熊本熊的日常

日常生活についての雑記

みえるもの みえること

2015年04月04日 | Weblog

アートフェア東京でたまたま柳ヶ瀬画廊のブースの前を通りかかり、熊谷守一の作品に魅きつけられてしまった。以来ずっと気になっていて、今日は陶芸の後3時間ほど時間が空いたので久しぶりに熊谷守一美術館を訪れた。

初めて熊谷の作品を目にしたのがいつだったか記憶にないが、20年ほど前になるだろう。そのときには、こういう絵なら自分にも描けそうだと思った。ところが、先日の柳ヶ瀬画廊のブースでも、今日の美術館でも、一体どうしたらこういう絵が描けるのだろうと素朴に感心してしまった。同じ作品なのに全く違ってみえるのである。昔は子供が描く絵のように見えていたのに、今は「心酔」とはこういう心持ちのことを言うのかと今更ながらに言葉の意味を得心したような気になった。こういう経験ができるから絵を眺めるのは楽しくてやめられない。

改めて家にある本や画文集を読み直してみた。凄い人だなと思う。自分もこういうことを言えるような人になりたいと心底思うのである。私は絵のことはわからないが、彼が描くもの語ることは絵のことに留まるものではない。だから私のような者でも素朴に感心してしまうのだろう。

以下、備忘録。

川には川に合った生きものが棲む。上流には上流の、下流には下流の生きものがいる。自分の分際を忘れるより、自分の分際を守って生きたほうが、世の中によいと私は思うのです。いくら時代が進んだっていっても、結局、自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを、世の中に合わせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じことで、何にもならない。(画文集『熊谷守一の猫』求龍堂 92頁)

絵なんてものはいくら気をきかして描いたって、たいしたものではありません。その場所に自分がいて、はじめてわたしの絵ができるのです。いくら気ばって描いたって、そこに本人がいなければ意味がない。絵なんていうものは、もっと違った次元でできるのです。(画文集『ひとりたのしむ』求龍堂 12頁) 

苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残す何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに「絵」を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました。(画文集『ひとりたのしむ』求龍堂 24頁)

一般的に、言葉というのはものを正確に伝えることはできません。絵なら、一本の線でもひとつの色でも、描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色は誰が見ても青色です。しかし言葉の文章となると、「青」と書いても、どんな感じの青か正確にはわからない。いくらくわしく説明してもだめです。わたしは、ほんとうは文章というものは信用していません。 (画文集『ひとりたのしむ』求龍堂 98頁、『へたも絵のうち』平凡社 83頁)

まあ、仕事したものはカスですから。カスっていうものは無いほうがきれいなんだよ。(画文集『ひとりたのしむ』求龍堂 100頁)

人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです。(『へたも絵のうち』平凡社 149頁)