熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年8月

2019年08月31日 | Weblog

『宮本常一 伝書鳩のように』平凡社 STANDARD BOOKS

万葉集を起点に、「日本」、網野善彦、宮本常一という流れで『忘れられた日本人』を読んで、宮本の書くものに惹かれた。そこで取り上げられているのは、「あの人は良い人だ」とか「あの人の話を聞くといい」などと会うことを勧められた市井の人々の話。小さな共同体のなかで他人から一目置かれた真面目で信頼される人々の話である。そういうものを読むと心が浄化されるような感覚になる。人というものを通り越して、生き物というのはこうでなくてはいけないという思いになる。自分が長いこと生きてきたからこその感想かもしれないが、若い頃に宮本の書いたものに出会っていたら、もう少しマシな人生になっていたかもしれないとさえ思った。

本書の巻末にやや詳しい著者紹介がある。そのなかに宮本がこんなことを言っていたと書いてある。
「おい、月給というのは怖いぜ。ありゃ寝とっても入る金じゃからな。人を堕落させるぜ」(220頁)

40年近く月給で生活しているからよくわかるが、その通りだと思う。これではいけないと40歳過ぎあたりから漠然と思いつつ何もできないままに今を生きている。否応なく月給生活に終止符が打たれるときが迫っているが、その前にまともな生活というものが一日でもできるようにしないといけないと、まだ思っている。

 

柳田国男『先祖の話』角川ソフィア文庫

谷知子 編『百人一首(全)』角川ソフィア文庫

百人一首の会という催しに出席することになり、慌てて読んだ。結局、読んだというだけで会のほうは末席を汚すというようなものだった。改めて百首の歌とその解説を読んで驚いた。半分以上が藤原姓あるいはその縁戚だ。

 

梯久美子『百年の手紙 日本人が遺したことば』岩波新書

いつも思うことだが、妙に取り繕ったものより何でもない日常的なものの方が面白い。手をかけた料理の旨さと、手をかけた食材の旨さとは比較可能ではない。創作の面白さと、生活の面白さは別物だ。敢えて言うなら、妙な意図が入り込まないもの、価値中立なものの多義性の深さに勝るものはない気がする。

言葉の不思議。書いたものが書き手を離れて一人歩きする不思議。人は当たり前に生活するだけで七変化を繰り返しているかのようだ。

手紙には相手がある。そこへ向けての知略も混じるだろうし、その手紙に到るあれこれがある。そうした文脈を抜きに或る手紙を取りだした時の何とも言えないナマな感じというのものは、ちょっと危険な香りもする。

 

坂口謹一郎『日本の酒』岩波文庫

歳をとってから、小量ながらも自ら酒を飲むようになった。そうなると、瓶のラベルにある意味不明の用語が気になるようになる。そういう時期に読んだので、楽しく読めた。しかし、ラベルの符牒がわかるようになったわけではない。それでも、次に飲むときは前よりも楽しみが増えるかもしれない。

本書の解説は万葉集講座の講師であった小泉武夫先生だが、日本酒を語るときは発酵学者と雖も「万葉集」は避けて通れないらしい。本書でも「万葉集」に多くのページを割いている。酒とはなにかを考えれば、酒を喜ぶ人間とは何かというところに行き着く。多分、酒にまつわる化学反応と、それが体内に摂取されて殊に脳で展開する化学反応に人間というものの心髄があるのだろう。

 

赤瀬川原平『老人力全一冊』ちくま文庫

自分が齢を重ねるなかで、かつて好きだったものがそうでもなくなったり、眼中になかったものが気になりだしたりすることが増えた気がする。赤瀬川の書いたものを読むようになったのもここ数年のことだ。このブログに彼の名前が初めて登場するのは2012年3月2日。この頃は毎日このブログを書いている。失業中で暇を持て余していたのである。

意識するとしないとにかかわらず、生命力の強い時期は欲が強くて前しか見えない。齢を重ねて諸々衰えると視界が開けて、それまで見えなかったものが見えてくるようになるものだ。それにつれて己の位置もはっきりしてくる。そこで生きることの儚さのようなものが自覚されて世界観が安定してくる。世界観が安定すると安心というのか諦観というのか、なんとなく落ち着いた心持になってくる。そうなると諸々それまでよりは落ち着いて対応できるようになり、そういう能力を「老人力」と呼ぶのだろう。尤も、いつまでたっても我欲に執着したまま死んでいく、あるいは死んでいきそうな人、少なくとも傍目にそう見える人は日々の生活のなかでたくさん見かける。ああはなりたくないものだとぼんやり眺めながら、さてこれからどうしようかと思うのである。

以下、備忘録的抜き書き

最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の手順ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具というのは人間に伝染るんです。(47頁)

というとまるで横井庄一さんのようだけど、あの方も先日亡くなられて本当に残念だった。生前に一度取材でお会いしたことがあるが、初対面のぼくらの正体を見ようとしてちろり、ちろりと動いていた眼差しは一生忘れられない。言葉を交わすまでもなく、あの方の体験の総体がその眼差しから一瞬にしてぼくに浴びせられた。(73頁)

論理的思考の落とし穴ということを書いていたのだ。いまの世の中は脳社会とかいわれて、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。(86頁)

最近はお金持ちは多いけど、上品なお金持ちはなかなかいない。だいたいは下品だ。(163頁)

医者というのは信頼だとつくづく思う。(179頁)

若い人たちは情報社会にひたってるんですね。情報社会って、みんなケチになるんです。(195頁)

去年(1997年)いっしょに僕の家を作ってくれたとき、藤森さんも言ってたのね、結局は現場が一番面白いんだって。藤森さんは、まさに現場の天才なんだけど、彼は「現場の面白さを追求すれば、最後に行きつくのは戦争だろう」って言うんです。戦場というのは計算外のことが次々に出てくる場所だから、計算通りのことしかできなかったら、自分のほうがすとんと首を切られて死ぬわけで、現場でとっさの判断を一番発揮できる人間が将軍になっていくわけで、だから、戦争はやっちゃ困るけど、苛酷な体験というのは、どこかで必要だったりするんじゃないですか。のるかそるかの場面に立たされることで、鍛えられていくものがある。宵越しの情報なんか持っていられないって気持がないとね。(200-201頁)

つくづく気品は捨てる潔さから生まれるんだと思いましたよ。それは人間も同じで、お金持ちでもカッコいい人はお金を超えてるし、貧乏人でも気品のある人は貧乏を超えてますもんね。(204頁)

ひところ、田舎といういい方は差別だ、みたいな意見があったが、とんでもないことだ。田舎が蔑称であるとする頭の中は、都市こそは素晴しいとする考えに占領されてるわけで、その考えをたどると、人工管理の極点に到る。(273頁)

いまはとにかく絶対民主主義国家となっていて、人権は問題となっても、人格は問題とならない。人権には異常なほど目を光らせるけど、人格のことは無視である。(274頁)