熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年9月

2018年09月30日 | Weblog

小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 第三巻〜第五巻』岩波文庫

ボックス買いをしてしまったので惰性で読んだが、それほど面白いとは思わなかった。ただ断片として琴線に触れる言葉がいくつか認められたという程度のものだった。書いているほうも雑誌の連載かなにかで無理矢理原稿用紙のマス目を埋めているような風があるように感じられた。尤も、第五巻は昭和9年から10年にかけて発表されたもので、発表と執筆が同時期であるとすれば、寅田の最晩年のものだ。ガンの転移も進行し身体がそうとうに辛いなかで書かれたものなので、締め切り云々以前に書くこと自体が難行苦行だったことは確かだろう。それならば、無理してそうした文章を著作集に収載しなくてもよさそうなものだが、それでも読みたいという読者の需要があるのか、それでも出したいという出版社の算盤があるのか、世の中というのは残酷なものである。これは本書に限ったことではなく、以前、須賀敦子の著作集を読んだときにも感じたことだ。

以下、備忘録的抜き書き

数の少ないのはいいとしても、花らしい花の絵の少ないのにも驚嘆させられる。多くの画家は花というものの意味がまるでわからないのではないかという失礼千万な疑いが起こるくらいである。花というものは植物の枝に偶然に気まぐれにくっついている紙片や糸くずのようなものでは決してない。われわれ人間の浅はかな知恵などでは到底いつまでたってもきわめ尽くせないほど不思議な真言秘密の小宇宙なのである。それが、どうしてこうも情けない、紙細工のようなものにしか描き現わされないであろう。それにしても、ずっと昔私はどこか僧心越の描いた墨絵の芙蓉の小軸を見た記憶がある。暁天の白露を帯びたこの花のほんとうの生きた姿が実に言葉どおり紙面に躍動していたのである。(三巻 247頁)

風雅は自我を去ることによって得らるる心の自由であり、万象の正しい認識であるということから、和歌で理想とした典雅幽玄、俳諧の魂とされたさびしおりというものがおのずから生まれて来るのである。幽玄でなく、さびしおりのないということは、露骨であり我慢であり、認識不足であり、従って浅薄であり粗雑であるということである。芭蕉のいわゆる寂びとは寂しいことではなく仏教の寂滅でもない。しおりとは悲しいことや弱々しいことでは決してない。物の哀れというのも安直な感傷や宋襄の仁を意味するものでは決してない。これらはそういう自我の主観的な感情の動きをさすのではなくて、事物の表面の外殻を破ったその奥底に存在する真の本体を正しく認める時に当然認められるべき物の本情の相貌をさしていうのである。(三巻 258頁)


司馬遼太郎『翔ぶが如く 第一巻~第三巻』文春文庫

鹿児島にでかけてきたので、この本を思い出し、押し入れの奥から引っ張り出して何年かぶりに再読。小説であることを承知していながら、ついノンフィクションであるかのような印象を持ってしまうのは登場人物が実在である所為でもあるだろうし筆者の力によるところも大だろう。司馬の作品は、学生のときの入ゼミ試験の課題図書であった『菜の花の沖』を皮切りに本書や『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『項羽と劉邦』といった長編を一通り読んだ。不思議とどれも長いとは感じなかった。

今、四巻の途中なのだが、明治維新というものの重さが、以前よりもなんとなく軽いものに思えてきた。本書は小説であってノンフィクションではない。それはわかっているのだが、理想論を掲げて既存の社会体制を崩壊させても、新たに権力を握った者が欲得ずくで崩壊した体制と本質的に変わらないものを作って既得権を積み上げていくという話は説得力がある。徳川幕藩体制が実体としては制度疲労と内部腐敗で自滅し、維新政府が誕生しても一般国民の困窮は変わらず、権力を握った者の保身となれ合いで体制が構築され、それを維持する方策を対外膨張に求めざるを得なくなり、太平洋戦争に至った、というふうに見えるのである。

欧米列強が作り上げた既存の国際秩序のなかに新参者として入り込むということの困難は当然にあっただろう。そのために無理な殖産興業を強いられ、その無理の上に急ごしらえの近代軍制を構築し、魔法のような外交を展開するという神業のようなことを成すには、要所要所で天才的な人材が活躍しなければどうすることもできず、人を動かすにはきれいごとでは済まない策術が必要であったであろうことは想像に難くない。しかし、国家の安定は原理原則に則った仕組みが確立されることであり、飛び道具を使うことが日常化するようでは仕組みが成り立たない。欧米列強の論理に迎合することが原理原則ではないのだが、表面的な辻褄を合わせることに焦るあまり、国家としての在り方に対する哲学のようなものが醸成されないままに自己主張をする愚が、太平洋戦争に至らしめたのではないか。主張するべき自己が無いままに借り物の継接ぎを錦の御旗のように振り回す愚である。



時代のスケール

2018年09月03日 | Weblog

鹿児島最終日は仙厳園で午前中から午後3時頃まで過ごす。仙厳園へは駅前からシティビューという市内の観光スポットを巡る循環バスを利用したので、少し遠回りになったかもしれないが、車窓からそれぞれの場所を見ることができるのは初めての観光客にはありがたい。駅前を出発して最初の停留所は「維新ふるさと館」ここは8月31日に訪れた。次が「西郷どん大河ドラマ館前」。いかにも仮設建築物だが、いつまで営業するつもりだろう。少なくとも放送中はあるのだろうが、営業終了のタイミングに素朴な興味を覚える。次は「天文館」、毎晩食事に訪れた繁華街。次は「西郷銅像前」。東京上野の像とは全く別人のよう。次は「薩摩義士碑前」。ここに祀られている「義士」は徳川幕府から命じられた木曽川・揖斐川・長良川の改修工事で命を落とした犠牲者と予算超過の責任を取って自刀した家老平田靱負。この工事については照國神社の資料館にも展示物がある。酷い話だが、封建社会というのはこういうものなのかもしれない。ここからバスは城山に登る。中腹に「西郷洞窟前」。西郷隆盛が人生最後の5日間を過ごしたという洞窟がある。次が「城山」。ここから市街が一望できるらしい。バスはここから「薩摩義士碑前」まで折り返す。義士碑前を過ぎて日豊本線沿いの道を行く車窓から西郷隆盛終焉の地が見える。西郷も亡くなってから神になる。次の停留所は「西郷南洲顕彰館前」だが、その一画に西郷神社がある。かなり大きなものだ。次が「今和泉島津家本邸跡前」。篤姫が生まれた屋敷跡だ。ここからしばらく停留所が途切れる。途切れて最初の停留所が「異人館前」。仙厳園の一画といってよい場所だ。島津忠義がイギリスから紡績機械を導入して日本初の紡績工場を作った際に招いたイギリス人技師の住居に使われた洋館だ。次が「仙厳園前」ここで下車する。駅前から小一時間だが、タクシーなどでまっすぐ来れば20分程度だろう。

結局、今日は仙厳園で過ごすことになった。園内は広いので、散策するのにもよいし、反射炉跡、水力発電所跡といった「跡」を眺めて何事かを想像するのも楽しい。園内にある飲食店で両棒餅を頂いたり、土産物を眺めたりするのもよい。半日くらいあっという間に経ってしまう。それにしても、殿様の屋敷の一画で当時の最先端の科学技術を駆使した実験場のような工場の類が稼働し、その程度の生産物が歴史を変えるのに大きく寄与した、というのである。もちろん幕末から維新にかけての武器事情はこうした国産よりも列強から買い入れたもののほうが多かっただろうが、武器というのは消耗品なので大量生産ができなければどれほど高性能であったとしても意味をなさない。その「大量」がここに残されているものが示唆する程度の物量であったとすると、時代時代のスケール感というものを意識しないわけにはいかない。そういえば、横須賀に三笠があるが、日露戦争で活躍した当時の最新鋭艦だ。今見ると、こんな小さな船でよくも戦えたものだと感心するし、呉の大和ミュージアムには屋外に大和の甲板の原寸大の広場があるが、それほど大きいとは思えない。スケールというものが物事の展開には大きな意味を持つということが歴史遺産のようなものを目の当たりにすると何となくわかる気がする。それでは、今という時代に歴史を大きく動かすようなスケールはどのようなものなのか、と考えてみるとどうだろう。武器に限ったことではない。自分の毎日の生活のなかで依存の度合が大きなものが持つスケールを見ると、グローバルだの宇宙規模だのということがリアルに感じられるはずだ。そのスケールのなかで人ひとりができることは、と考えると、もはや個人がどうこうという時代ではないことが了解される。今は大物がいない、などと言われるが、人間ひとりのスケールと社会とか時代といったものが動くスケールとが歴史時代とは比較にならないほど乖離してしまったということだろう。

いまどき「歴史に名前を」だの「生きた証を残す」だのと発想することのなんと間抜けなことか。


民藝夏期学校最終日

2018年09月02日 | Weblog

本日は民藝学校最終日。プログラムは我孫子市立白樺文学館学芸員の稲村隆氏による講演「白樺派と鹿児島」と閉校式。しょうぶ学園で昼食を頂いた後、バスで鹿児島中央駅まで送っていただいて解散となった。

稲村氏の講演はタイトルには「鹿児島」と入っているものの、主に白樺派の説明であり、そのなかで鹿児島出身者が何人か登場するというものだった。私が今暮らしているところから徒歩15分ほどの場所に武者小路実篤が晩年を暮らした家が保存されており、その周辺が公園と資料館として整備されている。民藝館の友の会に入ってこうしたイベントに参加したり、柳の著作を読むようになってから、白樺派というものを知るようになって、たまたま住むようになった場所がそういうところだっただけなのだが、それも縁といえば縁なのかもしれない。

ここ数年、神社仏閣を訪れることが多い。今回鹿児島を訪れるに際して、少し下調べをしてみたが、このあたりの一の宮である鹿児島神宮は霧島のほうにあり、日程と動線からして参拝はかなわなかった。鹿児島市内にあって最大級である照國神社にはお参りした。島津斉彬を祭神とする神社で境内にある資料館では斉彬が推進した諸政策、なかでも産業の近代化についての展示が充実していた。

この後、市立美術館の常設展を見学。展示品がかなり断片的であるのは仕方がないが、けっこう意外なものがあって面白かった。黎明館も見学したかったが、既に午後4時半を回っており、今回は城山入口交差点から桟橋交差点のほうへ抜け、市電の走る通りを歩いて地元百貨店の山形屋を覗いてみる。建物はいかにも百貨店らしい構えだが、店内は特にこれといったものは感じなかった。地下の菓子店が並ぶところで、地元の店が思いの外少ないが、おそらく地元老舗は近隣の商業地区に大きな店舗を構えているので、敢えて百貨店には出店しないのかもしれない。

夕食は昨日と同じく和総でいただく。昨日いただいたのとは別の焼酎を飲み、昨日とは違う肴をいただいたが、どれもそれぞれに特徴があってたいへん愉快に食事させていただいた。食事、殊に夕食の印象が初めて訪れる土地の印象を大きく左右する気がする。鹿児島は楽しいところだ。


民藝夏期学校2日目

2018年09月01日 | Weblog

今回の民藝夏期学校は全日程がしょうぶ学園で行われる。昨日は施設の見学と民藝館館長の深澤直人氏の講演。本日は山梨英和大学人間文化学部准教授の李尚珍氏が浅川伯教・巧についての講演、薩摩焼窯元の第十五代沈壽官氏が薩摩焼と御自身にまつわる話、李氏と沈氏とのトーク、しょうぶ学園のドキュメンタリー映画「幸福は日々の中に」の上映というプログラム。

沈壽官氏の話は様々に示唆に富んでいた。焼物の歴史にしても、朝鮮半島から陶工たちが連れてこられたことについても、教科書的な平明な文章では語り切れない深い事情があると感じた。その感じたことをここでは書かないが、世間で話題になっている「歴史認識」というような浅薄なものは所詮浮世の政治方便に過ぎないのは確かだ。人が何事かを語るということが、何を意味するのか。語る内容の枝葉末節だけが全体を離れて全体とは没交渉に奇怪な議論を巻き起こすのは、人が己の経験と知性を超えて発想することができないからに過ぎないのだが、その有象無象を利用してどうこうしようという者が存在する背景が興味深い。その昔、日本に連れてこられた陶工がどのように遇されたのか、連れてきた側の事情や戦略がその後の歴史でどのように展開していくのかということと考え合わせると面白い。また、連れてこられた側が受け身一方であったかどうかも問題だ。受け身でなかった人たちがいたとしたら、何故なのか、日本に渡ることで何を期待したのか、ということも興味深い。

「幸福は日々の中に」は予想していたよりも面白い作品だった。生きるとはどういうことなのか、もちろん、そこに答えはない。個人の問題ではあるのだが、自分の問題として刺さる。若い頃だったら他人事にしか感じられなかったと思うが、黄昏時になってしまったからといっても考えるのに遅すぎるということはないと思う。