熊本熊的日常

日常生活についての雑記

念ずれば通ず

2008年01月30日 | Weblog
勤めから帰ると、珍しく日本から郵便が届いていた。不思議なことに、切手が貼ってない。「航空」という郵便局に置いてあるシールが貼ってあるので、郵便局の窓口で投函したのだろう。局員が切手を貼り忘れたのだろうか。宛名が大きな文字で書かれ、その上、「こわれもの」という大型のシールも貼ってあり、切手を貼ることができそうな場所が限られている。あるいは本当に郵便料金を払わずに投函したのだろうか? いずれにしても、長野県諏訪市からロンドンまで無事に届いている。念ずれば届く、ものなのだろうか。

送り主は大学時代、卒業旅行で知り合った人だ。このブログにも載せてあるが、1985年2月から3月にかけてインドに遊びに行った。その時、行き帰りのフライトが一緒だった人である。その後、時々、都内のインド料理屋で食事をする程度の間柄なのだが、出会いから23年も経つのに年賀状の往来は絶えたことがなく、今、こうして日本から演歌のCDを送ってきたりすのである。彼と最後に会ったのは、まだ新宿の伊勢丹本店に「伊勢丹美術館」というものがあった頃、そこで開催された「ユトリロ展(?)」を一緒に見た時だったろうか。

届いた包みを開けると、すぎもとまさとの「吾亦紅」が入っていた。なかなか身につまされる歌詞だった。

手紙を書きながら自戒する

2008年01月27日 | Weblog
「月をさす指は月ではない」という。禅の言葉で、覚りを語る言葉を覚りだと思ってはいけない、という意味だそうだ。言葉がなければ、物事を伝えることはできないが、言葉は伝えたいことそのものではない、ということでもある。

ひとつひとつの言葉の意味は、辞書にあるような通り一遍のものでしかない。しかし、それらがつながり合うと、ある言葉が伝える内容が、語り手と聞き手の組み合わせによって大きくも小さくもなる。言葉の背後にある、語り手と聞き手の経験や考えの奥行が言葉のなかに織り込まれるためだろう。

経験は、体験とは違う。「経験を積む」という言葉はあるが、「体験を積む」とは言わない。経験は、人生の上での出来事のことではなく、その出来事を体験した結果として何事かを了解することだ。物事を了解するには、それを受け容れる下地が必要だ。例えば、ジグソーパズルのピースがひとつ与えられた時、それがはまる場所がないと、そのピースは意味を成さない。ところが、ある程度ピースが埋まっていると、その新たなピースによって物事が明確になったり、全く別のものが見えてきたりする。下地の無い人間は、どのような言葉を与えても、それを了解することができないのである。

物事は常に変化している。新しい経験を積んで下地を常に整えておかないと、その下地が役に立たなくなってしまう。ここがジグソーパズルと人生の大きな違いである。毎日、どんなに小さな事でもいいから、何かひとつでも新しいことをやってみる、そんなことを心がけて生活をしてみたら楽しいかもしれない。

と、まぁ、こんな内容の手紙を子供の誕生日に書き送った。人と話をしていて、おもしろいと感じる相手とつまらないと感じる相手の違いが、この下地にあるのではないかと思う。子供は心身ともにこれから成長を続けるので、経験云々など意識しなくても、ある程度下地は形成されていくだろう。しかし、私の年代になるとそうはいかない。放っておくと、あっという間に下地は薄く狭くなってしまう。類は友を呼ぶ、という。日々、人と話をしていて、つまらない奴だと思う相手が多いとしたら、自分の下地が小さくなっていることを疑わなくてはいけない。本来なら年齢を重ねる毎に下地が広く厚くなり、事に触れて、そこに何か新しい事を見出し、日々の生活は楽しい驚きと了解に満ちるはずである。それが歳を取ることの面白さでもあろう。毎日の生活が面白くないとしたら、それは自分が成すべき最低限の努力を怠っているということだ。子供に手紙を書きながら、自戒した次第である。

試験に落ちる

2008年01月21日 | Weblog
仕事上の資格試験があり、今日の午前中に受験してきた。結果は不合格。受験してすぐに結果が判明する。点数も表示されるが、半分強しか正解していない。それなりに準備をして臨んだので、少しがっかりする。

この試験を受けること自体は、現在の仕事に就く以前から承知していたことだが、受験登録に時間がかかり、登録完了の連絡を受けたのが12月14日であった。試験日がいつになるか、そもそも受験できるのかどうかもわからないものの準備など、やる気が起きない。多少はテキストを開いてはいたものの、本格的な試験準備を始めたのは、試験の日程が決まってからである。

翌15日、試験を申し込み、2科目あるので、ひとつを今日、もうひとつを来週月曜に受験することにした。以来、受験生の日々である。仕事から帰ってから、家事を済ませ、毎日1~2時間ほどテキストに向かう。決して楽しいことではないので、集中できず、実質的な勉強時間はもっと短いかもしれない。初めは暗澹たる思いに沈んだ。試験申し込みの時期が冬至の頃という所為もあったかもしれない。しかし、勉強が進むにつれ少しずつ自信も出て、気分も軽くなってきた。試験の時期は1週間前倒しでも良かったかもしれないと思ったほどだ。

落ちてはいけない試験を受けるのは大学受験以来だろうか。大学受験や高校受験なら、複数の学校を受験するので、少なくともどれか一つに合格すればよい。今回の試験も、また後日に受験しなおすことができるので、同じようなものと言えなくもない。しかし、これに合格しなければ、いつまでも気分が晴れない。

そして、今日を迎えた。前日の夜は普通に睡眠をとったが、朝から徐々に緊張感が増し、試験場でパソコンの前に座ったあたりから心臓がばくばくし始め、マウスを握る手のひらが汗に濡れた。問題は、見た事も無いというほどのものではないのだが、最初の15分程は心乱れていた。時間的には、所定の時間よりもかなり余裕を持って最後の問題まで到達できたのだが、正解していなければ意味がない。

反省点としては、押さえるべき要点が微妙にずれていたことである。直前の1週間はテキスト巻末の問題演習に集中したが、その前に、テキスト本文を一通りおさらいしておくべきだったと思う。特に、各項目の骨子と例外規定はきちんと把握しておくべきだった。

さて、来週は残りの科目の試験である。これはきちんと押さえておかないと後が苦しくなる。今週も受験生の日々だ。

或る反省

2008年01月17日 | Weblog
昨日、東京の上司に来週月曜に休暇を取る旨の連絡をした。休暇の理由は、ひとつは資格試験の受験のため、もうひとつは、人生に疲れたため、としておいた。冗談のつもりで、そう書いたのだが、まるっきり嘘というわけでもない。

今日、出社してメールを開けると、上司から「一体何があったんだ。大丈夫か」という感じのメールが届いていた。普段、用があってメールを出しても、余程の事が無い限り、返事をよこさない人なので、返事が来たこととその文面に、私も少し動揺してしまった。「あれは冗談で」とは言いづらくなってしまったので、「大丈夫です」とだけ答えておいた。

普段行き来が無い相手との意思疎通というのは、やはり無難にまとめておくにこしたことはないと思った。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年01月07日 | Weblog

今週から3学期ですね。健康に気をつけて、学業に励んでください。

先週は、元旦が休日であった以外は普通の一週間でした。東京が木曜まで休みだったので、新規の仕事が殆どなく、年末に滞留していた作業の消化で、ごく通常の仕事量をこなしました。

木曜日に蒸し器(鍋の中に置いて使う台のようなもの)を買い、週末に中華まんじゅうと蒸し餃子、湯葉巻きの加熱に使ってみました。調理方法に蒸すという選択肢が増えただけで、料理の可能性が大きく広がったような気がします。まんじゅうや餃子のような半調理品を買うのは久しぶりですが、まんじゅうは
仕方ないにしても、餃子は、やはり自分で作ったものに比べると食べた時の満足感のようなものが足りない気がしました。おそらく、味は半調理品のほうがおいしいでしょう。でも、料理は単に旨い不味いだけではないように思います。

料理だけでなく、すべてのものに、作り手の想いや気迫のようなものが込められていると思います。その想いの重さが消費者に、意識されるとされざるとを問わず、伝わるのだと思います。それは、なにも料理のような個人的なものだけではなく、工業製品にも言えることでしょう。消費者に伝えたいものがあっ
て作られるものは、自ずと存在感があるように感じられます。文章も然りです。論語に「巧言令色鮮矣仁」という言葉がありますが、言葉の背後にある意志が、伝わる相手には伝わるものです。

小林秀雄が友人である今日出海との対談のなかでこんなことを言っています。
「自己を紛失するから空虚なお喋りしかできないエゴイストが増えるのだ。自分が充実していれば、なにも特に自分のことを考えることはない。自分が充実していれば無私になるでしょう。それは当たり前な事でしょう。それが逆になっている。手前が全然ないから他人に見放されると不安になるでしょう。だか
ら画家が売り絵を描くのも、文士が売り原稿を書くのも、みんな、あれは不安なんですよ。ただ金のためじゃないと思うね。寂しい人ですよ。僕はそう思っている。」

私は、日常生活を通じて小林の言う「自己」というものを充実させたいと思うのです。料理も掃除も仕事も、ひとつひとつは何ということもないことですが、そこに自分というものを見出したいと思うのです。なかなか具体的にどうこうと説明できることではないのですが、生活の所作から仕事の選択、対人関係の選択に至るまで、全ては自己の表現です。だから、そうしたひとつひとつのことに、まずは注意を払い、次に変えるべきところは変えていき、自分のありたい姿というものを模索していきたいと考えています。

では、また来週。


中華まん

2008年01月05日 | Weblog
蒸し器を買った。鍋の中に置いて使う台のようなものである。蒸すという調理ができるようになったので、早速、近所の中華食材店へ行き、冷凍の中華まんを買って来た。日本のコンビニやスーパーで売っている中華まんもおいしいけれど、この食材店の商品は業務用なので、味がさすがに本格的である。蒸すというのは、蒸気で食材を加熱するだけのことだが、それだけにそのもの本来の混じりけのない味が堪能できる。手をかけることで引き立つものもあれば、そのもの本来の姿を楽しみたいものもある。どちらが良いということではなく、どちらもそれぞれに美味しい。

残務処理

2008年01月04日 | Weblog
いまだに日本でやり残した事務作業がある。今日は、或るクレジットカードの住所変更に関するやりとりである。住所変更とか海外転出の手続きは、どの会社も同じ要領だろうと思っていたのだが、実際には会社によって対応が違う。今日で一番面倒なところの手続きが終わったので、たぶん、一件落着。

今ごろクリスマス

2008年01月03日 | Weblog
昨年12月13日の消印があるクリスマスカードが日本から届いた。中にびっちりと文章が書かれている所為で遅れたわけではないだろうが、読み応えがあった。いろいろ質問も書かれていたので、それをひとつひとつ調べて、手紙に書いて送り返した。やはり、メールより手紙のほうが心に響くものがあっていい。

盆も正月もなく

2008年01月02日 | Weblog
日本は松の内で、正月らしい雰囲気なのだろうが、こちらはもう通常と変わらない。基本的にこちらのカレンダーに合わせて勤務するので、今日は平常通りの勤務である。しかし、東京で作業が発生しない限り、出勤してもやることがない。よくしたもので、正月でも東京で出勤している人がいた。よく働くと感心してみるが、わざわざ正月に出勤してやるほどの内容のある仕事ではない。よほど仕事が好きなのか、家にいられない理由があるのか、単なる習慣か。家にいたくない、というのは心情として理解できる。私も昨年まではそうだったから。

年賀の挨拶

2008年01月01日 | Weblog
あけましておめでとうございます

期せずして、隙間風が吹き込むロンドンの庵で新年を迎えました。

人生の折り返しを過ぎ、残りの時間は楽しく過ごすことに決めております。昨年は長年苦痛の種であった私生活の障害を解消しました。今年は、2001年以来、不本意な状況が続いている仕事を、望ましい状況に変えようと考えております。

2001年というのは、所謂「ITバブル」が崩壊した年でもあり、9.11テロの年でもあります。表向きはテロによる予期せぬ巨額の保険金支払が発生したことを機に当時の勤務先が大規模なリストラを実施することになりました。その結果、同年末近くに職を失いました。緊急避難的に就職した先は、世間での評判が芳しくなく、そこで働くことは「君の人生の汚点」とまで言われ、そうした友人知人諸先輩の助言に従い、なんとかまっとうな勤め先を探して就職しました。そこはなかなか居心地の良い職場だったのですが、昨年、私生活の苦痛解消のため、諸々の事情から緊急避難的に現在の職場に移りました。

抱えている問題を、ひとつひとつ解決していこうとすると、当面の最大の課題は、自分が楽しいと思えることを仕事にすることです。小林秀雄の対談のなかにも「仕事が楽しみじゃなくて、一体仕事とは何だい」という小林の言葉があり、思わずその対談を最初に戻って読み直してしまいました。それは自分と改めて向き合うという作業でもあるので、今年の課題というより、もう少し長い時間を要することになるかもしれません。

末筆ながら、新しい年が皆様にとって良い年となるようお祈り申し上げます。