熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ありがとう 2023年 後編

2023年12月31日 | Weblog

今年参詣した神社仏閣など

  • 金剛山 金乗院 平間寺 川崎大師(神奈川県川崎市川崎区)
  • 神田神社(東京都千代田区外神田)
  • 市谷亀岡八幡宮(東京都新宿区市谷八幡町)
  • 聖神社(埼玉県秩父市黒谷字菅仁田)
  • 南命山 無量寿院 善光寺(東京都港区北青山)
  • 天台宗別格本山浮岳山 昌楽院 深大寺(東京都調布市深大寺元町)
  • 大雲山 金龍寺(東京都調布市西つつじヶ丘)
  • 王子神社(東京都北区王子本町)
  • 鑁阿寺(栃木県足利市家富町)
  • 足利織姫神社(栃木県足利市通)
  • 足利総鎮守 總社 八雲神社(栃木県足利市緑町)
  • 医王山 眞性寺(東京都豊島区巣鴨)
  • 萬頂山 高岩寺(東京都豊島区巣鴨)
  • 笠間稲荷神社(茨城県笠間市笠間)
  • 熊野那智大社・飛瀧神社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)
  • 那智山 青岸渡寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)
  • 熊野三所大神社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮)
  • 補陀洛山寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮)
  • 熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)
  • 熊野速玉大社(和歌山県新宮市上本町)
  • 神倉神社(和歌山県新宮市神倉)
  • 勝浦八幡神社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字勝浦)
  • 王子稲荷神社(東京都北区岸町)
  • 誠瀧山 妙圓寺(東京都港区白金台)
  • 松林山 大圓寺(東京都目黒区下目黒)
  • 威光山 法明寺 雑司ヶ谷鬼子母神本院(東京都豊島区雑司ヶ谷)
  • 雑司ヶ谷七福神
    福禄寿(松栄山仙行寺 東京都豊島区南池袋)
    布袋尊(中野ビル 東京都豊島区南池袋)
    弁財天(平等山観静院 東京都豊島区南池袋)
    大黒天(雑司ヶ谷鬼子母神 東京都豊島区雑司が谷)
    恵比寿神(大鳥神社 東京都豊島区雑司が谷)
    毘沙門天(御嶽山清立院 東京都豊島区南池袋)
    吉祥天(清土鬼子母神堂 東京都文京区目白台)
  • 穴八幡(東京都新宿区西早稲田)
  • 光松山 放生寺(東京都新宿区西早稲田)

 

今年訪れた美術展、美術館、博物館など

  1. 「第40回 日本伝統漆芸展」西武池袋本店
  2. 「江戸絵画の華 第一部 若冲と江戸絵画」出光美術館
  3. 東京国立博物館 東洋館
  4. 「特別展 毒」国立科学博物館
  5. 「国宝雪松図と吉祥づくし」三井記念美術館
  6. 埼玉県立自然の博物館
  7. 「没後190年 木米」サントリー美術館
  8. 「鈴木清 天幕の街」フジフイルム スクエア
  9. 「自画像としての風景 佐伯祐三」東京ステーションギャラリー
  10. 「仏具の世界 信仰の美のかたち」根津美術館
  11. 東京国立博物館
  12. 「レオポルド美術館 エゴン・シーレ ウィーンが生んだ若き天才」東京都美術館
  13. 「東北芸術工科大学 卒業・修了展 東京選抜展」東京都美術館
  14. 「FACE展 2023」SOMPO美術館
  15. 「特別展 東福寺」東京国立博物館
  16. 「江戸絵画の華 第二部 京都画壇と江戸琳派」出光美術館
  17. 「本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション」練馬区立美術館
  18. 「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密 史上初、ぜんぶ重要文化財」東京国立近代美術館
  19. 「アートを楽しむ、見る、感じる、学ぶ」アーティゾン美術館
  20. 「ブルターニュの光と風」SOMPO美術館
  21. 渋沢史料館
  22. 「口絵・挿絵でたどる演芸速記本」国立演芸場演芸資料展示室
  23. 「「前衛」写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」「千葉市美術館コレクション選」千葉市美術館
  24. 千葉市立郷土博物館
  25. 「コレクション展」千葉県立美術館
  26. 足利学校
  27. 物外軒
  28. 「国宝・燕子花図屏風 光琳の生きた時代 1658-1716」根津美術館
  29. 「吹きガラス 妙なるかたち、技の妙」サントリー美術館
  30. 「茶の湯の床飾り」出光美術館
  31. 「生誕120年 大沢昌助展」練馬区立美術館
  32. 北区飛鳥山博物館
  33. 「古代メキシコ マヤ、アステカ、テオティワカン」東京国立博物館
  34. 「ガウディとサグラダ・ファミリア展」東京国立近代美術館
  35. 「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」アーティゾン美術館
  36. 「琳派のやきもの 響き合う陶画の美 尾形乾山生誕360年」出光美術館
  37. 「甲斐荘楠音の全貌」東京ステーションギャラリー
  38. 「虫めづる日本の人々」サントリー美術館
  39. 「三井高利と越後屋 三井家創業期の事業と文化」三井記念美術館
  40. 「中川衛 美しき金工とデザイン」パナソニック汐留美術館
  41. 「植物と歩く」練馬区立美術館
  42. 「山下清展 百年目の大回顧」SOMPO美術館
  43. 「しりとり日本美術 日本の美・鑑賞入門」出光美術館
  44. 「聖像・仏像・彫像 柳宗悦が見た「彫刻」」日本民藝館
  45. 茨城県陶芸美術館
  46. 笠間日動美術館
  47. ISETAN ARTS&CRAFTS 伊勢丹新宿本店
  48. 「横尾忠則 寒山百得展」東京国立博物館
  49. 「第70回 日本伝統工芸展」日本橋三越本店
  50. 「京都南山城の仏像」東京国立博物館
  51. 「村田コレクション受贈記念 西洋工芸の美」日本民藝館
  52. 「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」東京ステーションギャラリー
  53. 「あの世の探検 地獄の十王勢ぞろい」静嘉堂@丸の内
  54. 「秋の優品展 白・黒・モノクローム」五島美術館
  55. 飯田哲夫個展 The Artcomplex Center of Tokyo
  56. 太地町立くじらの博物館
  57. 「特別展 やまと絵 受け継がれる王朝の美」東京国立博物館
  58. 豊島区立熊谷守一美術館
  59. 「江戸時代の美術 「軽み」の誕生」出光美術館
  60. 「恋し、こがれたインドの染織 世界にはばたいた布たち」大倉集古館
  61. 小石川植物園
  62. 「アメイジング・チャイナ」松岡美術館
  63. 国立科学博物館附属自然教育園
  64. 「開館40周年記念 装飾の庭 朝香宮邸のアール・デコと庭園芸術」東京都庭園美術館
  65. 「第4回 鉄道アートサロン写真展」 ギャラリー路草
  66. 「林妙子 作陶展」瑞玉ギャラリー
  67. 「北宋書画精華」根津美術館
  68. 「楊洲周延 明治を描き尽した浮世絵師」町田市立国際版画美術館
  69. 「遠藤周作展」町田市民文学館ことばらんど
  70. 「青磁」出光美術館
  71. 「激動の時代 幕末明治の絵師たち」サントリー美術館
  72. 「二つの頂 宋磁と清朝官窯」静嘉堂@丸の内
  73. 「生誕120年 古賀忠雄展 塑造(像)の楽しみ」練馬区立美術館
  74. 「みちのく いとしい仏たち」東京ステーションギャラリー
  75. 「日本画の棲み家」泉屋博古館東京
  76. 「偉人たちの邂逅 近現代の書と言葉」大倉集古館
  77. 「第10回菊池ビエンナーレ 現代陶芸の<今>」菊池寛実記念智美術館
  78. 「国宝雪松図と能面×能の意匠」三井記念美術館

 

今年聴講した講座、講演、各種見学、参加したワークショップなど(敬称略、陶芸関係は除く)

  • 青花の会 講座 尾久彰三 古道具坂田と私4 「励ましと思い出」
    工芸青花(東京都新宿区横寺町)
  • 青花の会 講座 多治見武昭 工芸と私66 「パリ・工芸・サカタ」
    一水寮悠庵(東京都新宿区横寺町)
  • 第131回 国立民族学博物館友の会 東京講演会
    「古代エジプト文明の新たな研究拠点 大エジプト博物館への日本の支援」
    末森薫(国立民族学博物館 准教授)
    JICA地球ひろば(東京都新宿区市谷本村町)
  • 青花の会 講座 土田眞紀 古道具坂田と私5 
    工芸青花(東京都新宿区横寺町)
  • 第132回 国立民族学博物館友の会 東京講演会
    「ペルーの民芸品制作と職人たちのいま」
    八木百合子(国立民族学博物館 准教授)
    モンベル御徒町店(東京都台東区上野)
  • 第133回 国立民族学博物館友の会 東京講演会
    「インド洋西海域の奴隷制と奴隷交易」
    鈴木英明(国立民族学博物館 准教授)
    モンベル御徒町店(東京都台東区上野)
  • 「みちのく 近世の民間仏」
    須藤弘敏(弘前大学名誉教授)
    日本民藝館(東京都目黒区駒場)
  • 第135回 国立民族学博物館友の会 東京講演会
    「神になる人びと 南インド・ケーララ州のテイヤム祭祀」
    竹村嘉晃(平安女学院大学 准教授)
    モンベル渋谷店(東京都渋谷区)
  • みんぱく公開講演会(日経ホール)
    依存するヒト
    松本俊彦(国立精神・神経医療研究センター製品保健研究所薬物依存研究部部長)
    「依存症と人類 人はなぜ依存症になるのか?」
    平野智佳子(国立民族学博物館人類基礎理論研究部助教)
    「文化危機と『酒狩り』 オーストラリア先住民の選択」
  • 青花の会 講座 茶話会 永田玄+オオヤミノル タイ・古陶・珈琲
    工芸青花(東京都新宿区横寺町)

 

今年訪れた飲食店(記載に値しないと思われたところは除外)

  • Il Pacioccone di Chianti(神奈川県川崎市川崎区)
  • ビストロ キフキフ(東京都港区高輪)
  • 総本家 小松庵 丸の内オアゾ店(東京都千代田区丸の内)
  • Caféテマエミソ(埼玉県秩父郡長瀞町長瀞)
  • サントリー美術館 カフェ加賀麩不室屋(東京都港区赤坂)
  • GELONE CUCINA ITALIANA 新宿KEIOダイニング(東京都新宿区西新宿)
  • 韻松亭(東京都台東区上野公園)
  • 珈琲 可否道(東京都千代田区平河町)
  • 優雅亭 盛山 千葉市美術館店(千葉県千葉市中央区中央)
  • 4season(栃木県足利市昌平町)
  • コロンバン 京王新宿店 新宿KEIOダイニング(東京都新宿区西新宿)
  • ザ・グラン 銀座 極 KIWAMI(東京都中央区銀座)
  • 京王プラザホテル 中国料理 南園(東京都新宿区西新宿)
  • 特別食堂 日本橋 東京會館(東京都中央区日本橋室町)
  • 蒔(東京都調布市仙川町)
  • アーティゾン美術館 ミュージアムカフェ(東京都中央区京橋)
  • 菓子工房 福(茨城県笠間市笠間)
  • 京都祇園 八坂圓堂 大丸東京店(東京都千代田区丸の内)
  • くじら家(和歌山県東牟婁郡太地町太地)
  • 山本屋本店 エスカ店(愛知県名古屋市中村区椿町)
  • すし兆(東京都港区白金台)
  • 西安料理 XI'AN 新宿西口店(東京都新宿区西新宿)
  • OSTERIA UCCELLO(東京都町田市原町田)

 

今年贈答品に利用した店

  • 茶 岡野園(埼玉県さいたま市見沼区東大宮)
  • 髙麗人蔘酒造株式会社(長野県上田市真田町本原)
  • 蜂蜜専門店 L’ABEILLE 新丸の内ビルディング店(東京都千代田区丸の内)
  • 山梨おいしい果物園(山梨県北杜市)
  • 銀座和光アネックス(東京都中央区銀座)
  • 木下鮮魚店(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町築地)
  • TORAYA TOKYO(東京都千代田区丸の内)
  • 茅乃舎東京駅店(東京都千代田区丸の内)

 

今年利用した宿泊施設

  • 太地温泉 花いろどりの宿 花游(和歌山県東牟婁郡太地町くじら浜公園)

 

いずれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に感謝申し上げます。


ありがとう 2023年 前編

2023年12月30日 | Weblog

今年読んだ本

  1. 山本義隆『近代日本一五〇年 科学技術総力戦体制の破綻』岩波新書
  2. 佐野貴司・矢部淳・齋藤めぐみ『日本の気候変動5000万年史 四季のある気候はいかにして誕生したのか』講談社ブルーバックス
  3. 坂田和實・尾久彰三・山口信博『日本民藝館はいこう』新潮社とんぼの本
  4. 中西進『新装版 万葉の時代と風土 万葉読本I』角川選書
  5. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち 万葉読本II』角川選書
  6. 中西進『新装版 万葉のことばと四季 万葉読本III』角川選書
  7. 岡倉天心 大久保喬樹 訳『新訳 茶の本』角川ソフィア文庫
  8. 九鬼周造『「いき」の構造 他二篇』岩波文庫
  9. 大久保喬樹『ひきだしの奥から』ふらんす堂
  10. 鈴木大拙『完全版 日本的霊性』角川ソフィア文庫
  11. 篠田謙一『人類の起源』中公新書
  12. 中井久夫『私の日本語雑記』岩波現代文庫
  13. エーリッヒ・ケストナー著 酒寄進一訳『終戦日記一九四五』岩波文庫
  14. 中井久夫『「昭和」を送る』みすず書房
  15. 真鍋昌弘 校注『閑吟集』岩波文庫
  16. 今井むつみ『ことばと思考』岩波新書
  17. 篠田謙一『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』中公新書
  18. キエラ 著 板倉勝正 訳『粘土に書かれた歴史 メソポタミア文明の話』岩波新書
  19. 中井久夫『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫
  20. 中井久夫『治療文化論 精神医学的再構築の試み』岩波現代文庫
  21. 真鍋昌弘 校注『閑吟集』岩波文庫
  22. ニコラス・エヴァンズ 大西正幸、長田俊樹、森若葉 訳『危機言語 言語の消滅でわれわれは何を失うのか』京都大学学術出版界
  23. ジャレド・ダイアモンド 著 倉骨彰 訳『銃・病原菌・鉄 (上下)』草思社文庫
  24. トク・ベルツ 編 菅沼竜太郎 訳『ベルツの日記 (上下)』岩波文庫
  25. 坂田和實『古道具もの語り』新潮社
  26. 藤原新也『メメント・モリ』朝日新聞出版
  27. 『山頭火句集 草木塔 復刻版』創風社出版
  28. 柳田國男『地名の研究』講談社学術文庫
  29. 中井久夫『「伝える」ことと「伝わる」こと』ちくま学芸文庫
  30. 中井久夫『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫
  31. 中井久夫『世に棲む患者』ちくま学芸文庫
  32. 長谷川櫂『俳句と人間』岩波新書
  33. 宮武外骨『震災画報』ちくま学芸文庫
  34. 中井久夫『私の「本の世界」』ちくま学芸文庫
  35. 田中克彦『差別語からはいる言語学入門』ちくま学芸文庫
  36. 飯田真・中井久夫『天才の精神病理 科学的創造の秘密』岩波現代文庫
  37. オルテガ・イ・ガセット 著 佐々木孝 訳『大衆の反逆』岩波文庫
  38. 三杉隆敏『やきもの文化史 景徳鎮から海のシルクロードへ』岩波新書
  39. 青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』文春新書
  40. 青木美希『地図から消される街 11後の「言ってはいけない真実」』講談社現代新書
  41. 青木美紀『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』朝日新聞出版

 

購読中の定期刊行物、サブスクリプション

  1. 月刊『文藝春秋』 文藝春秋
  2. 月刊『みんぱく』 国立民族学博物館
  3. 季刊『民族学』 千里文化財団
  4. 年3回刊『青花』 新潮社
  5. 年刊『KUKAI』 高野山真言宗総本山金剛峯寺(最終号)

 

今年観た映画など

1 DVD『あなたへ』監督:降旗康夫、主演:高倉健

 

今年聴いた落語会・演劇・ライブなど

  • 第529回 花形演芸会 国立演芸場
    春風亭貫いち やかん泥
    桂米輝 カフェ役者
    立川志の彦    片棒
    ラブレターズ 反抗期/定食屋/ラブホテル
    国本はる乃/曲師 広沢美舟    子別れ峠
    古今亭文菊    夢の酒
    カントリーズ 漫才
    春風亭一蔵    阿武松

  • 第18回 狂言ざざん座 夢か現か
    解説 羽田昶(武蔵野大学客員教授)
    小舞 海人
       野村万作
       地謡 野村萬斎
          野村太一郎
          内藤連
          野村裕基
          飯田豪
    狂言 悪太郎
       悪太郎 月崎晴夫
       伯父  石田幸雄
       僧   破石晋照
       後見  竹山悠樹
    狂言 花子
       夫   深田博治
       妻   野村萬斎
       太郎冠者 高野和憲
       後見  野村万作
           中村修一


ありがとう 2022年後編

2022年12月31日 | Weblog

今年参詣した神社仏閣など

  1. 玉前神社(千葉県長生郡一宮町一宮)
  2. 青龍山茂林寺(群馬県館林市堀工町)
  3. 尾曳稲荷神社(群馬県館林市尾曳町)
  4. 江戸総鎮守 神田神社(東京都千代田区外神田)
  5. 上野東照宮(東京都台東区上野公園)
  6. 大國神社(東京都豊島区駒込)
  7. 報徳二宮神社(神奈川県小田原市城内)
  8. 金沢山称名寺(神奈川県横浜市金沢区金沢町)
  9. 金沢八幡神社(神奈川県横浜市金沢区寺前)
  10. 瀬戸神社(神奈川県横浜市金沢区瀬戸)
  11. 常盤神社(茨城県水戸市常磐町)
  12. 茨城縣護國神社(茨城県水戸市見川)
  13. 雲松山泉龍寺(東京都狛江市元和泉)
  14. 鎮護山善國寺(東京都新宿区神楽坂)
  15. 妙徳山圓福寺(東京都新宿区横寺町)
  16. 横濱關帝廟(神奈川県横浜市中区山下町)
  17. 帰敬山西永寺(新潟県柏崎市西本町)
  18. 法相宗大本山 興福寺(奈良県奈良市登大路町)
  19. 華厳宗大本山 東大寺 戒壇院千手堂(奈良県奈良市雑司町)
  20. 氷室神社(奈良県奈良市春日野町)
  21. 率川神社(奈良県奈良市本子守町)
  22. 安居神社(大阪府大阪市天王寺区逢阪)
  23. 堀越神社(大阪府大阪市天王寺区茶臼山町)
  24. 学晶山榮山寺(奈良県五條市小島町)
  25. 高野山真言宗 小松山福寿院 金剛寺(奈良県五條市野原西)
  26. 寄足山生蓮寺(奈良県五條市二見)
  27. 高野山真言宗 神福山青竜院 瀬之堂 大澤寺(奈良県五條市野大沢町)
  28. 高鴨神社(奈良県御所市鴨神)
  29. 高天彦神社(奈良県御所市北窪)
  30. 宝珠山玉蔵院延命寺(埼玉県さいたま市浦和区仲町)
  31. 穴八幡宮(東京都新宿区西早稲田)
  32. 光松山放生寺(東京都新宿区西早稲田)

 

今年訪れた美術展、美術館、博物館など

  1. 「ポンペイ」東京国立博物館
  2. 「文様のちから 技法に託す」根津美術館
  3. 「絵画のゆくえ2022 FACE受賞作家展」SOMPO美術館
  4. 「ハリー・ポッターと魔法の歴史」東京ステーションギャラリー
  5. 「フランソワ・ポンポン展」群馬県立館林美術館
  6. 「御大典記念特別展 よみがえる正倉院宝物 再現模造にみる天平の技」サントリー美術館
  7. 「メトロポリタン美術館展」国立新美術館
  8. 「上野リチ ウィーンからきたデザイン・ファンタジー展」三菱一号館美術館
  9. 「ミロ展 日本を夢みて」Bunkamura ザ・ミュージアム
  10. 「シルクロードの旅」東洋文庫
  11. 「芥川龍之介生誕130年 室生犀星没後60年 記念展」田端文士村記念館
  12. 「空也上人と六波羅蜜寺」東京国立博物館
  13. 「未来へつなぐ陶芸 伝統工芸のチカラ展」パナソニック汐留美術館
  14. 小田原城
  15. 「第14回 春のいぶき展」小田原邸園交流館 清閑亭
  16. 報徳博物館
  17. 「春日神霊の旅 杉本博司 常陸から大和へ」神奈川県立金沢文庫
  18. 「かたちのチカラ 素材で魅せる」根津美術館
  19. 「シダネルとマルタン展 最後の印象派、二大巨匠」SOMPO美術館
  20. 「没後50年 鏑木清方展」東京国立近代美術館
  21. 「工芸・Kogeiの創造 人間国宝展」和光
  22. 「第62回 東日本伝統工芸展」日本橋三越本店
  23. 「ふつうの系譜 京の絵画と敦賀コレクション」府中市美術館
  24. 「大英博物館 北斎 国内の肉筆画の名品とともに」サントリー美術館
  25. 「牧歌礼賛/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児」東京ステーションギャラリー
  26. 「仏教絵画 浄土信仰の絵画と柳宗悦」日本民藝館
  27. 「絵のある陶磁器 仁清・乾山・永樂と東洋陶磁」三井記念美術館
  28. 「沖縄復帰50年記念 特別展 琉球」東京国立博物館
  29. 水戸 偕楽園
  30. 徳川ミュージアム
  31. 「若冲と京の美術 京都 細見コレクションの精華」茨城県近代美術館
  32. 「燕子花図屏風の茶会 昭和12年5月の取り合せ」根津美術館
  33. 「「見努世友」と古筆の美」出光美術館
  34. 国立歴史民俗博物館
  35. 「「美」の追求と継承 丸紅コレクションのきもの」丸紅ギャラリー
  36. 「青花の会 骨董祭 2022」√K Contemporary
  37. 「木工藝学林 清雅舎 展 須田賢司と5人の木工家」日本橋三越本店 本館6階 美術特選画廊
  38. JICA横浜 海外移住資料館
  39. 「生誕100年 朝倉摂展」練馬区立美術館
  40. 「歌枕 あなたの知らない心の風景」サントリー美術館
  41. 「生誕150年 板谷波山」出光美術館
  42. 「東北へのまなざし 1930-1945」東京ステーションギャラリー
  43. 「よめないけどいいね! 根津美術館の書の名品」根津美術館
  44. 「生誕140年 ふたつの旅 青木繁X坂本繁二郎」アーティゾン美術館
  45. 豊島区立熊谷守一美術館
  46. 「蔵出し蒔絵コレクション」根津美術館
  47. 「浮世絵動物園」太田記念美術館
  48. 「美をつくし 大阪市立美術館コレクション」サントリー美術館
  49. 「植田正治 ベス単写真帖 白い風」フジフイルム スクエア 写真歴史博物館
  50. 「日本の中のマネ」練馬区立美術館
  51. 「合縁奇縁 大倉集古館の多彩な工芸品」大倉集古館
  52. 「畠山耕治 青銅を鋳る」菊池寛実記念 智美術館
  53. 第69回 日本伝統工芸展 日本橋三越本店
  54. 「Colors United 飯田哲夫個展」The Artcomplex Center of Tokyo
  55. 「柳宗悦の心と眼 日本民藝館所蔵 朝鮮関連資料をめぐって」韓国文化院 ギャラリーMI
  56. 「仙厓のすべて」出光美術館
  57. 「野田弘志 真理のリアリズム」奈良県立美術館
  58. 奈良国立博物館
  59. 国立民族学博物館
  60. 藤田美術館
  61. 京都鉄道博物館
  62. 鉄道博物館
  63. 国立科学博物館
  64. 「鉄道と美術の150年」東京ステーションギャラリー
  65. 「古美術逍遥 東洋へのまなざし」泉屋博古館東京
  66. 「清代木版年画+UKIYO-E」日中友好会館美術館
  67. 「ヴァロットン 黒と白」三菱一号館美術館
  68. 「響きあう名宝 曜変・琳派のかがやき」静嘉堂@丸の内
  69. 林妙子・柴田克哉二人展 ギャラリー山咲木
  70. 「大蒔絵展 漆と金の千年物語」三井記念美術館
  71. 「惹かれあう美と創造 陶磁の東西交流」出光美術館
  72. 「パリ・オペラ座 響き合う芸術の殿堂」アーティゾン美術館
  73. 「平子雄一 X 練馬区立美術館コレクション」練馬区立美術館
  74. 「第68回 練馬区美術家協会展」練馬区立美術館
  75. 「濱紅鶴作品展」練馬区立美術館
  76. 「国宝 東京国立博物館のすべて」東京国立博物館
  77. 「将軍家の襖絵 屏風絵でよみがえる室町の華」根津美術館
  78. 「マリー・クワント展」Bunkamura ザ・ミュージアム
  79. 「京都・智積院の名宝」サントリー美術館
  80. 「人間写真機・須田一政」フジフイルムスクエア写真歴史博物館
  81. 「板谷波山の陶芸」泉屋博古館東京
  82. 「川内倫子 球体の上 無限の連なり」東京オペラシティアートギャラリー
  83. 「桃源郷通行許可証」埼玉県立近代美術館
  84. 「雰囲気のかたち」うらわ美術館

 

今年聴講した講座、講演、各種見学、参加したワークショップなど(敬称略、陶芸関係は除く)

  1. 「春日信仰と小田原文化財団 春日神霊の旅展によせて」花山院弘匡(春日大社宮司)、多川俊映(興福寺寺務老院)、杉本博司(美術作家、小田原文化財団設立者)、瀬谷貴之(神奈川県立金沢文庫主任学芸員)
    会場:小田原三の丸ホール 大ホール
  2. 「復帰50年記念 沖縄の美 記念講演 柳宗悦に魅せられて」澤地久枝(ノンフィクション作家)
    会場:Zoom Webinars(日本民藝館)
  3. 国立民族学博物館友の会 第130回東京講演会「島世界に進出したサピエンスと海のあるくらし」藤田祐樹(国立科学博物館主幹)、小野林太郎(国立民族学博物館准教授)
    会場:モンベル御徒町店
  4. 青花の会 講座 「古道具坂田と私 1」中村好文
    会場:工芸青花
  5. 青花の会 講座 「工芸と私64 工芸とメディア」
    会場:一水寮悠庵
  6. 第1回 興福寺文化講座「光明皇后と五重塔」森谷英俊(興福寺貫首)
    会場:歌舞伎座 花籠ホール

 

今年訪れた飲食店(記載に値しないと思われたところは除外)

  1. 青のこと(東京都調布市布田)
  2. ビストロ キフキフ(東京都港区高輪)
  3. ふくい望洋楼(東京都港区南青山)
  4. 京王プラザホテル 樹林(東京都新宿区西新宿)
  5. emile(群馬県館林市日向町)
  6. 竹や(東京都文京区湯島)
  7. カフェ 加賀麩不室屋(東京都港区赤坂)
  8. 韻松亭(東京都台東区上野公園)
  9. 手打ちそば 石月(東京都千代田区丸の内)
  10. 小松庵総本家 駒込本店(東京都豊島区駒込)
  11. 上海ルージュ(東京都中央区銀座)
  12. きんじろうカフェ(神奈川県小田原市城内)
  13. たいめいけん(東京都中央区日本橋室町)
  14. 京都石塀小路 豆ちゃ 日本橋COREDO(東京都中央区日本橋)
  15. 南国酒家 京王新宿店(東京都新宿区西新宿)
  16. TORAYA TOKYO 東京ステーションホテル(東京都千代田区丸の内)
  17. Café & Restaurant プティ・ポワレ(茨城県水戸市千波町東久保)
  18. 小松庵総本家 丸の内オアゾ店(東京都千代田区丸の内)
  19. 銀座 つるとかめ(東京都中央区銀座)
  20. 中華料理 華都飯店(神奈川県横浜市中区山下町)
  21. 青菜(東京都千代田区丸の内)
  22. 割烹 杵家(新潟県柏崎市西本町)
  23. 高級中国料理 天下第一味 揚子江菜館(東京都千代田区神田神保町)
  24. イタリア料理 ジェローネ by Takeru Quindici(東京都新宿区西新宿)
  25. 奈良うどん ふく徳(奈良県奈良市高畑町)
  26. ロジウラパーク(奈良県奈良市上三条町)
  27. Capitolo dal Spacca Napoli(東京都新宿区神楽坂)
  28. てんぷら山の上Roppongi(東京都港区赤坂)
  29. サムシング クアトロ店(埼玉県さいたま市浦和区)

 

今年贈答品に利用した店

  1. 資生堂パーラー 京王百貨店新宿店(東京都新宿区西新宿)
  2. ルピシア トリエ京王調布店(東京都調布市布田)
  3. 株式会社 ういろう(神奈川県小田原市本町)
  4. ワインショップ・エノテカ 丸の内店(東京都千代田区丸の内)
  5. 山梨おいしい果物園(山梨県南巨摩郡富士川町)
  6. 白玉屋榮壽 奈良店(奈良県奈良市三条通)
  7. 茅乃舎 東京駅店(東京都千代田区丸の内)

 

今年利用した宿泊施設

  1. 離れのやど 星ヶ山(神奈川県小田原市根府川)
  2. NIPPONIA HOTEL奈良ならまち(奈良県奈良市西城戸町)

いずれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に感謝申し上げます。前年に引き続いての感染症の世界的流行に加えて地政学上の異変その他の様々な混乱があり、ここに挙げた施設のなかには本日時点で営業を終了しているところもあります。しかし、縁というものは思わぬところでつながっているものです。関係者の皆様にはまたどこかでなにかの形でお世話になるでしょう。どうぞよろしくお願いいたします。


ありがとう 2022年前編

2022年12月30日 | Weblog

今年読んだ本

  1. 虎屋文庫 『ようかん』 新潮社
  2. 山田風太郎 『あと千回の晩飯』 朝日文庫
  3. 山田風太郎 『戦中派不戦日記』 角川文庫
  4. 赤瀬川原平 『老人力 全一冊』 ちくま文庫
  5. 平井京之介 『微笑みの国の工場 タイで働くということ』 臨川書店
  6. 赤瀬川原平 『千利休 無言の前衛』 岩波新書
  7. 梯久美子 『百年の手紙』 岩波新書
  8. 袖井林次郎 『拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』 岩波現代文庫
  9. 知里幸惠 編訳 『アイヌ神謡集』 岩波文庫
  10. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ』 国書刊行会
  11. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART2』 国書刊行会
  12. 前野直彬 『精講 漢文』 ちくま学芸文庫
  13. 折口信夫 『日本藝能史六講』 講談社学術文庫
  14. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART3』 国書刊行会
  15. 岡野弘彦 『折口信夫伝 その思想と学問』 ちくま学芸文庫
  16. 内村鑑三著 鈴木範久訳 『代表的日本人』 岩波文庫
  17. 内田百閒 『蓬莱島余談 台湾・客船紀行集』 中公文庫
  18. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART4』 国書刊行会
  19. 岡野弘彦 『折口信夫の晩年』 慶應義塾大学出版会
  20. 比嘉春潮・霜多正次・新里恵二 『沖縄』 岩波新書
  21. 折口信夫 『口訳万葉集』(上中下) 岩波現代文庫
  22. 大江健三郎 『沖縄ノート』 岩波新書
  23. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART5』 国書刊行会
  24. 村松貞次郎 『大工道具の歴史』 岩波新書
  25. 陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書
  26. 宮本常一 『民間暦』 講談社学術文庫
  27. 曽田文子 『さいごのスケッチBook』 文芸社(私家版)
  28. 宮本常一 『ふるさとの生活』 講談社学術文庫
  29. 宮本常一 『庶民の発見』 講談社学術文庫
  30. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART6』 国書刊行会
  31. 宮本常一 『家郷の訓』 岩波文庫
  32. ボードレール 堀口大學訳 『悪の華』 新潮文庫
  33. 茨木のり子 『詩のこころを読む』 岩波ジュニア新書
  34. 和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART7』 国書刊行会
  35. 田中克彦 『ことばとは何か 言語学という冒険』 ちくま新書
  36. 田中克彦 『ことばと国家』 岩波新書
  37. 高間大介(NHK取材班)『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』角川文庫
  38. 小倉芳彦訳『春秋左氏伝』(上中下)岩波文庫
  39. 長谷川櫂『和の思想 日本人の創造力』岩波現代文庫
  40. ジョン・W・ダワー著 猿谷要監修 斎藤元一訳『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』平凡社ライブラリー
  41. ジョン・ダワー 著 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子 訳 『敗北を抱きしめて』 増補版上下 岩波書店
  42. 『昭和天皇独白録』文春文庫
  43. 高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』ちくま学芸文庫
  44. 渡辺清『砕かれた神 ある復員兵の手記』岩波現代文庫
  45. 品田悦一『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』新曜社
  46. 金田一秀穂『ことばのことぱっかし』マガジンハウス
  47. 三遊亭円朝『怪談 牡丹灯籠』岩波文庫
  48. 今和次郎『日本の民家』岩波文庫
  49. 山本義隆『原子・原子核・原子力 わたしが講義で伝えたかったこと』岩波現代文庫

 

購読中の定期刊行物、サブスクリプション

  1. 月刊『文藝春秋』文藝春秋
  2. 月刊『みんぱく』 国立民族学博物館
  3. 季刊『民族学』 千里文化財団
  4. 年3回刊『青花』 新潮社
  5. 月刊『角川 短歌』 角川文化振興財団
  6. 月刊『角川 俳句』 角川文化振興財団
  7. 年刊『KUKAI』高野山真言宗総本山金剛峯寺

 

今年観た映画など

1 『拝啓天皇陛下様』DVD

 

今年聴いた落語会・演劇・ライブなど

  1. 桂文珍 大東京独演会 14 国立劇場 小劇場
     桂文五郎 家ほめ
     桂文珍 平林
     桂二葉 真田小僧
     桂文珍 くしゃみ講釈
     桂文珍 三十石
  2. 第十七回 狂言 ざざん座 喜多六平太記念能楽堂
    狂言 萩大名
          大名 高野和憲
          太郎冠者 内藤連
          亭主 野村万作
             後見 竹山悠樹
    狂言 隠狸
          太郎冠者 月崎晴夫
          主 中村修一
             後見 野村裕基
    素囃子 男舞
          笛 成田寛人
          小鼓 大山容子
          大鼓 柿原光博
    狂言 蟬
          蟬の亡魂 深田博治
          旅僧 破石晋照
          所の者 竹山悠樹
            地謡 中村修一
               内藤連
               野村裕基
               石田淡朗
             後見 高野和憲
                月崎晴夫

  3. 第519回 花形演芸会 国立演芸場
    入船亭扇ぱい「一目上がり」
    桂二葉「天狗さし」
    立川こはる「三方一両損」
    だーりんず「出世争い/面接/公園」
    鈴々舎馬るこ「魔法世界たらちね」
    入船亭扇辰「茄子娘」
    養老瀧之丞 奇術
    柳家㐂三郎「船徳」

  4. ちょうば りょうば 二人会
    桂りょうば「子ほめ」
    桂ちょうば「竹の水仙」
    桂ちょうば・りょうば「子は鎹」(リレー)

  5. 初代国立演芸場さよなら公演 特別企画公演 演芸大にぎわい 東から西から
    三遊亭まんと「十徳」
    寒空はだか 漫談
    和田奈月 和妻(奇術)
    ナイツ 漫才
    笑福亭福笑「入院」
    東家三楽(曲師:伊丹秀敏) 浪曲「源太時雨」
    やなぎ南玉 曲独楽
    柳家小さん「寝床」

  6. 興福寺 塔影能
    独鼓 玉之段 謡 片山九郎右衛門
           小鼓 大倉伶士郎
    狂言 太刀奪 茂山千五郎 茂山茂 山下守之
           後見 柴田鉄平
    能  天鼓  片山九郎右衛門 福王知登
           河村裕一郎 吉阪一郎
           井上敬介 杉信太郎
           間 松本薫
           後見 青木道喜 大江信行 浅見慧一
           地謡 河村和貴 梅田嘉宏 深野貴彦 分林道治
              片山伸吾 蒲田保親 浅井文義 古橋正邦
           働キ 浅井風矢


読書月記 2022年9月

2022年09月30日 | Weblog

田中克彦 『ことばと国家』 岩波新書

『ことばとは何か』の約20年前に刊行されたもので、『ことばとは何か』の中に本書に言及した箇所がある。

今から二十年ほど前、私が『ことばと国家』を書いたとき、はじめて言語学を社会や政治にむすびつけようとした試みだとして、そのような著者に期待が寄せられたことがある。構造主義に閉じこめられていた言語学が、ますます、自ら作った体系のわくの中に閉じ込もって、その節をつらぬこうという時代だったから、言語学者からは、私は学問の作法をよく知らない、行儀の悪い言語学のしろうとだと非難されたが、といって他方、その枠を破るほどの向こう見ずではないにせよ、ちょっと扉にすき間を作っただけの私に期待する側からは能なしの小心者だという失望を与えてしまったのはやむをえない。
田中『ことばとは何か』ちくま新書 164頁

言語学を政治と結びつけることが「試み」であったということに驚くのだ。今は当然のことだと思うが、それが高々二十数年前までは学問の「作法」に反することであったというのである。学問というのは真理の探究だと思っていたが、そうではないらしい。

尤も、学問も商売なのだから、市場原理の中に収まる在り方でないと成り立たないのは確かだ。政治勢力は学問にとっては主要な顧客であるようなので、そこに受け入れられないことには学問として存在できない。その政治にとっては、まとまった単位の票の供給源が主要顧客となる。供給源の素性は一切問わない。政治も市場原理下にあるので、数字が全てだ。市場原理の下で巨大資本が優位に立つように、選挙においては巨大宗教もものをいう。7月の暗殺事件以来、ちょっとした話題になっているようだが、政治家にとっては票をくれる勢力はどのようなものであろうと「神」なのである。神の世界では「はじめに言葉ありき」なので、政治と言葉と宗教は、なるほど親密であるはずだ。

もちろん、本書にはそんなことは書いていない。書いていないが、四章の「フランス革命と言語」を読むと、フランスもフランス語も私にとっては知らない世界だが、グッと現実味のある世界に感じられる。思えば、20世紀の終わりに雪崩を打つように崩壊した「人民」とか「労働者」の国々も、日本の明治維新も、フランス革命同様、人間というものが「社会的」な生き物であることを再認識させるものだった。要するに上下関係という構造抜きに人間社会は成り立ち得ず、その構造を決するのは理念理想というような綺麗事ではあり得ず、「国王」だの「将軍」だのといった呼称を「ナントカ議長」であるとか「ナントカ書記長」であるとか「ナントカ大臣」に変えただけで統治の仕組みは従前の体制を実質的に居抜きで使っているようなものだろう。権力や権威を支えるのは結局のところは市場原理で、その市場原理を巧みに活用できない権力は早々に崩壊する。「美人薄命」という言葉があるが、綺麗事に徹すれば早々抹殺されるというのが、たぶん、本当の意味だろう。どのような組織であれ、社会構造の基幹部分は多かれ少なかれ火事場泥棒風の人々が担っているように見えなくもない。

どのような統治システムであれ、統治の言語は体制安定の鍵を握る。この点で母語は決定的に重要なのだが、その重要性は我々日本人にはわからない。否、わかりすぎているのかもしれない。殆どの日本人にとって母語=母国語なので、事実であるか否かを問う以前に、母国語で記録に残るものは感覚としてほぼ絶対なのである。「書いたものがものをいう」と言われるのは、書かれたもの、つまり、母国語表記に対する信頼感が強力であるからだ。

しかし、諸外国、殊に世界情勢において発言力の大きい国々との交渉が国運を決する一大事と考えられた時代には、当然のことながら、その信頼感が揺らぐ。日本の統一国家としての揺籃期にあっては大陸の言語を母国語にしようと考えられた時期は当然あったであろう。結果としては、母語はそのままで文字だけが取り入れられた。さらにその結果としては、大陸の激しい権力闘争からは距離を保ちつつ、大陸の先進知見の導入と活用が進むことになった。そうして千年近くを経て、欧米列強との交渉の時期を迎えた。黒船に度肝を抜かれて、言語の見直しも当然検討されたであろう。

幕末から明治はじめにかけて、いわゆる国語外国語化論が議論された。後に日本の郵便制度創設の立役者となる前島密は「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出。その後も、国語調査委員としてこの問題に取り組んだ。維新後の初代文部大臣森有礼は英語を日本の国語にすることを主張した。熊本の第五高等学校で英語の教師をしていた夏目金之助が1900年5月に文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられたのは、そうした国語問題の一環であったのかもしれない。夏目金之助は帰国後、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任し、第一高等学校と東京帝国大学の講師になる。後に『吾輩は猫である』を執筆、小説家夏目漱石が誕生する。1905年のことだった。

結局、我々は相変わらず日本語を母語=母国語としてこうやって暮らしている。明治維新の時に英語を国語にしていたら、果たしてどのような国になっていたのだろう。それ以前に、人は実利的な理由で母語を自発的に放棄できるものなのだろうか。母語と母国語との葛藤のない国に生まれ育っているので、そういう葛藤がどのようなものなのか全く想像ができないのだが、世界で母語と母国語が一致していない圧倒的大多数の国々はかつて列強の植民地であったところだ。その列強の方にしても、複数の言語を内包している。日本のように母語=母国語という国は極めて珍しいのである。このことは何を意味しているのだろうか。

 

高間大介(NHK取材班) 『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』 角川文庫

これも職場で言葉について一席ぶつのにあれこれ下調べをする中で読んだ。本書を知ったのは山﨑努の『柔からな犀の角』(文春文庫)を読んだときに、その中で触れられていたからだ。山﨑の本を読んだのは、ほぼ日の「俳優の言葉」という不定期の連載を読んだのがきっかけだ。

本書は2008年10月から翌年10月にかけてNHKで放送された「サイエンスZERO シリーズ ヒトの謎に迫る」をもとに構成されたものだ。本書のタイトルはゴーギャンの晩年の作品に因んでいる。ちょうど2009年の夏に東京国立近代美術館で「ゴーギャン展」が開催され、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ボストン美術館所蔵)は目玉の一つだった。展覧会の図録の90頁から125頁までが本作のために割かれている。私は2009年7月29日に本展を見た。本作に絡めてフランスとタヒチとの関係から言葉について何事かを語ることもできるのかもしれないが、今はその何事が思いつかない。それよりも、人類は元を辿ればアフリカ大陸のかなり限定された地域に源を発するのに、言葉がこれほど多様化したのは何故なのかという問題意識から今回本書を手にした。

各章ごとにテーマが異なり、それぞれの分野の専門家が案内役を務めている。その中で特に気になったことをまとめておく。

第1章 DNAが教えるアフリカ大陸からの旅路
篠田謙一 国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長(現:同博物館館長)
まずは思考の大前提として挙げるべきは、我々人類はアフリカ大陸で誕生したということ、それが世界中に移動して現在の様相に至ったということ。それはDNAに蓄積された突然変異を調べるとわかるのだそうだ。

たとえば、現在のアフリカ人と、その他の大陸に長く住んでいる人々のDNAを比べると、アフリカの人々だけが圧倒的に多様である–つまり、いろんなタイプの突然変異を見つけることができる。このことからズバリ、「現生人類はアフリカで誕生し、そこにかなり長いあいだとどまったあと、アフリカの外に出た」と結論づけられる。
12頁

我々ホモ・サピエンスが20万年ほど前にアフリカに誕生し、6万年ほど前から移動を開始して世界中に広がるのである。その一部が日本列島に辿り着いたのが4万年ほど前だというのである。日本への到達ルートは大別して3つあるらしい:1)大陸沿岸部から南の島々を伝って北上するもの、2)朝鮮半島経由、3)サハリンからの南下。当然、それぞれのルートの起点に至るまでに様々な経路があるはずだ。その経路がDNAの分析でわかるのだという。例えば、案内役の篠田の祖先は3万年前頃にパキスタン付近からシベリアへ向かい、北回りで東アジアへ入って日本に至った、という。DNAの何をどう調べてそんなことがわかるのか、私にはさっぱりわからないのだが、ミトコンドリアのDNAは母から子に遺伝する(父母ごちゃ混ぜにならない)という性質があるので、その性質を利用して分析すると遺伝経路がわかるらしい。

DNA分析が明らかにしたのは、同じ民族が必ずしも遺伝的に近い関係だけで構成されているわけではないという事実なのである。
19頁

ちなみに、父から息子にだけ受け継がれるDNAもある。性染色体のひとつであるY染色体だ。ミトコンドリアのDNA同様、Y染色体のDNAを辿ることでも個人の祖先の何事かを知ることができる。南米の山岳地帯で暮らす先住民族のケースが興味深い。ペルーでの事例が紹介されている。

母親を通して受け継がれるミトコンドリアDNAについては90パーセントを超える人が、先住民族本来のDNAを受け継いでいたのに対し、Y染色体では半数以下だった。残り56パーセントはどこから来たか。じつは、主にヨーロッパ人のDNAだったのだ。(中略)ミトコンドリア、つまり母方では、先住民族のDNAを受け継いでいる人は80パーセント以上。しかし、Y染色体、つまり父方では、わずか8.6パーセントだったのである。この数字、大雑把にいえば、父親の系統を遡れば、9割がヨーロッパ出身であるということで、先住民族の男の遺伝子は大半が駆逐された状況なのだ。
33-34頁

人間だけでなく地球上の全ての生物はDNAという同じ記号で書かれた生命の設計図で作られている。進化の過程を遡ると全ての生物は同じ祖先に行き着く。それが今はたくさんの種類に分かれて互いに食い合い、時に同類同士でも殺し合いを繰り返している。そこには自他の別の意識や認識があるということでもある。そうなると「自分」とか「私」とは何者なのか、という疑問が当然に湧く。明白なのは「私」にとっては生物種の上での同一性というものは意味をなさないということだ。人間同士、仲間同士、というのはそれほど強い同一性ではないのである。

第2章 私という”不思議のサル"
山極壽一 京都大学大学院理学研究科教授(現:総合地球環境学研究所所長)
山極の見立ては、人は他者との融合、和合のなかに己を見出す生き物だということだ。「他者の中に自分を見たがる」性質が「群れのという社会のなかに、さらに家族という単位をつくる」特異な社会を進化させたという。そして家族という単位を設けたことで教育という行為を可能にし、それが独自の進化をもたらした、というのである。

興味深いのは、一夫一婦制が文化の問題というよりも種の保存の問題を交えているという点だ。確かに、世界には一夫多妻の文化もあれば、その逆もあるかもしれないし、一夫一婦とは言いながら、二号三号を囲う人もいる。しかし、そういうのは一般的ではないということにして、家族という形態を形成するのは人類だけらしい。他の生物の様子を見て、そこに「家族」を見出すのは人間の側の幻想であって、群れを形成する生物は基本的に乱婚なのだそうだ。家族という仕組みは人間の精子の運動能力の限界を補うことと関係あるらしい。

人間の精子を調べてみると、運動能力はかなり低い。乱婚のチンパンジーなどとは比較にならないほど緩慢な動きであり、濃度も極端に薄い。これは子宮内競争があるか、ないかという違いに起因するそうだ。子宮内競争とは聞き慣れない言葉だが、チンパンジーはメスが複数のオスと交尾するため、いち早く卵子にたどり着かなくては子孫を残せない。つまり子宮内で精子同士のデッドレースが行われる。これが子宮内競争だ。
47頁

そうなると性行為のあり方が人間は特異ということになる。つまり、精子がおとなしいので、無事に受精させるためには行為の最中に邪魔が入ってはいけない。他の生物の交尾は大ぴらだが、人間は性行為を秘匿する。それは性交能力の弱さに起因する。そこで交尾環境の安定化のために家族という制度ができたという見方もできるのである。

食という点でも人間の特異性がある。霊長類は果実食が基本だそうだ。森で暮らしているなら、木から必要なだけ採食して、空腹になったらまた木に成っているものを同じように食べればよい。しかし、人間は森を出て草原に生活の場を移した。その過程で肉食が取り入れられた。小魚や小動物ならともかく、ある程度の大きさの動物の肉は一度に食べきれない。そこで複数の個体が協働して獲物を確保して共同で食べるという行動が生まれる。

人間の子は自立できない状態で生まれる。子育てが必要だ。それを可能にするのは共同作業、殊に共同食だ。自立できない赤ん坊を産むのは、直立二足歩行の代償だという。直立二足歩行に適した体型になったため産道の形状が制約を受け、他の類人猿に比べて未熟に生まれるようになったらしい。その代わり、未熟で出産するため他の類人猿より出産サイクルが短い。また、母乳だけに依存して生きる期間が人間は他の類人猿より短い。人間は1年から2年、ゴリラは最低3年、チンパンジーは約5年だそうだ。森を出て草原で暮らすようになったことで生存リスクが一気に高まり、多産かつ短乳児期である必要が生まれたということだろう。出産後、次の妊娠が可能になるまでに要する時間も人間は短い。

人間の場合、もっとも早くて40日で妊娠が可能になるそうだ。実際、年子の兄弟姉妹も決して珍しくない。ところが、ほかの類人猿はまったく違う。ゴリラの出産間隔はおよそ4年。チンパンジーで5年。オラウータンでは8年にもなるのだ。
57頁

人間が他の類人猿と違って、森を出て草原で生きることを選択し、草原での生存に有利なように直立二足歩行を発達させた。草原での生命維持のためにそれまでの果実食から肉食にも適応して栄養状態が変化する。直立二足歩行に適応した体型になることで、未成熟での出産かつ多産と、幼児育成のための一夫一婦という小社会の形成をするようにもなった。また、直立二足歩行は大きな脳と両手の自由をもたらした。

その脳の発達と両手の運用技能の向上には肉食が深く関係する。肉食の最初は、他の肉食獣の食べ残しを摂食したことだろうと言われている。肉食獣は獲物の胴体、内臓を主に食べる。このため、四肢の肉と全身の骨が食べ残しとなる。人間の祖先が肉食を始めた頃の肉はこの四肢と骨であった。肉は当然タンパク源だが、骨の髄も栄養価が高い。ただ、骨髄は骨を粉砕しないと手に入らない。当然、手先の器用さが要求される。高い栄養価と食べるのに一工夫必要な食物は脳の発達を促す。

言葉の由来を調べるのに、随分遠回りをしているようだが、人類の進化の過程を辿ってみないことには、どのあたりで言葉が登場するのかわからない。ここまでは主に人間個体の成長と家族の形成についての話だが、他の類人猿との比較で人間の大きな特徴がもう一つある。それは老年期の長さだ。

老年というのは生殖能力を失った後の期間を指す。よく長寿は衛生状態の改善と医療の発達によるものだとされる。しかし、医療が発達するなら生殖可能年齢も引き上げられて然るべきだ。実際は、多少の延長はあるものの、寿命の伸びほどに長くはならないのは、本来的に人間の老年期が長いという事情がある。生殖に関与不能の個体が生きていられるのはなぜか。これは、未解明ではあるが、未熟状態での出産と関係しているらしい。つまり、老人は未熟で生まれて手のかかる子の生育を補助する役割を追うているという面があるのではないかと言われているらしい。

また、人間には教育という独特の習慣がある。年長者が年少者に生活に必要な技能を伝授する。猿真似という言葉があるが、人間以外の類人猿は他の個体の行動を真似することはあっても教えるということはないそうだ。教育、すなわち、個体から個体へ意図を持って特定の知識や技能を伝えるには、共感という心理作用が不可欠らしい。

「共感というものがあるからこそ、自分が時間や手間を使っても知識のない子どもたち、仲間たちに教えようという感情が芽生える。もちろん人間だけが共感できるわけじゃありません。仲間のやっていることに対して自分は同調できる、そういう能力は霊長類ならもっていると思います。ただ、それを非常に人間は伸ばしたんではないかと思いますね」
69-70頁

この共感に大きな役割を果たす身体器官の一つが眼だそうだ。

「私たちに身近なニホンザルでも、食べているときは決して相手の目を見ませんね。やはりそれは相手に対する挑戦になってしまうんですよね。ところが人間は逆。わざわざ向かい合って、見つめ合いつつ食べることがふつうになっているわけです」
 見つめ合うのが人間だというわけだ。それが端的に表れているのが、目の構造だ。人間の目には、黒目と白眼がある。そのため、視線の微妙な動きで相手の感情の動きがわかってしまう。ところが人間以外の霊長類は類人猿でも、白目と黒目がない。
「人間に黒目と白目ができたのは、向かい合ってお互いに感情の動きを探り合うようなことが日常的になったので、そうなっていったんじゃないかと思うんです」
71頁

昨今は直接顔を合わせてどうこうするということが以前に比べて重要視されなくなった感がある。我々の暮らしは、科学技術の発達で、それまで不可能であったことが可能になったことで満ちているかのように思われている節がある。しかし、その陰でたくさんのことが失われているのも事実だ。人と人とが直接交渉せずに物事が進捗していくことで、人にとって幸福な結果が得られるものなのだろうか。

それはともかくとして、山極は人間について本書では以下のようにまとめている。

「人間が一人で独立して生きているんではなくて、他者とつねにこう融合、和合しながら生きているようになった、そこに本質があると思うんですね。要するに、他者と自分との境界をどこかで取り払うような社会性を身につけてしまったということなんです。それが教育を可能にし、家族というものを可能にし、そして家族を超えた地域社会というものをつくることを可能にしたんじゃないかと思いますね」
72頁

「他者との融合、和合」する生き物が人間であり、そこに言葉も生まれたということだと私は理解している。しかし、今の現実は個人が分断され断片化していく方向に進んでいるように見える。自分が生きている間に劇的な変化があるとは思えないが、自分の終わりが射程に入り、随分気楽になった身にさえも、どこか不穏な雰囲気を感じる。今更不安はないのだが、他人事ながら心配ではある。

言葉とは少し離れる話題だが、農耕についての第9章が興味深い。よく人類の発達史として、狩猟採集社会から農耕を発見あるいは発明して農耕社会に移行するという説明を聞くのだが、本当にそうなのだろうかと近頃疑問を抱いていた。きっかけは宮本常一の一連の著作、殊に『民間暦』の最初の方の記述に引っ掛かったからだ。

農家が食料を買わねばならぬというほど矛盾したことはないのだが、日本の農家の大半はそうであるといっていい。
宮本常一『民間暦』講談社学術文庫 36頁

現実がどうであったかは知らないが、歴史の前提として農民は収奪される側の存在として語られることが多い気がする。時にその圧力に耐えかねて一揆であるとか、反政権的運動が起こったりするという史実が現れる。農耕は土地を耕し、種を蒔き、手入れをして、収穫を迎えるまで長い時間を要する上に、収穫を得る保証はどこにもない。その上、収穫物のかなり部分を権力者に上納する仕組みになっていることが多い。農耕は誰にとって望ましいのかと言えば、農耕に携わる本人ではなく、その地域を支配する権力者にとってである。そんなものを好き好んで人々が始めるだろうか、と思うのである。つまり、農耕があって、そこから権力構造が構築されるのではなく、先に権力構造があって、その権力が農耕という支配装置を統治手段の一つとして活用したのではないかと考えた。本書第9章はその疑問に関係している。

第9章 農耕・人類の職業選択のゆくえ
佐藤洋一郎 総合地球環境学研究所副所長(現:名誉教授)
人類が農耕を始めたのは約一万年前らしい。トルコ南東部で麦を中心としたものと、中国長江流域でイネを中心としたものだ。始まりは相互に関係しているわけではなく、それぞれの土地に根ざした作物が農耕の中心になる。日本では、現在の考古学的調査に基づけば、3千年ほど前に稲作が始まったとされている。歴史上は農耕が始まった時期には強大な政治権力があったとは認識されていない。しかし、農耕という共同作業を監理する社会はあったということになる。ただ、いまだに農耕の起源は明快にはわかっていないらしい。

農耕以前と農耕以後の本質的な違いとは何だと問えば、組織的に特化するか否かという点が浮かび上がる。農耕とは、たくさん利用していた食料のなかから、数種類(あるいはほぼ一種類)を選び出し、集団で一致してその育成に心血をそそぐことであり、いわば集団として食料確保の方法を切り替えることではないか。
 すると、「最初に農耕をはじめたのは、なぜだ?」という疑問はこう変わる—最初に集団的に食料を切り替えたのは、なぜだ?
273頁

地球環境の変動も当然に影響するだろう。環境保護とか持続的発展といった科学の仮面を被った政治的な動きが活発だが、そもそも地球環境は安定などしていない。たまたま人間が実感を持って見通すことのできるスケールの範囲内で「安定」という幻想を抱く程度の振幅で変化をしてきたというだけのことだ。それはせいぜい数百年程度のことだろう。以前にも『万葉集』のところで書いたが、地面はちっとも確かではないのだ。地殻の内側はマントルという液体状のものが対流している、なんてことは義務教育で教わった、はずだ。その地殻は複数のプレートに分かれていて少しずつ動いている、なんてことは常識だ。だから地震が起こるわけで、そもそも我々の生活は足元が揺らいでいる。自転軸の話にしても、地球の自転だけでなく、地球が太陽の周りを巡る公転があり、おそらく太陽系丸ごと何かの周りを回っている。そして、その「何か」は別の何かの周りを回っていると考えるのが自然というものだろう。農耕が始まった一万年前は、たまたま地球の気候の変動が安定期に入った時期らしい。

グリーンランドの大地を覆う分厚い氷河(大陸氷床という)を円筒状にくり抜き、その氷を分析して判明した。およそ一万年前を境にして、平均気温の様子はガラリと変わっていたのだ。直近の一万年は平均気温の変化はおよそ一度の範囲内に収まっていたのに対し、それ以前は激しい乱高下を繰り返していたのだ。
207頁

日本国内にも長期にわたる気温の変動がわかるものがあるという。喜界島のハマサンゴだ。ハマサンゴは年輪を刻んでいて、海水中に溶けているカルシウムを取り込んで成長する。このとき、微量のストロンチウムも一緒に取り込む。このストロンチウムの量が、海水温が低くなると多くなるというのである。このことからハマサンゴの化石に含まれるストロンチウムの量を計測することでサンゴが生きていた時代の水温を知ることができるらしい。なぜ喜界島かといえば、このあたりがフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界で、島が一年に二ミリずつ隆起しているのだそうだ。このため、海に潜らなくてもハマサンゴの化石が入手できるのだ。

2009年の夏までに、七つの年代のデータの分析を終えたという。その結果、喜界島周辺の海水温はこの一万年のあいだ、およそ三度の幅で変化していたことがわかった。
「これは海水の温度なんですけれども、それと連動して気温も同じように変化したと考えられます」
 目につくのは、およそ四千年前に急激に海水温が下がっていることだ。
 佐藤さんによれば、この四千年前という時期は、東アジアの農耕の歴史では大きな事件が起きているそうだ。
「長江の下流にあった長江文明が表舞台から去るのが、ちょうどその時期なんですね。気温低下が直接影響したのか、何らかの連鎖反応で最終的に長江文明が衰退したのか、そのあたりはまだよくわからないんですけど」
280頁

農耕は自然の中での営みであることには違いないのだが、植生を大きく変動させるという環境破壊の元凶でもある。本書ではアラル海の事例が取り上げられているが、程度の差こそあれ、人間が己の生存のために己の生存基盤を破壊しているのも事実だ。身も蓋もない言い方をすれば、人間の存在そのものが地球環境にとって脅威であり、その人間がSDGなどと騒ぐのはどこか滑稽でもある。

人間がいかに地球環境において特異な存在であるかは、他の章でも様々に語られている。我々の我儘を放置しておいてよいはずはないのだが、今更ながら人間は身勝手で、自分で思っているほど賢くはないということがよくわかった。

 

小倉芳彦 訳 『春秋左氏伝 (上中下)』 岩波文庫

『代表的日本人』を読んだ時に西郷隆盛の章で本書への言及があり、なんとなく気になって読んだ。全三巻だが、本文だけならそれほど長くもない。尤も、原書の方は約二十万字で難解なものだそうなので、その全てがこの日本語版で網羅されているのかどうかわからない。『春秋』については以下の説明がわかりやすい。

『春秋』は魯の隠公元年から哀公十四年(前722-前481)までの出来事を時系列順に記録した歴史書です。これは「十有六年、春、王の正月、戊申朔、石宋に隕つること五」のような淡々とした筆致で事実を羅列したものに過ぎませんが、漢代になると、『春秋』の「経」つまり本文は孔子の編纂にかかり、史実に対する孔子の評価が簡潔な言葉遣いの中に隠されていると考えられるようになりました。この微言大義、春秋の筆法を解読するための「伝」が『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『春秋左氏伝』であり、合わせて春秋三伝といいます。前二者は基本的に孔子の意図の解明に的を絞っていますが、『左伝』は史実の内容を詳細に物語っていく書き方がなされています

東洋文庫編『岩崎文庫の名品 叡智と美の輝き』山川出版社 12頁

人は身の回りのことに理屈を付けないと安心できないのだろう。歴史を過ぎ去ったあれこれの羅列にしておくのではなく、無理矢理にでも因果関係をつけて整理して、教訓めいた原理原則を語らないわけにはいけないようにできている生き物なのだと思う。

確かに、いわゆる「正義」であるとか「あるべき」規範のようなものがあると思うことで、自分の行動や存在が正当化される気がするものだ。また、過去を振り返るとき、人はちょっとした神の気分を味わうことができる。あれをこうしてああすれば事態は一気に解決するというようなことが一目に見渡せる。だから、、、と雄弁になり、そういう自分に酔うことができるのである。それが他人事であれば、だが。

国家の興亡は人体の健康と似ている気がする。健やかな状態であればそこそこの気力があって物事に穏やかに前向きになるが、そうでないと不安な部分を補おうと妙に強がっておかしな前傾姿勢になり、そのことで全体の調和が乱れて破滅に至る。無理矢理何かをしなければならないという時点で、深刻な問題が生じている。そこは強がるのではなく、一歩退くなり休むなりしてしっかりと状況を把握して自分の内から対策を施すべきなのだろう。しかし、どれほど気を配ったとしても、どうにも身動きができなくなって変化に応じきれなくなる時が来る。それが寿命というものだ。苦痛なく終焉を迎えるには、やはり全てに穏やかであるよう心がけなければならないのだろう。

本書で示されているのは、上に立つ者の心得だ。それは決して特別なことではなく、どうすれば民心が従うのか、交渉事で相手との信頼関係を築くにはどうするべきなのか、というような、人一般にも言えるようなことばかりである。結局は、恥ずべきことのないように振る舞い、後は天命に委ねるより他にどうすることもできないということなのだろう。「心にきずがないならば、家がなくとも心配するな」という諺があるらしい。

以下、本書で気になった箇所を列挙する。

国が興るときは民意に順い、亡びるときは神意をあてにする

上巻 160頁

「亡びるときは神意をあてにする」というのは、おそらく心ある日本人なら「あのことかな」という心当たりがあるはずだ。

そもそも「武」という字はほこ(軍事)を止める意味である。周の武王が商を撃破した際に作られた『詩』の周頌には、
 干戈たてほこを収納し、弓矢を袋に入れよ。
 我は美徳を求めて、この夏楽かがくを奏し、
 王業を成して天下をば保たん。 (時邁)
とあり、同じく〔周頌の〕「武」の終章には、
 汝が功業をば鞏固にせん。
その第三章には、
 先王の徳をばひろめ、
 我、征きて安きを求めん。
その第六章には、
 万邦を安んじ、つねに稔りあり。
とある。「武」とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするためのもの。故に子孫に武功を忘れさせぬようにするのだ。

上巻 454頁

この「武」という漢字の成り立ちの話には感心した。母語の表記として千数百年を経ても漢字はまだまだ借り物で自分のものとして消化しきれていないと思った。確かに「武士」といえば軍人的な側面があるが、そればかりではなく、平時においては領主として政治を行うのである。むしろ、戦はここ一番という非常時のことであり、それをいつまでも続けていては身が持たない。武力は戦そのもののためにあるのではなく、戦を止めて人々に安心と豊かさをもたらすのが本分だということは、今まで考えたことがなかった。

名によって威信が生まれ、威信によって器が保持され、器によって礼が実施され、礼によって義が行われ、義によって利が生じ、利によって民が安定する。これが政権の要である。

中巻 23頁

「義によって利が生じ」とは、どういうことなのだろうか。

晋侯は帰国して、民を休養させる方策を相談した。魏絳(魏荘子)は、〔民に〕施捨するのに、余剰財貨を持ち出して貸してほしいと請うた。公より以下、余剰をかかえている者はすべて供出したので、国内には滞貨がなくなり、困窮者もいなくなった。公室は民の営利を制限せず、利を貪る民もなくなった。祈禱には〔犠牲の〕代わりに皮幣を用い、賓客の接待には一種類の家畜だけ、器具類は新品を作らず、車馬・服飾は必要数に止められた。これらを一年間実行すると、国に節度が生じた。

中巻 182頁

「金は天下の廻りもの」という。上下左右に活発に流れていれば、本当は誰もがそこそこに安穏に暮らすことのできる社会になるはずではあるのだが、現実はそうはいかない。無闇に溜め込んだり、何の有用性の無いものに注ぎ込んでみたり、次に繋げるということを考えようともしない輩がいて、また、そういうことで己を誇示しているつもりの輩も少なくない。結果として世の中は平らにはならず、いつの時代のどこの社会も不公平だの不公正だのと騒ぎが収まらない。収まらないようにできている、と思うよりどうしようもない。

治れる世には、君子は才能を重んじられても下位に譲り、小人は労力を惜しまずに上位に仕え、かくて上下に礼あり、奸邪の者は退けられる。それは互いに争わぬからで、これを美徳という。

中巻 205頁

こんな世の中を生きてみたい。つまらない気もするけど。

あなたが晋国を治められてより、近隣諸侯は令徳などまるで耳にせず、聞くは重き礼物のことのみ。わたくしは不審に堪えませぬ。国家を導く君子は、財物無きを気にかけず、令名無きを気にかける、と僑は聞いています。諸侯の財貨が〔晋の〕公室に集中すれば、諸侯は〔晋から〕離叛するでしょうし、もし吾子あなたがそれで利益を得れば、晋国内部で離叛がおこるでしょう。諸侯が離叛すれば、晋国〔の盟主〕の地位は崩れるし、晋国内部で離叛がおこれば、あなたの家は崩れる。そのことがおわかりになりませんか。財貨などは何の役にも立ちません。令名は徳を載せて運ぶもの、徳は国家の基礎をなすもの。基礎にひびが入らぬよう努むべきではありませんか。徳あれば楽しく、楽しければ永続きできます。

中巻 286頁

結局、政権の命運は適正な課税にかかっているということだろう。これは至難だと思う。経済環境は時々刻々変化する。人類史上、社会も政治も経済も自然環境も安定したことなど一瞬たりとも無い。毎日安穏としているように感じるとしても、それは単に鈍感なだけだ。我々は見たい現実しか見ないし、都合の悪いことは見ないふりをするか、都合の悪さが理解できないかのいずれかだ。そうした中で、人々の最大多数の最大幸福を実現するに足る為政のコストを納得させ負担させるのは「徳」と言ってしまえば確かにそうかもしれないが、果たしてそんなものがあり得るだろうか。

国が興るときは、民を負傷者のように大切に扱う。これが国の福です。国が亡びるときは、民を土芥どかいのように粗末に扱う。これが国の禍です。

下巻 392頁

禍だらけの気がしないでもない。

君子の施政は礼を基準にして、施捨は手厚く、使役はほどほどに、徴税はなるべく薄くするもの。

下巻 440頁

君子とは想像上の人物のことだろう。

ところで、本書には孔子の弟子である子路の最期の様子が書き記されている。色々に引用されているが、ここが出典とは知らなかった。

今、我々は春秋時代の国々がその後どうなったか知っている。「人の振り見て我が振り直せ」と言うが、過去から学ぶべきは取って付けたようなハウツウではないだろう。


読書月記 2022年8月

2022年08月31日 | Weblog

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART7』 国書刊行会

本書での各作品についての書き出しが、当該作品関係者の死についてであることがけっこうある。例えば、

ラナ・ターナーが他界した。七十四歳だった。
12頁 「THE POSTMAN ALWAYS RINGS TWICE (1946) :郵便配達人は二度ベルを鳴らす」

というように。こんなふうな感じに始まる記事が12本ある。本書で見出し作品として取り上げられているのが121作品なので約1割だ。どの程度の頻度でこのエッセイが書かれていたのか知らないが、取り上げる作品を選ぶのに関係者の死というのは良いきっかけになっていたのは確かなのだろう。

つい最近、ウォルフガング・ペーターゼンが亡くなった。本書(142-143頁)に登場する『U・ボート(原題:Das Boot)』の監督だ。1981年の作品で渋谷の映画館で観たと記憶している。大変気に入ってしまって、「劇場公開版」「ディレクターズ・カット」「TVシリーズ完全版」の3枚がセットになったDVDボックスが発売された時には躊躇なく買ってしまった。それから十数年経過したが、肝心の「ディレクターズ・カット」をまだ観てない。

本書ではまずルネ・クレマンが亡くなったことをきっかけにして『LES MAUDIS (1946):海の牙』について語られている。『U・ボート』は潜水艦映画の流れとして『海の牙』に続いて取り上げられている。そして『レッドオクトーバーを追え』『クリムゾン・タイド』と続く。だから『U・ボート』の記述の熱量が、私からすると物足りない。同じようなことが以前にもあった。「PART5」での『がんばれ!ベアーズ』だ。

『U・ボート』の撮影に際しては精密なセットを作り、出演者たちには艦内シーンの撮影期間中約3ヶ月間、現実のUボート乗組員と同様に入浴、散髪などを禁止し、食生活も当時に近いものにして、出演者たちが「出航」から「帰還」までの間に実際の乗組員同様の身体的変化が表現できるようにしたのだそうだ。そうした撮影事情を知ったのは作品を観て数年経ち、さらにDVDボックスを購入してから何年が経ってからのことだ。後になって聞けばなるほどと思うものだが、観る者の記憶に刻み込まれるものというのは、それくらいの入れ込みがあればこそなのかもしれない。だからといって、全ての仕事に同じように取り組むことはできないだろう。人間なのだから作品やそれを取り巻く人々との関係や相性もあるだろうし、自分自身の考え方や生活への姿勢も変化が続く。これぞ、とか、これは、というようなものが生まれるのは、あるいは、そういうものと出会うのは、やはり運とか縁もあると思う。

本作は西ドイツ作品だ。監督も主要な出演俳優もドイツやオーストリアの人たちだ。その後、西ドイツという国は無くなった。東ドイツとの統一が成り、現在は単に「ドイツ」と呼ばれる。ペーターゼン監督は本作での好評価を機に仕事の場をアメリカへ移し、1985年の『第5惑星(原題:Enemy Mine)』以降は本格的にアメリカでの作品制作を行う。1993年の作品『ザ・シークレット・サービス(In the Line of Fire)』が興行的成功を収め、次の作品『アウトブレイク(Outbreak)』、1997年の『エアフォース・ワン(Air Force One)』と続く。主演のユルゲン・プロホノフも本作で注目されたことをきっかけに活動の場をハリウッドへ移した。

本書のシリーズ全編を通して感じることなのだが、俳優とか監督の職業人としての寿命が総じて短くなっている気がする。産業としての映画の盛衰ともちろん関連しているだろうし、俳優に関しては体力的・健康面の問題とか容姿の変化といったことがあるので、自由業でありながらも賃労働者同様の限界は程度の差こそあれ避けるわけにはいかないのかもしれない。何よりも、時代の変化と共に、人間の感受性のようなものも変容していて、「面白い」「美しい」「心地よい」といった感情そのものも変容している、つまり、「人間性」自体が変容しているのだろう。この先、人間の社会がどうなるのかわからないが、生きている限り「お楽しみはこれから」であり続けるのだろう。

 

いわゆる差別についてずいぶん喧しい世の中になった。差別される側、差別された側が声高に差別の不当性を主張することが差別そのものの解消につながっているようには見えないのだが、問題の存在を広く訴えることができるということが大事なのかもしれない。現実には、騒ぎ立てたところで、表立った差別がそうではないものに変わるだけで、結果として一層悪質なものにならないとも限らない。自他の別の延長線上に差別があると思うのだが、その自他の意識が暴走することで人間同士の大規模な殺戮にまで至るのは、それほどまでに人間の自我というものが強力であるということでもあるのだろう。だからこそ、人間は地球上でこうして我が物顔で振る舞っていられるのである。

本書で取り上げられている作品の中にも差別に関連して注目されるものがいくつかある。例えば『EXODUS (1960):栄光への脱出』(本書176-177頁)はイスラエル建国を題材にしたものであり、『CROSSFIRE (1947):十字砲火』(192-193頁)、『GENTLEMAN'S AGREEMENT (1947):紳士協定』(194-195頁)もユダヤ関連だ。

「栄光への脱出」はイスラエル建国秘話といった映画で、ユダヤ人の立場に立つと勇壮な物語である。しかし彼の地に住んでいたアラブ人の身になってみると、強引な建国ということになろう。なにしろ旧約聖書の時代にまでさかのぼる紛争だから、ぼくには理解できないところがあるのだが、ユダヤ人の多いハリウッドだから、この映画が大作として作られた事情はわからなくもない。
 ポール・ニューマンは建国のリーダーの一人で、六百人の同胞と船で現地へ向かう。現代のモーゼを思わせる描き方。現地には父(リー・J・コップ)と叔父(デイヴィッド・オパトシュー)がいる。父は穏健派だが、叔父は過激派で、テロをやっている。
 叔父の言葉。

「歴史を見ろ。テロ、暴力、死は国を誕生させる助産婦なのだ」
176頁 『EXODUS (1960):栄光への脱出』

「十字砲火」は復員兵たちの溜り場で一人のユダヤ人が殺される。容疑者が浮かぶが、担当の警部(ロバート・ヤング)は別の人物に狙いをつける。何かと差別的発言をする兵隊(ロバート・ライアン)で、警部はほかの兵隊たちと計らって、彼を罠にかける。ミステリー仕立ての社会派作品。
(略)
警部の祖父はアイルランド移民で、かつていわれなく殺されたのだった。そのことを話してから警部は言う。
「憎悪には意味はない。アイルランド人というだけで憎まれる。次はユダヤ人、次はクェーカー教徒。次は縞のネクタイをしているだけで殺される」
192頁 『CROSSFIRE (1947):十字砲火』

主役のグレゴリー・ペックはルポライターである。友人が編集長をしている雑誌社から反ユダヤ主義についての取材を依頼される。彼は取材の方法として、自分はユダヤ人だと名乗ることにする。すると突然差別を受け始めるのだ。ホテルには泊まれない。子どもはいじめられる。自ら体験する中で、彼は偏見を本当に憎むようになる。
 彼の妻はすでに亡く、恋人(ドロシー・マクガイア)ができる。彼女はインテリの上流婦人。偏見は持っていない筈だ。だが彼がユダヤ人を名乗ってから関係がギクシャクする。つまり彼女は普通の人であり、事を荒だてたくないのである。「紳士協定」は彼女が使う言葉で、差別があったとしても暗黙のうちに丸く収めてしまうのが紳士的なルールだ、という意味である。それを彼に求めるので彼は怒って言う。
「善良だけでは足りない。何もしないで傍観しているのは愚劣なルールへの同調だ」
194頁 『GENTLEMAN'S AGREEMENT (1947):紳士協定』

アメリカでユダヤ人に対する差別が本当に深刻な状況であったとして、そのアメリカで反ユダヤ主義批判の作品を多額の資本を投じて制作し公開することができるだろうか? 下々の生活の場面では単純な差別的行為が横行しているとして、それが即ユダヤ人の社会における位置と一致したものと判断できるものなのだろうか? 社会の表層と深層は単純に繋がっているものなのだろうか?

差別については日本人も他人事ではないだろう。先月の元首相暗殺事件を機に或る新興宗教と与党との関係が取り沙汰されている。その新興宗教は隣国に本拠を置くものだが、日本の政権与党と深いつながりがありそうだ。公開されている情報だけを頼りにそのつながりを辿ってみると満州に行き着く。そのことは前に書いた。同じように現首相についても公開情報だけを辿って系図にまとめてみた。やはり台湾とか満州といった日本の旧植民地との関わりが示唆されるものだった。下々の方は素朴に差別的な事を叫んでいたりするのだが、権力の中枢の方はその差別の対象と何か繋がりがありそうだ。

 

ボードレール 堀口大學訳 『悪の華』 新潮文庫

なぜこの本が我が家にあるのか、今となってはわからないのだが、購入したのは『口訳万葉集』と一緒だった。読み始めたから一応最後まで読んだが、子供が書いたものみたいで、少しも感心しなかった。尤も、原語で読んだわけでもないし、堀口大學という高名な人の手によるとは言いながらも翻訳なので、私は本書を「読んだ」とは言えないかもしれない。

ここ数年、短歌だの俳句だのを齧ってみてはいるものの、文学なるもののことはさっぱりわからない。本書についても一応字面を追ってはみたものの、何も感じないという経験をしただけだった。

ただ何となく思ったのは、この人は最初から生きてはいなかったのではないかということだ。父親は元老院事務局長だった。おそらく大した地位だ。フランス革命、第一帝政、王政復古、七月革命、二月革命、第二共和制、第二帝政とフランスは18世紀末から19世紀中盤にかけて目まぐるしく国家体制が変動する中にあって、元老院はフランス革命で創立されて以来、国家の権威の拠り所として比較的安定した地位にあったようだ。その事務局長であるからその地位は推してしるべしだ。

あくまで「歴史」と称される伝聞から想像するだけだが、「革命」で起こった新体制は「革命」が否定した旧体制の居抜きのような社会を創る。王政を倒した革命派は、結局、呼び方が「王」ではないというだけで「王」に類した権力中枢を構築する。おそらく人間の思考がそのようにできているのだろう。

近頃もさまざまな「弱者」を守ろうという看板が林立しているが、それによって誰かが本当に救われるということはほとんど無くて、問題の所在が別のことに置き換えられたりするだけのようにしか見えない。おそらく、何かが「改善」されたように見える変化によって利権や利害が大きく動き、その恩恵を享受することが「政治」というものなのだろう。

ボードレールはその体制側の人間だということは心に留めておく必要があるかもしれない。当時のフランスの一般大衆の側からすれば、どのように見られる立場にあった人なのか、ということだ。せっかくなので、本書から少し引用を並べておく。

一日の終り
恥知らずで騒々しい「人生」という奴は
陰気な照明の下を、走ったり、踊ったり、
理由もないのにもがいたりしている。
だからまた、地平線に、

楽しい夜が姿を見せ、
一切を、飢えまでも、宥めすかして、
一切を、恥までも、打ち消し去ると、
早速に、「詩人」が呟く、

《やれやれ!
僕の心も、大骨も
休息したい気持ちで一杯、
胸はさびしさで一杯ながら、
ひと先ず仰向けに寝ころぼう、
おお、気持ちのいい闇よ、
そなたの帳にくるまって!》
297-298頁

南無三宝! よろめく独楽を、跳びはねる鞠を、
僕らは真似ているわけだ。眠っていても
「好奇心」は僕らを苦しめ、追い廻す、
まるで太陽に鞭を当てる酷い天使だ。

何たる奇運だ、目標が移動するとは、
つまり、何処にもないので、何処でもかまわないとは!
その希望、疲れを知らない「人間」が、
安息を探し当てようと狂人のように駆け廻るとは!

僕らの魂は、理想郷を探し廻る大船だ、
甲板に声が聞こえる、《しっかり見張れ!》
狂おしい熱気を帯びた檣楼の声がわめいた、
《恋だ…名誉だ…幸運だ!》ところが、それは暗礁だ!
302-303頁

「どうでもいいから、とりあえず働け」と言ってやりたい。

本書の原書はボードレールが36歳の時に出版したものだ。彼はいわゆる「ボンボン」で、21歳の時に亡父の遺産7万5千フランを相続したが2年で使い果たし、以後一生借金漬けの日々を過ごしたのだそうだ。山田風太郎の『人間臨終図巻』には次のような記述がある。

彼は四十歳のころから健康を害していた。それは梅毒によるものであった。(略)一八六六年三月中旬、彼はベルギーのナミュールのサン・ルー教会にゆき、突然また発作を起こして石だたみの上に倒れ、それ以来半身不随と失語症の症状を起こして、カトリック系の慈善病院にいれられた。
山田風太郎『人間臨終図巻』徳間文庫 第一巻362頁

結局、パリに帰るが1867年8月31日、46歳で亡くなる。『悪の華』は出版時に背徳の書とされ、ボードレールは罰金刑を受けた。それだけでなく、生前はほとんど顧みられることがなかった。そりゃそうだろう。世間に余裕がないとこういうものは評価されないと思う。

ちなみに翻訳版である本書の奥書には「昭和二十八年十月三十一日発行」とある。日本では戦争が終わって一息ついて、ようやく余裕が生まれ始めた頃だ。なんだかんだいろいろあるけど、今はいい時代だと思う。

 

田中克彦 『ことばとは何か 言語学という冒険』 ちくま新書

勤務先では今年の初めに部門長が交代して、いろいろ新しい試みがなされている。部門の活性化という目的もあり、春ごろから毎週木曜日の昼時に勉強会を開いている。一人15分の持ち時間で毎回二人の講師役が自由にテーマを決めて何事かを語るのである。私は裏方部門なので講師のローテーションに参加する義務はないのだが、皆面白い話を聴かせてくれるので、自分もその面白さの一部に加わりたいと思った。それで部門長に「参加させてもらってもいい?」と尋ねたら「是非!」ということになった。とりあえず9月15日に一コマ受け持ち、言葉について語るつもりでいる。

「ちはやふる」という題で、百人一首の在原業平の歌を題材に、そのわずか三十一音から母語を共にする我々がどれほどのことを受け取ることができるのかという話にしようと今考えている。

ちはやぶる神代かみよも聞かず竜田川からくれなゐに水くぐるとは
谷知子 編『百人一首(全)』角川ソフィア文庫 48頁

ちはやぶる神世もきかず たつた川から紅に水くくるとは
佐伯梅友 校注『古今和歌集』岩波文庫 83頁

テーマは母語である。日本語を母語とする話し手と聞き手が表記の言葉を超えてどれほどのことを共有しているものなのか、共有する可能性があるものなのか、というようなことを語ろうと思っている。そのことで、表記された言葉を別の言語に置き換えただけでは、元の言葉の意図することは置き換えた先の言葉を母語とする人には伝わらないということも明らかになるのではないかと考えた。

いざ、自分の話の原稿を作り始めたら、当然のことながら、確認しないといけないことだらけだった。それで自分の勉強のためにあれこれ資料をひっくり返しているのだが、本書はその中の一つだ。田中克彦を知った経緯については以前に書いた。

改めて読んでみると、自分が言葉というものを何もわかっていないということがよくわかる。わかっていない言葉をこねくりまわして何事かを考えたつもりになっているのだから、その考えたこともろくなものではないということも明らかになる。自意識の強い人なら、ここで奮起して何か前向きなことを始めるのかもしれないが、あいにく私の場合は「まぁ、しょうがないよね」と片づけてしまう質なので、苦笑して終わるだけだ。

尤も、世間の方もそれほど言葉を深く考えている様子はない。「母語」というのは「母国語」とは全然違うのだが、辞書ですらちゃんぽんに扱っているものが多い。そもそも「母語」は意識しないものなのだから、そこに関心が払われないのは当然だ。

そういえば、巷でよく見聞きする日本語の「乱れ」を嘆く語りは、たいてい馬鹿っぽい。なかにはその嘆きの語り自体が乱れていたりする。言葉は当たり前に変化する。その変化の最先端はそれまでの「常識」からすれば「乱れ」と認識されるのも当たり前のことだ。一定の「乱れ」が定着して「変化」と認識されるに至るのである。他所の言葉だと「乱れ」なんだか「間違い」なんだかわからないが、自分が当然の如くに使っている言葉は自分自身がルールブックなので新しい言葉遣いは「創作」とか「創造」といった前向きな感じのものになる可能性を秘めている。

おそらく、物事の成否を自己の外部に設けた権威との整合性に照らして判断する習慣が日本語の社会にはあるのだろう。文字、衣食住の諸事、都市計画、宗教、社会制度、その他様々ものが大陸伝来で、近代以降は伝来元が大陸のずっと向こうの欧米になったというだけで、いつになっても何をするにも範を外部に求める。何事も数字や既成権威の評価に依存するのも同じ思考パターンだろう。しかし、生まれたくて生まれたのではなく、死にたくて死ぬわけでもない、高々数十年の個人の生の在り様をとりあえず納得するには、自分でどうこうするよりも既成の尺度に自分を合わせたほうが手っ取り早いには違いなかろう。

ここまで書いてきて本書の内容にはまだ一言も触れていない。困ったものである。取ってつけたようになってしまうのだが、本書で興味深いのは「第三章 当面する言語問題」の中で語られている諸々だ。19世紀の欧州で見られたいわゆる民族自決運動と母語の関係、母語と政治の関係、あるいは言語の政治的意味といったことは、今まさに問題となっている旧ソ連領域での摩擦や隣の大国での少数民族を巡るあれこれとも密接に繋がっていることがわかるのである。最近の感染症騒動で一瞬立ち止まったかのような「グローバリゼーション」だが、今更大きな流れは変わるまい。日本語にもこれまでにも増してプラスチックワードが氾濫するようになったが、自分の実感としては日本人がかつてに比べて外国語に堪能になったとは思えない。むしろ、バブル崩壊以降は却って内向的になっているように感じられる。それと関係があるのかないのかわからないが、世界が一つのまとまりとして機能する方向に動いているのに対し、民族であるとか言語は多様化に向かっているように見える。例えば、最近も「キエフ」と長年表記されていた都市名が「キーフ」に変更された。一体化と多様化のパラドクスのようなものが、そうした現象面の背後にチラチラする。この三章の話は改めて考えることにする。

注記:歌の表記だが、「ちはやふる」か「ちはやぶる」か。鎌倉時代頃までは読みに関係なく表記には濁点を打たなかった。上の引用では濁点を打っているが、落語も漫画も濁点なしの読みになっているので、こちらの話の都合上、自分のプレゼンでは濁りのない方にした。下句の「水くぐる」は『百人一首』の撰者である藤原定家の読みで、在原業平は「くくる」と詠んだらしい。この読みの違いは描く風景の違いにつながる。「くぐる」と読むと、川の上に紅葉がかぶさるように生い茂っており、その紅葉の重なり合うところを潜るように川の水が流れている様ということになる。「くくる」と読むと絞り染めのことを意味し、川辺の紅葉が映って赤く染まったような水に絞り染めのために括った布が泳いでいるかのような流れの風景だ、という意味になる。尤も、この歌は実際の風景を詠んだものではなく、屏風の絵を詠んだものらしい。

 

今年の春にウクライナで戦争が始まった時、世界が驚愕したかのように感じられた。しかし、つい30年ほど前に、ロシア語と同じスラヴ語系地域であるユーゴスラビアが内戦で分裂した。戦乱の直接的な原因は違うだろうが、エスニックグループの対立として見れば、同じ種類の騒乱の連続と考えることもできるのかもしれない。

1989年の正月をドゥブロヴニクで迎えた。当時はイギリスのマンチェスターで学生として暮らしていて、冬休みを温暖な海辺で過ごしたいと思っていた時に、たまたま学内の旅行代理店で目についた旅行のチラシがドゥブロヴニクだったのである。アドリア海に面した古い街は世界遺産にも指定されている美しい街だった。しかし、経済は既に破綻していて、200%を超えるインフレに見舞われていた。商店の値札は小さなメモ帳のようになっていて、毎日のように値段が変わるのに対応していた。それほどのインフレになると建設工事のような長期に亘るものは予算を立てることができないので観光客の動線から外れた場所の風景は荒んでいた。思い返せば、そういう尋常とは言えない状態がその1年ほど後に起こる騒乱の予兆だったのだろう。

旧ユーゴは「非同盟中立」を謳い、社会主義体制ではありながらもソ連を中心とする勢力とは一線を画していた。政治的に一時的な独自性を打ち出すことはできても、強固な経済基盤を構築できなければ、独立した国家としての存立はおぼつかない。従前から複数民族複数宗教がひしめくバルカン半島にあって、もともと不安定な政治経済を抱えていたユーゴは、カリスマ指導者であったチトー大統領亡き後にチトーに代わるリーダーシップが不在のまま、ソ連の崩壊を機に東側諸国が軒並み混乱に陥る流れの中にあった。1990年6月にスロベニアがユーゴから独立したのを皮切りにユーゴスラビア紛争が起こり、現在の状態で落ち着いたのは2001年のことである。

母語が同系であることは共同体を構成する動機のひとつになるかもしれないが、肝心の生活が成り立たないようでは話にならない。しかし、オーストリア=ハンガリー帝国、そこから独立したユーゴスラビア王国という多民族国家の枠組みのなかにあって国民生活が安定しなければ、それぞれの民族はそれぞれに「自分たちだけで国を作った方がうまく行くのではないか」と考えるのは人情として自然であるように思う。

しかし、生活すなわち経済というものが機能するにはある程度の規模がないと総体としての固定費が低下せず、自立した単位として存続することが難しい。市場原理の下で、つまりはあらゆる種類の価値が貨幣価値というデジタル表示に換算される中にあって、コスト低減=付加価値向上を実現するには規模の拡大と技術革新しか有効な手だてはない。必然的に経済活動、なかでも生産と流通は規模の拡大を指向する。生産の対局は消費なので、生産と消費の規模拡大は常にセットである。

昨今「SDGs」とか喧しく言われているが、地球という物理的に有限な環境で、市場原理の下に人々の暮らしが営まれていれば、資源は必然的に枯渇する。そんなことは誰でもわかることで、戦後の復興が一段落した1970年代はじめにローマクラブの「成長の限界」という報告書が話題を集めた頃から繰り返し言われていることだ。1970年に大阪で開催された万国博覧会のテーマも「人類の進歩と調和」で、「調和」に関する様々な展示があったはずだ。

しかし、人間生活の現実は結局のところ未だ見ぬ先の危機よりは目先の暮らしのコスパによって左右されるのである。SDGsを騒ぐことと、巨大資本が生産する大量の商品を巨大資本が運営する流通を使って実現した「コスパの良い」商品を消費して家計の出費削減に努めることとは矛盾するのだが、そんなことは誰も知ったことではないのである。矛盾は大きくなることはあっても解消されることは、たぶん、ない。

過去に誕生した生物種の99%が絶滅したという。人類が1%の方なのか99%の方なのか、まだわからないが、今こうして生きている実感としては、1%の方に収まるとは思えない。人間の自意識、市場原理に生きる現実、その他諸々は自滅装置そのものではないか。その前に自分がいなくなるので、そもそもどうでもいいことなのだが。

話は変わるが、幸か不幸か日本には民族問題がない。アイヌとか沖縄とか細かいことはあるが、国を揺るがすような大論争になる類の民族問題はない。この点、日本人として日本に生まれて良いこともそうでないことも当然あると思うが、言葉で悩むことがないのは恵まれていると思う。

言葉、殊に母語は自意識と密接に関係する。「自分」というものをその時々の状況の中で適切に位置付けることができてこそ、心の平和が得られる。1000年を軽く超える他所に例を見ないほどの長期に亘る共同体の中で生きることは、息苦しさがある代わりに安定感もある。その分、外国語の学習では負荷が大きくなるのだが、少なくとも千数百年にわたって母語として育んできた言語を当たり前に使うことができるのは、やはり、ありがたいことだと思う。

その昔、モンゴル系の民族が中国大陸ばかりかユーラシア全土を支配する時代があった。日本もその影響で元寇と呼ばれる侵略戦争を経験し、ただでさえ揺籃期にあって不安定であった武家社会が大きく揺らいだ。しかし、そのモンゴルの方は拡散霧消し、現代においてはモンゴル、中華人民共和国内の内モンゴル自治区、ロシア内の少数民族としてその名をとどめている。十七世紀までは続いていたとされるモンゴル語のエスニック共同体が分断されるに至った一つの理由は言語の分断であろう。モンゴル語を母語とした共同体は、その時々のそれぞれの地域の支配権力の影響下で、モンゴル文字ではなくキリル文字や漢字を使用するようになり、モンゴル語という共通項を保ちながらも民族としての国家樹立からは遠のいてしまった感がある。

日本語の場合は、早い段階から漢字の使用を選択したことが結果的には今日の安定的なエスニック共同体につながったのではないだろうか。本書に次のような記述がある。

ことばについて何か人工の部分があるとしたら、それは文字だけである。ことばは文字をともなって生まれたのではなく、身ぢかにあるどこかの文字を借りてきて使うしかない。日本語が漢字を用いているのはまったく偶然であって、日本語が書かれることを社会が要求したときに、近くには漢字しかなくて、他に選択の余地がなかったからである。もし、漢字以外の、もっと便利な文字があれば、それを用いていたはずである。すなわち、日本語が漢字で書かれているのは歴史的運命であって、自然によってではない。にもかかわらず、いな、だからこそ、漢字の賛美が必要になってくる。欠点の多いものほど、それだけ多くの賛美が必要になってくることは、日々の経験が教えている。
180頁

偶然であれ運命であれ、自ら独自の文字を創造しなかったことで、先進地域からの知見の導入が迅速に進行できたのは確かだろう。しかし、世界的に見れば、こうした事例は多くはないようだ。

十九世紀ヨーロッパでは、さまざまな民族が、他の国家の支配から離れて、独立の国家となる流れが湧き起こった。それに応じて、それぞれの国家は、かねてから、民族運動の中で育てられ、準備されていた、かれらの母語にもとづく国語を創出した。(略)
 これらの語はもちろん、十九世紀になって忽然と現れたのではなく、それにさかのぼる数世紀を通じて育てられていたものが、それぞれの民族・政治状況によって、一挙に躍り出たのである。つまり母語としてはすでに存在していたものが、国家という言語共同体の言語になったのである。別のことばでいえば、自然のことばが政治のことばになったのである。
187頁

自分が使う言語が誕生の段階から政治のドロドロと関わっているとしたら、果たして今のように呑気に好き勝手なことを言っていられるだろうか。横目で、あるいは上目で、周囲を注意深く観察し、あれこれ損得や権謀術数を考え抜いて生きることがデフォルトになってしまう。世に世界史を牽引するような創意工夫を生み出すのはそういう言葉の国々だ。世間には日本の、日本人の、創造力の貧困を嘆く向きもあるが、猿真似だのタダ乗りだの陰に日向に批判を受けながらも、こうして往来で周囲の迷惑も顧みずに寄り目でスマホのゲーム画面を見つめることに夢中になっていられる特権身分を享受できることを僥倖と呼ばずに何としよう。

ところで、前回読んだ時は気にもかけなかったのだが、本書は以下の一節で締め括られている。ウクライナはここに書かれている「非ロシア民族」ではないが、「ロシア」の名の下に絶対安定強靭な共同体を構築しょうとするなら、まずはスラヴ語派民族の共同体を固めるのがものの順序というものだろう。ましてや、黒海というさまざまな意味で豊穣な海に面した地域を本当に独立させておくのは理にかなわない。皆、驚愕したふりをしているだけで、実は責任ある人々の間では想定の範囲内のことだったのかもしれない。しかも、これは後に続くスラヴ語派大共同体編成の前哨戦かもしれない。だいぶ前に書かれた言語学の本を再読し、そんなことを思った。

ソビエト時代であれば、私は決して書かなかったかもしれないこのような状況を、いまはすすんで、心ある読者に伝えることができるので、そうすべきであると思っているけれども、最近プーチンはロシアの非ロシア民族が自らの言語にラテン文字の正書法をあてがうのを禁じる法令を出した。かれらにとって、非ソビエト化がすべてを良くしたというわけではない。
226頁


読書月記 2022年7月

2022年07月31日 | Weblog

陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書

先日、横浜に出かけた。中華街で食事をしていると、常連と思しき客が入ってきて、店の人と親しげに話を始めた。誰それの新しい本が出たとかなんとか、と聞こえた。陳先生が本を出されたんだなと思って検索したら、本書がヒットした。

気がつけば国立民族学博物館友の会の会員を長いことやっている。2012年12月9日の友の会東京講演会の講師は当時民博の准教授だった陳天璽先生。陳先生のご専門は無国籍・移民のアイデンティティの研究だ。会場は横浜にある海外移民資料館の会議室で、資料館の見学もあった。その後、希望者だけということで、陳先生のご実家である中華街のレストランで食事会があった。

私はこの講演会まで無国籍の人がいるということを考えたことすらなかった。自分に経験がなく、身近にもそういう人がいないということもあって、国籍が「自分」という意識とどのように関係しているのか今でも腑に落ちる想像ができないでいる。しかし、国籍というはっきりしたものが自分を語る記号の一つとしてある、というのと、そういうものがない、というのとでは自分の価値観の座標軸での自分自身の身の置き所がだいぶ違うだろうということくらいは想像できる。

私自身は昭和の超ドメドメ人間だ。たまたま若い頃にバブルのドサクサでイギリスのマンチェスターという典型的な労働者の街にある大学に留学したこと、その後のバブルの崩壊で当時の勤務先が外資に身売りすることになったこと、その他諸々があって、外資系企業を渡り歩いてもうすぐ定年というところまで辿り着いた。結果として、社会の中での階級、国籍、人種、その他のタグ付けについて否応なく意識させられることになった。しかし、意識はしても考えるというほどのことはなかった。考えている余裕がなかったと言った方が正確かもしれない。生きるということは瑣末なあたふたに満ちている。その時々の「今」と「未来」を思い煩うだけで精一杯だった。還暦を迎えて「未来」が消えたので、ようやく少しだけ考える余裕が出てきた。そして、振り返ってみて、タグ付けと人格とか性格との関係とか、自分なりに多少納得のいく解釈ができるようになった。

今は社会を左右する色々なことが米国発祥だ。米国はいわばこの世のイノベーションの母体のような存在だ。ここ100年ほどの時代の流れのなかで、米国の地政学上の位置が「世界標準」を発するのに都合の良いところにとりあえず落ち着いたという事情もあるだろう。それれよりも、おそらく、米国という「場」の成り立ちが「金銭」という成果物としてわかりやすいものに依存しないと「自分」の存在を確かめることができない社会だからなのだろう。

世間では社会がグローバル化していると言われている。「グローバル化」の意味するところは、米国のように、歴史や文化といった不定形の過去をリセットして、共有するものを持たない者どうしが、人ひとりの人生という短い刹那で自己の存在証明を果たさないといけないという強迫観念を抱える社会になるということだろう。

必然的に社会に提示する自身の生活の成果物として、共有するもののない相手にも容易にわかるものが要求される。また、そういう明快なものは文化や歴史を超越して独り歩きをして伝播し定着するので、デジタル表示のタグが付くものは本来的に規模を拡大しやすい。結果として世界は、デジタル表示可能なタグで充満することとなる。「有」か「無」か、「有」ならどれくらいの量やサイズなのか。最初の有無の問いに「無」ならば、そもそも社会には参加できないという、なかなかドライな世界が「グローバル」の現実なのではないか。「あることが望ましい」とか「切り捨てるべきではない」というような綺麗事それ自体は議論する以前に絵空事で、その議論とは無関係な利害の一宣伝材料でしかない、のではあるまいか。

国籍とは人の属性だ。しかし、その「国」が無くなってしまったら、その国籍の人は存在しているのに存在しないことになってしまう。「有」「無」のタグで「無」が付いたので社会から排除される。デジタル処理として何の不思議もない。世界に本当のところは何人の人間がいるのか知らないが、おそらく世界人口約79億人の圧倒的大多数は「有」の方なので、無国籍は大勢として問題にはならないのだろう。だから社会としては無国籍の人は存在しないこととする。それでいいのか?釈然としない。

本書には陳先生ご自身のことも含め、さまざまな「無国籍」の事例が紹介されている。「国」というのは巨大な組織が簡単に現れたり消えたりしない、という前提で、おそらく大勢の人が生きている。しかし、ある日突然「国」が誕生したり消滅したりするのは歴史上の現実としてある。現実というものは個人の事情を勘案したりはしない。

本書によれば、無国籍が生じる原因は様々だ。

旧ソ連や旧ユーゴスラビアなどのように、国家の崩壊、領土の所有権の変動によって無国籍になった人もいれば、私のように外交関係の変動が原因で無国籍になった人もいる。また、国際結婚や移住の末、国々の国籍法の隙間からこぼれ落ちて無国籍となった子どもたちも存在する。日本の場合、具体的にはかつて沖縄に多かったアメラジアンや、1990年代以降に増えたフィリピンやタイからダンサーとして来日した女性と日本人男性との間に生まれた婚外子がそうだ。ほかにも、ロヒンギャなどのように民族的な差別の結果、無国籍となった人々、そして行政手続きの不備など、無国籍者が発生する原因は実に多岐にわたる。
15頁

本書は無国籍という具体的事例を扱ったものだ。しかし、国籍というものを人間の属性を表現するタグ付けの問題として捉えると、話はとんでもなく深く恐ろしいものに見えてくる。「国籍」というタグを「XXX」に置き換えてみると、という発想で自分自身が抱えていること、自分の身の回りの人が抱えている問題を捉えることができるだろう。そして、その問題はそもそも解決できるのか、というところにまで思いが至るはずだ。その時、、、ということなのである。

社会を生きる以上、その仕組みに自分を適応させないわけにはいかない。現実を明快に分析して、個々の課題や問題を明らかにすれば自ずと解決は見える、そのためにこれをこうしてああして、、、とロジックで物事が全て片付くとの考えはよく耳にする。また、そういうことが「価値創造」だと信じている輩もたくさんいるだろう。しかし、生身の現実というのは本当に「有」「無」とか「0」「1」とかで割り切れるものなのか、割り切らないといけないものなのか。割り切って「解決」したら幸せになるのか。

 

宮本常一 『民間暦』 講談社学術文庫

本書は1985年12月に初版が発行されたが、本書に収載されている論文は戦前に書き記されたものが中心である。宮本の著作はフィールドワークが基礎になっており、日本の津々浦々で宮本自身が採集した話をまとめている。

以前に山梨の農家から野菜の定期便を買っているという話を書いた。いわゆる有機農法で、自然の周期や耕作に伴う地力の変化に合わせて野菜や米を作っている。農家自身が自給自足を目指しているので、様々な種類のものを作っている。販売にはいくつかの選択肢があるのだが、我が家は1週間おきの配送を選択している。昨年の最終便が12月第2週に届いた。今年は6月第1週に最初の便が届いた。約半年の間は販売に足る収穫がないということだ。おそらく、農業に縁の無い人の中には「定期便」と称しているのに1年の半分「しか」届かないのか、と思う人がいるだろう。私は学生時代に畑仕事をするサークルに属し、現在の家人には米作を営む親戚もいるというのに、昨年12月に「今回が年内最終です」という野菜に添えられた近況報告兼請求書に「次回は来年5月頃」とあるのを見たときに「えっ」と思った。しかし、「えっ」と思う方がどうかしている。農作物は「ポチッ」とはできないのである。スーパーなどの小売店では一年中豊富に生鮮食品が並んでいる。それはどういう事情で可能なのかと考えると、少し恐ろしかったりする。つまり、農業とか食糧の生産という視点では、時間の流れは均質均等ではない。作物の生育に応じた「暦」があるはずだ。

暦はなぜ必要なのか。時間に秩序を与えるため、とでも言えばよいのだろうか。今は世界共通の暦があって、たぶん誰もが何の疑いもなく使っている。当然の前提として共通でないといけない。それぞれが勝手な暦を使ったら交渉事ができない。人と人との交渉が成り立たないといことは生活ができないということでもある。少し前にコンピュータの「2000年問題」というものがあったが、暦がバラバラだと特定の年限の問題ではなく「毎日問題」になってしまう。しかし、少し時代を遡れば、地域ごと、職業ごと、その他の集団ごとの暦があった。

やはり、基本になるのは生命を支える食糧の生産や確保に絡むものだろう。農耕なら農作物の生育に合わせた、漁撈狩猟なら獲物の行動に合わせた時間の秩序がある。人間の暮らしはそういうものに合わせて営まれていたはずだ。春になれば花が咲き、夏になれば実を結び、秋になれば実が熟れて、冬は静かに次の春に備える、というようなざっくりとした周期があり、またそういう周期に合わせた種々雑多な生命の営みがあり、そうした大きな流れの中に人間の暮らしもある。その周期に目盛を振ったのが「暦」なのだろう。

当然、周期には振れもあれば、突発的な変化もある。今よりも「科学」が未発達な時代においては、そうした予想外のことは「神」の仕業ということにしてブラックボックスとしないことには「秩序」の説明がつかない。ブラックボックス、つまりそこにいる誰にもわからないことについては、そこにいるみんなの共同責任で決め打ちして前に進まないことには生活が成り立たない。そこに村落共同体の季節の節目の行事が生まれる。節句の祭りは「祀り」、本来は神意を問う行事で、「お祭り騒ぎ」というような単なる羽目外しではなかった。

日本の四季は、二十四節気に細分化され、そこに雑節と呼ばれる補助的な節目が入る。また二十四節気を各3つずつに細分化した七十二候と呼ばれるものもある。今は二十四節気も国立天文台が太陽黄経に基づいて算出した日時を公表しているが、もとは人々が天体や身近な自然の変化を観察して推計していたものだろう。

今、地球の周りをいくつもの気象衛星がぐるぐる回り、地球上にはいくつもの気象観測施設があり、日進月歩で高性能化著しい電子計算機がフル回転して観測データの解析を行う、という具合に人類の叡智を総動員するような体制で天気予報をこしらえているが、それでも直前になって後出しジャンケンのように予報が頻繁に修正される。ましてや、大昔ならば「神」に登場していただかないことには先々の天候や農作物の生育の予想など語ることができなかっただろう。

今、「花見」といえば桜を愛でることで、その桜はソメイヨシノであることが多い。ソメイヨシノは江戸時代に江戸府外の染井地区に集住していた植木職人たちが接木で生み出した品種であることはよく知られている。いわゆるクローンなので、花は咲いても実はならず、接木でしか増殖できない。生物としてはなんとも不気味なものなのだが、それを我々は「サクラはいいねぇ」と愛でるのである。その花見はかつては文字通り「花」の咲き具合からその年の農作物の出来不出来を「予見」する行事だったという。仏教の灌仏会も同じような時期なので、ひょっとしたら何か関連があるのかもしれないが、仏教が農村に浸透する時期は日本の集落形成よりもずっと後のことなので、初めらから関連していたはずはないだろう。ただ、だいぶ古い時期から枝垂れ桜は神降臨の木のひとつとされており、霊地に植えられることが多かったようなので、神意を問うことと桜の花見は何か関係があったのだろう。その民族としての記憶が現在の花見に通じているのかもしれない。たとえ、その花がクローンであるとしても。

今月は京都の祇園祭だ。かつては旧暦6月に行われていた宮座の神事だ。宮座というのはその土地の神社を中心にした集落の単位で、宮座の行事を司るのは構成員の間で選ばれた者であった。神社といっても神職が定められて専門職となったのは近世以降のことらしい。神社は宮座の村民全員の共同責任で管理されていたのである。その際、年齢がものを言うことが多かったようで、やはり経験は尊ばれた一方、若者は実際に労働の中核を担う点で大きな発言力を持っていた。「お祭り騒ぎ」というと今は語感として単に賑やかさが強調されているように思うのだが、宮座というものが機能していた時代には、参加するひとりひとりが当事者意識と緊張感を持った真剣な行事だった。このことは、それだけ宮座というものの共同体としての一体感が強かったということでもあり、それだけ排他的でもあったということを示唆している。「他所者」という言葉が今でもあるが、これは宮座の構成員に対する非構成員を指したもので、その宮座の行事への参加資格がないという意味であった。

しかし、時代が下って人々の往来が活発化し、村落共同体での他所者の割合が大きくなると他所者抜きでの村落経営が困難になる。かといって他所者という扱いを止めると、村落の共同意識が希薄にならざるを得ない。現実に、明治になって「村落共有」という所有権のあり方が認められなくなり、それまでの共有物が構成員個人の所有に分割されると、つまり、個人所有が原則となると、共同体意識そのものが急速に希薄化することになる。文明開花で人々の科学技術の知識が高まるとともに、神仏への信仰は薄れざるを得ない。それまで村落構成員の間で選出していた神職が専業となって職業となり、予言・卜事であった節句の行事は単なる祭りになる。「神」は信任を失い、人々にとっては他人事になる。神事が他人事になるということは、それを維持するにはエンターテインメントである必要が生じる。神事でガチに占いをしていたのでは、占いに来た人の気分を害することにもなりかねないので、神事は寿ぎ専門になる。ここで注目すべきは、食うためには人の気分を害してはいけない、という現実だ。「予言」はあくまで「祝言」でなければ神職が職業として維持できないのである。

今、暦は万国共通のグレゴリオ暦だ。万国共通でなければ現代の生活は維持できない。それは、人間の暮らしが国境を超えてつながり合っているということかもしれないし、自分個人のことにしか関心がないので、暦は暦専門家にお任せ、ということなのかもしれない。

「専門家」にお任せ、というのは暦だけのことではない。物事が細分化されて「専門家」とか「プロ」とやらに任せることばかりになった。それは要するに生活のあれこれを他人任せにして、自分は己の目先のささやかな利害にのみ専心できるようになったということだろう。誰もが幸せになってけっこうなことだ。

 

よく仏像の美術的な話で運慶・快慶が登場する。美術史のことは何も知らないが、個人的な印象として運慶・快慶以前と以後とで仏像表現が全く違ったものになっている。運慶・快慶の登場を機に仏像の人体表現のリアリティへの追求姿勢がグッと強くなった気がする。それはなぜだろうと常日頃から思っていた。当然、造形技術の進歩というような事情はあるだろう。しかし、物事は、作ろうと思わなければ、できないものだ。リアルに作ろう、本物の人物のように作ろう、という意志があればこそ、そういうものができるのである。なぜ、そんなことを思うようになったのだろう?

例えば仏教が伝来した頃の宗教は今のそれとは違うものだっただろう。はっきりと説明できるものと空想や妄想を交えないと説明できないものとが渾然一体となったもの、今で言うところの「科学技術」と「宗教」が渾然一体となったものが当時の宗教であり仏教であったと思うのである。そういう場においては仏像も神像もアイコンでよかった。造形の精密さ緻密さは要求されていなかった。「神とか仏というものがいて、それが…」と語るときに存在をイメージできれば事足りた、のではないか。法隆寺をはじめとする奈良の古刹の仏像が、どこかユーモラスにすら見えるのは、造形技術の限界もあったには違いないだろうが、人々が仏像というものに求めたものがそういうものであったということではないか、と思うのである。

もちろん、興福寺の八部衆像や十大弟子像のように天平の作とされながらも生身の人間を写したようなものもある。南都焼討以前から存在しているこれらの仏像を見れば、リアリティの追求が本格化したのは運慶・快慶以降だというのは誤りであると言える。しかし、敢えて言いたい。

私は人の脚が気になる。脚フェチだ。変態と言われても否定できない。今年3月1日から5月8日にかけて東京国立博物館で「空也上人と六波羅蜜寺」という特別展が開催された。本展では空也上人像が360度どこからでも見えるように展示されていたので、舐め回すように拝観することができた。そのとき目を引いたのは後ろ姿の躍動感とふくらはぎの艶かしさだった。私はその背面からしばらく離れることができなかった。

空也上人像は運慶の四男である康勝の作とされている。それまでなんとなく、仏像は運慶・快慶から変わったなと感じていたのが、空也上人像の後ろ姿、特にふくらはぎを見たときにそれが確信に変わったのである。空也上人像は以前に六波羅蜜寺で拝んだことがあるのだが、他の仏像と並んで正面からしか見ることができず、後ろ姿や脚がよくわからなかった。東京国立博物館での展示には何度も足を運んでしまった。

本書の「神送り」という章の中に次のような記述がある。

高野山は諸社寺のなかでもっとも広い荘園をもっていたが、その初めには源頼朝の寄進にまつものが多かった。これは壇ノ浦合戦に亡びた平氏の霊をなぐさめる心からであって、寄進せられた荘園も平家の領有だったものである。
220頁

源平合戦というのはよほど大規模なものだったのだろう。それによって時の天皇が入水するとか、源頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開くとか、日本史の画期となる出来事だ。南都焼討の後、親平家派の高倉上皇が崩御し、続いて平清盛も高熱を発して死去したことから、平家に対して仏罰が下されたとの噂が市中に広がったらしい。実際には、たまたまそういう時期が重なっただけだったのだろうが、世情としては、やはり死者の鎮魂は残された者にとっての必須の事業であったことだろう。寺社への寄進や寺社あるいは仏像の建立は、戦乱後の統治者にとって自己の治世を安寧なものにする上で欠くことのできない事業と認識されていたとしても不思議はない。南都焼討のときああいうことになったのだから、平家滅亡の今、これでもかというほどに彼等を供養しなければ、という意識が権力を握った側に生じたとしても不思議はない。それが例えば仏像の精緻化にもつながっていると思うのである。

ちなみに、南都焼討後の復興事業の中で、源頼朝は東大寺の再建に尽力している。大仏殿の落慶供養には後鳥羽天皇とともに臨席し、その後、復興事業のほぼ最後に南大門も再建された。南大門の仁王像は運慶・快慶のほか定覚と湛慶が加わり、現在の山口県内から用材を調達して造られたという。興福寺の方は朝廷、藤原氏が中心になって復興された。

空也上人像のふくらはぎを絶賛しておいてこんなことを言うのもなんだが、運慶・快慶以降の仏像は、仏師の我(どうよ、って少し威張った感じ)が感じられて好きになれない。信仰ではなくゲージュツになっている気がする。ゲージュツは少し下品だ。

 

宮本常一 『ふるさとの生活』 講談社学術文庫

読者に小中学生を念頭ににおいて書かれたものらしい。語り口は平易だが、内容の濃さに変わりはない。むしろ、民俗を学ぶことの目的が明瞭にされていて、宮本の考えるあるべき姿がわかる気がする。

結局のところ民俗というのは生活の道具、風習、行事などから人と人との関係の在り様の表現であるようだ。宮本の著作は彼自身が足で集めた見聞に基づいているので、それを以て「日本の」と語るには漏れが多いかもしれない。しかし、現実に様々な地域の人々が往来し交渉することでこの国がひとつのまとまりとして機能しているのだから、少なくともサンプルとしては十分に意味のあるものだと思う。

この国の成り立ちを考えれば、現在の西日本が生活の歴史の中心であって、関東は辺境の地だ。人々が安住の地を求めて開拓、殖民をしながら東へ東へと生活圏を拡大する中で、その集団の中心も東へ移動し現在の姿になったのだろう。そうした流れがあれば、人と人との関わりの歴史とか濃さのようなものは、西が濃くて東が薄くなるのは当然だ。民俗にしても、西は生活の必然から生じたものが、東は形式が移植される形で広がっているという面は多少なりともあると思う。

大地の歴史、地質面の歴史も無視できない。いわゆる温泉場、湯治場と呼ばれる場所が国内至る所に分布している。それと表裏のことだが、火山と地震が多い。つまり、大地が概ね火山灰質で土地の生産力、地味という点では決して恵まれてはいないのである。日本列島全体が大陸プレートの辺縁に位置しているのだから、地殻変動が活発であるのは当然だ。しかし同時に大陸と大海の境に位置しているので、海流と大気の動きは複雑になりがちで、水には恵まれている。大地が比較的若く地味は良くないが、水が豊富で四季の変化がある、ということは民俗と大いに関係する。

そういう大地を切り拓いて食糧を生産し生活を立てていくには、開墾という土木作業にせよ、農耕という生産活動にせよ、共同作業がどうしても必要になる。その上、食以外に住居や衣類の用意もしないといけない。個々の家屋や衣服は個人でもなんとかなるかもしれないが、森林の伐採と運搬といった用材の確保にはやはり共同作業が必要になる。

共同作業に従事する人々の間で能力に大きな格差があると作業は捗らない。「一人前」という言葉があるが、これは共同作業に従事する一人として十分に足る能力を備えている、というのが元の意味である。共同体の構成員の「一人前」として認識されることが、その共同体の中で生きる場を得ることでもある。

しかし、個人の能力には自ずと差異がある。本人の努力は当然として、共同体として「一人前」を育成する相互扶助のようなことも必要になる。それが家族という集団であったり、師弟という擬似家族関係であったりする。「家族」というと人によっては強い思い入れがある場合もあるので、運命共同体とでも呼んだほうがいいかもしれない。運命を共にするということは、構成員の間では互いが自己の一部であり、それぞれに抱える問題があれば、我が事のように真剣に解決策や対応策を考え合う間柄であるということだ。なぜ真剣になるかといえば、構成員全員がそれぞれに「一人前」として信頼できるものでなければ集団が機能せず、集団が機能しなければ自分が生きていけないからだ。

そうした共同体の一体感を確認し合う作業として祭りその他の行事やしきたりのようなものも存在したのだろう。今でも歴史の長い祭りや儀式にはそれなりの細かな手順などが決められているが、本来はもっと複雑で外部の人間には測り知ることのできないようなものであったのではないか。そういう複雑な手順を守って儀式に参加できることが共同体の構成員であることの証しとして機能していた側面もある気がする。もちろん、祭りには神事として吉凶を占うとか災厄を祓うというような目的も当然あっただろうが、それだけが目的なら手順や作法などを事細かに決める理由にはならないだろう。大事なことは、祭りや儀式そのものよりも、それらを取り巻く人の動きの中に確たる役割を得て参加することだったのではないか。

こうして社会の成り立ちを概観すると、今の時代は「一人前」の中身があやふやで、個人の側からしてもその自覚を持ちにくい気がする。これは現在の日常生活の中で他者と何事かを「共同」して行うという実感が乏しい所為であろう。

今の時代に圧倒的大多数の人が生活の糧を得るために従事しているのは賃労働だ。おそらくその圧倒的大多数の賃労働はそれによって得る賃金以外に労働の成果を実感しにくいだろう。もちろん、営業や生産現場のような付加価値の形成が目に見えるものもあるが、それにしても営業商材の生い立ちまでは十分に認識できているか心もとないところがあるし、生産活動の原材料や設備の詳細まで把握できているかどうかも怪しい。現に、感染症の世界的流行や地政学上の異変によってサプライチェーンが混乱をきたしているのは、そうした個々の詳細がきちんと把握管理されていない証左だ。

そもそも個人が自分の生活をすべて理解できるほど今の暮らしは単純ではない。そういう「高度」な生活を実現しているのは生産活動の細分化と合理化であり、その背景として学術・科学技術などの人間の知見知識の高度化専門化があり、生産性の向上が付加価値の増加と同義とされる社会の価値体系がある。我々個人はその細分化された世界を生きていて、自分の領域外のことは貴方任せにせざるを得ない。その細分化された世界のどれを選んで生活を立てるかというところは個人の自由ということになっている。例えば日本国憲法の第22条にこうある。

第二十二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する

「自由」と言われても、思考の種がなければ選択肢が設定できない。その思考あっての自由であり、思考能力を担保するための教育が保障されていなければ「自由」はあり得ない。「自由」と「教育」は表裏一体だ。「自由」と「知性」が一体と言い換えることもできよう。教育は第一義的には個人を産んだ者の責任領域で、それを補佐するのが教育機関であり教育者だ。これらが健全に機能した上で、「自由」は価値を持つ。

法の下で我々には「自由」が保障されている。しかし、保障されている「自由」を享受できるか否かは個人の問題だ。当然のように「個人」が独立した存在として様々な権利義務を負うているように思われているが、我々はいつからそんなにしっかりとした存在になったのだろうか。先日、陳先生の国籍についての本を読んだ時にも似たようなことは考えた。ふと気になって憲法を読み直したらこうある。

第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める

個人の権利義務は諸々あるが、根幹の一画を成すであろう「国民」としての地位は「法律でこれを定める」のであって、自覚するとか自分で決めるというものではない。改めて考え直すと、人は生まれることを選べない。気がつけばここにいる。自ら存在することを選択したわけでもないのに、「天賦」のものとして権利義務が発生する。しかし、社会の中での権利義務の主体性は「法律でこれを定め」られる。我々は一体何者なのだろう?そんなことを思い煩っている余裕もなく時間は過ぎていく。生活をしなければならない。

おそらく、もっと時間が緩やかに流れていた時代には、誰もがそんなことを思ったのではないか。だから、他人と共同して生きていく工夫を重ねてきたのではないか。それがいつのまにか、共同体が希薄になって個人が濃厚になったのではないか。しかし、個人が何者かという問いは取り残されている。尤も、私にとって取り残されているだけで世の圧倒的大多数は何事かを確信しているのかもしれないが。ただ、民俗の歴史を遡れば、今ほど「個人」が前面に押し出されている時代はない気がする。「ふるさとの生活」はもうどこにもない。

 

宮本常一 『庶民の発見』 講談社学術文庫

「民主主義」というものが錦の御旗のようになっていて、絶対的な善であると考えられているようである。先日、著名な政治家が暗殺された折にもメディアに流れた記事の中にこの言葉が頻繁に使われていた。事件から1週間近く経った時期にたまたま学生時代のゼミの仲間二人と私の3人で代々木の飲み屋でビールのジョッキを傾けながら話していた。その中で、あの事件は政治に象徴される世の中のカネの濁流の中で身包みを剥がされてしまった階層の逆襲であって、個人の話ではないよね、というような会話があった。そこでの「カネ」はいわゆる金銭だけを指すのではなく、金銭が象徴する諸々だ。少なくとも私はそのつもりで「カネ」というものを捉えていたし、それで会話をしていて話は通じている感じだった。

それで、事件についてのメディアの記事を読んだ時の違和感の筆頭は「民主主義」という言葉なのである。「主」となる「民」って何だろう?例えば学校教育の歴史で語られるのは社会の系譜であり、それは権力の系譜で代替されている、と私は思っている。各時代において圧倒的大多数を占めるフツーの人々こと、民俗に焦点が当てられることはまずない。信頼に足る史料がないので語りようがないということもあるだろうが、おそらくオカミの側からすれば語るに値しないということなのだろう。

今我々は「国家」という権力機構の中で生きている。国家に法規はあるが、現実の生活の秩序を律しているのは「社会通念」などと呼ばれる空気に毛の生えたようなものだ。組成を科学的に表記することはできるが、はっきりと意識することはできず、かといってそれなしに生きることはできない「空気」のようなもの。「国民」とか「人民」とか「民主的、民主主義」というときの「民」を律しているのはそういうものだ。もちろん、特定の信条をはっきりと意識して生きている人は大勢いるだろうが、それにしても社会の「空気」の中のことである。

おそらく圧倒的大多数の人々はその空気の中でその時々の権力や権威を感じながら暮らしている。どのように認識しているかは各人各様なのだが、その多様性にしても「空気」の圏内に収まる程度のものでないといけない。大気圏からはみ出すと社会的に窒息する。

このところその圏内圏外を意識させる出来事が続いている。感染症の世界的な流行を巡るドタバタであるとか、地政学上の大きな異変であるとか、今回の権力者の暗殺であるとか。幸か不幸か、今は世界中の人々が個人の意思見解を世界に向けて発信することができる社会だ。しかし、おそらく空気は意思表示の道具だけでは変わらないだろう。意思表示だけでは食べることはできない。

食べるためには、食べるものを生産しないといけない。食べるものを得るには漁猟採取や強奪という手はあるが、継続的に食糧を確保するには手ずから生産することが最も確実な方法だ。勢い、人々の暮らしは食糧生産を軸に組み立てられることになる。人一人の食い扶持を個人で生産することは至難だ。今日蒔いた種が今日実って収穫できるわけではないし、蒔いた種が勝手に収穫できる状態になるわけでもない。主食となるようなものは米であれ麦であれかなりの労働を投下しないと暮らしを支えるほどの収量にはならない。当然、集団で事に当たる。その集団には生産を軸に秩序が生まれる。そういう基本は圧倒的大多数が直接的な生産活動から遠く離れて断片化してしまった現代の社会秩序を考える上でも忘れてはいけないことだと思う。

農業が産業の中心であった時代、ある地域、共同体の生活はその土地の生産力によって規定される。つまり、人口は耕地の面積や生産力とバランスしていなければならない。しかも、自然の変動というものがあり、毎年一定の収穫があるわけではないので、共同体にはある程度の余裕がないといけない。その余裕も含めてのバランスが必要だ。明治になって統計調査が行われるようになる以前の人口史料は宗門人別改帳だが、これは江戸時代の寺請制度で整備されたもので、それ以前の人口推定は考古学の領域になってしまう。従って、「バランス」と言ったところで、それを計数として確認する術はないのだが、民俗上の現象としては間引きや出稼ぎにまつわる伝承で垣間見ることになる。

宮本の書いたものは聞き書きを元にしているので、そこで語られている時代がわからない。ある古老の話は江戸の昔に端を発するものであるが、同じ章の別の話は明治以降のことであったりする。本書をはじめとする民俗関連のものを読んで考えるところでは、明治に入りそれ以前に成立していた共同体が崩壊して個人所有の原理原則が導入されたことと、役人、軍人、商工従事者というような食糧に関する非従事者の割合が大きくなったあたりが時代の流れの大きな転換点になっているように見える。

明治維新は江戸幕藩体制の制度疲労と欧米列強の海外進出圧力に対する反応だったのだろうが、肝心の経済体制が確立できないままに今日に至っている観がある。鎖国体制と米本位制の中で、土地の生産力に見合う人々の暮らしというのは単純明快で、それが故に世界史に類を見ない江戸の長期に亘る泰平の世が実現したのだろう。泰平であるが為に非生産人口の増加と余剰生産物の流通に纏わる富の偏在が限界を超えて維新という社会変動をもたらした。しかし、欧米列強に倣う国家建設の為に非生産人口の拡大が加速し、維新に至る経済の破綻が解消しないどころか却って酷くなったのではないか。西南戦争はその矛盾の象徴で、それを機にインフレが昂進し、共同体の崩壊で頼るものを失った一般大衆の窮民対策が矢継ぎ早に打ち出されることになる。

ざっくりと言えば、「殖産興業」の名の下に新興の鉱工業が雇用をもたらすと同時に、北海道開拓とハワイへの移民が余剰人口を吸収する形になった。さらに、移民先はハワイから米州へ、さらには中国大陸へと拡大する。戦争を経て移民の中身や渡航先に多少の変化はあったものの、国家事業としての海外移民は1970年代まで続くのである。

また、西南戦争以前に「富国強兵」として徴兵制による雇用創出があるが、「雇用」として成り立つには、つまり、軍隊が付加価値を生むには、戦勝によって対戦相手から賠償や領土を獲得しなければならない。もちろん、軍事は社会維持の固定費であって、社会全体の付加価値の中で負担すべきものなので、個別直接的な付加価値生産を要請すべきものではないとの考え方もある。おそらく「GDPの◯%」という軍事費の枠の設け方にはそうしたものがあるのだろう。しかし、資本の原理からすれば、投下したものに対するリターンは当然期待されるものだろう。

いわゆる社会の「高度化」で、人の暮らしが単に食べることだけから離れて細分化専門化されてさまざまに広がった。時間を巻き戻すことはできないし、知ってしまったことを知らないことにはできないし、経験したことを無かったことにはできない。宮本が集めた民俗資料やそこから考察から人の姿を考えることができるが、それは過去においてそうであったかもしれないことであって「あるべき」姿というのではない。民俗を顧みれば、そこで志向されているのは個人の暮らしよりも共同体の存続だ。しかし、現在の姿は共同体としての価値創出や経済の循環がブラックボックス化する一方で個人の福利厚生が声高に要求されるというものだ。何が「自然」な姿なのかわからないが、人間の暮らしの中で培われてきた価値観や倫理観が説得力を持ちにくい社会になっているのは確かなことのように思える。かつての民俗の中に見出された「庶民」は、たぶん、今の時代にはどこにもいない。

 

1997年の今時分のことだっただろうか。仕事で廣済堂印刷株式会社の上場前施設見学会に参加した。同社は現在の株式会社広済堂ホールディングスの前身のひとつで、同年8月5日に東京証券取引所の二部市場に株式を公開した。社名が示す通り主力事業は印刷業だったが、施設見学会の会場は代々幡斎場だった。会社側の意図は今もって理解に苦しむのだが、その時の説明内容に照らして想像するなら、利益がどうこうということよりも社会に必要とされることを率先して行なっています、ということを訴えたかったのだろう。主に説明をされたのは当時の廣済堂印刷の会長であった櫻井文雄(義晃)氏と記憶している。

説明の中で強調されていたのは岸信介とのつながりだった。「岸先生からのお話で」とか「岸先生に」何かをして「差し上げた」という言葉が頻繁に出てきた印象がある。代々幡斎場を運営するのは子会社の東京博善株式会社である。斎場の経営も損得ではなく、そういう要請があったと言いたかったのかもしれない。たまたま同年6月に勝新太郎を荼毘に付したのがこの代々幡斎場で、施設の説明の中で、「先日、勝新太郎さんを焼いたのはこちらの窯です」と言われた。「表の飾りは少し変えてありますが、窯そのものは他のものと同じです」とも言っていた。冠婚葬祭でよくあるランク付のことだが、そうしたものに関係なく窯自体は同じものということだ。その窯についても裏側に回って見学して説明を受けた。煙が出ないというのが特徴なのだが、都内の住宅密集地に立地して煙を出すわけにはいかない現実もある。同社が運営する斎場の中で、町屋斎場は京成本線の車窓から見ることができるが、代々幡も似た感じの構えだ。上場予定企業の施設見学会としてはかなり風変わりなものであったので、いまだに記憶に残っている。

人を動かすのは、結局のところはカネなのだろうか。今の世間は共同体が崩壊して個人がバラバラに存在するようになっているので、バラバラの個人同士を繋げるものがカネしかないのが現実ではあるのだろう。ナントカ先生はカネで権威と権力を維持し、そのカネを提供する側はそれによって利権や利得を得る、という個別具体的な名前を聞かされると自分とは無縁のことのように感じるが、その権力や利権の流れの中に人々の暮らしもある。感じるか感じないかというだけのことだ。

先日の暗殺事件に関連して或る宗教団体の名前が言及されている。Wikipediaで検索して、そこに書かれていることを追ってみたら、こんな記述があった。

文鮮明は自由民主党の安倍晋三元総理大臣の祖父である岸信介と盟友であり、1950年代から日本の政界と協力していた。岸の自宅付近には統一教会の施設が存在し、そこで岸は交流会や講演会などを行っていた。神田外語大学の民族主義運動の専門家であるジェフリー・J・ホールは、統一教会は岸信介の時代から日本の保守政治に関与してきたと指摘しており、国際勝共連合などと共に日本の反共産主義運動や右派運動といった、日本の右傾化の歴史に根深く関与してきたとしている。
Wikipedia

ああいう物騒な事件に関係するようなことは何も知らないので、興味の向かうままにネットで検索をした。そこに書かれているのがどの程度信頼に足るものなのか知らないが、特に驚くようなことには出会わなかった。岸信介は満州に赴任してから大きな額のカネを動かすようになったらしい。岸は満州を去るとき、こんな言葉を残しているそうだ。

「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」
Wikipedia

満州で何があったのか、というような幅広のことはネットで検索してどうこうなるものではないだろう。岸と時期は重ならないが、文鮮明を巡るキーパーソンの一人である朴正煕も満州国軍の将校として終戦を迎え、そこから韓国国軍に加わり、ああなった。

宗教あるいは宗教心は人々の暮らしに根付いている。特定の信仰が無い人でも亡くなれば葬式をあげ、子供が生まれればお宮参りに行く人もいるだろう。七五三の時期には神社は賑わい、初詣で大勢の参拝客を集める神社もある。日本各地に残る祭りは宗教行事に由来するものが多い。但し、古来の行事はそれに関わる共同体の構成員が総出で、あるいは輪番で執り行うもので、宗教専従者が一般的になるのは鎌倉時代あたりからだそうだ。奈良や京都の古寺には朝廷ゆかりのものが多いが、それは政教一体の時代のものであって、一般大衆の信心とは別物だと思う。今でも古い集落で一番大きな建物が神社仏閣というのは少なくないが、現実の生活の不確実性をいやというほど経験していればこそ、神仏の加護を無視するわけにはいかないという想いがそういう具象を求めるのだろう。

庶民の世界ではこうした窮迫はあたりまえのことであった。だから腕っぷしのつよいものは盗賊などして生計をたてたのである。しかし、自らにそれほどの力がなければ、何ものかにたよらざるをえなかった。神仏に霊力があるものならば、祈ってその利生にあずかろうとする者も多かった。『日本霊異記』にはじまって、『今昔物語』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』などの多くの説話文学に神仏の利生談の多いのは、仏僧や神に仕える者たちが、庶民の気をひいて、貧しい者たちの懐をねらおうとしたためであろうが、『今昔物語』に見える長谷寺観音にもうでて利生を得た男の話は、そのままといってよいほどのかたちで『宇治拾遺物語』にものせられており、それがさらに「藁しべ長者」の名のもとに現在日本各地にひろく分布しているほど、民衆にも魅力があった。まずしい者が神仏にいのって財産を得られるというのであれば、これにすがるほどよい招福の方法はない。
『庶民の発見』37頁

祈るのは、やるべきことをやり尽くした後のことであるはずだが、人は易きに流れる性向を持つ所為なのか、善良な者が言葉巧みに丸め込まれる所為なのか、順番があべこべになって貧困に拍車がかかることもある。いわゆる「うまい話」というものは幻想なのだが、貧困に喘いで気持ちまでが弱くなったところに巧みにつけ込む輩の技が一枚上手なのか、信者が低所得者に偏っている宗教もあるらしい。

そうした信者層をうまく取り込めば、政治家にとっては安定した支持基盤にもなり得る。「民主主義」は数がものを言うのである。多数派が正しい、という論理を前提とする仕組みの下では、政治は宗教と結びつくことになる。また、祈ることや信心の表現として金品の供出が要求されるのなら、信者の所得や財産の多寡と宗教の集金力は必ずしも比例しない。貧困層の集団が多額の資金を供給するのは決して非現実的なことではないのである。

 

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART6』 国書刊行会

外国の映像作品を観て、面白いとか楽しいと思うことは当たり前にあるし、日本の映画が海外で賞をもらったりするところをみると、日本のものも外国で受け容れられているだろう。風土や文化の違いというのは超え難いほど大きいと感じられることもあれば、そういうことを超えて同じ種類の生き物として共感できることもある。

本書は主に外国映画を取り上げ、そこで語られる台詞をネタにまとめられたエッセイのようなものだ。その台詞は邦訳なので原語の本当の意味に必ずしも即していないのだが、映像の尺に合わせながらも映像のエッセンスは十分に伝わるよう翻訳者が工夫を凝らしたものであるはずだ。そう思うと、翻訳あるいは翻訳者という仕切りを挟みながらも、文化の違いを超えた人間社会共通の価値観のようなものを感じないわけにはいかない。本書ではそこからさらに和田誠という人の頭脳を通して加工された何事かが語られている。

それを読んで自分が何事かを感じたり考えたりする。観たことのない作品のことであっても、いろいろ思うところはあるものである。ましてや、観たことのある作品ならばなおさらだ。

「齢と共にワインのように立派になると思っている奴もいる。だが酢になるのが現実だ」
114頁 『パルプ・フィクション(原題:Pulp Fiction)』1994年
 アメリカ 監督:クエンティン・タランティーノ

言わんとすることはわかるのだが、酢も良質なものになるとかなり高額で気軽に買って使えない。それに安物であっても酢は健康に良い。個人的には、中華料理屋で焼そばを食べるときに酢をたっぷりかける。もう何十年も前のことだが、現役の頃は残業の多い仕事だった。当たり前に残業食をいただいていた時のこと、職場近くの中華料理屋で上海焼そばを注文した。テーブルの上に備え付けの調味料を少し足そうと思い、酢をかけた。たまたま何かの弾みでドボドボと出てしまった。これが大変旨かった。以来、焼きそばにたっぷりの酢というのが自分の中の定番のひとつになった。だから、この台詞の言わんとすることはわかるのだが、酢を粗末なものとして表現することには抵抗を感じる。

タランティーノは私と同世代だ。同じ時代を生きてはいても、同じ空気を吸っているわけではない。アメリカの嘘みたいに安い食料品が流通する環境下で暮らしている人には、酢の尊さがわからないかもしれない。台詞の意図に反して、私は齢と共に酢のような人になれたらいいと思う。

「あいつは頑固爺いだ」
「頑固爺いは好きだ。生きていれば俺もそうなるよ」
224頁 『拳銃の町(原題:Tall in the Saddle)』1944年
アメリカ 主演:ジョン・ウェイン

自分としてはそういうつもりはないのだが、現実としてはあとは死ぬだけという年齢になった。酢のような人間であるか、頑固爺いであるかは本人ではなく周りが決めることだが、なんとかこうして暮らしていられるのは、結局のところは何事においても目立たなかったからだと思う。

「お前は意気地なしだ」
「おかげで長生きしている」
66頁 『マーヴェリック(原題: Maverick)』1994年
アメリカ 主演:メル・ギブソン

生計を立てるのは容易ではない。かといって稼ぐことに執着すると精神的には窮乏の度が増す。

「金がすべてじゃない」
「腹がへってない時はな」
70頁『地平線から来た男(原題:Support Your Local GunfighterまたはLatigo 本書では後者)』
1971年 アメリカ 映画『用心棒』とそのリメイク『荒野の用心棒』をパロディ化した作品
監督:バート・ケネディ

似たような台詞はよく聞くが、その通りだと思う。金に縁がないので、金がすべてじゃないと思わないわけにはいかないし、金があったらどうなのかと思わないわけにもいかないのだが、次のような台詞を聞くとなんとなく安心はする。

「金ができると俗物が集まってくる。いつのまにか車を買わされる。車を買えばガソリンに税金に違反の罰金だ。払うために働くハメになり、自由はなくなり、自分も俗物になるんだ」
158頁 『群衆(原題: Meet John Doe)』1941年
アメリカ 監督:フランク・キャプラ

「車」は何かの象徴であろうが、資本の論理とか市場原理とかいうものの下にある社会とはこういうものだ。それいいか悪いか、好きか嫌いかはともかくとして、そういうものだ。『群衆』という作品は戦中に作られたコメディで興行面でも大ヒットだったそうだ。戦争をするのだから「挙国一致」はどこも同じはずなのだが、何かというとつまらない決め事で縛りをかけようとする社会と、人の思うことはどうすることもできないとある程度の自由を許容する社会の違いはある。寛容の度合いの違いはその社会の力量の違いでもある。こういう余裕のある相手と戦争をして勝てるはずがないと、今だから納得できる。喧嘩をするときは相手をよくよく選ばないといけない、というのは個人の暮らしにも通じることだ。今は、感染症のこととか地政学上の異変のことが無いとしても、なんとなく窮屈な感じがする。それはたぶん、物事が過剰に理詰めに傾いている所為ではないだろうか。素朴にいいと思うことを「いい」と言えず、好きなことを「好き」と言えない雰囲気があるように思う。理屈を語れない者が排除される嫌な感じがある。

「いい奴をいいと思うのは理屈じゃない」
182頁 『二十日鼠と人間(原題:Of Mice and Men)』 1992年
アメリカ ジョン・スタインベックの同名小説の忠実な映画化作品

「神を信ずる者には説明は不要である。信じない者に説明は意味をなさない」
210頁 『聖処女(原題:The Song of Bernadette)』1943年
アメリカ 監督:ヘンリー・キング

意味のないことに縛られず、目立たずに、静かに余生を送りたいものである。できることならば、だが。

 

今月29日に岩波ホールが閉館する。それに関連して過去の上映作品のことが話題になっているのをネット上で見かけたりする。私がこのホールで観た作品は上映時期の順に挙げると以下のようになる。

2006年
『家の鍵(原題:Le chiavi di casa)』
『紙屋悦子の青春』

2009年
『シリアの花嫁(英題:The Syrian Bride)』
『ポー川のひかり(原題:Cento Chiodi)』
『シェルブールの雨傘(原題:Les Parapluies de Cherbourg)』
『カティンの森(原題:Katyń)』

2010年
『海の沈黙(原題:Le Silence de la Mer)』
『コロンブス 永遠の海(原題:Cristóvão Colombo – O Enigma)』

2013年
『八月の鯨(原題:The Whales of August)』

2014年」
『大いなる沈黙へ—グランド・シャルトルーズ修道院(原題:Die Grosse Stille)』

このほかに岩波ホールで上映されたが、観たのは他の劇場という作品が1つある。
『亀も空を飛ぶ(英題:Turtles Can Fly)』

映画は作り物だ。作り物であるが故に、また、作る側の商売であるが故に、作り手側の諸事情を背景にした押し付けがましさのようなものはどうしても出てしまう。それを受け手の側に心地良いものとしてみせるのが作り手の仕事でもあるのだが、それは至難であるように感じられる。至難であるが故に、人気のある俳優のギャラが高額であったりもするのだろう。しかし、多分、ギャラと俳優個人の力量は比例しない。例えば、『亀も空を飛ぶ』に登場する人たちの多くが本物の難民で、この作品の興行収入もエンターテインメント界のビックタイトルに比べたら取るに足りないものでしかないだろうが、観る者へ与える影響の度合いがそうしたデジタルの値と比例するとは思えない。

たまたま先日読んだ陳先生の『無国籍と複数国籍』には『シリアの花嫁』のことが書かれている。陳先生は国立民族学博物館に勤務されていたときに『シリアの花嫁』の上映会を企画されたそうだ。その上映会で解説を担当した錦田愛子さんと一緒に2011年にゴラン高原を訪れたという。

 私たちが村の中心部を歩いていると、店先で井戸端会議をしている男性たちが親切に声をかけてくれた。
「どうしてマジュダルシャムスへ来たの?」
「『シリアの花嫁』を見て、どうしても来たくなったの…」
「あー、あれはウチのことを映画にしてくれたんだよ」
「えっ?ほんと?」
なんと奇遇なことに、映画の題材になった家族に出会った。
陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書 278-279頁

映画『シリアの花嫁』でも描かれているように、ドゥルーズ派はいとこ同士で結婚する慣習があり、そのため、マジュダルシャムス村から網の向こうのシリア側へ嫁ぐこともある。イスラエルとシリアがお互いを認めていないため、村の人々は両地を自由に行き来することはできない。それぞれシリア側とイスラエル側で祝いの宴を挙げ、その宴の最後に花嫁が歩いて国境を渡る。一旦、シリア側に渡ると、次いつ故郷に戻り家族に会うことができるのかは分からない。国々の争いのもと、引き裂かれる運命にある家族たちがここにいる。
陳天璽 『無国籍と複数国籍 あなたは「ナニジン」ですか?』 光文社新書 278頁

映画は映像「作品」。作り物だが、作り物であるが故に、現実の生活の何事かを雄弁に語ることができる。そして、人はたいして賢くはないということを自覚させる。その自覚がなければ、世の中は暮らしやすくはならない。これでいいと思ってしまったら、それまでだ。

岩波ホールで観た作品は数えるほどしかなかったけれど、どの作品も多かれ少なかれ、或る自覚を喚起するものだった気がする。

 

宮本常一 『家郷の訓』 岩波文庫

宮本の故郷である山口県周防大島の明治から大正にかけての生活誌。今読んでも生活が違いすぎて実感として迫ってくるようなことは少ないが、昭和に育った身としては、全く手掛かりがないというほど遠い世界でもない。これまでnoteで取り上げた宮本あるいは宮本関連の著作と内容に違いがあるはずもないのだが、本書は宮本の故郷というフィールドを限定したものなので、時代の様相の変化のきっかけのようなことがより鮮明に描かれている。

やはり明治維新による社会の混乱が人々の生活に与えた影響は大きいようだ。この時代、現在のように統計類が整備されていないので、各種研究を継ぎ接ぎし、社会事象の伝聞から推測するより他にどうすることもできないが、混乱していたことに間違いはあるまい。

まず、戊辰戦争に象徴される維新に関連した内戦がある。戦争は外部不経済であり、戦勝によって交戦相手から賠償を得ることではじめて経済的な価値を生む。しかし、内戦となると、賠償があるとしても自身の右のポケットから左のポケットに財貨を移すだけのようなもので、内戦中に発生した破壊消費蕩尽だけが残ることになる。その埋め合わせは、当座は外部からの借款が可能であるとしても、結局は緊縮財政と下々に対する課税強化によるしかない。破壊された後の復興需要、兵器の開発や生産に関連した技術革新と生産性向上、といった経済効果が期待できるかもしれないが、大量の戦死者戦傷者は生産要素の喪失であり、復興が完了するまでは、当然、国内経済は疲弊混乱する。

おそらく新政府に対する期待や思惑が政府内外で渦巻いていた。大蔵省は財政規律の確立を主眼に据えるが、大蔵省以外は新たな政策の立案実行に動きたい。新政府樹立直後でもあり、ここは政府として一枚岩で事に当たりたいところであったろう。しかし、そうはならなかった。

実質的に破綻した財政の下、明治六年政変と呼ばれるものが発生する。きっかけは征韓論への賛否だが、要するに新体制が立ち上がりで行き詰まった。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが参議を辞職。西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職。結局薩摩と土佐の出身者を中心に約600名の官僚や軍人が辞職した。これが明治10年の西南戦争につながる。戊辰戦争の余韻冷めやらぬうちの大きな内戦だ。これらへの対処と並行して様々な分野での近代化投資が行われる。出費は嵩む一方だ。国民生活への負担の皺寄せは想像を絶するものであったとしか思えない。

こうした状況の下、周防大島の人々はこのような変化を見せたらしい。

明治十年から十七、八年にわたる窮迫というものが、島の人たちの骨身にこたえて金をほしがるようにさせたらしい。これについてはそれを裏付けるような話がいくつもある。
29頁

「十七、八年にわたる窮迫」というのはかなり深刻だったはずだ。バブル以降の日本経済が「失われた◯年」などと言われたりするが、おそらくそんな生やさしいものではない。周知の通り、日本はその後、日清・日露の戦争当事国となり、結果としては賠償金や領土を獲得する事になるが、そうなっていなければどうなっていたかわからない。

戦勝と近代化投資による生産性向上で国内経済はようやく安定を得たのではなかろうか。そこに第一次世界大戦で欧州での生産が滞ったことによる需要の爆発的拡大が発生した。どのようなものでも、作れば売れたらしい。鯖の缶詰と称して石ころを詰めたものを輸出して富を築いた者もいた。これにより日本経済はそれまでに体験したことのないような好景気を享受した。持ち慣れないものを持つと使い方を誤るのもよくある話だ。おそらく人々の「自分」観は大きく変化した。

大正の好景気がかなり一部の人たちを華美にして来、飲食の上にも反映した。間もなくそれが村全体の風となった。その契機となったのは大正八年の米騒動ではないかと思っている。この時までは村では麦が最も多く食われていたが、米騒動によって外米が村にも入って来た。普通の日にまっしろな飯を食べたのはこの外米が初めてであったが、そのまま外米から内地米にかわってしまったのである。部落百戸のうち八、九割まではこの時に変わったであろう。そのように村の風習の変化には画然として境があった。
 平生米をたべるようになると晴の日はいっそう華美になるのが当然であった。私の祖父は、
「米をたべるのはうまいが、これではお国がもつまい。」
と心配した。お国の持たぬまえに会食(ヨバレゴト)の方が費用がかかってもたなくなってきた。一方大正の好景気を境に、今まで田舎をまわっていた大工の多くが北九州や大阪などの都会に集中するようになってきた。すると旧暦は通用しにくくなって、盆正月には容易にかえれなくなってきたのである。
74-75頁

ここで「米騒動」について補足する。好景気を背景にそれまで贅沢品の象徴でもあった米の消費が増大する一方で、農村から都市部へ工場労働者として人口が流出し、生産力の制約を受けた農村では米の生産が伸び悩んだ。このため米の需給に変動が生じ、そこに投機熱も高まって米相場が高騰した。米の値段が上がれば、それに関連して物価全体が上昇する。物価の上昇は実質所得の減少でもある。好景気の恩恵から外れている一般庶民の生活は圧迫され、日本各地で暴動が起きた。本書の記述によれば、そもそも米はハレの場の食べ物で、一般の農民庶民が普段口にするものではなかった。

食物などにもきまりがあって、朝は茶粥と芋、昼は飯に汁、夕飯は昼飯の残りと粥または雑炊であった。飯は麦飯で、米が三分も入っていればよいほうであった。六十年前までは大根をきざみ込んだ大根飯を多く食い、麦粥を食う家もあった。麦粥は麦を炒って粥にたくのである。米をたべているとすぐ村の評判になる。「米の飯を食うと蜻蛉が蹴る」という言葉がある。
91頁

読んでいて、今の自分の食生活を反省した。本書にあるような庶民の食が標準であるべきとは思わないが、今が過剰であることは明らかだ。家人と相談して少し簡素化しようかとも思うのだが、言い出して後悔しそうな気もするのでまだ何も言っていない。

私の食生活はともかくとして、実際の生産活動とは関係なく生産物の対価が極端に上下するという経験は、おそらく当時の人々に大きな衝撃を与えたであろう。真面目に働くことが馬鹿馬鹿しいと感じた人が少なくなかったのではないかと想像するのである。維新を契機に個人所有という概念が社会の末端にまで行き渡り、村落共同体の価値観の根幹が揺らいでいた。幕末以来の社会経済の混乱もあり、それまでの暮らしに対する疑念も人々の間で強くなっていたはずだ。そこに賃労働者として資本の雇用を受けるという今までにはない生き方が現れ、しかもそれがある種の成功体験として捉えられるかのような事象が現出したのである。何かと喧しくその割に生活が苦しい農村共同体での生活から、なんとなく華やかで自由に見える都市での賃労働者としての暮らし、ひょっとしたらそこから自分も資本家や何者かになれるかもしれないと期待させるような世界へ、人が向かうのは当然であろう。

実際に、米騒動を契機として物価が上昇、さらに賃金も上昇し、結果として実質所得は増大する。米騒動対策で政府が米価対策費を計上して米価の沈静化を図り、米価は一旦は下落した。しかし、経済の大きな流れは変わらず、その後相場は上昇に転じて再び米騒動時の米価にまで戻るが、今度は暴動は起こらなかった。米騒動を機に社会対策として警察官の採用を増やしたとか、米騒動時の寺内正毅内閣が辞職して爵位を持たない衆議院議員であった原敬が首相に指名されて「平民宰相」人気が出たとか、米騒動後に世情が変化したという事情はあっただろうが、おそらく一番大きいのは、実質所得が上昇していて、表面価格が同じでも実質価値は米騒動時ほど高くはなっていなかった所為であろう。

米騒動の当時、既に株式取引所は稼働していたが、上場企業は少なく、上場株式の流動性も小さかったようで、投機資金の受け入れ先としては米相場ということだったのだろう。米騒動から70年後、いわゆるバブル景気を迎えるが、人の考えることや行動は米騒動の頃とそれほど違いがあるとは思えない。宮本の書いたものを読むと、村落共同体の社会から個人主体の社会になって人々の暮らしが孤独で厳しいものになったかのような印象を受けるのだが、果たしてそうなのだろうかと思うのである。

無論農村には大きな変貌があった。共に喜び共に泣き得る人たちを持つことを生活の理想とし幸福と考えていた中へ、明治大正の立身出世主義が大きく位置を占めてきた。心のゆたかなることを幸福とする考え方から他人よりも高い地位、栄誉、財などを得る生活をもって幸福と考えるようになってきた。もともとそういう考えがなかったのではなく、物臭太郎の物語を夢見る人はあった。しかしそれは村人の感覚から言うと第二義的なものであった。こうして幸福の基準、理想の姿というものがかわってきた。がそれは、根本からかわったのではない。ただ時代の思想の混迷の中に、新たなる基準が見出せなかったのである。そして、基準を失ったということが村落の生活の自信を失わせることにもなり、後来の者への指導も投げやりになっていった。
196頁

人間てそんなに立派なものなのか、と素朴に疑問に思うのである。宮本の著作に関するものはこれでひとまず終わる。


読書月記 2022年6月

2022年06月30日 | Weblog

折口信夫 『口訳万葉集(上中下)』 岩波現代文庫

岩波文庫の『万葉集』は何年か前にボックスで買った。しかし、そのままだ。詩とか歌を読みながら通勤するってぇのはオツなもんだ、と思って買った。同じ理由で岩波文庫の『文選』も六巻全部買った。漢詩のほうは買ってみて気がついたのだが、読めない。読み下し文と注釈を行ったり来たりするだけで肝心の漢詩は漢字の羅列にしか見えない。オツもクソもない。しかし、一応気には留めている。だからたまに本屋の店頭で漢詩の参考書のようなものを手にしたりしてみるのである。そうやって一応目を通したのが先日書いた『精講 漢文』だ。

『万葉集』の原本は見た目が漢文だ。原本は現存せず、世間で言われている『万葉集』は写本に基づいたものだ。漢詩も交えている(「晩春三日遊覧歌」)。その時代にはまだ平仮名がない。「万葉仮名」と呼ばれているが、いわゆる「かな」ではなく、漢字を当てている。日本語の音を漢字で拾っているだけで漢字の字義は関係ないそうだ。それどころか、なまじ漢字の意味を思い浮かべてしまうと歌の意味を取り違えるらしい。当時は日本語と漢字との間に割り切った関係があったということだ。その割り切った関係があればこそ、大陸の叡智を活用しながら、大陸とは一線を画した独自の文化と世界に類を見ない長い歴史のある国を作り上げることができた、のではないか。ベタベタしてはいけない。求む、割り切った関係、だ。何の話だ?

近頃はグローバルだとか何だとか言って、長い年月を費やして培ったものを無視したり見捨てたりして、見境もなく他所とズブズブの関係を志向するようになったので、他所と同様にこの先は短命な国や文化になるのだろう。今まさにゴタゴタしている隣の大国は、ソ連としては1922年12月30日から1991年12月26日までしかなく、人一人の一生と同じくらいの寿命しかなかった。それぞれの土地に根ざす人々と連邦帝国の幻影に縋る人々との間で互いに譲れない何かがあるから、ああいうことになるのだろう。中国も中華人民共和国としては成立が1949年10月1日だ。まだまだこれからだ、と思うかどうかはそれぞれの立場と思惑によりまちまちだろう。太平洋を隔てての隣国アメリカは独立宣言の日を起点とするなら1776年7月4日成立で、国家として長い歴史があるとは言えないが、あそこは日本語で言うところの「国」と言えるものなのか。そもそも「国」とは何かというところから話を詰めないと、話にならないのかもしれない。

本書は折口が解釈した『万葉集』であって、万人が合意できるものなのかどうかは知らない。折口が本書を執筆するに至った事情は岡野の『折口信夫伝』にも記載があるが、本書の底本は『日本歌学全集 万葉集』(佐佐木弘綱・佐佐木信綱校註)だそうだ。折口は自身の価値観で「傑作」とか「佳作」という評価を下している。その「傑作」「佳作」とされた歌だけを集めて読み直してみると、折口の歌論になるはずだ。紙に「正」を記しながら勘定したら「傑作」が48首だった。その48首を帳面に書き写してみたが、それで点頭するようなことが無いのは凡人の悲しさだ。

その「傑作」の中で、下巻の解説でも取り上げられている歌がある。

家にてもたゆたふ命。波の上に浮きてしをれば、奥所おくか知らずも
下巻 217頁 番号3896

「天平二年十一月、太宰ノ帥大伴ノ旅人、大納言に任ぜられて、都に上る際、伴の人たちが、主人と別れて、海上から都に上った時の歌。十首」のなかの一首だ。折口はこの歌を「思想において優れている」とした。解説は俳人である夏石番矢。夏石のほうは旅人本人が詠んだ歌としているが、誰が詠んだかは私にはどうでもよいことだ。歌では、家にいようが旅の船上にいようが、「奥所」=「将来のこと」はわからない、と言っている。いわゆる無常観というやつだ。似たような世界観を詠んだ歌は他にもある。本書を読んでいて目についたものに付箋を貼ったのだが、それを読み返したら以下の二首があった。

生けるもの竟にも死ぬるものにあれば、此世なる間は楽しくをあらな
世の中を何に譬へむ。朝発き、漕ぎにし船の痕もなきがごとし
上巻 136頁 番号349、351

どの歌も先が見えないことを恐れるのではなく、開き直っているかのように見える。夏石は「たゆたいの不安をもてあます脆弱さよりは、その不安を楽しむ古代人のたくましい健全さがあるし、古来からたゆたう波路の苦楽を数えきれないほど経験してきた島国日本人の世界観が詩として結晶している」と述べている。「日本人」だけのことなのかどうか知らないが、「不安を楽しむたくましい健全さ」は広く人間の健康には必要な精神だと思う。

将来のことはわからない、だからわからなくていい、というふうに人間はならない。わかろうとする好奇心が本能のように備わっているものだと思う。神話は単なる作り話ではなく、そこには話が成立した頃の人類の科学の知識が目一杯に詰め込まれているのではないだろうか。その一つが天文への関心だと思う。歌にも七夕の織女(織姫)と牽牛(彦星)の話を下敷きにしたものがある。七夕伝説は大陸伝来だが、単なるファンタジーではなく、国の成り立ちを宇宙規模で正当化する方便としての神話の一部であろう。七夕伝説に関しては話の性質上、相聞歌とされるものが多いが、それにしても国産み神話と無縁とは言えまい。

やはり下巻の解説で夏石がこんなことを書いている。

現在の北極星はポラリスだが、地球の自転軸は少し回転のぶれた独楽のように、約二万六千年を一周期として徐々に交代し、およそ一万三千五百年前、織姫星ベガが北極星で天界の中心、宇宙軸だった。織姫は中国の伝説では、雲を毎日織っていたとされ、これはおそらくベガが北極星だった往古、天の中心ですべての雲を生み出していたと信じられていた記憶の余波ではないだろうか。
下巻 462頁

ちょっと気になったので、手元の『理科年表』を紐解いてみた。「天文学上のおもな発明発見と重要事項」の中に「殷墟甲骨文中の天文記事」というのがある。これは紀元前1300年代頃とされているので、今から約3000年前。果たしてベガが北極星だった頃の記憶の余波があったかどうか。

そのまま『理科年表』をパラパラと眺めていたら「地球の形と大きさに関する最新の値」というものが目に飛び込んできた。地球の形と大きさは時々刻々変化していて、その公式の値を国際測地学協会というところが何年か毎に発表しているのだそうだ。「あっ」と思った。地面はちっとも確かではないのだ。地殻の内側はマントルという液体状のものが対流している、なんてことは義務教育で教わった、はずだ。その地殻は複数のプレートに分かれていて少しずつ動いている、なんてことは常識だ。だから地震が起こるわけで、そもそも我々の生活は足元が揺らいでいる。先ほどの自転軸の話にしても、地球の自転だけでなく、地球が太陽の周りを巡る公転があり、おそらく太陽系丸ごと何かの周りを回っている。そして、その「何か」は別の何かの周りを回っていると考えるのが自然というものだろう。よくもまあ、こんなぐるぐるとしているところで毎日呑気に暮らしているもんだと、今更ながら気がついて、感心してしまった。

『万葉集』からとんだ方向へ脱線した。歌のことは、やはり、わからない。

本の解説が面白かったりする。『口訳万葉集』も下巻の夏石番矢の解説が興味深い。夏石は巻第十五の遣新羅使の歌を取り上げている。遣隋使や遣唐使は学校の教科書にも載っているが、外交は中国だけが対象ではなかった。その手前の朝鮮半島にも派遣されていた。但し、『万葉集』に掲載されている歌が詠まれた時期の新羅と日本との関係も現在同様かなり険悪だったらしい。それはともかく、夏石は日本の国生み神話と遣新羅使の航路の重なりに注目している。

国生み神話は、なぜか淡路島から始まり、イザナギ・イザナミ二神は西へ移動して、四国、九州、壱岐、対馬を産んでゆく。実はこれは遣新羅使の往路とほぼ重なる。(中略)ここには、陸路ではなく、海路をたどり、西日本を支配していった古代人の記憶が隠されているのではないだろうか。
下巻 459頁

『万葉集』は国家事業として編纂されたものだ。特定の個人や集団が私的に構想した可能性が皆無ではないだろうが、4,500を超える歌を集めて編纂し現在に伝えられるほどの内容を有する出版物を発行することは余程の財力と権力がなければ実現しなかったであろう。その後、勅撰和歌集や勅撰漢詩集がいくつも編纂される。『万葉集』が勅撰集であることはどこにも明言されていないが、実質的に国家事業として編纂されたことは間違いないであろう。国家事業であったとすれば、そこに当然、国家の意思が表明されているはずだ。掲載する歌の選択にそれが見え隠れしているはずだ。夏石はこう書いている。

イザナギ・イザナミ二神の出自にはこの一文では触れないが、実母の出身が蘇我氏である二女帝の持統天皇、元明天皇を別として、蘇我氏が詠んだ歌が一首も万葉集に収録されていない。この欠落にも日本古代史の謎が秘められているし、また万葉集が蘇我氏の存在を無視したいわゆる大化の改新以後の歴史観によって編纂されていることが察知される。
下巻 459-460頁

国家事業として歌集を編むのは何故なのか。二十巻、約4,500首から成る歌集が一気に編纂されたわけではなく、数年数十年程度の期間をかけてまとめられたようだ。巻頭は雄略天皇の御製とされているが、おそらく別人の手によるものだろう。時代が違いすぎる。但し、考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇が雄略天皇であることは何か関係があるのかもしれない。

『万葉集』の編纂に深く関与しているのは巻末を飾る歌を詠んでいる大伴家持とされている。家持の歌は473首が収録され、誰よりも多くの歌が載せられている。家持は聖武天皇から桓武天皇までの天皇に仕えたことになっている。また、大伴氏は武人の家だ。たまたま家持が歌人として高い評価を受けていたというだけかもしれないが、武人の家が歌の世界に深く関わる何か特別が事情が無かったとも言えまい。当時の宮廷人の素養として歌を詠むことは必須のものであったことは周知のことであり、武人であろうが他の役割を担った家系であろうが、歌と無縁ではない。当時の国の在りようとして、歌に秀でていいることと、権力体制の中での位置付けとに関連があったのではないかとも思うのである。武人は国家権力を具象化する装置でもあり、体制内での序列として高い方であっただろう。であるならば、「武」と「文」は無縁ではなかったのではないか。今も「歌会始」という皇室の行事があるが、今と違って歌を詠むことにはもっと権力にまつわる深い意味があったのではないかと思うのである。あなたのことを想ってパンツを脱いでお待ちしています、なんていう歌が驚くほどたくさんある。しかし、歌と権力の関係というものを考えると、そういう歌を字面通りに解釈してはいけないのではないか、パンツを脱ぐ、つまり、……なんてさまざまに妄想するのは私だけだろうか。

 

大江健三郎 『沖縄ノート』 岩波新書

先日、丸善で岩波新書の『沖縄』を買う時に、たまたま目についたので一緒に買った。もともと小説はあまり読まないので大江の作品も『死者の奢り』くらいしか読んだことがなかった。こういう文章を書く人だったのかと、少し新鮮な思いがした。こういう文章を読むのは苦手だ。

私は本書で言うところの典型的な「本土」の人間だ。先日、『沖縄』の方でも書いたが、私は沖縄というものを何も知らない。自分が何も知らないということも知らなかった。その先日の記事に、福島の原発事故を機に、福島の風下にあたる地域で暮らす環境問題に敏感な系の人々の中に、沖縄方面へ移住した人がいた、と書いた。本書を読んで米軍基地がいわゆる放射能と無縁では無いことに気付いて「ん?」と思った。原発関連の環境問題を気にして沖縄に移住するのは無意味ではないか。基地には核兵器が配備されているし、何よりも米軍が使用する港には原子力潜水艦が出入りしている。原潜は冷却水を垂れ流して航行しており、現に沖縄の海の線量は高めらしい。原潜に限らず原子炉を動力源とする艦船は冷却水の出し入れが必要だ。米軍の基地があるというのは、要するにそういうことだ。

ちなみに横須賀を母港とする米海軍第七艦隊の空母「ロナルド・レーガン」は原子力船だ。東日本大震災の時はトモダチ作戦で大変世話になった。尤も、あちらの軍隊の方も放射性環境下での作戦という戦略上貴重な体験ができたとの評価があったらしい。

1995年1月に発生した阪神淡路の震災以前、関西には大きな地震がなかった。私の身の回りの同世代の関西出身者が異口同音に言うことに、東京は地震があるから嫌だ、というものがあった。彼等は進学や就職で東京で暮らすようになるまで地震を経験したことがなかったというのである。しかし、そう言っていられたのはあの地震が発生するまでのことだった。もちろん過去に関西に大きな地震がなかったわけではない。私の同世代がたまたま経験していなかっただけのことだ。日本列島はプレートの辺縁に位置するので、日本のどこにいようと地震、火山の噴火、津波などの地べたが動く災難から逃れることはできないのである。

地震と同列に扱ってよいのか、とは思うものの、原子力関連のリスクも今や逃れようがない。発電所だけに限定しても、日本には今現在57基の原子炉があり、3基の原子炉が建設中だ。この57基の中には廃止が決定して廃炉作業中のもの24基が含まれている。原子炉はたとえ廃炉になったとしても、跡地を更地にしてマンションやショッピングセンターを建てるというわけにはいかない。何十年だか何百年だか知らないが、熱りが冷めるまでオカミが管理するのだろう。青森の六ヶ所村にある核再処理施設を見学した時、高濃度廃棄物は300年間地下10mで中間貯蔵すると聞いた。最終的な処理は300年後に考えるということだろう。

確かに日本の電力会社の中で、唯一、沖縄電力だけが原発を運用していない。しかし、そのことは先に述べた事情から、沖縄が原子力系のリスクと無縁であることを意味しない。

なんだかんだ言っても、原発は自分たちの政府、自分たち自身がどうこうする問題だ。厄介なのは、自分たちだけではどうすることもできない他所の軍事施設だ。戦争に負けたのだから、勝った側がぶん取って好きに使うのは致し方ない。世情として、過去の戦争を語るものがどこか被害者面をしたものばかりのようになるのは、記憶の浄化作用の自然なのかもしれないが、個人的には釈然としない。苦難を味わった人が大勢いたのは事実だろうが、他所の国の大勢の人たちに苦難を味合わせたのも事実だ。片方だけを恨めしく語り続けるというのは、人としてどうなのだろう。我々はそういう国民なのかもしれないし、人というものがそういう生き物なのかもしれない。

ところで、本書には次のような記述がある。

 アイヒマンの処刑とドイツの青年たちの罪障感の相関についてハンナ・アーレントがいっているように、実際は何も悪いことをしていないときにあえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる、きれいごとだ。しかし、本当に罪責を認めて、そのうえで悔いることは、苦しく気のめいる行為である。沖縄とそこに住む人々への罪障感にも、その二種がある。いったん自分の日本人としての本質にかかわった実際の罪責を見出すまで、沖縄とそこに住む人々にむかってつき進んだあと、われわれが自分のなかに認める、暗い底なしの渦巻きは、気のめいる苦しいものだ。
91頁

アイヒマンというのは、ナチス親衛隊員でユダヤ人移送局長を務め、ホロコーストに深く関与したアドルフ・アイヒマンのことである。彼は逃亡先のアルゼンチンでイスラエル諜報特務庁(モサド)に拘束され、イスラエルで裁判を受け1962年に死刑となった。その公判において彼が語ったされる「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」との言葉は有名だ。

ハンナ・アーレントはドイツ出身の哲学者でユダヤ人だ。ドイツでナチズムが台頭した時にアメリカへ亡命した。本書でのアーレントに関する記述で大江は具体的な出典を明記していない。アーレントの著作は日本語版も多数出版されている。

私は20代の頃、ドイツのダッハウ強制収容所跡を訪れたことがある。そのことは以前に書いた。しかし未だかつて沖縄以外の戦跡を訪れたことがない。仕事で南京に行ったことはあるのだが、空港とホテルと訪問先以外の場所を訪れる余裕は無かった。私は直接に戦火を経験したことはないが、その傷跡を感じながら育った昭和の人間だ。本書のようなもの、情緒的な綺麗事を善人面して書き綴ったようなものを読むと気が滅入って苦しくなる。私はこういう文章を読むのは苦手だ。

 

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART5』 国書刊行会

こうして熱心に愛蔵版を予約購読しているが、元の「キネマ旬報」という雑誌は読んだことがないので、当然、この連載のことも知らなかった。随分長いこと続いたようで、続いたことに感心している。全7巻なのでもうすぐ読了だ。

映画は特別好きなわけではないが、関心がないわけでもない。ただ、近頃はすっかりご無沙汰だ。映画館で観るのは圧倒的に単館上映の作品が多く、渋谷のユーロスペースとかイメージシアターはよく出かけた記憶がある。イメージシアターは会員証を作って通っていた。会員証といえば飯田橋のギンレイホールも一時期頻繁に出かけていた。もうすぐ閉館になる岩波ホールで観た作品も印象深いものが多かった気がする。映画から足が遠のいたのは何故だろう。

好きな映画は、と尋ねられれば『アパートの鍵貸します』、『がんぱれ!ベアーズ』、『ペーパームーン』、伊丹十三の一連の作品(『お葬式』、『タンポポ』など)といった単館系とは対極にある作品が思い浮かぶ。好き、というのとは違うのだけど、妙に印象に残っているのは戦争映画で、中でも『プライベート・ライアン』とか『Uボート』といった日本が出てこないやつだ。「楽しむ」という意味では、自分から遠い世界のものがいいのかもしれない。

本書には『がんばれ!ベアーズ』が登場するが、和田の筆致の熱量と私の「好き」との間に超え難い断絶を感じる。この作品は中学生の時に映画館で観て、今もDVDが手元にある。中学生の頃は何かというと背伸びをしたい年頃だったということもあって、外国の映画や音楽を訳もわからず齧っていた気がする。テレビ番組も毎週必ず観ていたのがテレビ東京で放映していた『モンティパイソン』と『世界の料理ショー』で、どちらも後年になって発売されたDVDボックスを各1セット持っている。

それで『ベアーズ』だが、ラストで運動神経皆無でいじめられっ子だけど野球は好きというティミーという少年が初めて外野フライをキャッチしてベアーズの勝利が決まるというシーンがある。捕球したというよりは差し出したグラブにたまたま打球が収まったのだが、アウトには違いない。中学生の時は、多分、これを見て大笑いしたのだと思う。大人になってDVDで見たら、「よく取ったぁ」となんだか妙に嬉しくなって涙腺が崩壊してしまった。今、こうして書いていても涙が滲んでくる。何にもない人生だと思っていたが、やっぱり60年も生きているといろいろあったのかなと思ったりするのである。

本書で引かれているセリフは、ベアーズの監督であるウォルター・マッソーが試合でボロ負けして落ち込んでいる子供たちを励ます言葉。

「あきらめるな。一度あきらめるとそれが習慣になる」
232頁

正直なところ、そんなセリフは覚えていない。しかし、なんとなくそのシーンは思い浮かぶ。ところで、そんな野球のできない少年たちを集めたチームが何故できたのか。地元選出の市議会議員だか州議会議員が人気取りのために思いつきでこしらえたチームなのだ。ウォルター・マッソーは元マイナーリーグのピッチャーだったプール掃除人。アメリカというところはプール付きの家がたくさんあるようで、そういうものの掃除で生計を立てる人もいるらしい。選手の少年たちも野球ができるとか好きとか関係なしに寄せ集めたので、最初は野球の体裁にならない。それが練習を重ね、凄腕のピッチャーをスカウトし、運動神経抜群の不良少年をスカウトし、試合に勝つようになる。そのピッチャーは監督の離婚した妻と暮らす娘で、テイタム・オニールが演じている。彼女は私とほぼ同世代。中学生だった私は彼女にファンレターを書こうと思って、一生懸命英語を勉強したのだが、とうとう書かずに終わってしまった。

 

村松貞次郎 『大工道具の歴史』 岩波新書

先日、復刊された岩波新書の『沖縄』を買いに丸善に寄ったとき、たまたま目に入って一緒に買った。結局、あの時は『沖縄』、『沖縄ノート』と本書の3冊を買った。『沖縄ノート』以外は大変面白く、書店体験というのはいいものだと思った。

ところが、世間では書店が次々になくなっている。世界にはそもそも書店が存在しない国がいくつもあるそうだ。刊行物はあるのだが、それはオカミの関係のものとその土地の宗教の関係のものだけなので、書店という商売が発想されないというのである。昔、その話を聞いた時は、そういう国があるということが想像もできなかったが、今はなんとなくそういうことかと思えるようになった。

本書は1973年8月に発行されたものなので、ここで取り上げられている道具類の現状は本書の記述とはだいぶ違ったものになっているはずだ。それでも2022年3月に「限定復刊」として印刷され、今こうして書店に並んでいる。個々の道具がどうこうということを超えて普遍性のある内容があるということだろう。

その普遍性は、道具と時代との関連についての記述や考察にあるのではないか。道具は生活に必要なものを拵えるためのものであり、その必要をどのように満足させるかという発想の表現である。その道具を考案した人々が、世界を、観察の対象を、モノを、人を、どのようなものとして認識しているかの表現である、と思う。

まずは著者の現状認識から始まる。我々の生活は「さっぱりわからないモノ」で成り立っているという。繰り返しになるが、本書が書かれたのは1973年だ。自分自身の暮らしを思い返してみれば、住まいは棟割長屋で便所は汲み取り式、風呂はプロパンガスで沸かしていたが、少し前に数年遡れば薪や練炭を使っていた。テレビはすでにカラーだったが、電話は黒電話だ。バスや電車など近距離の公共交通機関には冷房はなく、石油危機(一次:1973年、二次:1979年)やドルショック(1971年)で経済成長の途上にありながらも乱気流の中を進んでいる感じだった。忘れてはいけない、沖縄の本土復帰や日中国交回復が1972年、時の内閣総理大臣は田中角栄。「日本列島改造論」で大いに沸いていた。いろいろな物価が当たり前に上がり、店先には「諸物価高騰の折、…」という値上げの知らせが常に掲げられていた印象がある。

たしかに物資はありあまっている。しかし今日のわれわれほど、モノから疎外されている人間はかつてなかったのではあるまいか。モノを知らないのである。モノとの心のかよった対話を失っているのである。何でできているのか、どうしてつくられたのか、さっぱりわからないモノ(材料というべきかもしれない)に囲まれて、われわれは生きている。
4頁

1965年から1974年まで埼玉県戸田市下笹目というところで暮らしていた。先にも書いたように棟割長屋で、大家は農家だった。田圃を潰して長屋やアパートや建売が建ち、学年が進む毎に農家の子弟の割合が低下していった。それでも、学友の約半数は、峰岸、池上、萩原という地元の農家あるいは元農家の人々だった。喧嘩をする時に相手に対して「ヒャクショー!」とか「ドンビャクショー!」とか啖呵を切るのが当たり前で、時に、どこからか聞こえてくる家庭内の諍いでも、子供が親に向かって「ドンビャクショー!」と叫んでいた。ガラの悪い土地だった。

注目すべきは、農業という生活や産業の基礎にあるものに従事することが軽蔑の対象であったということだ。子供の喧嘩の戯言、と片付けるわけにはいかないと思う。そういう時の啖呵や悪口は、社会集団の意識を反映するものであるからだ。おそらく、急速に産業構造が変化していて、変化の先端に縋りつこうとする集団の意志のようなものがあり、そうした流れから取り残されたと見られていた農業や手工業など旧来の仕事を軽蔑する意識が蔓延したのだろう。

戦後の目ざましい機械化・電動化の進展によって、手作業の道具は急速に姿を消している。経済の高度成長の中で、道具を使って生産をするということ自体遅れたものであり、軽蔑すべき仕事であり、一刻も早く抹殺して”近代的な”生産に移行すべきものだ、とされてきたからその消失の速度の早さも当然であろう。
 また産業構造全体の歪みを反映して、各種の産業において労務者、特に熟練労働者不足の声があがってすでに久しい。そのため省力化技術の開発が最重点的に進行してきた。機械化もプレハブ化も資本のこの省力化の願望に源を発しているところが多い。必然的に「道具など棄ててしまえ」ということになる。
13-14頁

ついでに2004年発行の『ザマミロ!農は永遠なりだ』の一節を引用する。著者は山下惣一さん。佐賀県の農家だ。

 みぞれまじりの小雪の降る寒い朝、オレは権兵衛さん頬かぶりをして蓮根を掘っていた。漁師のばあさんがランドセルを背負った孫の手を引いて頭上の道路を小学校へ向かっていた。ちょうどオレが仕事をしている頭上にさしかかったとき、子供が駄々をこねて暴れ、泣きわめき、ガードレールにしがみついた。何ごとが起きたのか、といぶかしく思いオレは時々そっちを見ながら作業を続けていたわけさ。
 ばあさんが血相を変えて孫の手を引っ張りながら大声でわめいた。「こん畜生が、勉強せんでどうするか。勉強せん人間はどうなると思うか。そのおじちゃんば見てみろ!」
 子供はガードレールの手を離し、ばあさんに従って学校へ行ったよ。オレ、体が震えるほどに感動したなあ。まさに、農業のもつ多面的、公益的機能ではないか。まさか、オレたちが戦後の教育振興に貢献しているとは夢にも思わなかったなあ。
山下惣一『ザマミロ!農は永遠なりだ』家の光協会 71頁

ナントカEatsの類いでポチッとやると、指定した場所にすぐに食べることができる状態で食い物が届く。注文した方は美味いの不味いの言いながら、時間通りだの何分遅れたのと言いながら、コスパがどうこう言いながら、そういうものを当たり前に食うのだろう。自分が食っているものを作った人たちのことはおろか、食材の出所にまで思いを馳せている人はどれほどいるのだろう?アプリの出来についてはあれこれ思うかもしれない。しかし今、この瞬間、美味いの不味いのコスパがどうこう以外に、目の前に現れたものの来歴や背景に対する想像力が湧かないとしたら、かなり重い疎外感を抱えて生きているのではないだろうか。つまり、疎外感を覚えるということは、そういうことも関係あると思う。もちろん、人それぞれであるには違いないが。

本書が書かれた当時に比べると「さっぱりわからないモノ」はさらに増えているだろう。しかも、自分がわかっていないことすらわかっていないから、何か不都合が起こると、理不尽な文句を喚き散らす。この調子でいくと、そう遠くない将来に、誰かが無思慮にポチッとやらかして、人類は滅亡するのではないか。人は己の自己顕示欲で身を滅ぼすものだ。後に残ったゴキブリだのボウフラだのが囁き合う。「偉そうにしてたけど、案外、呆気ないもんだったねぇ」

偉そうといえば、ゲージュツの誕生を道具の世界から考察することもできるようだ。世間が何を以って「芸術」とするのか知らないが、差し当たり生活の用に直接寄与しない労働成果とでもしてみるか。美術の教科書ではラスコーの壁画が取り上げられていたりするが、あれは絵画のつもりで描かれたものなのか、何事か実用の必要に迫られて描かれたものなのか。今となっては描いた本人に確かめる術がない。

本書では、室町の東山時代に注目している。足利義政といえば、幕府の権威が大きく揺らぎ、群雄割拠、戦国時代前夜の頃だろう。「ショーグンなんて言われたってさ、ビンボーニンやヤバンジンに興味無いし」ってなわけで、何かと面倒な政治の現実から逃避するかのように遊びを極めるなかから、現在に繋がる日本の美意識が芽生えたのではなかろうか。

そういえば、パパ活に精を出して、何かと面倒な政治の現実を世に明らかにした自民党の議員が話題を呼んでいる。こういうところからも美意識に満ちた文化が生まれるかもしれない。こちらは静岡5区、京都の東山よりはるかにデカい富士山を背にしている。

足利義政を中心とする東山時代のころ、日本の大工の生産組織にも大きな変化があった。古代律令制のもとで組織された造営官庁の管制組織は、中世に至って徐々に民間主導型に移行していたが、室町幕府成立のころから将軍家御大工とよばれる大工の最高位にあって、しかも広い視野と教養人としての知識・感性を要求される人間があらわれてくる。そうしてやがて彼らは、大工としての実際の技術から離れて将軍家の芸術顧問のような立場に立つようになった。それに代わって実際の技術上の指導者として棟梁という職種が登場したのである。
60頁

美意識が盛り上がると、建築は細部の細工にまでこだわるようになる。そうなると細工のための道具や「美しく」仕上げるための道具が必要になり、登場する。本書によれば、そうしたものの典型が、縦挽の製材用ノコギリや台ガンナであり、製図をひいて精緻に組み上げる建築方法だという。

日本の木材加工の歴史に一大革新をもたらしたとされる最初の縦挽の製材用ノコギリのオガ(大鋸)も、あるいはそれと踵を接して出現した台ガンナ(台鉋、今日のカンナと同形)も、その出現の時期(室町時代の十四世紀末から十五世紀にかけてのころと考えられるが)のせんさくには、現存する建物に残るその加工の痕跡を可能なかぎり昔にさかのぼらせることが最大のきめ手となっている。文献や絵巻物などでは、きまぐれ過ぎるからである。
21頁

 建築においても、このような芸術の意識の発生とともに、あるいはその成立の背景として、いろいろな新しい情勢の展開がこのころから見られる。
 たとえば建築の土台や柱や梁などの組立ての時に使われる番付の方法の発生である。これは建物の桁方向に柱の列を"いろは…"に区分し、妻方向に"一、二、三…"などと分けて、"いの一番"とか"ろの二番"というように柱の座標を固定し、それをもとにして主要部材の配列をきめる方法である。記録によると応永二十二年(一四一五)の興福寺東金堂の新築で用いられているのが最古のもので、十六世紀に入るとさらに例が増し、近世では、ほとんどすべての建築工事に及んだといわれている。その文字はスミサシ(墨芯)の尻で書くのである。
 番付が行われるようになれば、当然その控えのメモが必要となる。それは設計図として成立する。
61-62頁

建築に美意識が入り込むということは、それを作る側にも審美眼とそれを具現化する技能が要求されることになる。しかし、ゲージュツカと違って大工には厳しい納期がある。大工の「腕」あるいは仕事の「確かさ」というのは、単に技能が優れているというだけではなく、限られた時間の中で仕上げる能力までも含めてのことだろう。それには本人の才能と努力はもちろん必要だが、道具の良し悪しも大事なことである。

昔の大工は「女房を質に入れても」良い道具をもとめたという。それはただ自慢の道具ということだけでなく、能率がまったく違う、したがって手間で働く場合には収入に格段の差がつく、という実質的な意味もあることを忘れてはなるまい。
68頁

暮らしを立てるというのは綺麗事ではない。それはわかっているつもりなのだが、仕事に対するのと同様に、生き方にも美意識がある、ある人がいる、と思うのである。いや、思いたい。だから、以下に引く千代鶴是秀と大阪の大工の話なんか、とてもいいなぁと思うのである。こういう話に触れると落語の「文七元結」は実話なんじゃないかと思えて、嬉しくなるのである。

東京の千代鶴是秀が、大阪の有名な大工さんからノミの注文を受けた。永い時間をかけてやっと会心の作ができたので、大阪まで届けに行った。仲間うちでは有名でもその大工の家は気の毒なほどのあばら屋。めでたく作品を渡し代価を受けとって、「失礼だが、よくお代を調達できましたね」と尋ねたら、彼が無言のうちに出したのは質札。「じつは、私の汽車賃もこれです」と、千代鶴も質札。期せずして破顔大笑、という話をある人から聞いたことがある。
115頁

木工教室に通ったことがある。陶芸を習い始めて何年か経った頃、陶芸作品を収める箱も作ろうと思ったのである。木工も陶芸も週一回だ。しかし、木工を習い始めてまもなく、その考えは間違っていることに気がついた。作品の生産性がまるで違うので、陶芸作品の制作に箱の制作が全く追いつかない。そもそも箱に収めるほどのものはできない。今なら、箱なんかいらないだろうと思うのだが、なぜそのような馬鹿なことを考えたのか。結局、教室に通い始めて3年ほどして、当時の勤務先を解雇されたのをきっかけにやめてしまった。失業したというのに、なぜか陶芸をやめようとは思わなかった。よほど好きなのか、よほど馬鹿なのか。

道具類は教室にあるものを使ったので、自分では何も用意していない。だから、大工道具についてあまり考えたこともなかった。本書を読んで「へぇ」と感心することばかりで、やっぱり続けておけばよかったかなとも思う。

木工の先生は学校の先生だった人だ。もとは中学校の技術家庭科の教師で、教師を辞めて東京都の職業訓練校に通って技能を高め、自宅隣家が空き家になったのを買い取って作業場にしたのだそうだ。その空き家になった家はもともと染物屋を営んでいたのだそうで、庭には細長い水槽跡があった。私がやめた翌年だか翌々年、その木工教室がテレビ番組の「若大将のゆうゆう散歩」で紹介されたらしい。

ちなみに、私が今暮らしている団地には「じゅん散歩」で高田純次が何度か来ている。彼は以前にこの団地で暮らしていたそうだ。我が家にはテレビがないので、家人の勤め先の同僚がDVDに録画したものを貸してくれた。それを観ると、番組の中で団地を訪れた高田が唐突に「小川菜摘が…」と語る場面がある。彼女もこの団地の元住人だ。もちろん、私はどちらとも面識がない。

それで木工だが、陶芸作品を収める箱はいくつか作った。過去に4回、自分の作品展を開いた時に、箱のあるものは全て売れたので、今手元には陶芸作品用の箱は残っていない。木工教室で作ったもので、今あるのは椅子、ワゴン、ゴミ箱、蓋付の箱(蓋をひっくり返すと箱膳になる;見出し写真)の四つだけだ。椅子はその教室で最初に作る規定演技・基礎作業のようなもので、椅子とは名ばかりで板に脚がついているだけだ。今、炊飯器の台になっている。ワゴンは重宝している。ゴミ箱も大活躍だ。蓋付の杉の箱は普段使わない台所用品を納めて流しの下の物入れの中に鎮座している。

ところで以前にも書いたかもしれないが、義弟が木工作家だ。家人の実家は元は宮大工だった。それが神社仏閣だけでは商売が先細りになったので「宮」を取って大工になり、つまり普通の工務店になり、それも時代の流れの中で厳しくなって建具屋になった。家人が子供の頃は住み込みの職人も何人か抱えていたらしいが、ダウンサイジングの流れは止まらずに、義父、義父の弟、義弟の3人だけで切り盛りするようになった。義父の弟が引退し、親子だけになり、義父も実質的に引退して、昨年、建具屋を廃業し、義弟が木工作家として一人立ちした。制作するのは指物で、日本工芸会の正会員である。指物とは、鉄釘などを使わずに、材に切り込みなどを入れて組み合わせることで造形する木工品のことだ。もともとは公家や武家の調度品に使われたものだが、茶の湯に使われる木工品の茶道具として一般に広がり、箪笥などの家具としても普及するようになった。先週から今週月曜にかけて、日本橋三越でグループ展を開催していて上京していた。幸いにも、出品作品のいくつかに赤札が付いた。ありがたいことだが、東京に出てこないと商売にならないのも現実なのだそうだ。ちなみに、日本工芸会の総裁は秋篠宮の佳子様だ。昨年までは眞子様が総裁だったが、ああいうことになってこうなった。どこもそれぞれに大変だ。


読書月記 2022年5月

2022年05月31日 | Weblog

岡野弘彦 『折口信夫の晩年』 慶應義塾大学出版会

本は積んでしまうと行方不明になる。この連休に家の中の整理をしていたら出てきた。先日、同じ著者の『折口信夫伝』の文庫版を読んだ。読んで思いついたことをこのnoteに書いた。読み返してみて、本の中身のことが書いていないので、後で抜き書きを並べて備忘録としておこうかと思った。副題に「その思想と学問」とあり、折口がどのような考え方をする人であったのかということが主題として語られている。それに対し、本書の方は文字通り、岡野が折口の内弟子として暮らした昭和22年から28年9月の逝去までの日々を時間を追うように記したものだ。日々の暮らしの様子を記述するだけでも、その対象となっている人の人となりであるとか考え方のようなものが滲み出てくるものである。しかし、本書だけでは恐らく字面以上のことはわからない。やはり、前提として折口や岡野の仕事を知っておく必要がある。

今となっては、自分がなぜ本書を読もうと思ったのか全く記憶にないのだが、買った時点では、本書を読んでも何も理解できなかったと思う。似たようなことは生活の中でいくらでもあることだ。読書に限らず、人と知り合う順番とか、知らない土地を訪れる時の経路とか、物事を重ねていく時の重ね方次第で、人生が大きく変わるものだと思う。しかし、それは過去を振り返って俯瞰するから言えることであって、今この瞬間の状況がこの先にどう転がるかなんて誰にもわからない。

暮らしは連続している。「連続」の意味は止めることができないということだ。ある瞬間、ある時点の、ある視点での見方を語ることは当たり前のように行われているが、それはあくまで便宜的なものである。ところが、その便宜的なものであるということが当たり前に理解されていない。物事は止まることをしない。世間の言説の殆どが、物事にあるべき静止形があるかのように語られているように聞こえる。不思議なことである。

今、これから先、どう転んでも対処できる心構えを持つのに必要な心身の鍛錬が本来の教育というものなのではないだろうか。それは結局のところ、言語化できるようなことではなく、身近に人の立ち居振る舞いや生き方を目の当たりにして、自身の中で何事かを感得することの連続によってしか実現できない気がする。芸事や職人の世界で師匠の内弟子になるのは、技巧そのものではなく、その背後にある何事かを感得するためだろう。内弟子というような形の問題ではなく、自分を取り巻く人間関係の中に、そういうものが多少なりともあれば、人は何があってもなくても平気で生きることを全うできる気がする。

以下、備忘録として本書からの抜き書き。

下手な皮肉は、気のぬけたわさびみたいなもので、相手に軽蔑されるし、よく利いた皮肉は、相手に反感をおこさせるだけだ。歌でも、皮肉が露骨に見える歌は、その作者が軽蔑される。
24頁

そんな先生のそばで桜を見ていて、うっかり「青い空に桜が映えて美しい」といったら、「色刷りの絵葉書みたいな、ありきたりのことをいうものじゃない。いかに、心がはたらいていないか、すぐわかってしまう」といって叱られた。
58頁

 肉屋で肉を買うときに、店の者が白い脂の層を厚くつけたまま秤に載せると、はげしい口調で叱責された。脂は肉ではない。別々にして売るべきものだ。すき焼のとき、鍋に引く脂は当然、サービスとして添えるものだ、というのが、先生の考えであった。こういう点、先生の神経は、世のなまじっかな主婦よりずっと細かくはたらいた。
「戦後、肉屋はずるくなって、脂を平気で秤にかけるし、買う者も、それを当たり前のように感じているのは、間違っている。」
と憤っていられた。
 大井の鹿島神宮の前に、樽一つ置いて、どじょうを売っている家があった。慶應からの帰りには、そこでバスを降りて、買って帰ることがあった。ある日、いつもの主人がいないでおかみさんが出てきた。柳川にするためのどじょうを割かせると、黄色い卵のところを脇へのけおいて、最後に身だけ包んでさしだして、卵はさっとあら入れにつまみ入れてしまった。
 そのときも先生は、はげしく怒られた。
 必ずしも、食べ物のことだけではない。律気な商家に育った人だから、商人のずるさには、よけいに敏感で、許せなかったのだという気がする。
67-68頁

 ハワイの短歌会との文通は、亡くなるまでずっと続いていた。その会の同人が二人、日本へ来たときに、出石の家を訪ねてこられたこともあった。そのとき、与えられた歌。
 汝がいへの親のこほしむ古国は かく荒れにけり。ゆきて語るな
95頁

居間の床の間に、僧月僊の描いた、関羽・張飛の対になった軸が、ずっと掛けてあった。
 月僊筆「桃園結盟図」を聯ね吊りて、凪ぎ難き三年の思ひを遣りしか
 たたかひの間ホドをとほして 掛けし軸—。しみじみ見れば、塵にしみたり (昭和二十一年作)
 銭欲ゼニホりて 伊勢の法師のかきし画の いづれを見ても、卑しげのなき (昭和二十四年作)
 伊勢法師乞食月僊カタギゲヰセンの かきし画の心にふりて、ゆたけくなりぬ
 こういう歌が先生にある。
 月僊は伊勢山田の僧で、応挙に学び、謝礼の多少によって精粗巧拙を分かち画いたので、人にいやしまれたが、晩年、蓄財千五百両を貧民の救済や寺の修復の費としたという人である。
97頁

昔、『アララギ』の人たちは、歌ができなくなると動物園へ行ったものだ。あそこは奇妙に、歌のできるところだよ。
102頁

 大和当麻寺、中ノ坊の住職松村実照氏が、先年私に話された。
「折口先生という方に、私がいつも心ひそかに感銘していたのは、こういうことです。あの方は、ずうっと昔、中学生の頃から、この当麻寺へ何べんでも来られて、私の先代の住職に深く接していられました。その先代に接するお気持ちを、そのまま、後を継いだ私の上に持ちつづけていてくださいました。私も小学生のときからこの寺に入って先代に仕え、その後を継ぐようになったのですから、先生のそういうお気持ちはようわかります。寺へはいろいろえらいお方も来られますが、ああいう方はございませんな。」
 この住職の話は、表面の交際だけのことではなくて、私などにはまだよくわからない、若い頃からの先生の心の底にあった宗教的なものに触れてのことばであるような気がする。
157-158頁

こんどの戦に敗れたことはいうまでもなく大きな不幸だった。だが、その後に、棚から落ちてきたもののようにして偶然に日本人が得た自由は、それなりに尊いものだ。しかし、それは日本人が苦労して得たものではないだけに根の浅いものだ。うっかりしていると、また、不幸な時代がそばまで来ていたというようなことになるかもしれない。今のうちに、どんな時代になっても揺らぐことのない、真に力ある学問を身につけておくことだ。
246頁

 夕方になって、手もとにあった雑誌「文芸」を読んであげようと思って、その目次を見ると、「芥川賞作家特集」になっている。何の気なしに、「今月は芥川賞作家総動員ですよ。どれを読みましょうか」というと、先生の顔つきが変わった。
「何という軽薄なもの言いをするんだ。もともとこの雑誌の編集は、毎号狙いがあって、軽薄なんだ。そんな軽薄な編集者の意図にのって、君までが愚かな言い方をする。坊主のなかで誰が偉いかといったらすぐに有名な寺の管長なんかの名をあげるようなものだ。ほんとに偉い坊主はな、名もない田舎の荒れ果てた寺に入って、その村人の心にほんとの宗教的な情熱の火を燃え立たせて、そのまま土に沁み込む水みたいにその村の土になって消えてゆくもんだ。そういう名もない偉い坊主が沢山いたから、今日まで日本の仏教は支えられてきたんだ。愚劣な言い方をするもんじゃない。」
254-255頁

 

比嘉春潮・霜多正次・新里恵二 『沖縄』 岩波新書

青版の限定復刻。初版は1963年1月25日発行なので、執筆されたのは私が生まれた1962年だろう。予て「岩波書店の新刊」の5月号に5月20日発売との広告が出ていて読みたいと思っていたので、発売日に仕事の帰りに職場近くの丸善丸の内本店に寄って購入。先日は東京国立博物館で開催されている「沖縄復帰50周年記念特別展 琉球」を見学してきた。本書を読んで、また、琉球展を観て、日本人として60年も生きてきたのに沖縄のことを何も知らない自分に愕然とした。

一度だけ沖縄に行ったことがある。大学時代最後の冬休みのことだ。友人に誘われたのである。彼のおじさんが沖縄で戦死したのだそうだ。それで、おじさんの名前が刻まれているはずの「平和の礎いしじ」を見に行きたいという。私の方は沖縄に縁が無いが、沖縄という場所やあの戦争に興味がないわけではなかったので、付き合うことにした。今となってはどこをどう歩いたのか記憶がほとんど無いのだが、コールデンウィーク中に家の中の整理をしていたら、その時に持ち帰った旧海軍司令部壕のチラシ、首里の玉陵たまうどうんのチラシ、全日空機内誌「翼の王国」年末特別号(昭和59年12月1日発行)が出てきた。それらを眺めながら、そういえば観光客は少なかったが、戦跡めぐりの観光バスにはそれなりに客が乗っていたことを思い出した。摩文仁の丘にある平和の礎には戦没者の名前が出身地の都道府県ごとに刻まれている。彼は熊本県の石碑におじさんの名前を見つけることができて嬉しそうだった。楽しい旅行であったことは間違いないのだが、戦跡めぐりであった所為もあり、私の沖縄に対する印象はただ重いものになった。

思い起こせば、小学校3年生の時に同級生になり、仲の良かった高塚君は奄美大島の出身だった。しかし、子供同士の付き合いに戦争だの戦後の同島での米国施政権だのが話題になるはずもなく、それで私が沖縄を意識するきっかけにはならなかった。沖縄復帰の1972年当時は小学校4年生で、その当時のそのくらいの子供が当たり前にするように記念切手を収集していた。当然、沖縄復帰ほどの大きな出来事ともなれば記念切手は発行され、今も手元に何枚か残っている。

時は下って、陶芸を始めてから闇雲に美術館や博物館を訪れるようになった。陶芸の先生にとにかくいろいろなものを見てくるようにと言われたので、とにかく何でも見た。それが40代後半以降だ。いろいろ見ているうちに民芸と神社仏閣に興味が向かい今日に至っている。琉球の文物は日本民藝館で自分にとってはすっかり馴染になっていた、つもりでいた。柳宗悦が書いたものも何冊も何回も読んで、柳が琉球の民芸品や文化に高い評価を与えていることも知っているつもりだった。ところが、本書に次のような記述があって、あっ、と思った。

 とくに沖縄では、政府=県庁の方針として、琉球独自の風習や言語など、生活様式のいっさいを大急ぎで本土化=皇民化することが要請されていたから、沖縄を忘れることはむしろ奨励されていたのである。
 一九四〇年(昭和一九年)、民芸協会の柳宗悦らの一行が沖縄にいって、そのような県庁の政策を批判したために、柳は検挙されて裁判所で訊問をうけたことがある。彼らは、講演会などで、琉球文化の貴重な価値を賞揚し、県民に自らの伝統文化を尊重するよう訴えたのだが、それが県当局の忌諱にふれたのだった。県の学務部は、さいしょ柳らにたいする公開状を新聞に発表して、柳らの意見は沖縄文化にたいする無責任なエキゾチズムであって、そのような「趣味人の玩弄的態度」は沖縄県民をまどわし、立派な日本国民を育成する所以でないとして、とくに標準語励行運動が行きすぎであるという柳らの意見を反駁したのだった。
27頁

柳をはじめとする民藝の人々が団体で戦前に何度か沖縄を訪れ、焼き物や着物その他民俗資料の類を収集したのは知っている。しかし、そこで検挙されたことは知らなかった。

それよりも何よりも本書の冒頭の記述でいきなり衝撃を受けた。事細かに引用はしないが、一章の「日本のなかの沖縄」で紹介されている「本土」の人々の沖縄に対する認識の奇怪とも呼べるような珍妙さには、それが本土と沖縄との往来が今と比べて不自由であった本書執筆の1962年当時のことであることを勘案しても、驚かされるのである。日本の政治家が沖縄で日本語が通じるのかと尋ねたとか、首相経験者が「沖縄の土人」という表現を使ったとか、沖縄であろうと他の日本の土地についてであろうと正確に認識していなければならない立場の人々が沖縄に対する無知を曝け出している。そうした責任ある立場の人であってもそうなのだから、市井の人々の沖縄への認識は推してしるべしだ。日本のある評論家が本土の市井の人々に沖縄についてインタビューしたところ、沖縄の場所を知らない、沖縄の人々が人種的に日本人とは異なっていると思っている、琉球方言は日本語ではないと認識している、そんな答えが多かったという。まさか、今はそのようなことは無いだろうが、本当に沖縄が日本の他の地域と同等に一般に認識されているのかどうかは知らない。

そういえば、立川談志が参議院議員のとき、沖縄開発庁政務次官を1ヶ月ちょいだけ務めた。1975年の年末から翌年の年初にかけてのことだ。議員一期目のタレント議員がたとえ名誉職であるとしても沖縄の行政と関連する省庁の政務次官に任命されるということ自体に日本政府の沖縄に対する姿勢の何事かが表れていると思うのだが、本当はどうだったのだろう。

それでは、なぜ沖縄が日本であって日本ではない特殊な位置付けをされるようになったのか。本書を読む限り、それは近世における日中関係と江戸時代の幕藩体制と鎖国政策が深く関係しているように見える。さらに、欧州列強やキリスト教会の権力闘争や航海技術の発展も考慮に入れる必要がある。

14世紀末から16世紀にかけて、琉球王国は日本とも明とも外交関係があり、琉球の外港である那覇港には日本、中国、朝鮮はもとより、東南アジアや南洋の国々の船も出入りしていた。琉球は仲介貿易で繁栄していたようだ。16世紀に入ると、ポルトガルやスペインが東洋に進出するようになり、東南アジアから極東に至る貿易は琉球の独壇場ではなくなってしまう。やがて16世紀半ばには琉球を基点とする南海貿易は途絶え、琉球の貿易での繁栄は翳りを見せるようになった。

そうした中、16世紀終わりに秀吉の朝鮮出兵が行われる。秀吉は島津義久を介して琉球の尚寧王に朝鮮侵略のための出兵を命じる。しかし、この出兵命令は義久の取りなしで兵糧調達命令に変えられた。それでも琉球はこれを拒否。義久の弟で初代薩摩藩主となる家久が、この兵糧調達命令拒否をはじめとする琉球の「無礼」を理由とする琉球征伐の許可を徳川家康から得る。1609年にこの許可に基づいて薩摩藩は琉球を征服した。

徳川幕府はまだ鎖国を行なっていないが、薩摩の琉球征服と同じ1609年に西国大名に対し五百石積以上の船を没収し、実質的な貿易独占政策を発動。また、秀吉の朝鮮出兵により、明のほうも日本との貿易を禁じていた。しかし、琉球が明との貿易で利益を得ていたことを薩摩が見逃すはずはなく、薩摩は琉球を実質的支配下に置きながら薩摩とは別建の国として明をはじめとする海外との交易の受け皿とすることになる。薩摩は鎖国以前に鎖国の抜け道を確保したといえる。しかし、このことは琉球の地位が国のような薩摩の一部であるような、あやふやなものになることも意味している。このあたりのことが、その後の琉球・沖縄の困難な状況につながっているように見えるのである。

今の沖縄あるいは沖縄に暮らす人々が、どのような問題を抱えているのか私は知らない。少なくとも、こちらから沖縄に行くのに何の障害もない。事実、東日本震災で福島の原発があんなことになったのを機に、環境問題に敏感な人たちが首都圏から沖縄へ移住したケースを身近にいくつか聞いている。逆に、本土で暮らす沖縄出身者もたくさんいるだろう。まして、かつてに比べれば、ネットにさえ繋がれば就業可能な仕事も多くなった。そうした流れの中で、本書に記されているような沖縄の人々への不当な扱いが過去のことになっているのを願わずにはいられない。

念の為断っておくが、本書の記述が正確な事実に基づいているのかどうかは知らない。しかし、些細なことが重大な差別などにつながることは歴史が示すところでもある。


読書月記 2022年4月

2022年04月30日 | Weblog

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART3』 国書刊行会

何事にも程というものがある。続き物の本とかドラマとか映画などがあるが、大概は最初が面白くて、回を重ねる毎にそれほどでもなくなる。本書のシリーズはPART6まで予定されているが、このあたりでやめておこうかなと思っている。

PART1、2ときちんと比べたわけではないが、印象として本書はセリフよりも俳優についての和田の想いに記述の重点が移っている。そうなると、その俳優への関心が薄い、あるはそもそも知らない場合、読んでいて引っ掛かるものがないということになる。本書の原典は『キネマ旬報』に1973年から1996年まで連載されたエッセイなので、書かれた時点においては読者の側にも和田と映画経験を共有していた人が多かったはずだ。しかし、それから何十年も経て同じだけの興味関心をその時代の読者に呼び起こすことができるかどうかは別の話になる。

あとがきによると、本書にはPART1、2にはない新趣向が加えられた。

項目から次の項目への橋渡しを、シリトリのようにつないでゆく、というもので、いくらかこじつけもないではないが、どうやら最後の項目が最初に戻る形で輪のようにつながった。
246頁

本書は見開きで一つのまとまった内容になっている。ある項で語った中の例えば俳優に関することで次の項が書かれる、というようなことだ。その鍵になる事柄が俳優、監督、作中で使われた音楽などの小道具類、といったものである。それを「シリトリのようにつないでゆく」と言っているのだ。しかし、それも映画というものに興味関心があれば面白いかもしれないが、そうでない読者には「なるほど、そうですか」というより他に反応のしようがない。

そんなわけで、本書の前半は自分にとっては何事もなく淡々と流れていったのだが、漸く164ページで「おっ」となった。『哀愁(原題:WATERLOO BRIDGE)』の登場だ。1940年の作品なので公開時に観たはずはない。今となっては理由がわからないのだが、学生の頃、やたらと名画座に足を運んだ時期があった。そうやって観た作品の中で印象に残ってその後もレンタルビデオなどで何度も観たものがある。一番たくさん観て、今も手元にDVDがあるのが『アパートの鍵貸します(The Apartment)』なのだが、その次くらいが『哀愁』かもしれない。初めてロンドンを訪れたとき、真っ先に向かったのはWATERLOO BRIDGEだった。今見ればなんでもない橋なのだが、「ここかぁ」と感心して眺めたのを覚えている。

本書後半に登場する作品で『アラビアのロレンス(LAWRENCE OF ARABIA)』も印象深い。この作品は自分の生年と同じ1962年公開なのだが、ロンドンの映画館で1988年から1990年の間のどこかで観た。たまたま街をぶらぶらしていて、映画館の大きな看板を見上げていた。すると、その看板の下、映画館出入口の前で小柄なおじさんがおいでおいでをしている。近づいてみると、観たいかと、言うのである。別に観たいわけではなく、古い映画なのにこんなにデカい看板を出すんだなぁ、と思って眺めていただけだったのだが、そんなことを説明してもしょうがないので、観たいと答えたら、観ていきな、と言って中に案内してくれたのである。観終わって出ていくとおじさんがいて、どうだったと言う。いゃー感動した、というと、そうだろう、と嬉しそうだった。結局、タダで観たのである。その後、湾岸戦争があって、アラブという地域のありようについて考えさせらたこともあり、この作品はやはり何度も観た。「クニ」とか「国家」というものについての考え方は、それぞれの人々の歴史的体験に基づいてそれぞれに異なるものだという、当然のことを気づかせる作品だと思う。

本書終盤238ページに登場するのが『ローマの休日(ROMAN HOLIDAY)』。観た回数だけで言えば、自分史上最も多く観た作品で、押入れのどこかに台本付きDVDもあるはずだ。以前にも書いたが、勤め帰りに映像翻訳の学校に通った時期がある。その学校での何かの課題が本作のシーンに自分なりの字幕をつけるというもので、その台本を見ながらDVDを何度も繰り返し観たのである。しかし、作品としてはただ楽しいだけのものにしか見えなかった。楽しいだけのどこがいけない、と言われても困るのだが。

一度だけしか観ていないので、細かいことは記憶にないが、観たということだけははっきり覚えている作品がある。本書の最初の方、22ページに登場する『恐怖の報酬(LE SALAIRE DE LA PEUR)』だ。高校の文化祭で映画部が上映したのがこの作品だった。1953年の作品で、どのような理由でこの作品の上映が決まったのか知らないが、高校生というのはこういう難しい作品を観て何事かを語らないといけないのか、と妙なプレッシャーを感じた。しかし、何事も語れないままに3年間を過ごし、今もって何も語ることのできない人間である。

 

岡野弘彦 『折口信夫伝 その思想と学問』 ちくま学芸文庫

手元の記録によると2014年4月29日に新宿武蔵野館で『神宮希林』を観た。樹木希林を語り部として2013年の伊勢神宮式年遷宮を描いたドキュメンタリー作品だ。その中で、樹木が岡野弘彦を訪ねる場面がある。映画を観た時は、その場面のことをあまり意識していなかった。岡野が歌人であること、戦時中に陸軍に応召して千葉県で終戦を迎えたこと、くらいしか認識できていなかった。戦争を生き抜いた人であり、友人知人を戦争で亡くした人でもあり、当時「神の国」とされていた日本が無惨に敗戦を迎えたことへの想いを、伊勢神宮についての映画の中で語らせることに意味があった、ということはなんとなくわかった。映画を観た頃は、短歌も俳句も詠んでいなかったので、岡野が歌人としてどういう人なのかということへの意識がまるでなかった。

時は下って2019年1月16日、外苑前にあった「ほぼ日の学校」で岡野の講義を聴いた。それに先立つ1月11日、その講義の予習会があり、そこで岡野が映画に出ていたことを改めて知る。予習会では『神宮希林』の2年後に樹木が岡野を再訪するところを収めたビデオも観た。そこで岡野は國學院予科での同級生である板倉震とおるさんと共に陸軍特別操縦見習士官を志願するが、岡野の方は父親から厳しく諌められて志願を取り下げ、板倉さんは1945年4月21日に出撃されたという話を語っていた。岡野は板倉さんが出撃した4月21日にその発進基地があった知覧を毎年訪れていたのだという。

あまりにもしづけき神ぞ血ぬられし手もて贖(つぐな)ふすべををしへよ
岡野弘彦 第2歌集『滄浪歌』角川書店(1972年)

岡野は敗戦後、三重県の郷里に帰り、その翌日に伊勢神宮に参拝して詠んだのがこの歌だそうだ。戦前戦中、日本は「神の国」だと教えられ、戦況の悪化と共にその声がますます大きくなったのだという。しかし、生き残って伊勢神宮に詣でてみれば、何事も無いかのように静かな時が流れていた。その時に詠んだのが上の歌だそうだ。

その岡野は折口信夫の最後の内弟子だ。学者や歌人で「内弟子」というのも今の時代には妙に聞こえるかもしれないが、人から人へ内面や精神性に関わる何事かを伝えるのに生活を共にすること以外の方法があるとは思えない。しかし、現実は物事が断片化、データ化されていつでもどこでも誰にでも伝達可能な形に加工され、その授受が「教育」であるかのようなことになっている。

「師弟の間がただの知識の授受に終わるのなら、こんな功利的な関係はない」と言い切る折口の、真に身近な弟子に対する薫育は魂の教育で、近代の社会にそのまま通じるようなものではなかった。
421頁

のだそうだが、そういう意味では今は人間関係全てが功利的な関係になっている気がしないでもない。人を育てるはずの学校教育が成績という数値評価を軸に構成され、その学校は偏差値という数値評価を軸に階層化され、家庭での「しつけ」は学校での適合を軸に行われ、数値化された成績表や権威者たる先生の評価に一喜一憂したりする。学校教育の中身はその時々の権力の都合で決められる。

生身の人間は、生理的なところは数値化できるのかもしれないが、精神的なところまでも果たして数値化して評価できるものなのだろうか。尤も、本来できないことを無理矢理押し付けることで生まれる非喜劇がいわゆる「現実」とか「人生」なのかもしれない。そうであるとすれば、人の社会生活はその無理矢理からこぼれ落ちた無数の顧みられることのない要素に覆われた本来的に孤独なものとも言える。

人は自ら生まれることを選択できない。気がつけば自分がここにいるのである。それなのに、周囲からはああせいこうせいといわれて、その周囲との作用反作用の中でささやかな自己主張をしてはみるものの、あれよあれよという間に成長して衰弱して死を迎える。社会には自分が生を受ける以前から存在する秩序があり、それに従わないと排除される。しかし、その秩序は絶対的なものではなく、時と場の変容に応じて時々刻々変化する。生きてきく上で秩序を意識することは必要なのだが、その変化の表層だけに気を取られていると捉えどころがなくて気が狂いそうになる。事実、狂っている人はたくさんいる。ささやかな自己主張のささやかな成功体験に気を良くしてみたり、自分が何者であるかもわからずに右往左往し続けてみたりしながら一生を終えるところに、何となく悲劇性を感じる。生きることは本来的に悲劇である、と言えなくもない。

たぶん、右往左往するから悲劇になる。右往左往しないためには「絶対」を装いながら実はあやふやな秩序の表層に惑わされることなく、もう少ししっかりした思考の基準がないといけない。おそらくそれは誰しも思うことで、共同体とか宗教ができる土壌にはそういう誰しもが感じているであろう欠落感のようなものがある。右往左往せずに済むような、万人が是とできる思考の軸を創造したり継承したりする作業が本当の教育なのだろう。

「本当」かどうはともかくとして、現状は誰しも教育を受けて成長したことになっている。だから生きている我々はそういう基準を心に持っているはずだ。誰に尋ねても「自分とは何者か」「人とはいかなるものか」をきちんと語ることができるはずだ。

しかし、現実はそうではない。わずかばかりの利得や一時の感情の暴走で人は互いの領分を犯しあう。なまじ知恵があるので、その侵害行為は時に組織的になり精緻を極める。万人の生活に恩恵を与えている科学技術も元は侵害行為を動機に生み出されたものであったりすることもある。余計なことは考えずに、自分が生きることに必要な最低限のことにだけ精を出していれば、案外安穏と一生を全うできるのかもしれないが、余計なことがどうしてもしたくなる。そして右往左往する。なぜか。

結局、人は己をわかっていないからではないか。人類史をさんざん重ねて今更こんなことを言っても始まらないのだが、誰も何もわかっていないのである。生命体の進化であれ、神がこしらえたものであれ、現象を記述したところでそれだけでは誰も何も救われない。

私は折口信夫を柳田國男との関連の中で知ったのだが、折口が民俗学へ向かうのは日本人のそもそもの探求の一つの道としてであって、歌を詠んだり、国文学を研究したりするのと同じように、要するに自分を知るためであったのだと思う。その成果を折口を慕う門弟に伝えるのに、共通言語が必要になる。それが歌であったということだろう。また、そもそも歌とは文意だけでなくそこに込めた魂のようなものを相手に伝えるためのものであった。「言霊」とか「呪言ことほぎ」とか言葉にまつわる呪術的な響きのあるものが現在でも存在するのは言葉というもののありようがそもそもそいういうものであったことの名残だと思う。

折口がその身近の門弟を薫育するために、まず短歌を作らせ、自分の歌風、歌の気息、心と言葉のひびきを、そのまま口うつしの形で学び取らせようとしたのも、日本人の魂の歌による感染教育を目ざしたのであって、近代に起こった多くの世上の短歌結社の文学運動とは、根本的に違う要素を持っていたのである。
69頁

折口の教育の基本が歌を詠ませることにあったのは、彼はそれが魂の表現であると考えたからだ。

短歌は折口にとって、現代の文芸思潮の影響を受けた現代の文学であったが、同時に万葉びと以来の日本人が継承してきた生活の中の心の表現の定型であり、心と言葉の器であった。万葉集の中でも高市黒人をはじめとする旅の歌にいちじるしく示されているように、旅中の魂に起こってくる不安動揺を鎮め、旅先の地で触れあうさまざまな地霊や庶物霊と魂を触れあう、呪的な言葉の形であった。
67-68頁

神だの霊だのというと、今は世の不可解を一身に背追い込まされている思考停止の果てにあるゴミ箱のようなものに思われるかもしれないが、ここに述べられている「カミ(神、迦微、上、…)」は人の心の奥に伏在するはずの理屈を超えた思考の根源のようなものを指している。折口はそれを「まれびと」論として説いたらしいが、当然、それは事の性質上、完成される論理のようなものではあり得ない。しかし、例えば世界的な宗教にあって日本に古来からある宗教に欠落しているとされている緻密な教義や脆弱な罪障観について、もう少し広く世情の関心が寄せられてもよいと思う。もちろん、宗教がそれぞれの時代の権力闘争と結びついて権力基盤強化のための多数派工作の道具として使われたという側面があるので、その歴史的過程で必然的に教義が精緻化されたという事情はあるだろう。それにしても、日本では人の精神的なところに踏み込むことが忌避されるのが不思議なことに思われる。

殊に敗戦後、われわれが敗れたのはただ科学の進歩の遅れや、物量の乏しさによって敗れたのではない。われわれの神、われわれの信仰の力が、彼らの信仰の力に敗れたのだ。それをただ、物の量に負け、科学の進歩に敗れたのだという反省しかないのでは、百年後の日本は危ないよ、と予言した折口であった。また、キリスト教国の彼らは、その聖地エルサレムを奪い返そうとする十字軍のような情熱をもって、南方の島の一つ一つを落としながら日本本土に迫ってきた。それに対しわれわれはただ、神風が吹くといったまったく他力本願な心しか持たなかったという深い反省から、一時は熱心にキリスト教の教義を研究し、敗戦の年から亡くなる年まで国学院で神道概論を説き続けた折口であった。
229頁

日本の神話にも原罪を語るところはある。例えばスサノヲ(素戔嗚、すさのお)が高天原タカアマノハラで狼藉をはたらいた話などはそれにあたる。その狼藉の一つ一つを天つ罪・国つ罪として祝詞の中で唱え上げる習わしが昭和のはじめまではあったのだそうだ。また、神は元来、姿がなく、描かれたり像になることは稀なのだが、なぜかスサノヲは古来より数多く作品化されている。日本の神話に罪障観が脆弱なのではなく、昭和のはじめ頃にそうなったようなのだ。昭和のはじめにこの国で何があったのかということと考え合わせると興味深い。日本中の都市が悉く焦土と化してから76年になる。喉元過ぎれば熱さ忘れる、というが、過ぎる前から忘れているみたいだ。

 

内村鑑三 著 鈴木範久 訳 『代表的日本人』 岩波文庫

先日、小田原で初めて二宮尊徳のことを知り、その流れで本書を手にしたのだが、尊徳のことに関しては小田原で見聞した以上のことは書かれていなかった。それよりも、不思議な本だと思った。

日本人が外国語で日本のことを書いたものとしては、本書の他に岡倉天心の『茶の本』と新渡戸稲造の『武士道』が代表的なものらしい。岡倉天心は美術史の研究者でボストン美術館の中国・日本美術部長を務めた人で、名前くらいは知っている。たまたまボストンに本社のある会社の東京事務所に勤務していたことがあり、その会社の方針で用があってもなくても半年に一度は本社に出張して自分の仕事と関係のある人々と直接顔を合わせることになっていた。その頃に『茶の本』を読んだ。結構その当時の当地の同僚の中にはこの本を読んでいて、それに関する話題を振られることもあった。当時はまだ茶道を習い始める前だったが、そういう事情もあって読んでおかないと、と思って読んだ気がする。

新渡戸は以前の五千円札の人だったので顔は知っている。しかし、たまに見かける程度で、それほど馴染むことなく樋口一葉に交代してしまったので、『武士道』はおろか何も著作を読んだことがない。ちなみに、樋口一葉の作品も読んだことがない。

で、内村鑑三って誰?と思うのである。キリスト教に関係のある人らしいというのはわかった。本書は外国の人たちに日本とか日本人というものを説明する意図の下に書いたらしいのだが、内村鑑三という人が外国の人にとって引っ掛かりがないと書いたものも読まれないだろう。ということは、内村は少なくとも当時の外国の人々には知られていた存在だったということになる。次に、なぜ本書に紹介されている5人が「代表的日本人」なのか、ということが問題だ。

二宮尊徳以外の4人は西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮上人で、なぜこの5人なのかという説明はない。薄い本なのでサラッと読み流してしまったが、人選その他にまつわるモヤモヤが残って読後感はよろしくない。

西郷隆盛については、そういう人がいたということだけなら誰でも知っているだろう。大河ドラマにもなったし、その元である伝記や物語は数多い。尤も、自分で読んだことがあるのは司馬遼太郎の作品(『翔ぶが如く』)だけだが。倒幕の立役者のひとりであった西郷にとっては、倒幕後に構想した新政府と実際の新政府とが似ても似つかぬものになったのは確かだろう。西郷が本当のところどのような政治体制を標榜していたのか知らないが、維新の結果は徳川時代の社会体制の看板を架け替えて居抜きで人が交代しただけのようなものに見えたのかもしれない。維新後も秩序の基礎になる身分制や社会階級に大した変化がなく、志が高かった者ほど幻滅あるいは絶望したであろうことは想像に難くない。西郷がああいう形で反乱軍の神輿に乗って歴史から消えたのは、維新後の日本というより人間そのものに幻滅を覚えたからではないかと思うのである。

西郷は書いたものをあまり残していないそうだが、本書にちょっとした詩と文章が紹介されている。

道は一つのみ「是か非か」
心は常に鋼鉄
貧困は偉人をつくり
功業は難中に生まれる
雪をへて梅は白く
霜をへて楓は紅い
もし天意を知るならば
だれが安逸を望もうか
46頁

『左伝』にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財も減る。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方しだいで、盛衰、貧富、興亡、生死がある。用心すべきではないか。
46-47頁

いつどのような状況で書いたものなのか知らないが、この気持ちのまま維新後の世の中を生きるのはさぞかし辛かっただろう。西郷は偉人というより、単にまともな人だったというだけなのかもしれない。だから、新政府の中には居た堪れなかったのだ。

上杉鷹山はひと頃ブームになった、と記憶している。なぜブームになったのか、は記憶にない。上杉鷹山は米沢藩主として実質的に破綻していた藩の政治経済を再建したのだそうだ。例によって、倹約と適材適所が鍵らしいのだが、本書の鷹山の章にはさらにその基本となる姿勢のようなことが書かれている。

 封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるにすぎません。もはや忠義はありません。憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決するために文書に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとはしません。献身とそれのもつ長所は、つかえるべきわが君主がいて、慈しむべきわが家臣があるところに生じるのです。封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格をおびている点にあります。その本質は、家族制度の国家への適用であります。
83頁

いわゆる封建制の時代に本当に人間関係が人格的な性格を帯びていたのかどうか知らないが、人間が五感を持つ生物であるということは、それらの感覚を使って環境を認識するようにできているということには違いないだろう。人間関係もその環境の内にある。近世に大衆文芸やそれに基づく演劇の類が人気を集めたとき、その人気の背景にあったのは義理と人情の世界だ。そういうものを望ましいと思うかどうかは別にして、自分の置かれた環境と関係を取り結ぼうというときに、個別要素をデータ化して損得だの合理性だので評価するよりも、生物としての感覚による総体の判断のほうが、その結果が良くても悪くても、心情としては受け容れ易い気がする。鷹山の章で内村はこうも書いている。

 東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない」。このような儒教の教えを、鷹山は、尊師細井から授かりました。
 鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれている点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたところです。快楽主義的な幸福観は、鷹山の考えに反していました。富をえるのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。「衣食足りて礼節を知る」といにしえの賢者も言っているからであります。当時の慣習には全然こだわらず、鷹山は自己に天から託された民を、大名も農夫も共にしたがわなければならない「人の道」に導こうと志しました。
67-68頁

歴史上、礼節を知った人々ばかりのユートピアのような土地や時代が存在したのかどうか知らないが、権力を握る側が目指すべきはそういうものであるほうが穏当である気がする。行動規範に目標数値を置いた組織が長期に亘って繁栄したという話は聞いたことがない。あまりに個別具体的なものを指向すると、背後にあるべき理念に対する意識が希薄になり、個別要件の方が自己目的化して本来目指すべきものを見失って迷走するものだ。かといって漠然とした理念のようなものは解釈が人によってまちまちなので、それだけでは行動規範にはなり得ない。身も蓋もない言い方だが、社会であるとか国家であるといった大人数の集合体を長期間に亘って統率することはそもそも無理なのである。礼節だの道徳だのといったものも幻想に過ぎない気がしないでもない。人間というものは自分で思うほど賢くもなれければ立派なものでもない、と思う。

二宮尊徳の章で書かれていることも上杉鷹山のところと同じようなことだ。小田原で知ったことだが、二宮尊徳の思想の鍵は「報徳」という概念だ。ここでの「報」は活用するという意味で、「徳」は能力という意味だ。つまり「報徳」とは「適材適所」「相対優位の活用」などという意味になる。本書には次のような記述がある。

尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。尊徳のところへ一人の男が推挙されてきました。ほかの人の三倍は仕事をする働き者であるうえ、好人物との触れ込みでした。このような賞め言葉に、わが農民指導者は、長い間、動かされたことはありませんでした。(略)わが指導者は、自分の経験上、一人前の仕事の限界を知っていたのです。だから、そんな報告にだまされることはありませんでした。その男は罰を受け、嘘いつわりを厳しく戒められて畑に送り返されました。
 労働者のなかに、年老いて一人前の仕事はほとんどできない別の男がいました。この男は、終始切り株を取り除く仕事をしていました。その作業は骨の折れる仕事であるうえ、見栄えもしませんでした。男はみずから選んだ役に甘んじて、他人の休んでいる間も働いていました。「根っこ掘り」といわれ、たいして注目もひきませんでした。ところが、わが指導者の目はその男のうえにとまっていました。ある賃金支払い日のこと、いつものように、労働者一人一人、その成績と働き分に応じて報酬が与えられました。そのなかで、もっとも高い栄誉と報酬をえる者として呼びあげられた人こそ、ほかでもなく、その「根っこ掘り」の男であったのです。
89-90頁

もともと農民であった尊徳であればこそ、現場の仕事で何が問題になるかよくわかっていたということだろうが、評価の公平性という点で別の見方もあったはずだ。現に誰もが素直に尊徳の指揮下におさまったわけではなかったらしい。しかし、それでも尊徳が手がけた村落の再生案件は600を超えるものだったとされている。時の小田原藩主が幕府の老中であったという事情もあるが、やはりその手腕は大したものであったのだろう。本書では次のような話も紹介している。

 村人の信頼をまったく失っていた名主が、尊徳の知恵を借りにきました。わが聖者の与えた答えは、意外なほど簡単でした。
「自分可愛さが強すぎるからである。利己心はけだもののものだ。利己的な人間はけだものの仲間である。村人に感化をおよぼそうとするなら、自分自身と自分のもの一切を村人に与えるしかない」
「それには、どうすればよろしいのでしょうか」
「持っている土地、家屋、衣類などの全財産を売り、手にした金はことごとく村の財産にし、自分のすべてを村人のために捧げるがよい」
(略)
教えどおりに実行しました。彼の影響力と声望は、ただちに回復しました。(略)まもなく全村こぞって名主を支援するようになり、短期間のうちに名主は以前にもまして裕福な身になりました。
96-97頁

「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できるとは思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。策術は役に立たない」
「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地をも動かしうる」
「なすべきことは、結果を問わずなされなければならない」
 これらのことを述べたり、またこれに類する多くの教訓によって、尊徳は、自分のもとに指導と救済とを求めて訪れる多数の苦しむ人々を助けました。こうして尊徳は「自然」と人との間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。
100-101頁

 「自然」と歩みを共にする人は急ぎません。一時しのぎのために、計画をたて仕事をするようなこともありません。いわば「自然」の流れのなかに自分を置き、その流れを助けたり強めたりするのです。
105頁

よく、大局を見よ、などと言われるのだが、自分の手足を動かす現場を知らない者には大局はわかるまい。尊徳が語るように「誠実」であることは尊ばれるべきことではあるが、それが尊ばれるということは世の中が誠実ではないからに他ならない。昨今の感染症騒動での先を争うかのような人の行動を目の当たりにするまでもなく、誰しも世間の狡猾とか身勝手を嫌というほど見聞きし、また、体験もしているだろう。

中江藤樹は江戸初期の陽明学者だ。やはり農民の家に生まれ、武家に養子に出されたが、士官先の国替えで米子から伊予大洲へ移住する。近江の生家の母への孝行と自らの健康上の理由から辞職を願い出るが容れられず脱藩。京都に潜伏した後、生家のある近江高島へ戻り、私塾を開く。学者として生きた人なので、本書での記述も学者としてのあり方に関することが多い。

「学者」とは、徳によって与えられる名であって、学識によるものではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。
123頁

学者は、まず、慢心を捨て、謙徳を求めないならば、どんなに学問才能があろうとも、いまだに俗衆の腐肉を脱した地位にあるとはいえない。慢心は損を招き、謙譲は天の法である。謙譲は虚である。心が虚であるなら、善悪の判断は自然に生じる。
135頁

世の中の桜をたえておもはねば
春の心は長閑なりけり
137頁

谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない。
139-140頁

いわゆる「立身出世」は近代以降の考えだ。身分制が敷かれていた時代には、おそらく今とは身の丈の感覚が違っていた。また、情報伝達や交通の違いから明らかなように、人の世界観は今とは比べものにならないくらい違ったものであったはずだ。そうした中での承認欲求と現代のそれとは自ずと違う。村落の中で互いに見知った関係性の中で暮らすのと、隣に誰が住んでいるのか知らない社会で暮らすのとは、人の自己認識も当然違う。違う、のである。違いすぎるくらい、違うのである。

今は主に感染症の影響で移動が思うようにはできないが、そういう特殊事情を除いてみれば、我々はいつでもどこでも誰とでも交渉ができる。しかし、それはその交渉相手を知っているということと同じではない。生活に必要なあれこれを見ず知らずの相手から瞬時に受け取って暮らすことができるが、今とは比べものにならないくらい認識できる世界が狭かった時代に比べて友人知人が増えた、かどうかはわからない。むしろ、見ず知らずの相手と交渉できるようになったおかげで、生身の人と知り合いになる機会は激減したかもしれない。

いわゆる「心の病」が増えているらしい。生活の道具類が発達して見ず知らずの相手との交渉だけで生きていける時代になった。その結果、人は生物として持っている感覚と生活に使うそれとが適合しなくなった、のかもしれない。それで感覚の方が麻痺して悲鳴をあげる、つまり、病に陥るのかもしれない。もちろん、医学が発達して、それまで病気として認識されていなかったような状態が「病気」として認定されたということもあるだろう。しかし、我々の生活が我々の適応能力を凌駕するほどに変化を続けているのは確かである、気がする。

結局、自分の身の丈という尺度を持たないことには、いつまで経っても流動し続ける世間を追い求めて心身の消耗の無限地獄から抜け出すことができないのだろう。身の丈を知るには自らの手足を動かして生活をするしかない。と言っても、今更できることは限られているのだが、飯をつくるとか、洗濯や掃除をするとか、歩いていくことができる先には歩いていくとか、些細なことでも自分の身の丈のわかる経験をコツコツ積み上げていくことが何よりも大事であるように思われるのである。

本書5人目の「代表」は日蓮だ。キリスト教徒の内村が日蓮を挙げるのは妙な気もするが、内村が日本人であるのだからそこに神仏に関係する人が取り上げられることに違和感はないという人もいるだろう。いずれにしても、いわゆる「宗教」となると、その類の言説には素直に感心するようなところが少なく、本書でも日蓮の章には付箋を貼ったところがなかった。

本書の原書は日清戦争の最中に書かれ、同戦争が日本にとっての「義戦」であることを諸外国に訴える宣伝図書として発行されたものだそうだ。日清戦争当時は内村も義戦であると信じていたようなのだが、その後、それが義戦ではなかったとの認識に変わり、宣伝的な箇所を削除して、人物描写にも修正を加えて本書の姿になったとのことだ。宣伝図書とみれば、それに合わせて「代表的」人物を挙げ、宣伝したいことを連ねたものであるわけで、不思議な本でもなんでもなかったのである。日露戦争の前には、内村は既に戦争と名のつくものに「義戦」というものはあり得ないとの非戦論者になっていた。それでも本書を取り下げなかったところに、内村の考える理想の人間像があったということだろう。

人間という生物が何者であるのか、本当のところはわからないのだが、とりあえず直立二足歩行をするというだけなのではないか、と私は思っている。生物「進化」の頂点に当然のように己を置いて他の生物を睥睨している感があるが、自分が優位になるような尺度を選んで自分を物事の中心に据えること自体が馬鹿馬鹿しいことのように思われるのである。

 

内田百閒 『蓬莱島余談 台湾・客船紀行集』 中公文庫

昨年後半に百閒を随分読んで一旦は打ち止めにしたのだが、何かの拍子にこんなふうに目につくものがあると、つい手が出てしまう。本書の初版は2022年1月25日発行だ。本人没後何十年も経て出版されているものなので書下ろしはあるはずがなく、掲載されている文章の多くが既読であることは承知しているのだが、それでもうっかり手にしてしまう。

百閒は1939年に、友人である辰野隆の紹介で日本郵船の嘱託となった。文書顧問として一室と店童(お世話係)をあてがわれ、通勤にはタクシーかハイヤーが用意された。仕事は社内文書の作成や校正だ。午後半日勤務、週休二日で月200円の手当だったという。当時の公務員の初任給が70-80円というので、既に文筆家として名のある存在であったとはいえ、かなり恵まれた待遇と言える。社内文書のために作家を高給で雇うということが今となっては想像もつかないことだが、しかし、日本を代表するような大企業ともなるとそれくらいの品格を意識したという社会でもあったということだろう。

その百閒が、岡山中学の先輩で台湾の明治製糖の重役であった中川蕃しげるから台湾へ招待された。明治製糖の創業メンバーには郵船出身の小川䤡吉ぜんきちも名を連ねており、郵船と全く無縁の台湾行きではなかったのかもしれない。いずれにしても明治製糖の招待で、郵船の船で、1939年11月に9日間をかけて台湾旅行に出かけた。その時のことが本書の表題にもなっている「蓬莱島余談 台湾・客船紀行集」で本書11ページから99ページまでを占めている。旅行は9日間でも、それをもとにした紀行文は1939年12月から1949年12月に亘る。

その中に百閒が「リアリティ」というものについて語っている箇所がある。以前、『立腹帖』でも感心して引用したものなのだが、ここでも引用する。

辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。
86頁 馬食会「当世漫語 昭和十四年十二月」より

近頃は受け売りのような文章が巷に溢れ、受け売りでないにしても思慮浅薄なものが「作家」とか文筆を生業にしている人の手から世間に垂れ流されている。そういう意味ではリアリズムが希薄になっている時代と言えるのかもしれない。馬鹿みたいに「グローバル化」と騒ぎ立てた果てに、感染症騒動や戦乱が起こると、その「グローバル化」で分業を徹底した所為で「サプライチェーンの混乱」が生じて右往左往することになる。てっきりそういうリスク対策も打った上での「グローバル化」なのかと思っていたが、そうではないらしい。今は世間全体にリアリズムの意識が希薄だから目の前のしかも表層のことしか認識されない。無邪気に今日と同じ明日があると思い込んで、思いもよらぬことが起こるとは考えない。考えない、のではなく考えることができないのだろう。百閒がここで言っている「リアリズム」と経済のそれとは別のことのように見えるかもしれないが、私は通底していると思っている。

それと関係があるのかどうか知らないが、外国為替市場で円安が進んでいる。外国為替相場というのは相対の話なので、世界の混乱の中で他所よりも日本(=日本円あるいは日本円建の資産)に魅力が無いと思われているということでもある。個人的には外貨預金の円評価額が上昇して、新たに預金をしたわけでもないのに残高が増え続けて結構なことなのだが、円安が続けば物価もマジで上がるだろうから、そうなると呑気なことも言っていられなくなる。

ついでに言えば、ルーブルがあの直後に暴落したが、今はだいぶ旧に復している。ルーブル建の資産価値が無視できないものであるということなのだろう。人はパンのみに生きるわけではないが、パンがなければ生きられない。背に腹は代えられない、ということだろう。「グローバル化」の中で急には大国を退けてどうこうするわけにはいかないということなのだ。

さて話は本書のことに戻る。本書では船あるいは船旅に関するものが集められている。新造船の披露航海では航海そのものはもちろんのこと、寄港先でも顧客を集めて披露行事を催すものらしい。八幡丸の披露公開ではその顧客の中に林芙美子がいて、神戸から乗船することになった。その時の話が興味深い。

 林さんが招待を受けて乗船する事がきまると、船客課担当の重役永島義治さんは課員に林さんの全著作を買い集めて来いと命じた。
 どれだけ集まったか知らないが、ないものもあったかも知れない。手に入っただけの林さんの著作を永島さんは片っぱしから読み始めた。
 御自分も乗船する事になっていたその前日までに、まだ有名な作品の中で読み残したのがあって、その晩はそれを読む為に徹夜したと云う話であった。
 しかしそうして林さんの著作に出来るだけ目を通して、その上で当の作者に会った時、話題として読後感でも持ち出すのかと云うに、決してそうではない。永島さんが林さんと会った席には、いつも私は同座していたが、一度もそんな話は出なかった。
 永島さんが云うには、こちらから高名な作家を御招待しておいて、そのお作を何も読んでいないなどと云う、そんな失礼な話があるものではない。試験勉強の様な事で相済まぬが、そうしてでもお作に接しておくのは、お招きした主人側の礼儀です。
 世間でよく云われた「郵船サアヴィス」なるものの真諦はこれだと私は感心した。
224-225頁

こういうことはハウツーではなくて、心とか気持ちの問題だ。人を招く、人に招かれる、という対面での付き合いには当然に相手に対する態度というものが相互に顕われる。そこには言葉で表現できないこと、表現したら変容してしまうことが必ずあるものだ。そういうことにどれほど気を配ることができるか、また、そういう気配りにどれほど気づくことができるかによって人間関係は自ずと変わる。百閒は「サアヴィス」と書いているが、そんなものではなく、人としてどうかということだと思う。そういう「サアヴィス」と縁遠いまま齢を重ねてしまったが、個人対個人の付き合いにおいては心しないといけないと身が引き締まる思いがした。

そういえば、「御馳走」というのも、客をもてなすのにふさわしい食材や料理人を求めて走り回ることから転じて、その結果として供される料理という意味だ。走り回っているところは客には見えないし、また、見せてはいけない。人と人との関係というのは、本来はそうやって目に見えないところで互いに思いやりを積み重ねて築き上げるものなのである。

余談だが、林芙美子は1931年11月にシベリア鉄道で渡欧している。満州事変の2ヶ月後、緊迫した情勢の中だ。そんな時に何故かといえば、パリにいた恋人で4歳下の画家、外山五郎に会うためだった。11月4日に鉄道で東京を発ち、5日に大阪着。10日に下関から関釜連絡船で釜山に渡り、東清鉄道経由で13日にハルビン着。翌日ハイラルを経て満州里へ、そこからシベリア鉄道で20日モスクワ着、21日ポーランド国境のストウプツィ着。そこで列車を乗り換えて22日ベルリン着。23日パリ到着。シベリア鉄道をはじめ旧ソ連の幹線鉄道はゲージ1,524mmの広軌、ポーランドから西の欧州は1,435mmの標準軌。林はそのことに気づいていただろうか。ゲージの違いには結構深い話があったりするものだが、長くなるので別の機会にする。

 

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART4』 国書刊行会

『PART3』を読んだときに、もういいかなと思ったのだが、既に本書を予約注文した後だったので手にすることになった。予約しておいてよかったと思った。尤も、予約しなくても普通に書店で買うことができるとは思うが。

取り上げられている作品の時代がだいぶ近くなって1970-80年代のものが多くなり、観たことはなくてもポスターとかチラシに見覚えのある作品があって、本書自体がこれまでのシリーズよりもなんとなく身近に感じられるのが良い。文章も読みやすくなっている気がする。と、思ったら「あとがき」にこんなことが書いてある。

一冊目二冊目あたりは、ほとんど記憶だけで書いていた。三冊目からあやしくなり、今はまるで駄目。メモに頼らなくてはならない。ただし映画を観ながら何か書きつけることは好きではなく、映画館を出てから思い出せるものを書くようにしている。映画が終わった時にはもうケロッと忘れてしまっていることが多いので、この方法もあまり役には立たないのだが、それでもなお頭に残るセリフが自分にとっていいセリフだったのだ、と解釈することにしよう。

 記憶力の悪さを補う意味もあり、このPART4には、映画人(ないし映画の周辺の人)の言葉を組み入れてみた。こちらは活字で読めるから、まあ楽なのであった。
247-248頁

書く方が楽になった分、読む方も楽になった、というわけでもないのだろうが、PART3は確かに少し読みにくかった。内田百閒に言わせれば、忘れたことも含めてリアリズムなのだから、書きにくさを読みにくさとして味わうことにリアリティがあるとも言える。しかし、読みやすいに越したことはない。

あとがきについて触れたついでに、もう一つあとがきに書かれていたことに触れておく。

 ぼくはたった一つの挿入歌のメロディを憶えたくて、あるいは好きな西部劇の中の拳銃の抜き方を確認したくて、映画館に何度も足を運んだ。数秒のシーンをもう一度観るために、三本立の映画館に一日中いたこともある。ヴィデオならこういう手間はかからない。
 一方、その手間が楽しい思い出になっている場合もある。便利なことはいいが、それで失っているものはないとは言えないのだ。ヴィデオで繰り返し見て、昔の西部の遠景に自動車が走っているのを発見しても、それが幸せだろうかと思う。
248-249頁

こうやって何度も観るから映画のことがなおさら好きになったり、映画のことから様々のことに発想が広がって、考えることの幅や深さが大きくなったりすることもあると思う。何かが好きだと言うとき、その何かに対する熱量が本書が書かれた頃に比べると今の時代は低い気がする。

こうやって何かについて文章を書くとき、疑問に思ったことや「あれなんだったっけかな」というようなことを調べるのにネットは便利で重宝している。でも、ネット検索が今ほど手軽ではなく、検索できる内容もテキスト情報に限られていた30年ほど前の修士課程の学生だった頃、課題や論文を書くのに図書館で悪戦苦闘して調べ物をしたり考え事をしたりしていた頃の方が、手にした情報や考えが自分の中で熟成したものになっていた気がするのである。それと、お世話になった図書館の司書のおばさんの笑顔が今でも記憶に刻まれていて、その笑顔の記憶のおかげもあって、アナログの時代が豊かに感じられるのかもしれない。

マクラが長くなったので、今回は付箋を貼ったセリフを並べるだけにする。能書きは無し。

「死んだ蜂に刺されたことあるかい?」

「男の悩みは二種類に決まっています。女とその母親についてです」

「愛が何だ。炎と燃えて一年。あとの三十年は灰だ」

「友人を持つ人間に、敗残者はいない」

「心の耳できけば、何でもわかる」

「私の作品の中の詩に、男たちは魅惑されるの。私の身体の中にも詩があるわ。それを男たちに読ませるのよ」

「昔の戦争は、負けても名誉が残った。この戦争には名誉などない。勝ってもいやな記憶が残るだけだ」

「破壊と苦痛に終りはない。不死身の蛇のように、頭を切り落としても替りが生えてくる。いずれこの戦争は終わるが、次がまた始まるだろう」

「みんなが戦争は避けられないって言う。平和が避けられないってどうして言えないの」

「戦争が始まったら、戦わされるのは素人です」

「くだらない歌だね」
「だから好きよ。大笑いするには恋の歌を聴くに限るわ」

「貧乏人の特技は、本当に愛されているかどうかわかること」

「長い夜だったわ」
「すぐ夜が明ける。朝になれば夜のことは忘れるよ」

「今は映画もテレビもひどいものでしょ。あんなにひどいんだから、ひどい私にもやれるわ」

「女の子でも道化になれる?」
「努力すればね」
「大統領には?」
「努力すれば何でもなれるよ」
「道化と大統領と両方なりたいわ」
「そりゃぴったりだよ」

「死を怖がる奴は、生きるのも怖がる」

「どんな女も顔を洗ったら同じだ」

「危険な仕事か」
「危険かどうかは俺たちが運がいいかどうかで決まる」

「平和は怖い。地獄を隠し持っているようだ」

「誰もが自分を正しいと思っていることが恐ろしい」

本書の中の記述から抜粋して並べただけ。どのセリフが何という作品の誰のセリフであるかは敢えて書かない。原語がどんなものであったのか、気にならないこともないのだが、日本語字幕や日本語のセリフにしたもので外国映画を語るところに面白さがあるとも思う。改めて思うのだが、外国語から起こした日本語というのは、やはり日本の日本語とはだいぶ違う。いろいろ説明をつけようと思えばつけられるのだろうが、誰もが納得できる説明というのは無理な気がする。


読書月記 2022年3月

2022年03月31日 | Weblog

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ』 国書刊行会

3月の最初の土曜日、陶芸の帰りに目的もなく立ち寄った三省堂書店池袋店で購入。平台にシリーズ二巻目『PART2』が積んであって、パラパラと読んだら面白かったので、奥の棚にあった本書と併せて買い、今月刊行予定の『PART3』を予約した。

和田誠のことはあまり知らなかったのだが、昨年、東京オペラシティのアートギャラリーで開催された「和田誠展」をなんとなく観たら、自分の暮らしが和田誠に囲まれていることを知って唖然とした。本の装幀、さまざまなポスター、イラスト、広告デザイン、エッセイ、映画監督、その他諸々たくさんの仕事をした人だ。平野レミのダンナであるとか、上野樹里の義父であるとかということよりも、やはり膨大な仕事がこの人の真価だ。先日noteに書いた『銀座百点』に和田が連載していた『銀座界隈ドキドキの日々』は単行本にまとめられて講談社エッセイ賞を受賞している。

本書は副題に「映画の名セリフ」とあるが、原語ではなく字幕や吹き替えの日本語のセリフを扱っている。これは大変良いことだ。読者と同じ目線でいながら、読者の眼を超えたところを語ってみせるところにこういう本の値打ちがあると思う。そもそも原語と言語に余程精通していないと映画の原語のセリフについて語れるものではない。

まず、本書の表題「お楽しみはこれからだ」からして名セリフだ。何が「名」かといえば、やはり訳文だ。

昔、人生を変えようと思って勤め帰りに映像翻訳の学校に通ったことがあった。字幕にしろ吹き替えにしろ、ただの翻訳ではないのである。字幕も吹き替えも尺の制約がある。映画の字幕であれば1秒のセリフに3乃至4文字を当て、字幕一行12文字以内というのが一般的な尺だ。「1秒」のセリフというのがミソで、早口のセリフもゆっくりのセリフも、ジム・キャリーのセリフもアーノルド・シュワルツェネッガーのセリフも、一律に1秒何文字という同じ尺である。吹き替えは訳文が原文と同じ尺にならないといけない。原文を忠実に翻訳したら尺に合わないのである。つまり、映像翻訳は創作なのだ。

傾向としては尺の文字数が減少している。敗戦直後に進駐軍と共に大量に入ってきた海外の映画に付けられた字幕は1秒5乃至6文字だったそうだ。それが私が映像翻訳学校に通っていた20年前あたりでは4文字が標準で、ぼちぼち3文字のオーダーが入り始めたという状況だった。たぶん、今は3文字の方が一般的なのではないか。これ即ち、視聴者の読解力の低下を反映している。平均的日本人が文章をパッと見せられて読み取る能力が落ちているのである。この調子でいくと字幕はやがて無くなって全て吹き替えになるのかもしれない。ちなみに海外で上映されている外国映画は吹き替えが圧倒的に多い。

ところで、映像翻訳者のギャラだが、同じ作品でも公開先によってかなり違う。例えば飛行機の機内エンターテインメントで使う映像作品はざっくり1本5万円弱。その同じ作品が劇場公開用となると20倍近くなる。テレビの「ナントカ洋画劇場」のような番組は字幕ではなく吹き替えなので単純に比較はできないが、劇場のように料金を徴収するメディアではないので、無料メディア向けに近い方の翻訳料ではなかろうか。言いたかったのは、同じ作品が用途によって異なる翻訳者によって字幕や吹き替え原稿が作られているということだ。これは私が映像翻訳の専門学校に通っていた20年ほど前の相場だが、世の中の流れから推察するに、感染症の流行の有無に関係なく、今はもう少し安くなっている気がする。尤も、このところのドサクサで物価が久しぶりに上昇に転じつつあるので、物価上昇が広範に波及すれば、翻訳料のようなサービス物価もそのうち上がるかもしれない。

それで「お楽しみはこれからだ」は「ジョルスン物語(原題:The Jolson Story (1946年))」の中のセリフ。

ライリ・パークス扮するアル・ジョルスンがショウのクライマックスで使う言葉。オリジナルはYou ain't heard nothin' yetで、「あなたがたはまだ何も聞いていない」となるわけだが、スーパーは「お楽しみはこれからだ」であった。
(4頁)

もちろん、作品全体の中で個々のセリフが決まるわけだが、ここだけ読んでもすごいなと思う。セリフ、それも一言だけ抜き出して、サマになるというのはそうあるものではない。確かに、今の感覚からするとクサイと思う。しかし、映画なのだからクサイ方がいい。作りものは徹底的に作りものであって欲しい。作りもので人の心を動かすのを芸というのではないのか。近頃はすっかり映画と縁が無くなってしまったが、敢えて限られた経験から言えば、古い作品の方が印象に残るシーンやセリフが多い気がする。

本書に登場するのは117作品。その中には複数回取り上げられている作品もある。と言っても、一番多くて「カサブランカ」の3回だ。「カサブランカ」は1943年の作品で、名セリフ、名シーンの宝庫のような作品で、その後の映像作品に本作のシーンやセリフにまつわるパロディが盛り込まれていることも少なくない。本書に紹介されているセリフは以下のものだ。

「ゆうべどこにいたの?」
「そんなに昔のことは憶えていないね」
「今夜会ってくれる?」
「そんなに先のことはわからない」
(10頁)

「十年前、君は何をしていた?」
「歯にブリッジをしていたわ。あなたは?」
「職をさがしてた」
(20頁)

「ルイ、これが友情の始まりだな」
(略)
 カサブランカの警察署長になるクロード・レインズは飄々と演じてなかなかうまい。ワイロをとったり、ナチにお世辞を言ったりというダメな署長で、ボガードと友だち同士でありながらお互いに腹を割らない妙な付き合いである。それがラストでボガードがナチの高官(コンラッド・ファイト。「カリガリ博士」の時代からの名優である。「会議は踊る」のメッテルニヒ、「バグダッドの盗賊」の悪宰相など、いずれも印象深い)を射殺してから、急転直下二人の友情が固く結ばれるという演出もうまいものである。ただし、ラストまではダメなフランス人として描かれているので、フランスでは国民感情をおもんばかってか、つい最近までこの名作は公開されなかったのだそうだ。
(240頁)

これだけ並べても、映画を観たことのない人には何のことかさっぱりわからないかもしれない。しかし、それは観ていないほうが悪いし、わかろうとしないほうに咎がある。自分はここに挙がっている117作品の殆どを観ていないが、それでも十分に楽しく読むことができたのは和田の筆力のおかげでもあるのだが、映像作品には特定の箇所を抜いても何かに使える要素を持っているからだと思う。人の一生、あるいは人生の何事かを2時間足らずのストーリーに押し込めたものが映画であるとするならば、その中のどのシーンを抜き出しても何事かの意味を持つということに納得がいくだろう。また、そうでなければ映像「作品」にはならないのではないか。

以下、本書からテキトーに抜粋。

「秘密を教えよう。〈フランケンシュタイン〉と〈マイ・フェア・レディ〉は同じ話なんだ」
 人間が人間を作る、または作りかえるという発想は同じで、やり方によっては怪奇物にもなるし、ロマンチックなものにもなるという、いわば脚本作法を言ったものである。
(68頁 「パリで一緒に(PARIS WHEN IT SIZZLES)」(1964))

「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
 このセリフ、映画をはなれて、反戦運動のスローガンとして有名になってしまったのではないかと思う。革命家が吐いた言葉のようにも思われる。映画ファンにとっては言わずと知れた、「チャップリンの殺人狂時代」における殺人者ヴェルドー氏の言葉である。
 チャップリンは、「モダン・タイムス」において機械化文明を皮肉り、「独裁者」においてファシズムをやっつけ、「殺人狂時代」では戦争による殺戮の正当化を弾劾した。
「戦争を商売にしている人たちに比べれば、私は殺人者としてアマチュアです」
(72頁 「チャップリンの殺人狂時代(MONSIEUR VERDOUX)」(1947))

テイラー「お金がすべてじゃないわ」
ディーン「持っている人はそう言うんです」
(86頁 「ジャイアンツ(GIANT)」(1956))

 ほかに彼の言葉でぼくが好きなのはこうだ。"ニューヨークは嫌いだ。エレベーターが多すぎる。俺はエレベーターを信用しない。テレビジョンも、ロケットも。月へ行く男なんて信じられるか。俺は嫌だね"
(142頁 「ねえ!キスしてよ(KISS ME, STUPID)」(1964))

「戴冠式もコメディ・フランセーズもバチカンも、儀式はみんな仮装舞踏会だ」
(略)
 第一次大戦中、とあるフランスの町をドイツ軍が爆破するという情報で町の人がみんないなくなってしまう。精神病院の患者だけが残っていて、その町を自由に歩きまわる。それぞれ大僧正になったり床屋になったりバレリーナになったり自分の思い込んだ職業に勝手についてしまう。そこへイギリスの偵察兵(アラン・ベイツ)が、爆破を防止しようとやってくるが、たちまち王様にされてしまう。
 爆弾がどこに仕掛けてあるのかという謎解きの興味も加わって、てんやわんやのうちにイギリス軍とドイツ軍が乗り込んで来て市街戦となり、両軍全部死んでしまうのを患者たちは高いところから見物している、という戦争を痛烈に皮肉った喜劇なのである。ラストはもう飽きたから帰ろうと患者たちは病院に引き上げる。意外にも冷静にそれぞれの役をわかって演じていたようにも思えるのだ。
 あのセリフはイギリス兵をハートの王様に仕立てる戴冠式の場面でジャン・クロード・ブリアリが言う(「ハートの王様」という原題であった)。他にピエール・ブラッスールやミシュリーヌ・ブレールなど豪華キャスト。とにかく気違いたちの占領している町は平和でのどかで、正気の人間たちが殺し合いをしているのだから、大笑いする映画なのだが主題はなかなか強烈なのだ。
(184頁 「まぼろしの市街戦(LE ROI DU COEUR)」(1967))

 

和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART2』 国書刊行会

PART1は洋画だけだったが、本書は少し邦画も取り上げている。あとがきの中で和田がこんなことを書いている。

残念ながら、ぼくは日本映画のセリフをほとんど思い出すことができなかった。観た数で言えば、洋画に比べて邦画の本数はたしかに少ないのだが、まるで観ていないというわけでもないし、決して日本映画を軽んじているのでもない。それでもセリフに関する記憶が少ないのは、日本映画にいいセリフが少ないのではなく、たぶん人間の記憶というものは耳で聴くより文字を読む方が強く頭に残るためだろう。
(249頁)

そういうところもあるかもしれないが、記憶に残るのは何かしら引っ掛かりがある所為ではないかと思うのだ。日本語を母語とする者が、腹の底から感動するような日本映画を観たとしたら、かえって一つ一つのセリフが独立して記憶に残るということは無い気がする。それは当たり前に美味いと思うものが毎日何気なく食べているものであって、所謂「御馳走」は自分のナマの状態から少し距離がある「美味しさ」であるのと似ている。本当に腑に落ちるものは自分と一体になるので言葉に表現して外部化することができないのではないか。

「芝居じみた」とか「芝居がかった」という形容詞はあまり良い意味には使われない。洋画のセリフは字幕であれ吹き替えであれ、自分の生活とは異なる文化の中から生まれたものであって、それを決められた尺の中に収めるという無理矢理の中で捻り出したものだ。そこに記憶への引っ掛かりが生じるというところもあるだろう。映画や芝居で聴いて、自分もいつかそんなセリフを吐いてみたいと思っても、たいていはそんな機会に恵まれないものだと思う。たまに他人が語る芝居じみたセリフを聴くと嘘臭さが鼻についたりする。それは、そういうものだからだ。

だからこそ、日本映画から生まれた名セリフというものは、それを語る俳優の力量に依るところが大きいのだと思う。本書に取り上げられている邦画作品の中で、確かに名セリフだと思うのは、ありそうであり得ない世界を描いた作品の中のありそうであり得ない言葉のやりとりだ。

「よお、相変わらずバカか」
(124頁)

「男はつらいよ」の寅さんのセリフ。私はこのシリーズを映画館で観たことは一度もないが、たぶん意識するとしないとに関わらず、全作品を目にしていると思う。それは毎年年末にテレビで放映されていたからだ。自分の暮らしの中では年末の風物詩として家族で「男はつらいよ」をテレビで観るということがあった。そういうことも含めて、自分の生活に溶け込んでいる作品である。だから「よお、相変わらずバカか」というセリフだけ抜き出しても勝手にそのシーン全体の空気感が脳裏に蘇るのである。世の「映画好き」が何を以って「映画」と呼ぶ映像作品の鑑賞を愛好するのか知らないが、ある時代の一般常識のようになった作品というのは映画としては本物だろうと思うのである。

断っておくが、私は「映画好き」ではないし、ましてや「男はつらいよ」を愛する者でもない。一時期、無闇に多くの映画を観たことがあり、その中で「男はつらいよ」のいくつかの作品をビデオやDVDをレンタルしたり買ったりして観たことがある。そうするとどれも特別どうというほどのことはないのである。たぶん、それだからこそ、作品の中のキャラクターやセリフが独り歩きできるのではないかとも思う。

ついでに、「男はつらいよ」に関して本書に紹介されていたもう一つのセリフも良い。

「俺とお前は違う人間に決まってるじゃねぇか。早え話が、お前がイモ食ったって、俺のケツから屁が出るか」
(125頁)

ものすごく深い言葉だと思うのである。

本書を読んで気づいたのだが、戦争映画が多い。戦争という非日常を舞台にすることで人の本性のようなものが描き易くなるのかもしれない。とりあえず本稿は本書の日本映画に関することだけにとどめておくことにする。

 

前野直彬 『精講 漢文』 ちくま学芸文庫

学生時代は文系だ。高校で漢文の授業は当然あった。しかし、たぶん授業以外に勉強はしていない。受験科目として軽いものだったからだ。受験の得点獲得戦略として有利なことに時間と労力を優先配分する、そういう姿勢に象徴される安っぽい合理性思考がいかに人生を不毛にしたか思い知らされた。

本書は高校生向けの学習参考書を文庫にしたものだ。先日、たまたま時間つぶしに立ち寄った高田馬場駅前の芳林堂で見つけた。目的なく書店に行く時はとりあえず平台を眺めるのだが、本書は文庫の棚前の平台にあった。手にとってパラパラとめくり始めたら、目が離せなくなってしまった。

短歌や俳句を読んだり詠んだりするようになって、日本人の頭脳とか日本語の成り立ちを否応なく考えるようになった。明治に欧化政策が採られる以前、日本人の教養の標準は漢学で、現在我々が使っている言葉にはその片鱗が残っている。日本の歴史で圧倒的な期間において支配的な教養素養であった漢文あるいはそれに基づく思考というものを無視して日本や日本人を語ることはできない、はずである。本書を手にして、そういえば高校時代に「漢文」という科目があったっけな、と思ったわけだ。

本書の元は1966年6月に学生社から刊行されたものだ。巻末の解説によれば、現代の学説では否定されているような箇所もあるらしい。しかし、全体の価値を損なうほどのものではないとのことでもあり、細かいことは読後にすぐ忘れてしまうことがほぼ確実でもあるので気にしない。それよりも、そもそも漢文という科目は何だったのか、というところから思い返さないといけない。

それが、教科書が薄かったということくらいしか記憶にない。担当の先生が何故か若かった。私が通った高校の先生はジジイが多かった。前にもどこかに書いた気がするが、都立高校の校長を定年で辞めてこの高校に来たという人が多かった。少なくとも、地理、世界史、化学、物理、数学がそうだった。書道の先生もやはり元校長だったかもしれない。英語に至っては陸軍士官学校の教官だったという先生だった。そうした面々の中で、漢文の先生は例外的に若かった。漢文の授業では読解が中心で中国の歴史や文化などのことは習わなかった、気がする。そういうことはむしろ書道の時間に聴いた記憶が濃厚だ。中国の王朝のざっくりした流れは今でも暗唱できる。書道の授業は墨を擦るところから始まった。墨を擦りながら「いんしゅうしん ぜんかんごかん さんごく ぎ ご しょく ずいとうそうげんみんしん」と繰り返し唱えるのである。寺子屋の世界だ。漢字で書くと「殷周秦 前漢後漢 三国(魏呉蜀)隋唐宋元明清」となる。

本書を読んで思ったのだが、「漢字は中国から」と言う時の「中国」が一つではないという史実の意味を考えないといけない。「いんしゅうしん…」と暗唱できても、今まで考えていなかったと猛省した。漢字の音に漢音と呉音があるという程度のことは知っているつもりだったが、日本と大陸との交流の歴史を振り返れば、そんな程度であってはいけないのである。しかし、今更どうしようもない。

結局のところ、現在の漢文訓読は、奈良朝から江戸末期に至るまでの日本語が、雑然と同居しているわけだ。雑然としているからと言って、どれかの時点に統一しようとしても、もはやそれは不可能となっている。むしろ、訓読の中に見える日本語のさまざまな姿を見て、遺物を発掘する考古学者のような興味を味わうことができたら、それも楽しいことの一つに数えられるであろう。
(93頁)

今の中国語(北京語とか広東語とか)のことは知らないが、日本語はこれまでに積み重ねてきたものが「雑然と同居している」ものだということに気付かされただけでも本書を読んだ値打ちがあると思う。時間は無造作に流れる。工程表のようなものがあって計画的に流れるものではない。雑然となるのは当然なのだが、歴史を見るときに何がしかの法則性のようなものを探し求めてしまうのは、自分の存在を正当化したいという本能にも近い欲求によるものなのだろう。しかし、無造作、雑然、混沌、そんな言葉に象徴されることが人の在りようの実際なのではないか。それを象徴するのが母語たる日本語の漢文訓読の在りようということだろう。母語すなわち思考の根源たる言葉だけが独立して雑然としているはずはない。

雑然としているのは、その時々の都合で知識を導入した所為もあるだろう。中国には科挙という全国レベルでの上級官僚採用試験があった。試験というものには必ず正解がある。つまり、答案を作成する際の言語が「正しい」ことが何よりの大前提で、その上に試験問題に対して「正しい」解答を記述しないといけない。その「正しさ」は中国の広い国土のどこにあっても統一されていないといけない。この科挙の制度が一応の完成を見たのが隋唐の時代だという。広大な統一国家の成立と官僚採用のための統一試験の整備が表裏一体となっているのは、国家というものが意味するところの何事かを示唆している。

科挙を受験するには一定の資格を必要としたが、そこに家柄や財産の多寡は問題とされなかったという。当然だろう。「正解」は身分や政治経済を超えて「正解」として成り立っていなければ試験とそれを実施する権力の正当性を得られない。「試験」と言われて人々が必死になる社会は権力が広く承認されている社会であると言える。試験があっても不正が横行する社会は、権力が相当揺らいでいる社会ということになる。無闇に試験ばかりがある社会というのは権力の側に自信がないことの表れであり、人々が相手の「人間」を判断するに足る信頼関係が脆弱な社会と言えるのかもしれない。

科挙は、国家の倫理観の基礎であった儒教の経典である経書についての知識を問う「帖経」、詩を作らせる「詩賦」、時事論文を書かせる「時務策」から成っていた。試験に合格すれば上級官僚への道が開けるという公平な制度ではある。しかし、ある程度の経済基盤がなければ受験勉強のための知識の吸収とそのための時間を持つことができないのは現代に通じることでもある。「公平」とはそういうものだ。周知の通り、科挙制度はこの後多少の変容をしながらも清の時代まで続く。

日本が現在の姿の原型を成した奈良平安時代に、隋唐を国家運営の手本として留学生を派遣して人材育成を図り、国家としての制度構築を行ったことは、日本人や日本語の成り立ちに大きな影響を与えているはずだ。科挙に象徴される統一国家の在り方に範を求めて国家の建設を行いながら、結局はそれほど強力な中央権力の成立には及ばず、長らく地域単位のローカルな権力が並び立って覇を競う時代が続く。天下統一の後には鎖国政策で知識管理と貿易管理を行うことで権力の維持保全を図る。その間に範としたはずの大陸とは縁が薄くなり、漢文を基礎にしながらも、その本家とは異質の文化が花開いた、ということになるのだろうか。中国の方も、隋唐の後、宋元明清と国家が変転するのだから、日本の漢学漢文は、あちら側から見れば「雑然」として見えるのは当然だろう。

漢文を学ぶことの意味は、その「雑然」の背景を知ることであり、「雑然」として見えることの基礎に通底しているはずの大きな流れを感じ取ることではないかと思うのである。それによって日本人としての自分、人としての自分というものが多少は見えてくるのかもしれない。今更漢文や漢詩がきちんと理解できるようになるはずもないのだが、わからないということを識ることも心穏やかに暮らすには大事なことだと思う。

 

折口信夫 『日本藝能史六講』 講談社学術文庫

若い頃から民俗とか習俗というものに興味があって、学生時代は経済史のゼミに籍を置いていたりもしたのだが、そういう方面の本を読んだり話を聴いたりするようになったのは50歳を過ぎたあたりからだ。東京で暮らしているのに大阪の国立民族学博物館の友の会に入ってみたり、柳田國男や宮本常一の著作を読んだりするのもそういう流れの所為である。柳田は文庫になっているものは一通り読んで、遠野にも出かけてみたりもしたのだが、その流れにある折口信夫の著作は手にしたことがなかった。何か思うところがあってそうなったのではなく、気が付いたら読んでいなかったというだけのことだ。本書は私が初めて読了した折口の本だ。

折口は民俗学者、国文学者、国語学者であるが、釈迢空しゃくちょうくうと号する歌人でもある。この釈迢空というのは折口が歌を詠むときの号だが、折口の戒名でもある。生前に戒名を考え、その名前で歌を詠んでいた。このことは別の機会に改めて触れる、かもしれない。それはさておき、折口の時代は知識層の人々が歌を詠むのは当たり前だった。

軍人が決戦に臨んで命令文や報告文に歌や歌に類するものを添えるのも当然だった。日露戦争の日本海海戦ではバルチック艦隊を前にして連合艦隊参謀の秋山真之が起案した命令文「アテヨイカヌ ミユトノケイホウニセッシ ノレツヲハイ ハタダチニ ヨシス コレヲ ワケフウメル セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」の最後の部分の平文「本日天気晴朗なれども波高し」の部分はあまりに有名で、現在でも様々に引用されている。その前段は暗号文だが、全文を読み下すと「敵艦隊 見ゆとの警報に接し 連合艦隊 は直ちに 出動 之を 撃滅 せんとす 本日天気晴朗なれども波高し」となるらしい。実際の現場では旗艦「三笠」の通信室からモールス信号でツートンツートンと打電されたのだが、大海戦を目前にしている割には悠長な印象を受ける。しかし、「本日天気晴朗なれど…」に命令上の意味があったのかなかったのか知らないが、この一文があるとないとで、それを受け取った側の士気はだいぶ違ったのかもしれない。明治の日本はそういうものだったのではないか。

太平洋戦争の硫黄島での戦いで、玉砕に臨んで指揮官の栗林忠道陸軍少将(玉砕後、中将)が東京の大本営へ打電した訣別電報には三首の歌が添えられていた。その一つ「国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」は「散るぞ悲しき」の部分が本のタイトルに使われて有名になった。ちなみに、折口の養子であった春洋(藤井春洋)は硫黄島で戦死した。

その歌や句を詠むという「当たり前」に少しばかりのめり込んだ人が歌人や俳人となったのだろう、と単細胞的な想像をしている。折口の場合は「少しばかり」どころではなく、歌を詠むことの意味を問うことは人間の存在そのものを問うことでもあったようだ。ただ、歌人としては短歌界の中で異端のような位置にあったらしいが、晩年には宮中御歌会の選者を勤めている。また、書生として折口晩年の身の回りの世話をしたのが岡野弘彦で、岡野は後に宮内庁御用掛(1983~2007)、昭和天皇の作歌指南役、今上天皇皇后が皇太子皇太子妃の頃に和歌の進講をしており、歌会始選者も務めている。どのような姿勢で歌に臨もうと、力のある歌人であることは誰もが認めざるを得ないということだったのだろう。

「ほぼ日の学校」の万葉集講座で岡野の講義を聴いたことは、以前に書いた。その時から折口の書いたものを読まないといけないと思っていたのだが、3年間思い続けてようやく折口晩年の講義録のようなものを手にした。「日本藝能史六講」は昭和16年7月に藝能学会の前身の会が主催した公開講座の講義録をまとめたものだそうだ。このほか本書には「三味線唄の発想を辿る」と「翁の発生」が収載されている。

その万葉集講座では歌を詠み合うことは、単なる意思疎通というようなものではなく、言葉を発することで対象に対して霊的な働きかけがなされると当時の人々は信じていたのではないか、という話があった。言葉自体に何がしかの力があり、言葉を発声する、歌を詠む、そういった行為によって人と人との関係も、集団と集団との関係も、社会の中の秩序も、形成されたのではないかというのである。だから、歌は発声されるものである。読むのではなく、聴くものなのである。下の七七はリフレインされていたのではないかという先生もおられた。

そうなると、歌は現在のような趣味的なものではなく、呪術にも似た祭祀のようなことの一部を成していたはず、ということにもなる。つまり、現在は文学という括りで語られることも、源流を辿れば祭祀、祝祭、祭り=まつりごと=政=政治にも通じることであった、ということだろう。その残影が国の大事において歌が詠まれた、ということに通じるわけだ。例えば、

国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

という歌は国家存亡をかけた戦いに負けることの心情を詠んだのではなく、ここで自分達は斃れるが、自分達が属する国(いわゆる国家ではなく「自分」の拠って立つ土台のような存在としてのクニ、自己と不可分な存在根拠のようなもの)は普遍的に存在するのだということを訴えている、と捉えることができるのではないだろうか。

歌を詠むというのは、自己を確認する作業なのではないか。だから、歌を詠むのに必要な言葉を識るには、その源流を辿ることと必然的に結びつく。折口が歌人であり、文学者であり、民俗学者でもあるのは、そういうことなのではないか。そして、歌は舞や踊りとも結びついている。芸能もまた祭=政と関連するということになる。

本書の記述について触れながら、もっとまとまりのあることを書きたかったのだが、とりあえず備忘録として抜き書きを並べておくことにする。後で改めてまとめ直さないといけない。

大体「語ことば」といふものは、実感をもつて使つてゐる間は、定義によつて動いてゐるものではありません。使つてゐる間に語が分化して来て、そこで始めて定義づけてみよういふ試みが、行はれるのであります。
(9頁)

根本は都が藝能の中心であつたといふことであります。つまり結局平安の都を主にしてみてをるといふことです。
(16-17頁)

何事も発生学風に研究して行くことであります。その態度からは、藝能にしても最初から何かはつきりした目的を有もつて出て来たと考へることは間違つてゐると言へるでありませう。むしろ最初は、目的はなかつたのでせうし、或はあつたとしても、現在の吾々の考へてゐるのと全然違つた目的から出て来た、といふことが考へられるのかも知れません。
(18頁)

平たく申しますと、藝能はおほよそ「祭り」から起つてゐるもののやうに思はれます。だが、このまつりといふ語自身が、起原を古く別にもつてをりますので、或は広い意味に於て、饗宴に起つたといふ方が、適当かも知れません。
(19頁)

神を、家の外から家内へ招び寄せる形でありますが、そこへ来臨する客神は、日本の古い語でいへばまれびとで、その少し変つた語形では、まらうどとも言はれます。そしてこれが、客の中の主なる客です。(略)それからこのまれびとに対して対蹠の位置にある人があるじです。このあるじといふ語は、吾々は主人といふ風に考へ易いが、もとは饗応の御馳走のことを言うた語です。つまり来客の為に準備しておいた御馳走を、その客にすすめることをばあるじすと言うてゐますが、御馳走をすすめる役が、主人だつたのでせう。そしてそのことから、主人をあるじと言ふやうになつたのです。或は宴会とか、饗宴するとかいふことも、あるじと言うてゐます。これで、饗宴の二つの主な役目は訣ると思ひますが、更に、このあるじとまれびととの間に介在してゐるもの——主として舞をまふもの——があります。
(25頁)

つまり舞をまふといふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。
(32頁)

つまり、初めは結局無意識の跳躍行動に違ひありませんが、その行動を長く繰り返してをると、いはゆる一つの民俗の上の行動伝承といふものになつて来ます。そしてそこに自ら型が出来て、その型が更に選択せられて優秀な型ばかりが残り、藝能化して来る訣です。
(44頁)


読書月記 2022年2月

2022年02月28日 | Weblog

平井京之介 『微笑みの国の工場 タイで働くということ』 臨川書店

先日、タイの工場見学のことに言及したのだが、たまたまタイで暮らした人のnoteに出会った。

https://note.com/mirach/m/m0a35ae85c8d6

これはおそらく日本企業のタイ現法に赴任した人のご家族の眼でご覧になったバンコクでの暮らしだろう。これはこれで興味深いのだが、タイの人々からは自分たちの雇い主である日本企業の人間がどのように見えているのかということは、もっと興味深い。また、首都というのは特殊な都市であり、首都ではない地域の人々に対しても素朴に興味が湧く。同じタイでも違う土地、違う立場で見たら見え方に陰影がつくのではないかと思い、何年か前に読んだ本を引っ張り出した。それが本書である。

本書執筆時点で平井は国立民族学博物館教授・総合研究大学院大学教授という肩書きだ。社会人類学の研究者だが、本書はまだロンドン大学の博士課程の学生だった頃、1993年6月から約19ヶ月間に亘って実施したタイ北部の日系企業でのフィールドワークに基づく読み物だ。タイにある日系工場という特異な場での工場従業員であるタイの人々と管理職として赴任している日本の人々との関係、タイの人々の間での人間模様などが観察されている。

本書のタイトルにあるように、よくタイとかミャンマーあたりの東南アジアの国を称して「微笑みの国」などという。観光案内などでも同様のコピーが踊る。「微笑み」で何を訴求しているのか、何を表現しようとしているのかは知らないが、結局はどこの国であれ、人というものは自己の利益を追求する性質を有するものだという当然の感想に至った。

それと、人が社会性のある動物である、という時の「社会性」の端的な表現が階級とか序列といった上下の位置付けであることも改めて認識させられる。「平等」なんてありえないからこそ理想として「平等」を標榜するのであり、上位にあると自覚する者が下位にあると認識する者を見下すという精神風景は、そういうことを表現する言葉を排除したところで変わるものではない。「差別」「格差」を無くすということは自他の別を無くすということでもあり、突き詰めれば生存の否定に至ることにもなりかねない。差別が良いというわけではないが、「差別」と「区別」を区別できるものだろうか、という素朴な疑問は消えそうにない。社会なり組織なり集団というものが何がしかの構造を有する場合、そこに上下の関係を含まずに機能させることは可能なのだろうか。

一つの妥協として、ある局面での上下が別の局面では逆転するというような複線的な関係性が共存する構造体はあり得るのかもしれない。いわゆる「多様性」を許容する、許容というような受動的なことではなく積極的に内包させることで、或る関係での上下による緊張を別の関係での上下で相殺して、全体として丸く収める、というようなことである。例えば、茶の湯は身分の違いを超えて人と人とが向かい合う場、ということになっていたはずだ。『釣りバカ日誌』でのハマちゃんとスーさんの関係などもその類だろう。しかし、生きることが何かに執着するという側面を持つ限り、社会性というものが内包する構成員間の利益相反は解消不可能で、平和というものは幻想であり続けるのではないか。

 

赤瀬川原平 『千利休 無言の前衛』 岩波新書

本書は再読だ。奥付に「2015年11月16日 第36刷発行」とある。読んでいて前回読んだときに貼った付箋のところに来ると苦笑するようなこともあるが、全体としては今回読み終わって付箋がずいぶん増えた。齢を重ねて考えることが変わったということもあり、たぶん最初に読んだときよりも面白いと感じている。

世に「芸術」と呼ばれるものがある。それは生活必需品ではないけれど、結構高額で取引されたりしている。生活必需品ではないからこそ高額なのだ。本当に必要なものは価格で買い手を選別したり排除したりするものではないはずだ。奢侈品であるからこそ高額なのである。

茶の湯はどうなのだろう。日々の暮らしの中で湯茶は当たり前に飲む。茶を飲まない人でも何か飲むだろう。しかし、茶の湯、茶道となると、茶を飲むこと自体が目的とは思えない。茶道具には高額なものも少なくなく、時に真贋問題とか奇怪なドロドロした話が出てきたりもする。

作法に関してはある程度の合理性がある。茶道が確立された頃は今のような照明がない。夜は暗い。今とは比べものにならないくらい暗い。昼間でも屋内は今よりずいぶん暗かったはずだ。その分、当時の人は今の我々よりも平均的に視力が良かったかもしれないが、それでも赤外線カメラのようなわけにはいかなかっただろう。暗い部屋で菓子や懐石を食べたり茶を飲んだりする。亭主は客の様子を見ながら茶を点てたり菓子や食事を用意する。その時に、動作の型が決まっていれば、多少暗くても点前の手順と相手の気配で状況を把握することができる。こういう気配だから、こういう音が聞こえるから、相手はこんな動作をしているんだろうな、と亭主も客も互いに推察ができる。行儀とか作法は美意識の表現という側面も勿論あるだろうが、おそらくそれ以上にその場での現状把握の為の非言語的言語という側面が今より遥かに濃厚にあったのではないだろうか。

もちろん茶を淹れる手順を確立し儀式化することで安心できるということもあるだろう。「正解」があることの安心感だ。やはり茶道が確立された頃は今よりも命の安全安心に関して危うい時代だったはずだ。確かに、千利休は信長の茶頭であり、信長亡き後は秀吉の茶頭となる。つまり、既に天下統一は成っている。しかし、それは今の時代から振り返ったときにそう見えるだけであって、当時にあってはいつまた権威がひっくり返るかわからない戦国の世の延長の内であっただろう。命というものについて直接的な脅威の陰が感じられる切迫した時代であったのではないか。だから武将の間で茶の湯が流行った。束の間の気休めと言ってしまえば身も蓋もないが、気休めというものが実生活で果たす役割は「気休め」という言葉の印象よりも遥かに大きいと思う。

昨年、仕事帰りに東京ステーションギャラリーで「小早川秋聲」を観た。展示順路の終わりのほうに戦争画が何枚か並んでいた。その中に「出陣の前」というタイトルの作品があった。陸軍大尉の軍服姿の人物が茶を点てている姿である。芝居じみたところがないわけではないが、実際にそういうことはあったのだろう。

道具類についてはどうだろう。例えば陶磁器の場合、仮にここに両手で持って少しはみ出る程度の大きさの碗があるとする。これを日用雑器の飯碗として値段を付ける場合と、茶道具の茶碗として値段を付ける場合とでは、相場が違ってくる。典型的には井戸茶碗で、そもそもは朝鮮半島で雑器として作られ流通していたものが、日本に渡り、茶人に見出されて銘が付けられ、場合によっては名物にされたりすると、値段が何千倍にも何万倍にも跳ね上がることがある。たまに美術館や博物館などで井戸茶碗だけを集めた展覧会が開かれる。何年か前に根津美術館でそういう展覧会を観た。それよりも小規模なものも三井記念美術館で観たことがある。確かに、井戸茶碗だけをずらりを並べて眺めると、似たような姿形ではあっても個性がある。例えば、その一つを著名な茶人が手に取って「これいいね」と呟くと、その瞬間に雑器が名器になるのもわからないではない。そこに個別具体的な尺度があるわけではないのである。権威による承認だけという何の合理性もない頼りない評価だ。しかし、合理性は本当に必要だろうか。見所を箇条書きにして、各点についての評価を合算して「透明性」のある評価を行う。それでものの良し悪しが本当に決まるものなのだろうか。数値化できることにしか目を向けず、そうでないところは無視する。都合の良いところだけを拾い出して「価値」を語る。それでいいのか。権威の主観や直感で決まる評価と、「透明性」ある「合理的」な評価とどちらに得心するだろうか。

家人の父方の祖父が茶道に凝っていて、家人の実家には茶室が設えてある。そこから見える庭も祖父が存命の頃はそれらしく手入れされていたそうだ。茶道具も大量にあり、亡くなった時に形見分けで親戚の間で分けた。亡くなってもう何年にもなるのだが、昨年になってその形見を譲り受けた一人が、祖父が自慢していたという絵高麗の茶碗をナントカ探偵団というテレビ番組に出した。晴れて放送されることになり、自己評価額を300万円としたそうだ。鑑定結果は3,000円。我が家にはテレビが無いので放送を観ることはできなかったが、親戚中で大ウケだったようだ。

勿論、美術館や博物館に収まるようなものは評価の固まったものなのだろうが、芸術は価値を創造する行為だ。評価の定まったものを模倣するうちは芸術にはならない。しかし、評価されないものに関わっていると生活の方が成り立たない。真の芸術家は食えないということになる。尤も、「芸術家」を目指す時点で芸術から遠いところに飛んでしまっている。世にある「芸術家」の多くはそういう看板を掲げた商売人だ。芸術は結果だと思う。商売人の中に芸術家として残る人もいれば、商売人のままで忘れ去られる人もいるのだろう。

本書は赤瀬川が映画『利休』の脚本の執筆を機に考えたことの中から生まれた作品だ。赤瀬川が亡くなった頃に氏の著作を何冊が読んだが、言葉への拘りというか理論理屈にも長けた人だという印象を受けた。事実、尾辻克彦という名義で小説も書いている。本書の最終章「利休の沈黙」は全体のまとめにもなっていて、そこだけ読んでも全体のエッセンスは伝わってくる。

 お茶にしてもお花にしても、お稽古ごとといわれるもの一般が同じ構造を生きている。そこにある形式美に身を潜めることの快感があるのである。そうではない、本来の侘び茶というものは形式美ではなく、それを崩すことにあるのだ、それを打ち破って新しい気持ちのひらめきを見出すことにあるのだ、とマラソンの先頭ランナーが説いたとしても、それは後方集団では何のリアリテイももたないのである。(略)
 前衛としてある表現の輝きは、常に一回限りのものである。世の中の形式の固まりを壊してあらわれ、あらわれたものは、そのあらわれたことでエネルギーを使い果たす。その前衛をみんなで何度も、というのはどだいムリな話なのである。(略)
 しかしいまの世の中は、そこのところを履き違えることになった。一回性をもって特権的に許される瞬間の悪、その前衛の民主化である。前衛をみんなで、何度も、という弛緩した状態が、戦後民主主義による温室効果となってあらわれている。自由と平等という、いわば戦後民主主義の教育勅語が、ふたたび私たちの頭脳を空洞化している。(略)その自由と平等をめぐる判断停止の結果、前衛のスタイルだけが浮遊している。
(227-228頁)

 

梯久美子 『百年の手紙』 岩波新書

やっぱりナマに勝るものはない。ナマの生活のなかで生み出されたナマの言葉。ましてやさまざまに追い詰められた状況で、必死の思いで綴られた言葉には言霊がわんさかと宿っている。活字になった、しかもわずかばかりの引用を読んだだけでもそんなことを感じさせるのだから、自筆の筆圧の変化が如実にわかるような筆致で、書き手の体温が伝わってくるような便箋や葉書に書かれたものを手にしたら、気弱で虚弱体質の私なぞは腰が抜けてしまうかもしれない。

人は関係性の中を生きる。その人が置かれた環境の中でさまざまな影響を受け、あるいは与えて時事刻々変化しながら人生を全うする。人格とか性格の類も当然に生物個体としての個性もあるが、置かれた環境の影響もそれに勝るとも劣らず大きいと思う。或る人が誰かに書く手紙には、その人の生きた時代や環境が全て凝縮されているといえる。自分が意識するとしないとに関わらず、「私」は私個人ではなく、私を巡る関係性の結節点のようなものだからだ。

本書にはいわゆる思想犯として刑務所に収監されていた人が書いた手紙がいくつか紹介されている。今はこうして勝手気儘に好きなことを書いて公に晒しても、それが公序良俗に反していない限り何の規制も無い。しかし、それはたまたま今がそういうことになっているだけで、権力が大衆の思想にまで介入していた時代もあった。

権力が盤石であれば下々が何を言おうが知ったことではないが、権力基盤が脆弱であればその脅威に対して敏感にならざるを得ない。今我々が暮らしている時代は、そういう意味では安定している。また、様々な大衆文化娯楽が花開いた徳川治世もそういう時代だったのだろう。その徳川の世が揺らいで権力が交代した19世紀後半から20世紀前半は新権力が権威を誇示することに躍起になり、反対者を弾圧し、反対勢力と戦争をし、今から振り返ってみれば物騒な時代だった、と見える。その物騒な時代は世界秩序を決する大戦争で徹底的に敗北し、超大権力の支配下に組み込まれることで安定を得て今日に至っている、と私は理解している。

本書で紹介されている獄中で書かれた手紙のうち、いわゆる思想犯の手になるものは4人のものだ。幸徳秋水、管野すが、小林多喜二、宮本顕治で、幸徳と管野は東京監獄、小林が豊多摩刑務所、宮本が東京拘置所だ。

幸徳と管野の手紙が書かれたのは1911年で、当時の東京監獄、後の市ヶ谷刑務所は主に死刑囚の収監と死刑の執行が行われるところだった。二人とも大逆事件で死刑になった社会主義運動家で、おそらく捕まれば死刑との思いはあっただろう。管野の手紙は、手紙というには異様な形態だが、二人の手紙には本当に死を覚悟した者の心の静寂を感じる。

小林の手紙は1930年12月に志賀直哉に宛てて書かれたものだ。書かれた時点では小林が志賀に私淑していて、面識のない志賀に対して一方的に書いたファンレターのようなものだ。1931年1月に保釈され、11月に小林は奈良の志賀の家を訪ねた。奈良の旧志賀邸は現在、「奈良学園セミナーハウス志賀直哉旧居」として公開されている。豊多摩刑務所は1983年に閉鎖され、跡地が平和の森公園と東京都の下水道施設になっている。最寄駅は西武新宿線沼袋駅だ。以前、この二つ先の都立家政駅の近くに住んでいた。娘が小さい頃、平和の森公園には何度も一緒に遊びに出かけた。奈良の志賀直哉旧居も数年前に訪れた。ただそれだけのことだが、それだけのことでこの小林の手紙のところは妙に記憶に残った。

宮本顕治は、おそらく私世代なら共産党の「宮本書記長」として記憶に留めているのではないだろうか。今と違って野党それぞれに特徴のある看板政治家がいた時代の共産党書記長だ。本書で宮本顕治と宮本百合子が夫婦であったことを知った。己の常識の無さに苦笑してしまった。小説というものは殆ど読まないので、小説家のこともまるで知らないのである。

本書に紹介されているのは、その宮本顕治から百合子への手紙である。夫婦間の手紙であり、ラブレターだ。本書には紹介されている半分近くの手紙が何らかの形のラブレターでもある。自分にも経験があるが、終わってしまえば馬鹿馬鹿しいものだ。思い返してみて恥ずかしいというより不思議な感じがする。しかし、それは男女の間だけのことではなく、人間関係遍くそういうものであるように思う。

程度の差、持続時間の違いはあるにせよ、結局のところ世の中は人と人との縁や関係で成り立っている。その関係性の表現にどれほど工夫を凝らし、思索を重ねるかが関係性の強弱を左右する気がする。端的には、手書きの文章や手紙は文面以上のものを伝える力があると思う。達筆であるとか悪筆であるというのは、手紙の力にはあまり本質的なことではない。むしろ、そういうことを気にする相手というのは、大抵はつまらない人間なので、無視して差し支えないとさえ思う。そういうことではなくて、のたうつ線から文字という形状以上のものを伝え合う関係というものに人間の神秘を感じる、と言っては言い過ぎか。その手書きの文字でのやりとりが少なくなっていることが意味するところは何だろう。毎度同じようなことばかりなので、これ以上は書かない。

 

袖井林二郎 『拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人手紙』 岩波現代文庫

先日読んだ『百年の手紙』の中に敗戦直後にGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーへ宛てた手紙が2通紹介されていた。それらを紹介するマクラに当たる書き出しが以下のようなものだった。

 連合国総司令官として敗戦後の日本を統治したダグラス・マッカーサー。天皇に代わって絶対権力者となったこの人物に、多くの日本人が手紙を書いた。その数は、確認できるだけで四十一万通以上あるという。
 手紙を発掘・研究した政治学者の袖井林二郎氏による『拝啓 マッカーサー元帥様』(岩波現代文庫)に、その一部が紹介されている。
 日本人が占領という事態によく順応したことは知られているが、手紙の数々を読むと、この新しい支配者に日本人が示した”帰依”と呼びたくなるような崇敬と期待、そして親愛の念に、今さらながら驚かされる。マッカーサーはお気に入りの手紙約三千五百通をファイルし、死ぬまで手許に置いていたという。
(梯久美子『百年の手紙』99頁)

それでこの『拝啓 マッカーサー元帥様』が読んでみたくなり、早速Amazonで取り寄せた。読んで驚いた。日本人って奴は大したもんだと感心した。自分はその時代を生きていないのだが、その時代を生き抜いて今も生きている親の倅である。他所の国の人のことはよく知らないのだが、主要都市が悉く焦土と化した国を、様々な幸運に恵まれたとは言いながら、わずか10年ほどで、多少手前味噌的なところはあるにせよ、「もはや戦後ではない」と国家が宣言するところまで復興させてしまう底力はタダモノではないのである。

尤も、「様々な幸運」と書いたが、時勢の影響は大きいと思う。前にどこかに書いたが2016年6月に福島の原発周辺、2019年7月に気仙沼を訪れた。2011年3月の震災からそれぞれ5年、8年を経ていたが、どちらも「復興」とは程遠い姿だった。何をもって「復興」と呼ぶかという議論はあろうが、少なくとも原発周辺の方には人の暮らしはなかった。

総務省統計局が開示している統計によれば、日本の人口は2008年がピークだ。人がいれば当然にその分の消費や需要が発生する。人口が増勢にある中での経済成長であるとか戦後復興と、人口が減少基調に転じ少子高齢化という構造が確立した中で、特にそうした特徴が顕著な地方経済の災害復興とが同じはずはないのだが、今の日本は一度コケたら容易に立ち直れない状況に置かれているのは確かだろう。

その滅亡過程を食い止める切り札が「インバウンド」であったわけだが、安易に外部の力に依存する発想とか姿勢は、焦土にあってマッカーサーに象徴される占領軍に媚び諂う態度と通底するものがあるように見える。2020年初頭以来の感染症大流行で頼みの「インバウンド」が風前の灯だ。感染症は一時的なもので、物事が「グローバル」に動く趨勢に変わりはなく、今を耐え凌げば再び従来の他力本願的な行き方に回帰するのか、そうした外部依存の危険を憂い、自ら新たな価値創造を模索しようとするのか、興味深い局面に立たされている、と思う。

さて、敗戦の焼け跡に復興の指揮を執る全権限を有する人物が、つい先日までの敵国からやってきた。そのとき人々はどうしたのか、ということの一端が本書から読み取ることができる。勿論、マッカーサー宛の手紙の全てが公平に保存されたわけではないだろうが、それでもかなり私的な願い事の手紙までもが占領政策を立案し執行する上で資料的価値があると認められて保管された。そして今尚50万通近くが米国のナショナル・レコードセンター、マッカーサー記念館、その他公的な施設に資料あるいは史料として保管され閲覧に供されている。本書ではそのうちの一部を内容によって分類し、日本の敗戦直後の姿を活写している。著者の意図はそこではないかもしれないが、そこにこの国の歴史に通底するものを垣間見た思いがした。

権力・権威は常に自己の外部にあり、自己が外部の権威と整合的であることを誇示することで自己の存在確認、自己承認を可能にする。その外部の権威は社会が権威として認識しているものであれば、何でもよいのである。「何でもよい」というと語弊があるが、神、仏、時の領主、幕府、天皇、マッカーサー、あるいはこれらが象徴する何者かを頂き、その時々の社会は成り立っていた。やはり人は人である以前に生き物であり、生き物は生きるために生きるのである。何者を権威として縋るか、というのは生存本能による嗅覚のようなものが選別することであって、たぶん理屈は後付けだ。だから敗戦で流した血と涙が乾かないうちに、人は自分の頭上にそれまでの敵将が君臨することが決まれば躊躇うことなく「マッカーサー元帥様」と擦り寄ることができるのである。

本書の「私的なあとがき」の以下の一節は私には説得力のあるものに思われた。

 入稿してから校正刷りが出てくるまでの間に私はアメリカを訪れたが、GHQで日本人の手紙の翻訳にあたったという、ハワイ生まれ沖縄系帰米二世の元ATIS隊員に、ロサンゼルスで会う幸運に恵まれた。「日本人ってつまらん民族だと思ったね。あんな手紙をマッカーサーに書くなんてサ」とその人はいう。彼の厳しい言葉は、差別に苦しんだ沖縄人うちなんちゆが大和人やまとんちゆ(内地人)に向けて放つ批判の矢だと私は受けとった。
 しかし、もし私が占領下におとなだったら、私も「つまらん民族」の一人として、マッカーサーへ手紙を書いていたのではあるまいか。書かなかった、といい切る自信は私にはない。敗戦から四〇年、占領終結から三三年余の今日の日本は、今やかつての占領者アメリカを見下さんばかりの勢いである。現在の高みに立てば「あんな手紙をマッカーサーに書くなんて」想像もできないことかもしれぬ。しかし逆にいうならば、あのような手紙を書く民族は、自分よりも劣っていると見なした人々に向っては、傲然と胸をそらして見下すのではあるまいか。「日本人はこういう手紙をもっと読む必要があります」という先の永井氏の言葉は、そうした傲慢さへの歯止めの意味だと、私は思う。
(412-413頁)

本書の解説の中でジョン・W・ダワーはこう書いている。

敗戦によってそれでまで信じこまされてきたほぼすべてのものが、粉々に砕け散った時、日本人は昨日まであしざまにののしってきた敵の総大将に身を寄せ、彼を最善の希望と熱望の卓越したシンボルに化したのである。ダグラス・マッカーサーは、日本の「文化的英雄カルチュラル・ヒーロー」となったのだが、そのことをアメリカの同胞はとても理解しきれなかった。
(422頁)

アメリカとは国の成り立ちが全く異なるのだから、日本人の無節操に見えるところが理解されないのは当然、との意見もあるかもしれない。しかし、私も本書に紹介されている手紙は時代背景を考えると「理解しきれない」のである。

 

知里幸惠 編訳 『アイヌ神謡集』 岩波文庫

本書も『百年の手紙』に紹介されていたものだ。

 知里幸恵は、明治三十六(一九〇三)年、北海道の幌別村(現在の登別市)にアイヌ民族として生まれた。そのたぐいまれ語学力と詩才を見いだしたのは、アイヌ語研究で知られる言語学者、金田一京助である。十八歳のとき、金田一の求めに応じて、ユーカラをローマ字で記録し日本語に訳する作業を開始。その正確さと美しさは金田一を驚嘆させた。
(梯『百年の手紙』202頁)

本書にはユーカラの全てが記載されているわけではないだろう。序文を読むと一応の完成稿のようだが、18歳で始めたユーカラの記録作業は1年足らずで終わってしまったからだ。知里は19歳3ヶ月で他界してしまったのである。もともと心臓に疾患を抱えていたのだそうだ。そのユーカラが詩の調べとして美しいとかどうとか、私にはわからない。私に文学的な感性が欠けていることは、時々このnoteに書き殴っている私の短歌や俳句を見れば一目瞭然なので断るまでもないのだが、本書について語る前にはっきりさせておいたほうが良いかと思ったまでだ。

その序文だが、読んでいて涙がこぼれてしまった。アイヌという遠い人々のことではなく、「滅びゆくもの」が自分自身のことに思われたのである。

 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて, 野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ. 僅かに残る私たち同族は, 進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり. しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて, 不安に充ち不平に燃え, 鈍りくらんで行手も見わかず, よその御慈悲にすがらねばならぬ, あさましい姿, おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名, なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
 その昔, 幸福な私たちの先祖は, 自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは, 露ほども想像し得なかったのでありましょう.
(3-4頁)

ユーカラは謡の形をとっているが、そこに語られているのは倫理観や世界観だ。アイヌは文字を持たないが、記録媒体に乏しいというのが実際的な理由だろう。口伝で何事かを伝えようとすれば、記憶に残りやすい形式を取らざるを得ない。リズムに載せやすい言葉、理屈の通った物語などだ。「神(kamui)」という言葉が使われているが、社会のあるべき道理のようなものだろう。自分達の生活を自分達の生活から離れた場所から俯瞰している存在とでもいうべきものだ。ユーカラの中で「神」とは別の扱いだが、物語の主役になっている梟、狐、獺、狼、蛙、兎、貝などもユーカラの語り手や聞き手にとっては「神」のうちと認識されていただろう。こうした動物たちは自分達とは違う存在だが自分達の暮らしの近くで日々接している。そういう点では「神」ともども、人々の正しい行いもそうでない行いもちゃんと見ていて、最終的には人々の行いに対してきちんと判断が下されるという倫理観を担保するものであったと思う。誰のものでもない神の大地で人は仲良く暮らすべきとの倫理観・世界観がユーカラの世界にはある。

生態系という点で生活資源に余裕があり、人の自他の意識を包摂できるうちは国家という形態があろうがなかろうが、人の暮らしを営むことができたのだろう。それが、集団やその生活が拡大する中で余裕がなくなり、自他の意識が先鋭化する中で、「所有」の意識も同様に先鋭化したのではないだろうか。あるいは、余裕があろがなかろうが、所有者が判然としないものは自分の所有にしてしまおうというセコイ了見が本能として人間に備わっているのかもしれない。

自分か他者か、という自他の別の意識が先鋭化するというのは、自分でも他者でもない、という「余白」が許容されないということだ。歴史の中では「入会地」というのがあるが、これは自分のものでもあり他者のものでもあるという「共有」の概念で「余白」とは異なる。あまり考えたことはないのだが、余白を放っておけないというのでは心が休まらないのではないだろうか。誰と会っても、何を見ても、自他の別の意識が先に立ち、「自分」の領域を確保することに汲々としてしまう。そうした「自分」の領域や所有の度合いを数値化して、その数字にひたすら目を走らせる。一人一人が皆そのように「自分」の領域を拡大すること肥大させることに関心を集中したら、有限な物理世界はやがてどうなるだろうか。

数字の多寡、勝ち負け、損得、そんな目先の一瞬にこだわり続ける人生は、緊張に満ちて充実しているように見えるのかもしれない。しかし、自分にとって死活問題であるようなことが、他者から見ればどうでもいいことであるのも一方の現実の姿だ。ほんの少し想像力を働かせれば「余裕」や「余白」はいかようにも創り出すことができる気がする。その想像力を知性とか感性と呼ぶのである。

ところで、北方領土返還の話が一向に進展する気配がない。沖縄が返還されて、北方領土が返還されないのは、交渉相手の差異によるところも勿論大きいのだろうが、「領土」の成り立ちのそもそもの違いが影響しているのではないかと思うのである。沖縄もアイヌの生活圏も「日本」が拡張していく中で「日本」に組み込まれた土地なのだが、「日本」の濃さが違うように思う。例えば、かつては札幌市内においてすら地区によって方言が異なった。それは入植した人々が出身地ごとにまとまって地区を形成したからだ。また、先住民が所謂「国家」を形成していたわけではなく、その先住民にしても「アイヌ」と一括りにできるものか否か議論が残る。幕末に日露和親条約が締結されて日露の国境が確定された際には、おそらく先住民のことは考慮の範囲外で、確定された国境の此方と彼方の両方に先住民の暮らしが残されたままであった。そうしたことをみても、「返還」を叫ぶ声の強さや質的なものに影響が皆無というわけにはいかないのではないかと思うのである。勿論、沖縄には別の問題があることは承知しているが、琉球王国として国家の体を成していた土地とそうではない土地との違いは大きいと思う。


読書月記 2022年1月

2022年01月31日 | Weblog

虎屋文庫 『ようかん』 新潮社

客として誰かを訪ねるとき、虎屋の羊羹を手土産にすることが多い。大晦日から正月二日まで、新潟柏崎にある妻の実家に帰省した。帰省に先立つ直前の日曜日に東京駅丸の内南口2階にあるTORAYA TOKYOで「夜の梅」「光さす」「孟春の虎」の中形羊羹を一つの箱にまとめてもらい、「年賀」の熨斗をしたものを用意した。改めて説明するまでもないのだが、「夜の梅」は定番商品の一つの小倉羊羹、「光さす」は今年の歌会始のお題「窓」をテーマにした期間限定羊羹、「孟春の虎」は今年の干支「寅」にちなんだ期間限定羊羹だ。贈り物は自分がもらって嬉しいものにしないといけない。自分が食べたこともないようなものを当てにならない世間の評判だけで他人様に持っていくというのは失礼なことだと思う。今回の羊羹に関していえば、「光さす」と「孟春の虎」は食べたことがないものだが、虎屋の羊羹は馴染みの深いものなので、味に関しては大凡の見当はつく。それと、2015年12月に羊羹をはじめとする和菓子の歴史についての学習会に参加したことをきっかけに、羊羹とか饅頭への関心が高くなったこともあって、手土産に羊羹というのが自分の中で定着した。

和菓子の学習会というのは国立民族学博物館友の会の第71回体験セミナー 「九州のなかの朝鮮文化を歩く ─ 菓子、工芸、史跡にさぐる関係史」というものだった。講師は国立民族学博物館教授(当時、現在は名誉教授)で韓国社会論をご専門とされている朝倉敏夫先生、現地案内役は佐賀県小城市の株式会社村岡総本舗の村岡安廣社長で、大陸から日本への砂糖及び砂糖を使った食品の伝搬について学ぶというものだ。よくシルクロードの東の終点が奈良であると言われる。シルクロードは紀元前から18世紀頃までのユーラシア大陸東西を結ぶ交易路だが、その中で西方から日本へ砂糖や甘味をもたらした経路を「シュガーロード」と呼ぶこともあるらしい。同セミナーでは歴史的な東西交易路の日本側の窓口とされる土地の一つである現在の佐賀県の甘味や東西交易関連のものを訪ねた。その一つが小城羊羹である。小城市を訪れると目につくのは羊羹店だ。小城市のキャラクターは「こい姫・ようかん右衛門」で、小城市を象徴するものとして羊羹が取り上げられている。総務省統計局が公表している家計調査の中に「品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市ランキング」というものがあるが、小城市のある佐賀県の県庁所在地、佐賀市はようかんの購入金額が日本一である(2018-2020年平均年間購入金額:1位 佐賀市 1,442円、2位 福井市 1,187円、3位 さいたま市 1,046円、全国平均 669円)。年間1,442円は少ないと思う向きもあるかもしれないが、世間には羊羹が大嫌いだという人も大勢いるだろうし、前に食べてからもう10年以上になるという人も珍しくはないだろう。そういう人たちも含めての平均値なので、この金額だ。そういう土地を訪ね、そこで羊羹や菓子の話をさんざん聴いたので、羊羹への関心が否応なく高くなってしまった。

余談だが、国内の羊羹市場が縮小しているのは事実であるようで、佐賀新聞の2004年10月24日の紙面に掲載されていた2003年の同統計では佐賀の全国1位は同じだが、金額は2,221円、全国平均は909円だった。途中の統計を確認していないが日常生活の風景からの印象としては低下基調にあることには違いない気がする。手土産に羊羹というのもそろそろ考え直さないといけないのかもしれない。

ところで本書のことだが、虎屋は傘下の虎屋文庫で毎年『和菓子』という紀要を発行している。この紀要についても、先述の体験セミナーで知り、村岡さんの論文が掲載されている号を請求して入手したところ、その後も毎年案内が来るようになってしまい、年に一度のことでもあるので、購読を継続している。

その虎屋文庫から羊羹についてまとめた本が発行されたと聞いたので、購入した。しばらく読まずに放置していたが、年末に積み上がっている本を整理していたら出てきた。中国での羊肉の羹(汁物)がどのような経緯で日本の羊羹になったのか、素直に納得できる話に出会ったことがないのだが、それは本書を読んでもやはり変わらない。羊羹が菓子として日本に伝来したのは鎌倉時代後期に中国に留学した禅僧が持ち帰ったものが始めのようなのだが、それがそもそもどのようなものであったのかは今となってはわからない。戦国時代の饗応の記録の中には酒肴として羊羹が記載されているものがあり、現在流通しているような羊羹をつまみに酒を飲むということは考えにくい。同じ戦国時代でも茶の湯で用いられる菓子としても羊羹が登場している。しかし、こちらの記録の方でも、昆布や蛸、キノコ類の煮しめといった甘くないものが「菓子」として記録されているので、当時の茶会記にある羊羹が果たして今のような羊羹であったのかどうか疑問がある。斯様に羊羹のルーツはいまだによくわからないのである。

現在の羊羹の主要材料は小豆、砂糖、寒天だ。羊は用いない。小豆は日本の穀物の基本でもある「五穀」(稲、粟、小豆、大豆、麦)の一つで、縄文時代の遺跡から出土することもある。赤い色が邪気を払うとする土俗信仰とも相まって古来から神仏への供物として用いられ、現在でも慶事に赤飯を炊いたり、正月に小豆粥を作ったり、彼岸に牡丹餅・御萩を拵えたりする。本格的に普及したのは明治に行われた北海道開拓で原野の農地化に用いられたことがきっかけとなり、その後、品種改良が繰り返されて1981年に寒さに強く収量の多い「エリモショウズ」が登場したことで急速に生産が増えたそうだ(本書86頁)。

砂糖は奈良の唐招提寺の開祖である鑑真が大陸からもたらしたという説があるようだが、確証はないらしい。しかし、輸入に依存する時代が長らく続いたのは確かで、国産の砂糖が作られるようになるのは徳川吉宗の時代に、それ以前から薩摩や琉球で栽培されていた砂糖黍を駿河や長崎でも栽培するようになり、中国から技術者を招いて精糖技術に改良を加え、19世紀に入ってようやく質量ともに消費に耐えるものになったという(88-89頁)。それでも、庶民にとって砂糖が貴重なものであったことには変わりはなく、戦争映画などを見ると、特攻隊として出撃する息子に母親が「配給の」砂糖を貯めて作った牡丹餅・御萩を届けるシーンがあったりする。

ちなみに我が家では高知県某所で毎年11月下旬に生産されている黒砂糖を購入して使用している。つまり、砂糖の購入は年一回だ。とても老夫婦だけで消費できる量はないので、行きつけの珈琲焙煎店(奥さんが焼き菓子を作って店に出している)と知り合いのビストロ(シェフが作る黒砂糖アイスが絶品)にお裾分けをしている。あちこちに手土産で持っていったこともあったのだが、固形で一般家庭では使いにくい形状なので、もらった方も困るだろうと思い、料理とか食に関心の薄い先には押し付けないことにした。それで、年々少しずつ賞味期限の切れた黒砂糖が溜まるのだが、カビが生えなければ使用に耐えるし、カビが生えてもそこを削ぎ落とせば使用可能なので、生産者から案内を頂けばそれに応じて毎年購入させていただいている。但し、黒砂糖は菓子作りをする妻には不評で、雑味と色が嫌なのだそうだ。そんな事情もあり、また、生産者の方も高齢化とか後継者問題があるだろうから、我が家でこの黒砂糖の使用がいつまで続くのかはわからない。

寒天は天草などの海藻を加工したものだが、主な産地は山間部だ。「寒天」の名が示すように夜間の外気温が氷点下になる土地で、その寒気に晒して作るため、湿度と温度がともに低い12月から2月にかけてが最盛期だそうだ。天然寒天は保水性や弾力に優れ、練り羊羹では粘り気と硬さの決め手になるのだそうだ。しかし、世情の流れの中で天然寒天の生産は減少しており、品質も生産量も安定している工業寒天が菓子に使われるようになって久しいとのこと。自分では生産について全く無力なのでどうこう言える立場ではないが、寒天に限らず今は一事が万事この調子で、寂しい世の中だとは思う。

本書を読むと羊羹だけでなく、人が食に求めたことの一端を垣間見る思いがする。それは単に空腹を満たすという欲求だけでなく、食を通じて社会的地位を表現するとか、旨さを探求する知的好奇心の満足とか、人のあり方の奥深さを再確認できる。身の回りのことを一つ一つ丁寧に考えるだけで、暮らしが愉快になるような気がする。考えるだけなら気楽なものだ。余生は気楽に過ごしたい。

 

山田風太郎 『あと千回の晩飯』 朝日文庫

山田の『人間臨終図巻』の方は手元に置いて誕生日や正月の度にパラパラと読み返している。だから当面は手放すつもりはない。しかし、本書の方はどうしようかと迷う。内田百閒を随分読んだ後に本書を手に取ると、なんだか軽く感じるのである。『図巻』の補遺のようなものでもあるので、本書も一緒に手元に置いておこうかと思わないでもないが、自分が老年になってみると、ここに書かれているようなことは当たり前過ぎて、だから何なんだという気にもなる。結局誰もが必ず死ぬわけで、そういう時期が近づいてみれば、おそらく誰もが思うであろうことが書かれているだけなのだ。

しかしおめでたい存在は、本人が幸福であるのみならず、周囲にも幸福をふりまくものでなくてはなるまい。(12頁)

本気か。「幸福」って何なんだ。とりあえず朝目覚めたから惰性で習慣をなぞっているだけ、というのが圧倒的大多数の暮らしではないのか。

人間の最後の尊厳性を守る一本のフンドシ、それさえムシりとられたあとは、ごく少数の例外をのぞき、客観的に見れば私には、ほとんど生きている意味がないように思われる。「無意味なる生」である。それはごめんだ。だれでもいやだろう。(15頁)

最終段階の情景を語っているのだが、嫌も何も、そういうものだろう。生まれようと思って生まれるわけではないのに意味も無意味もあるまい。意味も無意味もないところを本人だけが大したつもりで生きているところに、生きることの面白さがある。よくネットの動画に飼犬や飼猫の滑稽な仕草を映したものがあるが、撮影している飼主も撮影されたものを観ている自分も被写体の犬猫同様に滑稽であることに気付かずにいることを、一歩引いたところで眺めているもう一人の自分いることに本当の面白さがある。

2019年4月19日、東池袋四丁目の路上で老齢男性(事故当時87歳)が運転する乗用車が暴走して11人を死傷させた事故が発生した。昨年9月2日、この事故の刑事裁判一審の判決が東京地方裁判所で下り、被告原告双方からの控訴が無く同月17日に判決が確定した。事故車を運転していた被告は禁錮5年の実刑で、検察の求刑である同7年にほぼ近いものだった。加害者男性は10月12日に東京拘置所に収監された。判決時の被告の年齢は90歳だ。被告の社会的地位などから世間の注目を集めた事件だったが、高齢者の運転する自動車が事故を起こすのは日常茶飯事だろう。決して特異な事故ではなく、日常生活のなかで誰もがこうした事故の加害者にも被害者にもなり得る。

この事故で気になったのは加害者の年齢だ。87歳で自動車を所有して自ら運転するものだろうか。しかも、自家用車が無いと日常の行動に支障の出る過疎地ではなく、公共交通機関が縦横に往来する都心で生活している人が起こした事故だ。この事故は歳をとるということの現実の一端を示していると思う。当然、本人には加齢の実感はあっただろうが、身体が日常生活に支障の無い程度に動くなら、身体能力の低下への懸念や危機感よりも、昨日できたことは今日もできるはずという思考の習慣の方が実際の行動を左右するということなのだろう。

映画『ドライビング Miss デイジー』(原題:Driving Miss Daisy)では、運転の誤動作で事故を起こしそうになった母親を心配して息子が運転手を雇うが、そんなことは誰にでもできるものではない。家族や身近な人たちが気をかけてくれる環境に置かれているというのは今時は稀有なことであろう。家族や身近な人たちがいるとしても、共々に齢を重ねて頼りないことになり、加齢とそれに伴う身体能力の低下のなかで、不都合が生じないというわずかな確率に賭けて、習慣に流されるのが現実であろう。

齢を重ねる現実を体感しつつも、自分ではそれをどうこうすることもできずに老朽ちていく。人はそれを忌避するべきものと語るが、できもしないことを考えるよりは老朽ちる現実を受け容れながら機嫌良く最期を迎えることを考えたい。それには本書のようなものは全く役に立たない。尤も、何事かの役に立てようと本書を手にしたわけではないのだが。

本書の記述が浅薄なのは、新聞や雑誌といったマスメディアの連載記事をまとめたものであるため、記事の性質上、読者のウケを意識せざるを得なかった所為なのか、山田自身の限界によるものなのかは、本書だけではわからない。

 

山田風太郎 『戦中派不戦日記』 角川文庫

昭和20年の日記。内田百閒の『東京焼盡』と時期が重なる。何故かわからないが、あの戦争のことが気になる。子供の頃は、まだ多少戦争の余韻が残っていた。上野駅の構内では白衣に軍帽という姿で義足とか義手をつけた人が、前に空き缶を置いて楽器の演奏をしていたのを今でも覚えている。親戚には戦死した人はいないが、徴兵で戦争に行った人は何人かいた。両親は昭和12年の生まれなので、終戦時は8歳。空襲の中を逃げ惑っていたはずだ。日本中の主だった町が焼け野原になった。我々はそこを生き延びた人々の末裔だ。それにしては軟弱で虚弱に過ぎる気がする。追い詰められ方が足りないのか、あれから甘やかされ過ぎたのか。

昭和20年、終戦を迎えるまで東京は断続的に空襲に遭ったが、そのなかでも特に大規模であったのが3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日とされている。一般に「東京大空襲」という場合、3月10日の空襲を指すことになっている。

総体に内田と山田の日記のトーンはかなり違っているのだが、50代半ばを過ぎている者と20代前半の者との立場や個人的諸事情の違いに起因するところ大であろう。生活の場は、内田が番町で、山田は通っていた大学が新宿で住まいは目黒のようだ。おそらく二人とも似たような風景の中にいた。例えば、その3月10日の記述は以下の通りだ。

午前零時ごろより三時ごろにかけ、B29約百五十機、夜間爆撃。東方の空血の如く燃え、凄惨言語に絶す。
爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり。
(略)
午後、松葉と本郷へゆく。
若松町に出ると、晴れた南の空に巨大な黒煙がまだぼんやりと這っていた。それは昨夜の真夜中から今朝のあけがたまで、東京中を血のように染めて燃えつづけた炎の中を、真っ黒な蛇のようにのたくっていたぶきみな煙と同じものであった。
牛込山伏町あたりにまでやって来ると、もう何ともいいようのない鬼気が感じられはじめた。ときどき罹災民の群に逢う。リヤカーに泥まみれの蒲団や、赤く焼けただれた鍋などをごたごた積んで、額に繃帯した老人や、幽霊のように髪の乱れた女などが、あえぎあえぎ通り過ぎてゆく。しかし、たとえそれらの姿をしばらく視界から除いても、やっぱりこの何とも言えない鬼気は町に漂っているのである。
(略)
自分と松葉は本郷に来た。
茫然とした、何という凄さであろう!まさしく、満目荒涼である。焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす「物」の姿が、ことごとく灰となり、なおまだチロチロと燃えつつ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて、この広茫たる廃墟の凄惨さを浮き上がらせている。
(略)
「つまり、何でも、運ですなあ。」
と、一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的な、そして変な明るさをさえ持って浮かび上がった時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。
(略)
焦げた手拭いを頰かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、
「ねぇ…また、きっといいこともあるよ。」
と、呟いたのが聞こえた。
自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。
数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。
それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間の讃歌」出会った。
(略)
(90-98頁)

内田の方は少しあっさりしている。

忽ち東の方の神田と思はれる空に火の手上がる。敵機は一機宛にて、来襲し百三十機に及びたりとの事なり。又いつもは八千米の高度なるに、今夜は三千、二千、中には千米まで降りて来たのもありし由なり。段段に火の手大きく、又近くなりて往来昼の如し。
(略)
大正十二年の大地震の大火の時に出来た入道雲の様な煙のかたまりが今夜も現はれた。
(略)
表を焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではつきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行った。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ッ子と云ふわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。
(略)
往復の途上にて見た焼け跡は、この前の空襲の後の神田の景色とは比較にもならぬひどいものにて、大地震の時の大火以上ではないかと思ふ。いつかは自分の家も焼かれるか知れないとは今迄も考へてゐたが、今度は近い内に必ず焼かれるものと覚悟をした。家内もその用意をしてゐる。火事だけではなく、爆弾にていつ吹き飛ばされるか知れないけれど、死ぬ事にきめてしまつては万事物事の順序が立たない。生死に就いては運を天にまかすとして、生きてゐれば必ず焼け出されるものと一応腹をきめた。今暁の近い大きな火の手を見、又今日の行き帰りに果てしのない焼け跡を眺めたら、さう云う気になつた。
(略)
(内田『東京焼盡』中公文庫 94-97頁)

同じことをほぼ同じ場所で体験しているが、書きようがずいぶん違うように感じられる。内田の方は関東大震災が災害体験の一つの基準になっているようだ。それが余程大きかったらしい。それでも、東京大空襲の方が実感としてそれまでに経験のない惨状であったようだ。また、生死についての「運」は二人とも語っているが、山田が他人の言葉を起点にしているのに対し、内田は自ら悟っている。個性の違いもあるだろうが、人生経験の長さの違いに拠るところもあるだろう。

若いうちは、自分の才覚や努力で物事が動くものと暗黙のうちに信じているところがあるものだ。それが齢を重ねると否応なく自分というものの無力を悟るようになる。しかし、だからといって敗北感に苛まれるのではなく、軽やかな諦観に落ち着くのである。「若い」とか「老い」というのは実年齢とは関係なく、自分に対する無力感の大小で測られるものだと思う。若くして死ぬのは悲劇であり、老いて死ぬのは自然だ。90歳でも「早死」のような心境で逝く人がいるのだろうし、20代でも老境に至る人もいるかもしれない。おそらく、その時その時を自分なりに精一杯の時間を重ねると人生の何事かを悟ることができるのかもしれない。言い換えれば、のんべんだらりと日々を重ねれば、いつまで経っても「若い」ままということでもあろう。自然にくたばりたいものである。

昭和20年は夏を境に多くの人の立場が大きく変化した。人は社会性のある生き物だ。立場で物事を考える。生活ということに限れば、変わり身の早い方が「有利」なのかもしれない。戦中戦後で世相がどのように変化したのか。内田の『東京焼盡』は8月21日までなので、この点については山田と内田の比較はできない。

因みに、内田はその8月21日をこう締めている。

何しろ済んだ事は仕方がない。「出なほし遣りなほし新規まきなほし」非常な苦難に遭つて新らしい日本の芽が新らしく出て来るに違ひない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだらう。
(内田『東京焼盡』中公文庫 338頁)

『東京焼盡』は日記の形式だが、執筆されたのは戦後数年を経てからであることを割り引いても、焼盡となった東京で暮らしているにしては明るい文章だ。それは前日8月20日に灯火管制が廃止され、空襲が無くなったということが実感されたであろうことと無関係ではあるまい。上に引用した最後の文は太田道灌の歌で、「急いては事を仕損じる」とほぼ同義だ。事を急いで戦争を始めたが、事態は変わりこれから世の中は落ち着くだろう、というようなつもりで書いたのではあるまいか。

急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨

確かに、戦後、日本は急速な復興を遂げた。それで我々の今がある。振り返ればあっという間のことかもしれないが、「鬼畜米英」「天皇陛下万歳」から「民主主義」「人権」「平和」への転換の渦中にいた当事者たちは精神の拠り所をどのように見出したのか。山田の9月2日の日記にはこうある。

今になってみると、自分にしても、すべてを「運命」にかけて、連日連夜爆撃の東京に平然と住んでいたことがふしぎである。凡らく夢中だったのであろう。もっとも人間というものは、熱中していた過去を振返ってみると、それがいかに冷静な判断の中に動いていたつもりであっても、後ではまるで「夢中だった」ように感ずるものである。実際過去は、いまその連続で自分がここにいるという自覚を除いたら、すべては夢である。(397頁)

しかし、その「自覚」とやらもどれほど確かなものなのだろうか。「自分」もひっくるめての「夢」ではないのか。「私」なんて幻想だろう。還暦を前にして、その向こうには死しかないのでそう実感するのかもしれないが、この60年は何だったのだろうと少々唖然としている。

9月8日(土)曇
ナポレオンはいった。「荘厳から滑稽へ移るのはただ一歩のみだ」(ユーゴー『クロムウエル』序論)
12月8日、アメリカに対する日本帝国の怒りは荘厳を極めた。8月15日以来、日本政府が命がけでマッカーサーに米つきばったのごとくお辞儀している姿は、ただ滑稽の一語につきる。(415頁)

10月に入るといよいよ世相は進駐軍に靡く。10月16日の日記にはこんなことが書いてある。

東京から帰った斎藤のおやじは「エレエもんだよ、向こうのやつらは。やっぱり大国民だね。コセコセ狡い日本人たあだいぶちがうね、鷹揚でのんきで、戦勝国なんて気配は一つも見えねえ。話しているのを見ると、どっちが勝ったのか負けたのか分かりゃしねえ」とほめちぎっている。(479頁)

10月19日の日記の一部。

 正直は美徳にちがいないが、正直に徹すれば社会から葬り去られる。それを現にわれわれは戦争中の国民生活でイヤというほど見てきたではないか。
 悲しいことだが、それは厳然たる事実である。それを「軍備なき文化国家を史上空前の事実として創み出すのだ」などという美辞を案出し、また日本人特有の言葉に於ける溺死ともいうべき思考法で満足している連中の甘さには驚くほかはない。実際世間とは馬鹿なものである。相当なインテリまでが、アメリカによる強制的運命に置かれている現実をけろりと忘れた顔で、大まじめに論じている。
「そのアメリカは軍備をいよいよ拡大しつつあるではないか」
 こう問いかけるわれわれに根拠のある返答の出来る人がどれだけあるだろう。神兵だの神話創造など、戦争中無意味な造語や屁理屈的理論を喋々した連中にかぎって、今度は澄まして、しかも頗る悲劇的な顔つきをしてみせて、幼児のごとき平和論をわれわれに強制している。(488-489頁)

戦争は異常事態ではない。我々の歴史の一部でしかない。何かが狂ってそういうことになるのではなく、始終狂っているからそういうことも当たり前に起こるのである。生きることは綺麗事ではない。その時々においては何かに強烈に拘ったりするものなのだが、過ぎてしまえば嘘のように余所事に感じられるものである。だが、生きることは、そういう「拘り」の連鎖であることも現実である気がする。そもそも心静かになどという想いも幻想とか夢の類なのかもしれない。

 

赤瀬川原平 『老人力 全一冊』 ちくま文庫

先日、noteを読んでいたら本書のことを上げている人がいて、また読んでみようかなと思って再読した。先もないし銭もないので、なるべくモノを増やさないようにして暮らさないといけないと思っている。本を買うときには何度も読み返すつもりで買わないといけないと思っている。思ってはいるのだが、つい「これくらいなら」と思って狭い団地の部屋を更に狭くして「困ったな」と思いながら生きている。やはり、機会をとらえて今あるものの再読を心がけないといけない。

本書の元の単行本は大ベストセラーで「老人力」は発行された1998年の流行語大賞トップテンに選出された。因みにこの年の大賞は「ハマの大魔神」「凡人・軍人・変人」「だっちゅーの」だそうだ。

言葉というものは独り歩きをするもので、「老人力」も本書での記述から離れて広まった結果の流行語でもあるのだが、「老人」がそれだけ社会の中で関心を集め易い状況になっているということでもあるのだろう。「老人」の印象は、たぶん「なんとかしないといけない」状況から「それがどうした」という開き直りの方向に進んでいる、と老人の私は感じている。つまり、他人事から主流派当事者的感覚になりつつあると思う。当事者として愉快だが、他人事として世間を見たときに、「本当にいいの?どうなっても知らないよ」とつい余計な心配をしてしまう。前妻との間に娘がいて、たまに会って食事をする時に、それとなくそんな感じのことを言うことはあるが、だからといって彼女個人に何ができるわけでもない。

本書には一応「老人」の定義のようなものが書かれている。

 そもそも老人になるというのが、小、中、高、と学校へ行って、足りない人は大にも行くが、その間バイトをしたり、人によっては刑務所に入ったり、結婚したり離婚したり、倒産したり、夜逃げしたり、うまくいったとしても糖尿病になったり、肝硬変になったり、歩道橋を渡ったり、立ち食いそばを食べたり、立ち小便を人に見られたり、とにかくありとあらゆる苦労の末にやっとなるのが老人である。
 あ、老人か、なるほど、恰好いいなあとかいって、五万円払って老人になる、というわけにはいかないのである。
(22-23頁)

つまり「ありとあらゆる苦労」を重ねた眼から見えた世の中のあれこれについてのエッセイが本書ということでもある。今となっては本書を最初に読んだのがいつなのか記憶にないのだが、本書の奥付に「二〇一四年十一月十日 第九刷発行」とあるので、赤瀬川が亡くなったことを知って読んでみようと思ったのかもしれない。新本で購入しているので、手にしたのは52歳の時だ。当時、読んで何を思ったのかは記憶にないが、当然、今と同じではなかっただろう。今、赤瀬川が書いた時の年齢で読むと、腹の中にスーッと入ってくる。

やはり思うのは、世の中の奇妙についてである。

いまの世の中は脳社会とかいわれていて、どんどん論理に覆われてきている。人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。(86頁)

最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の順番ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけれど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具はというのは人間に伝染るんです。(47頁)

 若い人たちは情報社会にひたってるんですね。情報社会って、みんなケチになるんです。情報を全部抱えこもうとするから、ぱっと捨てられなくなる。僕ももとはケチなほうなんだけど、老人力って、捨てていく気持ちよさを気づかせてくれるんですよ。ボンボン忘れていくことの面白さ。
 情報的にスリムになると、自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる。反対に情報で身の回りを固めてると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生じゃなくなってくるというか、自分が何だか干からびてくるんですね。(195頁)

 僕も貧乏性だけど、計算機もかなり貧乏性ですからね。あっちこっち横目ばかり使って、目つきが悪いようなところがある。キョロキョロして一番いいところを狙ってるような、ちょっと浅ましいっていうのかな、ヘタをすると、そういう気分につながりそうな回路が開いてる。昔は品格とか志みたいなものが尊ばれたから、計算で動くなんて軽蔑されることだった。それがいまはとにかくプラス志向だから、計算ずくでもなんでも勝利すればいい、みたいになっているでしょう。でも計算だけが生きて、人間が死んでしまったら元も子もない。だって自分の人生を楽しめるかどうかだからね、計算で果たして豊かに生きられるのかなって。(202頁)

今、「少子高齢化」というのが問題になっているのか、問題にしているふりをしているのか、いずれにしてもよく見かける言葉になって久しい。赤瀬川が言うところの「脳化」とか「計算」ということに徹すれば、他人と世帯を共にして暮らすとか、ましてや子供を作って育てるなんてことはリスクばかりが大きくて「コスパ」が悪いに決まっている。人生に「正解」があるとして、それが「計算」によって導き出される類のものであるならば、結婚などせず、まして子供など持たず、「アプリ」か何かでやりたいときにやって、その時々の目先の最適解を積み重ねるという行動を取るのが必然であろう。一方で、医学は生命を救うのが目的なので、その目的に向かって日々進化する。また、福祉は現代社会の当然の善なので、政治や行政は人々がその医学の恩恵を享受できるような仕組みを作る。当然、平均余命は長くなる。「少子高齢化」を解決しようと、保育園を増やしたり男女雇用機会の均等化を制度化したり、家事の外部化を図ったりしても一向に「成果」が現れないのは、これまた当然だ。「少子高齢化」は世の中の深いところの潮流の当然の帰結なのだから。

ついでに、近頃「サステナブル」ということが喧しく言われる。社会を支える情報化の道具類の寿命とか「サステナビリティ」については話題にならない。ほぼ一人一台所有するに至っている携帯情報端末は、売る側は2年程度での買い替えを目論み、買う側も、中には抵抗を試みる向きもあるが、それでも10年以上使うことはあるまい。数年のサイクルで機種を買い替えたことで生活の劇的な変化はあるだろうか。実態に特段の変化をもたらさないものに多大の資源が投入され、消費されている。もちろん、何を「変化」と感じるかは人それぞれだが、電話やテレビが一家に一台の時代から一人一台の時代になって、少なくとも人間が賢くなったとは思えない。ガソリンではなく電気で車を走らせるとか、無料だったサービスを有料にするとか、変化自体は世の中の所得獲得機会を提供する。その意味で社会に活力を与える。しかし、それが社会のありようとして生活者にとって好ましいかどうかは別の問題だ。

人間は社会を形成して生きる動物だ。社会には「正義」の大義名分が必要不可欠でもある。当然にその社会の規範は遵守され安心安全な生活が実現しないといけない。しかし、個人にとって社会が全てなのだろうか。個人の感じる豊かさとか満足があって、その実現のための調整執行機関として社会があるのではないか。そのあたりのことはもっと話題になってもいいと思うのだが、「世論」とか「理想」とかを問うはずのマスコミが機能不全に陥って久しく、政治も行政も「公」よりは「私」のほうにより強い関心を抱いているようだし、社会はいよいよ総徘徊総迷走時代に向かっているようにしか見えない。

余談だが、公務員が感染症対策の給付金詐欺で逮捕、起訴されたという事案がある。給付金を管轄する役所に勤務していた人たちが犯人なので、本人たちは受給の方法の事例を身をもって示したつもりだったという可能性もなくはないだろう。人の発想は所属する社会や組織の風土を反映するものだ。世の中は、迷走どころかお祭り騒ぎの時代に向かっているのかもしれない。

 抗菌グッズで解決するかというと、それは免疫力低下で更によたよたになるという現実がある。民主主義というのにルビを振ると、キレイゴト、となる場合が多いんですね。そのキレイゴトをぎゅうぎゅう詰め込んだお陰で、いまの子供たちはナイフ片手にふにゃふにゃしている。(126頁)

一人一台の情報通信端末を手にして誰もが気軽に世界に向けて意見を表明できる時代になった。マスコミはただの看板屋で、面白おかしく綺麗事を並べるだけの商売になった。それで商売を続けることができると思う方がどうかしている。

あーあ、世の中のグレードは落ちたなあ、と中古カメラは思う。
 中古カメラはたしかに中古だ。ボディにギックリ腰の過去があったりして、レンズも多少白内障の傾向が出ている。シャッターもちょっと粘って、一秒のスローシャッターが一秒半くらいかかったりする。場合によっては二秒かかって、途中で止まってしまったりもする。
 でもそれは休み過ぎているからだ。体を使わないでいたから、シャッターのグリスが固まってきて、それで動きが鈍る。
 グリス交換をすれば簡単に正常値で動きはじめる。町には老人力を扱う中古カメラの修理屋さんが、探せばたくさんあるわけで、シャッターの粘りぐらいはちゃんと直してくれる。
 そうじゃなくても、始終体を動かして、働いていればいいんだ。いつも坂道を登っている老人は、九十歳になっても坂道を登る。だからシャッターが粘っていたら、その日からでいいから毎日シャッターを切る。もちろんいちいち高いフィルムを入れなくても空シャッターでいい。労働ではなくストレッチみたいなものだ。毎日空シャッターで動かしていれば、粘っていたシャッターでも二秒だったのが一秒半くらいになり、そのうちにきっちり一秒で切れるようになる。
 修理屋さんに聞いたことだが、プロがしょっちゅう使っているライカは、もう何年とオーバーホールをせずにグリスがほとんど消失していても、レンズのヘリコイドなどはすいすいと動くそうだ。
(略)
 人間も同じことで、何年もお楽にしているとロクなことはない。一秒のシャッターが五秒かかるなんてなかなか老人力でいいじゃないかといっても、それでシャッターが切れなければどうしようもない。
(110-111頁)

 一般に世の中の感覚のグレードというのが落ちているんじゃないだろうか。
 ひところプリクラというのが流行りましたね。いまもつづいているのかどうか、とにかくあの粗悪な映像の拡大版である。プリクラの方は映像うんぬんよりも、男女が顔を接近するのが目的だから、映像のグレードはどうでもいいのだろうが、でもあんなものの流行を見て、人々の美意識というか、美感というのはずいぶんいいかげんになってるんだなと思った。
 たしかにいつもコンビニのおにぎりやハンバーガーしか食べていなければ、まあ味はどうでもいいという感覚になるだろう。これは貧富の差とかそういう問題とは違う。
(336頁)

なんだか話が通じなくなっているなと思うことが多い。いや、多くはない。そもそも人と話をする機会があまりない。それでも、会話ではなしに他人の話を聞いたり読んだりするなかで、引っ掛かることが多くなったと感じている。さすがに自分は「世の中のグレードが落ちた」と言えるほどの人間ではないのだが、「グレード」と呼ぶかどうかは別にして、「大丈夫か」と心配になることは増えた。

「口コミ」というのは昔からあったが、今はネット上で話題になるとすぐに人が集まって、そして多くの場合、すぐに熱が冷める。世間の話題を自ら確かめてみようという気になることに何の不思議もないのだが、尋常とは思えない買い漁りのようなことが起こったり、その店の営業に支障が出るほどの客が短期間に集まるというのは何故だろうか。それが飲食店なら、味覚の好奇心というよりは話題になっていることを体験していることの安心感とか自身の存在証明である場合が少なくないようだ。ただ写真を撮って、殆ど手をつけずに残して去っていくというケースも間々あるらしい。ネット上のページビューの数字が興味の対象であって、それを集めることでしか存在を確認できないというようなことになっているのだろうか。

しかし、そういうことを責めることはできないと思う。生活のあらゆることが数値化されて評価を受ける現実の中で、評価の対象よりも評価の数字の方に関心が偏るのは自然なことだろう。幼年時代、学校では成績というデータ、受験は志よりも偏差値に象徴される自分の位置でほぼ決まり、新卒の就職も一応面接はあるものの実態としては妙な形式のデータで振り分けられる。就職した後は年収だとか所得といった数字が、その人の「信用」としてついて回る。そうした流れのようなものに乗ってしまうと、実体の無い数字が実体だと思い込んで囚われてしまう。囚われて不幸なことになるのは当然だろう。

本能としての生存欲のようなものに従って、その数字だけを頼りに自分で妄想した「社会」とか「世間」の座標上に自分を位置付けて一喜一憂する。妄想の座標であり、「社会」なので、そもそも実体が無く、自分を位置付ける場所を見出せずに自沈する者もいる。妄想するのは勝手だが、まずは己の手足を動かして様々な生活の現場を実感しないことには己を否定する妄想から抜け出ることなどできるはずがない。

電池が切れたので動かない。ソフトが古くなったので動かない。ナントカが無いから動かない。そんな今時の生活の道具と同じように、些細なことで動けなくなってしまう人が多くなった気がする。老人になる以前に生存不適になってしまっているかのようだ。


ありがとう 2021年後編

2021年12月31日 | Weblog

今年参詣した神社仏閣など
1 寒川神社(神奈川県高座郡寒川町宮山)
2 神田明神(東京都千代田区外神田)
3 高麗神社(埼玉県日高市新堀)
4 高麗山聖天院(埼玉県日高市新堀)
5 布多天神社(東京都調布市調布ヶ丘)
6 医王山長楽院常性寺(東京都調布市国領町)
7 虎狛山日光院祇園寺(東京都調布市佐須町)
8 天台宗別格本山浮岳山昌楽院深大寺(東京都調布市深大寺元町)
9 経栄山題経寺(柴又帝釈天、帝釈天題経寺)(東京都葛飾区柴又)
10 五智山遍照院總持寺 西新井大師(東京都足立区西新井)
11 妙義神社(東京都豊島区駒込)
12 高田總鎭守氷川神社(東京都豊島区高田)
13 法相宗大本山 興福寺(奈良県奈良市登大路町)
14 春日大社(奈良県奈良市春日野町)
15 高円山白毫寺(奈良県奈良市白毫寺町)
16 高野山 奥の院(和歌山県伊都郡高野町高野山)
17 高野山 総本山 金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町高野山)
18 高野山 壇上伽藍(和歌山県伊都郡高野町高野山)
19 小田原山浄瑠璃寺(京都府木津川市加茂町西小札場)
20 真言律宗高雄山岩船寺(京都府木津川市加茂町岩船上ノ門)
21 忍辱山円成寺(奈良県奈良市忍辱山町)
22 石上神宮(奈良県天理市布留町)
23 菩提山龍華寿院大本山正暦寺(奈良県奈良市菩提山町)
24 霊園山聖林寺(奈良県桜井市下)
25 安倍山安倍文殊院(奈良県桜井市阿部)
26 大神神社境外摂社 率川坐大神御子神社(奈良県奈良市本子守町)
27 朝日山平等院(京都府宇治市宇治蓮華)
28 八幡山真言宗総本山教王護国寺東寺(京都府京都市南区九条町)
29 南命山無量寿院善光寺(東京都港区北青山)
30 医王山東光院真性寺(東京都豊島区巣鴨)
31 萬頂山高岩寺(東京都豊島区巣鴨)
32 穴八幡宮(東京都新宿区西早稲田)
33 光松山放生寺(東京都新宿区西早稲田)


今年訪れた美術展、美術館、博物館など
1 「国宝の名刀「日向正宗」と武将の美」三井記念美術館
2 「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」東京都現代美術館
3 「美を結ぶ。ひらく。 美の交流が生んだ6つの物語」サントリー美術館
4 「没後30年記念 笠松紫浪 最後の新版画」太田記念美術館
5 「写真家 ドアノー/音楽/パリ」Bunkamura ザ・ミュージアム
6 「狩野派と土佐派 幕府・宮廷の絵師たち」根津美術館
7 「第61回 日本南画院展覧会」国立新美術館
8 「南薫三 まさに、ニッポンの印象派」東京ステーションギャラリー
9 「あやしい絵展」東京国立近代美術館
10 「第61回 東日本伝統工芸展」日本橋三越本店
11 「電線絵画展 小林清親から山口晃まで」練馬区立美術館
12 「特別展 国宝鳥獣戯画のすべて」東京国立博物館
13 高麗郷 古民家(旧新井家住宅)埼玉県日高市
14 「コレクター福富太郎の眼」東京ステーションギャラリー
15 「日本民藝館改修記念 名品展I」日本民藝館
16 「ミネアポリス美術館 日本絵画の名品」サントリー美術館
17 「茶入と茶碗 「大正名器鑑」の世界」根津美術館
18 「江戸の天気」太田記念美術館
19 「三菱の至宝展」三菱一号館美術館
20 「STEPS AHEAD」アーティゾン美術館
21 「聖徳太子1400年遠忌記念特別展 聖徳太子と法隆寺」東京国立博物館
22 「聖林寺十一面観音」「イスラーム王朝とムスリムの世界」東京国立博物館
23 「ざわつく日本美術」サントリー美術館
24 「まるごと馬場のぼる展」練馬区立美術館
25 「第68回日本伝統工芸展」三越日本橋本店
26 東京長浜観音堂
27 「まいにちぷりん 飯田哲夫個展」The Artcomplex Center of Tokyo
28 「はじめての古美術鑑賞 人をえがく」根津美術館
29 「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」東京ステーションギャラリー
30 「刀剣 もののふの心」サントリー美術館
31 「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」SOMPO美術館
32 「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」東京ステーションギャラリー
33 「ブダペスト国立工芸美術館名品展」パナソニック汐留美術館
34 「和田誠展」東京オペラシティ アートギャラリー
35 「最澄と天台宗のすべて」東京国立博物館
36 「鈴木其一・夏秋渓流図屏風」根津美術館
37 「第八十回 虎屋文庫資料展 和菓子で楽しむ錦絵展」虎屋赤阪ギャラリー
38 岡本太郎記念館
39 「M式「海の幸」森村泰昌」「印象派 画家たちの友情物語」「挿絵本にみる20世紀フランスとワイン」アーティゾン美術館
40 「アジアのうつわわーるど」五島美術館
41 総合文化展 東京国立博物館
42 「民藝の100年 柳宗悦没後60年記念展」東京国立近代美術館


今年聴講した講座、講演、各種見学、参加したワークショップなど(敬称略、陶芸関係は除く)
1 古川日出男「おれは茸になるのだ」ふるさと福島360キロ 魂の徒歩を語る ほぼ日の學校

2 朝倉敏夫 国立民族学博物館名誉教授 「食を学問にする」 第511回 国立民族学博物館友の会講演会(web聴講)

3 岡田恵美 国立民族学博物館 人類基礎理論研究部 「アジア鍵盤楽器考 楽器の受容にみるグローカリゼーション」 第512回 国立民族学博物館友の会講演会(web聴講)

4 三尾稔 国立民族学博物館教授 「女神となった疫病 インドの天然痘女神信仰」 第513回 国立民族学博物館友の会講演会(web聴講)

5 末森薫 国立民族学博物館人類基礎理論研究部 助教「河西回廊の石窟寺院の美術」 第514回 国立民族学博物館友の会講演会(web聴講)

6 白川 千尋 大阪大学大学院人間科学研究科 教授「呪術を理解する―ヴァヌアツの邪術をめぐって」第515回国立民族学博物館友の会講演会

7 黒田賢治 国立民族学博物館現代中東地域研究拠点 特任助教「金曜日には墓地で会いましょう イランにおける死の多義性と「英霊」」第516回 国立民族学博物館友の会講演会

8 山本清龍 東京大学大学院農学生命科学研究科 准教授・広瀬浩二郎 国立民族学博物館 准教授「なぜさわるのか、どうさわるのか 触察の新展開をめざして」 第129回 国立民族学博物館友の会 東京講演会(日本点字図書館)


今年訪れた飲食店(単身利用は除く、また、記載に値しないと思われたところも除外)
1 寒川神社参集殿 レストラン あおば(神奈川県高座郡寒川町宮山)
2 ビストロ キフキフ(東京都港区高輪)
3 京王プラザホテル 南園(東京都新宿区西新宿)
4 ふくい望洋楼(東京都港区南青山)
5 すし源(埼玉県戸田市本町)
6 つるとかめ(東京都中央区銀座)
7 韻松亭(東京都台東区上野公園)
8 Café 風(埼玉県日高市新堀)
9 深大寺そば処 元祖嶋田家(東京都調布市深大寺元町)
10 日曜庵(東京都葛飾区柴又)
11 TORAYA TOKYO(東京都千代田区丸の内)
12 てんぷら山の上 Roppongi(東京都港区赤坂)
13 YOKU MOKU BLUE BRICK LOUNGE(東京都港区南青山)
14 中国家庭料理 青菜(東京都千代田区丸の内)
15 アーティゾン美術館 ミュージアムカフェ(東京都中央区京橋)
16 ホテルメトロポリタン キュイジーヌ エスト(東京都豊島区西池袋)
17 青のこと(東京都調布市布田)
18 奈良うどん ふく徳(奈良県奈良市高畑町)
19 南山料理 いけだ(和歌山県伊都郡高野町高野山)
20 御食事処 里(奈良県奈良市忍辱山町)
21 東京蕎麦 総本家 小松庵 丸の内オアゾ店(東京都千代田区丸の内)
22 京王プラザホテル かがり(東京都新宿区西新宿)
23 京王プラザホテル 樹林(東京都新宿区西新宿)
24 とんかつ矢場とん グランルーフ店(東京都千代田区丸の内)
25 タイ レストラン オーキッドキッチン(東京都調布市布田)


今年贈答品に利用した店
1 有限会社 西出水産(和歌山県和歌山市雑賀崎)
2 Lady Bear NEWoMan新宿店(東京都渋谷区千駄ヶ谷)
3 とらや 新宿伊勢丹売店(東京都新宿区新宿)
4 塩瀬総本家 京王新宿店(東京都新宿区西新宿)
5 TORAYA TOKYO(東京都千代田区丸の内)
6 食の國 福井館(東京都中央区銀座)


今年利用した宿泊施設
NIPPONIA HOTEL 奈良 ならまち(奈良県奈良市西城戸町)


いずれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に感謝申し上げます。前年に引き続いて感染症の世界的流行に伴う様々な混乱等があり、ここに挙げた施設のなかには本日時点で営業を終了しているところもあります。しかし、縁というものは思わぬところでつながっているものです。またどこかでなにかの形でお世話になるでしょう。どうぞよろしくお願いいたします。


ありがとう 2021年前編

2021年12月31日 | Weblog

今年読んだ本
1  『文選 詩篇』(一)(二) 岩波文庫
2  宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書
3  土井善晴・中島岳志『料理と利他』ミシマ社
4  小堀鷗一郎『死を生きた人びと』みすず書房
5  関敬吾『民話』岩波新書
6  近藤義郎『前方後円墳の時代』岩波文庫
7  C.アウエハント著 小松和彦・中沢新一・飯島吉晴・古家信平 訳『鯰絵 民俗的想像力の世界』岩波文庫
8  南伸坊・糸井重里『黄昏』東京糸井重里事務所
9  揖斐高 編訳『江戸漢詩選』(上)(下) 岩波文庫
10  C.N.パーキンソン著 森永晴彦訳『パーキンソンの法則』至誠堂選書
11  鈴木大拙『禅の思想』岩波文庫
12  『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』夏葉社
13  三品輝起『すべての雑貨』夏葉社
14  高浜虚子『俳句はかく解しかく味う』岩波文庫
15  新潟県立歴史博物館監修『見るだけで楽しめる! まじないの文化史 日本の呪術を読み解く』河出書房新社
16  古賀史健『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』ダイヤモンド社
17  ルソー著 今野一雄訳『エミール』(上)(中)(下) 岩波文庫
18  梯久美子『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』新潮文庫
19  犬養孝『万葉の旅 上 大和』平凡社
20  『水 18人の水 答えは水の中』 第三セクター四万十ドラマ
21  『SHOKUNIN 職人・菅野敬一の生き方』 文:髙久多美男 写真:森日出夫 ジャパニスト出版
22  『後拾遺和歌集』久保田淳・平田喜信 校注 岩波文庫
23  関口良雄『昔日の客』夏葉社
24  『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』求龍堂
25  小菅宏『小松政夫 遺言』青志社
26  内田百閒『大貧帳』中公文庫
27  真鍋真『深読み!絵本『せいめいのれきし』』岩波書店
28  内田百閒『東京焼盡』中公文庫
29  内田百閒『百鬼園 戦後日記』(I)(II)(III) 中公文庫
30  内田百閒『追懐の筆 百鬼園追悼文集』中公文庫
31  内田百閒『東京日記 他六篇』岩波文庫
32  内田百閒『冥途・旅順入城式』岩波文庫
33  内田百閒『第一阿房列車』新潮文庫
34  内田百閒『第二阿房列車』新潮文庫
35  内田百閒『第三阿房列車』新潮文庫
36  内田百閒『ノラや』中公文庫
37  内田百閒『百鬼園随筆』新潮文庫
38  内田百閒『立腹帖』ちくま文庫
39  内田百閒『御馳走帖』中公文庫


購読中の定期刊行物、サブスクリプション
1  月刊『みんぱく』 国立民族学博物館
2  季刊『民族学』 千里文化財団
3  年3回刊『青花』 新潮社
4  月刊『角川 短歌』 角川文化振興財団
5  『ほぼ日の學校』 ほぼ日
6  年刊『KUKAI』高野山真言宗総本山金剛峯寺

今年観た映画など
1 『すばらしき世界』監督:西川美和
2 『ウィスキー』DVD

今年聴いた落語会・演劇・ライブなど
なし