熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「キンキー・ブーツ」

2006年09月07日 | Weblog
楽しい作品だった。イギリス映画には独特のユーモアのセンスと逆境にめげないことに価値を見出す性向があるように思う。この作品は倒産寸前の靴工場を独創的なアイディアと地道な努力で再生するという物語なのだが、今、思いつくだけでも「フル・モンティ」や「リトル・ダンサー」など信じた道をひた走るタイプの再生物語が目立つような気がする。

この作品の良いところは、観終わった後に希望が残ることである。登場人物はそれぞれに自分のあり方について深刻に悩んでいる。父親の突然の死で家業の靴工場を継ぐことになった主人公チャーリーは、工場の経営に自信がない。工場の従業員から受け入れられず、その上、経営難で人員削減もしなければならない。婚約者との間にも不協和音が響いている。どこにも居場所が無いのである。そのチャーリーが靴のニッチ市場として男性向け女性靴に注目するきっかけを与えたカリスマドラッグクイーンのローラは、勿論、男性であることの心地悪さと、世間からの差別に苛まれている。この2人が協力してオカマ向けの靴やブーツを作り出し、ミラノの権威ある展示会で注目を浴びるのである。これを機に、チャーリーの工場は業績改善へ向かい、ローラも自信を持つようになる。

チャーリーと婚約者ニコラとの関係も興味深い。ニコラは所謂キャリア女性のステレオタイプとして描かれている。仕事で順調にポジションを上げ、それとともに田舎で父親から継いだ靴工場の経営に苦悩するチャーリーに対する気持ちが薄れていく。結局、2人はそれぞれに新しいパートナーを見出すことになる。人間関係は、自分自身に対する認識の問題でもある。どのような人間とどのような関係を構築するかということは、自己表現でもあると思う。そして、自己というものは、勿論、生まれながらに持っている性向もあろうが、環境や経験によって変化を続けるのである。変化し続ける者どうしが良好な関係を維持するには、互いに相手を理解しようとする意志と理解できる能力が不可欠である。今、理解不可能なものは、時間が経てば理解できるようになるのかもしれないし、一層理解困難になるのかもしれない。不可解なものとの関係は不愉快なだけであり、その先には決裂しかない。ニコラが昇進してロンドン勤務になったことと、チャーリーが家業を継ぐためにノースハンプトンに戻ることになったことが時を同じくして起こったことは、ふたりのあり方が相容れない変化を重ねてきたことの象徴のように見えた。

一方、チャーリーと彼が一旦は解雇を申し渡したローレンとの関係は対照的である。ニコラが何よりも自分の人生のイメージのようなものに拘泥しているのに対し、ローレンは母性的視点でチャーリーに接している。チャーリーに対する言説は時に批判的だが建設的である。一方がキャリア女性で、もう一方が工場の事務員という違いあり、ローレンの場合は自身の人生に対するイメージがニコラのそれに比べると柔軟であり、それが結果として相手に対する許容度を大きなものにしているのかもしれない。家業の再建にひたむきに取り組むチャーリーの姿にローレンは惹かれるものを感じるようになり、チャーリーのなかでも彼に要所要所で助言を与えるローレンの存在感は大きくなる。ふたりの関係が親密になるのは予見可能と言える。

この作品では、ほかにもいくつかの危機とそこからの再生の物語が組み合わされており、それらの方向性が一致しているので、全体としての心地よいまとまりが感じられる。登場人物のキャラクターとか、個々の事件は突飛なものであっても、全体の物語の流れとそこに込められた一生懸命に何事かに取り組む姿勢への讃歌のようなものが観る者に好印象を与えていると思う。

「トランスアメリカ」

2006年09月05日 | Weblog
同性愛や性同一障害をテーマにした映画は少なくない。そのような作品だけを集めた映画祭も東京をはじめとして世界各地で開催されている。それほどこのテーマは多くの人々の関心を引くものなのである。しかし、私にはよくわからない。個人の問題だと思うのだが、それが差別や政治の問題につながるとすれば厄介なことである。最近の同性愛を巡る動きには、それを政治に利用しようとする人々の気配が感じられ、いよいよ厄介なことになりそうな気もする。

さて、これは興味深い作品だった。性同一障害やDVといった要素を織り込みながら、親子という人間関係や自分らしく生きるということの意味を問うているような気がする。

社会には暗黙の掟が無数にあり、それらに従うことで、その構成員の心の安寧と社会そのものの秩序を守るということなのである。固定化された掟は、その意義を問われない、ということも掟のひとつである。そこに合理的な存在意義がないものほど、追求されることを嫌う。母性や父性、ジェンダーはそうした問われることのなかった掟の象徴なのである。

この世は無常である。世の中は変化しているのに掟が見直されないというのは不合理である。しかし、法律のように明文化されたものは変えることができるが、暗黙のものは変えようが無いのである。合理とか不合理とかを超越したものを問うことはそもそも意味を成さない。説明できないものは理解できないのである。ただ、受け容れることができるか否かだけが問われるのだ。

変えることのできない、あるいは変えることができるとしても緩慢にしかできないものに反して生きることは、窮屈なことである。その窮屈をいかに緩和するかというところに当事者の知恵が問われる。生きることは悩むことなのである。

この作品のなかの親子は、はじめはぎこちない。当然である。生まれてから一度も顔を合わせていないのである。しかも、父は性同一障害で性転換手術を間近に控え、息子は留置場から出て来たばかりである。しかし、ニューヨークからロサンゼルスまでの道中を共にする間に、人と人との情愛は、上辺のことに関係なく、心の深い部分で交わされるものであることが了解されるようになる。作品のなかの人々も、おそらく観ている人々も。

リコール

2006年09月03日 | Weblog
今使っているパソコンのバッテリーがリコールされることになった。これから4~8週間のうちに新しいバッテリーが送られてくるのだそうだ。「リコール」というから深刻な事態なのかと思ったが、問題箇所の交換に4~8週間もかかるのだから、火急の事態でもなさそうだ。ユーザーの安全というより、メーカーの保身、いや、リスク管理の問題なのだろう。

最近、リコール騒ぎが多いように感じられる。パソコン、温風ヒーター、湯沸かし器、自動車、原子力発電所のタービン、エレベーターなど、いくらでも思いつく。

こうした現状を踏まえて、高齢化に伴う基盤技術の継承断絶といった構造問題を指摘する声も聞かれる。確かに、製造現場で基盤技術や製造技術のなかのノウハウに属するような属人的要素が継承されにくくなっているという事情はあるだろう。しかし、製品そのものが本質的に変化していることは無視できないと思う。技術革新の進展で、我々が日常利用する機械類は日々精緻になり小型化している。たとえ動作のための基本原理が同じであるとしても、部材が精密化することによって、そこに要求される製造技術には以前とは異質の要素が入り込むことになる。すると、技術そのものが相変化を起こすのだろう。つまり、従来の延長線上で発想することが意味を成さない事態に至るのである。人間の視覚で認知可能で、人間の手先で加工できたものでも、サイズを小さくしていくと、視覚から消え、指先ではどうすることもできなくなる。それを手先で加工していた時のロジックで扱うことが意味を成さなくなるのである。

部品の「ブラックボックス化」ということが言われる。機械に不具合が発生した時、どの部材に問題があるかを特定することはできても、何が問題なのかがわからないということだ。ある部品と別の部品をつなげると動作するのに、同じ仕様の別の部品をつなげると動作しない。同じ仕様なのだから動作するはずなのに、動作しない。このような状態を指して「部品どうしの相性が悪い」などと言う。そう言われると、そういうものかと思ってしまうが、無機質の物に相性などあるはずがない。ようするに原因不明ということなのだ。

人生には理解不可能な事象が満ちあふれている。機械や道具のように自分の外部にあるものは、理解不可能であることが理解できる。しかし、感情とか関係のような自分の内部にあるものは、理解不可能であることすら理解できない。少なくとも、私には自分のことはよくわからない。しかし、これはリコールできない。困ったことである。