熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2022年1月

2022年01月31日 | Weblog

虎屋文庫 『ようかん』 新潮社

客として誰かを訪ねるとき、虎屋の羊羹を手土産にすることが多い。大晦日から正月二日まで、新潟柏崎にある妻の実家に帰省した。帰省に先立つ直前の日曜日に東京駅丸の内南口2階にあるTORAYA TOKYOで「夜の梅」「光さす」「孟春の虎」の中形羊羹を一つの箱にまとめてもらい、「年賀」の熨斗をしたものを用意した。改めて説明するまでもないのだが、「夜の梅」は定番商品の一つの小倉羊羹、「光さす」は今年の歌会始のお題「窓」をテーマにした期間限定羊羹、「孟春の虎」は今年の干支「寅」にちなんだ期間限定羊羹だ。贈り物は自分がもらって嬉しいものにしないといけない。自分が食べたこともないようなものを当てにならない世間の評判だけで他人様に持っていくというのは失礼なことだと思う。今回の羊羹に関していえば、「光さす」と「孟春の虎」は食べたことがないものだが、虎屋の羊羹は馴染みの深いものなので、味に関しては大凡の見当はつく。それと、2015年12月に羊羹をはじめとする和菓子の歴史についての学習会に参加したことをきっかけに、羊羹とか饅頭への関心が高くなったこともあって、手土産に羊羹というのが自分の中で定着した。

和菓子の学習会というのは国立民族学博物館友の会の第71回体験セミナー 「九州のなかの朝鮮文化を歩く ─ 菓子、工芸、史跡にさぐる関係史」というものだった。講師は国立民族学博物館教授(当時、現在は名誉教授)で韓国社会論をご専門とされている朝倉敏夫先生、現地案内役は佐賀県小城市の株式会社村岡総本舗の村岡安廣社長で、大陸から日本への砂糖及び砂糖を使った食品の伝搬について学ぶというものだ。よくシルクロードの東の終点が奈良であると言われる。シルクロードは紀元前から18世紀頃までのユーラシア大陸東西を結ぶ交易路だが、その中で西方から日本へ砂糖や甘味をもたらした経路を「シュガーロード」と呼ぶこともあるらしい。同セミナーでは歴史的な東西交易路の日本側の窓口とされる土地の一つである現在の佐賀県の甘味や東西交易関連のものを訪ねた。その一つが小城羊羹である。小城市を訪れると目につくのは羊羹店だ。小城市のキャラクターは「こい姫・ようかん右衛門」で、小城市を象徴するものとして羊羹が取り上げられている。総務省統計局が公表している家計調査の中に「品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市ランキング」というものがあるが、小城市のある佐賀県の県庁所在地、佐賀市はようかんの購入金額が日本一である(2018-2020年平均年間購入金額:1位 佐賀市 1,442円、2位 福井市 1,187円、3位 さいたま市 1,046円、全国平均 669円)。年間1,442円は少ないと思う向きもあるかもしれないが、世間には羊羹が大嫌いだという人も大勢いるだろうし、前に食べてからもう10年以上になるという人も珍しくはないだろう。そういう人たちも含めての平均値なので、この金額だ。そういう土地を訪ね、そこで羊羹や菓子の話をさんざん聴いたので、羊羹への関心が否応なく高くなってしまった。

余談だが、国内の羊羹市場が縮小しているのは事実であるようで、佐賀新聞の2004年10月24日の紙面に掲載されていた2003年の同統計では佐賀の全国1位は同じだが、金額は2,221円、全国平均は909円だった。途中の統計を確認していないが日常生活の風景からの印象としては低下基調にあることには違いない気がする。手土産に羊羹というのもそろそろ考え直さないといけないのかもしれない。

ところで本書のことだが、虎屋は傘下の虎屋文庫で毎年『和菓子』という紀要を発行している。この紀要についても、先述の体験セミナーで知り、村岡さんの論文が掲載されている号を請求して入手したところ、その後も毎年案内が来るようになってしまい、年に一度のことでもあるので、購読を継続している。

その虎屋文庫から羊羹についてまとめた本が発行されたと聞いたので、購入した。しばらく読まずに放置していたが、年末に積み上がっている本を整理していたら出てきた。中国での羊肉の羹(汁物)がどのような経緯で日本の羊羹になったのか、素直に納得できる話に出会ったことがないのだが、それは本書を読んでもやはり変わらない。羊羹が菓子として日本に伝来したのは鎌倉時代後期に中国に留学した禅僧が持ち帰ったものが始めのようなのだが、それがそもそもどのようなものであったのかは今となってはわからない。戦国時代の饗応の記録の中には酒肴として羊羹が記載されているものがあり、現在流通しているような羊羹をつまみに酒を飲むということは考えにくい。同じ戦国時代でも茶の湯で用いられる菓子としても羊羹が登場している。しかし、こちらの記録の方でも、昆布や蛸、キノコ類の煮しめといった甘くないものが「菓子」として記録されているので、当時の茶会記にある羊羹が果たして今のような羊羹であったのかどうか疑問がある。斯様に羊羹のルーツはいまだによくわからないのである。

現在の羊羹の主要材料は小豆、砂糖、寒天だ。羊は用いない。小豆は日本の穀物の基本でもある「五穀」(稲、粟、小豆、大豆、麦)の一つで、縄文時代の遺跡から出土することもある。赤い色が邪気を払うとする土俗信仰とも相まって古来から神仏への供物として用いられ、現在でも慶事に赤飯を炊いたり、正月に小豆粥を作ったり、彼岸に牡丹餅・御萩を拵えたりする。本格的に普及したのは明治に行われた北海道開拓で原野の農地化に用いられたことがきっかけとなり、その後、品種改良が繰り返されて1981年に寒さに強く収量の多い「エリモショウズ」が登場したことで急速に生産が増えたそうだ(本書86頁)。

砂糖は奈良の唐招提寺の開祖である鑑真が大陸からもたらしたという説があるようだが、確証はないらしい。しかし、輸入に依存する時代が長らく続いたのは確かで、国産の砂糖が作られるようになるのは徳川吉宗の時代に、それ以前から薩摩や琉球で栽培されていた砂糖黍を駿河や長崎でも栽培するようになり、中国から技術者を招いて精糖技術に改良を加え、19世紀に入ってようやく質量ともに消費に耐えるものになったという(88-89頁)。それでも、庶民にとって砂糖が貴重なものであったことには変わりはなく、戦争映画などを見ると、特攻隊として出撃する息子に母親が「配給の」砂糖を貯めて作った牡丹餅・御萩を届けるシーンがあったりする。

ちなみに我が家では高知県某所で毎年11月下旬に生産されている黒砂糖を購入して使用している。つまり、砂糖の購入は年一回だ。とても老夫婦だけで消費できる量はないので、行きつけの珈琲焙煎店(奥さんが焼き菓子を作って店に出している)と知り合いのビストロ(シェフが作る黒砂糖アイスが絶品)にお裾分けをしている。あちこちに手土産で持っていったこともあったのだが、固形で一般家庭では使いにくい形状なので、もらった方も困るだろうと思い、料理とか食に関心の薄い先には押し付けないことにした。それで、年々少しずつ賞味期限の切れた黒砂糖が溜まるのだが、カビが生えなければ使用に耐えるし、カビが生えてもそこを削ぎ落とせば使用可能なので、生産者から案内を頂けばそれに応じて毎年購入させていただいている。但し、黒砂糖は菓子作りをする妻には不評で、雑味と色が嫌なのだそうだ。そんな事情もあり、また、生産者の方も高齢化とか後継者問題があるだろうから、我が家でこの黒砂糖の使用がいつまで続くのかはわからない。

寒天は天草などの海藻を加工したものだが、主な産地は山間部だ。「寒天」の名が示すように夜間の外気温が氷点下になる土地で、その寒気に晒して作るため、湿度と温度がともに低い12月から2月にかけてが最盛期だそうだ。天然寒天は保水性や弾力に優れ、練り羊羹では粘り気と硬さの決め手になるのだそうだ。しかし、世情の流れの中で天然寒天の生産は減少しており、品質も生産量も安定している工業寒天が菓子に使われるようになって久しいとのこと。自分では生産について全く無力なのでどうこう言える立場ではないが、寒天に限らず今は一事が万事この調子で、寂しい世の中だとは思う。

本書を読むと羊羹だけでなく、人が食に求めたことの一端を垣間見る思いがする。それは単に空腹を満たすという欲求だけでなく、食を通じて社会的地位を表現するとか、旨さを探求する知的好奇心の満足とか、人のあり方の奥深さを再確認できる。身の回りのことを一つ一つ丁寧に考えるだけで、暮らしが愉快になるような気がする。考えるだけなら気楽なものだ。余生は気楽に過ごしたい。

 

山田風太郎 『あと千回の晩飯』 朝日文庫

山田の『人間臨終図巻』の方は手元に置いて誕生日や正月の度にパラパラと読み返している。だから当面は手放すつもりはない。しかし、本書の方はどうしようかと迷う。内田百閒を随分読んだ後に本書を手に取ると、なんだか軽く感じるのである。『図巻』の補遺のようなものでもあるので、本書も一緒に手元に置いておこうかと思わないでもないが、自分が老年になってみると、ここに書かれているようなことは当たり前過ぎて、だから何なんだという気にもなる。結局誰もが必ず死ぬわけで、そういう時期が近づいてみれば、おそらく誰もが思うであろうことが書かれているだけなのだ。

しかしおめでたい存在は、本人が幸福であるのみならず、周囲にも幸福をふりまくものでなくてはなるまい。(12頁)

本気か。「幸福」って何なんだ。とりあえず朝目覚めたから惰性で習慣をなぞっているだけ、というのが圧倒的大多数の暮らしではないのか。

人間の最後の尊厳性を守る一本のフンドシ、それさえムシりとられたあとは、ごく少数の例外をのぞき、客観的に見れば私には、ほとんど生きている意味がないように思われる。「無意味なる生」である。それはごめんだ。だれでもいやだろう。(15頁)

最終段階の情景を語っているのだが、嫌も何も、そういうものだろう。生まれようと思って生まれるわけではないのに意味も無意味もあるまい。意味も無意味もないところを本人だけが大したつもりで生きているところに、生きることの面白さがある。よくネットの動画に飼犬や飼猫の滑稽な仕草を映したものがあるが、撮影している飼主も撮影されたものを観ている自分も被写体の犬猫同様に滑稽であることに気付かずにいることを、一歩引いたところで眺めているもう一人の自分いることに本当の面白さがある。

2019年4月19日、東池袋四丁目の路上で老齢男性(事故当時87歳)が運転する乗用車が暴走して11人を死傷させた事故が発生した。昨年9月2日、この事故の刑事裁判一審の判決が東京地方裁判所で下り、被告原告双方からの控訴が無く同月17日に判決が確定した。事故車を運転していた被告は禁錮5年の実刑で、検察の求刑である同7年にほぼ近いものだった。加害者男性は10月12日に東京拘置所に収監された。判決時の被告の年齢は90歳だ。被告の社会的地位などから世間の注目を集めた事件だったが、高齢者の運転する自動車が事故を起こすのは日常茶飯事だろう。決して特異な事故ではなく、日常生活のなかで誰もがこうした事故の加害者にも被害者にもなり得る。

この事故で気になったのは加害者の年齢だ。87歳で自動車を所有して自ら運転するものだろうか。しかも、自家用車が無いと日常の行動に支障の出る過疎地ではなく、公共交通機関が縦横に往来する都心で生活している人が起こした事故だ。この事故は歳をとるということの現実の一端を示していると思う。当然、本人には加齢の実感はあっただろうが、身体が日常生活に支障の無い程度に動くなら、身体能力の低下への懸念や危機感よりも、昨日できたことは今日もできるはずという思考の習慣の方が実際の行動を左右するということなのだろう。

映画『ドライビング Miss デイジー』(原題:Driving Miss Daisy)では、運転の誤動作で事故を起こしそうになった母親を心配して息子が運転手を雇うが、そんなことは誰にでもできるものではない。家族や身近な人たちが気をかけてくれる環境に置かれているというのは今時は稀有なことであろう。家族や身近な人たちがいるとしても、共々に齢を重ねて頼りないことになり、加齢とそれに伴う身体能力の低下のなかで、不都合が生じないというわずかな確率に賭けて、習慣に流されるのが現実であろう。

齢を重ねる現実を体感しつつも、自分ではそれをどうこうすることもできずに老朽ちていく。人はそれを忌避するべきものと語るが、できもしないことを考えるよりは老朽ちる現実を受け容れながら機嫌良く最期を迎えることを考えたい。それには本書のようなものは全く役に立たない。尤も、何事かの役に立てようと本書を手にしたわけではないのだが。

本書の記述が浅薄なのは、新聞や雑誌といったマスメディアの連載記事をまとめたものであるため、記事の性質上、読者のウケを意識せざるを得なかった所為なのか、山田自身の限界によるものなのかは、本書だけではわからない。

 

山田風太郎 『戦中派不戦日記』 角川文庫

昭和20年の日記。内田百閒の『東京焼盡』と時期が重なる。何故かわからないが、あの戦争のことが気になる。子供の頃は、まだ多少戦争の余韻が残っていた。上野駅の構内では白衣に軍帽という姿で義足とか義手をつけた人が、前に空き缶を置いて楽器の演奏をしていたのを今でも覚えている。親戚には戦死した人はいないが、徴兵で戦争に行った人は何人かいた。両親は昭和12年の生まれなので、終戦時は8歳。空襲の中を逃げ惑っていたはずだ。日本中の主だった町が焼け野原になった。我々はそこを生き延びた人々の末裔だ。それにしては軟弱で虚弱に過ぎる気がする。追い詰められ方が足りないのか、あれから甘やかされ過ぎたのか。

昭和20年、終戦を迎えるまで東京は断続的に空襲に遭ったが、そのなかでも特に大規模であったのが3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日とされている。一般に「東京大空襲」という場合、3月10日の空襲を指すことになっている。

総体に内田と山田の日記のトーンはかなり違っているのだが、50代半ばを過ぎている者と20代前半の者との立場や個人的諸事情の違いに起因するところ大であろう。生活の場は、内田が番町で、山田は通っていた大学が新宿で住まいは目黒のようだ。おそらく二人とも似たような風景の中にいた。例えば、その3月10日の記述は以下の通りだ。

午前零時ごろより三時ごろにかけ、B29約百五十機、夜間爆撃。東方の空血の如く燃え、凄惨言語に絶す。
爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり。
(略)
午後、松葉と本郷へゆく。
若松町に出ると、晴れた南の空に巨大な黒煙がまだぼんやりと這っていた。それは昨夜の真夜中から今朝のあけがたまで、東京中を血のように染めて燃えつづけた炎の中を、真っ黒な蛇のようにのたくっていたぶきみな煙と同じものであった。
牛込山伏町あたりにまでやって来ると、もう何ともいいようのない鬼気が感じられはじめた。ときどき罹災民の群に逢う。リヤカーに泥まみれの蒲団や、赤く焼けただれた鍋などをごたごた積んで、額に繃帯した老人や、幽霊のように髪の乱れた女などが、あえぎあえぎ通り過ぎてゆく。しかし、たとえそれらの姿をしばらく視界から除いても、やっぱりこの何とも言えない鬼気は町に漂っているのである。
(略)
自分と松葉は本郷に来た。
茫然とした、何という凄さであろう!まさしく、満目荒涼である。焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす「物」の姿が、ことごとく灰となり、なおまだチロチロと燃えつつ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて、この広茫たる廃墟の凄惨さを浮き上がらせている。
(略)
「つまり、何でも、運ですなあ。」
と、一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的な、そして変な明るさをさえ持って浮かび上がった時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。
(略)
焦げた手拭いを頰かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、
「ねぇ…また、きっといいこともあるよ。」
と、呟いたのが聞こえた。
自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。
数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。
それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間の讃歌」出会った。
(略)
(90-98頁)

内田の方は少しあっさりしている。

忽ち東の方の神田と思はれる空に火の手上がる。敵機は一機宛にて、来襲し百三十機に及びたりとの事なり。又いつもは八千米の高度なるに、今夜は三千、二千、中には千米まで降りて来たのもありし由なり。段段に火の手大きく、又近くなりて往来昼の如し。
(略)
大正十二年の大地震の大火の時に出来た入道雲の様な煙のかたまりが今夜も現はれた。
(略)
表を焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではつきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行った。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ッ子と云ふわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。
(略)
往復の途上にて見た焼け跡は、この前の空襲の後の神田の景色とは比較にもならぬひどいものにて、大地震の時の大火以上ではないかと思ふ。いつかは自分の家も焼かれるか知れないとは今迄も考へてゐたが、今度は近い内に必ず焼かれるものと覚悟をした。家内もその用意をしてゐる。火事だけではなく、爆弾にていつ吹き飛ばされるか知れないけれど、死ぬ事にきめてしまつては万事物事の順序が立たない。生死に就いては運を天にまかすとして、生きてゐれば必ず焼け出されるものと一応腹をきめた。今暁の近い大きな火の手を見、又今日の行き帰りに果てしのない焼け跡を眺めたら、さう云う気になつた。
(略)
(内田『東京焼盡』中公文庫 94-97頁)

同じことをほぼ同じ場所で体験しているが、書きようがずいぶん違うように感じられる。内田の方は関東大震災が災害体験の一つの基準になっているようだ。それが余程大きかったらしい。それでも、東京大空襲の方が実感としてそれまでに経験のない惨状であったようだ。また、生死についての「運」は二人とも語っているが、山田が他人の言葉を起点にしているのに対し、内田は自ら悟っている。個性の違いもあるだろうが、人生経験の長さの違いに拠るところもあるだろう。

若いうちは、自分の才覚や努力で物事が動くものと暗黙のうちに信じているところがあるものだ。それが齢を重ねると否応なく自分というものの無力を悟るようになる。しかし、だからといって敗北感に苛まれるのではなく、軽やかな諦観に落ち着くのである。「若い」とか「老い」というのは実年齢とは関係なく、自分に対する無力感の大小で測られるものだと思う。若くして死ぬのは悲劇であり、老いて死ぬのは自然だ。90歳でも「早死」のような心境で逝く人がいるのだろうし、20代でも老境に至る人もいるかもしれない。おそらく、その時その時を自分なりに精一杯の時間を重ねると人生の何事かを悟ることができるのかもしれない。言い換えれば、のんべんだらりと日々を重ねれば、いつまで経っても「若い」ままということでもあろう。自然にくたばりたいものである。

昭和20年は夏を境に多くの人の立場が大きく変化した。人は社会性のある生き物だ。立場で物事を考える。生活ということに限れば、変わり身の早い方が「有利」なのかもしれない。戦中戦後で世相がどのように変化したのか。内田の『東京焼盡』は8月21日までなので、この点については山田と内田の比較はできない。

因みに、内田はその8月21日をこう締めている。

何しろ済んだ事は仕方がない。「出なほし遣りなほし新規まきなほし」非常な苦難に遭つて新らしい日本の芽が新らしく出て来るに違ひない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだらう。
(内田『東京焼盡』中公文庫 338頁)

『東京焼盡』は日記の形式だが、執筆されたのは戦後数年を経てからであることを割り引いても、焼盡となった東京で暮らしているにしては明るい文章だ。それは前日8月20日に灯火管制が廃止され、空襲が無くなったということが実感されたであろうことと無関係ではあるまい。上に引用した最後の文は太田道灌の歌で、「急いては事を仕損じる」とほぼ同義だ。事を急いで戦争を始めたが、事態は変わりこれから世の中は落ち着くだろう、というようなつもりで書いたのではあるまいか。

急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨

確かに、戦後、日本は急速な復興を遂げた。それで我々の今がある。振り返ればあっという間のことかもしれないが、「鬼畜米英」「天皇陛下万歳」から「民主主義」「人権」「平和」への転換の渦中にいた当事者たちは精神の拠り所をどのように見出したのか。山田の9月2日の日記にはこうある。

今になってみると、自分にしても、すべてを「運命」にかけて、連日連夜爆撃の東京に平然と住んでいたことがふしぎである。凡らく夢中だったのであろう。もっとも人間というものは、熱中していた過去を振返ってみると、それがいかに冷静な判断の中に動いていたつもりであっても、後ではまるで「夢中だった」ように感ずるものである。実際過去は、いまその連続で自分がここにいるという自覚を除いたら、すべては夢である。(397頁)

しかし、その「自覚」とやらもどれほど確かなものなのだろうか。「自分」もひっくるめての「夢」ではないのか。「私」なんて幻想だろう。還暦を前にして、その向こうには死しかないのでそう実感するのかもしれないが、この60年は何だったのだろうと少々唖然としている。

9月8日(土)曇
ナポレオンはいった。「荘厳から滑稽へ移るのはただ一歩のみだ」(ユーゴー『クロムウエル』序論)
12月8日、アメリカに対する日本帝国の怒りは荘厳を極めた。8月15日以来、日本政府が命がけでマッカーサーに米つきばったのごとくお辞儀している姿は、ただ滑稽の一語につきる。(415頁)

10月に入るといよいよ世相は進駐軍に靡く。10月16日の日記にはこんなことが書いてある。

東京から帰った斎藤のおやじは「エレエもんだよ、向こうのやつらは。やっぱり大国民だね。コセコセ狡い日本人たあだいぶちがうね、鷹揚でのんきで、戦勝国なんて気配は一つも見えねえ。話しているのを見ると、どっちが勝ったのか負けたのか分かりゃしねえ」とほめちぎっている。(479頁)

10月19日の日記の一部。

 正直は美徳にちがいないが、正直に徹すれば社会から葬り去られる。それを現にわれわれは戦争中の国民生活でイヤというほど見てきたではないか。
 悲しいことだが、それは厳然たる事実である。それを「軍備なき文化国家を史上空前の事実として創み出すのだ」などという美辞を案出し、また日本人特有の言葉に於ける溺死ともいうべき思考法で満足している連中の甘さには驚くほかはない。実際世間とは馬鹿なものである。相当なインテリまでが、アメリカによる強制的運命に置かれている現実をけろりと忘れた顔で、大まじめに論じている。
「そのアメリカは軍備をいよいよ拡大しつつあるではないか」
 こう問いかけるわれわれに根拠のある返答の出来る人がどれだけあるだろう。神兵だの神話創造など、戦争中無意味な造語や屁理屈的理論を喋々した連中にかぎって、今度は澄まして、しかも頗る悲劇的な顔つきをしてみせて、幼児のごとき平和論をわれわれに強制している。(488-489頁)

戦争は異常事態ではない。我々の歴史の一部でしかない。何かが狂ってそういうことになるのではなく、始終狂っているからそういうことも当たり前に起こるのである。生きることは綺麗事ではない。その時々においては何かに強烈に拘ったりするものなのだが、過ぎてしまえば嘘のように余所事に感じられるものである。だが、生きることは、そういう「拘り」の連鎖であることも現実である気がする。そもそも心静かになどという想いも幻想とか夢の類なのかもしれない。

 

赤瀬川原平 『老人力 全一冊』 ちくま文庫

先日、noteを読んでいたら本書のことを上げている人がいて、また読んでみようかなと思って再読した。先もないし銭もないので、なるべくモノを増やさないようにして暮らさないといけないと思っている。本を買うときには何度も読み返すつもりで買わないといけないと思っている。思ってはいるのだが、つい「これくらいなら」と思って狭い団地の部屋を更に狭くして「困ったな」と思いながら生きている。やはり、機会をとらえて今あるものの再読を心がけないといけない。

本書の元の単行本は大ベストセラーで「老人力」は発行された1998年の流行語大賞トップテンに選出された。因みにこの年の大賞は「ハマの大魔神」「凡人・軍人・変人」「だっちゅーの」だそうだ。

言葉というものは独り歩きをするもので、「老人力」も本書での記述から離れて広まった結果の流行語でもあるのだが、「老人」がそれだけ社会の中で関心を集め易い状況になっているということでもあるのだろう。「老人」の印象は、たぶん「なんとかしないといけない」状況から「それがどうした」という開き直りの方向に進んでいる、と老人の私は感じている。つまり、他人事から主流派当事者的感覚になりつつあると思う。当事者として愉快だが、他人事として世間を見たときに、「本当にいいの?どうなっても知らないよ」とつい余計な心配をしてしまう。前妻との間に娘がいて、たまに会って食事をする時に、それとなくそんな感じのことを言うことはあるが、だからといって彼女個人に何ができるわけでもない。

本書には一応「老人」の定義のようなものが書かれている。

 そもそも老人になるというのが、小、中、高、と学校へ行って、足りない人は大にも行くが、その間バイトをしたり、人によっては刑務所に入ったり、結婚したり離婚したり、倒産したり、夜逃げしたり、うまくいったとしても糖尿病になったり、肝硬変になったり、歩道橋を渡ったり、立ち食いそばを食べたり、立ち小便を人に見られたり、とにかくありとあらゆる苦労の末にやっとなるのが老人である。
 あ、老人か、なるほど、恰好いいなあとかいって、五万円払って老人になる、というわけにはいかないのである。
(22-23頁)

つまり「ありとあらゆる苦労」を重ねた眼から見えた世の中のあれこれについてのエッセイが本書ということでもある。今となっては本書を最初に読んだのがいつなのか記憶にないのだが、本書の奥付に「二〇一四年十一月十日 第九刷発行」とあるので、赤瀬川が亡くなったことを知って読んでみようと思ったのかもしれない。新本で購入しているので、手にしたのは52歳の時だ。当時、読んで何を思ったのかは記憶にないが、当然、今と同じではなかっただろう。今、赤瀬川が書いた時の年齢で読むと、腹の中にスーッと入ってくる。

やはり思うのは、世の中の奇妙についてである。

いまの世の中は脳社会とかいわれていて、どんどん論理に覆われてきている。人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。(86頁)

最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の順番ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけれど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具はというのは人間に伝染るんです。(47頁)

 若い人たちは情報社会にひたってるんですね。情報社会って、みんなケチになるんです。情報を全部抱えこもうとするから、ぱっと捨てられなくなる。僕ももとはケチなほうなんだけど、老人力って、捨てていく気持ちよさを気づかせてくれるんですよ。ボンボン忘れていくことの面白さ。
 情報的にスリムになると、自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる。反対に情報で身の回りを固めてると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生じゃなくなってくるというか、自分が何だか干からびてくるんですね。(195頁)

 僕も貧乏性だけど、計算機もかなり貧乏性ですからね。あっちこっち横目ばかり使って、目つきが悪いようなところがある。キョロキョロして一番いいところを狙ってるような、ちょっと浅ましいっていうのかな、ヘタをすると、そういう気分につながりそうな回路が開いてる。昔は品格とか志みたいなものが尊ばれたから、計算で動くなんて軽蔑されることだった。それがいまはとにかくプラス志向だから、計算ずくでもなんでも勝利すればいい、みたいになっているでしょう。でも計算だけが生きて、人間が死んでしまったら元も子もない。だって自分の人生を楽しめるかどうかだからね、計算で果たして豊かに生きられるのかなって。(202頁)

今、「少子高齢化」というのが問題になっているのか、問題にしているふりをしているのか、いずれにしてもよく見かける言葉になって久しい。赤瀬川が言うところの「脳化」とか「計算」ということに徹すれば、他人と世帯を共にして暮らすとか、ましてや子供を作って育てるなんてことはリスクばかりが大きくて「コスパ」が悪いに決まっている。人生に「正解」があるとして、それが「計算」によって導き出される類のものであるならば、結婚などせず、まして子供など持たず、「アプリ」か何かでやりたいときにやって、その時々の目先の最適解を積み重ねるという行動を取るのが必然であろう。一方で、医学は生命を救うのが目的なので、その目的に向かって日々進化する。また、福祉は現代社会の当然の善なので、政治や行政は人々がその医学の恩恵を享受できるような仕組みを作る。当然、平均余命は長くなる。「少子高齢化」を解決しようと、保育園を増やしたり男女雇用機会の均等化を制度化したり、家事の外部化を図ったりしても一向に「成果」が現れないのは、これまた当然だ。「少子高齢化」は世の中の深いところの潮流の当然の帰結なのだから。

ついでに、近頃「サステナブル」ということが喧しく言われる。社会を支える情報化の道具類の寿命とか「サステナビリティ」については話題にならない。ほぼ一人一台所有するに至っている携帯情報端末は、売る側は2年程度での買い替えを目論み、買う側も、中には抵抗を試みる向きもあるが、それでも10年以上使うことはあるまい。数年のサイクルで機種を買い替えたことで生活の劇的な変化はあるだろうか。実態に特段の変化をもたらさないものに多大の資源が投入され、消費されている。もちろん、何を「変化」と感じるかは人それぞれだが、電話やテレビが一家に一台の時代から一人一台の時代になって、少なくとも人間が賢くなったとは思えない。ガソリンではなく電気で車を走らせるとか、無料だったサービスを有料にするとか、変化自体は世の中の所得獲得機会を提供する。その意味で社会に活力を与える。しかし、それが社会のありようとして生活者にとって好ましいかどうかは別の問題だ。

人間は社会を形成して生きる動物だ。社会には「正義」の大義名分が必要不可欠でもある。当然にその社会の規範は遵守され安心安全な生活が実現しないといけない。しかし、個人にとって社会が全てなのだろうか。個人の感じる豊かさとか満足があって、その実現のための調整執行機関として社会があるのではないか。そのあたりのことはもっと話題になってもいいと思うのだが、「世論」とか「理想」とかを問うはずのマスコミが機能不全に陥って久しく、政治も行政も「公」よりは「私」のほうにより強い関心を抱いているようだし、社会はいよいよ総徘徊総迷走時代に向かっているようにしか見えない。

余談だが、公務員が感染症対策の給付金詐欺で逮捕、起訴されたという事案がある。給付金を管轄する役所に勤務していた人たちが犯人なので、本人たちは受給の方法の事例を身をもって示したつもりだったという可能性もなくはないだろう。人の発想は所属する社会や組織の風土を反映するものだ。世の中は、迷走どころかお祭り騒ぎの時代に向かっているのかもしれない。

 抗菌グッズで解決するかというと、それは免疫力低下で更によたよたになるという現実がある。民主主義というのにルビを振ると、キレイゴト、となる場合が多いんですね。そのキレイゴトをぎゅうぎゅう詰め込んだお陰で、いまの子供たちはナイフ片手にふにゃふにゃしている。(126頁)

一人一台の情報通信端末を手にして誰もが気軽に世界に向けて意見を表明できる時代になった。マスコミはただの看板屋で、面白おかしく綺麗事を並べるだけの商売になった。それで商売を続けることができると思う方がどうかしている。

あーあ、世の中のグレードは落ちたなあ、と中古カメラは思う。
 中古カメラはたしかに中古だ。ボディにギックリ腰の過去があったりして、レンズも多少白内障の傾向が出ている。シャッターもちょっと粘って、一秒のスローシャッターが一秒半くらいかかったりする。場合によっては二秒かかって、途中で止まってしまったりもする。
 でもそれは休み過ぎているからだ。体を使わないでいたから、シャッターのグリスが固まってきて、それで動きが鈍る。
 グリス交換をすれば簡単に正常値で動きはじめる。町には老人力を扱う中古カメラの修理屋さんが、探せばたくさんあるわけで、シャッターの粘りぐらいはちゃんと直してくれる。
 そうじゃなくても、始終体を動かして、働いていればいいんだ。いつも坂道を登っている老人は、九十歳になっても坂道を登る。だからシャッターが粘っていたら、その日からでいいから毎日シャッターを切る。もちろんいちいち高いフィルムを入れなくても空シャッターでいい。労働ではなくストレッチみたいなものだ。毎日空シャッターで動かしていれば、粘っていたシャッターでも二秒だったのが一秒半くらいになり、そのうちにきっちり一秒で切れるようになる。
 修理屋さんに聞いたことだが、プロがしょっちゅう使っているライカは、もう何年とオーバーホールをせずにグリスがほとんど消失していても、レンズのヘリコイドなどはすいすいと動くそうだ。
(略)
 人間も同じことで、何年もお楽にしているとロクなことはない。一秒のシャッターが五秒かかるなんてなかなか老人力でいいじゃないかといっても、それでシャッターが切れなければどうしようもない。
(110-111頁)

 一般に世の中の感覚のグレードというのが落ちているんじゃないだろうか。
 ひところプリクラというのが流行りましたね。いまもつづいているのかどうか、とにかくあの粗悪な映像の拡大版である。プリクラの方は映像うんぬんよりも、男女が顔を接近するのが目的だから、映像のグレードはどうでもいいのだろうが、でもあんなものの流行を見て、人々の美意識というか、美感というのはずいぶんいいかげんになってるんだなと思った。
 たしかにいつもコンビニのおにぎりやハンバーガーしか食べていなければ、まあ味はどうでもいいという感覚になるだろう。これは貧富の差とかそういう問題とは違う。
(336頁)

なんだか話が通じなくなっているなと思うことが多い。いや、多くはない。そもそも人と話をする機会があまりない。それでも、会話ではなしに他人の話を聞いたり読んだりするなかで、引っ掛かることが多くなったと感じている。さすがに自分は「世の中のグレードが落ちた」と言えるほどの人間ではないのだが、「グレード」と呼ぶかどうかは別にして、「大丈夫か」と心配になることは増えた。

「口コミ」というのは昔からあったが、今はネット上で話題になるとすぐに人が集まって、そして多くの場合、すぐに熱が冷める。世間の話題を自ら確かめてみようという気になることに何の不思議もないのだが、尋常とは思えない買い漁りのようなことが起こったり、その店の営業に支障が出るほどの客が短期間に集まるというのは何故だろうか。それが飲食店なら、味覚の好奇心というよりは話題になっていることを体験していることの安心感とか自身の存在証明である場合が少なくないようだ。ただ写真を撮って、殆ど手をつけずに残して去っていくというケースも間々あるらしい。ネット上のページビューの数字が興味の対象であって、それを集めることでしか存在を確認できないというようなことになっているのだろうか。

しかし、そういうことを責めることはできないと思う。生活のあらゆることが数値化されて評価を受ける現実の中で、評価の対象よりも評価の数字の方に関心が偏るのは自然なことだろう。幼年時代、学校では成績というデータ、受験は志よりも偏差値に象徴される自分の位置でほぼ決まり、新卒の就職も一応面接はあるものの実態としては妙な形式のデータで振り分けられる。就職した後は年収だとか所得といった数字が、その人の「信用」としてついて回る。そうした流れのようなものに乗ってしまうと、実体の無い数字が実体だと思い込んで囚われてしまう。囚われて不幸なことになるのは当然だろう。

本能としての生存欲のようなものに従って、その数字だけを頼りに自分で妄想した「社会」とか「世間」の座標上に自分を位置付けて一喜一憂する。妄想の座標であり、「社会」なので、そもそも実体が無く、自分を位置付ける場所を見出せずに自沈する者もいる。妄想するのは勝手だが、まずは己の手足を動かして様々な生活の現場を実感しないことには己を否定する妄想から抜け出ることなどできるはずがない。

電池が切れたので動かない。ソフトが古くなったので動かない。ナントカが無いから動かない。そんな今時の生活の道具と同じように、些細なことで動けなくなってしまう人が多くなった気がする。老人になる以前に生存不適になってしまっているかのようだ。