熊本熊的日常

日常生活についての雑記

娘へのメール 先週のまとめ

2008年08月31日 | Weblog

いよいよ2学期ですね。しっかり勉強してください。

立山はどのあたりに泊りましたか?
日本有数の高山地帯で、美しくも厳しい自然の姿を目の当たりにすることができたと思います。雷鳥を見ることはできましたか? 雷鳥の羽は雷よけのお守りになると言われています。お守りになるくらい、なかなか見ることができないということなのでしょう。険しい山というのは、人が立ち入ることが難しいので、いろいろな伝説、とりわけ埋蔵金伝説が流布されていることが多いように思います。立山の埋蔵金もそのひとつです。戦国時代の武将、佐々成政(さっさ なりまさ)が秀吉との戦いに際して富山城の金蔵から山の中へ金貨を移したとされています。結局、この戦いで成政は秀吉に降伏し、以後、秀吉に従うことになるのですが、埋蔵金はそのまま残されたということです。実際に、富山では時々古い小判類が出土しているようです。

山といえば、トレッキングの道具類を日本から持ってきたのですが、ロンドン周辺には山がないので、その道具類を使う機会がありません。可能ならば9月に東京へ行くときに持って帰ろうと思います。

9月20日は、先週のメールにも書いた通り11時に高田馬場で待ち合わせましょう。前回のように駅の外にするか、それとも駅の中にするかは、天候次第ということにするつもりです。天気予報次第で、公共交通機関で移動するか車で移動するか決めることにします。とりあえず、レストランは私の知り合いの店にしました。食事の後は、やはり天気や気分次第でいくつかの選択肢を考えておきます。

9月28日は、車で行きますが、待ち合わせ場所は20日に会った時に決めましょう。日曜なので千葉方面はディズニーランド周辺が混雑すると思いますから、少し方法を考えてみます。

さて、ポンピドーセンターですが、建物本体は直方体です。なぜあのように工事中のようになっているかというと、通常ならば建物の中に収められるはずの各種配管類を外に出してしまい、そうした配管類を支えるために足場のような構造物が必要なので、あのような外観なのです。この背景にある考え方は、「美術館は美術品を展示するという目的のために使おうよ」ということです。実際、内部は広大で、かなり大型の展示物でも無理無く設置することができます。外に出してある配管類も色で機能がわかるようにしてあります。黄色い配管は電気系統、青い配管は上下水道、赤い構造物はエレベーターや通路など人が使うもの、白い配管は空調関連というような具合です。奇抜なように見えても、きちんとした設計思想があるということです。

ポンピドーセンターを設計したのはレンゾ・ピアノというイタリア人の建築家とリチャード・ロジャースというイギリスの建築家です。ポンピドーセンターはふたりの共同設計ですが、それぞれに日本での仕事もあります。関西国際空港のターミナルビルはレンゾ・ピアノの設計ですし、新橋にある日本テレビの本社ビルはリチャード・ロジャースが基本構想を担当しています。日テレビルも建物を支える四隅の柱が外部に露出していますよね。これは日本の建築基準法の枠組みのなかで、できるかぎり建物の内部を広くしようとした結果なのだそうです。テレビ局ですからビルの中にスタジオがいくつもあるわけで、当然、スタジオは広いほうが使い勝手が良いわけです。

パリの街を歩くには、やはりフランス語ができないと不自由します。前回はルーブル、オルセー、オランジェリーという3つの世界的に有名な美術館を訪れただけなので、言葉の面の不自由はあまり感じませんでしたが、今回は市内に点在する個人美術館を訪ね歩いたので、否応なくあまり観光客の来ない場所にも足を踏み入れることになります。美術館の受付ですら英語が通じないところも少なくなく、そいうところは笑って強硬突破するしかありません。今回は、1日目にモンマルトル地区を中心に歩き、その後、バルザックが暮らした家を訪れ、最後にケ・ブランリー美術館という民俗博物館で締めました。2日目はモンパルナス地区を中心に歩き、先週書いたように、午後はポンピドーセンターです。

ロンドンと違ってパリの街は通りに沿って5階建てくらいの建物が隙間無く並び、その奥に中庭とか小さな家がある、という構造になっています。また、ロンドンと違って戦災に遭っていないので、ナポレオン3世の時代に構想された都市計画が現在の都市景観にも色濃く反映されています。それで街の風景がどこか不自然なまでに整然としているのだと思います。第二次世界大戦で欧州の都市が軒並み戦火で廃墟と化したなかで、パリはほぼ無傷で残りました。それにはいくつかの理由がありますが、大きくはふたつでしょう。

第一に、フランスが第二次大戦開戦早々にドイツに降伏してしまったこと。第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことに対し、9月3日に英仏が対独宣戦布告を行ったことで始まりました。しかし独仏間で戦闘が始まったのは1940年5月に入ってからです。しかも、その約1ヶ月後、6月10日にフランス軍の活動は停止、14日にドイツ軍がパリを占領、21日にフランスはドイツに降伏します。

第二は、フランスを実質的に統治していたドイツ軍のパリ統治責任者が、ヒトラーの命令に背いて、パリを破壊することなく連合軍に降伏したことです。フランスの降伏後、フランスはドイツの傀儡政権による自治が行われ、パリはドイツのパリ防衛軍により実質的な統治を受けます。やがて戦況が変化し、米英を中心とする連合軍がフランスを解放し始めます。パリ防衛軍司令官のディートリッヒ・フォン・コルティッツ中将にはヒトラーからパリを徹底的に破壊するようにとの命令が下り、パリ市内の主要な建物や施設にはドイツ軍の工兵部隊によって爆薬が仕掛けられました。しかし、コルティッツ中将は爆破命令を下すことなく、1944年8月25日に連合軍に降伏しました。彼が何故、ヒトラーの命令に背いたと思いますか? こればかりは本人にしかわからないことです。いずれにせよ、彼がパリを爆破せずに降伏したことで、今日のパリがあるのです。

このあたりの事情は「パリは燃えているか?」という本と映画が参考になるかもしれませんが、本(ハヤカワ文庫)は絶版ですし、映画は1966年公開なので、見ることができるかどうかもわかりません。勿論、私もどちらも見たことはありません。ただ、映画はキャスティングを見る限りでは、なかなか良い役者が揃っているので面白そうです。

少し長くなってしまいました。季節の変わり目は体調を崩しやすいので、健康に気をつてください。

では、また来週。


「愛人 ラマン」

2008年08月31日 | Weblog
マルグリット・デュラスの自伝的小説と言われている。フランスではベストセラーとなり映画にもなった。しかし、商業的に成功したのは、人々が単に書かれていることの表層に惹かれたというだけのことだろう。

家族という関係はグロテスクだと思う。「愛人」は、主人公の性愛体験を通して主人公の家族を描いている。家族のありかたなどというステレオタイプはそもそも存在しないだろう。世間一般の幻想として、家族は互いに良き理解者であり支援者であるというものがあるように思う。しかし、家族間の殺人事件というのは育児放棄や介護放棄まで含めれば、決して少なくないだろうし、ましてや、殺し合いにまで至らない程度の骨肉の争いというのは、世の中の個人間の紛争としてはかなり高い割合を占めているのではなかろうか。

家族という関係性がそうした個人間の対立に至るのは、「私」の領域の認識に個人差があることに一因があるように思う。「自己」と「他者」の境界というのは時と場合によって変化する。多くの場合、「私」の領域は広めに、「他者」の領域は小さめに認識されているだろう。家族という物理的にも精神的にも近い領域の内部での人間関係において、そうした各自の「私」が互いに越境して葛藤を生むというのは容易に想像がつくことである。

争い事というのは、余裕のある者の間では起らないものだ。問題を抱えた者が、その解決策を他者に依存しようとするときに発生する。この作品のなかでは主人公の兄に過度な自己肥大が見られる。また、夫に先立たれ経済的に貧窮した母親にも、子供たちとの関係に齟齬が見られる。恐らく、経済的困難という状況が引き金となって、家族各自の不平不満が制御不能に陥り、各自がそれぞれに代償行動に走った結果が、この作品のなかの世界といえよう。

そのなかで、主人公は15歳にして被差別民族との性愛に走り、長男は非行に、母親は情緒不安定に走ったということなのである。そこに愛は無いのだろうか? 「愛」とは何か、ということも議論の種になるだろうが、私は単に「自己」を支える精神的状況を指す概念だと思う。自分が今ここにいることを正当化する自分にとっての証拠とでも呼べるようなものだろう。人が関係性のなかで生きている以上、最も強力な自己正当化の根拠は他者による支持である。だから、人には他人からの愛、あるいはその幻影としての他人に対する愛、が必要なのである。ただ、他人にも「自己」がある以上、そうした同盟関係が容易に成立する相手というのは簡単に見つかるものではない。そこに家族という身近な存在が意味を持つのである。愛というのはきれいごとではない。自己の存在を賭けた死活問題なのである。自分に関わる「愛」はどこまでも美しく、自分とは関係の無い「愛」が醜いのは当然だ。さて、この主人公の家族のありかたは異常だろうか?

小さな私

2008年08月30日 | Weblog
一昨日、Sainsbury’sからメルマガが届いた。この週末にセールがあるという。たいがい、この手のセールというのは20ポンド以上の買い物に数パーセントのキャッシュバックというようなものなのだが、今回はマークダウンである。オレンジが1キロ40ペンスとか、アイスクリームが半額とか。

普段の買い物で一度に20ポンドなどという大金は使ったことがないので、この手のセールの案内が来ても出かけることは無かった。しかも、平日、会社帰りの買い物はSainsbury’sで、週末の買い物はASDAという基本パターンが自分のなかで確立されているのである。しかし、この週末はとりあえずSainsbury’sへ出かけてきた。1キロ40ペンスのオレンジとリンゴを買うために。

なんだか嬉しい。小さな私。

須賀敦子全集読了

2008年08月29日 | Weblog
やっと8巻読み終えた。個人全集を通して読むのは今回が初めてだ。8巻全てに一定の質をもった内容を盛り込むのは無理があるように思う。個人の日記や書簡など、そもそも公開を前提とせずに書かれたものを死後に勝手に公開してしまってよいものなのだろうか。その作家に傾倒した人にとっては、そうした私的な文章を手にしたいという欲求があるのはわからないでもない。しかし、私には、そうした行為は単なる破廉恥にしか思えない。

それでも全8巻のうち1巻目から5巻目までは、作家の仕事を辿るのにふさわしいものだ。よく、作家の傑作はその処女作であり、それを超える作品を出し続けるのは至難の技である、というようなことを聞くが、この作家も例外ではないように思う。「ミラノ 霧の風景」が私は一番好きである。それ以降の作品は、他人に読ませるというよりも、自分の人生の整理のような印象を受ける。

書簡は公開するべきではなかったと思う。特に両親宛の手紙は読むに耐えないものばかりだ。手紙から、留学中の生活費が親からの仕送りによって賄われていることを知って驚いた。大学を卒業した人間が、どのような事情があるのか知らないが、単に自分探しのような「勉強」のためにフランスだのイタリアだので何年も親掛かりで暮らしているなど、今の時代ですら、並の家庭では許されないだろう。正真正銘の「良家」のお嬢様だったのだと改めて感心した。また、手紙の文章も酷いものだ。大人が書いたものとは思えないような代物だ。この人のデビューが遅かったのは、遅くなくてはならない必然性があったということなのだろう。

どんなにすぐれた文筆家であっても、無限に創作活動を継続することはできないだろう。読者としての作家との付き合いというのは、もう少し読んでみたいと思ううちに、その作家を卒業するというのが幸福な関係の維持には良いのかもしれない。

適切な負荷

2008年08月28日 | Weblog
一度、絶え間なくブログを書き始めると、中断することに心理的な抵抗を感じる。そんなわけで、今日、前週末にパリに出かけたことを書いて投稿した。これでは毎日書いていることにはならないのだが、このブログを書くことのためだけにパソコンを持ち歩くほど入れ込んでいるわけでもない。歩き回るのには荷物は少ないに越した事は無い。

旅行だけでなく人生もそうだ。背負うものは軽いに越した事は無い。それでも放っておけば垢のように溜まってくる。意識して取捨選択しなければ、それこそ垢のような重荷で身動きがとれなくなる。これでは生きていることにはならないだろう。取捨選択するところに思考があり、選んだ荷物をいかに負担少なく背負うかに知恵が求められる。思考なく、知恵無く、ただ背負い続けるのでは、自分というものがない。

急になんとかが食べたくなって

2008年08月27日 | Weblog
昔、セブンイレブンのテレビコマーシャルで、「夜中に、急に、いなりずしがたべたくなって…」というような台詞があった。ここにはコンビニというものはないので、夜中に急に何かが食べたくなっても我慢するしかない。夜中じゃなくても、稀に仕事が多くて職場を出るのが遅くなってしまうと、職場近くの持ち帰りができる食品店は既に閉店している。不便この上ない。

そんなことは今更どうでもよいのだが、今日、ふと牡蠣鍋が食べたくなった。職場からの帰り道に、ほんの少しだけ遠回りをしてSeeWooという中華食材店に寄り、冷凍の牡蠣と豆腐と味噌を買った。

まず乾燥昆布と鰹節でだし汁を作り、それでホタテ、牡蠣、玉葱のスライス、豆腐を煮る。みりんを加えてみる。20分ほど煮込んでから味噌を適当に溶かし入れ、ざっくりとかき混ぜて出来上がり。

ちょっと牡蠣を煮る時間が長過ぎたかもしれない。かなり縮んでしまって、ぱっと見、トホホな感じがする。それでも、食べたいと思ったものを食べると幸せな気分になる。

なんだか、このところ毎日ホタテを食べているような気がする。冷凍とは言え、早く使い切ったほうがよいのかなと思い、毎日使っている。さすがに今日は、「またホタテかよ」と思い、1個だけしか使わなかった。同じものを毎日食べるというのは健康の上では問題ないものなのだろうか? 

参考:きょうのお買い物
冷凍生牡蠣 1kg ………………………………. 6.88ポンド
森永乳業豆腐(紙パック入)340g x 2丁 … 2.36ポンド
Korean Soy Bean Paste 500g ………...….. 1.60ポンド

ドロドロ牛乳

2008年08月26日 | Weblog
朝、シリアルを食べようと、器に盛ったシリアルに牛乳をかけようとしたら、牛乳がドロドロだった。確か、先週の日曜に近所のスーパーで購入したものだが、さすがに開封してから経過した日数が品質保持の許容範囲を逸脱していたということなのだろうか。昨日までは大丈夫だった。ドロドロということは、ヨーグルトのようなものかと思い、一口食べてみたが、妙な味だったので止めておいた。ちなみに、その一口は妙だなと思っているうちに飲み込んでしまった。大丈夫だろうか? その牛乳は、あと少しで飲み終えるところだったのに、もったいないことをしてしまった。食べ物を粗末にしてはいけないと、朝から反省してしまった。

亡国の民

2008年08月25日 | Weblog
昨日、パリからの帰りの列車の中は地獄のようだった。子供連れの家族が同じ車両の中に何組もいて、騒々しいことこの上ない。口火を切ったのが私の後方に陣取っていた日本人3世代。こいつらが疲れて静かになったと思ったら、車両中央のイギリス人大家族集団から飛び出した、おもちゃを持った男の子が車内を行ったり来たりし始めた。その集団からはもうひとり、別の子供の声が聞こえてくる。この動き回っているほうのガキに、フランス人の男の子がちょっかいを出しはじめ、それにアラブ系の男の子も加わる。フランスとアラブはイギリスより少し年長のようで、列車が海峡トンネルに差し掛かる頃には、フランスとアラブは静かになったが、最後まで喧しかったのがイギリスだ。公共の場で、他人の迷惑かけないように心がけるという躾けは、最近のイギリスではしないものらしい。だから、街中がこれほど汚いのだろう。

破顔一笑強硬突破

2008年08月24日 | Weblog
先月パリに遊びに来た時、フランス語なんか知らなくてもパリを歩くくらいならなんとかなるものだ、と思ってロンドンへ戻った。しかし、その認識はやはり誤りだ。当然と言えば当然だが、訪れる国の言葉について少しくらいは知識を持って出かけるのがその場所に対する礼儀でもあろう。とは言え、今更どうしょうもないので、通じない時は笑って強硬突破するしかない。

今日は宿泊したホテルから徒歩圏内にあるウジェーヌ・ドラクロワ美術館(Musee national Eugene Delacroix)である。ここはSt. Germain des Presという有名な教会の裏手にある。道標と看板がなければ絶対に辿り着けないような、住宅街の奥深くにある。展示されている作品は少ない。アトリエは別棟になっていて、天井が高い所為もあって、アパルトマンとは別世界のような光に満ちた雰囲気がある。中庭も落ちついていて居心地が良い。

St-Germain des-Presから地下鉄4号線でVavinに行く。ここから歩いてリュクサンブール宮殿のほうへ行ったところにザッキン美術館(Musee Zadkine)がある。ここも通りから奥まったところにあるので、道標と看板がなければわからないだろう。敷地のレイアウトや家屋の間取りは全く違うのだが、セント・アイヴィスのバーバラ・ヘップワース美術館を彷彿させる。

ここからBoulevard du Monparnasseをモンパルナス駅のほうへ歩き、駅を越えたところにある住宅街の一画にブールデル美術館(Musee Bourdelle)がある。ブールデルはロダンの弟子で、言われてみればなるほどと思う。彫塑像の工房跡ともなると、アトリエというより工場だ。個人美術館には違いないが、大勢の弟子やスタッフがそこで製作に携わっていたのだろう。創作の参考のしたと思われる日本の能面や鎧兜甲冑もある。それらがどのように彼の創作活動に影響したのか、しなかったのか。したとすれば、どのように作品に反映されているのか、興味深いところではある。ここの受付には、大きな白い猫がいる。自分がここの主だと思っているらしく、人が近づいても全く動じない。

昼時になり腹がすいたので、英語が通じそうな場所へ移動することにした。モンパルナスから地下鉄4号線でChateletへ行き、そこから歩いてポンピドー・センター(Centre Pompidou)へ向かう。地下鉄の駅から地上に出てRue de Rivoli をパリ市庁舎(Hotel de Ville)方面へ歩く。Rue du Renardとの交差点に差し掛かると右手にパリ市庁舎、左手にポンピドーが見える。市庁舎前の広場はイベント会場の設営の最中だ。このあたりにはマクドナルドが何カ所かあるのだが、どこも満員である。雨が降り出したので、急いでポンピドー・センターに入り、とりあえずカフェで腹ごしらえをする。

ポンピドーセンターは4階と5階が常設展示会場、最上階の6階がレストランになっている。中層階は図書館、低層階に映画館、特設展示会場などがあり、別棟としてブランクーシの常設特集展示場がある。

展示内容はさすがにパリの大型美術館と思わせる充実ぶりである。なかでもキュビズム以降のピカソ作品とマティスの豊富なコレクションには圧倒されてしまう。先月、ルーブルとオルセーを訪れた時、ところでマティスはどこにあるのだろうと疑問に思っていたのだが、今日その疑問が解けた。ルオーの作品も豊富である。数は多くないが、シャガールやモディリアーニもきっちり押さえてある。彼等の作品が「現代」に属するものなのだということを改めて知り、なんとなく新鮮な思いがした。

この春にテート・モダンに遠征していたPicabia、Man Ray、Duchampが本拠地に戻っている。テートで見たときには、それなりに衝撃を感じたのだが、こうして数多くの現代美術作品のなかで見ると、おとなしく感じられるのが面白い。ルネ・マグリットの作品をまとめて観るのは自分としては希有なことかもしれない。ここには「Les marches de l’ete」「Querelle des Universaux」「Le modele rouge」「Le double secret」「Le ciel meurtrier」の5作品が並んでいる。マグリットはシュールレアリズムの代表的な作家として、さまざまなシーンで取り上げられているので、つい、実物作品を見知っているような気になっているのだが、こうしてまとまった数をいっぺんに観るのは、1995年に出張でニューヨークに行った時に空き時間を利用してMOMAを訪れた時以来だと思う。ミロやモンドリアン、ポロック、ロスコーはあるべくしてあるという感じだ。数は多くないが、ジャコメッティも強烈な存在感を放っている。

Brassaiの作品を観て思ったのだが、乳首が立っていないヌードというのは、要するに写真家の腕が悪いということなのだろう。モデルに指一本触れずに、撮影するだけで潮まで吹かせてこそプロというものだろう。大事なのは、どこまで被写体に入り込み、被写体のあらゆる側面を見出すことができるかということだ。

写真と言えば、たまたまMiroslav Tichyの特集展が開催されていた。どの写真もピントがあっていない上に、盗撮のようなアングルのものばかりである。被写体は圧倒的に女性が多い。これは一体なんなのだろうと思う。ピントがあわないのは、使っているカメラが手製で、精密機械としての完成度が低い所為だ。盗撮のように見えるのは、まさに盗撮だからだ。つまり、彼の作品は、人間の、というか彼自身の欲望を具現化したものなのである。ピントがぼけているからなのか、写っている映像にエロティシズムが溢れている所為なのか、ついその写真に見入ってしまい、何が写っているのかを理解した瞬間に、呆れてしまう。そんなことを繰り返しながら、他の観客を見ると、しかつめらしい表情で、写真に見入っている。その姿が面白い。共産主義社会のなかで自分の生活の場を見出せず、精神を病んでしまった老人が辿り着いたのが、自家製カメラで自分の好みの女性を盗撮して回ることだったというのである。しかも、彼は1日100枚撮るというノルマを自らに課していたというのだ。しかし、どのようなことでも極めると芸術に昇華するということなのだろうか。今、現にこうして彼の「作品」が美術館に並んでいる。

ブランクーシのアトリエ、と題された別棟は楽しい。本館のほうにも勿論作品が展示されているが、彼が製作に使った道具類を見ると、単純に見える作品の背後で無数の試行錯誤が繰り返されたことが想像される。

雨が降ったりやんだりしていたので、乗り換えの数が増えるがポンピドーセンターのすぐ近くにあるRambuteau駅から地下鉄11号線に乗り、Arts et Metiersで3号線に乗り換え、Reaumur Sebastopolで4号線に乗り換えてGare du Nordへ行った。今日も前回と同じ19時13分発のロンドン行きである。

またパリ

2008年08月23日 | Weblog
前回のパリ行きはルーブルとオルセーを訪れるのが目的だったが、今回のテーマは個人美術館巡り、雨が降ったらポンピドーセンター入浸り、というものだ。1日目の今日は雲が多いものの一応晴天だ。

今回もパリに着いて最初にしなければならなかったのは、地下鉄の切符を買う行列に並ぶことだった。出札口でトラベルパスを買い、Gare du Nordから近いモンマルトル地区へ向かう。

地下鉄4号線に乗り、次のBarbes Rochechouartで2号線に乗り換える。Blancheで下車して地上に出ると、そこにムーランルージュ(Moulin Rouge)があった。なんとなく観光目的の作り物のような風情も漂うが、かつてモンマルトルに芸術家が集まっていた時代には、ここは彼等が集うところでもあったし、作品のモチーフにもなっていた。彼等が何を思いこの赤い風車を描いていたのか、今となっては知る術もないが、なにか訴えるものがあったからこそ作品に残したのだろう。ハリボテのような現在の姿を目の当たりにすると、過ぎ去った時間というのは元には戻らないという当然の現実を痛感しないわけにはいかない。

ムーランルージュを背にRue Fontaineを下り、Rue Chaptalを右に折れると、ロマン派美術館(Musee de la Vie Romantique)の看板が見える。この看板があるのは、美術館に至る路地の入口である。路地を抜けると庭があり、正面と左手に2階建てのこじんまりとした建物、右手に木々が茂った空間がある。この正面の建物が美術館だ。パリの街は通りに面して5階建てくらいの大きな建物が隙間なく並び、その奥に中庭のようなものがあったり、こじんまりとした家があったりというような構造になっている。ロマン派美術館も、そんな奥まった場所に佇んでいる。このロマン派美術館の建物は、オランダの画家アリ・シェフェールの家だったそうだ。ここでデートの待ち合わせをしたら格好良いかもしれないが、ここでデートはできないと思う。

ロマン派美術館を出て、さらに坂道を下ると、通りに面してギュスターヴ・モロー美術館(Musee national Gustave-Moreau)がある。この美術館は世界初の個人美術館と言われており、画家自らが美術館開設の準備をしたそうだ。その所為だろうが、展示作品の充実ぶりが印象的である。どの壁にもいっぱいに作品が飾られ、壁際の棚にはきれいに整理されたデッサンのパネルがびっしりと収納されている。個人美術館というものの見本のようなところである。

モンマルトルと言えば丘である。Trinite d’Estienne d’Orves駅から地下鉄12号線に乗りAbbessesで下車する。この駅の階段は長く、途中の踊り場では立ち止まって休憩している人がいる。地上に出ると、いかにも観光地らしい風景が現れる。土産物屋やカフェが軒を連ねる通りを抜け、長い階段を登って丘の頂上にあるサクレ・クール寺院(Montmartre Basilique du Sacre-Coeur)の前に辿り着く。大勢の観光客で賑わっている上に、ストリートパフォーマーが寺院正面の階段で見世物を披露し、それに人だかりもできているので、人の流れにも渋滞が生じている。パリ市内では、ここが最も標高が高く、市街を見渡すことができる。甍の波というのはこのような風景を言うのだろう。パリの家並みの高さはきれいに揃っている。海に岩が突き出すように、ところどころに教会や駅の大型建築物が点在する。

腹がすいたのとトイレに行きたくなったので、とりあえず最寄の大きな駅を目指すことにする。モネの絵やアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真で知られたサン・ラザール駅(Gare Saint-Lazare)である。サクレ・クール寺院正面の階段を下り、商店街を抜けてPigalle駅から地下鉄12号線に乗ってGare Saint-Lazareへ行く。

パリのターミナル駅のなかで最も歴史が古いのがこのサン・ラザール駅なのだそうだ。確かに駅舎は大きく立派だが、発着している列車は殆どが近郊線のようで、駅の風景としてはいまひとつおもしろくない。構内が工事中である所為なのだろうが、エキナカ商店も少ないので、ここで食事をするのは諦めてトイレだけ済ませる。駅前にパリには珍しいスタバがあった。

サン・ラザールから地下鉄13号線に乗り、Varenneで下車。こんどはロダン美術館(Musee Rodin de Paris)を訪れる。ここは個人美術館というにはかなり大規模なものだが、建物の老朽化が酷く、床はその場凌ぎの補修跡だらけ、壁や天井には深そうなひびが走っている。それでも展示品の充実ぶりは特筆もので、ロダンの主要作品はほぼ全て観ることができる。ここのカフェで昼食をいただく。

ロダン美術館を出て、アンヴァリッド(Hotel des Invalides)の前を過ぎ、La Tour-Mauboug駅から地下鉄8号線に乗る。La Motte-Picquet Grenelle駅で6号線に乗り換えてPassy駅で下車する。坂を少し登り、セーヌ川と平行して走るRue Raynouardへ折れてしばらく歩くとバルザックの家(Maison de Balzac)の入口がある。ここは入口だけで、その先は細い階段が下へ続く。かなり急な傾斜地に建てられた家で、上から見ると平屋のようだが、下から見上げれば二階家である。バルザックが暮らしていたのは上の階で、下の階には別の住人がいたそうだ。今でも公開されているのは、バルザックが暮らした上の階だけである。入口から一番奥、セーヌ川が見える部屋に彼の本に使われた挿絵の版型が壁一面に並べられていた。彼の作品を読んでいれば、そのひとつひとつの絵がどの作品のどの場面のものが想像できて楽しいのだろう。彼の作品はひとつも読んだことがないのだが、それでも楽しげな絵ばかりなのだから。かなり破天荒な生活をしていたのだそうで、その作品もさることながら、その人物、まさにその外見が人々に強い印象を振りまいていたのだそうだ。彼がこの家に暮らしたのは1840年からの7年間だけ。生活の場というよりは仕事場であったという。その頃から既に長い年月が経過している所為も勿論あるのだろうが、今日これまでに訪れた個人美術館とは異質の雰囲気があるのは、そこが住宅というより事務所のような雰囲気を感じさせるからかもしれない。

Passyへ戻り地下鉄6号線でセーヌ川南岸へ戻る。Bir-Hakeim駅で下車し、エッフェル塔を仰ぎながらQuai Branlyを歩く。駅を出てすぐに日本文化会館という建物があるが、今日は開いていない。エッフェル塔直下の広場は多くの人で混雑していた。パリのランドマークなので人気があるのはわかるが、それほどのものかとも思う。エッフェル塔を過ぎてほどなくすると草木に覆われた建物の前に出る。それに続いてアクリル板の高い塀の向こうにケ・ブランリー美術館(Musee du quai Branly)の奇抜な建物が見えてくる。この草木に覆われた建物も、美術館の一部で「垂直の庭」という作品なのだそうだ。

日本語表記では「美術館」だが、限りなく民俗博物館に近い内容だと思う。例えば、駒場にある日本民藝館を美術館と認識するだろうか? それとも博物館だろうか? 「美術品」とは何かという言葉の定義に関わってくるのだが、鑑賞や装飾を目的とした工芸品を「美術品」とするなら、ケ・ブランリーも民藝感も美術館とは呼ばないだろう。ちなみに、日本民藝館の英語呼称は「The Japanese Folk Crafts Museum」である。

呼称問題はさておき、この美術館の建物は巨大な高床式住居のような作りになっている。地上部分には外に向かってチケット売り場とレストランがあるだけで、水平方向に抜けている。建物の内部に入ると、そこから長くだらだらとした坂が上階に向かって続いている。上階は照明をおとしてあるので、ちょうど地上から天の魔界にでも登っていくようなものである。それはそれとして面白いとは思うが、やはりこの何も無い地上階部分のスペースがもったいないように見えてしまう。

展示フロアは基本的に一面で、それをオセアニア、アジア、アフリカ、アメリカという地域毎にまとめて、それぞれの土地で使われていた生活用品や祝祭の道具類、楽器などが展示されている。日本のものは浴衣の柄が紹介されていた。人や動物の表現が地域によって様々で、そこに人間というものに対する理解の仕方の違いのようなものが反映されているのだろう。人は解剖学的には人種や民族に関係なくほぼ同じであるはずだが、その同じ物理的存在に対する理解が文化によって異なり、それが道具類のデザインに反映される。デザインは、要するに人の脳内世界の表象であり、その多様性が意味するのは、我々が同じ世界を共有して生きているように見えながら、各自がそれぞれのバーチャルリアリティのなかで生活しているということなのである。だからこそ、人と人とは容易に理解し合えないものなのだ、ということになると思う。

美術館を出てQuai Branlyを横断し、歩行者専用橋であるPasserelle Debillyでセーヌ川を越え、Iena駅から地下鉄9号線に乗る。Franlkin D. Roosevelt駅で1号線に乗り換え、さらにConcorde駅で12号線に乗り換え、Rue du Bac駅で下車する。今日泊るのは、この駅の近くにあるHotel de Beauneという宿だ。素泊まりで一泊60ユーロ。こんなに小さなエレベーターが世の中にあったのかと思うようなもので4階に上がったところが私の部屋である。一泊だからいいようなものの、長く滞在するには無理のある雰囲気だ。先月泊ったのはここよりも5割ほど高い宿だったが、値段の差にはそれ相応の理由があるということがわかる。夕食は、宿の近所にあったEric Kayserというベーカリーで菓子パンのようなものとサラダとミネラルウォーターを買って、部屋に持ち帰って食べた。客の多い店だけあって、なかなかおいしいパンだった。

駅前旅館

2008年08月22日 | Weblog
ロンドンのターミナル駅周辺には安宿がたくさんあるのだが、東京はそうでもないように思う。この違いは何だろう?

明日、パリへ遊びに行く。朝6時55分発の列車に乗るのだが、1時間前にチェックインするように言われている。だいたい6時頃には駅に来いということだ。実は、これは私にとっては容易なこととは言えない。平日日中並みのダイヤで地下鉄が運行されているとして、住処を朝5時に出れば余裕で間に合うはずである。しかし、週末早朝に地下鉄がどのような運行状況なのか想像できないし、地下鉄が動いていないとして、タクシーを拾うことができるのかどうかもわからない。確実に列車に乗るには、駅の近くに宿を取っておくに限る。

さて、東京はどうだろう? 朝6時に東京駅に辿り着けないような場所というのは、東京駅からどれほどの距離の場所だろうか? 普段、1時間ほどで到達できるなら、土曜の朝でも問題はないだろう。駅の近くに泊るという需要は無いのである。

先月パリに行った時もセント・パンクラスの近くに宿を取った。今回も同じ宿に泊る。The Wardonia Hotelというのだが、セント・パンクラスとこの宿の間の約数百メートルに、同じような安宿が軒を連ねている。事情をご存知ない方は、こんなにたくさん宿が並んで商売になるのだろうか、と思うかもしれない。たぶん全く問題なく商売になるのである。朝早い列車に乗るには、駅に近くに泊ったほうが確実なのだから。

いい話

2008年08月21日 | Weblog
「いいものってしゃべるでしょ? 触ってたり、眺めてたりすると、ものっていうのはしゃべり出すんだよ。あれは、つくり手がしゃべらせているんだよ。ものなんて、無機質なものなんだけどさ、魂込めてつくると、「格好いいなぁ」って、使い手に感じさせることができるんだよ。「格好いい」っていうのはさ、形とかブランドとか効率性とか、そういうんじゃないだよね。優しいとか、思いやりがあるとか、本当はそういうのが格好いいんだよ。エアロコンセプトのアタッシュケースはね、書類は沢山入らないんだよ。何でかというと「あなたにだけ会いに来ました」って、そういう想いを込め使って欲しいから。不便したり、我慢したり、そういうのが本当に格好いいって言うんだよね。」(菅野敬一 板金職人。渓水・代表取締役 excite.ism [PingMag] 2008年8月6日付「ものに恋する板金工:渓水」)

すいません。勝手に引用させていただきました。あまりにいいお話だったもので。
「ものに恋する板金工:渓水」

あこがれの君

2008年08月20日 | Weblog
オリンピックで中国の陸上選手が棄権したことが話題になっていた。その選手はアテネ大会で金メダルを獲得し、それをきっかけに中国ではスターのような存在になっていたという。年収が大卒新人の平均年収の2,000倍に相当するとかで、当然、今回の大会でも注目度が高かったのだが、脚の故障で試合への出場を断念せざるを得なかったのだそうだ。これに対し、ネット上で中国国内から激しい非難が寄せられ、政府が火消しに躍起になるというほどの騒ぎになったようだ。

オリンピックに出場するというのは、特別なことには違いない。国家代表として参加するのだから、そこに国民の期待が集まるのは当然だ。しかし、競技をするのは選手個人である。オリンピックに限らず、スポーツの観客というのは、実際に競技をする当事者に対し、過剰なまでに感情移入をする傾向が見られるように思う。自分の無能力を、その選手が肩代わりしてくれているかのように、その選手と自分とを一体化しているように見える。

人が何事か行動を起こすのは、その対象が手に届きそうだと認識するときであろう。自分が認識する自己の能力をはるかに超えたものが要求されるなら、行動を起こそうという気持ちすら起きないだろう。毎日の生活というのは、結局のところ、ほんのわずかの手の届くものと数多の諦めによって占められているものなのではなかろうか。一方で、人には自己顕示欲というものがある。その欲望を満足させるに足る能力がなければ、代償行為に走るのも当然の選択だと思う。生活にまつわる困難が大きいほど、諦めたものへの代償も大きなものが求められるのだろう。オリンピックという世界が注目する舞台で、自分と同じ国の選手が活躍する。代償行為の場として、これほどわかりやすいものがほかにあるだろうか。

それにしても、自分の関わり知らぬ多くの人々から勝手に自己同一視される選手にしてみれば、自分の一挙手一投足に他人の視線が絶えず絡み付くのは迷惑この上ないことだろう。他人事ではあるけれど、選手個人の身の上にマスの不当な暴力が及ばないことを祈らずにはいられない。

休暇の準備

2008年08月19日 | Weblog
来月、休暇で日本へ行く。3月の一時帰国では野暮用が多く、また、今から振り返れば無駄な時間が多かったという反省があるので、今回はきちんと予定を立て、準備をしてから出かけようと考えた。前回は落語を聴きたいと思いながら、それができなかったので、イー・プラスで若手の独演会と中堅の独演会のチケットを押さえた。室内楽のコンサートも何かないかと探したが、これといったものがなかった。東京から少し離れた不便な場所にある美術館を訪れようと思い、レンタカーの予約をした。友人たちとの飲み会を一件入れた。まだ日程は確定していないが、一日は東京から少し離れたところに住んでいる友人を尋ねるつもりでいる。あとは子供と一日過ごす。他に、友人と食事を共にする予定がいくつか控えており、それらを順に確定させれば、この休暇の日程はほぼ埋まることになる。一日に一件か二件の予定を入れ、あとはその時の状況に合わせて過ごすのを原則にしている。

来年早々に帰国するが、引越費用は自費なので、今回の休暇を利用して日本に運ぶことができるものは、できるだけ持って行くつもりである。引越荷物として別送するのは書籍類と衣料品、食器類くらいでとどめたいと考えている。帰国直後から必要になるもので、今のロンドンでの生活に必要のない陶芸用具は今回持って行く。

今回の一時帰国は、単なる休暇というよりも、3ヶ月後に帰国を控えた下準備という側面もある。そのあたりのこともきちんとできるように心がけたい。

「木を植えた男」

2008年08月18日 | Weblog
子供が小学校の低学年くらいまで、毎週末の夜、絵本の読み聴かせをしていた。自分が子供の頃は本などろくに読みもしなかったので、読み聴かせで自分も初めて手にする作品が多かった。説教臭いものも少なくないのだが、簡潔な物語の中に生きることの意味を読者と共に考えようとする奥深い作品が多いことに驚いたものである。

先日このブログに書いたサン=テグジュペリの「星の王子さま」はあまりに有名な作品だが、あの話は決して子供向けのものではない。文字が大きいとか、絵が添えてあるという形の差異はあるにせよ、物語の中身は大人向けも子供向けもないと思う。すぐれた「児童書」は普遍性を帯びている。

「木を植えた男」もフランスの話である。子供に読み聴かせをしていた頃は、それほど気に入った話というわけでもなかったのだが、自分が歳を取り、「木を植えた男」と同じような年齢に達してみると、そこにある生活の豊かさがまばゆく感じられるようになる。

中途半端な毎日を重ね、目先のことに追われてあくせくし、気がつけば歯牙にもかからぬ俗悪な存在に成り果てた己が姿に愕然としながら、なす術を知らない情けなさ。住宅ローンやら身内との関わりに、弥が上にも目先に走らざるを得ないと感じてしまう余裕のなさ。そうした閉塞感を、一時だけ忘れさせてくれるのは、自分も手を伸ばせば届くかもしれないと思えるような、木を植え続けるという単純な行為の所為かもしれない。

主人公はプロバンスの廃村に一人暮らし、羊を飼って生計を立てながら、毎日ドングリを植えて歩いている。羊飼いを止めて養蜂に転業してからも、同じようにドングリを植え続けている。やがて荒れ地だった彼の住処の周囲は何十キロにもわたって若い木々に覆われるようになったのである。再生された森は多くの生命を育み、後にそこに住み着いた開拓者たちに実り豊かな生活をもたらしたという。人々はその森が自然林だと思っている。それほど立派な森に育ったのである。

「滅私奉公」という言葉があるが、己を消し去ることによって、己の人生を豊かにする、そういう生き方に憧れを覚えるのは私だけだろうか? 須賀敦子が「どんぐりのたわごと」の第8号にこの話を「希望をうえて幸福をそだてた男」という題で紹介している。「木を植えた男」は柳田邦男の「大人が絵本に涙する時」のなかでも紹介されている。