熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年1月

2018年01月31日 | Weblog

洲之内 徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社

ボックス本の3巻目。この本が収められているボックスを入手することになった事情はこのブログのなかの「読書月記 2017年5月」に書いた。

「芸術新潮」の連載をまとめたものなので、頭から読まなくとも、どこからでも読める。尤も、そういう構成が成り立つ物書きというのは案外少ないのではないかとの疑問が湧かないでもない。まだ本書で3冊目だが、洲之内の書いたものにはしっかりとした背骨を感じる。「いい絵」「いい作品」が自身の中ではっきりしている。もちろん、それはかくかくしかじかの条件があって、などという皮相浅薄なものではなく言葉を超えたところのものだと思う。そういうものがなかったら画廊など経営できない。もっと早く出会いたかった本だが、若い頃に出逢ったとしても、今ほど面白いとは感じなかったかもしれない。 

以下、備忘録としての抜き書き。

いい絵は絵の匂いがするのである。(16頁)

いまは、見るものも知るものもあまりに多すぎる。いわゆる情報過多というやつで、若い人が絵を描くのでも、初めからあっちを見たりこっちを見たり、眼が外のほうにばかり向いていて、自分を見失ってしまう。万事世間様相手であるが、その世間のほうが大衆社会というのか、中間社会というのか、生活は平均化し、単位化し、生活の目標は小粒化して、せいぜい早くマイホームを持つことぐらいが人生の目的になってしまい、仕合せとか幸福とかいう言葉がやたらに流行する。こんな社会に、はたして芸術など必要だろうか。民主主義は芸術の敵だと、私はよく暴言を吐いていつも怒られるが、すくなくとも、民主主義的嗜好に浸透されてしまった人間と社会からは、もはや芸術も、芸術家も生まれないのではないか、という気が私はする。(95頁)

 私はまたひとりでビールを飲みながら、草の上で日向ぼっこをしている二人の若い芸術家の姿を思ってみるのだった。そんなところに寝っころがって、いったい毎日を、彼等はどんなふうに過ごしていたのだろう。ひとりは小説を書き、ひとりは絵をかきながら、どちらも全く無名で、腹を空かせている。しかしなんとなく余裕さえ感じられるのは、彼等がそれぞれの宿命を信じているからかもしれない。仕事以外には何も考えていないのだ。
 そういえば、友達のそういうつきあいというものがいいまはないが、それが無いということは、もっとだいじなものをなくしたということではないだろうか。そのだいじなものとはいったい何なのか。(132頁)

売れないということは、画家にとって、決して不幸とは言えない。絵が売れだすと、たとえどんな画家でも、お客の眼を意識しないでいることはむつかしい。画家の眼が、画家以外の者の眼で水を割ったような具合になる。他人の眼が絵の中に入ってくる。心ある画家にとって、他者の眼との戦いこそ真の戦いであろう。山口さんは終生、自分で絵を売りに行くということをしなかったらしいが、これも、他人の眼を意識しまいとする、潔癖な画家の本能のなせる業であったかもしれない。
「かすみ草」を見ていると、私はふしぎに、いま自分はひとりだという気がする。いい絵はみんなそうかもしれない。(202頁)

 私はよく、戦争は絵かきにとって決して悪い時代ではなかった、その証拠に、戦争中には靉光や松本俊介のようないい画家が生まれたし、その他、みんな却っていい仕事をしたのにいまはどうだ、民主主義は芸術の敵なんだ、などと言って人を怒らせ、大方の顰蹙を買ったものだが、すべての画家にとって、ただ今を念じ、「いまの自分」「いまの生き方」を見据えて生きる日常があったということは、そうさせたのが戦争で、戦争は悪であっても、そのこと自体は非常にいいことだったのではあるまいか。(255頁)

松田さんのアトリエは汚いが、汚らしくはない。そういう汚らしいもの、他人を意識したものが一切ない。(286頁)

 

中尾 佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波新書

納豆本から繋がる本である。以前に読んだ佐々木高明の『稲作以前』には本書あるいは本著者への言及が多数あるが、本書にも佐々木への言及がある。彼らの学説が今でも生きているのかどうかは知らないし、そこに関心はない。ただ本書冒頭の記述に惹かれたのである。

文化の出発点が耕すことであるという認識は、西欧の学界が数百年にわたり、世界各地の未開社会に接触し調査した結果、あるいは考古学的研究、あるいは書斎における思索などを総合した結論である。人類の文化が、農耕段階にはいるとともに、急激に大発展をおこしてきたことは、まぎれもない事実である。その事実の重要性をよくよく認識すれば、「カルチャー」という言葉で、「文化」を代表させる態度は賢明といえよう。(前段 ii)

よく食べ物の好みが話題になる。「食べ物で何が好き?」という質問に対してどういう答え方をするのかで人となりの一端が出るような気がする。料理の名称を答えるのか、食材を挙げるのか、あるいは調理方法を挙げる人もあるだろうし、調理をする人を挙げることもあるだろう。どういう答えをする人がどういう人、という私の中の類型を披露するつもりもないし、そんな明確な類型を持ち合わせているわけでもない。ひとつだけ経験的なことを言わせてもらえば、かつての職場の同僚に「フカヒレスープ」と答えた人がいる。「正直に言うとみんな引いちゃう」とかなんとか言いながら放った言葉がこれだ。よく自分では料理などしないのに蘊蓄ばかり喧しい人がいるが、この人はそういう人ではない。但し、コルドンブルーの料理学校に通い、ワインエキスパートの資格を持ち、ちょっと前には料理学校の先生をしたり、フランス大使館の厨房の手伝いをしたり、という類の人で、私からすると浮世離れしているように見える。

「浮世」というのは生活だ。世の中には毎日外食という人もいるようだし、外食業界のほうにいる人にとってはそういう人を増やしたいのかもしれないが、毎日繰り返される生活のなかで何を当たり前に食べるのかということが、その人の世界観を形作っている気がするのである。世の中には当たり前にフカヒレを調達して当たり前にスープを作って毎日食べている人もいないわけではないだろうが、そういう人の「生活」とかものの見方というものを私は想像することができない。つまり、自分が考える「生活」の範疇を超えたところで暮らしている人を「人」と実感できないのである。

人はひとりでは生きていくことができない。他者とのかかわりのなかで、生きていく上で必要な無数のことを分担し合い、意識するとしないとにかかわらず互いを助け、ようやく生きていくことができるのだと思っている。たとえ一人暮らしであっても、人は湧くように生まれたのではない。必然か偶然かはともかく、関係のなかから生まれるのである。その関係は端的に具体的な形で認識できるものもあるし、関係の先を辿っていくと見たことも聞いたこともないようなところまで行ってしまうようなものもある。そういう有形無形具体抽象の綯交ぜになったところを生きているのである。綯交ぜのままでは生きているのかそうでないのか実感がないだろうが、なにがしかの実感がある存在を意識できると人は幸福を覚えるものであるような気がする。

その「実感」の内実は食事を共にするところにあり、その「食事」は自分たちが当たり前に支度するものである、と思うのである。食べるばかりになったものを消費するだけというのは餌であって食ではないと思う。たとえどれほど名のある料理人が作ったものであろうと、自分の与り知らないところで作られるものは食とは呼ばないと思うのである。自分で支度するということは、安定的に食材や調理道具や燃料を調達できる先があるということであり、毎日食べるのに耐えるだけの調理技能を関係性のなかから習得しているということである。つまり、食事はその人の世界観と密接にかかわるのである。

 

遠山 啓『無限と連続』岩波新書

書店の棚をぼんやり眺めていて、なんとなく読んでみようかと思って購入。

言葉というものへの関心はこのブログにも時々書いているが、世界が言葉でできていることを改めて意識させられた。例えば「無限」という言葉がある。「限界のないこと。有限性の否定。無際限。」といった意味だが、限界のないことを確かめることはできないのである。つまり「無限」ということは確かめようがないので「無限」とは言えないのである。仮に無限なるものがあるとして、無限に在るものと、別の無限に在るものを合わせたらどうなるだろう?無限はそれ以上にならない。

1+1=1

加えた「無限」の集合はどこへ消えてしまったのだろう?つまり、無限に在るということは存在する意味がないということではないか。ふとこんな言葉が思い浮かぶ。

色即是空 空即是色

本書には将棋を例にした記述がある。将棋盤も駒もそれ自体は単なる木片だ。将棋というゲームのルールがあって盤も駒も意味や価値を得る。ゲームのルールは社会の秩序とも言えるし、関係性とも言える。関係を規定するのは何だろう?貨幣は金属片だし、紙幣は紙片だ。それなのに、命がけで奪い合ったり、それをたくさん得ようと四苦八苦することもある。貨幣や紙幣の価値を規定している関係性は何によって社会の構成員の間で是認合意されているのだろう?

要するに「関係」とは「合意」なのか?将棋を指す人は、将棋の世界の約束事を与件として認知し受容しているはずだ。各自勝手にルールを決めていたのでは将棋は「将棋」として成り立たない。通貨や貨幣は、個人にとっては与件として存在しているはずだ。特定の商取引や投資対象として特定の組織や個人が考案した疑似通貨のようなものも存在するが、国内至る所で価値の交換手段や蓄蔵手段として流通し、海外の多くの地域でそれぞれの通貨と公定相場で交換可能なものは既存の環境として存在している。個人がそれを認めようが拒否しようが関係なく存在する。それは「合意」ではなく、否応なく呑まされるルールだ。

 しかし、それを言い出したら、合意の主体である個人がそもそも主体たりうるのかという疑問も湧いてくる。人は生まれることを選択できない。生は否応なく与えられるものだ。「与えられる」というと「誰から?」というややこしい話にもなるので、生は否応なく発生する、と言ったほうがよいのかもしれない。少なくとも自らの意思で生まれたわけでもないのに権利だ義務だと声高に主張することができるのは何故だろうか?「人権」とはいかなる権利なのだろうか?そういう存在基盤の脆弱なものどうしが交わす「合意」とは何なのか?

つまり、世界はどこかに大前提を置いて、その前提の根幹は問わないことにするという更なる大前提を置かないと成立しないということなのだろう。世界で営まれている様々な生の経験の蓄積によって荒漠たる「大前提」に抵触するようなことが所謂「学問」の対象になるのだろう。「無限」とか「連続」といった類のこともそういうものであるように思う。

 

鈴木大拙『禅と日本文化』岩波新書

原著は英語で、それを北川桃雄が翻訳し、著者の鈴木が校閲している。著者が自分で日本語版も書けばよさそうなものだが、と思うのは著作というものについて素人だから思うのかもしれないし、そういうことを超えた何か事情があるのかもしれない。

そんなことはどうでもよいのだが、私も自分では晩年に入ったと思っている。日々の暮らしに顕著な変化があったわけではないのだが、気が付けば先がないというだけのことだ。それで何が気になるかというと、世間の風潮のようなものに対する違和感だ。なんだか何かに追い立てられているようで、またそのことを嬉々としているようで、不思議に思うのである。それと所謂「正解」に向かって突進しているようで、不思議に思うのである。なんだか無闇に右往左往するのが生き甲斐のように見えて、不思議に思うのである。

やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声

芭蕉の句だそうだ。本書の終わりのほうに登場する。

古池や 蛙飛び込む 水の音

これも芭蕉だが、本書を読んでその深さに驚いた。言われてみれば、なるほど禅なのだ。何を言われたのかは本書を読めばよいので、ここには書かない。

ただ生まれて、ただ死ぬ。結局それだけのことなのである。


寒の仕事

2018年01月21日 | Weblog

昨日が大寒。寒のうちにする仕事は味噌の仕込み。今回で3年目なのでまだ試行錯誤である。まだ「手前味噌」と言えるほどのものではないが、材料に関してはなんとなく決まりつつある気配もある。昨日は大豆を洗って水に浸けておいた。今日は大豆を茹で、潰し、糀と塩を混ぜたものと合わせ、仕込容器に詰めて重石を施した。ちなみに今回使った材料は以下の通り。

大豆:富山県産「オオツル」平成29年産 1.3kg
(株式会社ビー&ベッチ 富山県富山市)

糀:「福来純 酒屋のこうじ」 2.1kg
(白扇酒造株式会社 岐阜県加茂郡川辺町)

塩:「男鹿半島の塩」 800g
(株式会社男鹿工房 秋田県男鹿市)

糀と塩は昨年と同じである。今回大きな試みとしては仕込容器だ。一昨年、昨年と陶器の壺を使ったが、その壺にまだ昨年の味噌が入っていて利用できないということもあり、もっと当たり前に手に入るものを使ったほうが生活に馴染んだ感じがしてよいのではないかとの考えもあり、今回はポリバケツを使ってみた。もうひとつ新たな試みとしては天地返しをやってみようということになっている。

その昔、味噌を自分で作るというのはけっこう当たり前であったはずだ。私の世代なら、祖父母が味噌だの各種漬物を自分で作っていた姿を目にしたことがあるという人は多いのではないだろうか。私もその一人である。自分の両親は共働きであり、家事労働の絶対量は祖父母の代に比べると大きく減っている。それでも私が子供の頃は家に糠床があった。自分たちの食べるものを自分で作るというのは本来の在り方のような気がする。今は何でも外から購入するのが当然になってしまった感があるが、その所為で食材や調理についての知識や知恵、技能が衰えた。食材がどのようにして作られるかということへの関心が総じてなくなったので、旬や安全性の判断ができなくなった。能書やデータに依存するようになって、旨いか不味いかも自分の感覚では判断できなくなった。この調子でいくと生きることそのものが外部のデータに依存するようになるのではないか。近頃AI流行りだが、知性も感性もあなた任せで人生までデータに依存して自分では決められなくなるのではないか。

ところで、どうして味噌を作ってみようと思ったのか、今となっては記憶がないのだが、自分の生活に質感を求めたいとの思いは齢を重ねる毎に強くなっている気がする。何がどうということではないのだが、自分で自分の生活に手を加えることで過行く時間に厚みが出る感じがするのである。

 


初詣 2018

2018年01月06日 | Weblog

初詣というのは、本来なら自分が氏子になっている神社に年の初めに詣でることを言うのだろう。生まれてからそれほど多く引越しをしたわけではなく、実家が今あるところは暮らし始めて既に40数年経過しているが、氏子だとか檀家だとかと言う類いの付き合いは全くない。しかし、この国の文化としてはそういう付き合いがあることを前提とした習俗が数多くある。そういうものの良し悪しはともかくとして、いわゆるコミュニティが崩壊している現状の背後にはそうした人間関係の崩壊があるのだろう。もともと存在した人間関係が崩壊したのは、農本制とでも呼ぶことができそうな社会の仕組みが崩れたからであり、その原因は生産性の向上で農業に従事しなくても食べていくことのできる余剰が生じ、且つ余剰を実際に持ち運ばなくても遣ったりとったりできる仕組み、端的には貨幣経済あるいは市場経済が整備されたことによる。現に、我々は生命維持の基本である食糧を直接生産することなく生活している。そればかりか、おそらく圧倒的大多数の人々は自分がどのような価値を生み出しているのか自覚していない。だからこそ、安易に給料や労働時間の多寡を語るのである。そういう時代の初詣は特定の関係に拘束されない浮遊感に満ちたものであってもおかしくはないだろう。

今年最初のお詣りは明治神宮だ。神社としては比較的新しく、祭神はその名が示すように明治天皇、神宮の杜は人工的に造成されたものである。天然だろうが人工だろうが長い時間が経過すれば同じようなものになってしまう。明治神宮の杜は、まだ天然には見えない。明治天皇あるいはその治世は既に十分過去ではあるけれど、その名残はまだ生々しい。そういう人工な感じや生な感じが消えるまでここが存在しているとすれば、人間の英知というものは大したものだ。神社に詣でて祈るのは、人間が大したものであってほしいということだ。

明治神宮前から目黒経由で白銀高輪に出てキフキフで食事をしてから家路に着く。キフキフに高知県黒潮町の黒砂糖をほんの少しお裾分けしてきたので、来週あたりはメニューに黒砂糖アイスクリームが載るかもしれない。ここのこの黒砂糖を使ったアイスクリームの旨さは大したものだ。


芹乃栄 せりすなわちさかう

2018年01月05日 | Weblog

小寒。寒の入りである。寒には味噌を仕込む。一昨年は北陸の味噌屋のセットを購入して作ったが、昨年は麹を岐阜の酒蔵から仕入れた。この酒蔵の味醂を愛用しており、味醂が良い味なので、そこの麹なら味噌にも良いだろうと考えたのである。大豆は普段、納豆などを作るときに使っているもので、いつも買っている店で調達した。今年は麹をどうしようかと思案している。麹は生き物なので、やはり個性が出る。味噌以外の用途として、我が家では甘酒を年間を通じて作って消費している他、納豆を作るときにも少し添加している。甘酒には神田明神鳥居脇の麹屋のものが良いが、味噌にはちょっとどうかという感じがする。昨年使った岐阜の酒蔵のものなら間違いはないだろうが、新しいものを試してみたい気もする。


雪下出麦 ゆきわたりてむぎいずる

2018年01月01日 | Weblog

七十二候が作られたのはどこだろう? 東京では雪に覆われた正月というのは滅多にない。少なくとも自分には記憶がない。ここ数年、元旦は自分の実家で過ごし、あとの三が日は妻の実家で過ごすことが慣例になっている。妻の実家のほうは雪に覆われた正月ということもある。2015年がそうだった。新幹線に乗っている間は車窓の風景が雪景色であってもどこか他人事なのだが、在来線に乗り換えると途端に我が事になる。ホームも屋根のないところは雪に覆われているし、線路が雪に覆われレールだけがかろうじて顔を出している。こんなところを走って大丈夫なのだろうかと思うのだが、それが当たり前の風景となっているところでは、これくらいどうということはないらしい。少しの雪でも積もれば大騒ぎになる東京とは別世界だ。

その雪に覆われることもある妻の実家への手土産のなかに虎屋の御題羊羹と干支羊羹を入れた。

今年の歌会始のお題は「語」である。人の生活は誰かと語り合うことで成り立っている。今は独居の人が多くなり語る相手に恵まれないという反論もあるかもしれない。しかし、無人島のようなところで暮らしているなら話は別だが、社会のなかに居る限り、自分以外の誰かが手をかけたもののなかで暮らしているはずだ。言葉に出して語り合うことはなくても、何かしら他者との交渉はある。また、自分も意識するとしないとにかかわらず何かしら社会に対して働きかけているはずだ。そうでなければ生活の糧は得られない。そういう交渉も含めての「語」(かたる)だろう。

歌会始のお題にちなんで作られる虎屋の御題羊羹は「吉事の雪」(よごとのゆき)。『万葉集』の最終歌に想を得て作ったのだそうだ。

新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事

「三年の春正月一日に、因幡国の庁で国司郡司らに饗応した宴の歌一首 大伴家持」とある。歌だけ見れば、「正月と立春が重なり、雪が積もるように、吉事もつもれ」ということだが、このときの大伴家持の立場を考えると単なるおめでたい歌とも言えない。「三年」とは天平宝字三年(759年)のことである。これに先立つ天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂が孝謙天皇を背景に権勢をふるう藤原仲麻呂を倒そうとするが、密告により企てが露見して未遂に終わるという事件があった。大伴家持はこの事件には関わりがないとされたのだが、この事件を機にその地位が一層確かなものとなった藤原仲麻呂政権下では冷遇され、因幡守に左遷されたのである。この歌はその頃に詠まれたものだ。

冷遇された所為かどうか知らないが、その後、藤原仲麻呂暗殺計画に加わったり、天皇が代わって中央に返り咲いたり、いろいろあった後、最終的には中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍兼陸奥按察使持節征東将軍として生涯を閉じる。ところが、没後に藤原種継暗殺事件への関与が露見して官位剥奪を受け、その後恩赦で地位復活。今以上に政治はドロドロしていたらしい。

本人がそうした生涯をどのように受けとめていたのかは知る由もないが、歌人としては不動の地位を築いたのは確かである。死後1200年以上も経て、和歌になじみのない人にも羊羹を通じてその名が語られるのである。目出度いではないか。