熊本熊的日常

日常生活についての雑記

落ち着くと落ち着かなくなる

2011年03月31日 | Weblog
寒さが緩んだと思ったのもつかの間、また寒くなった。去年は桜の前後から冷え込み、そしてあの夏を迎えたのではなかったか。今年は夏が去年のようなことにならないことを祈りたいが、それ以前に果たして夏を迎えることができるのだろうか。

テレビや新聞に縁がないので、ネット上のニュースしか見ていないが、原発の状況が落ち着いた様子はなく、被災地の復興が具体的な動きを見せ始めたわけではないのに、マス・メディアの関心はそうしたところから離れつつあるように感じられる。要するに当事者以外の人々が震災の状況に対する関心を失いつつあるということなのだろう。そうなると、被災地は単なる空き地と化してしまう。その場所に所有権や借地権などの権利を持つ人々が不在となっている一方で、その不在を埋めるものがなければ、その権利不在のものを強奪しようとする輩は必ず現れるはずだ。元プロ野球選手が電線の窃盗の現行犯で逮捕されたという報道があったが、計画停電となっている地域も、盗人の類から見れば恰好の獲物だろう。電気が通じていなければホームセキュリティシステムも機能しないだろうし、夜の暗がりなどは変質者にとっては天国なのではないだろうか。

災害という非日常のなかでは、人々の間に緊張感が高まるので、無防備であっても治安が悪化することはないだろうが、無防備という状況が変わらないなかで被災という事実が日常化すれば、緊張もそう強く持続することもないだろう。地震から3週間という今時分あたりからが、この国の文明や文化が問われる時期に入ってくるのだろう。

尤も、原発事故の状況に然したる改善は無い。それどころか、海外の専門家集団に支援を仰いでいるようだが、それはつまり、東電も日本政府もお手上げだということを意味しているのではないか。状況は落ち着くどころか悪化の一途を辿っているのである。この3週間の間、報道を見聞きする限り、原子炉を冷却することだけしか当事者の眼中にないかのようだが、仮に冷却できたとして、破壊され、放射性物質に汚染された原発をどうしようというのだろうか。廃炉にするというのは具体的にはどのようにするのだろうか。チェルノブイリのように施設をコンクリートで固めてしまうというようなことなのか、スリーマイルのように外見はそのままで、単に操業しないというだけのことなのか。放射能汚染はどのように除去するのだろうか。そもそも除去できるものなのだろうか。被爆して健康被害を受けた人の医療費や生活保障はどうなるのだろうか。

原発の陰に隠れてしまっている他の被災地の復興状況はどうなのだろう。そもそも今回の「復興」の定義はどのようなものなのだろうか。まさか、被災前の状況に戻すということではあるまい。持ち主を失った土地や施設を元通りにすることに意味は無いだろう。そうしたものをどのように扱い、最終的にどのような姿にしようというのだろう。平時ですら満足に機能しない政治や行政が、この非常時に何をしようというのだろう。肝心なときに何も出来ない政治や行政に存在意義はあるのだろうか。肝心なときに社長が入院してしまう企業に危機管理はできるのだろうか。非常時で中央銀行が流動性を供給しても市中銀行がシステム障害で機能しないというのなら、その市中銀行は存在意義が無いどころこか、社会にとっての害悪ではないか。

震災とそれに続く電力不足のなかで、被災地だけでなく東京の生活でも、それまであったものがなくなる、ということを体験している。端的には電気を使うものを減らしている。照明、空調、エスカレーターやエレベーターの類の装置類などがすぐに思い浮かぶが、ほかにもいろいろあるだろう。そうした体験を通じて認識したのは、無くても不自由のないものが思いのほか多いということだ。政治家も現在の半分くらいで間に合いそうだし、マス・メディアも不要だ。役人もどれほど必要なのか見直したほうがよいだろう。復興費用の捻出のために近い将来に何らかの形で実質的に増税があるのは誰でも予見しているだろうが、まずは政治家とデスクワークしかしない役人は減らしたほうがよい。そうでないと、国民は納得しないのではないか。復興が軌道に乗った暁には、「やれやれ」という思いと「こんなはずではなかった」という不満とが交錯することになるだろう。「やれやれ」が多くなるようにするのが政治だが、さてどうなることだろう。

久々

2011年03月30日 | Weblog
木工の帰りにcha ba naでビルマそーめんをいただく。ひょっとしたら、ここで昼を食べるのは今年に入って初めてかもしれない。たまたまカウンターの隣の席に、この店に飲料を納入していると思しき人が座り、店の主人と話を始めた。聞くともなしに聞いていると、やはり品不足のなかで食材の確保に苦心されている様子が伝わってくる。食品に関しては、東日本をカバーする生産や物流の施設を東北地方に置いている企業が多い。そうした設備とそこで働く人々の生活基盤が被害を受けているので、その影響が在庫の食いつぶしに従って深刻化しているようだ。尤も、今のところはブランドにこだわらなければ品物自体は確保できるらしい。しかし、一般家庭と違って外食となると、それなりの味や品質にたいする責任もあるので、無闇に使用食材を変更することはできないようだ。このまま調達が思うようにできない状態が続くようなら、ランチの営業を休止せざるを得なくなるかもしれないのだそうだ。所謂「飲み屋」系の店舗では、ランチ営業の負荷は思いのほか重いらしい。ランチ営業の負担ということについては、何年か前にワタミで当時の社長の渡邊氏にうかがった記憶がある。同じ店舗でありながら、顧客に出す料理の違いで業務の負担が異なるというのは、客の立場からすればあまり意識に上らないことだろう。同じ風景が立場によって全く違って映るわかりやすい例だ。

店の主人はプレーンヨーグルトがなくなっているのを心配していた。ランチのカレーに使っているのだそうだ。そういえば、生協の宅配でも地震後は乳製品の欠品が続いていたが、今週からヨーグルトが復活した。牛乳は滅多に飲まないので、生協には注文しないのだが、職場のあるビルの地下のスーパーには牛乳を含め、乳製品が潤沢に並ぶようになった。どうやら乳製品の品薄は解消されつつあるようなので、他の材料に問題がなければ、ランチのカレーが中止になることはなさそうだ。

ただ、相変わらず職場近くの商店は午後6時で閉店になってしまうので、出勤前に夕食として食べるものを調達しておかなければならない。尤も、慣れてしまえば、出勤前に調達しようが、勤務中に抜け出して調達しようが同じことだ。今回の震災とそれに続く電力不足で、様々な節電措置が取られているが、当初は不自由を感じたことも慣れてしまえばどうというほどのことのないことが多い。節約が消費減退を招くという懸念は当然あるだろうが、節約を強いられるなかでも消費されるほどの商品力があれば売上は然程落ちまい。物事は逆境の中で磨かれるものなのではないだろうか。人間も、逆境の中で知恵や気力が養われるという側面があるだろう。尤も、今の東京での私の暮らしは「逆境」というほど厳しいものではないのだが、この先はどうなるかわからない。覚悟はしておいたほうがよいとは思っている。

春が来て

2011年03月29日 | Weblog
一息ついた。3月も終わろうというのに2月中旬並みと言われる寒さが続いていて、辛かった。東北ではもっと寒いところで人々が復興のために獅子奮迅の働きをしているのだから、「辛かった」などと言っている場合ではないのだが、正直なところ、辛かった。被災者と何事かを共有したいという想いと節電への協力を兼ねて、あの地震以来、暖房を断っている。毎日、寒いと思い、その度に部屋の寒暖計を見て、悪寒がしているのではなくて本当に寒いのだということを確認しながら暮らしていた。それが、今日、久しぶりに東京は平年並みの気温になった。住処を出て外気に触れた瞬間、春はいいなぁ、と思った。

先日、子供と虎屋であんみつを食べながら今回の地震とその後のことについて語り合った。意見の一致を見たのは「特別なことはしない」ということだ。これはどういうことかというと、ひとりひとりが日常の平穏を回復させることで、社会全体の平穏を取り戻すことができるのではないかということだ。無闇に買い溜めをしたり、行き先のわからない義捐金に協力をしたりというような余計なことに関わりあいを持たず、ひとりひとりが自分のできることを粛々と積み重ねることが、平穏な日常を取り戻す最善の方策だと思うのである。仕事を持っていれば、その仕事に精を出して給金をいただく。そこから自動的に税金が徴収されるはずなので、それが巡りめぐって復興の足しになる。普通に生活をしていれば、少なからずの消費財を購入する。そこで自動的に消費税が徴収されている。税、そこに象徴されている国家というシステムは、それを構成する個別項目は無機的な制度であり、その硬直性が「お役所仕事」などと非難されたりもするのだが、全体としては有機体のように見える。どこかに問題を生じれば、それを修復しようという動きが自然に発生するような仕組みになっていて、あたかも自然治癒に向かっているかのように動くものだと思う。また、そうでなくてはその社会を「国家」とは呼ぶことができない。

しかし、例えば人が大怪我をすれば、手術が必要になったり、輸血が必要になったり、なによりも手術のための医師と施設が必要になったりする。そうなれば、身体システムはその怪我を処置すべく、怪我とは直接関係の無い部位も何がしかの負担を強いるものだろう。身体そのものに余計な負荷を与えないように、とりあえずは安静にしていなければならない。そうすることで活動が停滞して、筋肉が衰えたり、疲労を感じやすくなったりもするだろう。震災から3週間目に入り、今はそれに似た状況ではないかと思うのである。つまり、怪我の消毒や、まだ取り除かれていない怪我の原因物を除去したりしている最中だ。そういう期間においては、怪我とは直接関連していないところも、何がしかの不自由は甘受しなければ、怪我は治らない。「特別なことはしない」が、我慢できる程度の不自由はあるていど積極的に受け入れるということもしないと、怪我の治りが遅くなってしまう。

やがて、傷口がふさがり、リハビリが必要な時期に入る。そのときは、怪我で失った全身の均衡を慎重に回復させながら、健康であった頃の活動ができるように、時には負荷をかけて訓練しなければならないことも出てくるだろう。そうやって健康を回復するより他に、何ができるだろうか。

被災地のことは何も知らないので、とやかく書くことはできないが、東京で暮らし、ネットで配信されている報道を見聞きする限り、個々の怪我を処置するそれぞれの専門医は活発に動いているようだが、全体の状況を把握して適切に全体の治療方針を立てるはずの医師が不在のように感じられる。責任ある立場の医師が不在でも、我々はそれぞれの生活を生きていかなければならない。次善の策としては自然治癒に期待するということではないか。それは結局のところ、我々ひとりひとりがそれぞれの平穏を取り戻すべく努力するということだと、私たち親子は語り合った。

識者

2011年03月28日 | Weblog
「昔の武将は歌を詠み、能を舞ひ、茶道を興し、書をよくした。素人は、何らかの芸術に携わらなければ人間ではなかったのである。だから一方では、書家の書といふ言葉が出来た。書家の書と言へば「茶人」と同じ意味で、専門家を軽蔑した代表的な言葉だが、文人画家はまさに「絵師の絵」と言って玄人を軽蔑したのである。さうかと言って素人だから分がいい理由もないし、専門家だから特別に何か分かっていた訳でもないのである。」(青山二郎「青山二郎全文集」下巻 ちくま学芸文庫 170頁)

昔、職場で能書きばかりの奴が「識者」と呼ばれて馬鹿にされていた。明確に結果の出る仕事だったので、能書きの多寡も現実の成績も一目瞭然であった。不思議なもので、「識者」本人は、自分の能書きと成績の乖離を認識できていないという傾向が強かった。あるいは認めたくない現実を隠蔽すべく声高に能書きを語っていたのかもしれない。

久しぶりにニュース雑誌を駅の売店で買って読んでみた。今の時期は当然に震災と原発の話ばかりなのだが、新しいことはなにひとつ書かれていないような印象を受けた。雑誌なので、記事が書かれてから発行されるまでにある程度の時間を経ている。それゆえ、事実関係の解説よりは、識者の意見のような比較的日持ちのする記事を中心に据えることになる。識者の現地ルポ、識者の対談、識者のコメント、それぞれの識者の立場から震災とか原発事故を語っているが、全体としてみれば、我々市井の者が仲間内で語る内容と然したる違いはない。その違いの無さに安心する読者もいるだろうし物足りなさを感じる読者もいるのだろう。何故、識者と市井の人々との間に違いがないかといえば、どちらも当事者ではないという共通基盤に立っているからだ。市井の無名の人が文章を書いたり語ったりしても、そこに商業的価値がないので識者を使っているだけのことで、そうすることによってメディアは商品として市場に流通可能な形式を備えるのである。

マス・メディアは商品であり商売ネタなのである。商品は売れなければ商品たりえない。売るためには、多少えげつなくとも、人を煽るような要素がないといけない。バナナの叩き売りのハリセンとか芝居の拍子木の類など、なにはともあれ人々の注意を喚起するものが必要不可欠なのである。どれほど高尚な内容が盛り込まれていたとしても、そうしたえげつないものと同じ枠内に収めないと商品として市場に出て行かない。その雑誌に毎回エッセイを寄稿していた劇作家が、前週号の内容が「扇動的」であったことに抗議して今回を限りに降りてしまったが、本当の理由は別にあるのではないかと思ってしまった。自分自身が劇団を組織しているほどの人なら、マスとかマス・メディアといったものがどういうものか百も承知だろう。だからこそ、自身のレピュテーション・リスクの管理上、露出先のメディアを厳しく選別する必要があるということだと思う。マスを相手にしている商売が扇動的でなかったら、そもそもその商売は成り立たない。その扇動のツールのひとつが識者だ。多くの場合、大学の先生とかなんとか研究所の研究者というような知的な印象のある肩書きを持っているが、マス・メディアにおける識者というのは芸人の1ジャンルでしかない。そういうつもりで識者の言葉を聞いていれば、過度に悲観したり楽観したりすることもなくなるのではなかろうか。

安息日

2011年03月27日 | Weblog
昼過ぎに起床する。今日は一歩も住処の外に出なかった。アイロンがけやら、洗濯物の片付けやら、部屋の中の掃除と整理やらで、あっという間に短い一日が終わってしまった。

注文しておいたコーラン用書見台が、昨日、実家に届いた。改めて眺めてみると、作りは粗いが、確かに一枚の厚板に切れ込みを入れることで、折りたたみ式の書見台になっている。どこにどのような切れ込みを入れるかということについては、よく考えられていると思うのだが、商品として売ろうというのなら、何故、あと一手間を加えて見栄えや使い勝手を良くしようとしないのだろうか、というものだ。ちなみに、これはインド製。ウエッブを検索したとき、表記されているスペックがほぼ同じようなもので、トルコ製のものがあったのだが、インド製の約10倍の価格だったので、このインド製のほうを選んだ。今度の木工のときに先生に見ていただいて、これから制作する予定のマガジンラックに取り入れることのできる要素があれば反映させたいと考えている。

今日は日曜日なので、何気なくタイトルと「安息日」としたのだが、調べてみるといろいろややこしいので驚いた。そもそも「安息日」というのは旧約聖書で週の7日目のことだそうだ。これは土曜日である。ユダヤ教の戒律では、この日はなにもしてはいけないのだそうだ。日本語では「安息」などといかにもお気楽な雰囲気だが、積極的に何もしないというのは何かをしなければならないというのと同じくらい厳しいことだと思う。キリスト教の場合、当初は安息日に礼拝を行っていたそうなのだが、キリストの復活の日である日曜日を主日として、日曜日に礼拝を行うようになり、主日と安息日とが同一視されるようになったのだという。但し、キリスト教でも正教会のような東方系は土曜日が安息日だそうだ。イスラム教では、モハメットがメッカを脱出した金曜日が安息日になっている。何もしてはいけない、という意味での「安息日」はユダヤ教のもので、他は「安息」してもよいらしい。ただ、「安息日」と「休日」とは別のものであることには注意をしておく必要がありそうだ。

昔、アウグスブルクでホームステイをしていたときに聞いた話では、日曜日は家事もしてはいけないのだそうで、例えば、洗濯物を外に干しておくと町内会長のような立場の人から注意を受けるというのである。しかし、今はドイツでも共働きは一般的なので、家事はどうしても週末にまとめてしなければならない。そこで、余裕のある家庭では地下などに家事をするための部屋とか洗濯物を干すことができるような乾燥装置の付いた部屋を設けてあるのだそうだ。現に、私がお世話になっていたお宅の息子さんのご自宅にはそのような部屋があった。当時の留学先であったイギリスのマンチェスターでも、日曜は殆どの商店が休業しており、買い物があるときは、平日に学校が終わった後とか、土曜の午前中に商店の閉店時間を気にしながら慌しく済ませた思い出がある。食事も、日曜は寮の食堂が休みだったので、近所のケバブーハウスを利用していた。

人間の生理的な周期と暦というのは、どの程度関連があるものなのか、素朴に疑問に思う。暦というのは天体の周期であり、その天体のなかで生きている我々の身体も、その周期の影響を受けるのは自然なことであるように思う。しかし、天体の周期に安息というようなものはないだろう。「休日だからのんびりしたい」と言うとき、「休日」と「のんびり」の間には何の合理的関連は無いのである。物理的な法則に従って運動するものに、主観的な価値観を重ね合わせることで、無機的なものがあたかも有機的なものであるかのように見えてくることもあるが、それは幻想だ。ここで「母に捧げるバラード」歌詞の一節が甦る。

「人間働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度でも思うたら、はよ死ね。それが人間ぞ。」

次の週末からは、もう少ししっかりとしていないといけない。生きている限り、「安息」など求めてはいけないのである。

赤坂にて

2011年03月26日 | Weblog
子供と落語を聴きにでかけた。当初の予定では、今日は茶の稽古のはずだった。それが23日に中止との連絡を受けたので、子供に空いているかどうか連絡をしてみたら空いているというので会うことになった。通常なら茶の稽古は第二土曜なのだが、稽古場所であるギャラリーの都合で今月は26日ということになっていた。茶の予定変更以前に落語のチケットを入手していたので、チケットのほうを誰かに譲ろうとしたのだが、貰い手が見つからずにいた。結局、落語のチケットは無駄にならずに済んだ。子供と一緒に落語に出かけることが決まると、昼をどこで食べようかと思い始めた。落語の会場が草月会館なので、昼は赤坂界隈がいいだろうと思い、なぜか滅多に行ったことのない維新號が頭に浮かんだ。子供に中華でいいかと尋ねたら、いいという返事だったので、24日に電話をして11時半に予約を入れた。そして今日を迎えたのである。

落語は「柳家三三で北村薫。」の昼の部だ。子供とは山手線の駅ホームで待ち合わせて、新宿で中央線に乗り換え、四谷で丸の内線に乗り換えて赤坂見附で下車する。まずは維新號で腹ごしらえ。11時半の開店と同時に入って、飲茶を頼んだのだが、コースの最後のデザートを食べ終えたところで開演10分前。勘定を済ませて店を出たところで、客を運んできたタクシーに出くわしたので、そのタクシーを拾う。会場の草月会館には開演3分前に到着。トイレに入って席に着いたら午後1時の開演を少し回っていたが、開演が数分遅れたので問題はなかった。終演後、虎屋であんみつを食べてから、子供を家の最寄り駅まで送る。その後、実家に寄り、両親と食卓を囲んで、巣鴨の住処に戻ったのは夜10時近い頃だった。

維新號を訪れるのは何年ぶりだろうか。以前の勤め先で、社内の会食というとこの店を使うことの多いところがあった。子供には旨いものを食べて欲しいという思いがあるので、一緒に食事をするときは自分が訪れたことのある店のなかで、自分が旨い店だと感じたところを選ぶようにしている。あくまでも旨いと思うか否かだけが基準なので敷居の高さは関係ない。今年に入ってから訪れたのは、1月が宮益坂のトルコ料理店アナトリア、先月は青山のシェ・ピエールだ。今日は、昼時でもあったので、飲茶のコースにした。どの皿も外れがなく、好き嫌いが激しい子供も残さずに食べた。好き嫌いがあっても、旨いものは口に入るものなのである。だから旨い店に連れていくことで、いろいろな料理や食材の味を感じて欲しいと思っている。大切なことは旨いという感覚を体感すること、同じ食材が料理によって違ったものになることを知ることである。もっと言えば、ひとつのことが向き合い方や処理の仕方を変えることで、どのようにでも変化する可能性を持っていること、物事の答えというものがひとつだけではないということを体感して欲しいと思っている。

落語は北村薫の小説<円紫さんと私>シリーズをモチーフにした新作「砂糖合戦」、中入りを挟んで、「砂糖合戦」のなかに台詞として登場する古典「強情灸」、最後に三三と北村薫との対談、という構成だ。先日、やはり子供と一緒に家禄が宮部みゆきの「我らが隣人の犯罪」を落語として演じるのを聴いたが、近頃はこういうのが流行なのだろうか。「砂糖合戦」のなかで「円紫師匠」が語っているように、古典落語に登場する用語のなかには今は使われなくなってしまったものが少なくない。それでも多くの古典がいまでも口演され続けているのは、噺というものが言語化されたものだけで構成されているわけではないということの証左だろう。とはいえ、芸能が演じ手と観客とによって成り立つ以上、双方が寄って立つところの社会の変化を芸のなかに反映させる試みを継続しないことには、その芸能自体が存在しえなくなってしまう。時には確立している形式を根底から変えてみることで、どうしても変えることのできない普遍性を発見することもあるだろう。変化は必ずしも変えることを意味するのではなく、変えないこと、変えるべきではないことを浮き彫りにもする。落語は、果たして、座布団の上で噺を語ることにその本質があるのか、あるいは、そうした形式に意味は無いのか。そもそも落語とは何なのか。

このところ自分のなかで落語への関心が目に見えて低下していたのだが、今日の落語会を聴いて、それが再び高まってきた。自分が気に入る噺家というのは、そう容易に生まれるものではないが、根気強く楽しい出会いを求め続けたいものである。

落語がはねてから、赤坂見附駅に向かう途中で虎屋に入った。ここの羊羹は美味しいと思うので、手土産にはたまに利用している。今日は地下の茶寮であんみつと抹茶をいただいた。抹茶のほうは自分で点てたほうが美味しいと思ったが、あんみつは流石に店のブランドに恥じぬものだ。あんみつのように複数の構成要素で成り立つものは、どれひとつとして粗末なものがあっては全体の満足度が毀損されてしまう。餡は勿論のこと、寒天も豆も求肥も、全てが美味しくなければならない。私は寒天に感心したが、子供は求肥が良かったという。いずれにしてもおいしいあんみつだった。

須賀敦子を読んでいた頃

2011年03月25日 | Weblog
手元にある文庫版の須賀敦子全集を子供に譲ろうと思い、再読している。既に1巻目を読み終えて2巻目に入っている。この全集を最初に手にしたのは2008年6月、ロンドンでのことだ。2008年は須賀の没後10周年で、日本の新聞や雑誌で何度か彼女の特集を目にしていた。その人に興味を覚えたので、河出文庫から出ていた全集を丸ごと8巻購入し、1巻目から順に読んだ。なぜかその文章に惹かれ、その文章の向こう側にあるものに憧れ、著作のなかに言及されている作家の作品にまで目を通した。文筆だけでなく絵画や彫刻も、須賀の文章のなかに登場するものは、なるべく実物に触れてみるよう心がけた。それで具体的にどうこうということはなかったのだが、なんとはなしに世の中が広く見えるようになった心地がしている。

彼女が本格的に文筆活動を開始したのは60歳からなのだが、30代から日本文学をイタリア語に翻訳する作業に関わっているので、よく耳にする「遅咲き」というのとは違う。むしろ、注目すべきは充電期間の長さだろう。聖心の英文科を卒業後、慶応の大学院に進学。フランス政府の留学制度に合格してパリ大学文学部に留学。一旦帰国するが、その後イタリアの大学に留学する。イタリアで結婚した後は翻訳や通訳などに従事し、夫の死後しばらくして帰国してからは大学での教職と研究を生業としている。52歳のときには「ウンガレッティの詩法の研究」という論文で慶応から文学博士号を得た。60歳で文筆家としてデビューする以前に長い思索の時を重ねているのである。

おそらく、持って生まれたものに、長い時間をかけて積み重ね醸成してきたものが加わって、あの世界が展開できるのだろう。最初に全集を読んだ時にこのブログで書いたように、全8巻の全てが一読に値するとは思わないのだが、刊行目的で書かれたものはどれも手元に置いて読み返したいものばかりだ。私の子供が、彼女の作品を読んで何かを感じるかどうかは別にして、文章としても若いうちに読んでおいて欲しいものが多かったので、譲るタイミングとしては少し早いかもしれないと思いながら、自分が再読を終えた順に手渡していくことにした。

再読に際しても、気になったところには付箋をつけて、ノートに抜書きをした。1巻目に関しては、最初に読んだときよりも付箋の数が多くなったが、それらのなかには最初に読んだときに付箋をした場所も含まれていた。この2年数ヶ月の間に私自身の内部にもそれなりの変化があったということなのだろう。

ちなみに、最初に手にした2008年の初夏の頃、私は当時交際していた人から電話で別れを告げられた。結論だけの、店屋物の注文を取り消すのと然して変わらぬ電話だ。私がロンドンに渡ってしまい、遠距離になったことがきっかけだったのだろう。こういうことは縁なので無理に事を運んでも上手くいくものではないが、互いにもう少し辛抱強く時を積み重ねる余裕があれば、違った結果になっていたかもしれない。最後の短い電話の後、V&Aに出かけたら、中庭に紫陽花が咲き乱れていた。

私は自分の子供には人生を自ら切り拓いていくことができるような人であって欲しいと思っている。そういう視点から、思考の糧になるような書物を紹介しているつもりだ。須賀の作品もまさにそうしたもののひとつだ。

×印

2011年03月24日 | Weblog
木工で次に制作するのはマガジンラックにしようと考えている。先日、国立民族学博物館の常設展でコーランの書見台というのを見つけた。一枚の板に切り込みを入れて、真横から見るとX状に開いたり折りたたんだりできるものだ。ネットで検索してみるとアジア雑貨の商店で販売していたので、手頃な価格のものを発注してみた。実物を手にして何かの参考にできればと思っている。

×と言えば、生協の宅配カタログには×印を付された商品がいくつも登場し始めた。三陸産の魚介類や水産加工品が中心だが、これから被災地産のものを中心に欠品が増えてくるのだろう。復興も進むだろうが、当面は復興よりも被害の拡大のほうが勝った状況が続くことになりそうだ。もうすぐ震災から2週間になるが、電力不足の影響で電車が間引き運転になっていたり、街中の照明が絞られているといったことに震災の影が色濃く感じられはするものの、「喉下過ぎれば…」という空気も少しずつ広がっているような気がする。例えば、街を行く若い女性の足元が高いヒールの歩きにくそうな靴だったりするのを見かけるにつけ、災難の記憶が薄れていることを感じる。しかし、相変わらず商店の棚に空白が目立っていたり、生協の宅配の商品に制約が多くなっていたりする。震災に対する認識と震災の影響の現実との乖離が、被災地域からある程度離れているところで大きくなっているように感じられる。これまであまり経験したことがないような不自由を長期間に亘って強いられていると、それが人心に悪影響を及ぼすのではないかという漠然とした不安を覚えるのである。

被災現場の人々なら、目の前に震災の現実があるので、自分が被っている不自由とその原因が容易に了解されるだろうが、現場から距離を置いていて不自由だという感覚だけが強まると、人は持って行き場のない不平不満を抱くようになるのではないだろうか。それが社会という単位で、不条理感のようなものを膨らまし始めると、なにかの拍子でそれが暴発することになりはしないかとの懸念を抱かずにはいられない。

子供が小さい頃、しばしば東京ディズニーランドに出かけた。そこで感心したのは、アトラクションの行列の整理だ。どのアトラクションにも長蛇の列ができているのだが、列の並びのちょっとした移動で、ただ立っている時間をできるだけ無くすようにし、常に列が目的のものへ向かって進んでいるという感覚を与えるようになっている。現実にはアトラクションの一回あたりの処理能力に変化はなく、立ち止まって待っていようが、前に進みながら待っていようが、待ち時間そのものは同じはずだ。「朝三暮四」ではないが、それに近いような工夫で、人の不平不満というものは嘘のように軽減されるものだと思う。まだ震災から2週間足らずとはいえ、そうした工夫が身近に感じられないことに不安を覚えるのである。

小型書架完成

2011年03月23日 | Weblog
木工で1月の終わり頃から取り組んでいたキャスター付の小型書架が完成した。「書架」と目的を限定せず、他の用途がいくらもありそうな簡素なものだ。

今回はエゾマツを使い、枠の桟の一部に杉を用いた。どちらも国産材だが、木目の美しさはこの国の自然の豊かさの象徴であるような気がする。木目はその木が育ってきた場所の四季折々の気候の変化を表している。木目が雄弁であるということは、その土地が四季それぞれに豊かな表情を見せるということでもある。1年という限られた時間のなかで気候が大きく変化するのは、そこで暮らす当事者にとっては難儀なことではある。その時々の暑さ、寒さ、乾燥、湿潤の真っ只中では、「豊か」などという形容が持つ語感とは相容れない過酷な状況のときもあるだろう。それでも、終わってみれば、夏材と冬材が微妙に揺らぎながら重なり合い、それが何年もの長い時を経て、見事な木目を形成するのである。その木目を愛撫しながら眺めていると、自分は果たして木目を重ねてきただろうかと、少し情けないような思いがよぎる。

普段は、木工の後は東村山のますも庵でもつ煮うどんセットをいただくか、巣鴨のcha ba naでビルマそうめんなのだが、今日は大きな荷物を抱えているのでひとまず住処へ戻る。書架を玄関に置いて、そのまま食事へ出かける。今まで入ったことのない店に入ろうと、庚申塚方面へ行ってみる。最近、足を運ぶようになったインド料理屋コルカタ・キッチンの並びに蕎麦屋が目に付いたので入ってみた。

カウンター席だけの小さな店だが、なんとなく緊張感の漂う気持ちの良い店だ。昼のセットで、せいろと天ぷらを組み合わせるものがあるので、それをいただく。今日の蕎麦は長野県伊那で収穫したものだそうだ。少し甘味のある麺である。昨年は全国的に蕎麦の出来が悪く材料の調達に苦労したというのは、自家製麺を打つ店に共通したことだろう。ここのご主人も頻繁に産地を巡っている様子だ。最初は私が唯一の客だったが、そのうち常連らしい客が2組続けざまに入ってきた。彼らと主人との遣り取りを聞いていると、ここも地震以降は客足が遠のいたとのことだ。旨いものを作っていれば自然に客が集まる、というような時勢ではないのは確かだが、いつ災難に遭うかわからないからこそ、なるべく旨いものを食べておきたいと思うのは私くらいなのだろうか。3日程度食いつなぐくらいの食糧と水を備えておけば、あとは普段通りの暮らしで良いと思っている。その程度の備蓄ではどうにもならないような事態になれば、その先の生活など無いも同然なのだから、素直に運命に従うまでのことだ。それにしても、ここの蕎麦は旨い。蕎麦猪口も趣味が良いものが揃っていて、主人の店や客に対する思いが伝わってくるようだ。良い店に出会うことができた。

予知の余地

2011年03月22日 | Weblog
陶芸教室で先生とお話をしていたら、館内放送で警報音が流れ、地震が来るので安全な場所へ移動するようにとの指示が機械音声で続いた。果たしてその直後、建物がゆさゆさと揺れた。しばらくすると館内放送が、震度4を予想したが実際は2だった、などとフォローアップをする。地震には驚かないが、この放送に驚いた。先日の地震の直前にもこのような放送が流れたのだろうか。それとも、あの地震をきっかけにして、このような放送を流すようにしたのだろうか。

警戒を促す放送から地震までは1分程度だったので、具体的に対策を施す余裕などないのだが、心の準備はできる。これはとても大きなことではないだろうか。不意打ちならば狼狽してしまうことでも、身構えていることができれば落ち着いて対応ができ、結果として被害を最小限に抑えることができるという可能性がある。地震の揺れそのものは1分程度なのだから、その1分間を覚悟を持って迎えることができるのとできないのとでは、揺れが収まった後の初動に大きな違いが出るように思う。

今はまだ地震の直前にならないと警報を出すことができないのだろうが、今までは警報そのものが無かったのだから、警報の登場だけでも大いなる進歩だ。これから先は、地震の研究もますます進んで、警報と地震との間隔を少しずつ長くすることができるようになるのだろう。逆に地震後のフォローアップまでの間隔は短くなるのだろう。何事も適切な判断の基礎になるのは的確な現状認識だ。何が起こるのか、何が起こったのか、ということを整理して認識することで、そこから先の思考と行為が建設的なものになるものだ。

あの震災から今日までの間に驚くようなことがいくらもあったが、今日のこの警報は震災の次くらいの驚きだった。

週末エクソダス

2011年03月21日 | Weblog
名古屋から東京へ向かう新幹線はどれも満席で、飛び地のように空いていたひかりの喫煙席で戻ってきた。後で聞いたところによると、原発の終末的状況を恐れ、週末に東京を離れて関西地域で過ごした人々が、東京での日常に戻る流れに当たってしまったようだ。結局、東京へ戻るなら、関西へわずかの時間だけ逃げてきても然したる意味は無いように思うし、そもそも東京に居られないほどの状況になれば、日本全体が実質的に壊滅したも同然なのだから、名古屋に居ようが大阪に居ようが同じことだ。自分だけが、とりあえず助かりたい、ということなのだろうか。その先に生活があると思うことのできる御目出度さに拍手を送りたい。

東京は雨。地震後最初の雨ではないだろうか。しかも北寄りの風である。おそらく、この雨には原発から飛んできた放射性物質が含まれているのだろう。雨は大地や河川を濡らす。そこには農地もあるだろうし、浄水場もあるだろう。どんなに避けようとしたところで、結局は我々の身体に取り込まれることになる。ミネラルウォーターといったところで、採水地が安全である保証などあるのだろうか。つまり、気にしても仕方がないのではないだろうか。

天災は忘れた頃にやってくる、などという。一寸先は闇、とも言う。我々は無意識のうちに今日と似たような明日があると信じているが、明日があるかどうかもわからないのが現実なのである。しかし、確実なことがひとつある。それは、誰もがいつか必ず死ぬのである。今、この瞬間に昇天するか、明日なのか、10年後なのか、何時ということはわからないが、最期は必ずやってくる。どうせいつかは終わるなら、じたばたするよりも、静かにその時を迎えたほうが気分が良いのではないか。大事なことは、いつ最期が来てもいいと思えるように日々を生きることではないだろうか。

天啓

2011年03月20日 | Weblog
バスの中から朝日に照らされた太陽の塔が見えた。「おぉ」と思う。バスは定刻よりも10分ほど早く午前7時半頃に大阪駅に到着した。まずは大阪駅構内で腹ごしらえをする。

最初の目的地は高津宮。落語「高津の富」の舞台だ。大阪駅から地下通路で地下鉄梅田駅に出て御堂筋線に乗る。なんばで千日前線に乗り換え、谷町九丁目で下車。そこから少し日本橋方面へ戻ったところに高津宮の鳥居が立っていた。日曜の朝という所為もあるのだろうが、人通りは疎らだ。鳥居をくぐり、参堂を本殿へ向かう。ちょうど本殿への石段を登っているところで太鼓の音が聞えてきた。石段を登り詰めると、本殿内部で巫女さんや宮司さんがなにやらお勤めの様子。手水で手を清め、お勤めの邪魔にならぬよう、賽銭箱の前で静かに拍手を打ち、礼をする。賽銭はあげない。

落語での描写から想像していたよりも小規模のお宮だ。境内のいたるところに何やら言われのありそうな寄進物や碑の類がある。本殿裏側はちょっとした庭園で、しだれ梅が花をつけていた。

高津宮を後にして日本橋へ向かう。途中、国立文楽劇場の前を通る。朝9時頃だが、劇場前には少し行列がある。日本橋から地下鉄堺筋線に乗り、相互乗り入れをしている阪急千里線の山田駅で下車。大阪モノレールに乗り換える。山田の次が万博中央公園。朝方は晴れていたのだが、雲行きが怪しくなっている。駅を出たところから、バスから見た太陽の塔が見える。

この太陽の塔の実物を見てみたかったのである。伏線としては昨日書いたように、子供の頃に見たくても見ることのできなかった万博への想いがある。そこに火をつけたのが、「芸術新潮」の岡本太郎特集だ。特にQA形式で岡本太郎記念館館長の平野暁臣氏が語っていた万博のテーマに関する一節が好奇心を強く刺激した。以下その引用である。

「Q35 大阪万博のテーマ展示に込めたメッセージとは?
平野 テーマプロデューサーとして太郎がやるべき仕事は、万博のテーマ「人類の進歩と調和」を展示という形式で説明することでした。でも彼はこのテーマが気に入らなかった。人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文の凄さを見ろ。今の人間にラスコーの壁画が描けるか、と言ってね。そこで展示の大半を塔内部と地下に埋め、およそ「進歩と調和」とは正反対の、「人の根源」を考える展示をつくったんです。命、遺伝子、いのり、混沌、まつり、闘い……人間の誇りと尊厳を静かに語る空間は、万博には似つかわしくない芸術的・幻想的なものでした。太郎は予算とスペースのほとんどを旧石器時代までの話に費やしています。はっきり言って異常です。だって万博は「夢の未来」を語り合う場ですからね。でも太郎の展示はまったく逆。「未来にすがるな」と言っている。そこに太郎が込めたのは「血の中に刻まれた原体験を思い出せ! 人間の誇りと尊厳を取り戻せ!」というメッセージだったと、ぼくは考えています。

Q36 「万博を祭りにしたい」と繰り返し言っていたそうですね。
平野 万博という「啓蒙」の場を、精神を解放して己を取り戻す「祭り」に変える。それが太郎の願いでした。だから会場のド真ん中に《太陽の塔》を突き立てた。アレ、万博の運営にはまったく必要のないものですからね。なにしろなんのために立っているのかさえわからないんだから。でも祭りの本質は蕩尽。よし、壮大な無駄使いをしてやるぞ。そう考えたのでしょう。《太陽の塔》は祭りの司祭なんです。一方、途上国への視線も明快。「新しく独立し、歩みはじめたばかりのアジア・アフリカの諸国。近代工業の面では何も持たない。そんな国の人々が会場に来て、何か肩身のせまい思いをするような、富や科学工業の誇りでは卑しい。逆に彼らの存在感をふくれあがらせ、祭りにとけ込ませる、人間的な誇りの場でなければならない」(小誌1968年6月号)。万博を祭りに変えることで、産業力で序列をつくる悪しきモダニズムを蹴飛ばしたいと考えていたのです。」(「芸術新潮」2011年3月号 新潮社 46-47頁)

少し長くなったが、この部分を読んだときにどうしても太陽の塔が見たくなってしまったのである。朝方は晴れ渡っていた空にいつしか雲が敷き詰められていたので、朝にバスのなかから初めて見た時ほどに感じるものはなかったものの、十分感動的であるには違いなかった。日本の経済成長と自分の生理的成長とが一致しているから余計にそう感じるのかもしれないが、「進歩」も「調和」も幻想で、人は10年や100年というような短い時間では何も変わったりしないものだとの思いを、太陽の塔だけが残されている万博跡地に立って新たにするのである。

万博公園で忘れてはいけないのは国立民族学博物館だ。初代館長は梅棹忠夫。高校生の頃、岩波新書の「知的生産の技術」を読んで、自分もカードシステムを作ろうとして、タイプライターまで買い込んで、何度か挫折と再挑戦を繰り返した後、ついに何も残らなかった。不思議なもので、それでもそうした挫折がとても楽しい経験であったという印象が残っている。それはおそらく、「知的生産の技術」という本を通じて、梅棹その人の何物かを感じたからなのかもしれない。彼の著作で読んだことがあるのは、この一冊だけなのだが、今回、国立民族学博物館で開催中の「ウメサオタダオ展」を観ても、なぜか知っていることが多い。それだけこの人の仕事が大きなものだったということもあるだろうし、「知的生産の技術」が単なるハウツー本とは一線を画した思想書に近い内容の深さを持つ所為もあるのかもしれない。

民族学の核はフィールドワークだ。自ら文化や文明を体験することによって思考する学問である。梅棹はその第一人者だった。体験に基づいた思考、というと当然のことのように聞えるかもしれないが、我々がいかに風聞に影響されるかは今回の震災後の狂騒を見れば明らかなことだ。「講釈師 見てきたような 嘘を言い」という有名な川柳があるが、世の中は講釈師だらけなのである。そういう世の中だからこそ、体験とそこから導き出された経験に拠ることに確信を持って自分の思考を深めることができたのかもしれない。そういう人の書いたり話したりすることがどれほど力強く響くものか、「ウメサオタダオ展」を観て実感できた。

不幸にして私は思考力が薄弱なので、今日こうして民博を訪れて感じたことを上手く文章に表現できないのだが、天の導きがあってここに来たと感じられるほどに満足している。3月11日に感じた数分間の揺れだけでも、自分の人生のなかで最大の地震なのだが、それに続く原発事故や被災後の様々な混乱は、震災からの復興の困難を感じさせ、暗澹たる気分に流れ勝ちになっていた。近い将来に最期を迎えることを覚悟して、気持ちの整理をするためにこうして大阪にまでやって来た。しかし、民博で梅棹忠夫の館長退任記念講演という次期館長の佐々木高明との対談のビデオを観て、天啓のようなものを感じた。これから本格化するであろう震災の大小様々な危機的事態とそれが自分の生活にもたらすかもしれない災厄は、自分の人生にとって千載一遇のことに転換できるものなのかもしれないと思い始めたのである。今の段階で具体的に何がどうということはないのだが、鍵になるのは「結果を出すこと」と「あきらめないこと」のふたつだとの思いを強くした。

午前10時頃に万博公園に着き、民博内の食堂での昼食を挟んで、午後3時近くまで滞在したのだが、とてもそれくらいの時間では満足に見て回ることはできない。名古屋で大事な面会を控えていたこともあり、近日中に再訪することにして民博を後にした。

万博中央公園からモノレールに乗り、千里中央で下車。地下鉄御堂筋線に乗って新大阪へ出る。新大阪から新幹線に乗り名古屋で下車。上りの新幹線は空いていた。

事が起こってわかること

2011年03月19日 | Weblog
あたふたとした一週間が終わり、三連休の初日を迎えた。東京でも余震は続いているが、より大きな問題としては原発事故に伴う電力不足と放射能汚染だ。電力不足の原因が発電所の被災にあり、しかも被災した発電所が原子力発電所で、最悪の場合は炉心溶融を覚悟しなければならない状況にあるということは、自分自身の生活基盤を失う懸念があるということだ。地震による被災がなくとも、原発の事故で生活を継続することが困難な状況に陥る可能性がある。

そこで、自分の生活を改めて見直してみた。既に50年近く生きてきたので、いつ終わってもよいと腹を括る。そして、これまで心に引っかかっていたことのなかで、すぐにでも解消できることはできる限り解消してしまうことにした。おかしなもので、いざ引っかかりを挙げてみれば、どれもしょうもないものばかりだ。それはとりもなおさず私自身がしょうもない人間であるからに他ならない。たいした奴ではないのはわかりきったことではあったが、あらためてその現実を突きつけられれば苦笑まじりに受け容れるよりほかにどうしょうもない。

まず考えたのは太陽の塔を見にいくことだ。大阪で万国博覧会が開催されたのは1970年。私は小学校2年生だった。当時、母が製本工場にパートに出ていた。今でも操業しているその製本会社では文学全集や百科事典といったものの製本を手がけており、乱丁や落丁のそうした書籍が家の中に転がっていた。そのなかに万博のカタログもあったのである。時は日本の高度経済成長真っ只中。カラー写真がふんだんに使われた万博のカタログを観て、実物が見たいと思うのは自然なことではないだろうか。カタログを見ても見なくても、当時は日本中が万博に熱中していた。3月14日から9月13日までの183日間の会期中、6,400万人の入場者を集めたが、この数字は万国博の入場者数として、上海万博まで史上最多記録だったそうだ。テレビのニュースなどで報じられる映像はパビリオン前の行列や入場ゲートの混雑などで、そうした場所にはとうとう連れていってはもらえなかった。会場跡地は周知の通り万博記念公園として整備され、そのなかには太陽の塔と鉄鋼館が残されている。「芸術新潮」の3月号が岡本太郎の特集で、その記事を読んで改めて万博会場を訪れたいとの思いを強くした。また、公園内には国立民族学博物館が1977年に開館している。これもまた是非観たいと思っていたもののひとつだ。

今日は午前中は家事をして、午後に橙灯とFINDに寄ってから実家へ行く。巣鴨の住処から小石川の橙灯までは徒歩。自分のなかで何か事が決まったときというのは空が明るく感じられるような気がする。昨日までの寒さが和らぎ、春らしい陽気になった所為かもしれないが、外に出ると何とはなしに清々しさを感じる。ふと、留学中に学位取得がほぼ見えたときの空を思い出した。

橙灯には先客として町内会長がおられた。話題は当然に震災関連に流れ勝ちになる。報道で外国人が日本を脱出する様子をしばしば目にするが、都内でも飲食店などで働く外国人が帰国してしまって人手が足りなくなり、営業を断念するところが出ているのだそうだ。今や全国的に買い溜めの動きが顕著になっているが、その一方で首都圏では外出を控える動きも一層強まり、外食、殊に個人事業の飲食店は閑古鳥が鳴いているところが多くなっているという。本当に必要かどうかもわからないものを無闇に買い込むよりは、家庭内の生活必需品の在庫を点検しつつ空いている外食店を利用するほうが、私のような一人暮らしにとっては賢明な選択ではないかとの助言もいただいた。確かに生活必需品の備蓄を図るには、新たに調達するという方法は当然にあるのだが、既存の在庫を温存するという方法もある。ただ、巣鴨の住処周辺にはこれと言った飲食店が無い。地蔵通りは観光地のようなところなので飲食店が多くても一見相手のようなところが目立ち、繰り返し訪れたいと思う店はそれほど無い。この機にまだ利用したことのない店に訪れて、新規開拓しておくのも一考かもしれない。

一時間半ほど橙灯で話し込んだ後、十条のFINDを訪れる。店内が満席だったので、外のテラス席でザンビアをいただく。お忙しそうだったので、あまり岩崎さんとは話す時間が無かったが、それでもスープボウルまたはスープ皿を夏ぐらいまでに6つ欲しいが、作ってみてもらえないかとの相談をいただく。嬉しいことだ。

実家でもスーパーに商品が無いという話題が出る。不思議なことに個人商店は客が減って困っているのだそうだ。実家が今の場所になったのは、私が小学校6年生の秋のことだ。今やすっかり土地に根をおろし、両親が日常生活のなかで関わる人々のなかには、そうした個人商店主もある。私もそうした関係性の恩恵にあずかり、秋から春先にかけの時期ならば、毎週末に実家を訪れる折には、近所の八百屋さんから届けられる大きな焼き芋に舌鼓を打つのが習慣と化している。この焼き芋は八百屋さんのご好意、つまり無料なのである。有り難いことだ。

一旦、巣鴨の住処に戻ってシャワーを浴びたり身支度をしたりしてから新宿へ行く。23時20分発の夜行バスで大阪へ向かう。

大震災から一週間

2011年03月18日 | Weblog
自分の生活は震災前と変わらない。強いて変わったことと言えば、日中の外出がなくなったことくらいだろうか。今週は水曜日に木工に出かけた以外、出勤以外の外出がなかった。今日も昼間は洗濯、掃除、炊事といった家事とブログを書くくらいのことしかしていない。通勤の足は、朝夕の通勤時間帯は計画停電に伴う運行規制で不自由があるようだが、私の通勤時間は世間一般のそれとはずれているので、既に平常に復している。深夜の帰宅時間帯はもともと列車の運行が少なく、午前0時を回れば山手線でさえ10分前後の運転間隔なので、それ以上変わりようがないということでもある。

勤務先では、今日は原則として午後3時終業になったが、いつものように夕方に出勤してみると、職場の風景はそれほど変わったところはなかった。ただ、普段なら深夜まで残っている社員が何人かいるものなのだが、今日は午後9時半には誰もいなくなっていた。

連休前ということもあり、熊本で勤務している外注先の人から発注予定を尋ねる電話が入った。そのときの雑談のなかで、熊本でも買い溜めの動きがあり、首都圏で不足が報じられているのとほぼ同じ物が不足気味になっていると言っていた。おそらく、テレビなどで被災地の様子を毎日目にしていることで不安を覚えたのだろう。確かに、九州にある工場が東北にある工場からの部品の供給が止まって操業停止を余儀なくされているという事実はある。今や人の暮らしは世界中と何らかの形でつながっているというのは現実のことだ。ましてや熊本と言えば阿蘇という活火山があるので、地震は他人事ではない。なるほど熊本の人々が買い溜めに走るのは尤もなことかもしれない。しかし、…と思うのである。

今日は彼岸の入り。先日、生協から届いた御萩を食べたのだが、改めて今日も食べようかと思ったものの、せっかく巣鴨で暮らしているのだからと思い直し、大福をいただくことにした。出勤途中に地元巣鴨の伊勢屋で大福を買い、職場の席でいただいた。残りは持ち帰ってひとつひとつラップに包んで冷凍室に保存した。明日の朝はこれをひとつオーブントースターで焼いていただこうと思う。巣鴨といえば塩大福が名物で、その有名店がいくつかあるが、私は伊勢屋が一番好きだ。餡と皮とのバランスで、皮となる餅が少し勝っているので、ここの大福を一押しにすることに異存のある人は当然いると思う。私は、餡も好きだが餅も好きなので、この餅の勝り具合が好ましいと感じられるのである。買ったばかりのものをそのままいただくのは当然美味しいが、時間が経って少し硬くなったのをオーブントースターで焼いて食べるのもまた美味しい。コンビニやスーパーなどで売っている大福は皮が餅もどきのものが少なくないので、そういう大福もどきには気をつけたい。

大震災の6日後

2011年03月17日 | Weblog
いつもの木曜と同じように昼近くに起床。軽い食事をして、アイロンがけなどの家事を済ませる。

出勤は都営三田線を使うが、大規模停電の可能性があるとかで列車の本数を2割削減して運行中とのこと。出勤には支障なかったが、神保町と大手町の駅は普段よりも混雑している。

出勤してパソコンを立ち上げると米国大使館からのメールが何通か転送されていた。ひとつは福島第一原子力発電所から半径80kmから退避するようにとの勧告。もうひとつは日本在住の米国市民に対し、米国務省がアジアの避難場所への輸送を手配中との連絡。そのメールの記述で東京が原発から230km離れているということを知った。230kmが遠いのか近いのか、感じ方は人それぞれだろうが、東京を離れる人々が外国人を中心に続出しているのは事実らしい。自分が所属する部署にはいないが、他の部署では日本を離れた社員もいると聞いた。

現在、直面している当面の課題は、まず震災で破壊された生活基盤を回復することである。そのためにはライフラインを復活させなければならない。その復興作業の目下最大の障害は原発だ。まず、なによりもこれをなんとかしなければならない。現場では文字通り必死の作業が続いているはずだ。また、被災地域の瓦礫の撤去なども粛々と進行していることだろう。しかし、そうした復興への営みが被災地だけのことに留まっていては、目的は達しない。とりあえずの身の危険が遠のいた自分たちに何ができるだろうかと考えた。

首都圏の鉄道網は電力不足のために輸送力が削減されている。それが通勤などの人の流れを阻害して、長期化するようなら、経済活動にも支障をきたすことになるのは明らかだ。また、身近な交通の障害が物流全体への信頼感を損ねる結果、人々が闇雲に物資を溜め込む動きを引き起こしているのも確かだろう。保存可能な食品はもとより、ガソリン、トイレットペーパー、生理用品といったものまで不足気味になっている。しかも、そうした動きは全国的なものになり、なかには海外に飛び火しているところもあるらしい。

不安心理が働く限り、買い溜めを抑止することはできない。他人の不安を払拭するというのは至難なので、これは時間をかけて物資が潤沢にあることを納得してもらうよりほかにしょうがないだろう。本当に必要であるか否かを問わず闇雲に買い溜めに走るのはある種の狂気だ。一見したところ、街の風景は依然として平穏だが、買い溜めに象徴されるささやかな狂いが人々の生活のなかに芽吹いている。必要なものを必要なところに円滑に供給し、それによって可能な限り円滑に復興を図るには、被災地以外にいる人々も平穏を維持することではないかと思うのである。義捐金の寄付も有効な復興策であることには違いないだろうが、寄付をしながら買い溜めもするというのでは、復興に寄与していることにはならないだろう。

自分の生活のなかの狂いをひとつひとつ是正していくということに誰もが取り組むことで、全体としての狂いがなくなり、それだけ復興への資源集中を図ることができるようになるのではないだろうか。身の回りを改めて点検し、不要不急の電気の使用を控えるとか、同じことだが厚着をするなどして暖房をできるだけ控えるといったことなら、誰でもできることだろう。平均的な日本人は必要以上にカロリーを摂取している。残飯を発生させているなら、そうしたものを出さない程度に食事を慎むことは、間抜けなダイエットよりも健康にも社会にも役立つはずだ。ひとりひとりが、いつもより少しだけ忍耐の程度を上げることを積み重ねれば、それは大きな効果につながると思う。

さらに、そうした生活のなかの過剰を改めることが習慣として定着すれば、この国は以前にも増して高効率な経済を持つことになるのではないだろうか。それが少子高齢化で懸念される活力低下への対策としても機能するのではないだろうか。先々のことはともかくとして、今は我々ひとりひとりが日常生活のなかでエネルギー消費を抑制する工夫をすることが何よりの復興策だと思う。