熊本熊的日常

日常生活についての雑記

自然な状態

2015年01月18日 | Weblog

安心して聴いていられる落語会だった。噺家はもちろん落語会の重要な構成要素だが、会場や観客も大事だ。演芸というのは空間丸ごとでひとつの単位だろう。噺家の技量だけではなく、その噺家が呼び込む客も芸のうちということだ。どのような客に好かれるのか、というのは芸に生きる人にとっての最重要課題ではないだろうか。どのような商売にも言えることだが、誰からも愛されるなどということはあり得ない。それぞれの個性があって、それぞれに応じた世界が形成されるのが自然というものだろう。受容する側に緊張を強いないのが、自然な状態なのだと思う。極端な物言いをすれば、聴き終わって個別具体的なことは何一つ残っていないけれど楽しかったという感覚だけが残っている、というような状態が理想の舞台であるように思うのである。

陶芸をやっているから茶碗のことを思うのだが、世に名器とされるものは数多あれど、持ったとき使ったときに自分の手の延長にあるような一体感を感じるもの、それがあることを意識させないほど自然に手に収まるものこそが、その人にとっての本当の名器だと思うのである。さらに欲を言うなら、茶なり酒なりを盛って口に運んだとき、恋人から口移しで飲んでいるかのような甘美を感じるのが理想だろう。

噺を聴くのも、茶碗を挽くのも、他の生活のことをするのも、本当に在りたいのはどういう状態なのかということを意識していれば、逆に今の自分に何が必要なのかが多少は見えてくるような気がする。物心ついてからいつもなにがしかの違和感を抱えているのだが、その違和感の元がようやく朧げながら見え隠れしてきたような気がしてきた。おそらく最期まではっきりとこれだということはわからないのだろうが、全くわからなかったことが多少の見当がついてきたという変化を感じることに生きてきた甲斐を思うのである。

本日の演目
開口一番 「小町」
桃月庵白酒 「満員御礼」
柳亭市馬 「七段目」
古今亭菊之丞 「親子酒」
鏡味味千代 太神楽曲芸
柳家喬太郎 「抜け雀」

会場:小金井市民交流センター 


初詣

2015年01月12日 | Weblog

今まで神だの仏だのというようなものに手を合わせたり頭を下げたりしたことがあまりなかった。心境の変化というわけではないのだが、素朴に無事を祈る、あるいは無事であることに感謝するという姿勢を心がけることが生活の豊かさというものではないか、と思うようになってきた。それだけ歳をとったということなのかもしれない。

特定の宗教を信心しているわけではないので、その時々の思いつきで出かけている。昨年は亀戸天神に参拝してきた。今日は御嶽神社へ足を伸ばした。都心から距離があり、松の内を過ぎていることもあるので、のんびりとできるのではないかと思ったのである。好天に恵まれた週末のためであろう、御嶽駅からケーブルカーの駅までのバスは臨時便が用意され、それでも乗り切れない客が出るほどだった。若い頃なら歩いて神社まで行くところだが、老いては身体を労らないと自分が辛いだけでなく周囲に迷惑をかけることにもなるので、素直に交通機関を利用する。ケーブルカーを降りてからは徒歩だが、それほど起伏はない舗装された道を行くので、さすがに私ごとき軟弱者でも楽に神社まで到達できる。また、距離もそれなりなので、神社までの間に人の密度は薄くなる。そもそも神社の「神」は山そのものであったり岩や森といった自然物なので、その祭祀を行う場としての神社が人里離れた立地であるのは当然である。

御嶽神社は修験道の神である蔵王権現を祭っているのだそうだ。境内には本社の他にいくつもの社があり、懐の深さのようなものを感じさせる。世に大変厳しい戒律を持つ宗教もあり、なかには他の宗教を暴力的に排除しようとするものもあるが、果たしてそれでその宗教の教義なり目的なりは達せられるのだろうか?宗教を興す側の考えというより、それを受容する側の知性の範囲内においてしか信心というものはできないはずである。教義の断片を取り上げてそれを錦の御旗のようにして粗末な知能で現実世界に押し込めようとするところに悲劇の素があるように思う。我欲を満足させるために都合の良い権威を持ち出すというのは宗教に限ったことではないが、欲に囚われてしまえばその満足に際限が無いということは経験としてわかりそうなものだ。そこから解放されるために宗教があるのではないかと思うのだが、わからない人には何を解いても理解されないということなのだろう。それもまた際限のないことだ。

日頃街中に暮らしているので、山の中の空気というものはそれだけで自分にとっては非日常だ。参道に並ぶ商店の店頭を眺めるのも楽しい。そのうちの一軒に立ち寄り、こんにゃくをいただいた。あまり売れ行きは芳しくないと見え、味がよく染みていておいしかった。新鮮で立派な山葵も並んでいたが、使い道が思いつかなかったので、代わりに手作りだというわさび漬けと柚子のジャムを買って山を降りた。

帰りに玉堂美術館を訪れ、その隣にある食堂で食事をし、川沿いの遊歩道を散策して、かんざし美術館を覗いてから家路についた。冬の穏やかな一日だった。


誰もがわかること

2015年01月10日 | Weblog

落語というものがどの程度人気のある芸能なのか知らないが、落語会の切符を取るのに抽選になることがある。あまりそういう抽選に外れたことはないが、特定の噺家に限って滅多に当たらない。今回は何年ぶりかで当選した落語会に出かけてきた。

抽選になるほどの人気だからといって、その落語会が面白いとは限らない。技量に優れているから人気が出る、というほど世の中が単純なら生活というものはかなり安楽なものであるはずだ。もちろん、箸にも棒にもかからないようでは人気を維持することはできないはず、だろうから切符が手に入りにくいというのはそれ相応の中身があるということなのだろう。

この落語会では新作を初演することになっている。口演する側にしてみれば、客に理解できるようにと、あれこれ気を配って練りに練って噺をしているのであろう。その気持ちというか気迫のようなものは痛いほどに伝わってくるのである。しかし、その縦横に張り巡らされたかのような伏線がなんとなく野暮ったく感じられてしまって、気持ち良く噺を聴くことができなかった。これは噺家だけの問題ではなく、我々観客の側の問題でもある。リテラシーの有無というようなことを言おうというのではない。今という時代に不特定多数を相手に何事かを語ろうとすればト書きが多くなるのは止むを得ない気がする。

つまり、趣味娯楽が限られていた時代には多くの人が同じような遊びに興じていたはずだ。娯楽の多様化によって人々の選択肢が増えれば、共有できる体験や経験は少なくなるのが道理というものだ。その昔、特定のテレビ番組が今では考えられないような視聴率を記録していた。1963年の紅白の81.4%はさすがに特別としても、50%を超えた番組は珍しくない。さらに時代を遡れば芝居や講談といったライブが人気を博していたはずだ。講釈小屋は町内に1軒はあったというし、芝居小屋は日本の津々浦々にあったそうだ。老若男女誰もが知っている芝居や講談、そういうものに登場する和歌や物語、歴史上の事件や人物の逸話、といったものがいくらもあったという。今は誰もが通り一遍のことは知っている。義務教育とネットのおかげだ。その割に端から仕舞まで誰もが知っている物語というのは思い浮かばないし、百人一首すら知らないのが当たり前になっている。囲碁将棋には時々スタープレイヤーが現れるが、それでも往時に比べれば愛好家の相対的な人口は減少しているだろう。特定の娯楽や教養が社会で共有されていた時代というのはあったのだろうが、世の中が便利になって誰でもなんでもできるような時代になると、個人の興味が拡散して広く共有できる対象が却ってなくなってしまったということなのではないだろうか。なんでもすぐに検索できて、わかったような気になる時代というのは、なんにも知らないことばかりの時代でもある。

そうなると、噺をするにはその基礎となる知識をそれとなくマクラや導入部に散りばめ、伏線を張りまくった構成にせざるを得なくなる。結果として、喧しいだけのテレビドラマのような噺に落ち着くのである。またそういう噺がウケるのである。なんだか馬鹿にされているようで素直に笑えない、と思って聴いていた人も少なからずいたのではないだろうか。そんなふうにして伝統芸は消えていくのであろう。

本日の演目

立川志の輔「スマチュウ」
立川志の輔「三方一両損」
立川志の輔「先用後利」

(志の輔らくご in PARCO 2015 パルコ劇場)


地に足をつけて

2015年01月02日 | Weblog

なんとなく小言のようなことを書いていることが多くなったような気がして、ブログを書くことに嫌気がさしてきた。例えば、通勤の電車がよく遅れるだのということは、文句を言ってどうこうなるものではない。合理化に次ぐ合理化で必要最小限の人員と費用で毎日の運行を継続しているのだから、何かしら不測の事態が発生すれば運行に支障が出るのは当然であり、利用者はそれを承知の上で利用しているはずである。遅延の根本原因を理解していなくとも、通勤や通学といった毎日の経験から遅延が起こりうることを承知するのが学習能力のある生物として当然のことである。そういう些細な不都合が我慢ならないというのなら、マイバッハとかロールスロイスとかを運転手付きで入手して、道行きには警察が前後に警護するような身分になればよいのである。それができないなら、市井の日常について回る多少の不都合や不愉快は我慢するより他にどうしようもない。不都合や不愉快を自力で解決する能力がないままに文句だけは一人前というのは醜悪この上ない、と思うようになった。

今日は妻の実家に帰省した。雪国の正月というのは不自由だらけだ。それでもそこで暮らす人々はそれを当然のことと受け容れて日々暮らしている。知恵と工夫で不自由をものともせずに淡々と生きるというのは、かっこが良いことだと思う。文句を並べる暇があったら、問題解決のための知恵を絞る。知恵がなければ我慢する。単純なことである。そういう「単純」を積み重ねて自分の生活を構築していきたいと思う。


フランス組曲

2015年01月01日 | Weblog

2014年の読書を締めくくったのはイレーヌ・ネミロフスキーの『フランス組曲』だった。この本を手にしたのは、映像翻訳を勉強していたときの仲間がFBに読了本として紹介しているのを見たからだ。翻訳教室での彼の訳文は個性的で、課題の発表のときはいつも彼の訳文を楽しみにしていた。結局、彼も私も映像翻訳とはあまり関係のない仕事を続けているのだが、彼の映画好きは相変わらずのようで、時々FBに映画や本の紹介をしている。『フランス組曲』は「ずっと読んでいたい作品」だと言っていた。

この作品は未完である。日本語訳で470ページほどだが、それでも全体の半分くらいのような気がする。全体が4章か5章で構成されるなかの前半2章だが、第1章の「六月の嵐」はともかくとして、第2章の「ドルチェ」はまだ作品の体をなしていない。つまり、未完どころか構想に毛の生えた程度の完成度でしかないのである。それにもかかわらず世界各国で翻訳され米国では100万部を超える売り上げを記録したのだそうだ。

それほど読まれたのは、この作品の出自が劇的だからであろう。イレーヌ・ネミロフスキーはキエフ生まれのユダヤ人で、ロシア革命後にフランスに移住して小説家として活躍していた。フランスは第二次大戦のときにドイツに占領される。ドイツ占領下でユダヤ人がどのような運命を辿ることになったか、多少の世界史の知識があれば想像がつくだろう。彼女は1942年、アウシュビッツで亡くなった。彼女がナチス配下のフランス官憲に連行される際、書きかけの小説原稿を鞄に収めて家族に託したのだそうだ。夫も彼女の逮捕の後に捕まり、その鞄は12歳と5歳の娘たちの手に「母親の大事なもの」として残されることになる。「大事なもの」の正体が明らかになったのは2004年のことだそうだ。まずはフランスで出版されて故人の作品としては初めてルノードー賞を受賞する。それからは各国語に翻訳され、日本語版も2012年に白水社から出版された。

作品の内容はドイツによる占領前夜のパリの様子、占領後の地方都市の生活、までで終わっている。登場するのはいくつかの家族で、それぞれの家族の物語が紡がれながら、それら家族が当事者たちの自覚がないままに相互に連関するのである。映画『グランド・ホテル』のような構成であり、占領後にドイツ軍から将校宿舎として使われる民家の住民たちの生活は映画『海の沈黙』を彷彿とさせるものだ。「六月の嵐」では、戦争あるいは敗戦によって生活が急変したとき、人々はどのようにしてその変化に対応するのか、もっと言えば、人はどこまで自分なのか、自分とは何者なのか、というようなことが鮮やかに描写されている。それは作家自身がそうした変化を経験しているからこそ、ここまで活写できるのであろう。「ドルチェ」では、フランスの片田舎に進駐したドイツ軍の兵士たちと地元の人々との間のぎこちない関係が描かれる。敵とは何者なのか、敵と味方とは何をもって分けられるのか、自他の区別とはどのようなものなのか、その自分とは何者なのか。

結局のところ、人はただ自分自身の気持ちにしたがって、まわりの世界を判断する。(393ページ)

人と人とを隔てたり結びつけたりするのは、言葉や法律、風習、主義主張ではなく、ナイフとフォークの使い方が同じかどうかだ。(409ページ)

私たちは口先では『神の意志がなされんことを』と繰り返しますが、心の底では『主よ、<私の>意志がなされんことを』と叫んでいるのです。(38ページ)

尤も、誰もが無様で醜いからこそ、生活は機能するのかもしれない。私利私欲貪欲こそが社会の原動力だ。作者が『フランス組曲』で描き出そうとした世界に、他ならぬ作者自身が囚われ抹殺されてしまったかのような現実と虚構の混じり合いが、読む者を魅了するのではないだろうか。文学作品それ自体が完成していたり完結していては、文学にはならないのかもしれない。読者が作品の世界と現実の世界との間を行き来できるような媒体が文学ではないのか。そうだとすれば、草稿に毛の生えた程度の完成度であることなど何の問題でもないのである。