熊本熊的日常

日常生活についての雑記

学ぶということ

2011年06月14日 | Weblog
このブログにもたまに登場する職場の同僚で、専門学校に通って料理の勉強をしている人がいる。4月に進級試験に合格して基礎科から初級へ進んだのだそうだ。所謂「料理教室」というようなものではなく、プロの料理人を目指す人たちが通うところらしい。それで、基礎科では同じクラスに生徒が9人だったのが、初級へ進んだのが4人で、残りの5人は学校を去ってしまったのだという。毎回、授業のときに実技の採点を受け、否応なく自分のクラス内での序列がわかるようになっているのだそうだ。基礎科の時には比較的余裕があったのが、初級の4人になってからは、その人は落第の瀬戸際に立たされている、とは本人の弁だ。4人のなかで毎回トップの人は専業主婦で、毎日かなり練習を積んでいるらしく、野菜を切る速さから料理の出来に至るまで抜きん出ているという。他の3人は勤めをしながら通っているという点は同じなのだが、勤めの中身が違うような気がする、という。

時々、彼女が作ったもののおすそ分けに与るのだが、そもそも人にあげるものはそれなりに自信のあるものだということを差し引いても、なかなかたいしたものばかりだ。それでも、学校で点数をつけられてしまえば、クラス内での彼女の位置はたいへん微妙なのだという。料理に限らず、技術や芸術の世界というのは常人の感覚を超えたところの道を極めようというのだから、生半可な心がけや姿勢では満足のいく評価を獲得するには至らないということは、経験がなくとも漠然と納得のいくことだ。

確かに技は重要だ。しかし、技を習得したところで、「料理人」というものになることができるわけでもないだろう。4月30日付のこのブログのなかで「小三治」というドキュメンタリー映画のことを書いたが、そのなかで語られていることを思い出した。

「言葉より先に人のこころありき、ってことを何年か続けているうちにみつける。わかってきた、ってことかなぁ。そっから芸は始まっている。どんな芸でも。音符を並べるうちは音楽家になれない。文字を並べるうちは文筆家にはなれない。結局はそれを通した心を述べるための手段でしかない。音符も、文字もね。」

いくら適切に食材を調理したところで、それだけでは料理にはならないのではないだろうか。食べてくれる相手がいて、その人に料理を通じて伝えたい何事かがなくては、それは料理ではなく単なる餌でしかない。もちろん、伝えたいことを伝えるための選択肢が豊富になるという意味では、技は優れていたほうが都合が良いに決まっている。だからこそ技は重要なのである。それでも、私的な場面であろうと、料理人対客という場面であろうと、それを相手に伝えることで相手が幸せを感じるようなことが無ければ、どれほど優れた技であろうと何の意味も無いと思う。

よくあるのは、技量を誇るだけの見世物のような芸事だ。常人にできないことができると自慢するだけのことは、相手を圧倒することはできても幸せにすることはできない。今、この瞬間、自分の技量を駆使して相手に喜んでもらえるようなものを作るにはどうするか、というようなことは残念ながら人に教えられてできるようになることではない。当事者が自分で考えなければならない。考えるには、相手のことを推し量る想像力がなくてはならないし、想像力の裏づけとなる自分自身の経験がなくてはならない。

先日、茶道の稽古のときに先生が仰っていたが、大寄せの席などで小言の多い人がいるのだそうだ。確かに基本とか定石というものはあるが、亭主が何故、そうしたものを外した道具を使ったり、設えをしたりしたのか、その心を推し量る姿勢が無ければ、そもそも茶会にでかけていく意味など無いのではないか、というのである。茶会は人の揚げ足を取る場所ではなく、愉しむための場ではないか、と。

どのような分野であれ、およそ人が生活の中で遭遇する場面というのは必ず自分以外の人とのかかわりあいがある。自分に我があるように、他人にもそれぞれの我があるということを忘れて、自我にばかり執着すれば、他人との関係に軋轢が生じるのは必定だ。気持ちよく生活することは、他人との関係を円満に保つということに他ならない。世に「処世術」だの「心理学」だのと人間関係のハウツーを語るものがいやというほどあるのは、そうしたことへの需要が強いことの証左であり、また、単純明快に割り切れるものではないから星の数ほどの「術」や「学」が上げ潮のゴミの如くに浮遊するのである。つまり、その肝心要のところには正解が存在しないということなのだ。一番大事なことは誰かに教えてもらうのではなく、自分で考えるよりほかにどうしょうもないのである。

それで、料理学校での成績のことに戻ると、それはどうでもよいことなのではないかと思うのである。何事であれ、基礎とか基本原理というものを理解することは必須だ。そうした基盤の上に立って、自分は何をどうしたいのか、ということが肝心ではないだろうか。それを言葉にする必要は全くない。「月を指す指は月ではない」という。言葉で表現しようとする対象を持つことが重要なのだと思う。それは学ぶものではなく己の中に醸成するものだろう。