熊本熊的日常

日常生活についての雑記

能登千加重さんの皿

2011年11月29日 | Weblog
軽食も出しながら民芸雑貨も扱うという店を計画中の友人を誘って、深沢の而今禾Tokyoを訪れた。「能登千加重 陶展」の最終日で、品物のほうはだいぶ掃けてしまった印象だ。能登さんの作品は手捻りで作った器に銅を使った釉薬をかけて焼いた後、さらに漆を塗って仕上げるという独特のものだ。写真ではよくわからないのだが、漆の質感と光沢で見る角度によって色が微妙に変化する。料理を盛るより、菓子類を盛るのによいかもしれないと思い、皿を一枚買い求めた。尤も、家では菓子というのは滅多に口にしないので、在庫が無い。それで、とりあえず林檎を置いてみた。

りんご:ふじ
    アップルファームさみず(長野県)産
    今年は開花期である春先に低温が続いた影響で開花が例年よりも1週間以上遅れたのだそうだ。それで、表面に「サビ」が多く出ているとのこと。

新しいカメラで知ったこと

2011年11月28日 | Weblog
何年も前から外出するときは遊びであろうと仕事であろうとカメラを持っている。今使っているのはリコーのGR Digital3で、その前がGR Digitalだった。ライカはこのリコーのカメラの買い替えではなく、別系統の存在として使うつもりだ。

カメラを常に持ち歩いているからといって、写真撮影が趣味だという認識はない。毎日持ち歩いていても、撮影をするのは月に数えるほどしかない。所謂「写真家」と呼ばれる人たちは、例えば「銀座4丁目交差点」を撮れと言われれば、そこで200枚や300枚は撮るのだそうだ。勿論、無闇にシャッターを切るのではなく、ぱっと眺めてそれくらいの「画になる」場所を見つけ出すという意味だ。そういう画をいくらでも見つけることのできる人が「写真家」ということでもある。私にはとてもできないことである。

いざ使ってみると、困ったことが起きた。ボディ背面の液晶画面でピント合わせをするとき、フォーカスポイントを拡大した画面がポップアップで現れるのだが、それがよく見えないのである。機器の問題ではなく、私の老眼の所為だ。近視用の眼鏡を常用しているのだが、数年前から老眼を感じていた。例えば、クレジットカードを使ってサインをするとき、手元がよく見えない。よく見えないままぐちゃぐちゃとサインを書いているが、それを見咎められたことはただの一度もないのだから、サインがサインとして機能しているということなのか、伝票のサインなど形式に過ぎないということなのか、よくわからない。そんなわけで、そろそろ老眼対策を施さないといけないとは感じていた。それがこのような形で切羽詰まったものになるとは想定外だった。

ただマニュアルで写真を撮るという行為が、子供の頃に家にあったニコンの一眼レフを使って以来のことなので新鮮な思いがある上に、デジタルなのでその場で撮ったものを確認することができる。写真やカメラのことはわからないので、絞りとシャッター速度の関係をオートにして、ISOとピントを自分で操作するように設定した。それだけでも、今まで撮ったことのないような面白い画が撮れる。特に夜間の屋外に思いの外多くの撮影ネタが溢れていることを認識した。

新しいカメラを手に入れて発見したのは、写真を撮ることの楽しさと自分の老眼の深刻さだった。

紙の博物館で2時間

2011年11月27日 | Weblog
買ったばかりのカメラを使ってみたかったので、実家へ行くときに少し早めに家を出て、飛鳥山公園まで歩いてみた。午後3時過ぎに着いたら、ちょうど何かのイベントの後片付けをしているところで、山の上の公園は子供達で賑わっていた。紅葉の、とてもありきたりな写真を1枚撮ったところで、紙の博物館に入ってみる。そして、ここで2時間近くかけて閉館のアナウンスがあるまで過ごすことになる。

訪れたことのある方ならおわかりになるだろうが、見学に2時間もかかるほど大きな博物館ではない。しかし、私は見学で2時間を要したのである。なぜそれほど時間がかかったかというと、ボランティアの説明員の人と話し込んでしまったからだ。偶然、昨年の今頃、日本民藝館のイベントで和紙職人の話を聴く会に参加した。そのときは事前に参加申し込みをして会に臨んだのだが、今回はたまたま博物館の前を通りかかってふらりと入ったのである。入館してすぐのところは製紙工程についての展示なのだが、そこにボランティアの説明員の方がおられて、「説明しましょうか?」と話しかけられたので「お願いします」と応じただけだ。黙って聴いていれば直ぐに終わったのかもしれないが、私は工場見学の類が大好きで、そういうものを眺めていると楽しくてしょうがない。楽しいと、聴いた話に対して自然にいろいろ反応してしまうので、結果としてひとつの展示物の前で長い時間を過ごすことになるのである。しかも昨年聴いた和紙の話が思い起こされ、それとの対比で尋ねてみたいことが次々に思い浮かんだという所為もあった。ものが出来上がっていく姿を眺めるのも愉快だが、それについて説明する人が楽しそうに且つ熱心に話をする姿も好きだ。どうしても話し手の魅力に惹かれ、言葉のやりとりを続けていたくなってしまう。そんなわけで1階の製造工程の展示で長い時間を過ごし、2階は比較的短い時間で通過して、3階の紙の歴史の展示で、別のボランティアの人の説明を聴いて、1階ほどではなかったが、それでもそれなりの時間を過ごしたのである。閉館時間がもっと遅ければ、おそらくもっと長い時間を過ごしていただろう。人が活き活きと何事かを語る姿は美しい。おかげさまで、紙についての知識を深めると同時に、たいへん愉快な時間を持つことができた。ありがたいことである。

ライカのカメラを買う

2011年11月26日 | Weblog
先日、ライカのX1というカメラを買った。コンパクトデジタルなのだが、職人が手仕事で一台ずつ組み立てているモデルだという。手仕事だからどうこう、ということではなく、強い個性を感じるものを手元に置いておきたいという気持ちから物を選ぶと、手仕事製品に行き着くことが多くなる。今時の手仕事というのは値段もそれなりになるので、行き着いたところで買うのを断念するということも多くなる。結果として、身の回りに物が増えることもなく、さっぱりとした生活になる。しかし、今回は少し様相が違う。「ライカのカメラ」というものを手にしてみたいという思いが先にあった。噂だけはいろいろ耳にしていて、ちょっと踏み出せば現物を手にすることができる、というのなら、人生も後半だし、悔いの無いように触りに行ってみようかと思ったのである。向かった先は銀座のライカ直営店。

祝日の午後、店には客がひとりもいなかった。最初は展示されている実機をいじっていたのだが、自然な流れとして店の人との会話が始まる。フィルムカメラのほうは最初から買う意思は無かったので、話題はデジタルのほうに集中する。デジタルコンパクトとしては4機種の実機が並んでいて、正直なところ、今回購入したX1以外の機種には全く魅力を感じなかった。コンパクト以外のものは興味がないので、MシリーズやSシリーズは最初から対象外だ。店の人といろいろ話をして、X1に落ち着いた。

このカメラの特徴はコンパクトでありながら、APS-Cサイズという大型のCMOSを搭載していることにある。受光素子が大型になるとピント合わせに時間を要するのは仕方がない。カタログには「ライカX1のオートフォーカス機能は素早い焦点合せを可能にし、決定的瞬間を逃しません。」などと書いてあるが、店の人は正直に「たぶん遅いと感じると思います」と言っていた。CMOS以外の部分では、カタログデータだけを比較すれば、国内メーカーの製品のほうがコストパフォーマンスは上だと思う。評価のポイントはレンズとCMOSということになる。カメラなのだから光学系の特徴に注目するのは当然なのだが、写りがどうこうというのは多分に主観の要素が大きいので使ってみなければわからない。それを想像する手がかりとしては、店頭に用意されているサンプル写真しかない。メカとしてのカメラのほうは、体良く言えば「シンプル」なものだが、撮った写真のほうは、ちょっと違ったものを感じた。店の人が勧めるように、モニターで観るだけでなく大きく引き延ばしてプリントする、という機会がどれほどあるのか疑問がないわけではないのだが、そういうことをしてみたいと思わせるものはある。これから、そういうことをしてみたいと思わせる写真を撮らないといけない。

東日本旅客鉄道株式会社 大宮総合車両センター 見学会

2011年11月25日 | Weblog
今日はJR東日本の大宮総合車両センターを見学してきた。希望者が多く、今回は定員に対し3倍ほどの応募があったそうだ。ご説明を頂いたのは総務課助役の遠山さん。見学中の写真撮影は自由だが、撮影したものをブログなどに使用するのは禁じられているので、ここには車両センター内部の写真は掲載しない。以下、見学の概要をまとめた。


大宮総合車両センターの組織内での位置づけ:大宮支社のなかの現業部門

所属正社員数 430名
説明者の遠山さんが入社された当時は2,800名、最盛期は5,800名
6,000名近い人員を擁していたのは、蒸気機関車に関する作業に人出を要したこともあるが、復員兵を受け入れなければならいという事情もあった。
新入社員は毎年24名

勤務体制 日勤 8:30 – 17:00 原則週休二日

主な担当職務
 検査:鉄道車両の検査
     指定保全 走行距離60万キロ以内 3 – 4年周期
     装置保全 走行距離120万キロ以内 6 – 8年周期
     車体保全 走行距離240万キロ以内 12 – 15年周期 車両リフレッシュ
    上記以外の短周期検査は各車両センターが担当
 新造:現在は殆どない。直近の新造車両は「カシオペア」の展望車
 改造:直近では253系の「成田エクスプレス」から「きぬがわ」への転用改造 骨体以外全部交換
    その他の事例としては京浜東北線で使用していた209系0番台を房総各線向けの209系2000番台へ改造。
    10両編成の6両化、トイレの取り付け、4人がけシートへの転換など。
 復元:一例としてC58 秩父鉄道の「パレオエクスプレス」復元は1988年
    現在、当センターで検査中 ここで検査作業を行うのはボイラと動輪以外の部分
       ボイラーは取り外して大阪のサッパボイラへ委託
       動輪は住友金属へ委託
    真岡鐵道のC11とC12、D51-498(SLみなかみ号)、C57-180(SLばんえつ物語号)、C61-20の復元も担当

当センターが担当する車両は約3,000両。年間約1,000両の検査を行う。
新幹線は扱わない。担当は仙台。

工場敷地は15万平方メートルだが、同敷地内にJR貨物の大宮車両所もある。
かつては同じ国鉄だったが、今は完全に別会社。

見学コース
輪軸検修:車輪と軸の抜き差しはプレス機による
     400トンプレスを使用 はめる時は100トンの圧をかける
     抜き差しは圧力のみによる 車輪の穴は軸径より0.2mm小さい
     蒸気機関車の場合は焼きハメ
     車輪は1枚300kg前後 単価は10 – 12万円 住友金属製
     軸輪一組で約1トン
     ちなみに電車の1両あたり総重量は30 – 50トン
         蒸気機関車は70 – 80トン

台車検修:電車で動力が付く車両には4つのモーターが装備される
     車両から台車を外した後には、仮台車を装着
     仮台車には動力がありジャッキもついて、リモコンで操作

車体修繕:ちょうど185系、E231系などの作業中
     3月の震災の際には、車両と車両の間に吊ってある鉄製の足場が激しくゆれ、それが作業中の車両にぶつかって損傷を与えたとのこと。
     足場などに使っていた鉄骨のなかには折れたものもあったそう。

車両入場:ちょうど、クハ210-3012の台車取り外し作業中
     4機のジャッキで車体を持ち上げ、台車を抜く
     台車は人の力だけで軽く滑るように動く
     台車を抜いた後、仮台車を装着 こちらはリモコンで動力を作動させて動かす

出場検査:211系の検査中

車体塗装:洗車機のような形状の装置を使い、1色ずつ塗る
     塗装→乾燥→塗装→乾燥→…と繰り返す。乾燥は60度の熱風による。
     107系が作業中
     ちなみに107系は国鉄大宮工場としての最後の新造車両

車体修繕:日光線用の107系、特急「北斗星」の電源車カニ24-505、C58が作業中
     寝台特急用電源車は発電機2機とそのための燃料、車内使用用の水
     などを搭載するので車両としては最重量級
     C58は復元のための材料費だけで3億円

車両センター内資料室:職員が手作業手弁当で展示品をつくった

以上、約1時間15分ほどの見学コース。今日は集合時間が13時30分、解散は15時。

上の写真は当センター前に静態保存されている準鉄道記念物のD51187。
これは鉄道省大宮工場で製造したD51の最初の車両。1938年4月12日着工、同年9月8日完成。
この年、大宮工場で製造されたD51は8両。最終的に大宮では30両のD51が製造された。
1971年10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187の配置区所および使用線区
東京鉄道局田端機関区 山手線および常磐線
大阪鉄道管理局姫路機関区 東海道、山陽本線
米子鉄道局浜田機関区 山陰本線
総走行距離 1,866,822km

池袋演芸場にて

2011年11月24日 | Weblog
昨日は木工の後、一旦帰宅して着替えてから銀座に買い物に出かけた。その後、映画でも観ようと思い、渋谷に出たのだが、生憎、中途半端な時間だったので、池袋に行き、燕路の独演会を聴いた。

よく落語会で噺家がマクラのなかで池袋演芸場が空いているというようなことを口にする。どんなところなのだろうと以前から気にはなっていたのだが、入るのは昨日が初めてだった。口銭を払って演芸場のある地下へ下りていくと、なんとなく人が充満しているような雰囲気が伝わってきた。会場入り口から中を覗くと、開演10分前でほぼ満席だった。モギリを経てすぐのところ、最前列の端の席が空いていたので、そこに座る。ホール落語とはちがって、落語を口演するのに良いように作られた演芸場は雰囲気もそれらしい。舞台装置がいらないので、どこでもできるというのが落語という芸のひとつの特徴ではあるのだが、話芸故に語り手の微妙な表現も感じられるような物理的空間というものは、やはり必要だと思う。

2番目の口演は女性の噺家。どこかで見覚えがあると思ったら、ドキュメンタリー映画「小三治」のなかの鈴本のシーンで比較的長い時間露出していた人だ。最初、その映画を神保町の映画館で観たときには、鈴本の人かと思っていた。その後、少し落語を聴く頻度が上がって、寄席の楽屋であれこれと働いているのは前座修行中の人たちだということを知った。こみちは今は二つ目で、昨日のマクラによれば噺家になって8年半だそうだ。あの映画が撮影されたのはいつの事だか知らないが、公開されたのは2009年のことで、私が観たのは2月26日木曜日の12時からの回だった。落語協会のサイトによれば、こみちが二つ目に昇進したのは2006年11月なので、あの撮影のときには既に二つ目だったのかもしれない。

こみちのネタは「鷺とり」。私がこの噺を最初に聴いたのは枝雀のDVD「枝雀十八番」に収録されている1983年4月17日放送のMBS「笑いころげてたっぷり枝雀」のものだった。滑稽噺の典型のようなものなのだが、それでも細部、殊に人の心情に関わる部分は丁寧に語らなければ噺の世界は膨らまないのではないだろうか。この噺で言えば、主人公が五重塔の上にいる場面だ。高い場所に突然移動したときの動揺をきちんと表現しなければ、このすぐ後にサゲが来るのだから、噺全体の印象とか噺そのものの存在感が全く違ったものになってしまう。それまでの噺は主人公が隠居に雀の取り方を語っていたりする場面であり、鷺を取ろうという場面、つまり足が地についている世界だ。五重塔の上というのは、鳶職でもないかぎり、非日常の世界だ。世界が違うのだから、当然に語りも変わらないといけない。この噺では、非日常のままサゲになるので、音楽で言うなら最終楽章だ。交響曲が原則として四部構成になっているのに通じるところがある、と考えれば、五重塔の上の場面はやはり一工夫も二工夫も必要なのである。

と、ここで文句を並べても仕方ない。講談を聴く機会というのは滅多にないのだが、落語のネタのなかに取り込まれているものもあるので、馴染みが全くないというのでもない。かつてとても流行ったのだそうだが、私は数少ない講談を聴いた経験に基づけば、好きだ。本に節をつけて読むという、これもシンプルな芸なのだが、その調子とか声といったものが人の心を刺激するということなのだろうか。聴いていると、思わずその世界に引き込まれてしまうのである。昨日の琴調の話によると、本は自分で写本を作るのだそうだ。それ用の和紙を買い、毛筆で書き写すのだという。修業時代で経済的に余裕が無いなかで、和紙だの毛筆だのという金のかかる道具類が必要なのである。おそらく、金が無いからといって、そうした道具類への出費をケチるようでは一人前にはなれないのだろう。どのような芸でも、芸というのはそういうものだと思う。つまり、覚悟を決めなければ、物事を習得することはできないということだ。

初めて訪れた池袋演芸場の印象はとても良かった。次は寄席のほうを聴いてみようかと思っている。

昨日の演目
古今亭半輔「寄合酒」
柳亭こみち「鷺とり」
柳亭燕路「猿後家」
宝井琴調「『忠臣蔵』より 赤垣源蔵 徳利の別れ」
(中入り)
柳亭燕路 この人に聞く 宝井琴調
マグナム小林 バイオリン漫談
柳亭燕路「汐留のしじみ売り」

開演:18時00分
終演:20時30分
会場:池袋演芸場

寄合所帯

2011年11月23日 | Weblog
端材を集めて制作していた箱が完成した。底板はシナベニヤで、側面は杉、蓋はソフトマホガニーとかベイマツとかを貼り合わせて一枚の板にしてある。仕上げにはドイツのメーカー製のオイルを塗った。完成時点では何事も無いかのように、殊に蓋の貼り合わせなどは美しいのだが、いくつもの種類の木材を継いで使っているので、時間の経過と共に収縮率の差などによって、目違いや歪みがでてくることになるのだろう。これは端材を集めたということで、少し極端な動きになるかもしれないが、家具職人が作った一般的な家具でも、樹脂でコーティングするというような木の動きを強制的に押さえ込む処理をしない限り、程度の差こそあれ同じように目違いや歪みが後から出てくる。だから、まともな家具店で無垢材を使った家具を買えば、当然の如くに、その後何年間でも素材の動きに対応した調整を施してくれる。木で作ったもの、特に種類の異なるものを合わせて作ったものは、まるで人間の社会のようだ。出来上がった当初はきれいにまとまっている。この写真の箱のようだ。それが時間の経過とともに、それぞれの素材がそれぞれの性質に応じた動きを見せ、改めて調整が必要になる。酷い場合には、壊れてしまうのである。さて、この箱が来年の今頃、再来年の今頃、10年後の今頃、どうなっているのか楽しみでもある。

ちなみに、今日は勤労感謝の日で、世間一般は休日なのだが、「職人に休みは無い」のだそうで、木工教室は通常通りだった。

リカバリーショット

2011年11月22日 | Weblog
ゴルフというものは、これまでの生涯で1度だけしか経験がない。英国に留学していた時に、友人に誘われて、友人の道具を借りて、友人にいろいろ教えてもらいながら1ランドを果たした。楽しくはあったが、凝るほどの魅力は感じなかった。もともとスポーツには関心が薄いので、特別にゴルフがどうこうというわけではない。ゴルフ用語で「リカバリーショット」というものがある。これはミスを挽回する一打という意味らしい。

今日も陶芸で壷を挽いた。これまでは、壷ひとつと碗をふたつみっつ、という組み合わせが続いたが、今日は壷をふたつ挽いた。一つ目は小振りということもあって、無事に挽き終えたのだが、二つ目は大き目にしたところ、途中で縒れてしまいそうになった。今までなら、そのまま崩れてしまっていたのだが、今日は見事に立ち直らせることができた。もちろん、縒れそうになったりせずに淡々と挽くことができればそれに越したことはないのだが、技量がまだまだ低いのでなかなか上手くはいかないのである。しかし、これまでなら崩れてしまったような事態に直面したときに、落ち着いて対応して回復させることができたということが嬉しい。こういうささやかな嬉しさを重ねることも貴重な経験だと思う。

以前どこかで、病気というものの本質はエラーからのリカバリー能力の低下だということを聞いた記憶がある。人体は60兆とか70兆とかの細胞から成り立っているのだそうだが、一部の細胞を除くと、これらが時々刻々と生成を繰り返している。その際、DNAが転写されることである細胞が新たな細胞を生み出していくのだそうだが、なんといっても莫大な数の細胞でありDNAであるから、時として転写にエラーが発生することもあるらしい。これがエラーと認識されて修復が行われれば問題ないのだが、エラーが増幅すると、あるところでカタストロフィックな事態に陥るのだという。つまり病気になるのである。

物事に臨んで首尾よく対処するに越した事はない。しかし、我々が生活している世界というのは不確実性の上にあるのだから、予期せぬ事態は程度や頻度の差こそあれ必ず発生する。自分の力量が試されるのはそのときだろう。意図せざる事態をどのように収めるか。逆境をどう克服するのか。生きていくことの適性のようなものがそういう場面で試され、そうした課題を乗り越え続けることが生きるということなのではないだろうか。もちろん、それは辛いこともあるし、乗り越えたとしても疲弊してしまうこともあるだろう。しかし、どう乗り越えようか、と考える意欲や工夫があるということが生命力の原動力でもあるだろう。逆境のなかで、そうした意欲が起こらないとすれば、ゲームから下りるよりほかにどうしょうもない。

独断歓迎

2011年11月20日 | Weblog
子供と西洋美術館で開催中のゴヤ展を観た後、亀屋一睡亭で鰻重をいただいた。この店は鈴本のサイトに紹介されていて、他に天ぷらという選択肢もあったのだが、子供が鰻がいいというので亀屋のほうにしたのである。鰻はそう頻繁に食べるわけではないのだが、ここの鰻重(竹)は旨い。旨いという経験があるから、今こうして振り返ってみて思うのかもしれないが、器の漆器の佇まいが尋常ではなかった。テーブルに置かれた瞬間、これは旨いに違いない、と思わせる何かがあった。器の蓋を開けた瞬間、おっ、と思わせるものが感じられた。口に運んでみて、そうした印象が確信に変わるのである。

店を出ると、子供も「おとうさん、今の鰻すごくおいしかったね」と言っていた。月に一度くらいしか会わないので、会う時くらいは旨いものを食わせたいという思いがある。人と人との関係というのは、結局のところ、どれほど根源的な欲望を共有する経験を重ねるかによって、その深さが決まるのではないだろうか。親子あるいは家族の場合なら、基本は食ではないかと思うのである。いっしょに旨いものを食う、という経験を重ねることが良好な関係の基本中の基本だろう。

食事の後、江戸東京博物館で開催中のヴェネツィア展を観て少し腹がこなれたところで、神田へ回り、竹むらを訪れたら休みだった。仕方がないので、都営新宿線に乗って新宿三丁目に出て、追分だんごへ行ってみると待ち行列ができていたので、和風から洋風に切り替えて、ボウルズカフェを訪ねた。こちらも満席だったが、ちょうど客が一組勘定に立ったところだったので、そのまま少し待って、ここで一服した。ふたりとも「紅玉りんごとバナナのスクエアケーキ バニラアイス乗せ」を頼み、飲み物は子供がアイスティー、私はリッチブレンドを注文した。街中にコーヒーを出す店は多いけれど、コーヒーらしいコーヒーを出す店は数えるほどしかない。この店を切り盛りしているのは若い人たちだが、ここのコーヒーはちゃんとしたコーヒーだ。よくチェーン店のカフェで巨大な紙コップになみなみと注がれたコーヒー風の得体の知れないものを飲んでいる人があるが、その感覚は私には理解不能だ。

ところで、ゴヤ展だが、ポスターやチケットに使われているのは「着衣のマハ」だ。これ以上はないくらいに有名な作品をそういうところに使っている場合、過去の経験からすると、実際に展覧会を観たときに、専門家にとってはともかくとして、私のような一般大衆の眼には一点勝負に見えることが多い。今回もその経験則が活きる結果となった。西洋美術館では2002年にプラド美術館展が開催されているのだが、油彩のほうにその時に来日した作品で、今回も展示の中核を成すものが2点ある。「マハ」をどう観るかということ次第ではあるのだが、私は前回のプラド美術館展のほうが楽しいものに感じられた。

ヴェネツィア展のほうは、ポスターやチラシは2種類あり、片方がカルパッチョの「サン・マルコのライオン」、もう一方がやはりカルパッチョの「二人の貴婦人」だが、展示は絵画だけでなく、ヴェネツィアの歴史を象徴するものがまとめられている。カルパッチョやベリーニ(兄弟)の作品を日本で観る機会というのは貴重なので、そういう意味では一見の価値がある展覧会だ。

ところで、タイトルの「独断歓迎」だが、鈴本のサイトの「食処・呑処」のページに「このコーナーは、席亭の独断により皆様にお勧めするお店です。」と書かれていることに由来している。

雨に濡れてまで

2011年11月19日 | Weblog
激しい雨のなか、姜尚中氏の講演を聴きに東洋文庫へ出かけてきた。姜氏の今日のお話にはレジメがなかった。氏も冒頭でおっしゃっていたように、「東洋学」という言葉についての氏の感想を述べられたもので、特に何事かを積極的に語る講演ではない。そういうものに対し、書いたものを無造作に残さないというのは、学者としては当然の態度だ。生真面目な人なのだということが、その一点だけでもよくわかった。

アカデミズムというのは、それ自体がひとつの産業だと思う。人の社会というのは複雑極まりないものなので、どのようなことであれ、それなりのフォーマットでまとめれば、誰かしかが価値を認めるものなのだろう。それで大学とか研究機関に居場所を探し出し、そこで生活の糧を得ることになる。一応、学者という肩書きとか、大学というようなものは社会においては権威なので、その権威を活用してメディアに「文化人」とか「識者」として露出してみたり、出版物を出してみたりすることができる場合もある。つまり、アカデミズムの生産物は権威という幻想だ。これが他の産業の生産物に付加されて、その付加されたほうの生産物の価値を底上げするのに使われることになる。例えばメディアが広告媒体としての情報を加工する際に使うパーツとなったり、政策や制度の正当性を担保するための装飾に使われるのである。権威が具象化したものなので、学者やその言説はその内容にそれほど関係なく奉られることになる。宗教とよく似ている。学者や僧侶になるには、それ相応の才能と訓練が必要ではあるが、明確なコストは要していない。勿論、テクノロジー系の学問となると実験が必要になるので、巨額の設備投資が求められることもあるが、学者が個人としてそうしたものを負担することはまずないので、総じて会計的にはたいへん粗利率の高い産業と言える。

それで、今日の講演なのだが、果たしてずぶ濡れになりながら聴きに来るほどのものだったのかどうか、いまひとつ確信が持てない。聴講料は無料なので、文句は言えないのだが、無料ならなんでもあり、というもの素直に受け入れ難いことではある。ただ、物事を考える際の参考にはなった。

恒例

2011年11月18日 | Weblog
例年、11月というと体調を崩す。今年も昨日の午後から調子が悪く、今日は起床するのが辛いほどになった。身体の節々が痛むので、熱も上がっているのだろう。昼過ぎまで床のなかで過ごし、少し楽になったような気になったので起き出して、なんとか夕方の出勤までには出歩くことができる程度にまでは体調が落ち着いた。毎年といってよいほどに決まった時期に体調が崩れるというのはどういうことなのだろうか。小津安二郎という人は、誕生日と命日がどちらも12月12日だ。さすがに生歿同日というのは珍しいと思うが、私もこの調子だとそれに近いことになるのかもしれない。

『群衆 機械のなかの難民』備忘録

2011年11月17日 | Weblog
今回の戦争は、なんとしても醜い事件だ。これによって日本は、家康時代のように完全な独立国になるだろうが、しかしそれが日本にとって最善のことなのか、わたしにはもはや保証できない。国民は依然として善良だが、上流階級は腐敗してきている。昔の礼節、昔の信義、昔の温情は、日に照らされた雪のように消えつつある。(ラフカディオ・ハーンがアメリカのシンシナティに暮らしていたころの友人、エルウッド・ヘンドリックへ宛てた手紙の一節)
24頁

新しい時代は、金銭が世の中の仕組みを動かすという事実を骨身で悟るということだ。
28頁

群衆は金銭によって動かされている。ロシアとの講和条約に反対したのも勝利の代償が少ないと感じたからである。二銭の電車賃値上げに反対したのも、家計のためである。
77頁

教科書疑獄事件は、1903年(明治36)4月に小学校令を改正し、教科書を国定化することに繋がる。それだけ教育の画一化が進んだわけで、啄木が「自己流の教授法を試み」たのは、この流れに反したのである。
79頁

電車賃値上げについて三社が願書を出した翌々日の3月9日、「読売新聞」は、これに反対して電車焼き打ちの噂が立っていることを報せているが、その記事は次のように書き出されている。

三電車の五銭均一に値上げの請願を出したるに就いて市民の激昂は非常にて殊にこの値上げを運動するには当局者中に少なからざる収賄等のある由なれば…

値上げ運動の背後に汚職問題があることを示唆している。
 人々が運賃値上げに怒ったのは、単純に三銭が五銭に上がることだけではなかった。東京市会では、1895年(明治28)に不正鉄管事件、1900年に市参事会収賄事件が起きている。不正鉄管事件とは、東京市に供給していた水道管を巡る収賄事件であり、市参事会収賄事件は、汚物清掃請負人指定、量水器購入、水道用鉛管納入を巡って起きた事件で、いずれも急速に発展して行く東京の基盤整備にからむものであった。そして、これらの汚職事件は、電車を市営にするか、民営にするかという問題と結びついていた。なにより電車の利権がもっとも大きかったからである。この利権を巡って、三たび汚職事件の当事者たちが暗躍していたのである。
 このことは、その後の経過を眺めると明白である。値上げ反対の世論の高まりにより、三社は願書を一旦取り下げるが、5月26日に突然、三社は合併する。そして合併が認可された8月1日、内務大臣は運賃を四銭均一にすることを認めた。合併認可も、運賃を一銭値上げすることも秘密裡に行われた。
79-80頁

 さらに電車問題のその後を追うと、1911年(明治44)に市は合併した三社の経営と財産を買収する。買収費は実情の値の二倍に相当したといわれる。市有化にあたって、会社は利益を上級社員には平均390円を払ったが、運転手や車掌には46円しか支払わなかった。重役に支払われた額は平均4万円。利は上に厚く下には薄かったのである。漱石の坊ちゃんがなった、月給25円の技手も、むろん上級社員とはいえない。
80-81頁

天涯があきらかにしている下宿屋と貧民窟の分布は、日比谷焼き打ち事件で焼き払われた交番の分布、電車賃値上げ反対運動で止められた電車の位置とほぼ一致する。荒れた群衆が住む場所は、天涯が述べる下宿屋と貧民窟であった。(石川天涯『東京学』)
109頁

 電車の拡張工事は、交通が便利になったということにとどまらない。電車が通れば、人は動く。たとえば、山の手の呉服商は本所深川に電車が走りはじめたため、客は「五銭を投ずれば自由に運んでくれる電車に乗って、三越で新調したのよといつた調子に三越、白木屋、松屋などの大商店に吸収され」(「中外商業新聞」)ることになる。
125頁

 米価を操作していた商社がねらい打ちにあったから、財閥や貴族は怖れさえ抱いた。事件後、三菱の岩崎は東京市に百万円を無条件に寄付し、大倉財閥も同額を葬祭場建設のために東京市に寄せた。山下汽船の山下亀三郎も百万円を市に提出し、小学校教員を集めた文化村を代々木原に建設する案を発表する。そして奇妙なブームがはじまる。
 鍋島公爵家では1920年1月5日、麹町区の宅地の一部6千坪を「市民の住宅難を救う」ために開放すると発表。ついで21年1月、岩崎家の岩崎久弥は深川区伊勢崎町の4万坪の大庭園を市民の遊園地、また道路のために無料開放すると発表。さらに巣鴨の別邸、柳沢家の下屋敷であった六義園を含む12万坪のうち、5万坪余を開放して文化村を建設するとした。大和郷住宅地と呼ばれ、翌22年から工事が開始されている。上駒込では藤堂子爵家が2万坪の住宅地を建設。土方久敬伯爵も3千坪を住宅地として開放。近衛文麿は米騒動の前年すでに、邸宅約2万坪を住宅地に開放していた。後に目白文化村と呼ばれるように、美術家や作家の多くが住むことになる。
 他に池田家の下大崎町、時計王服部の大森八景園、柳原家の麻布桜田町、酒井家の牛込矢来町、渡辺治右衛門の小石川富士見町が土地開放され、1922年(大正11)の話題となった。
 このブームにも裏がある。旧大名屋敷を引き継いだ華族富豪の土地は、市内でおよそ二十分の一を占めていた。これら別邸、庭園は税法上は田畑山林とされ、税の対象とならなかったからである。ために広大な庭園はときに人々の怨嗟の的となった。
206-207頁

 富豪たちの土地開放ブームは米騒動が生んだ「民衆本位」の掛け声に便乗したものだが、不況により土地を売却しなければならなかった内実もあった。
 成り金時代はバブル景気であった。投機とドンブリ勘定がまかり通った。成り金時代が終わると疑獄事件が次々と明るみに出た。
 中国で没収した阿片を払い下げ、その利益を拓殖局長官と関東庁民政局長とが着服していた阿片事件。造船成り金内田信也から満鉄が8,500トンの船を通常の値よりはるかに高く買い、内田は原に贈賄したと騒ぎになった。
 東京市でも、道路の砂利の利権にからむ贈収賄事件、東京瓦斯の重役が値上げ案を通過させるために市会議員に2万円をバラまいた事件などが浮上した。事件に連座して起訴された者は67名。取り調べを受けた市会議員は17名に上った。成り金時代、東京で土木工事にどれほど投資されたかを表す疑獄事件である。
225-226頁

 村は物理的にも精神的にも一つの共同体を形づくっている。農業が大地を生活の糧としているためである。家々の耕地の広さはマチマチである。だが、作物の育つスピードは変わらない。動植物を工業製品として生産できない限りは、たとえ機械化が進歩しようとも、収穫までは自然のリズムと一致させなければ農業は成立しない。
 水利一つを取り上げても、村は必然的に共同性を基盤とする。このことは一定の人口と収穫とのバランスが保たれている限り貧しさとは結びつかない。一定の人口と収穫がある限りというのは、それこそ村が共同体であるということと同意義である。そのバランスを保つための制度も当然内在する。それが村を安定させ、存続させてきたのである。
 むしろ貧しさは、「光るトタン屋根とナマコ板の塀とゴミの流れ寄つている川と」で作られた街にある。当然ながら、そこには村が内包していた、安定した共同性はない。そのように安定されていたのでは、工業も商業も成り立たない。求められるのは上昇であり、膨張である。
304-305頁

 すでに多くの人にとって「あの世の平和」が見えなくなった、自身に結ぶ血縁も、死者たちも見えず、自分が死ねばすべてがそれきりであるということである。この心理が生まれたのは都市生活者が多くなったためである。彼らは新聞記事の老人のように位牌を背に負って故郷を出たわけではなかった。いつの日にか、故郷へ帰ろうとした者も、東京や大阪など大都市での生活が長くなれば、やがて定住する。墓もまた住まいの近くに求めた。
 いま一つの理由は産業の論理が社会の端々まで行きわたったことである。人間もそのなかでは機械のひとつの歯車である。老人や病者が労働力として役に立たぬ者と見なされれば、さらに死はそれっきりのことと考えられる。死者は意味を失う。位牌を背負った老人は二重の意味で時代から取り残された「珍しい事実」だったのである。
312-313頁

 (1930年)4月はじめ、東京板橋の岩の坂下、木賃宿や長屋が建ちならぶスラムのなかで41人の貰い子殺しが発覚する。岩の坂下に住む念仏行者の妻小川キクは、1923年(大正12)ごろから、富豪令嬢の不義の子、八王子や桐生など生糸工場の女工が生んだ私生児を養育費付きで貰い受けながらも、自分たちの生活と自分の子の養育費に追われ、次々と嬰児を栄養不良、過失によって殺していた。死児を医大の解剖用に、育てた子も乞食の手先や娼婦として売り飛ばしていた。
 これで事件は終わらなかった。キクの自供から岩の坂下には、同じように貰い子を殺していた者が数名いることが判明する。5月末には新宿駅に嬰児の腐乱死体入りの石油缶を預けた女が、養育費欲しさに子を貰い受けたものの、7人を殺していたことを自供する。さらに6月末、託児院で16人の嬰児が殺されていたこともわかった。
315-316頁

 貰い子殺し事件があきらかになった1930年(昭和5)の夏、旅費もなく徒歩で東京から故郷へ戻る失業者の群れで、東海道の街道は溢れた。
 (中略)
 東海道ばかりでなく、上野駅では「帰郷奨励金」を手にした失業者と家族が、列車で故郷に帰る姿が眼についた。政府も道路改修工事などによる失業対策を行ったが、実数は百万(政府発表では1930年の失業者は約32万)といわれた失業者を救うこともできず、蔵相井上準之助は「不景気のもとで失業者の出るのは当然」といい、内相安達謙蔵は「失業手当などやると、遊民惰民を生ずるから、さういふ弊害を極力防がうと考へて居る」とまでいい切った。(『改造』1930年5月号)
 政府は失業者の救済もできず、都市の治安維持の立場から「ともかくも故郷へ」と呼びかけた。要するに政府は双手をあげて失業者を放り棄てた。このときほど「故郷」とか「血縁」といった言葉が飛びかった時期はない。
320-321頁

 1941年ごろより技術、科学への関心が高まった。しかし政府指導者層の科学的知識がどれほどのものだったか。軍医であった長尾五一は筆致を抑えながら記す。

 「東條首相が、昭和18年1月議会を召集した時病気になり、開会が数日遅れたことがあった。この時の主治医は軍医学校内科の主任大鈴中佐であった。熱の原因が不明で今日の如く抗生物質のない時なので、同中佐は血液の検査がしたかったがこれは拒絶された。即ち大小便や痰のような排泄物は勝手に検査してもよいが、血の一滴たりとも採らせぬというのであった。」

 東条は信念で血液検査をこばんだのではない。単純に注射が怖かったのである。ほかにも注射とX線検査を拒む将軍は少なくなかったという。東条の軍事裁判の折、検察側の証人となった田中隆吉少将は豪放を装いながら、「ノースアメリカン機の本土初空襲後強度の神経衰弱に罹った」という。長尾は戦後になって『戦争と栄養』を著した。彼の締めくくりの言葉。
 「また西式健康法を健兵対策に取り上ぐべしと主張した大本営幕僚がいた。こんな軍首脳の下で、兵員の健康管理をやるのであるから、軍医の活動には、学術能力以上に所謂心臓と足とがひつようであった。
 民主主義の世の中になってこれらの点がいかに改善されるか興味深く眺めている。」
380-381頁

 戦時下の統制体制が敗戦によって分断されたのではなく、じつは戦後へと結びついている、この視点から歴史を読み返す作業が近年進んでいる。『現代日本経済システムの源流』(岡崎哲二・奥野正實編)、『「日本株式会社」の昭和史 官僚支配の構造』(小林英夫・岡崎哲二・米倉誠一郎・NHK取材班著)、『一九四〇年体制 さらば「戦後経済」』(野口悠紀雄著)などが代表作であろう。これらの研究を参照して、戦時体制がどのように戦後の体制を作り上げたのかを整理してみる。
 昭和初期においては経済のあり方は現在とでは大きく異なっていた。現在は、企業の資金調達は銀行融資の割合が9割に及ぶほど高く、結果銀行が経営に対して強い発言権をもつ。ところが35年(昭和10)においては、国内企業が銀行融資に頼るものは三割にすぎず、資金は株式市場を通じて資本家が出資していた。それだけ資本家が大きな力をもっていた。
 企業の役員は、現在では内部昇進が当たり前である。企業での内部昇進による役員の割合は9割である。つまり企業の経営者と資本の所有者とは分離されている。しかし1935年当時は内部昇進者は3.6割にすぎず、多くの役員は資本家であった。
 企業に勤める人々の離職率は現在では日本企業が終身雇用に近い雇用制度を採っているからきわめて低い。1992年で1.5パーセントであり、アメリカの三分の一である。ところが1927年(昭和2)においては、日本人の離職率も4.3パーセントである。断っておくが、数値だけで1920年代の労働環境がアメリカと同じだというつもりはない。離職率が高かったのは経営者に労働者は使い棄てられる側面があった。
386-387頁

 1960年は日本の産業構造が大きく変化した年でもある。
 この年に企業に勤める労働者がはじめて労働人口の過半数を超え、農業や漁業に従事する者と商工自営業者は過半数を割り、十年後の1970年になると、企業労働者はおよそ六割に増える。もう少し細かくいえば農漁民は60年で30.6パーセント、70年には18.1パーセントにまで減少する。
 東京オリンピック開催が決定されたのは1959年。それからわずか5年5ヶ月の間に東京は高速道路が建設されるなど大規模な都市改造が行われた。東京とその周辺は、新たな「普請中」に入った。それだけに、とくに東北の農村から農民たちはオリンピックの建設ブームで出稼ぎする者が多く、1963年、64年の出稼ぎ者は28万人にのぼった。職安を経ずに就労する者も多く、実質的には1965年でも百万人に及ぶと推定されている。テレビなど電化製品が普及し、農民もまた消費熱に煽られる。農業の機械化も進行したが、購入資金を農閑期に外へ出て求めざるを得ない。
 出稼ぎばかりではない。東京の夜間人口は、1962年(昭和37)に一千万人に達した。敗戦時の東京の人口は348万8千人であった。それが17年の間に、他府県の人口を吸収して急激に人口を増した。農漁村からの若者たちは就職を、就学を求めて東京に集まった。企業も東京に本社機能を移転する動きが加速する。
 60年代、高度成長期はすべてが猛烈なスピードで回転し、都市は膨張を続けていく。その激しい動きのなかで人間もまたベルトコンベアの歯車の一つとなって回転を続ける。
 これは単純な比喩ではない。なぜなら高度成長を支えたのは、大量のモノを作り上げるテクノロジーである。
 ここで群衆についてもう一度考えよう。群衆は個々の人々を均一化させる。個々の人は平均化されることでは満足しないはずである。もし平均のままであれば、かえって平均以下だと思うはずである。1964年(昭和39)、総理府の調査によれば、自分の生活水準を「中流」と考える人は87パーセントに達している。なかでも「中の中」と考える人は50パーセントに至る。しかし中流意識とは、じつは誰もが共に上昇する気分なのだ。
430-432頁

 群衆社会のなかからはみだした群衆。奇妙なパラドックスだが、当然起きうる事態である。なぜなら群衆社会はすべての人間に同質化を強い、また同質であることを保持しようとするからである。同質である社会のメリットは効率の良さである。いや、効率の良さを求めるがゆえに同質社会が生まれるというべきか。いずれにせよ、群衆社会は効率の悪い、同質化ができない人々をふるい落として、より高い効率を目指す。
 いいかえれば中流意識は、中流という均一幻想からこぼれ落ちる人々を生み出すことで成立している。いいかえれば中流社会とは競争社会のスタートだったともいえる。とすれば、こぼれ落ちる人々山谷や釜ヶ崎の労働者だけであるはずはない。
433頁

 戦時下、兵士も銃後を守る家族も、総力戦のために消耗品として扱われた。戦後の公害による被害者たちは高度成長のなかで消耗品のごとくであったのか。そういいたいのではない。むしろ自ら心を磨滅させ、自らを消耗品として考えていたのは、企業のなかにいる者、官公庁に働く者、ひいては日本株式会社という巨大な組織のなかで安穏と、しかし身の保全に汲々としていた多くの日本人ではなかったか。
448頁

高学歴を目指し、平均であることから抜け出そうという意識こそ、じつは群衆社会の平均的な意識である。
453頁

 日本万国博は、戦後の経済政策を支えてきた官僚主導の護送船団方式、いいかえれば日本株式会社の大宴会であった。
 会場のなかで外国パビリオンより人目を惹いたのは日本の企業グループによる巨大パビリオンであった。民間パビリオンのうち建設予算が十億円を超えたのは16館である。電力館や鉄鋼館のように同一の業種の企業が連合して出展したパビリオンは5館、三井、三菱、住友、富士など資本が同系列の企業グループによるものは10館。中堅企業72社の共同出展によるパビリオンが1館である。企業による民間パビリオンは全体の敷地のおよそ半分を占めた。
 建築家、デザイナー、文化人、知識人が動員された。戦時下の統制経済によってはじまった日本株式会社は、この大阪万国博においてGNP世界第二の経済大国ぶりを誇示した。この万国博の成功以降、知識人は未来学者として繁栄する未来を語った。建築家、デザイナー、文化人は以降タレントとなった。なにより巨大なイベントによって地域を開発する手法は、東京オリンピックと大阪万国博の成功によって、地方行政の常套手段となった。
455-456頁

 テレビは、連合赤軍5人が長野県軽井沢の「浅間山荘」を占拠した後、千数百人の警官が山荘を囲み、10日間わたって繰り広げられた銃撃戦を中継し続けた。警察が強行突入した日、二人の警官が死亡、その8時間前後の現場中継は、NHK、民放各局の視聴率を累積すると98.2パーセントに達した。
 これほどテレビの即時性を示した事件はない。この事態は『虚無への供物』のなかの登場人物がすでに写真というメディアで予告していた。「自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ」。この人間がお化けになる事態をテレビはより大規模に実現した。
470頁

 学生運動の内ゲバ事件、連合赤軍事件はノリのような群衆社会の縮図に思える。対立する思想や感性を許容することができない。同質で均質な集団である。
477頁

 自己本位とは他者の自己本位もまた認めることである。それを超えるものは人格であり理想である。技術は人格を発揮するためにある。
486頁

松山巖『群衆 機械のなかの難民』中公文庫
2009年11月25日 初版発行


りんごは赤くないといけないのか

2011年11月16日 | Weblog
いつものように、生協の宅配でリンゴが届いた。秋も深まり、前回までの柿に代わって今回からはリンゴが私の食卓に乗ることになる。今回は青森の農園から複数の種類が混ざったものを注文した。包みに同梱されていた説明によると、リンゴは一般に、色付きを良くするために実の周りの葉を取り去ってしまうのだそうだ。しかし、このリンゴはそういうことをしないので色はぱっとしないが、葉が創り出した養分がふんだんに実に注ぎ込まれているので味には自信があるとのこと。確かに、蜜が溢れんばかりに封じ込められた美味しいリンゴだ。

時あたかもTPPの議論が活発だ。議論の中心は農業についてのことだろう。貿易が自由になったときに、国内で打撃を受けるとすれば、生産性が相対的に低い分野だ。世間一般の認識として、日本の農業は経営規模が小さくて生産性が低いというものではないだろうか。確かに割合とすれば、兼業農家が多いのだろうし、そうであれば経営規模に限界があるのは当然だ。しかし、実態は本当にそうなのだろうか。

作物の色艶や形が揃っているということは、本当に消費者が求めていることなのだろうか。色形が悪いと本当に売れないのだろうか。確かに、物事の表層しか見ない人は多い。それは自分が生きてきた50年近い経験のなかで感覚として納得できることだ。しかし、実際に自分で料理をするとか、単に果物の皮を剥いて食べてみる、という経験をしているならば、見た目と中身の相関関係というのはある程度は学習するものなのではないだろうか。相関関係のある作物もあるだろうし、無いものもあるだろう。外見に関係無いといいながらも、極端な場合はやはり無関係ではないかもしれない。いずれにしても、農家あるいは農協が効率よく出荷するべく導入した選別機のような設備投資を正当化するための方便として「消費者の要求」が作り上げられているということはないのだろうか。

TPPで農産物の貿易が自由化されたとき、日本の作物のほうが競争力を持つというようなものも、いくらでもあるような気がするのだが、どうだろうか。TPPが避けられないとなったとき、それでも反対を続けるのではなく、逆に海外市場に打って出ようという農家も、実はたくさんあるのではないだろうか。

こんなにおいしいリンゴはそうあるものではないと思う。人の食事というのは、畜生の餌とは違う。単に空腹を満たすだけでなく、食卓を囲む会話を伴っていたり、一人暮らしの場合でも、自分が料理をするときに食材を扱いながら、その背後にあるものについて様々に思い巡らすものである。それが人間の生活というものだろう。確かに価格は競争力の重要な要素だ。しかし、それだけで需要が決定するほど人間の生活というのは薄っぺらではないはずだ。生産性だの価格だのばかりを気にする奴は、そういう上っ面しか追えないのだから、勝手に騒がせておけばよいのである。日本ほどの歴史と文化を持つ国ならば、物事の価値を自分で考える層というのは決して薄くはないはずだ。とにかく、旨いものを作ればよいのである。尤も、それが一番難しいことなのだが。

できるかぎりのことはやってみる

2011年11月15日 | Weblog
徳利のようなものを挽こうとして、首がもげてしまった。それでも花器に使えるのではないかと思い、そのまま素焼きをして、飴釉をかけてみた。それが今日、焼き上がってきた。

今日は素焼きが上がっていた碗が2つと壷ひとつに釉薬をかけた。釉薬を掛ける前に、紙ヤスリをかけて下地、特に高台の底にざらつきが残らないようにする。その作業中、碗のひとつの高台が外れてしまった。断面を見るとワイヤーの跡がある。挽き上がったものを取り外そうとして上手くいかず、重ねてワイヤーを引いた跡だ。見た目はなんともなくとも、焼くとこうして傷がばれる。ひとつひとつの作業にごまかしは禁物だ。ただ、高台がなくとも器として使えないことはないので、底を少し念入りにヤスリがけをして、底には釉薬がかからないように処置をして、伊羅保を掛けて本焼きに出した。どんなふうに焼き上がるのか楽しみだ。

当選

2011年11月14日 | Weblog
「抽選の結果、当選されました」という文言のあるはがきを2通手にした。ひとつが東洋文庫の東洋学講座入場証で姜尚中氏が講師となっている「東洋学の現在」という講演のもの、もうひとつがJR東日本大宮総合車両センター見学会の参加証だ。9月の下旬に美術展に出品した壷が「入選」したという通知を受け取ったとき、展覧会が始まってみれば出品者が全員「入選」だったということが判明した。今回の2通の「当選」通知も、果たしてどれほどの倍率だったのか、と思うと笑ってしまう。

当選といえば、子供が生徒会長になった。やはり対立候補がなかったのだそうだ。生徒会長のようなものは、勉強ができるタイプの子供はあまりやりたがらないものだろう。私が学生の頃もそうだったし、それは今も同じらしい。受験があるのだから、生徒会の活動などやっている場合ではないというのが、受験生の立場だろう。私もそうだったが、それでよかったのかと後になって疑問を抱いている。私の子供が通う学校は下は幼稚園から上は大学までつながっているので、多くの子供たちにとって受験は関係ないようだが、それでも生徒会に興味を持つようなのは少ないのだろう。一応、信任を問う投票はあるらしいが、そこで落選する例は稀だという。ただ、副会長のほうは複数の立候補があって選挙になるそうだ。選挙となると当選の鍵となるのは候補者の外見だそうだ。知名度があってルックスが良い、というのが有利なのはどの選挙でも同じらしい。

子供がそういうものに関わることはよいことだと考えている。人の集まるところに積極的に関わり、人と人との関係について様々な経験を積む事が、その先の人生に必ず役に立つと思う。人として、社会を形成して生活を送る生き物として大事なのは、他者との関わりだろう。それは時と場合と相手によって無数の状況が生起しうる。日々の生活は、ともすれば狭い世界で小さくまとまりがちになるものだが、それでは生きているのがもったいない。子供とは今週末に会うので話はそのときにすることにして、とりあえずメールの返信で、慣習に囚われることなく、よく考えた上で何か新しいことをやってみたら面白いのではないか、と書き送っておいた。それは自分に対しても言えることで、生きている以上、何か新しいことを始めてみないといけない。