熊本熊的日常

日常生活についての雑記

博物館の内覧会というもの

2007年01月09日 | Weblog
初めて東京国立博物館主催の企画展の「内覧会」というものに出席した。これは企画展示を招待客だけに披露する催しである。限られた人数の客だけに見せるものであるから、普段よりもゆったりと鑑賞できるものと思っていた。ところが、それは誤解だった。

招待状に書かれた「受付開始時間」に会場に行くと、まずは開会式会場へ通される。やがて開会式が始まる。これが終わらないと展示会場へは入場できない。開会式では来賓が入れ替わり立ち代わり挨拶に立つ。どのスピーチも「お招きいただきありがとう。今日はおめでとう。」という程度の内容しかないが、そのささやかなメッセージが、できたての綿菓子のように膨らみ、長々と繰り返される。その間にも客は増え、結局200名ほどになった。およそ40分間におよぶ開会式の後、「テープカット」という儀式がある。そしてようやく入場が始まる。まずは、挨拶に立つような偉い人々から優先的に案内されるので、自分のような下々の人間は容易に中に入ることはできない。間もなく、会場入口付近に人が滞留し、入場が規制される。馬鹿馬鹿しくなって、図録だけ頂いて会場を後にした。

愚痴と自慢

2007年01月07日 | Weblog
平日の昼時、よく独りで外食をする。好むと好まざるとにかかわらず、近くの席での会話が耳に入る。殆どの場合、そこでの話題は愚痴か自慢話である。愚痴と自慢は正反対の内容であるように見えるが、私には同じことであるように思われる。どちらも話し手は熱心だが、聞き手は相槌に終止している場合が多い。傍目には滑稽な風景である。

愚痴は、自分が不当な逆境にあるという訴えであり、その前提には、自分がそのような逆境にあるべき人間ではないという自己評価がある。自慢は、いかに自分が優れているかということの主張であり、その背後には、自己の現状に対する強い肯定がある。いずれにしても、発情期の畜生が行う求愛ダンスのようなものだ。

生きとし生けるものはその命を次の世代につないでいくという使命を負うている。その使命を果たすため、生き物は自分がいかに生存に値する存在であるかということを主張し続けなければならないのである。しかし、生命というのは、個体が全て生存し続けなくても命がつながるように余裕を持って個体を発生させている。局地的に見れば、絶滅に瀕している種もあるが、人間について言えば必要以上の勢いで増加が続いている。本来ならば不要な奴も生きながらえているということだ。愚痴や自慢を垂れながら。

「イカとクジラ」

2007年01月04日 | Weblog
家族の崩壊をリアルに描いた作品だ。かつて脚光を浴びた作家である父、今まさにブレイクしようとしている作家である母、思春期の2人の息子たちが主人公である。作品の根底には「人生の成功とは何か?そのようなものは本当にあるのか?」という意識があるように思う。それは「リトル・ミス・サンシャイン」とも共通している。「成功」とか「失敗」とか、「勝ち」とか「負け」という外部的なるものに価値の基準を置いてしまうと人生は窮屈で矮小なものに成り下がるということであろう。

作品のなかの父は無様だ。何を書いても出版につながらないことへの焦り、世間の注目度が上がっている妻への嫉妬といったものが混ざり合い、その言動や行動が周囲を不快にさせ、それが本人を自己嫌悪に陥れるという閉塞状況が作り出されている。母は、実は夫の才能を信じているようでもあるのだが、かといって夫との関係を再生するつもりは、もはやない。息子たちはそうした両親の関係に当惑するばかり。作家として売れるか否かが所得に反映され、それが生活に直接的な影響を与えることも、売れない作家を精神的にも追いつめている。父は素直に出版社や妻の助言を請うべきなのだろうが、過去に脚光を浴びたという事実があるがゆえに、その成功体験に依存して孤立を深めている。

この父に焦点を当てれば、彼が書こうとしているものは果たして彼が書きたいことなのか、という疑問を感じた。勿論、生活があるので自分のやりたいことだけで日々を過ごすことは不可能だ。しかし、虚栄心や目先の利益だけを追求する生活に人は満足を覚えるものなのだろうか。満足もなく成果もないことを続けることができるものなのだろうか。蜃気楼を追い求めて歩くようなことを続けているからこそ、彼の生活は崩壊したのではないだろうか。

タイトルの「イカとクジラ」だが、原題も”The squid and the whale”。これは、まだ一家が幸せに暮らしていた頃の長男の思い出に関係がある。作品のなかではラストシーンに登場するが、この家族が虚栄や刹那的な成功にまみれる以前の、人間関係として健康であった時代に持っていた価値観を象徴するものだろう。

年賀状

2007年01月01日 | Weblog
年賀状というのは、そもそも年賀の挨拶を簡略化したものだそうだ。本来なら菓子折りのひとつも手にして伺うべきところ、書状で挨拶の口上を述べることで、その代わりとするものらしい。出かけていくのと葉書一枚では大きな違いであるように思えるが、方向性としては簡略化へ向かっているという理解でよいのだろう。ここまで簡略になったのなら、いっそやめてしまえばよいと思う。それで、今年は年賀状を書かなかった。しかし、いただいたものに対しては書く、つもりでいる。

さて、年賀状の文面というのは、しみじみ読んでみると、成る程簡略である。「昨年はお世話になりました」と、昨年一度もお目にかかっていない人から言われると困惑してしまう。「今年もよろしくお願いします」と言われても、何をどうしてよいものやらわからない。「今度飲みにいきましょう」と言うが、私は酒を嗜まない。子供の写真を見せられても、いかなる反応をすればよいのか当惑するばかりなのに、飼い犬の写真に至っては、その犬がパソコンを駆使して書いたのかと、思わず差出人を確認してしまう。

普段、付き合いのある人なら、わざわざ年賀状など不要だろうし、付き合いの無い人ならなおさら不要であろう。年賀状が縁で何事かが変化した、というようなことは聞いたことが無い。

年賀状のメリットを享受するのは誰なのだろう?まずは日本郵政公社。プリンタとその消耗品の製造者および販売者。年賀状ソフトの製造者と販売者。先日、実家の母から電話があった。はがき用の印刷機を買ったが思うように動かないという。出かけて行って使い方を説明した。なかなか便利な機械である。後日、また電話がきた。やはり使えないという。手書きにすればいいじゃないかと言うと、せっかく買ったのに使えないとは癪に障るとのこと。私以上に齢を重ね、いつお迎えが来ても文句の言えない年齢である。今さら年賀状などいらないだろうというと、自分にも付き合いというものがあるのだと言う。ろくな付き合いではない。これで少なくとも1台、家庭用軽印刷装置が退蔵され、代わりに筆記具がどこかで余計に売れたことだろう。

ちなみに、2006年12月19日付の毎日新聞ニュース(ネット版)によると官製年賀はがきの発行枚数は2004年用の44億5936万枚をピークに減少を続け、2007年用の発行枚数は37億9000万枚だそうだ。このうち1998年用から発行されているインクジェット用に限っても2005年用の22億7518万枚がピークで2007年用は22億3000万枚とのことである。減少が続いているとは言いながらも膨大な枚数であることに驚愕してしまう。