横浜というところにはこれまでに何度も出かけているはずなのだが、なんとなく目的地に直行するというようなことばかりのようで、街をぼんやり歩いたことが無かった。今日は夕方から落語会なので、少し早めに出かけてぶらぶらするつもりだったのだが、結局思ったようにはならなかった。
巣鴨から桜木町まで乗り換え時間も含めて電車で小一時間だ。出がけにYouTubeで古今亭志ん朝の「文七元結」を聴いていたら、ついつい腰が重くなり、住処を出たのが午後2時ちょうどくらいで、山手線、東海道線、根岸線を乗り継いで桜木町に着いたのが午後3時ちょうどくらい。落語会は午後5時半開演なので、その前に腹ごしらえをしようと考えた。桜木町の駅を出て海のほうへと歩みを進める。ぶらぶら、とは言いながら全く無目的というわけではなく、日本郵船歴史博物館だけは行くつもりでいた。それでも途中で見かけたギャラリーなどにひっかかり、博物館目前にして「Ceylon Tea」の看板につられてその紅茶カフェに入った。日本ではどういうわけか紅茶主体のカフェの成功事例が少ない。土曜の昼下がりで、場所によっては行楽客があふれているというのに、そのあたりは静かで、そのカフェもそのときは客は私だけだ。チャイとココナツバナナケーキをいただく。チャイは上品な味で、ケーキのほうは不思議な味だ。おそらくココナツが不思議の原因なのだろうが、菓子というより軽食に近い感覚だ。
ある企業を取り上げて、その社史を辿ったときに、それがこの国の歴史とどれほど深く交わるかというのも、その企業の大きさの尺度になるのではないだろうか。今回は、船の調度品と外航関連のポスター類に関する展示を観ようと思って日本郵船歴史博物館を訪れたのだが、然して広くもない館内をざっと歩いてみて、海運業というものの重さを感じた。
落語を聴くようになったのは40を過ぎてからだ。やはり自分が人としてひととおりのあれこれを経験してみて漸く少しは人情というものがわかるようになったということなのだろう。勿論、多くの噺家は10代20代から師匠に弟子入りをして修業を始めるわけだが、若い時代に噺家の道を進もうと決断できること自体が才能だと思う。噺家の道を志した人が全員大成するわけでもないし、生涯噺家を全うした人の芸が必ずしも優れているというわけでもない。人気と技量とは必ずしも比例しないし、二世三世がかならずしも恵まれているわけでもない。それでもやはり、いいものをみせて頂いたという気持ちになる噺はある。悲しくもない噺なのに、何故か涙腺が緩んでしまうこともあれば、おかしくもないのに笑いがこみ上げてしまうこともある。つまり、それが芸の力ということなのだろう。芸事というのは、もちろん努力があってこそ存在価値が生まれるのだろうが、才能あっての努力というところが大きいように思う。同じようなことを体験したときに、それを経験として自分の血肉にできる人と、体験に留まったまま忘れ去ってしまう人があるのではないか。体験を経験にできるのも持って生まれた能力に拠るだろう。結局のところ、芸事あるいは表現というものは、表現するほうも鑑賞するほうも、外部のものごとを内部化する能力のある者だけが愉しむことのできるものではないかと思う。
さて、今日の落語だが、私が噺家についてとやかく書くのは野暮というものだろう。開口一番も含め、たっぷり楽しませていただいた。とはいえ、「楽しかった」だけというものなんなので、いくつか思ったことを書かせていただく。
まず「三十石」。生で聴くのは初めてだ。サゲがなく、すーっと終わる形でまとめられていた。これもまた粋だなと思う。何が何でも噺にオチを付けるというのは、ある種の病ではないかと私などは考えてしまう。現実の生活は生まれてから死ぬまで、何事も途切れることなく綿々とつながり交錯し混合しているものだろう。そうそう起承転結がはっきりしているものなどない。しかし、なにがどうなのかということをあやふやなままにしておくというのは人情として不安なので、なにかというと「で、結論は何だ」となるのである。だからこそ、サゲずにすーっと終わって、しかも心地よいという噺をするというのは難しい、のではないだろうか。なにかのひとつおぼえのように「結論」だの「合理性」だのと騒ぎ立てるテンション民族にはなりたくないものである。
「はてなの茶碗」は好きな噺のひとつだ。「合理」と騒ぎ立てたくない、と書いた筆の先も乾かぬうちにこんなことを言うのもなんだが、この噺には価値というものの真髄が語られている。下手な経済の教科書よりも、市場経済というものを饒舌に且つロジカルに語っている噺だ。茶屋で使っている数茶碗。しかも漏れるというのだから不良品だ。中古品で不良品となれば、その貨幣価値は限りなくゼロだろう。それが著名な目利きの眼にとまったと勘違いした奴が騒ぎ出すところから、話題が話題を呼び、最終的に1,000両という値が付く。なんだか知らないが、「値打ち」だの「価値」だのと、それが絶対的な尺度であるかのように語られているのをしばしば見聞するのだが、大抵は噴飯話だ。そういう粗忽な人は、ひとまず寄席や落語会に足を運んで「はてなの茶碗(茶金)」とか「千両みかん」のような噺を聴いて、「価値」とはそもそも何なのかじっくり考えたほうがよいのではなかろうか。
「お若伊之助」はある種の怪談だ。狸が人に化けて人間に子を孕ませる。畜生と人間との交わりに関する民話の類はある。有名なのは『遠野物語』のオシラサマにみられる馬娘婚姻譚だろう。落語「お若伊之助」では人間の女性と狸の組み合わせだが、人の男性と狐の組み合わせで「天神山」という噺がある。人類史上、人と異類との交渉は皆無ではないだろうが、話としての異類婚姻譚は異類にその話が成立した時点での何事かを例えたものと考えるのが自然だろう。そんなことはともかく、まくらのなかで三三は、狐や狸に化かされるというのは、未知のことを語るのに「化かされる」という表現をつかったのだろうと語っていた。ちょうどそれが今は「科学の進歩で」というように「科学」に置き換えられているのではないかというのである。彼が例に挙げていたのは携帯電話だ。確かに電波で電話やネットにつながるというのは多くの人が知っているが、ではその電波というものがどのようなものなのかということを語ることができる人がどれほどいるだろうか、というのだ。なるほどそういうものかもしれない。
私の手元にある枝雀のDVDでは、なにかのまくらで、化かす化かされるというのは、自然と人間との距離を象徴しているのではないか、というようなことが語られている。狸や狐はかつてほんとうに人を化かしていた。しかし、人間が自然に対してあまりに傲慢な態度をとるようになったので、彼らは人間を相手にしなくなった、というのである。化かす化かされるということに関して、私は枝雀に一票を投じたい。
本日の演目
「みかん屋」 桂鯛蔵
「のめる」 柳家三三
「三十石」 桂吉弥
仲入り
「はてなの茶碗」 桂吉弥
「お若伊之助」 柳家三三
開演: 17時30分
終演: 20時00分
会場: KAAT神奈川芸術劇場