熊本熊的日常

日常生活についての雑記

毎度

2015年08月23日 | Weblog

どのような芸事にも技巧というものがあるのだろうが、それと鑑賞者の満足との間には必ずしも相関がないような気がする。相関があるとすれば、技巧は必ずしも正しく評価されないと言うべきかもしれない。人は経験を超えて発想することはできない。芸のほうを齧ったことも掠ったことも無い人に、その芸を評価することは果たして可能なのか?市井の人々の日常会話に所謂「芸」の類を評する話題はいくらでもでてくるだろう。それこそ芸能から政治、自分の奉公先の番頭や旦那の経営手腕、ありとあらゆる「芸」について、その芸に覚えのある人もそうでない人も一人前の批評をしてみせる。たいていの場合は非難批判であり、なかには小言以外の発想がないのではないかとさえ思える人もいる。最近読んだ小三治のエッセイにこんなのがあった。たいへん旨い酒があって、それをもう一度飲みたいと思い蔵元まで出かけたときの蔵元との会話が紹介されている。

「あれは、あの年だけ、ちょっと道楽に実験的に造ってみたもので、あの翌る年からは造っていません」
「どうしてでしょう。あんなうまい酒だったら誰だって大喜びでしょう」
「それが、なかなかそうでもないのです。あれは醸造用糖類、というのはぶどう糖、水あめなどですが、それらを一切使いませんでしたし、お米も半分以上摺り減らして、造る管理も特別に手をかけたものです。これを売るには、値段をいくらに付けたらいいか、見当もつかなくなります。洋酒は高くても皆さんお買いになるのですが、日本酒で万ということになったら買う方はいませんよ」
「いや、でも本当においしければ買うんじゃないでしょうか」
「とても、そうは考えられません。一般に市場に出ているものは、水あめやぶどう糖がダボダボ入っていて、それをまろやかだとかこくがあるとかおっしゃって召し上がっていらっしゃる。今の日本酒の需要をまかなっているのはその方がたです。その方がたが、わかってくださって高いお酒を呑んでくださるとはとても思えないのです」
(柳家小三治『落語家論』p.p.236-237 ちくま文庫) 

醸造用糖類がいけない、とは言わないが、「酒とは何か」ということについて経験に拠る基準が無いままに世評に踊らされて美味いの不味いのとほざく阿呆が多数派であるという現実があるということだろう。似たようなことは、生活の様々なところにあり、水増しや見栄が正当化されて正直な仕事をしている人たちが駆逐されてしまうというようなこともあると思う。一方で、真っ当な仕事、技巧というものがわかっていて、そういうものを尊重するという人たちも、少数派ではあるけれど確かな規模の需要を生み出しているのも事実だろう。自分は後者のほうでありたいと願うのだが、そうであるためには供給側の仕事と通じ合うような経験を持たなければならない。これは容易なことではないのである。 

柳家小三治 独演会
 柳亭こみち 「真田小僧」
 柳家小三治 「一眼国」
 柳家小三治 「青菜」
会場:たましんRISURU 

 


コテンパン

2015年08月15日 | Weblog

「戦後70年」ということで国内外でいろいろ催しがあるようだが、「70」という数字に特別な意味があるわけではないのだろう。そうした催しのひとつとして「アサヒグラフ」の復刻版が出たというので、買い求めてみた。「アサヒグラフ」がどのような刊行物なのか知らないのだが、書名から察するに写真誌のようなものなのだろう。昭和20年当時どのような頻度で発行されていたのか知らないが、1月3日、3月7日、3月21日、4月25日、6月25日、7月15日、8月25日、9月5日、10月15日、12月5日号が1冊にまとめられたものである。

今の時代を生きている者にとっては、昭和20年のことは過去の事実としての様々なデータや知識の断片の集積として認識されている。私自身はまだ生まれていないが、私の親は北関東の或る地方都市で米軍による空襲を経験しており、その当時の話はよく聞かされた。私が子供の頃は、毎年今時分は戦中戦後の昭和歌謡を特集したテレビ番組が必ずといっていいほどにあり、画面には軍服のようなステージ衣装で歌う歌手の姿があった。高校生のときの英語の先生のなかには戦時中に士官候補の軍人相手に英語を教えていたという人もいた。大学の敷地には軍事施設跡があって、ゼミの先輩はそこに探検に出かけて落盤事故に遭遇した。戦争の記憶は風化が進んではいたけれど、まだそこここに名残が香っていた。

この復刻版を見ると昭和20年という1年間の変化が想像もつかないほど大きなものであったことがわかる。1月の号には「大東亜戦局の焦点」と題して各戦線の状況が解説されているのだが、そこに付された地図では西は米国西海岸から東はインド、北は日本列島から南は豪州北辺までという広大な地域が俯瞰されている。地図は広大でも既に日本の制海権も制空権も失われていたことは今の時代を生きる者は当然に知っているのだが、当時の人々はどうだったのだろうか。3月の号には東京大空襲のことが書かれている。半地下式の住宅を紹介した記事があり、空襲が日常化することを当然のこととしている。わずか3ヶ月で「戦局」は広大な領域から日常の生活空間へと縮小する。4月の号の表紙を飾るのは沖縄へ向けて出撃するという特攻隊員が水盃を受けている写真だ。前月号では半地下住宅が紹介されていたがこの号では完全に地下に潜った防空壕住宅が紹介されている。6月の号も表紙を特攻隊員が飾っているが4月と違って少年のような隊員だ。7月には「本土決戦」の文字が踊り、戦局解説の記事に付された地図には日本列島と中国大陸の影だけになる。半年ほどで状況が激変しているといってよいだろう。そして8月の号には戦争終結の詔勅が全文掲載されている。この号には原爆の記事にも大きな紙面が割かれている。9月の号は進駐軍のことで埋まる。数ヶ月前には半地下や地下住宅が紹介されていたが、この号になると粗末ではあるが地上の当たり前の住宅に代わる。10月の号は巷の看板や標識が英語で表示されている姿が紹介されている。連合軍による占領が本格化しているのだろう。12月には大相撲秋場所が特集されている。同じ号にはどんぐりなどの木の実をどのようにして食べられるように加工するかという記事もある。平和にはなったものの食料不足はまだまだ深刻だったのだろう。時間の感じ方というのは人それぞれであろうし、同一人物の内部においてさえその時々で変化しているものだが、それにしてもこの一年間の変容には驚くばかりだ。

ところで、10月の号に藤田嗣治のインタビュー記事が掲載されている。当時59歳。昭和19年から疎開している神奈川県津久井郡小淵村藤野の家で取材を受けている。「終戦後、何をお考えになっているか、お聞かせ下さいませんか」という記者の問いに答えてこんなことを言っている。

「(略)僕は画家という技術家なんだ。であってみれば国が戦争をしている間は戦争画を描くのは当然のことで、平和になれば、また、そのような絵をかくことに、何の不思議があるものか。画家である以上は僕は何でも描けなくちゃならないと思っている。日本でなら北斎のような、フランスで言えばピカソのような人。風景であろうが、静物であろうが、女の裸体画も描けば戦争画も描けなくちゃならぬ。それも写生しなくては描けないなんていうのは駄目で、想像で描いてもぴたりと真実と交流している画が描けなくてはいけないと思っている。
 大体、日本人は小さすぎるよ。ひどく潔癖な画一的なものの考え方は益々人間を小さくしている。その癖、妙に事大主義者で、気軽に動こうとは決していない。すねたような、おさまっている人間を偉い者のように思う癖がある。だから頭の悪い人間は黙って深々と椅子にふんぞり返っていれば、結構、立派な人間のように思ってくれる、妙な国だね。そして他人を貶しておればよろしい。他人のすることに難癖をつけることは非常にうまいが、他人を賞賛して、その仕事を成長させるようなことは決してしない。人間は褒めることによって進歩することを知らんのだろうか。
 (略)
 美を愛する日本の国民性は断じて滅亡するものではない。いまでこそ戦いに疲れ果てた人々の心は荒み、美に対して殆ど無感覚になってしまっているようだが、近いうちにこれはきっと息を吹き返す。(略)人を殺戮する武器までも香高い美術品にまで作り上げてしまった国民なのだもの、これから生まれでる名人工匠の手になる作品はじめ、それに続く無数の人々の美術工芸は国を富ますための大きな役割をなすに違いない。
 (略)」
(『復刻アサヒグラフ昭和二十年 日本の一番長い年』「昭和二十年十月十五日号」14頁) 

 今を生きている人間も、当時を生きていた人間も、大元のところでは同じなのだと思った。


部分と全体

2015年08月02日 | Weblog

毎日暑い。我が家にはエアコンがないので毎日辛い。せめて昼間は避暑に出かけようと、ボルドー展を観てきた。正直なところあまり期待はしていなかったのだが、なかなか充実した展覧会だ。

やはりポスターやチラシに取り上げられているドラクロワの「ライオン狩り」が強烈な存在感を放っていた。猛獣と人間との格闘をモチーフにした絵画や彫刻は先史時代の洞窟壁画から今日に至るまで数多い。以前にこのブログでもロンドンのVAにあるインドの虎オルゴールのことを紹介したが、モチーフに取り上げられる猛獣は何事かを象徴していることが多いのではないだろうか。おそらく「ライオン狩り」のライオンや狩りをしている人は無意味にそこに描かれているのではない。

「ライオン狩り」の面白いところは元の画面の半分が失われることで元の画面とは正反対の内容に見えることである。この作品は、今在るものを見ると人間がライオンを狩っているというより、人間がライオンに狩られているような画だ。それは現存するものが当初存在したものの下半分だからだろう。上半分は20世紀初頭の火災で焼けてしまったそうだ。参考作品としてルドンによるオリジナルの模写が展示してある。その元の姿を見れば、なるほど「ライオン狩り」の画に見える。この作品は展示されている現存する部分だけでも175×360cmという大きなものだが、それほどの大作で人がライオンを狩るという姿がどのように見えるか、ということは考えてみる価値があるだろう。つまり、そこに「象徴」の問題があって、それはそれとしてあれこれ考えるのに楽しいネタになる。

象徴の件はともかくとして、全体として見れば「ライオン狩り」が、部分だけを取り出すと「ライオンに狩られる」に見えるということは注目すべきことだと思う。この絵に限らず、物事というのは部分と全体が相似形にはなっていないということを改めて識るべきだと思うのである。相似形どころか正反対の要素を組み合わせることで全体の意味が転換するということはよくあることだ。昨今、誰もが自分の見解を簡単に世の中に表明できるようになり、ともすればそれが世論を形成する可能性も見え隠れしている。しかし、そうした見解の多くは情緒的でそれこそ部分だけしか見えていないかのようなものに思われる。もちろん、部分を精査する眼も大事だろうし、全体を俯瞰する眼も社会の健康には不可欠だ。相互の関連を考える能力が知性であり教養なのだろうと思う。しかし、何の予備知識もなしに例えば現存する「ライオン狩り」を観たときに、元の姿やその描かれた場面の背景を想像できるほどの知性や教養が自分にあるかと問われると、なんとも情けない気分になる。