熊本熊的日常

日常生活についての雑記

嵐なかの船出

2008年10月31日 | Weblog
実際に自分の目で見たことではないので、多くを語ることはできないのだが、昨日ロンドンで欧州最大規模のショッピングセンターが開業した。Westfield Centreという名前で、広さが43エーカー、店舗数285および14面のシネコン、飲食店49店舗、年間想定来客数2,100万人、年間想定売上10億ポンド、といったデータが新聞に紹介されていた。開業式典にはロンドン市長のボリス・ジョンソン氏や人気タレントなどが出席したそうだ。43エーカーと言われてもぴんとこないが、サッカー場30面相当といえば少しはイメージが湧くだろうか。場所はShepherd’s Bush。高級住宅地とされるケンジントンやノッティングヒルの西にあたる。投資金額は17億ポンド。

鳴り物入りで開業した欧州最大のショッピングセンター。なんだかタイタニックみたいだ。

血と肉

2008年10月30日 | Weblog
昨日、鶏南蛮を作るとき、鶏肉に血のついた部分があった。そのまま使ったら、やはり血の部分はまずかった。血と肉というのは、生きているときには渾然一体となって生命活動に従事しているように思われるのだが、こうして命が失われてみると、明確に別の物であることを否応無く思い知らされる。血と肉が別のものであるなど生きているときでも当然なのだが、生命のありようを示すものとして、一体として認識されているように思う。例えば、「血となり肉となる」とか「血沸き肉踊る」という表現がある。血も肉も生命体そのものを象徴している。しかし、命が絶えてみれば、血も肉もそれぞれに腐敗していく。料理という、その血や肉のもともとの当事者にとっては想像だにしなかった場面においては、それらが混じり合った状態は甚だ好ましくないということになってしまう。

似たようなことは他にもあるのではないか。それまでは一体のものとして認識されていたものが、相が変化した瞬間に分離、対立するものになってしまう。人間関係などその典型だろう。水魚之交というが、水と魚は別物だ。特段に問題が無い時は親しい間柄が、少なくとも片方に問題が生じると、別離や対立に至ってしまうのはよくあることだろう。

尤も、血を使った料理もある。赤身魚の血合いを使った料理は数多くある。味はともかく、スッポンは肉も血もどちらも使われる。山羊をつぶすとき、その血を集めて血餅煎餅のようなものを作って食べるところもあると聞く。しかし、しょせん血と肉は別物だ。料理のときには、きちんと分けないといけない。

時蕎麦

2008年10月29日 | Weblog
今週に入って急に寒くなった。仕事からの帰り路、寒い中を歩いていたら、「時そば」を思い出し、急に蕎麦が食べたくなった。そんなわけで今夜の食事は蕎麦である。

家路の途中でSainsbury’sに寄り、買い物をする。ミルク、ベーグル、りんご、鶏のモモ肉、トマト、アボカド、マッシュルーム、蕎麦、マフィン。このところ菓子類を口にしていなかったのだが、少し甘いものが食べたくて店内のベーカリーで焼いているブルーベリーマフィンを買った。

そばつゆは自分で作る。出汁は鰹節、昆布、玉葱、マッシュルームで取る。マッシュルームより椎茸のほうがよいのだが、今日は椎茸が無かったので仕方が無い。出汁が沸騰したところで鶏肉を入れる。肉に火が通るか通らないかくらいのところで醤油とみりんを加える。あとは味を調節してできあがり。つゆを作っている間に蕎麦を茹でる。つゆそばにするので、少し固さが残るうちに湯からあげ、冷水で洗って水を切ってつゆに入れる。つゆはまだ熱いので、水に晒した蕎麦を入れるとちょうどよい具合になる。

それでもかなり熱い。それをふーふーしながらずるずる啜る。寒いときはこういう食べ物がよい。自然と顔がほころんでしまう。

先日、You Tubeで枝雀の「時うどん」を聴いていたら、うどんの値段を16文としていた。上方のうどんも16文だったのだろうか? 江戸の蕎麦は16文ということになっている。浮世絵などで蕎麦屋の屋台を見ると、「二八そば」と書いてあったりする。これはそば粉とつなぎとの割合と、16文(=2x8)という値段をかけたものだという話を聞いたことがある。とすると、うどんは16文でなくてもよいことになる。しかし、この噺は16文のそば(うどん)を1文ごまかして15文で食べるということと当時の時の刻みが鍵なので、そばに合わせて16文ということにしたのだろう。

冬景色

2008年10月28日 | Weblog
25日で夏時間が終わり、26日から標準時間に移行した。先週までは、仕事帰りの時間はまだ日が出ていたが、今週に入ったらいきなり夜になっていた。しかも寒い。今朝は路上に駐車してある車に霜がおりていた。これから冬至へ向けて、日はどんどん短くなり、寒さは日ごとに厳しくなる。それでも、滅多に雪が降らないのが不思議といえば不思議である。

夏の暖かい時期が短い所為か、こちらの植物は3月とか4月とかに芽吹くと一気に葉を茂らせ、今時分になると一気に紅葉して落葉してしまうように見える。日本の春夏秋冬のようなゆるやかなリズムの変化ではなく、演劇の舞台転換のような変化に見える。

しかし、自然はそれほど急激に変化するものでもないだろう。今度の週末は日本の秋のような風景を探しに出かけてみようと思っている。

冬になると自然も変化するが、こちらでは何故か花火で遊ぶ奴が多くなる。スーパーの店頭にも花火が並ぶようになる。夜10時頃から深夜にかけて大きな音の出る花火を打ち上げて喜んでいる。何が楽しいのか知らないが、しんしんと冷え込む月夜の晩には、遠吠えをするような心持ちで花火に火をつけたくなるものなのだろうか。

BYZANTIUM

2008年10月27日 | Weblog
昨日、Royal Academy of Artsで開催中のBYZANTIUM展を観てきた。ビザンツ帝国は、ローマ帝国が395年に東西に分裂した後の東側のことだ。ローマ帝国という共通のルーツを持ちながら、西ヨーロッパが政教分離と封建制を政治の基本としたのに対し、ビザンツ帝国は皇帝が神の代理人として聖俗双方を支配し、テマ制と呼ばれる官僚制による統治体制が敷かれた。ユスティニアヌス1世の時代に現在のイタリア、東欧、トルコ、パレスチナ、北アフリカの地中海沿岸地域を領有したが、最後は首都であったコンスタンティノープルが唯一の領土となるまでに勢力は衰退し、1453年にそのコンスタンティノープルがオスマン帝国によって滅ぼされてローマ帝国の歴史は終わるのである。

前書きが長くなったが、この展示を観ていて信仰とか信心というものについて考えたのである。キリスト教だのイスラム教だの仏教だのと、世の中には何百年という時を超えて教義が固定化され、大勢の信者を擁する宗教がある。本来、信仰あるいは信心というものは極めて個人的なものであるはずだ。それが何故、共通の教祖、教典、教義などを持った組織になりうるのだろうか?

ローマ帝国が東西に分裂して以降、西欧では皇帝や国王という俗界の統治者と教会とは互いに独立して存在してきた。ビザンツ帝国では、教会はコンスタンティノープル総主教という皇帝から形式的には独立した存在があったが、皇帝に神の代理人という地位が与えられており、実質的に教会は皇帝の支配下にあった。ビザンツ帝国におけるキリスト教は、統治の装置という側面もあったはずである。それ故に、貴金属や宝石で飾り立てた十字架であるとか、金糸や銀糸で編んだイコンであるとか、教会関連の華美な道具類は教会や支配層の権威付けとして重宝されたのだろう。個人の信念や信条に関するはずのことが、物理的な文物を欲し、個人の外部にある権威によって強制を受けるというのは理屈に合わないことである。

個人の在り方と宗教というものの在り方との間にある矛盾を克服するのは、個人の隷属と権威の絶対化の少なくとも片方であろう。マスとして人心を掌握するには、宗教の権威付けが不可欠である。その方法論の一部として、小道具が有効だということなのだろう。しかし、各宗教がそれぞれに絶対的権威を求めれば、結局はどのような形であれ、宗教間の対立を生む。それによって引き起こされる不安定な状況が人々の不安心理を刺激して、宗教のような精神的支柱への欲求が喚起されるという不安の循環があるように思う。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年10月27日 | Weblog

元気ですか?

中間試験は手応えがあったようで、なによりです。試験の点数自体には意味はありませんが、何をどうすればどういう結果が出るのか、ということをしっかり学習するとよいと思います。あと、物事を考える上で、どうしても基礎となる知識は必要ですから、そのあたりのことも踏まえて日々の勉強に取り組むとよいでしょう。

高校の文化祭ともなると、演劇やコーラスに限らず、かなりのレベルになるのでしょうね。尤も、私の高校時代は、大学受験の準備のほうに一生懸命で、学校行事を熱心にやってる奴はあまりいなかったように思います。今から思えば、それはもったいないことだったと思います。少しぐらい受験勉強の時間を削ったところで、学力が極端に変化するわけではありません。それなら、高校時代にもっと好きなことをやってみればよかったかなと、多少の後悔の念は未だに拭えないでいます。

大学に入った時、付属校から進学してきた連中は受験勉強など必要なかったので、みなそれぞれに個性的な奴が多かったように思います。そういう連中を目の当たりにして、なんだかとてもうらやましく感じたものです。

でも難しいですよね。自分の好きなことを見つけるというのは。目の前に、取り敢えず片付けなければならないことが次々に現れて、ついついそういう人生にとって根幹に通じるものなのか、枝葉末節に過ぎないのか、わけがわからないうちに流されてしまうというのが多くの人の人生であるような気がします。しかし、それではつまらないですよね。

さて、先週は、世の中は大変なことになっていますが、個人的にはいつもとかわらぬ一週間でした。スーザン・ソンタグの評論集はまだ読み終えていませんが、中沢新一の「アースダイバー」を読みました。この本は学校や区の図書館にありますかね? 中沢新一というのは宗教学者です。その叔父が網野善彦という歴史学者で、どちらも日本を代表する人たちです。名前くらいは記憶にとどめておいたほうがいいいでしょう。「アースダイバー」は現在の東京に縄文時代の地図を重ねて、そこに暮らす人々の心理地図と実際の物理的な風景がいかに深く結びついているかということを語っています。

映画はYou Tubeで黒澤明監督の「乱」を観ました。日本映画というのは、予算の制約もあって、総じてテレビドラマに毛の生えた程度のものが多いのですが、なかには世界の映画人が注目する作品もあります。また、文化の違いのために海外では評価されないけれど、日本人としては観ておいたほうがよい作品というのもあります。黒澤作品は世界が注目するものです。今の時代からみれば、やはり古さというものがあります。その時代の流行のようなものもありますし、科学技術や社会風俗の変化のために、今となっては陳腐なものもあります。「乱」に限らず、黒澤作品はひとつひとつのカットの映像としての完成度の高さに特徴があると思います。あと、人間の自我とか欲といった普遍性のあるテーマを、わかりやすいストーリーに乗せているというのも海外から評価を受けやすい要因のひとつかもしれません。黒澤明のほかに日本人の映画監督で世界的に有名なのが小津安二郎です。ふたりとも、映像の細部にまでこだわることで有名で、そうしたひとつひとつの練りに練られ緻密に構成されたカットを積み重ねることで、作品に深さを与えるというスタイルです。

その「乱」ですが、これはシェイクスピアの「リア王」を日本の戦国時代を舞台にした時代劇で表現したものです。「リア王」は日本でも文庫本で読むことができます。それほど長い話ではないので、機会があれば是非読んでください。

では、また来週。風邪などひかぬよう、気をつけてください。


落語

2008年10月26日 | Weblog
You Tubeで落語を聴いた。桂枝雀「時うどん」、古今亭志ん朝「愛宕山」「大工調べ」、金原亭馬生「目黒のさんま」「親子酒」、立川談志「まんじゅうこわい」などである。さすがに馬生・志ん朝兄弟は、そう思って観る所為か、似た空気のようなものが感じられる。

You Tubeのタイトルに落語を「comic storytelling」と表記したものがある。「落語」を英語に訳したつもりなのだろうが、こういう語彙をあてる奴は落語というものを全く理解していない。尤も、日本人ですら、落語は単なるお笑い芸だと思っている輩が多いので仕方がないかもしれない。

落語の背景には仏教的な因果応報や輪廻の思想がある。古来、日本では宗教と生活と娯楽を一体とする生活構造があり、日本人の心的世界に法芸一如という姿勢があった。今でこそ能や歌舞伎は高尚な芸術のようになってしまったが、もとは大衆娯楽だ。芸人は土地の生産活動とは無縁の世界を生き、だからこそ自己の生存を賭けて芸を磨き、生産活動に関与しなくても生きていけるだけの存在価値を己に付与すべく精進したのである。そこには勿論、高度な技術が要求されるが、それ以上に霊的とも言える精神性の高さが要求されたのである。話芸とは説経や法話に通じるものなのである。

間の取り方であるとか滑舌の良さということは表層のことでしかない。言霊という言葉があるが、落語は単なるテキストではなく、そこに拠って伝わる話し手の全人格が問われる。表層の技術は訓練をすれば誰でもある程度は身につけることができるが、人格となると誰でもというわけにはいかない。それは時間をかけさえすればなんとかなるものでもなく、やはり生まれ育った文化や持って生まれた資質に拠るところが大なのである。

だから、同じ話であっても、名人と称される噺家の話は何度聴いても心に響くのである。話だけではない。枕のなかのくすぐりでも、本当に優れたものは何度聴いても面白いし、いつまでも記憶にとどまる。人情噺であれ滑稽噺であれ、たとえ怪談であっても、聴いた後に心が洗われたような気分になる。ひとたびそういう体験をしてしまうと、もう病み付きになってしまう。

豚肉を食べる

2008年10月25日 | Weblog
久しぶりに豚肉を食べた。鶏肉は社食の料理やサンドイッチなどによく使われているので、意識しなくとも摂取されているのだが、それ以外の肉は意識しなと口にすることがないように思う。

近所のスーパーでBritish outdoor reared pork half filletsという526gのパックを5.78ポンドで買った。これに塩胡椒を施して、本来ならグリル板でさっと焦げ目を付ける程度に焼くのだが、そういう気の利いたものを持ち合わせていないのと、仮に持っていたとしても、激しく煙が出るので、換気装置が付いていない現在の住処ではそのような調理はできない。そこで、とりあえず250度に熱したオーブンに入れて、表面を軽く焼く。

焼き色がついたら取り出し、表面に粒マスタードを塗りたくる。本当はディジョンマスタードのほうがよいのだが、たまたま手元に使いかけのMAILLE社製Wholegrain Mustardがあったのでこれを使ってしまうことにした。マスタードはたっぷり塗るので、おでんを食べる時に使うようなカラシは不可である。マスタードを塗った肉を200度のオーブンに入れて15分ほど焼く。塊の肉なので火の入り具合を確認するのが厄介だが、ナイフを刺して中の様子を覗いてみるというのが最も確実な方法だ。ホイルで蓋をするなどして、蒸し焼き風にしたほうが、火の通りがよいだろう。

付け合せはキャベツである。豚とキャベツの相性はすばらしい。単に千切りにするだけでも勿論よいが、今回はザワークラウト風のものを作る。本物のザワークラウトは漬物なので、すぐにできるものではない。あくまで「風」である。キャベツの小さいのを、芯を除いてやや粗めの千切りにする。それを鍋に入れ、白ワインを1本加える。どんなワインでもよいが、高価なものはもったいないので、今回はスーパーのハウスブランド品「Spanish Medium White Wine Vino De La Tierra De Castilla」(アルコール度数11%、750cl、2.99ポンド)を使った。キャベツがしんなりとすれはできあがりだが、一旦火からおろして2日目になったもののほうが当然味が染みておいしい。好みに応じてワインビネガーで味を整えるとよりザワークラウトに近づく。

深皿にキャベツを山盛りにして、その上に食べやすい大きさに切った豚肉を並べる。ご飯よりもパンのほうが合うが、これも好み次第だ。簡単美味で身体が喜ぶ。あまりこの国で牛肉を口にしたくないということもあるが、好みとしては牛よりも豚のほうが好きである。中華料理も西洋の影響を強く受けるようになる19世紀以降は牛肉を使った料理が増えたが、もともと食材としては牛よりも豚のほうが好まれていたという話も聞いたことがある。東洋人には豚のほうが嗜好に合うのかもしれない。

なお今回の料理は、以前、トラッフルの料理教室で教えて頂いたものを簡便にしたものである。クレジットとして、このことを書き添えておく。

だから言わないこっちゃない

2008年10月24日 | Weblog
朝、Canary Wharf駅を出て、職場に向かう途中、無料の新聞を配っているオニイサンたちがいる。毎朝立っているわけではないが、立っていることが多い。そこで「CITY A.M.」という新聞をもらって職場のあるビルに入る。

今日のトップは「THE AXE FALLS AT GOLDMAN SACHS」。金融機関の人員削減の話は、すっかり日常風景の一部になってしまい、別に驚くこともなくなってしまった。その記事のなかに、これまでに実施された英国内の投資銀行関連の人員削減一覧が掲載されていた。これは「Here Is The City」というニュースサイト(http://news.hereisthecity.com)からの引用として紹介されていたものだ。実数として削減規模が最も大きいのはLehman Brothersの14,500人で、他社とは桁違いだ。しかし、社員数に対する削減割合で見るとLehmanは48%で、それよりさらに大きいのがBear Stearnsの54%である。この2社が突出して大きいが、社員の2割以上を削減した会社は12社だ。さらに1割以上という線まで見てみると、21社になり、そのなかには日系金融機関の名前も出てくる。

今年4月20日のブログ「Bloodbath」に、金融業の雇用縮小をおもしろおかしく書きなぐっているマスコミにもやがてその波が襲うということを書いた。このHere Is The Cityの記事にはThomson Reuterの名前もある。メディア産業全体に一層の合理化が迫られることは世の中の流れとして当然だろう。虚業はいつか滅びるのである。この国での金融部門の位置づけを考えれば、英国銀行総裁でなくとも危機感を抱かずにはいられないだろう。

ところで、同じく今日のCITY A.M.にはJP MorganのCEOであるJamie Dimon氏のもとに脅迫状が届いているという記事もある。同一人物からとみられるタイプ打ちの脅迫状が少なくとも45通発見されているという。その内容からJP MorganによるWashington Mutualの銀行部門買収に不満を持つ人物が犯人とみられているのだそうだ。

世間への露出度が高くなれば、その人に対して良く思う人も、悪く思う人も増えるのは仕方の無いことである。ただ、今回の金融危機に関しては、これまで金融機関に勤める人たちの高額報酬を皮肉る報道も少なくないようなので、それが世論に影響を与えていることは想像に難くない。例えば、10月15日のCITY A.M.には「WALL STREET’S BIG NINE: LEADING BANKS EXPECTED TO TAP INTO RESCUE FUNDS」と題する図表が載っていた。この表で、果たしてCEOの年俸というデータが必要なのだろうか?
BANK' S NAME/EXPECTED TO GET/MARKET CAP/CEO/Estimated remuneration
CITIGROUP/ 25bn/ 89.9bn/ VIKRAM PANDIT/ 0.57mn
MERRILL LYNCH/ 12.5bn/ 19.66bn/ JOHN THAIN/ 17.5mn
STATE STREET BANK/ 3bn/ 21.2bn/ RONALD LOGUE/ 28.3mn
JP MORGAN/ 25bn/ 139.5bn/ JAMES DIMON/ 27.8mn
GOLDMAN SACHS/ 10bn/ 47.6bn/ LLOYD BLANKFEIN/ 70.1mn
BANK OF NEW YORK/ 3bn/ 38.3bn/ ROBERT KELLY/ 20mn
BANK OF AMERICA/ 12.5bn/ 115bn/ KENNETH LEWIS/ 24.8mn
MORGAN STANLEY/ 10bn/ 23.4bn/ JOHN MACK/ 41.3mn
WELLS FAGO/ 25bn/ 110bn/ JOHN STUMPF/ 12.5mn
(単位:米ドル  出所:CITY A.M. 2008年10月15日)

常日頃からマスメディアの存在意義というものに疑問を抱いている。「言論の自由」だの「知る権利」だのを錦の旗印にして正義の味方面をしているが、書いている内容は公衆トイレの落書きに毛の生えた程度のものでしかないように思う。

2つのメール

2008年10月23日 | Weblog
偶然なのだろうが、2本の相反する内容のメールが届いていた。ひとつは「Hiring Freeze」という題名のものである。このようなご時世でもあり、この一年の間に何度かの人員整理も実施している状況なので、新たに人を雇う余裕が無いのは当然だ。そしてもうひとつのメールが「SAVE THE DATE: Year End Party Wednesday Dec 3」というものだ。これだけ経営環境が厳しいなかでも、忘年会は実施するのである。

社会人になってから4つの景気の谷を潜り抜け、おそらく昨年か今年の前半に5つ目の山を越えた。この山谷は内閣府による公式判断に拠るので、実際の生活感覚とは必ずしも一致しない。いずれにせよ、谷にあるときは、社内の娯楽行事など一切中止になるのが当り前だった。

しかし、今の勤務先にはそういう感覚は無いらしい。今年に入って4割近い人員削減を実施し、それでも足りなくて公的資金の注入を受け、綱渡りのような毎日を送っている。尤も、ひとりひとりの社員にそんな危機感は無いかもしれない。習慣に従って毎日出勤し、習慣に従って日々の仕事をし、それで自分は会社の業績に寄与していると漠然と信じて疑わない。だから、年末は当然の如くに忘年会があるものと思っているのだろうか。

確かに、事業環境が厳しいのは事実だが、だからといって汲々としたところで事態が容易に改善するものでもない。こういうときこそ宴会でも開いて、気分転換を図ったほうが、却って組織の生産性が向上するかもしれないし、新しいアイデアが湧くこともあるかもしれない。

自分ではどうしようもできない大きな波に流されるとき、いったいどのような選択肢があるというのだろう? 誰の人生にも、いつの時代にも、それぞれの困難というものがあるのだろう。そして、人は困難を乗り越えることで生を謳歌するのだろう。それにしても、ここ数年は困難ばかりのような気がするのだが、なにをどうしたらよいものやら。

スケスケズボン

2008年10月22日 | Weblog
気がつくとズボンの生地が薄くなって今にも破れそうな部分が何カ所もあった。購入してから10年は過ぎているので仕方がない。穴があいたとか、何かに引っ掛けて破れたというのなら、取り繕いようもあるのだが、生地が全体的に薄くなったというのは手の付けようが無い。

先日は通勤途中に突然、ズボンの裾が裂けた。片脚だけベルボトムのようになりながら、そのまま出勤し、とりあえず職場でホチキス止めをした。これも生地が薄くなって裂けてしまったので、帰宅後、ぼろ切れとして仕舞っておいた。

デスクワークなので、どうしてもズボンの膝が出てしまいやすい。それで、そういうことを気にしなくてもよいように、ジーンズやチノパンなどの木綿製品を愛用している。比較的丈夫な製品だとは思うのだが、それでも10年以上も使い続ければ、生地が摩耗するのは当然のことだ。これでズボンを2本立て続けに廃棄することになったので、帰国目前にして衣類の補充が必要になるかもしれない。それでもまだ、20年前に購入したウールのズボン2本を含め数本のズボンがある。我ながら物持ちの良さに感心する。

体型を一定に保つというのも、無駄をなくす上では重要なことである。世間では、メタボだのダイエットだのと賑やかなことだが、体型を一定に保つというのはそれほど難しいことではない。栄養のバランスを考え、調味料や脂肪分の摂取を控え、おいしいものをいただく。ただそれだけのことである。おいしいというのは、それぞれの食材に応じてきちんと調理をしたものというだけのことだ。きちんと調理がされていなければ、おいしくない。おいしくないと、とりあえず口に入れるだけで、味わうということをしなくなるので、必然的に咀嚼がおろそかになる。咀嚼がおろそかになると、満腹中枢が十分に刺激されないので、食べる量が増える。食べた分に見合うだけのエネルギーの消費がなければ、過剰に摂取したものが体内に蓄積される、つまり太る。簡単なことである。

もちろん、体質というものもある。それぞれの人にふさわしい体型というものがあるだろう。それを一律に体脂肪率何パーセントなどと騒いで、食べたいものを我慢してみたり、おいしくないものを無理に口にするというのは、単なる教条主義の奴隷に成り下がっているだけのことだ。

それでも、体型というのは、その人の生き方の一端を表現していると思う。生き方の何を表現しているか、ということはここでは書かない。ただ、体型というものも、その人の思想の一部だと思うので、自分は体型の維持には、神経質にならない程度に注意は払っているつもりである。生地が摩耗するほど長期に亘って衣類を使用し続けられるというのは、自分としては、満足すべきことなのである。

引越業者の選定に悩む

2008年10月21日 | Weblog
10月2日に引越の見積もりを4社に請求し、そのなかの1社からの返事メールが昨日届いた。詳しい状況を知りたいので電話をするようにとの内容だった。今日、電話してみると、話し中であったり、誰も出なかったりで、電話は容易につながらない。

メールへの対応が遅く、電話もつながらないとなると、一体どのようにしてこの業者と連絡をとればよいのだろう? 仮にこの業者を利用するとして、何事か不都合が生じて急遽連絡しなければならないことが発生したとする。さて、その時、客はどうしたらよいだろう?

おそらく、この業者の商売は法人客とその関連の個人客だけを相手にしていれば事足りるのだろう。それなら個人客は扱わない旨を明らかにしておかないと、不愉快に感じた個人客の口コミで企業イメージが毀損されるというリスクも覚悟しておかなければならないだろう。それは経営として問題があるのではないだろうか。

ただし、値段が安い。既に予約を入れた別の日系大手の約半値である。勿論、サービス内容に違いがあるので公平に比較してのことではない。あくまで表面単価の差が半値ということだ。大きな違いは梱包作業をサービス内容に含めるか否かということだ。連絡がつきにくいほうの業者は梱包作業の価格が別建てになっていて、作業を依頼する場合には、その内容にも拠るが最低40ポンドかかる。予約した方の業者は梱包作業込みの価格だ。

梱包を甘くみてはいけない。東京からロンドンへ来る時、渡航関連の費用は原則として会社負担で、引越も勤務先指定の外資系業者が梱包から全てやってくれた。その作業を目の当たりにして、荷物の梱包というものへの認識が大きく変化した。作業員2人が、引越当日初めて目にする荷物を要領よく分類し、適切な大きさの箱を選択して、次から次へと無駄無く隙間無く荷造りをしていくのである。その動作が美しかった。私は職人芸に弱い。このような美しい所作を目の当たりにできる機会に恵まれるのなら、多少の金額など惜しくもないと思ってしまう。

もちろん梱包の難しい荷物などないので、自分でもできる。しかし、価格差に惑わされて安い業者に依頼して、後から厄介なことが起らないとも限らない。ここは悩むところである。

乾いた雑巾を絞る

2008年10月20日 | Weblog
カレーを作る時にスーパーでムール貝とか小エビの詰め合わせを買って使うという話を以前に書いた(10月14日「クーポン万歳」)。その詰め合わせは、もとは冷凍だったのだろうが、少なくとも店頭に並んでいる時点では凍ってはいない。それが1パック125グラムで2.99ポンドだが2つ買うと5ポンドになるので2パック買って使っていた。

そのスーパーのすぐ近くにある中国食材店で、似たような詰め合わせの冷凍品が1キロ3.98ポンドで売られているのを発見してしまった。さっそく1つ買って帰り、シーフードカレーを作った。カレールーはスーパーの1瓶440グラム入9ペンスのものを使う。野菜類はいつもと同じものを使ったが、なんとなく軽い感じがした。なぜだろう?

ところで、今、インターネット接続を2つの会社と契約している。BTのADSLとVodafoneのMobile Internetである。回線がいつでも問題なく接続できるのなら、どちらか片方だけで用が足りる。用が足りないから2回線を確保しておかなければならないのである。最近はBTの調子が良く、Vodafoneは調子が悪い日が多い。たまたま最近の状況がそうなのであって、いつ逆になるかわからない。無駄なようなのだが、仕方がないのである。地下鉄だけでなく、この国のインフラは先進国とは思えないお粗末なものだ。

もともとミニマリズムを指向しているので、それほど生活に無駄があるとも思えないのだが、こうしてみるとまだまだいくらでも節約の余地はありそうだ。以前、仕事でいろいろなメーカーの経営を調べていて、どの会社も異口同音に毎年のように「コスト削減」を唱えているのを不思議に思っていた。なぜ一気に削減せずに小出しにするのだろうと。ひとりで生活をするようになって、じわりじわりと生活の工夫を重ねる感覚がなんとなく皮膚感覚として理解できるようになった。誰が見ても明らかな無駄もあれば、合理性のある費用もある。ちょっとした気付きで変わることもあれば、試行錯誤のなかで工夫を重ねることもある。できることは毎日同じではない。環境が変われば利用可能な材料というものも自ずと変わる。そうしたなかで、乾いた雑巾を絞るような根気強さで、日々の生活を見直す姿勢というものがないと生活は漫然と流れてしまうのである。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年10月20日 | Weblog

元気ですか。

こちらは、朝、吐く息が白くなる程度に気温が下がってきました。それでもまだ日中は15度くらいまで気温が上がります。夏場に比べると一日のうちでの寒暖の差が大きくなったようです。

先週、ついに勤務先が国有化されてしまいました。国有化発表の翌日、大規模な人員削減が実施されました。一年のうちに2回もリストラを食らうというのは、私の社会人生活始まって以来のことです。世の中がかつて無いほどの、おそらく1929年以来の大恐慌に陥っているので、仕方が無いといえば仕方がないのですが。いよいよ真剣に自分の手で生活の糧を得る方法を考え出さないと行けない状況になってしまったようです。

とりあえず、日本へのフライトと引越と帰国当座の仮住まいは予約を済ませました。フライトに関しては料金の支払も済ませてあるので、ここを脱出することはほぼ可能な状態になっています。頭が痛いのは、ポンドのレートです。すっかり対円でポンド安になってしまい困ったものです。ドルやユーロに比べてもポンドの下落は大きいのですが、ここは終わった国ですからそれも仕方の無いことです。前に書いたかもしれませんが、来年1月10日にロンドンを発ち、翌11日に東京に着きます。12日が祝日なので、東京の職場には13日から出社します。

本は読了したものがありませんでした。今、スーザン・ソンタグの評論集を読んでいます。

君が生まれた1995年はバブル崩壊後の不況の真只中で、2001年に小泉内閣が成立し、その経済政策の効果もあって、2002年から戦後最長の景気拡大局面を迎えました。まだ正式に決まったわけではありませんが、おそらく2007年末か2008年前半に、その景気も後退局面に転じているような気がします。(いつが景気の山あるいは谷なのかということは内閣府の景気動向指数研究会という会議で事後的に決められます)米国のプライムローン破綻に端を発する世界的な金融不安のなかで、これまで日本の金融機関は欧米ほどに危機的な状況ではないとされてきました。確かに、日本にはプライムローンのような商品はありませんでしたから、それが行き詰まることもないわけです。しかし、9月以降の上場企業の倒産の数には正直なところ驚いています。9月だけで7件、10月も既に5件です。2008年はこれまでの合計で23件となっており、史上最高水準で推移しています。2007年は6件、2006年が2件で、過去最も上場企業の倒産が多かった2002年は29件でした。2002年は金融機関の不良債権処理が本格化した年で、いわば特殊な年でしたから、今年がいかに異常な状況になっているかということが端的に数字にあらわれています。といっても、個人で何ができるのかよくわかりませんね。確かなのは、今が歴史に残る世界規模の経済危機の年であるということです。

なにはともあれ、健康に気をつけください。


アジールを目指す

2008年10月19日 | Weblog
日本に帰ったらどこに住むかということを考えなければならなくなった。既に仮住まいのウィークリーマンションは予約を済ませた。以前は漠然と、谷根千とか神楽坂を考えていたが、そういうイメージ依存型の意思決定は間違いのもとなのではないかと思うようになった。

手元に中沢新一の「アースダイバー」がある。これは面白すぎるくらいに面白い。気になった場所にマーカーを引いたり付箋を付けたりしていたら、たちまち付箋だらけになってしまい、付箋を付けた意味が無くなってしまったほどである。この本の付録にEarth Diving Mapというものがあり、これが大変参考になる。

周期の問題として、やはり大地震が確実に東京を襲うということは覚悟しておくべきだろう。そのリスクを多少なりとも軽減しようと目論むなら、沖積層よりは洪積層を選択するべきだろう。あと、この境目はいけない。狙うなら洪積台地のど真ん中ということになるだろう。そうしたことを前提にした上で、通勤の利便性とか住環境云々を考えるべきだろう。個人的な諸事情もあるので、自ずと候補地は限定される。仮住まいも、候補地の絞り込みに便利な場所を選んだつもりである。そして最後は実際にその場所を歩いてみて、自分の五感に基づいて決めようと思っている。