継承も重要なのだが、人類共通の財産である美術品を鑑賞者が身近に捉えることができるような媒介役を果たすことも負けず劣らず重要なミッションだろう。理想を言えば、展示されている作品が鑑賞者個人の生活と実はつながっている、ということを想起させるような仕掛けがあって欲しいと思う。

崩れゆく身体

2010年12月17日 | Weblog
人間ドックに行ってきた。年初に健康診断を受けたので、今年はもう必要ないと思っていたら、4月から翌年1月までの間に人間ドックか健康診断のいずれかを受診しないといけないらしく、火曜日の夜に勤務先の人事担当者からメールが来た。今頃言われても、ああいうものは予約がすぐに埋まってしまうものなので、来年1月までに受診など無理なのではないかと思った。それでも水曜の出勤直前に利用実績が一番多い診療所に電話を入れてみた。すると、金曜の朝9時なら一件キャンセルが出たので受診できるというのである。それは願ったり叶ったりで、すぐに予約をして、通常なら郵送される問診票や検便などのセットを、出勤前にその診療所に取りに行ってきた。晴れて木曜に検便を済ませ、今日の受診となった。たかが人間ドックの予約を入れるだけのことなのだが、こうトントンと話が進むと気分が良い。

何度も職場を変わっているので、いろいろなところで健康診断や人間ドックを受けたが、その内容に顕著な違いがあるとは思えない。ちなみにこれまでに経験した病院や診療所は以下の通りである。
東京厚生年金病院
JR東京総合病院
聖路加国際病院
霞が関ビル診療所
海上ビル診療所
社会保険新宿診療所

久しぶりに朝の通勤時間帯に電車に乗って診療所へ行き、あとは流れ作業のように次から次へと検査や計測を受けていく。その場ですぐに結果がわかるものもあれば、後にならないとわからないものもあるが、おそらく最も直接的に検診結果がわかるのは内視鏡による検査ではないだろうか。内視鏡というのは消化器や腸の中を覗く器具なのだから、これほど結果がはっきりしているものはない。

以前にレントゲンで胃の再検査になり、内視鏡検査でポリープが発見されたので、その場で内視鏡に付属している器具で切除したことがある。以来、レントゲンと内視鏡検査の選択ができる場合は内視鏡検査を選んでいる。

今回の内視鏡検査では食道に軽度の炎症と、胃にふたつのタコイボを発見した。どちらもすぐにどうこうということはなく、経過観察ということになった。担当医師によれば、おそらく胃酸がやや多いのだろうとのことで、食事の内容と量に注意をしたほうがよいとの指導を受けた。この食道から十二指腸に至る検査の過程で、声帯にポリープがあることもわかった。声帯のほうは、検査担当医師の管轄外ということで、耳鼻咽喉科の受診を勧められた。

特に何かを指摘されたわけではないが、腹部超音波検査ではおそらく何か問題が発見されているだろう。何年も前から、この検査では腎臓の石灰化が指摘されているので、それに関連したことが検査結果に書かれることになるのだろう。

若い頃は健康診断で何事かの問題点を指摘されることは無かったのだが、40代になると何も指摘されなかったということが無い。これからは悪いところが増えることはあっても減ることはないのだろう。そうして、身体は刻一刻と確実に死へ向かってその機能を低下させていく。以前、何かで聞きかじったところによれば、身体への負担が最も低い死に方というのは、「枯れるように」死ぬことなのだという。幸い、肥満とかメタボというようなものとは縁の無い身体なので、この調子で「枯れ」を目指して身体を整えていきたいと考えている。

ところで、今日、診療所で以前の職場のオフィス・マネージャーと出くわした。勿論、その人も人間ドックの受診で、検査を待つ間、途切れ途切れになりながらも近況を伝えあった。たまたま診療所に予約の電話を入れたらキャンセルが出て空きがあったり、検査の現場で知人に遭遇したり、というようなことも縁なのだろう。偶然そうなったというだけで終わるのだろうが、これがきっかけで何か新しい展開が生まれても面白い。「犬も歩けば棒にあたる」という意味不明の諺があるが、気分としてはそういう感じである。とにかく、ひとりの世界に篭っていては何も起こらない。何も起こらないなら生きていても意味が無い。そもそも生きることに意味があるのかという問いは別にして、自分というものの存在は他者とのかかわりのなかでのみ規定されるということを忘れてはいけないと思う。