熊本熊的日常

日常生活についての雑記

伊勢参り

2016年09月30日 | Weblog

今年も興福寺の塔影能の時期を迎えた。昨年に続いて鑑賞させていただくことになり、その前後に休暇を取ってあちこち巡ることにした。まずは、奈良へ向かうのに少し迂回して伊勢神宮にお参りする。

伊勢神宮に参るのは2回目なのだが、前回が30年近くも前なので殆ど記憶にない。すでに社会人であったので、どこへどのようにして行ったとか、どこで食事をしたとか、具体的な記憶があってもよさそうなものなのだが、全く覚えていない。おそらく今以上に神信心に縁遠かった所為だろう。

なぜ伊勢神宮にお参りする気になったのかといえば、妻が行ってみたいと言ったのが最大の理由である。尤も、伏線としては一昨年に『神宮希林 わたしの神様』という映画を観たとか、式年遷宮で話題になった余韻があるとか、普段から神仏にかかわる展示を比較的頻繁に見て興味関心があるというような背景もある。

それで伊勢神宮だが、「内宮」と呼ばれる皇大神宮と「外宮」と呼ばれる豊受大神宮によって構成されていて、内宮の祭神は言わずと知れた天照大御神、外宮の祭神は豊受大御神だ。創建は内宮が垂仁天皇26年(紀元前4年)と日本では珍しい「紀元前」で、外宮でも雄略天皇22年(478)とたいへん古い。外宮と内宮の創建には500年近い開きがあるが、今となってはそんな差は感じられない。式年遷宮があるので、結局は同じ様子になってしまうというのが大きな要因だろうが、現在から見れば創建年の差などどうでもよいものなのかもしれない。

神宮の肝心なところは社ではなくて、その場そのものなのだろう。例えばそこにある石であったり、空気であったり、景色全体といったものがまるごと神そのものであって、社は象徴に過ぎない。そもそも神というものは人間ではないのだからその姿を具象化できるはずがないのである。後に他の宗教の影響などもあって神像が造られたりするようになるが、そこに人と同じような姿を写すのはそういうものしか想像できないから方便としてそうなっているのだろう。人は経験を超えて発想することはできないのである。そう考えると、方便であるはずの具象化に依存するのは、結局のところ自分という枠を出ることができないということでもある。嘘か真かわからないような物語を纏って奇怪なほどに飾り立てた具体物を後生大事にしている信心は、その拠って立つところが脆弱であることの証左でもある。なんでもない石ころ、その場の雰囲気空気、もっと言えば、なんでもない自分の日常を素朴に大事にする発想こそが本当の信心なのかもしれない。


読書月記 2016年9月

2016年09月29日 | Weblog

大栗博司 『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』幻冬舎新書

なぜこの本を入手したのか、今となってはわからない。Book Offで買ったので、送料対策で欲しい本と併せて買ったのだと思う。この本と一緒に買ったのが山下惣一の『農政棄民』と架神恭介の『仁義なきキリスト教史』。山下の本は米原の『すごい本』に紹介されていた『ザマミロ!』から始まった山下読破の流れで発注し、架神は妻のリクエスト。この本は『すごい本』ではないし、著者の大栗など聞いたこともない。しかし、ここにある。なぜだろう?

なにはともあれ、通勤の車中で読み通した。書いてあることはさっぱり理解できなかったが、それでも読了できたのは著者の文章力のおかげだろう。それにしても、物事の本当の原理原則というものは、理科とか文科というような上っ面の区別なしに貫徹しているものではないかと思う。なぜなら、人間も結局のところは物質であり、その思考や感情にしても脳内物質の運動の結果であろう。つまり、物理の根本が自然環境を含めての人間社会の原理である、ということになるのではないか。尤も、それがわかったからといって今更どうということもない。ただ、なんとなく楽しいではないか。

以下、備忘録:

重心の大切な性質は、外から力が働かないかぎりその位置が変わらないということです。(78頁)

相対論では光の速さに特別な意味があります。光の速さに近づくと、ニュートン力学では説明できない現象が起きます。(202頁)

物理学であれ化学であれ生物学であれ、自然科学の基礎には「因果律」があります。宇宙の現在の状態を知っていれば、自然法則によって未来に起こることはすべて原理的に予言できる。また過去の状態も、現在の状態から導き出すことができるという考え方です。これがベースになければ、科学は成り立ちません。(242頁)

 

飯田卓 『身をもって知る技法 マダガスカルの漁師に学ぶ』 臨川書店

みんぱくのフィールドワーク選書第8巻

文化人類学とは「身をもって他者を知る」学問なのだそうだ。凡そ「学問」は方法論や切り口こそ違いすれ、どのようなものも自分を知るためのものだと思う。他者は自分の裏側でもあるから、つまりは自分のことでもある。しかし、自分というものが確たる存在ではないのだから、それぞれの学問がそれぞれの性質に応じてあるていどの決めをすることになる。前提条件の設定ばかりが増えていくので、「ナントカ学」というものも増えていく。世の中が日に日に豊かになって目先の食い扶持をどうこうすることに汲々としなくても良いのなら、ナントカ学の増殖を文明の進歩と崇めてありがたく受け入れていけるのだろうが、そういう余裕がいつまで続くものなのだろうか。

ところで、本書を読んで特に興味を覚えたことは大まかに以下の2つのことだ。ひとつは他者との距離感の観察と分析。相手の行動に対して違和感を覚えたとき、その違和感の背景を考えることで相手との文化的な距離感が明らかになるというのである。距離感とその背景が把握できれば、その距離を小さくしたり大きくしたりすることが可能なはずだ。自分の理解に基づいて距離感を縮めることができれば、その背景に対する自分の観察と分析が正しかったことになり、そうでなければ別の観察なり分析なりを試みることになる。これは容易なことではないだろう。しかし、容易にできるなら学者や学問は不要ということでもある。もうひとつは金銭を伴わない価値の測り方についてだ。日本でいうところの「義理と人情」に近い感覚のような気がするのだが、相手が必要とするものを互いに融通しあう継続的関係のことを互酬的関係というのだそうだ。それに対し、金銭のような明快な尺度で個別の債権債務を等価交換として決済してしまうと、交換の関係は個別に完結してしまって継続的な関係にはならない。継続するのは互いに相手に対する負債意識があるからだというのである。なるほど価値を貨幣に換算することで特定の共同体を超えて取引ができるようになる。異なる貨幣間の交換レートの合意があれば、相手がどこのだれであろうと取引を完結させることができる。つまり、交換と人間関係を分離できるということでもある。それは現代の我々の社会だ。金さえあれば何でもできる、と言うとき、取引行為に人間関係を伴わないということを想定しているということなのである。

 

山田風太郎 『人間臨終図巻』全4巻 徳間文庫

この本の存在はずっと前から知ってはいた。そして、気になってもいた。しかし、なんとなく手にする機会を避けていた。コラージュのような構成が気に入らないということもあった。最近、何かで本書に言及したものをたまたま続けて目にして、やっぱり読んでみようかな、と思った次第。

素朴に面白かった。自分はどんなふうに死ぬのだろうか、という当然の疑問ももちろんあるのだが、こういうのは嫌だなぁとか、こんなふうに死ねたらいいなぁ、というようなかなり切実な面白さである。本書に取り上げられている人々に関して言えば、ざっくりとした傾向として、長命の人のほうが苦痛少なく逝くようだ。このブログにもしばしば「いつ死んでもおかしくない年齢」だと自分のことを書いているが、もう少しがんばらないと眠るように死ぬことのできる確率が上昇しないということになるのだろう。複雑な心境に陥った。

ここで取り上げられている人々の臨終の様子は、いろいろなところからの引用に近いものだが、誰を選ぶとかどういう臨終伝を書くかというとことは著者たる山田風太郎の判断なので、コラージュのようとはいいながらも確かに山田の作品だ。その山田の言葉がやはり面白い。

人間には、人を断罪することには情熱的だが、自分が断罪される可能性のあることには不感症な傾向があるが、江藤はその象徴的な典型である。彼の最後の狼狽は、そのあらわれである。(1巻237頁 江藤新平)

幸徳らを絞首台に送った山県有朋ら権力者たちは、幸徳らを狂人、蘆花を半狂人と確信していたであろう。しかし後になって見れば、その連中こそ実は一種の狂人たちであったのだ。(1巻239頁 幸徳秋水)

終戦直後の昂奮時ならともかく、二年を経て、おのれの責任を全うしたと見きわめてから自決したのはみごとというべきである。太平洋戦争敗戦にあたって、かかるみごとな進退を見せた日本軍の将官はきわめて稀であった。(2巻203頁 安達二十三)

ペルリの来航は、要するにアメリカの中国貿易と捕鯨の基地として日本の港を欲したからであったが、百余年後、アングロサクソンは、日本人による捕鯨反対のリーダーとなった。彼らの必要性、不必要性が、その時の世界の掟となる。(2巻412頁 ペルリ)

人は死に臨んで、多くはおのれの「事業」を一片でもあとに残そうとあがく。それがあとに残る保証はまったくないのに。これを業という。(2巻432頁 伊藤整)

このアメリカのハリスといい、イギリスのパークスといい、幕末の日本を震撼させた碧い眼の人物たちは、それぞれの本国ではほとんどだれも知らない辺境の一外交官に過ぎなかったのである。(3巻355頁 ハリス)

父の賛美者たる娘を持つ父は倖せなるかな。その例は本『図巻』でも枚挙にいとまがないが、ふしぎに賛美者たる息子を持つ父は少ない。(4巻32頁 広津和郎)

人間の世界には、腹立ちまぎれの一語が決定的な破局を呼ぶことがある。(4巻47頁 嵐寛寿郎)

近代は、死に対するさまざまの恐怖に病院の「治療」の恐怖を加えた。(4巻49頁 志村喬)

しかし「日本はアングロサクソンの許容範囲でしか生存できない」という、日本にとって「苦痛に満ちた真実」を、これほど冷厳に見ぬいていた外交家はないといわれる。太平洋戦争は、実は日本がこの掟を破ろうと試みて失敗した戦争であったのだ。(4巻96頁 幣原喜重郎)

最後の死床において医者を感服させるのは、平生においても必ずや相当な人物である。その裏返しもまた真ならん。(4巻111頁 今東光)

「自費診療」で有名な武見太郎であったが、自分のときは保険証を持っていった。(4巻120頁 武見太郎)

彼ははじめ革新都政の旗手と呼ばれたが、あたかも城詰めの家臣ばかり加増する殿様のごとく、都庁職員の給料や退職金を大盤ぶるまいし、都の財政を惨澹と評される赤字に落し、同様の傾向を持つ革新知事全般への失望を確定的なものとし、結局スローガンだけがうまいタレント知事であったという印象を残した。同時期に長く横浜市長を務めた飛鳥田一雄が数億に上る退職金をすべて返上したのに、東京都知事をやめたとき彼は、それ以上の退職金をビジネスライクに受領していた。(4巻160-161頁 美濃部亮吉)

ガン、脳溢血、心臓病をまぬがれた高齢者は結局肺炎で死亡することが多い。風邪がもとというより、老衰のため長期間寝たきりの姿勢を余儀なくされるため肺下部に血液が鬱滞して、沈下性肺炎をひき起こすのである。(4巻181頁 野村胡堂)

生涯飲む打つ買うの道楽をやりつくして、しかも極楽往生をとげた人間の見本がここにある。しかし志ん生にその幸福を与えたのは、道楽の間も忘れなかった芸への執念の、細いが強靭な糸であった。(4巻248頁 古今亭志ん生・五代目)

しかし公平に見ればこの「何らリアルを感じのしない」人物によって新生の基を定められた戦後日本人は、それまでの歴史にない幸福を得たのである。おそらくそれまでの日本が、別様の形態ながらそれ以上に、何らリアルなところのなかった連中によって支配されていたからであろう。(4巻278頁 マッカーサー)

百六歳でまだ生きている日本の彫刻家平櫛田中の消息を聞いて、「私はデンチューサンより長生き出来るかなあ」と言った。そして昔の日本を懐かしがり、噂に聞くいまの日本を歎いた。(4巻394頁 リーチ)

ところで、山田風太郎はどのような臨終を迎えたのだろう?

 

田中克彦 『法廷にたつ言語』 岩波現代文庫

久しぶりに『打ちのめされるようなすごい本』関連本。そこに紹介されていた本(『「スターリン言語学」精読』『ことばと国家』)をBook Offで調達した際に送料無料化のためについでに購入。しばらく積ん読状態だったが、エッセイ集ということで通勤時間に読もうと持ち出した。

昔は考えもしなかったことなのだが、なんとはなしに近頃は、日本という国、日本人という人たちは世界のなかではかなり特異な存在であると思うようになった。例えばG7のなかで日本のような国民国家が他にあるだろうか。確かに、日本に少数民族がいないわけではないし、最近も有名な政治家の二重国籍が注目されたばかりだし、日本に在りながら「日本人」とは認められていない「在日」と呼ばれる人たちもいる。しかし、アメリカは移民の国で、欧州の国々にしても当然のように多民族国家だ。先ごろ英国は国民投票によってEUを離脱することになったが、いざ離脱決定となると英国から独立してEUに留まろうと叫ぶ地域が現れる。スコットランドにもウェールズにもアイルランドにもそれぞれの言語があるのだ。「日本人」の間では、「イギリス人」は英語を話し、「フランス人」はフランス語、「ドイツ人」はドイツ語を話す単一民族の国と何の疑いもなく思い込んでいる人のほうがそうではない人よりもはるかに多いのではないか。それは自分たちに多民族という経験がほとんど無いからだろう。

何語で思考するか、ということはその人が何者であるかということの基盤であろう。自分というものを規定するということは他者を認識することである。自他の区別を図るに際し言葉は決定的な鍵になる。その「自分の言葉」をどのようなものとして認識するのか、というところに民族の特質が表れるような気がする。本書には以下のような記述がある。

近代を手にいれるための代償として、我々は、ことばを土から解放して、より疎遠で中立なものとし、またそのようなものと思おうとしている。ことばは、学校や辞書や、活字やテレビの中に、すでにでき上がったものとしてしか存在せず、教えられる方は、それをひたすらおしいただくのみである。ことばに対する人々のこの意識の変化は、たしかに、日本人の文化意識、政治意識のすべてをつらぬいたのである。(95-96頁「いま柳田国男をどう読むか」)

他所の国の人々がどのように自国語の教育を受けているのか知らないが、国語に限らず自分の受けた教育は既存の権威をおしいただくことが当たり前のものだった。試験にはかならず「正解」があり、「正解」は教師が決める。教師は「正解」を所定の教科書やその解説書に依存する。教科書は国が決める。つまり国家という権威があり、それによって与えられるものを素直に受容することが「優秀」な児童生徒ということになっている。本書では以下のようにも表現されている。

近代の社会では、文化と政治の中心地と、そこでいいくらしをしている人間が、どれか一つにとびぬけた価値を与える。(75頁「日本語の現状況」)

ものごとにほんとうに「正解」があるならば、教えられるものをひたすらおしただくことになんの不都合もないのだが、それでものごとがうまくいかないという現実がある。それでも、生活の風土を共有し、歴史や文化に共有できるもののある者どうしの社会なら、中心から発せられる「正解」をおしいただくことで生じる多少の不都合に我慢することもできなくはないだろう。しかし、地政学上の変動でそれまで別の文化圏にあったものが編入された場合、その新しい人々は抵抗なく「正解」を受容できるものなのだろうか?おそらく、そういうところに対する想像力は日本人に欠けているのではないだろうか。それが「過酷」と言われる植民地支配につながり、過去に日本の植民地支配を受けた地域の人々から今なお反感を受け続けることになっているのではないだろうか。

しかし、さすがに日本人も明治以降は激動する世界のなかで右往左往して、国家とか権威とかを無闇に信用してえらい目に遭うということを学習しつつあるのではないだろうか。「えらい目」の中身は人によって想像するものが様々かもしれないが、たとえば満蒙開拓がどのような結末に終わったか、それに続く大戦争の結果がどうなったか、復興から経済成長のなかで公害問題がどのように扱われたか、といった歴史の教科書に登場する出来事は当然に想起されるだろう。先ごろ閉幕したオリンピックはブラジルのリオデジャネイロで行われたが、ブラジルをはじめ中南米には日本から移民した人々が少なくない。私が小学校低学年の頃までは移民船というものがあった。移民募集の説明会で聞いた話と実際の現地との状況が全然ちがっていた、というのはあり得ることで、要するに移民は政策側からすれば棄民だったということなのだろう。最近では、なんといっても原発事故への対応が国家というものの在り方を雄弁に語っているし、豊洲市場の話もその延長線上にあると見てよいのだろう。

「正解」のはずが機能しない解ばかり、というような経験ばかりが積み上がってくると、そのうちに言葉が変容するなんてことが起こるのだろうか。

 


「つらいよ」の愉しさ

2016年09月23日 | Weblog

昨年の12月にみんぱく友の会の体験ツアーで九州を訪れたとき、村岡総本舗の村岡安廣社長から『男はつらいよ』のロケ地だったという小城の須賀神社前で当地の説明とか小城羊羹の話を伺った。もちろん村岡総本舗本店と羊羹資料館にもお邪魔させていただいた。そのときのことはこのブログの2015年12月3日付「羊羹」に書いた。その『男はつらいよ』が観てみたくて東京に帰ってすぐにBook Offで入荷のお知らせメールを設定した。それから1年近くなって一昨日メールが届いた。それだけでは送料が無料にならないので、小城が登場する42作に加えて第1作を併せて購入、本日午前中に手元に着いた。

第1作も第42作も観てみたが、改めてすごい作品だと思う。悪人がいない世界だ。それは落語の世界に通じるものがある。悪人なくして作品を成立させることができるのは世界観の根底に人間というものに対する全幅の信頼があるからだろう。リアリティに拘る向きには評価されないのかもしれない。現象の表層に注目するのであれば、この作品に限らず映像作品、もっと言えば作為の結果というものは遍く非現実的であり夢物語ということになるのだろうが、深層というものは結局のところは誰にもわからないのである。娯楽作品は夢でよいのであり、また、夢でなければならないのだと思う。

『男はつらいよ』という映画シリーズが48作を重ね、主人公役が生きていればさらに回を重ねる可能性があったこの社会、この時代、この国に生きたことを素朴に嬉しいと思う。

 


「私」の世界

2016年09月22日 | Weblog

妻が職場の人たちとQueenのライブを聴きに武道館に出かけるというので、飯田橋まで一緒に行って、私はギンレイホールで映画を観てきた。本日上映されていたのは、『さざなみ(原題:45 Years)』という2015年公開のイギリス作品と『最高の花婿(原題:Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu?)』という2014年公開のフランス作品。

このブログにも映画のことを盛んに書いた時期があったが、今はその頃に比べると映画に限らず映像作品を観ることが少なくなった。2007年9月以降、テレビの無い生活になっている所為は勿論あるだろうが、観たいと思うものがあまり無いのである。作り手側の我とこちら側の我との相性というか距離感がうまく合わないという気がする。作る方は商売なので、どうやって観客を魅了するかという工夫に走るのは仕方がないが、そういう技とか演技とかが鼻に付いて不愉快に感じるようになった。いつから、というはっきりとしたきっかけがあったわけではない。気がつけばそうなっていたのである。他人様の創意工夫を素直に感心できないというのも老化現象なのだろうか。

老化といえば、今日の『さざなみ』は老人の話だ。原題の"45 Years"というのは主人公夫婦の結婚45周年が映画の舞台となっているからだ。夫婦が暮らしているのはイギリスのどこかの田舎で、夫は工場労働者、妻は教師であったようだ。今はふたりとも年金暮らし。その土地の習慣として、結婚40周年で家族や友人知人を集めてパーティを催すのだが、夫の方が心臓を患い、5年ずれたらしい。そのパーティを間近にして、夫のもとにスイスの警察から手紙が届く。結婚前に付き合っていた彼女とスイスに登山にでかけ、そこで彼女が氷河の割れ目に滑落したのだが、その死体が発見されたというのである。結婚前に付き合っていた彼女がいて、山で遭難したということは現妻は知っている。しかし、夫がその彼女と結婚することを考えていたとか、彼女の写真を大量に保存していたとか、その彼女が妊娠していた、というようなことは知らされていなかった。スイスからの手紙が来てから、夫が問わず語りに話したり、深夜に屋根裏部屋に仕舞ってあった写真やスライドを見ているのを妻が発見したり、というようなことからわかってくるのである。昔の話とは言え、妻の心に「さざなみ」が立つ。

何十年一緒に暮らそうと、どのような形であれ、自分の世界に他者が入り込んでくれば愉快に思わないのは当然だろう。それを「人間関係の儚さ」などと称して、さも何か事件であるかのように考えるほうがどうかしている。我々の生に確かなものなどそもそも存在しないではないか。映像作品としては上品で、描写が細やかで、破綻なく仕上げられていると思う。しかし、「そんなこと言われてもねぇ、、、」と苦笑してしまうのだ。

この作品はベルリン映画祭で主演女優賞と主演男優賞を受賞したのだそうだ。映画関係者というのは余程幸せな毎日を送っているらしい。こんなことが「作品」として成り立つと考えるところに、なんというか、おめでたくていいなぁ、と思ってしまう。

『最高の花婿』のほうも長年連れ添った夫婦あるいは家族の話だが、『さざなみ』とは打って変わって素朴なコメディだ。『さざなみ』の夫婦には子供が無いのだが、こちらには4人の娘がいる。ひとつのフランス人家族を舞台にしているが、その娘たちの結婚相手が、ユダヤ人、アラブ人、中国人、アフリカ人という設定は、要するに社会全体がそういう感じになっているということだろう。2013年に制作され翌年に公開された作品なので、2015年1月7日に発生したシャルリー・エブド襲撃事件や同年11月13日に発生したパリの同時多発テロに反応して作られたものではない。しかし、こうした作品が作られる社会だからこそのテロ事件と見ることもできると思う。映画のほうはハッピーエンドだが、そういうストーリーになるということは現実がそうではないということでもある。

 


椎茸

2016年09月07日 | Weblog

今年のふるさと納税第四弾は大分県竹田市。頂いたのは花冬菇(どんこ)椎茸 300g舛添さん、ありがとう

竹田には全く縁がない。昨年12月に国立民族学博物館友の会の体験セミナーで佐賀に出かけた折に、せっかく九州まで来たのだからと小鹿田に足を伸ばした。ここは行政上は大分県日田市で竹田市は日田に隣接するので、「全く縁がない」わけでもない、と言えるかもしれない。竹田でなくてもよかったのだが、妻が花冬菇(どんこ)椎茸が欲しいというので大分県のふるさと納税カタログを眺めていて、たまたま竹田が良さそうだと思っただけのことだ。日田も当然調べたが、椎茸に関しては選択肢が少なかった。

椎茸の味というものをしみじみと味わったことがないので、この大分の干椎茸が他所と比べてどの程度旨いものなのか、そうでもないのか、正直なところよくわからない。早速醤油と味醂で煮てみたのだが、そう思って食べる所為か、風味満点でしっかりした旨みを感じる。ふるさと納税で頂くものは各地の宣伝を兼ねているので、それなりの自信作が送られてくるように思う。今回の椎茸もただものではない、という気がする。


ベレンコの夢

2016年09月06日 | Weblog

40年前の今日、函館空港にソ連のミグ25が着陸した。普通に着陸すれば普通に着陸できたのだろうが、事が事だけに操縦していた人も動転していたようで、滑走路の残り三分の一あたりに着地したのでオーバーランになってしまった。函館上空を旋回して空港を視認して着陸を行ったそうなので、滑走路が見えなかったわけではないだろう。逃亡なのだからけっこう動転していたにちがいない。尤も、動転していたのは本人だけではなく、スクランブルした航空自衛隊のパイロットも同じらしく、至近距離を飛行していながらミグが低空を飛んでいたので見失ったというのである。そういうわけで、誰に邪魔立てされることもなく着陸できたのだが、まさか冷戦真っ只中の西側主要国家のひとつである日本に邪魔なしで着陸できるはずはないと、たぶん最後の最後まで思っていたのではないか。

なにはともあれ、ミグを操縦していたベレンコさんは首尾よく米国に亡命できた。9月6日に函館に来て、9月8日には米国が亡命受け入れを表明、翌9日には米国へ向けて日本を出国してしまった。ベレンコさんもあっちに行っていいことばかりではなかっただろうが、当時最新鋭のミグ25を置いていかれた日本のほうはてんやわんや、だったらしい。今でもこうした有事において現場の自衛隊員がどう行動するべきかということの決めはないままだ。隣国との国境紛争もいくつか抱えたままで、そういうすぐに決めておかないといけないことが40年もそのままになっているというのは、我が国の優秀な役人や政治家のみなさんの誠心誠意の働きをもってしても解決できないくらい複雑怪奇な問題なのだろう。

そんなことはさておき、40年前のこの事件は大々的に報道されたので、当時中学生だった私も記憶している。なんといっても中学生なのでむずかしい話には関心がなく、専ら興味の対象はミグのほうだった。今なら、この事件のことを聞いて真っ先に考えるのはベレンコさんのその後だ。これはかなり大胆な事例だが、東西冷戦時代は双方に亡命事件や逃亡事件があった。以前にもここに書いたかもしれないが、1989年6月というドイツが東西に分かれていた頃のベルリンに遊びに行った。そこで訪れた壁の博物館(当時はMauermuseumと呼ばれていたと記憶しているのだが、現在はMuseum Haus am Checkpoint Charlieというのだそうだ)のことは今でもけっこう思い出す。場所の性質上、展示されているのは東ヨーロッパから西への逃亡の事例についてがほとんどだったと記憶している。逃亡の方法についての展示では、東側から西へ自分たちの手でトンネル掘って脱出した家族の逃亡時の写真、内装を剥がしてコンクリートを塗って内装を元にもどした車の実車、ハングライダー、高圧電線の上に張ってある避雷用兼作業用の電気の通っていない線に滑車を通して脱出した際の滑車、といったものがあったことを今でも憶えている。他には亡くなった人々の記録帳のようなものなどがあった。その記録の89年6月時点で最新のものが、逃亡死亡事例で同年3月20何日かにハンガリーからオーストリアに逃げようとして射殺された人のことだった。この年は11月になると東西ドイツが統一されることになるのである。ベルリンの壁がお祭り騒ぎのような喧騒のなかで破壊され、東西ドイツだけでなく東欧と西欧との往来が自由化されたのである。つまり、この人は逃亡をもう少し待っていれば、あるいは命を賭けて西に行かなくてもよかったかもしれないのである。しかし、その亡くなった人は、もしも無事に西側にたどり着くことができたら、彼が思い描いていたような夢の生活が実現しただろうか?夢を夢のままで最期を迎えることは、却って幸せなことだった、と考えることもできるのではないか?幸か不幸か今の生活から命を賭けてまでも逃げ出したい、というような生活は経験がないので想像がつかないのだが、どんな生活であれ、いいこともあればそうでないこともあるのが当たり前だと思うのである。

ところでベレンコさんだが、来年70歳になられるそうだ。幸せだろうか?


防災の日

2016年09月01日 | Weblog

今日が防災の日とされているのは、おそらく関東大震災に因んでいるのだろう。個人的な経験としての災害ということでは、やはり2011年3月11日の震災だ。あのとき表立って生活物資を買い漁る動きは少なくとも自分の身の回りでは見られなかったが、気がつけば品薄のものがあれこれあるという状況だった。以前にも何度か書いているが、私は勤め先の同僚に誘われてトレッキングに出かけていた時期があり、あの震災を機にその当時に使っていたリュックサックに非常時の持ち出し用の品々を入れておいた。そのなかには缶詰類やフリーズドライの食品類もあった。そうした非常袋のことはこのブログの2011年3月14日に記述がある。フリーズドライ品のほうは賞味期限を気にしながら結局消費してしまったのだが、缶詰類はそもそも口にする食習慣がなかったのでそのままリュックのなかに放置して、放置したことを忘れていた。

7月の最終日曜日に地元の農協のイベントで枝豆の収穫体験というものがあり、夫婦で参加した。そのときに参加者が準備するもののひとつに軍手があった。自分の庭などというオツなものがないので、軍手との縁もほとんどない。それでも、確か非常袋に何組か入れておいたはず、と物入れの奥から非常袋代わりのリュックを取り出した。リュックの中身を全て出してみるとサンマとか鮭の缶詰が現れた。購入してからはや5年数か月。どれも賞味期限を2−3年過ぎている。これは廃棄かなと思ったが、妻は大丈夫だと太鼓判を押す。

あれから一か月。昨日の弁当に缶詰のサンマらしきものが入っていた。いつものように職場の自分の席で弁当を平らげ、帰宅する。妻に弁当のサンマのことを尋ねると、あの缶詰だという。
「美味しかった?」
「・・・はい」
こういう場合、こういうよりほかにどうしようもない、と思うのである。食べてから丸一日が過ぎたが、今のところ身体に異常は生じていない。

ちなみに、手元にある『マギー キッチンサイエンス』によると
「缶詰の魚は冷蔵しなくてもほぼ永久に保存できるうえ扱いやすいため、魚の保存食品としては最も多く利用されている。」(232頁)
のだそうだ。「ほぼ永久」なので、消費期限というものは便宜的なものでしかないのかもしれない。 

今日は防災の日。非常袋の中身を点検して、足りないものを補充する、なんてことをしている人も少なくないのではないか。気にするかしないか、という問題なのだろうが、缶詰の消費期限は無視しても大丈夫かもしれない。