熊本熊的日常

日常生活についての雑記

何もしない日のはずが

2012年03月31日 | Weblog
今年も四分の一を終えた。今年に入ってから香港、広島、八丈島、仙台と足を伸ばす機会が多かったので四半期最終日くらいはじっとしていることにした。天気も良くなくて引き蘢るのにはちょうど良い日だ。しかし、午後になって気になることを思い出した。今月のはじめ頃に挽いた茶碗を削らないといけないのではないか、と。今、陶芸では面取の壷を作っているのだが、その壷を挽いたときに少し時間が余ったので、茶碗大の器を三つ挽いたのである。その後、壷の面取りにかかりきりになって茶碗のほうがそのままになっていた。室のなかにビニールをかけて入れてあるが、あまり時間が経ちすぎると乾燥が進んで削るのが厄介になる。どれくらい乾燥が進んだのか見ていないのだが、ひと月はちょっと長いような気がして、夕方になって雨も風も止んだのを潮に道具を抱えて教室へと出かけてきた。

心配したほど乾燥していなかったが、何かをして余りの時間でちょいちょいとやったというような仕事は、やはり後の作業がやりずらい。工程を重ねるものは、ひとつひとつをきちんとやるという心がけで取り組まないと良い仕事にならないものだ。そんなことを反省しながら三つの碗を削ってきた。

ナイーブな外部

2012年03月30日 | Weblog
今日は仙台市内を歩いた。午前9時に宿をチェックアウトする。まずは仙台ファーストタワーアトリウムで開催中の「せんだいにあったもの」という坂田和實のコーディネートによる古道具の展示を観る。まさか仙台で「坂田和實」の名に出会うとは予想もしていなかったが、今月は氏の講演会で幕開けて氏のコーディネイトによる展示の見学で終わることになった。それがなんとはなしに落ち着きが良いように感じられて嬉しい。今月はとりあえずの就職先が見つかってやれやれと思うこともあり、一旦乱れたリズムがなんとか落ち着いたということとも重なっているように感じられる。

3月3日の日本民藝館での講演会で氏はものとそれが在る空間との兼ね合いの重要性を語っておられた。そういう意味では「せんだいにあったもの」の展示は唐突な印象を拭えない。会場がオフィスビルのエントランスフロアのなかにある多目的スペースなのだから、多目的とはいいながらそこに弥生土器や昔の農機具が並んでしっくりくるわけがない。でも面白い。会場を訪れたとき警備員一人がいるだけで他に誰もいなかった。しばらくうろうろと展示品を眺めてから帰りかけると警備のおじさんが「10時になると係の人が来て説明してくれますよ」と言う。そのおじさんも妙な展示をするものだと思っているらしいことが表情から見て取れる。そりゃそうだよなぁ、と思うのである。展示の副題が「美しさって、何だろう。」だ。そこに新聞配達かなにかに使われていたようなごつい自転車であるとか、何十年も前のレジスターや、農家などで使われていたらしい補修跡がいくつもある大きな蒸し器とか、何の変哲も無い平瓦といったものが弥生土器や農機具と一緒くたになって並んでいる。それがまたよいのである。本展の展示品の多くが仙台市歴史民俗資料館の所蔵品とのことなので、そこへ出かけてみることにした。

JRのあおば通駅から仙石線に乗り、榴ヶ岡で下車。地上に出て榴岡公園を突っ切って目的地に到着。仙台市歴史民俗資料館は榴岡公園の一画にある。建物は宮城県に現存する最古の洋風木造建築で、二階建て寄棟造瓦葺、漆喰壁、コーナーストーン装飾、上げ下げ窓、洋風円柱ポーチなどの特徴を持つ。「最古」といいながら竣工時期は明確に特定されておらず、明治7(1874)年と推定されているらしい。もともとは帝国陸軍第四連隊の兵舎として使われ、昭和20(1945)年8月までは陸軍が使用していた。戦後は昭和31(1956)年まで占領軍が使用、その後、昭和50(1975)年まで警察学校の施設として使われていた。昭和52(1977)年に榴岡公園整備に伴って現在の場所に移築されたそうだ。移築に際しては明治37(1904)年当時の外観を再現したという。そういういわれのある建物なので、内部の梁や階段の手摺といった構造物ひとつひとつに標識が付されている。内部は一階が事務所で二階が展示スペースだ。展示されているのはもちろん民俗史料が中心だが、建物の由来の関係で兵舎内部を再現した部分もある。「民俗博物館」とか「民俗資料館」というものは各地にあるが、私の知る限り、国立歴史民俗博物館の近世および現代のコーナーに重なる。ただし、ここの展示はこの100年ほどに焦点を当てている印象が強く、電気製品のカタログや学校教科書などは、展示としてかなり細かく網羅している。東北というとなんとなく暗い印象があるのだが、仙台に関しては米どころの中心地であり、近代の軍都であり、学術研究拠点のひとつでもあり、北日本の中心都市でもあるということで、かなり豊かな土地であるように見える。また、そう思わせるような展示内容だ。

歴史民俗資料館からは宮城野大通を仙台駅まで歩く。仙台の幹線道路はとにかく幅が広い。駅を東口から西口へ抜けてバス乗り場へ行く。観光用の循環バスがあり、それ用の一日乗車券をバス案内所で購入する。結論から言えば、これは失敗だった。通常なら平日は20分間隔の運転なのだが、震災被害の影響で一部ルートがいまだに使用不能で迂回路を使っているといった事情もあって現在は30分間隔だ。ところが時間帯によっては観光客が多くて今日も少なくとも午前中から午後の早い時間帯まではどのバスも満員で運行している。30分間隔で乗り降りに難儀をするというのでは使い勝手が悪い。小銭を用意するなどして一般の路線バスを利用するほうがはるかに簡便に市内を動くことができる。そんなわけで、一日乗車券を買ったにもかかわらず、利用したのは仙台駅前から瑞鳳殿までだけだった。それ以外はひたすら歩いて移動した。

瑞鳳殿は伊達政宗公の墓所だ。仙台伊達藩初代藩主である伊達政宗、二代目の忠宗、三代目の綱宗の御霊屋が敷地内にある。墓所なので人気の少ない場所にある。にもかかわらず昭和20年7月10日の米軍による空襲で焼失した。ようやく1970年代に再建され、今世紀に入ってさらに改修が加えられて現在の姿になったのだが、昨年の震災で屋外の石灯籠が全基倒壊するなどの被害を受けた。駅周辺の市街地を歩くぶんには震災の爪痕はもや殆ど感じられないのだが、歴史的建造物のようなナイーブな建築物となると破損した場合の原状回復が容易ではないのである。石灯籠は一部を除いて復旧されているものの、注意深くみれば比較的新しい欠けなどを確認することができる。

敷地内には資料館があり、再建に際して発掘された埋蔵品のレプリカなどが展示されている。人骨をもとに復元された伊達政宗の等身大の姿や、忠宗と綱宗の頭部像も展示されていて興味深い。政宗というとNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で政宗を演じた渡辺謙をイメージするのだが、実際にはかなり小柄な人だったようだ。推定身長159センチ、血液型はBで、死因は食道癌および腹膜炎だったという。

瑞鳳殿から広瀬川を2回越えて仙台市博物館に行く。広瀬側というのは都市域内を流れる川にしては蛇行している。川付近のある地点から別の地点へ移動するに際し、なるべく直線で結んだ線に近い経路で行こうとすると、時として川を串刺しにするように何回か越えることになる。川が蛇行することに何の不思議もないのだが、蛇行をそのままにしておくと増水したときに氾濫を起こし易くなるので、都市を流れる比較的大きな河川は流路を改修して水害をおこしにくくするのが一般的ではないだろうか。戦後に大規模な都市改修を実施しているにもかかわらず広瀬側が大きく蛇行したままになっているのは、川底が深い谷になっていて氾濫の危険が小さいことと、改修が困難であることによるのだろう。こういう都市は他にあるだろうか。瑞鳳殿から仙台市博物館へ至る途中、大手町という地域にギャラリーやそれに類似の商店が点在している。住宅街に埋没するように営業しているので、気をつけておかないと見逃してしまうのだが、そういうものがあるのがなんとなく自然に感じられるような雰囲気の地域だ。

仙台市博物館は旧仙台城の三の丸に立地している。収蔵品は伊達家から寄贈された史料や品物を核に、仙台に関する歴史や文化に関するものとなっている。展示されている年表を見ると、仙台は多くの震災と冷害に見舞われていることがわかる。最近でこそ温暖化が問題になっているが、古くは気候が厳しく農業、殊に元来は熱帯性の作物である稲作には課題の多い地域なので冷害が多いのはやむを得ないところもある。東北地方に限らず日本列島全体が地震の巣の上に横たわっているようなものなので大規模地震の被害もある程度は覚悟しないといけないのかもしれない。それにしても、数十年に一度の割合で何がしかの大規模災害に見舞われ、その都度復興を果たしてきた。よく東北の人は粘り強いなどと言われるが、それは単なるイメージのことではなく、現実を受け容れるには粘り強さがないといけないということなのだろう。

仙台市博物館の一階では写真展「生きる」が開催されている。これは今月2日から15日まで新宿で開催されていた東日本大震災関連の写真展が巡回してきたものだ。テレビも新聞も無い生活をしているので初めて見る写真ばかりで、もう一年も前のことで、しかも東北とは何の縁もないのに、眺めていたら涙が溢れてきてしまった。今、その時のことを思い出しながらこうしてキーボードを打っているだけで目の前のスクリーンが曇ってしまって見えにくくなる。若い頃は何かに涙することなど滅多に無かったように思うのだが、歳を取ると涙腺が緩くなるのだろうか。改めて、生きるとはどういうことなのかと思う。

仙台城は石垣や一部のブロンズ像などの修復が終わっておらず、城跡内部を通る道路にも通行止め区間が残っている。仙台市博物館を出て大手門跡のほうへ行くと、門跡の石垣が崩壊しており、門跡に向かって右手の壁は中央部が陥没している。本丸方向へ進むと崖側の歩道の舗装とガードレールが部分的に新品になっており、震災後に修復されたものと思われる。その新しいガードレールから崖下を覗くと斜面の崩壊跡がある。その先は全ての石垣が何がしかの被害を受けており、崩壊しかかった石垣を仮止めすべく大きな土嚢が積み巡らされている。石垣というのは組み上げられた状態では堅牢なのだろうが、想定を超える衝撃を受けるなどしてその一部が崩壊すると単なる瓦礫になってしまう。堅牢に見えていながら、実はナイーブな構造物なのである。無数に組み上げられた石のなかのひとつでも構造から抜け出てしまうと、それを押し戻して済むというようなことでは収まらず、その抜けが出た周囲の広範な部分、場合によっては全体を組み直さなければならなくなる。おそおらくそれは石垣に限ったことではなく、構造を持ったもの全てに共通した性質だろう。人体のような有機物も、社会組織のような半有機物も、無機物の構造体である石垣と似たことがあるように思う。ただ、有機物の場合は個々の構成要素がある程度自立的に動いて構造全体の崩壊を阻止しようとするので、無機物ほどにはナイーブではないということだろう。本丸も所々が修復工事の真最中だが、騎乗の伊達政宗公の銅像は何事もなかっかのように城下を見つめている。しかし、その近くにある鳥が羽を広げた像は台座から転落してブルーシートがかけてある。転落した像の損傷を拡大しないためにそのままにされているのだろう。

由緒のある公園やそれに準じた場所というのはどこでもそうなのかもしれないが、仙台城跡は銅像や石碑の類が多い印象がある。そうした記念碑を残す意味というのは一体何だろうか。本丸から坂道を下りながらふと考えた。私も自分の銅像をどこかに建ててやろうかと。映画「ショーシャンクの空に」のように人知れず少しずつ台座を設置する穴を掘り、ある程度の大きさになったところで銅像を専門業者に発注するのである。像と台座が完成したところで深夜に公共工事のような顔をして設置してしまう。公衆便所の近くのような目立たない場所にある日忽然と姿を現す。半年ほどしてから、誰かが気付くが誰も何も知らない。公園などの公共の場所であれば、役所はそれを撤去するだろう。しかし、誰が建てたものなのかわからなければ撤去費用の請求先がわからない。費用が計上できなければそのまま放置される。そのことが話題になると、真似をする奴が現れないとも限らない。100年もすると公園という公園に銅像がニョキニョキと立っている。なんていうふうになったら楽しいかもしれない。

本丸からの下りは沢門跡から清水門跡へ向かう。この道は舗装されておらず山道のような風情がある。清水門跡の石垣も崩壊寸前で囲いがしてある。再び仙台市博物館の前を通り残月亭の脇を抜ける。残月亭は土壁が落ちたり屋根が損傷するといった被害があるらしく、周囲を工事用の柵で囲われて修復作業の最中だ。ここから宮城県美術館へ行こうかと思ったが、既に午後4時近くなっており、見学の時間が十分に無いので仙台市戦災復興記念館へ向かう。

太平洋戦争のとき、日本は至る所が米軍の空襲を受けた。東京で暮らしていると、東京大空襲と広島・長崎の原爆以外にあまり具体的なイメージが湧かないのだが、私の母親は宇都宮で空襲に遭っており、そのときのことはたびたび聞かされる。学生の頃に平泉を訪れたとき、平泉駅の跨線橋の木製の手摺に米軍戦闘機による機銃掃射の弾痕があって、こんなところまで攻撃されたのかと驚いたことがある。仙台の空襲のことも今回初めて知った。

仙台は昭和20年7月10日午前0時03分から約2時間に亘ってB29戦略爆撃機123機による空襲を受けた。投下された爆弾は100ポンド膠化ガソリン爆弾、500ポンド集束焼夷弾、500ポンドエレクトロン集束焼夷弾の計12,960発、917.6トンだそうだ。集束焼夷弾とはひとつの爆弾ケースのなかに複数の子爆弾が格納されており、上空で子爆弾が放出されて地上に落下する。どちらの集束焼夷弾にもひとつあたり48個の小型焼夷弾が収まっている。この日投下された12,960発のうち集束弾は2,155発なので、全ての集束弾が子爆弾を無事に放出したとすれば地上に降ってきたのは114,245発という勘定になる。これにより仙台市中心部は焦土と化した。翌年、仙台市は復興事業計画をまとめ、15年後の昭和36年3月に工事を完了、さらに15年後の昭和52年10月に事業を完了した。仙台市戦災復興記念館では、その空襲から復興までを俯瞰できるようになっている。

昨年9月に倉敷で開催された民藝学校に参加したとき、仙台に光原社という民芸品店があるのを知った。仙台にでかけることがあれば是非立ち寄ってみたいと思っていたが、今日その機会が訪れた。戦災復興記念館を後にして晩翠通に出て、青葉通へ向かって南下する。晩翠通と青葉通の角のあたりに土井晩翠が暮らしたという家屋が保存されている。青葉通に入り、晩翠の家であったという晩翠草堂の前を通って国分町通との交差点まで進む。その交差点を南に折れてさらに歩くと国分町通と五ツ橋通の角に仙台光原社がある。看板も内装も有名な作家やデザイナーの手になるものなので絵に描いたような民芸品店だ。仙台に立地しているので東北のものが多いのかと思っていたが、品揃えは都内の民芸品店とそれほど違わない。民芸品というのは万人受けするものではないので、扱うほうの店もそれなりに主義主張があり、商品ひとつひとつを徹底的に吟味して選んでいる、と思う。それくらいなので店員の商品知識は商品そのものだけではなく作り手についてまでも網羅しているものだ。この店も例外ではなく、たいへん愉快な時間を過ごすことができた。倉敷出身で現在はタイで活動しているという作家がデザインした木綿と麻の混紡布に草木染めを施したシャツを一着買い求めた。

店を出ると午後6時だ。国分町通を北上し、南町通との交差点を東へ折れ、最初の信号から北へアーケードが伸びている。そこを商店のウィンドウを眺めながら歩く。途中、カフェに寄って一服しながら、午後7時10分前くらいに仙台駅に着く。仙台からは午後7時13分発のやまびこ64号に乗り大宮で埼京線に乗り換えて板橋で下車。巣鴨の住処には午後9時半過ぎに着いた。

松島や…

2012年03月29日 | Weblog

「松島や ああ松島や 松島や」が芭蕉の俳句だと紹介されることがあるが、俳句とはなにかという基本的なことがわかっていれば、これを「俳句」と認識することなどありえない。これは江戸時代後期に田原坊が作った狂歌で、仙台藩の儒者である桜田欽齊が書いた「松島図誌」に掲載された田原の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」の「さて」が「ああ」に置き換えられて広まったものである。しかし、芭蕉が松島について憧れを抱いていたのは事実らしい。『おくのほそみち』の旅において芭蕉が松島を訪れたのは元禄2年5月9日(新暦1689年6月25日)から翌10日(同26日)にかけての一泊だけである。手元に山本健吉の手になる『芭蕉全発句』(講談社学術文庫)があるのだが、その記述を引用しておく。
(以下引用)
嶋々や千々にくだけて夏の海(蕉翁文集)
 五月九日、塩竈を船出して午の尅松嶋に着船。瑞巌寺に詣で、雄嶋に渡り、八幡社・五大堂を見て、その夜は松嶋に宿った。松嶋を見ることはこの旅の目的の一つであったが、紀行の中でも松嶋のくだりは改まった態度で文を彫琢し、また『風俗文選』に収める「松嶋ノ賦」も残っている。ただし松嶋では、佳景に眼を奪われて句が口に上らなかったと見え、紀行には句を載せていないが、この句は松嶋で作った唯一の句で、左の前文とともに『蕉翁文集』に収められている。
 前文、「松嶋は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、此嶋にのみ思ひよせて、心を尽し、たくみをめぐらす。をよそ海のよも三里斗にて、さまざまの嶋々、奇曲天工の妙を刻なせるがごとし。おのおのまつ生茂りて、うるはしき花やかさ、いはむかたなし。」
 句意は、嶋々が千々に松嶋湾内に散在していることと、夏の海の波が千々にくだけて嶋々の岸辺を洗っていることを掛けて言った、湾内の叙景で、さして手柄のない句である。
(山本健吉『芭蕉全発句』講談社学術文庫 398頁)

芭蕉全発句 (講談社学術文庫)
山本 健吉
講談社

日本三景のひとつにかぞえられ、芭蕉があこがれたという松島だが、観光地と化すと品格が落ちるのは避けられないということなのだろう。海岸沿いにどこの観光地にもあるような宿泊施設、土産物店、飲食店が軒を連ね、いかにも一見客相手ですといわんばかりの粗末なものを出している。海の方の景色にしても、ひとたびがっかりしてしまった眼に起死回生の強い印象を与えるほどのものには思えない。日本の観光地はどうしてどこも同じようになってしまうのだろうか。

今回松島を訪れたのはあの地震から1年を経て被災地が今どのようになっているのか自分の眼で見たかったからだ。つまり、松島である必然性は無いのだが、東京からのアクセスが良いということと、最近興味を持っている俳句に絡んで芭蕉ゆかりの土地ということからここを選んだ。芭蕉が松島にあこがれ、『おくのほそみち』行の目的の一つとして松島を訪れるということがあったのは有名な話だ。

大宮からMaxやまびこ129号に乗って終点の仙台に着くのが午前11時08分。仙石線の高城町行き普通列車が仙台を発つのが11時21分。13分の待ち合わせは余裕があるように見えるが、新幹線ホームと仙石線のホームとは思いの外離れているので要注意だ。仙石線ホームは地下なのである。仙台を出ると陸前原ノ町までは地下を走る。地上に出て車窓に飛び込んで来る風景はどこの都市近郊にも見られる密集した住宅街だ。走行中の電車から見る風景に地震の爪痕は感じられない。小鶴新田からは駅名の通り田園風景に一変する。そして陸前高砂あたりになって再び住宅が増え始めると、その屋根が妙に新しいことに気付く。瓦屋根に限って屋根だけ新品というような家屋が目立つので、それが震災で補修を余儀なくされたことが想像できる。そして終点の高城町に着く。が、高城町は仙石線の終点ではない。いまだに高城町と陸前小野の間が復旧していないのである。

高城町から海岸へ向かって歩く。高城町駅周辺は何事も無いかのようだが、松島病院が足場に囲まれているのは震災と関係があるのだろうか。橋を渡り国道45号線に入る。地図上でファミリーマートとなっているコンビニ跡の手前を海岸へ向かって折れる。このあたりは津波の被害があったはずなので、ファミマが「跡」になっているのもその所為かもしれない。ちなみにすぐ近くのセブンイレブンは営業中だ。海岸沿いの細い道路は通行止めだが歩行者は通ることができる。落石の危険がある旨の看板があるが、その崖の上はホテルで、営業している様子だ。

その通行止めの区間を過ぎると観光客の姿が多くなる。福浦橋の袂にある料金所兼食堂から先、雄島のあたりまでが観光区域のようになっている。例年の今時分がどのような様子なのか知らないが、ほどほどに賑わっているように見える。それでも観光船などが発着する埠頭の一部が海中に陥没したままになっていたり、海岸と雄島を結ぶ渡月橋がなくなったままになっていたり、注意してみれば震災の被害が残っている。瑞巌寺は今まさに修復工事の真最中で、境内にはプレハブの工事事務所が構えられ、建物は足場に囲まれ、内部も工事用に樹脂のシートで覆われている。それでも公開できるところは公開し、通常ならば秘仏で33年に一度しか御開帳のない仏様も特別にお出ましになり、復興へ向け寺自身も総力を挙げている様子が伝わってくる。

今回初めて訪れたのだが、瑞巌寺というのは寺というより丸ごと聖地のような風情がある。境内には国宝や重文がいくらもあるくらい古い寺だが、古すぎて由来についても諸説あるらしい。ただ、松島海岸界隈はこの寺の持ち物と言っても過言ではないようで、現在橋で結ばれている福浦島も五大堂も雄島もこの寺の関連だ。別院の円通院は縁結びにご利益があるのだそうで、良縁に恵まれるようお参りをしておいた。そんなこんなでうろうろきょろきょろと歩き回り、松島海岸駅を午後4時02分に発車する列車で仙台市内へ戻った。

仙石線で終点のあおば通で下車し、歩いて予約しておいたカプセルホテルへ向かう。チェックインを済ませて荷物を置いてから、夕食を食べたり街の様子を見たりするために外出する。仙台の繁華街はさすがにもう震災の痕跡は見られない。人や車の往来も活発で、「がんばれ仙台・宮城」とか「がんばっぺ」というような標語を入れたポスター類がなければ震災は遠い過去のことであるかのようだ。しかし、仙台駅前の陸橋が一部補修工事中だ。これも震災と関係あるのだろうか。

それで夕食だが、宿の近くで見つけた「ほそやのサンド」というハンバーガー屋でハンバーガーとコーヒーをいただく。店にある説明文によれば、ここは仙台におけるハンバーガー発祥の地なのだそうで1950年創業だという。ハンバーガーは洋食屋のハンバーグをバターロールと同じ生地で作ったかのようなバンズに挟んだだけの至ってシンプルなもので、旨いとか旨くないとか、そんなことはどうでもよくなってしまう味である。その味というのも、ハンバーガーだけのことではなく、店まるごとの深い味わいがある。なんかとってもいいなぁ、と思う。


10%の重さ

2012年03月28日 | Weblog
来月になると遠出ができなくなるので、明日、仙台に行くことにした。朝食を済ませた後、ネットで宿泊先や往復の足を探していたら9時半頃に宿の価格の一部がざっと変更されたように感じた。一部で直前モードに切り替わったのかもしれない。仙台に泊まるのは大学3年の夏休み以来のことだ。当時はユースホステルに泊まり、今回は単純に最安価格のカプセルホテルを予約した。新幹線のほうはJR東日本のサイトで予約する。行きは定価の10%引きの席で、帰りは若干のネット割引。大宮・仙台間は乗車券と特急券合わせて1万円近くするので一割引はそれなりにありがたい。

1割といえば消費税が10%になるらしい。税率引き上げに向けていろいろ言われているが、そういうものを聞いていて不思議に思うことがある。日本の財政が深刻な状況にあり、国家としての機能を維持するには収入を増やさないといけないという。そのなかで毎年の支出がどれくらいで、それに対する収入がいくらで、不足分を国債に依存し、国債の残高がいくらで、というようなフローに関する話はいくらも出てくるのに、日本が国家として保有している資産がどれほどなのかということは聞いたことが無い。もっと不思議なのは、それを誰も問うている様子がないことだ。家計でも企業財務でもストックとフローの両方を把握した上で行動しているはずだ。自分の日常生活における当然を自分が身を置いている国家財政の議論に当てはめるという発想がないのは何故だろうか。想像するに、役人も議員も報道関係者も経済評論家も皆エライひとたちなので自分で家計簿をつけるというような小さなことに思いが至らないのではないか。何千億もの年金基金が「消失」しても大騒ぎになるまで当事者以外は気がつかないのだから何のための「監督官庁」だかわからないような役所もあるくらいだ。小さな事を気にしないというと大人物のようだが、かといってこの国に大きなビジョンがあるとも思えない。エライ人たちというのは幽霊のようなものなのかもしれない。まさに共同幻想体だ。

10%の割引が「大きい」と感じられるということは10%の消費税も同じくらい「大きい」と感じられるはずだ。そういうものだと慣れてしまえばどうというほどのことでもないのかもしれないが、引き上げられてしばらくは間違いなく経済活動は停滞することになるだろう。財政を立て直すために税収増を図るはずが、経済活動の沈滞で却って税収が減ってしまうということにでもなれば、その責任は誰がどのような形で取るのだろうか。木を見て森を見ずという。部分最適を積み上げても全体最適に至るとは限らないというのは誰しも経験則として実感しているはずだと思うのだが、税金という制度に関する変更の難しいところは、その影響がすぐにはわからないというところにある。制度を手直しして、それが社会のなかに咀嚼され、人々の行動に反映されるまでに何年かかるかわからない。その間にもさまざまな影響が日に陰に現れて、なかには直ぐに対応しなければならないこともあり、なかには無視しても差し支えないものもあり、しかしその場においては無視してもよいのかどうか判断がつかないものである。

昨年の地震に伴う原発事故で原発というものが制御不能であることが明らかになった。50いくつもの原発を抱えてしまった後になって、つまり原発というものが電力行政という制度に組み込まれてしまった後になって、その問題が露呈され、露呈されたときには手の付けられない状況なのである。原発による発電コストは他より安いはずなのに、こういう事態に陥って所轄の電力会社は実質的に国有化されなければならないほどの費用を負担しなければならくなった。費用というのはこうした万が一の事態への対応も見据えた上で算定されているのかと思っていたが、そうではないことが明らかだ。原発の厄介なことのひとつは廃棄物の処理だ。50いくつある原発の殆どが停止している、つまり電力という収入源を生まない状態になっているにもかかわらず、毎日費用は発生している。爆発してしまった原発に至っては再稼働しないことが確定しているのに、事故の後始末にどれほどの費用がかかるか誰にもわからないようなことになっている。殊に垂れ流し状態になっている放射能への対応と、それに汚染された廃棄物の処理は費用だけの問題ではないだろう。誰の手で、どのように処理され、最終的にどうなるのか、誰かわかっているのだろうか。

それで消費税だが、10%に引き上げたときに、どのような影響があって、国家財政はどうなるのか。誰かわかっているのだろうか。

とりあえずの年度末

2012年03月27日 | Weblog
陶芸は面取りの壷の削りに終始。面あるいは稜線をきれいに際立たせることに主眼を置いて作業をしているので、鉋だけでなく木工用の目のうんと粗い鑢も使う。こういう鑢の使い方があったのかと新鮮な気分になる。最終的な仕上げまでもっていくには土がやや柔らかいので、ある程度のところまでにして残りは来週。来週からは夜のクラスになる。平日昼間の習い事は陶芸を含め、木工、茶道、コーヒーなど最盛期には4つあったが、コーヒーはロンドン赴任前に一応の卒業となり、木工と茶道は昨年12月の解雇を機にやめることにしたので、今は陶芸一本だ。今ちょうど新しい技法の練習に入ったところなので、同じ先生で続けようとすればこれまでと同じ日で時間を夜にするよりほかに選択肢が無かった。勤めの都合で夜の時間帯も出席が難しいようであれば、別の先生につくことになる。この先、どのように技能の習得と向上を図り続けるかということが目下最大の課題だ。もっと他に悩むことは無いのかと思われるだろうが、自分のなかではこれがいろいろにつながってくる予定のことなので、やはり大きな問題なのである。

陶芸教室からの帰り道、大型書店に立ち寄ってアントニオ・タブッキの作品を5冊買い求める。いったい本当に読むだろうかと自分でも思うのだが、著者が亡くなると版を重ねることがなくなって読みたくても読めなくなるというようなことになりかねないので、売り場の棚に並んでいたものをとりあえず入手しておいた。今日買ったのは以下の作品。
『逆さまゲーム』須賀敦子訳 白水社
『遠い水平線』須賀敦子訳 白水社
『供述によるとペレイラは…』須賀敦子訳 白水社
『他人まかせの自伝』和田忠彦/花本知子訳 岩波書店
『時は老いをいそぐ』和田忠彦訳 河出書房新社

夜、ずっと気になっていた近所のピザハウスに行ってみる。ピザハウスというより、あてに手作りのピザを出す飲み屋という感じだった。常連客は近所の自営業者が中心で私のような酒を飲まない一見客は居心地がよくなかった。でも、気になっていたことが解消して気分が良かった。

たぶん忘れ得ぬこと

2012年03月26日 | Weblog

ヤフーのニュースで昨日アントニオ・タブッキが亡くなったことを知る。彼の作品は何年か前に『インド夜想曲』を読んだだけなのだが、自分のなかにイタリア人とかイタリア文学といったものの印象がまとまっていないので「タブッキ」というその名前が妙に印象に残っていた。この本を読むきっかけになったのは、ロンドンで暮らしていた頃、休暇で一時帰国した際にホテルのロビーでたまたま手にした日経新聞の文化面に須賀敦子のことが書いてあり、それに興味を覚えてロンドンに戻ってから河出文庫版の須賀敦子全集を全巻取り寄せて読み、そのなかでタブッキのことが書かれていたからだ。その第4巻に「本に読まれて」という章がある。この章には須賀が書いた書評が集められている。そのなかに「まるでゲームのようなはなし ヴェッキアーノにタブッキを訪ねて」と「気になる作家アントニオ・タブッキ 自伝的データにまつわるタブッキのトリック」という文章がある。全集のなかには他にもあるだろうが、とりあえずこの二つの文章が直ぐに見つかった。前者は白水社の「出版ダイジェスト」1991年9月11日号に掲載されたもので、後者は「早稲田文学」の1993年12月号に掲載されたものだ。もともとは別の出版物なのだが、個人全集というまとまった出版物の同じ巻のなかのふたつの文章に似たような表現で触れられていればいやでも気になるものだ。

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
アントニオ タブッキ
白水社

(以下引用)
 フィレンツェの友人にもらったアントニオ・タブッキの『インド夜想曲』をはじめて読んだのは、昨年の春、イタリアから日本に帰る飛行機のなかでだった。こんどおなじ白水社から出る『遠い水平線』も、やはり昨年、メキシコに行く飛行機のなかで読んだ。そんなことから、タブッキと私は飛行機のなかでばかり出会う運命かもしれない。そう書きそうになってよく考えたら、それは単にタブッキの本がどれも小さくて、旅行中読むのに便利だからとわかって、なあんだと思った。
(「まるでゲームのようなはなし ヴェッキアーノにタブッキを訪ねて」『須賀敦子全集 第4巻』河出文庫 276頁)

 『インド夜想曲』を読んでアントニオ・タブッキというイタリアの現代作家の存在を知ったのは、1991年の初夏、東京からメキシコを経てコスタリカに行く飛行機のなかでだった。迷路のようなインドの旅の話を、当時の自分自身にとっても、あるいは客観的な視点からみても、これまた迷路みたいに入りくんだラテン・アメリカへの旅の途中で読んだのは、ほとんど暗示的でさえあった。それ以来、タブッキは自分にとって《気になる存在》の作家になってしまったのだが、日本の読者には四冊目にあたる彼の作品集『逆さまゲーム』の訳にとりくんでいるいま、ちょっと立ちどまって自分なりのタブッキ論を試みるのもわるくないだろうと思った。
(「気になる作家アントニオ・タブッキ 自伝的データにまつわるタブッキのトリック」『須賀敦子全集 第4巻』河出文庫 320頁)

須賀の文庫版全集は8巻を全て読んで、そのなかに触れられている本もいくつか読んでみた。私自身は文学の素養が絶無なので、そのすべての味わいを素直に楽しむことができたとは言い難いが、全集を含めて、須賀と彼女が言及した作品がほとんど私か私の子供の手にあることをみれば、なにか自分の感性に引っ掛かるものを感じたのだろう。唯一他人の手に渡ったのは吉行淳之介の新潮文庫版『砂の上の植物群』くらいではないだろうか。

海外で暮らしていて日本語に対する飢餓感を多少は覚えていた所為なのかもしれないが、須賀の全集もそこで触れられていた作品のいくつかも、妙に忘れ得ぬものとなっている。だから、タッブッキの死という多くの日本人にとっては気にも留められないようなことが妙に気になってしまった。

今日は住民登録をしてある自治体の役所へ出かけて国民健康保険の加入手続きをした。実質的な退職は12月2日だが形式上は3月15日なので、職場の健康保険は3月15日まで有効だった。その翌日に保険証を保険組合へ返却し、併せて資格喪失証明の発行を依頼しておいたところ、その書類が23日に実家に届いた。それを手に今日国保の手続きを済ませたのである。その後、先日受けた入社前健診の診断書を受け取りに病院へ行く。医師の聴診で心臓から雑音が聞こえると言われてどうなるのかと少し心配していたが総合診断は「異常なし」だった。これら本日入手した国保の保険証のコピー、健康診断の診断書の原本、健康診断の費用の領収書、前の勤務先の今年分の源泉徴収票を4月からの就職先へ簡易書留で送る。就職先から今月末を期限に提出を求められている書類がいくつもあるのだが、来月にならないと交付されないものを除き、これで全ての提出を完了した。

書類を送ってやれやれと思ったところで、少し遅めの昼食をいただく。3ヶ月ほど前に近所に開店したきじ丼の店で本物の雉丼を頂く。この店の亭主は近くの台湾料理屋の息子だ。これまでは実家を手伝っていたのが、いろいろ想いを胸に巣立ったというわけだ。今日初めて知ったのだが、「きじ丼」というのは雉の肉を使った丼料理という意味ではなく、「きじ」という調理法によって調理をした食材を使った丼料理なのだそうだ。この店は本物の雉もメニューに入れていて、「きじ丼」も「雉丼」もどちらにもこだわりを持って営業しているという。例えば、雉肉の仕入れ先は注文の電話を受けてから雉を絞めるという取引先なのだそうで、肉の鮮度には自信があると語っていた。雉の肉など滅多に口にしないので、それがどの程度のレベルなのか皆目わからないのだが、少なくとも私の味覚には旨いと感じられた。店は以前に蕎麦屋として営業していた場所を居抜で使っており、カウンターだけの小さなものだが、亭主を含めて全体的に感じのよい店だ。

腹が膨れて落ち着いたところで、ハニービーンズへ立ち寄ってコーヒー豆を買う。店で店主とおしゃべりに興じていたら、町内会長が現れた。彼と会うのは昨年5月以来だ。その後、彼が引っ越してしまったり、彼の仕事に多少の変化があって行動圏が以前とは違ってしまったこともあって、すっかりご無沙汰になっていたが、久しぶりに元気そうな姿に再会できて愉快だった。

結局、昼飯を食べてコーヒー豆を買うだけで2時間かかった。昔は当たり前にあった立ち話というものが今はそのきっかけすら少なくなった。自分の身の回りにどのような人が暮らしているのか全くわからず、普段の何気ない交流があれば防ぐことができたような事件や孤独死といったことが今は当たり前に起きるようになってしまった感がある。それを思えば、近所に買い物に出て、出た先で引っ掛かってついつい長い時間を費やすというのは、贅沢なことのように思われる。


三郷にて

2012年03月25日 | Weblog
三郷まで小三治一門会を聴きに出かける。埼玉県民のくせに今まで三郷がどこにあるのか知らなかった。巣鴨の住処からは徒歩で埼京線板橋駅へ行き、武蔵浦和で武蔵野線に乗り換えて三郷で下車する。単純だが、乗車時間だけで最短40分、埼京線が各停ならあと数分余計にかかる。その上、埼京線も武蔵野線も首都圏の鉄道路線のなかではローカル線なので、乗り継ぎが悪ければ乗り換えに10分以上はかかるし、板橋駅に着いてやはり10分近く待つこともありうる。板橋駅から三郷駅まででざっくり1時間だ。埼玉県民としてもう一言付け加えるなら、土地の品格というか雰囲気のようなものは、そこに立地する県立高校のレベルで推し量ることができる。最近、何かで武蔵野線沿線の発展について語られている記事を読んだが、私ならたとえ交通網の拡充で「発展」が期待できるとしても武蔵野線沿線に住もうとは思わない。そういう意味では実家の場所もちょっとどうかという所だ。尤も「発展」の定義は人それぞれなので、そこに価値を見出す人もいれば、そうでない人もいるというだけのことだが。

土地の品格というか雰囲気のようなものが何故重要かといえば、それによって旨いものを食べることのできる店に出会う確率が大きく変わってくるように思うからだ。そういう点で、今日の最大の課題は昼飯をどこで食べるかということだった。初めての場所ということもあり、ばたばたと慌てるようなことをしたくなかったので、寄り道をせずに三郷へ行った。駅を出て、会場である文化会館に至る大きな通りを眺めて、まぁ想定通りかなと思う。大手の飲食チェーンの店舗がいくつか並び、その間にどこの街にもありそうな中華料理屋がある。どこに入ろうか迷いながら歩いているうちに、飲食店の並びが途切れるところまで来てしまった。その大通りから脇に入ったところにイタリアの国旗がぶら下がっているのを発見。近づいてみるとイタリア料理屋だった。午後1時頃だったが、店に入ると1人分の席を用意してくれた。プリフィックスのようなメニュー構成になっていて「おすすめ」というリゾットをメインしてランチコースにしてもらった。取り立ててどうこうというほどでもないのだが、私としては十分満足だった。リゾットはまずまずで、デザートというコース全体を食べ終えた時に一番記憶が生々しい部分が旨いというのはよいことだ。カボチャのプリンを頂いたのだが、カボチャ感がしっかり出ているところに好感を覚えた。逆に記憶が薄いコースの最初に登場するパンだが、近頃流行らしい米で作ったパンだった。これは普通のイタリア料理屋っぽいもののほうが私は好きだ。

それで落語だが、気のせいかもしれないが、開口一番が直近の落語会とかぶることが多い。今月2日に川口で聴いた三三と喬太郎の二人会でも花どんが「金明竹」を口演して今日もこみちがこのネタなのである。以前にも「初天神」が連続したことがあった。単なる偶然なのだろうか。それとも若手が勉強会のようなことをやっていて、月とか四半期というような単位で課題ネタを決めて演っているというようなことがあるのだろうか。同じネタを比較的短い間隔でいろいろな噺家で聴くのは、聴くほうにとっても勉強になる。勉強、というと大袈裟だが、噺家の個性が強めに感じられて面白い。

寄席の売店や落語会の出店では「東京かわら版」という月刊誌を販売している。普段は見向きもしないのだが、どういうわけか今日は買ってしまった。「今月のインタビュー」というコーナーがあって、最新号は偶然にも小三治だった。映画の「小三治」でもいい言葉だなぁと感心するところがいくらもあって、神保町の映画館で観た後に、DVD化された時に買って、頻繁に観ていた時期もあった。「かわら版」のインタビューにも思わず付箋を貼ってしまった箇所がいくつかある。自分のなかでは、噺だろうが話だろうがこの人の言葉を聴くだけでありがたいというような存在、というと少し大袈裟だが、そんな色のある存在であることは確かだ。インタビュー記事では以下のやりとりのなかのある部分に付箋が貼ってある。
(以下引用)
小三治 今のところの私の理想の落語はお伽話です。父親が半分居眠りをしながら子供に「ねえねえ、その先は」って言われて「おうおう」って答える。トロトロお伽話をする。そこには山場もない、なんにもないんですよ。だけど聞いている子供は父親のその話から世界がいっぱい見えてくるんですね。それが噺じゃないかと。それに比べて俺の(高座)は言い過ぎだよな。
聞き手 そうは思いませんが…。
小三治 四代目の小さんを聴いてると「何これ」って思っているうちに、どんどん自分が噺の中に入っていっちゃうんです。いきなりバン!っていって「ワー」って笑うようなことはまずないんですよ。そうなりたいんだけど、ただ真似をするだけではダメだということはわかる。心としていつかそうなれるのだろうかというのはありますね。いつかそうなれるのかなあ…。
聞き手 観客と演者とのテレパシーというか、チューニングみたいなものでしょうか。
小三治 わからない人はわからなくてもいいんだ、っていうのかな。でもそんなことを考えること自体がもうあざといんですよ。一所懸命言葉を並べて説得しようとしてるんですね。人が生きているっていう素晴らしい世界が、あんなに落語のなかにいっぱいあるのに、それを無視して自分が押し分けて出てくるっていうのは、みっともないですねえ。
…中略…
小三治 もっと素晴らしい世界があるんだ。もっと大きい何かがあるはずだと思って、そこへ向かって歩んでいく。それが少年でしょ。
…中略…
小三治 今の自分の芸に値打ちがあると思えるならばそのおかげと思うけれども、いかんせんまだ過程ですから。これからどうなるのかはわからない。だから自分が目指す目標なんてないんです。…略…
(以上引用 「東京かわら版」平成24年4 通巻461号 10-11頁)

本日の演目
柳亭こみち 「金明竹」
柳家はん治 「背なで老いてる唐獅子牡丹」
仲入り
花島世津子 奇術
柳家小三治 「茶の湯」

開演:14時
終演:16時25分
会場:三郷市文化会館

八丈島三日目(最終日)

2012年03月24日 | Weblog
朝から激しい風雨で、宿の部屋から見えるはずの八丈富士は麓までガスで真っ白で何も見えない。それでも雲というかガスはかなりの速さで移動しているので天候が変化することは間違いなさそうだと思った。宿は空港の滑走路のほぼ延長線上にある。午前8時半頃、つまりほぼ定刻に上空を通過する飛行機の音がした。こんな天気でも飛ぶのかと感心した。午前9時半頃にチェックアウトするとき、宿の人と飛行機のことが話題になった。「お帰りは何時の便ですか?」というので「最終です」と答えたら「じゃ、大丈夫ですね」と言われる。宿の人も今日は心配していたのだそうだ。それが朝、あの天気で飛んで来たので、これなら大丈夫と思ったらしい。

昨夜遅くから今朝にかけて雨も風も激しかったが、チェックアウトする頃には雨は小降りになった。八丈富士も麓のほうは見えてきた。八丈島に着いて最初に訪れたのが八丈富士だったので、帰りも車で行ける範囲で八丈富士に登ってみることにした。まずは宿から島の東岸へ出て周回道路を時計と反対回りに山の麓を行く。底土港の近くに「Hachijo Oriental Resort」という看板が残る大きなホテルの廃墟があり、そこから周回道路沿いにいくつかの営業中と思しき大規模ホテルが点在する。そういう地域を抜けると道路の幅員が減少し、カーブが多くなる。再び幅員が片側一車線に戻るあたりが鉢巻き道路からの道路と出会う地点になる。右手には八丈小島が視界に入るが島の間の海面から水しぶきが真上に舞っているように見える。その道路は登らずにさらに周回道路を進み空港の前を過ぎて富士登山口という交差点から登る。

鉢巻き道路に入る手前の駐車場のような広場に駐車して外に出る。おそらく標高500メートルくらいしかないのだが、眼下に広がる空港と周辺の市街地の上を雲が流れている。それくらいに雲が低く、しかも大気の流れが速いのである。車に戻り、鉢巻き道路を走る。途中視界が悪いところがあったが、雲は概ね頭上にある。途中の展望台前に車を停めて展望台に登ってみたが、このときはものすごい風でカメラを構えるのに苦労したほどだ。ただ、朝方に比べると空が明るくなってきたような印象だ。山を下りて昨日訪れた千畳敷へ行ってみる。

岸に打ちつけて砕ける波の大きさが半端ではなく、車を停めるが外には出ないで窓から海を眺めていた。腹が減ったので、三根のほうへ行ってみる。一昨日も昨日も島のなかをあちこち車で走ってみたのだが、相変わらずこれといった飲食店を見つけることができないでいる。島の人は外食をしないのだろうかと素朴に疑問に思う。島に来て最初の日に見つけたベーカリーで自家製のカツサンドとあんぱんを買って、海の見える場所に車を停めて車内で頬張る。

腹が膨れたところで、初日に途中まで行って断念した黒砂砂丘(六日ヶ原砂丘)を目指す。途中、まずふるさと村に立ち寄ってみる。これは島の典型的な住居を再現したもので「村」といいながら母屋一棟と納屋二棟と門から成る。納屋は高床式で母屋も床が高めになっているような印象がある。畳の敷き方も本土とはちがっているのだそうだが、全体としての印象はやはり日本の古い農家だ。この保存家屋にも囲炉裏が切ってある。炉端で火を囲むというのは憧れだ。昔はそれが当たり前の風景だったのに、今は裸の火を家の中で使うことを避けようとする傾向が強い上に、火を囲む相手がいない。「囲む」というからには一人や二人ではないはずで、もっと世帯構成員がいないといけないのだが、身の回りのコミュニティが崩壊してしまっているのは私に限ったことではないだろう。

ふるさと村とその周辺の玉石垣の家並を後にして周回道路を行く。逢坂橋から大坂トンネルに至る景観は走っていて気持ちよく、今日も大坂トンネル手前の展望台に駐車してしばらく風景を眺める。ところが、風が強くドアの開け閉めに一苦労する。ちょっとでも隙間ができると風圧がかかるので、足をふんばってドアを両手で持ってゆっくりと風に持って行かれないように開ける。ドアを抱えるようにして外に出たら、手を挟まないように気をつけながら全身でドアを押さえ込むようにして閉める。ドアの開閉で悪戦苦闘していたとき、たまたま道路を50ccのバイクがトンネルを出て大賀郷方面へ通りかかったが、風で煽られそうになっていて他人事ながら見ていてハラハラする。風は同じ調子で吹いているわけではない。じっとして様子を窺っていると、弱くなったり強くなったりしている。その弱くなった隙にドアを開けて車に入ってさっとドアを閉める。駐車中の車が風で揺れている。それでもエンジンをかけて発進すると何事も無いかのように動くのである。

前回は細い道に入り込んで身動きができなくなってしまったので、今回は「黒砂砂丘」という標識の出ている少し広い場所に車を停めて徒歩で細い道を行く。5分ほど登っていくと視界が急に開ける。急な傾斜地の上端に出るのである。風さえなければゆっくりと眺望を楽しんでいたいような場所なのだが、今日は少し高台に出ると立っていられないほどの風が吹いている。「砂丘」というと鳥取砂丘のような砂浜の幅広版を想像するかもしれないが、この砂丘は海辺にそそり立つ断崖の上に広がっている。黒砂というのは要するに溶岩が風化して細かくなったものだ。ここは風を遮るもののない高台の上なので、とにかく姿勢を低くして移動する。それにしても、再度見に来てよかったと思える絶景だった。

絶景のついでにもうひとつの絶景である名古の展望まで足を伸ばしてから、大賀郷へ戻る。車を返す時刻まで1時間ほどあったので、スーパーを2軒覗いてみた。昨夜食事をした店のにいちゃんが「微妙に物価が高い」と言っていたので、どんなものか見にでかけたのである。島内を走る路線バスの停留所名には店の名前が使われているところが何カ所かある。そのなかからレンタカーの返却場所に近い「スーパーあさぬま」と「八丈ストア」に行ってみた。確かに一部の魚介類と青果以外は本土で流通しているのと同じ商品だ。当然、輸送コストが離島ということで嵩む分だけ割高になる。といっても本当に「微妙な」金額だと思う。ざっと眺めたところでは、本土のスーパーとそれほど大きな違いはない。鮮魚については地魚が並ぶが、これも当然だろう。飛魚、エース、金目、キハダマグロなどが代表的なところである。総菜・弁当コーナーの寿司の区画には島寿司が並ぶ。寿司屋や料理屋で漬寿司を食べようとすると予約をしないといけないのだが、スーパーの寿司コーナーには当たり前のように漬けネタの島寿司が並んでいる。寿司屋でも料理屋でもありつくことができなかったので、5カン入りのパックを買って車のなかで食べてみた。いろいろ組み合わせはあるのだが、岩海苔2カンとメダイ3カンの組み合わせにしてみた。岩海苔は風味が独特でなかなか旨いと思ったが、メダイのほうは要するに身の風味よりも漬け汁の味が勝ってしまうので、話の種にはよいが、それ以上のものではないと感じた。勿論、寿司屋で握ってもらえば違った結論になるかもしれないが、江戸前寿司のマグロの漬けのような繊細さを果たして期待できるものなのか疑問が無いでもない。デザートに明日葉のアイスを食べてみたが、これも今ひとつ個性が発揮しきれていないような印象だ。

午後4時過ぎに車を返して燃料代を清算し、空港まで送ってもらう。羽田への飛行機は定刻を30分ほど遅れての離陸となったが、正直なところ欠航しないだけでもすごいことだと思った。それほど今日は風が強かったのである。離陸して水平飛行になり、客室乗務員が飲み物のサービスをして直ぐにその紙コップの回収をすると間もなく機体は顕著に降下を開始する。眼下にアクアラインと海ほたるが見える頃、ギヤを降ろす音がする。離陸から着陸までは実質的には30分そこそこではないだろうか。飛行機の「定時」というのはドアを閉めてゲートを離れてから着陸してゲートに着くまでの時間で計られるそうなので、「所要時間」には飛行時間に加えてタキシングの時間を含めているということになる。八丈島のような小さな空港ならタキシングの時間など取るに足りないが大きな空港で、しかも誘導路上に順番待ちの飛行機の列ができるようなところではタキシングの時間は無視できない。となると現行の「所要時間」の定義は適切であるということになる。いずれにしても飛行機なら片道1時間で多少余りのある距離である。船で出かけると「離島」と感じるが、飛行機なら「ちょっとそこまで」という程度の距離感だ。何も無いところでぼんやりするにはちょうど良い場所であるように思う。

八丈島二日目

2012年03月23日 | Weblog
夜遅くなるまで雨こそ降らなかったが風の強い日だった。まずは昨日通りかかって気になった道路へ行ってみる。大坂トンネルを樫立側に抜けてすぐの側道入口に「防衛道路」という標識があった。いったいどのような道路なのかと思って車を走らせてみた。なんのことはない林道なのだが、「防衛」というだけあってよくぞここまで舗装したと感心するほど整備された道路だ。島の内部の山地のなかにある電波中継所への連絡道路を兼ねている所為もあるのかもしれないが、不必要に過剰に整備されているように感じられる。この道路は路面に苔が密生しており、交通の往来が殆ど無いことが一目瞭然だ。おそらく島の経済の主要な部分が公共事業によって支えられているのだろう。昨日丸一日島のあちこちを車で走って、至る所が工事中であることに驚いた。それも歩道に自然石風のタイルを貼るとか、歩道の縁石を交換するというような緊急性があるとは思えない工事が目立つ。崖の擁壁化工事も見かけたが、それにしても工事が多い。結局、その「防衛道路」は大坂トンネル樫立側入口から山の中を縫うようにして大賀郷の宗福寺前まで通じていた。

大賀郷を通り抜けて南原千畳敷という溶岩の海岸を訪れる。八丈富士が噴火したときの溶岩が海に流れ出して冷やされた部分で、溶岩が流れ出してから400年も経つというのに未だに生命の気配が希薄である。海岸から八丈富士を振り仰げば今でも溶岩の流れが感じられるほど溶岩の様子が生々しい。千畳敷の一画には宇喜多秀家と豪姫の石像がある。ふたり揃っておひな様のように鎮座し、海の向こうを眺めている様子である。宇喜多秀家は八丈島流人史の魁となる人物だ。八丈島には豪姫は同行していないが、八丈富士噴火の翌年、1606年に配流され、不自由な生活とはいいながら83歳で没する1655年までこの島で暮らした。今回の旅行で島へ渡るのに利用したさるびあ丸が4,973トンという規模であるにもかかわらず外洋ではそれなりに揺れるのである。宇喜多秀家の時代に使われた船がどのようなものか知らないが、航海だけでもたいへんなことだったのではなかろうか。それを思えば流刑という自らの意志とは無関係に島での生活を強いられたことに対する思いはいかばかりであろうか。

千畳敷の後、八丈島歴史民俗資料館を訪れる。これは元東京都八丈支庁として使われていた建物を利用した施設だ。一見して建物の傷みが酷い。そう遠くない将来に建て替えが必要になるのだろうが、どのような姿になるのだろうか。今回、館内の資料を見て感じたのは、自分のなかでは八丈島は離島という印象だったのだが、決してそうではないということだ。島には縄文時代の遺跡が発掘されており、最も古いもので7,000年ほど前のものだという。当時、既にここは島であったはずで、この縄文人たちはどこかから海を越えてやって来たことになる。時代を下って陶磁器など生活用具を見れば、それが日本各地から渡ってきたものであることがわかる。とはいえ、今日の八丈島の「特産」とされるようなものの多くが流刑地となってから流人を通じてもたらされているのも事実のようだ。例えば島酒として焼酎が知られているが、これは密貿易の罪で配流された薩摩の廻船問屋丹宗庄右衛門秀房が伝えたとされている。こうした経緯から八丈島産の焼酎はもともと芋を原料としたものが中心だったが、芋の確保が困難なため、現在は麦を原料としたもののほうが多いらしい。また、八丈島の特産品として黄八丈という絹織物があるが、養蚕技術を伝えたのも流人だという。これは新たな価値を創造するのは異質なものとの交流に拠るところが大という解釈も可能ではないだろうか。それは島というものが閉鎖系ではいけないということでもある。島を国とか人に置き換えてみても同じことが言えるのではなかろうか。

昼食は寿司屋で島寿司を頂く。地魚ばかりをネタにしたもので、話の種にはよい。午後1時頃だったが、店内には釣り客と思しき男性4人組と観光客風の老夫婦1組がいた。板前が釣り客と釣りの話をしている。聞くともなしに聞いていると、島の生活の一端を窺うことができてなかなか面白い。

腹が膨れた後、竹芝からの船が発着する底土港へ行き、その駐車場に車を停める。ここから歩いてすぐのところに太平洋戦争末期に設置された回天の発進基地跡がある。回天は戦時中に開発された特攻兵器のひとつで所謂「人間魚雷」である。魚雷なので本来は潜水艦に搭載されて潜水艦から発射されるのだが、戦争末期になると作戦行動可能な潜水艦の数が十分になく、こうした海岸基地から発進するという方法を取らざるを得ない状況になった。八丈島は東日本唯一の回天発進基地でこの底土地区と末吉地区に各一カ所設けられた。末吉のほうは既に無くなっているが、底土基地のほうはまだそれとわかる状況で残っている。昨日触れた震洋と同様、こちらの特攻兵器も発進の機会が無いままに終戦を迎えた。

島に着いたとき、埠頭の上に並んでいた大型のテトラポットが風景として面白いと思ったので、改めて埠頭を歩いてみた。あまりテトラポットというものを意識したことはないのだが、いままでに見たことの無い大型のもので「80t型」と側面に書かれている。埠頭の周囲にはよくあるテトラポットが組んで並んでおり、こちらは「50t」と書いてある。テトラポットというものの重さを初めて知った。港でぼんやりしていたら眠くなったので、宿に戻って昼寝をする。

八丈島には飲食店が少ない。昨日今日と島中をうろうろした結果、三根地区の護神交差点の周りに何軒か集まっているところが殆ど唯一の飲食店街だ。今夜もそこにある店に歩いて30分かけて出かけた。昨夜の店は団体客と複数の予約客で賑やかだったが、今夜の店はエイトという名前のダイニングバーで、私が訪れた時点で誰もいなかった。カウンターのなかにふたりの青年が立っていた。話をするとふたりとも島の人ではないという。それがどうして八丈島に渡って来てここで商売をするようになったのか、というようなことは聞かなかった。店自体は営業を始めて5年ほどになるという。こちらで頂いたのは以下の通り。
 豆腐ハンバーグ
 メカジキのかき揚げ
 島たくあん
今夜も酒を飲む。八丈島には島の規模の割には地酒である焼酎の種類が多い。今日も島酒のなかから選んだ。
 月下美人(この店のオリジナルカクテル)
 鬼殺し
昨夜に続いて今夜も2杯だけなのだが酔って雄弁になり、他に客がいないのをいいことに店のニイチャンふたりを相手におしゃべりを楽しませて頂いた。

八丈島一日目

2012年03月22日 | Weblog
結局、昨夜は午前0時に消灯になるとすぐに眠りに落ち、途中、三宅島到着のアナウンスで目が覚め、その前か後か忘れたが自分の鼾で目が覚めた以外はよく眠れたと認識している。八丈島到着1時間前に船内の照明が点灯して目が覚めた。早速デッキに上がってみると、八丈島と小八丈島の島影がかなり近くに見えていた。

午前9時05分、定刻通り八丈島の底土港に船が到着して、初めての八丈島上陸を果たす。時刻表では午前10時に竹芝へ向けて折り返すことになっているが、今日は天候の急変が予想されているので出航時間を20分繰り上げるのだという。確かに、島に到着したときには雲一つない晴天だったのだが、午前中のうちにあれよあれよという間に雲が流れて来た。船を降りてすぐに事前に予約を入れておいたレンタカー会社に電話を入れて港に着いた旨を知らせる。15分ほどでレンタカー会社のボックスカーがやって来る。待つ間、港の荷役作業を眺めていた。さるびあ丸は貨客船で、船の前のほうはコンテナなどを積むようになっていて、船にクレーンも装備している。船から降ろされたコンテナと船に積むコンテナが忙しく行き交う。その荷物の往来を見ているだけでこの土地の生活を感じる。

レンタカー会社はガソリンスタンドのなかにあった。町役場などの公共施設が集まっている地域のなかに立地していて、便利でもありそうだ。車を渡されてどこへ行こうかと考えた。せっかくトレッキングシューズを持参したので、とりあえず八丈富士へ向かう。ちなみに車にはカーナビは付いていない。ざっくりとした観光地図をもらうが、それで十分だろう。

八丈富士は標高854.3メートルしかない上に、かなり上のほうまで車で登ることができる。鉢巻き道路と呼ばれる山の中腹を環状に走る道路まで車で行き、駐車場のような広場に車を停めて靴と靴下を履き替え、屈伸などの準備運動の後に登山口から登り始める。山頂までに2カ所のゲートがある。野山羊を捕獲すべくあれこれ対策を施しているらしい。山中には罠を仕掛けたところもあるので登山道から外れないようにとの注意書きが至る所に掲げてある。その登山道は階段状にコンクリートで固めてある。山を登るというより階段を上るといったほうがよいくらいだ。ただ、階段のほうが登りにくい。おそらく段のリズムと自分の歩幅とが一致しないからだろう。このところ運動不足であることもあり、加齢で体力が落ちていることもあり、登り始めてすぐに息があがる。無理をせず5分登っては一休みというようなサイクルでゆっくりと歩みを進める。それでも30分ほどで頂上に着いてしまう。その程度の距離の登山道なのである。山頂は所謂「お鉢巡り」になっている。ぐるっと回るのに約1時間と何かに書いてあったが、そこまで大きいものではない印象だ。ただ、今日は風が強く、少し危険を感じたので、時計回りに四分の一ほど回り始めたところで引き返し、そのまま下山した。山頂はもちろん、そこまで登らなくても島の全景を一望できる。なんとなく雰囲気が映画で観た硫黄島のように感じられるのは、どちらも火山の島である所為かもしれない。船で底土港に着いたとき、海岸が溶岩だらけだったことに気付いたが、島全体に土地が若いように感じられる。八丈富士が最後に噴火したのが1605年なのだが、400年程度では大地から吹き出したものは地表にあったものとは馴染めないということになる。昨年12月に失業して以来、戦火で灰燼に帰した土地の復興になんとなく注目しているのだが、既に地上にあるものが人為的な事情で喪失した場合には人為的な手段によって復興できても、自然の活動によって受けた打撃は人の力で回復させるのが容易ではないということのような気がする。少し前にこのブログにも書いたが、40億年の生命史のなかで人類の歴史というのはごく最近のことでしかない。我が物顔に振る舞ってはいても、しょせんは新参者の浅知恵しか備えていないということなのだろう。

山を下り、車で鉢巻き道路をぐるっと回る。山頂を中心にして西側に展望台があるが、展望台の立地が必ずしも比較優位の景勝地というわけでもなさそうだ。噴火から400年では土の堆積が薄いようで、八丈富士には低木と草しか生えていない。今日がたまたまそうなのかもしれないが、風が強いのも土の堆積を阻む要因だろう。それにしても、これだけ禿げ上がっているのも潔くて気持ちが良い。

山から下りて昼飯を食べようと思っても、島には商店街のような場所が無い。歩いてみればけっこうあるのかもしれないが、少なくとも車を運転しながら眺めている限りは見当たらないのである。仕方がないので空港へ行く。ターミナルビルの中にある食堂に入り、日替わり定食を頂く。今日はハンバーグ定食だ。島名物の漬寿司と明日葉蕎麦のセットというのもあるが売り切れていた。ハンバーグは期待以上に美味しかった。

腹が膨れて一息ついたところで予約しておいた宿へ向かう。午後3時チェックインということにしておいたが、多少早めに着いても大丈夫だろうと1時間前に行ったが、全く問題無かった。宿はバス・トイレ共用で部屋には水回りのものがない。食事は食堂でいただくようになっている。部屋はさっぱりとしていて気持ちのよい六畳間だ。畳の部屋に寝るのは久しぶりだ。今回はネットで予約を入れたが、簡単な朝食付きで一泊3,700円。

荷物を置いてすぐに出かける。宿の近くに廃墟と化したリゾートホテルがある。営業を停止してからどれくらいになるのか知らないが敷地には雑草が生い茂り、もう何年も使われていない様子だ。八丈島というところはその昔は「東洋のハワイ」などと呼ばれていたらしいが、海外旅行というものが一般の日本人にとって身近なものになると、「東洋のハワイ」ではなく本物のハワイに出かけるのが人情というものだ。それで島の観光産業は衰退し、人口も減少を続けているようだ。

午前中は八丈富士のある島の北半分を回ったので、午後は島の南半分、三原山の裾野を車で時計の反対方向へ巡る。宿のある三根地区から空港の南側に展開する島の中心街を抜ける。大里の玉石垣が続く道路を過ぎると山間部を縫うように走る長い橋が見えてくる。これが逢坂橋でその先の大坂トンネルを抜けると樫立という集落になる。この大坂トンネルは日露戦争の戦勝記念事業として開削されたもので、その後拡張されて現在の姿になっている。道路もかつては山にへばりつくように走っていたのを、立派な橋にして付け替えたのである。旧道は所々に残っていて、トンネル手前の部分は展望台として利用されている。ここから眺める夕日の風景は「大坂夕照」と呼ばれ八丈八景の一つに数えられているのだそうだ。

さらに南へ進むと「黒砂砂丘」という小さな看板が目に入った。一旦は通り過ぎたが、行ってみようとUターンして脇道へと入って行き、看板に従って進む。途中までは舗装された道路だったのだが、かなり荒れた道路になり、とうとう車が前進できないほどになってしまった。黒砂砂丘は断念して車を舗装されたところまでバックで進む。島の周回道路に戻りしばらく行くと「風力・地熱発電所」の道標が見えた。東京電力管内唯一の地熱発電所ということを聞いている。発電所に至る脇道に入ると所々に「閉館中」という札がある。かまわず進み発電所に至る。なんとなく硫黄臭が漂っているなかにそれほど大規模とは見えない施設がもくもくと湯気を吐いていた。門の向こうに見学施設があり、これが「閉館中」ということらしい。昨年の地震では島に高さ50センチの津波が来た以外はこれといった被害は無かったそうだが、それでも公共施設中心に「節電」の貼り紙がけっこうあった。地震があってもなくても節度をもって生活するというのは地球という大きな社会の一員として当然のことだろう。尤も、節度を守るというのはそれほど容易ではないのだが。

周回道路をさらに進むと末吉という集落に入り、名古の展望の駐車場が目に入る。車を停めて、展望台のほうへ行ってみる。駐車場から展望台に至る途中に大きな石碑が立っている。誰の書いたものかと署名を見ると「安倍晋太郎」とある。この展望台直下の洞輪沢には太平洋戦争末期に特攻兵器である震洋の基地が設けられていた。そのことについて書いたものである。ここからの眺望も八丈八景のひとつに数えられている。「名古秋月」と呼ばれているそうだ。

周回道路は末吉から今回の宿がある三根に至るのだが、これまでとは違ってこの区間は急カーブの多い山道だ。それでもきちんと舗装されているのだから、島がどれほど公共事業に力をいれているかということがわかる。

一旦宿に戻って車を置いてから、歩いて三根の飲食店がかたまって立地しているあたりへ出かける。まだ午後5時過ぎなので営業前の店もあったが、5時から営業というところもあり、そういう早めに営業をしているなかから梁山泊という料理屋に入る。島は全体としては静かなのだが、店の奥の座敷には団体客がいて、テーブル席のほうも予約で埋まっている。確かに雰囲気が良く料理も旨いので人気があるのはわかる。今日いただいたのは以下の料理。
 明日葉の胡麻和え
 島やっこ
 青海亀の煮込み
 飛魚卵フライ
 くさやチーズ
せっかくなので島の酒もいただく。頂いた酒は以下の2種類。
 小笠原ラムのラムコーク
 情け嶋(麦)
情け嶋は焼酎で、もともとは麦だが、後から芋のものがつくられるようになったのだそうだ。酒など普段は飲まないので、この2杯だけで酔ったのだが、宿まで30分ほど歩いているうちに落ち着いた。

そうだ八丈島、行こう。

2012年03月21日 | Weblog
友人から就職祝いのランチに誘われ、銀座の煉瓦亭でオムライスをごちそうになった。昼時の煉瓦亭は長居ができる雰囲気ではないので、食事を済ませた後は凛に場所を移して、コーヒーを啜りながら会話を続ける。久しぶりに会ったので話が弾み、気付いてみれば待ち合わせで顔を合わせてから2時間が経過していた。天気も良かったので、ランチを終えてひとりでどこかで遊んでから帰ろうかとも思ったが、ちょっとした用事を済ませてそのまま住処へ引き揚げた。

今日は八丈島へ出かけることになっていて、その荷造りをしなければならないのである。往きは船なので午後10時前くらいに竹芝桟橋に着けばよいのだが、伊豆諸島航路の船に乗るのは小学生の頃以来なので、勝手がわからない。荷造りといってもたいしたことはないのですぐに終わり、家の中のことをいろいろしながら過ごしていた。竹芝桟橋から八丈島までというような船に乗るのに具体的にどのような手続きが必要なのか、出航時間のどれくらい前に乗り場に行かなければならないのか、というようなことを知らないので、念のため午後9時半頃乗り場着のイメージで住処を出た。

結論から言えば、出航時間直前で大丈夫だった。私が乗るのは午後10時20分発のさるびあ丸(3400便)の2等船室(和室)だ。今の時期に八丈島に行く奴などいないだろうと思い、2等の雑魚寝部屋でも上等だろうと踏んで事前にネットで予約を入れておいた。雑魚寝部屋でも駐車場のように場所が仕切られていて、それぞれの区画に番号が付されている。ネットで予約した際に発行される予約確認書を乗船前に切符売り場に持って行って雑魚寝部屋といえども区画の割り当てを受けることになっている。いざ船に乗ってみると、私が割り当てられた部屋というか空間には20くらいの区画割がしてあり、その部屋を割り当てられたのは私を含め2名だけだ。雑魚寝部屋というのはフルフラットということでもあるので、寝るには誠に都合が良い。東京湾の夜景も美しい。東京で暮らしていると船に乗る機会など自ら求めない限りは殆どない。その気になればいつでも乗ることができるのは隅田川の水上バス。夏に誰かが乗せてくれるという幸運に恵まれれば、屋形船。他にあるだろうか。もういつ死んでも不思議ではない年齢だというのに、子供の頃からの乗り物好きがまだ続いていて、普段乗り馴れないものに乗ると素朴に嬉しい。動き始めた船の中をうろうろ歩き回ったあげく、家で夕食を済ませてから出かけたにもかかわらず、船の食堂に入ってきつねうどんを食べてみたりする。そうやって雑魚寝部屋の自分の区画に戻ってくると、エンジン音が子守唄、いや爺守唄のように響いてくる。至福の夜だ。

夢か現か

2012年03月20日 | Weblog
落語を聴きに横浜へ遠征する。寄席と違って落語会は何ヶ月も前に切符を手配するので、暇にしていることが強く想定される場合であっても万が一何か予定が入ることも宝くじが当たるような確率ではあるけれども一応考慮するので、昼夜連続口演というのは切符の購入を躊躇ってしまう。それで昼の部だけ、夜の部だけを予約することになるのだが、たまに両方聴いておけばよかったと嬉しくも悔しい思いをすることになる。今日はまさにそういう日だった。

今日の会はただの落語会ではない。「文学しばり」というタイトルが付されていて、何がしか文学作品に関連したネタが披露される。しかも、上方と東京からそれぞれを代表する噺家がネタをかけるのである。上方のほうは桂吉坊、東京は柳家喬太郎だ。吉坊のほうを聴くのは今回が初めてだった。見た目は子供のようだが、プロフィールを見れば30歳を超えている。噺を聴けばもっとずっと上をいっている。吉朝の弟子で米朝の内弟子も経験しているとのことなので、師匠との巡り合わせにも恵まれているのだろうが、やはり本人の感性と才能が抜きん出ているということだろう。今日はこの人に出会えただけでも横浜まで出かけて来た甲斐があったと嬉しく思う。

もっと嬉しいのは初ネタ披露の場を共有できたことだ。吉坊が口演した「夜櫻ばなし」は正岡容の作で、昨年6月に米朝宅で発見された直筆原稿を噺に起こしたものだそうだ。狐に化かされる噺なのだが、単なる滑稽でもなければ妖怪潭でもない。狐や狸に化かされるというのは、人間と自然界との交流を描いていると見ることができる。狐が象徴するのは勿論自然界であり、それが人間を化かすというのは、双方のトランザクションを象徴していると見ることができる。その関わりを妖怪潭としてまえば、それは双方の対立関係に焦点を当てているということであり、滑稽潭とするなら共存関係のほうに重きを置いた世界観が背後にあるということだ。「夜櫻ばなし」はどちらかといえば後者だが、夜桜という舞台装置とも相俟って、たいへん美しい世界が展開する。聴いていて嬉しくなる噺なのである。

一方、喬太郎がトリで口演した「赤いへや」はその対極だ。江戸川乱歩の同名作品をモチーフとしたもので、密室のなかで作り話とも実話ともわからぬ「プロバビリティの殺人」事例が次々に語られる。聴いているうちに気分が悪くなるほどのものだ。サゲも後味が悪く、落語としては口演場所を選ぶ難しいネタである。しかし、「夜櫻ばなし」と一緒に口演されるなら、こういうものでも良いのではないか。そもそも落語とは何かということに対する考え方次第ではあるのだが、故談志が語っていたように「人間の業」を表現する芸であるとするなら、落語会が耳にやさしい噺だけで終わるというのは人を食った話といわれても反論できまい。ほのぼのと心温まる噺もあり、見てはいけないものを見てしまったような後味の悪い噺もあることで、聴衆は自分について、人というものについて何事かを考えさせられるはずだ。それこそが芸というものではないだろうか。昨今、つまらぬことにいちいち目くじらを立てて大騒ぎをする風潮があるように感じられるのだが、そういう時代だからこそ、こういう刺激の強い噺を聴かせる場がもっとあっていいと思う。

今日は夜の部しか聴かなかったのだが、昼は源氏物語の「空蝉」をモチーフにした「ウツセミ」と米朝作の「淀の鯉」が口演されたと知り、こちらも是非聴きたかったと残念に思う。

本日の演目
入船亭辰じん 「手紙無筆」
柳家喬太郎 「ほんとのこというと」
桂吉坊 「夜櫻ばなし」
仲入り
桂吉坊 「胴乱の幸助」
柳家喬太郎 「赤いへや」
座談会:柳家喬太郎、桂吉坊、宮本亜門

開演:17時
終演:19時55分
会場:KAAT神奈川芸術劇場

起承転結

2012年03月19日 | Weblog
今度の就職先との間で郵便のやり取りをしているのだが、こちらから発送したものは先方の私書箱に到着してから宛名の相手に到達するまでに1営業日を要し、先方が社内のメールルームに投函してから社外を出るまでに1営業日を要するらしいことがわかった。あくまで郵便物の追跡サービスと「送りました」というメールのやり取りとを総合して推測すると、そのように考えないといけないような実物の流れなのである。こういうことを入社前に知っておくというのは大事なことだ。そこに組織の性質の一端が現れているわけで、自分が置かれた状況を認識する上での判断材料になるからだ。

今日は昨年12月まで通っていた茶道教室の先生のお宅に遊びに伺った。解雇通告を受けたことを2番目に伝えることになった相手が、教室の皆さんだ。たまたまそうなっただけのことなのだが、解雇直後にお会いした方々に再就職決定直後にまたこうしてお会いすることで、ひとつのサイクルが完結するような、一旦開いた傷口が閉じるような、自分のなかの再生の象徴のようなものを感じるのである。今日は生徒さんのほうが3名で、私は客のほうに混ぜて頂き、濃茶と薄茶を一服ずつ頂戴した。茶室の様子とも相俟って、なんとなく肩の荷が少し軽くなったような気分になった。

雨の渋谷にて

2012年03月17日 | Weblog
子供が合宿や旅行に持って行くカバンが欲しいというので一緒に買いに出かける。先日自分の旅行カバンを購入した百貨店の旅行用品売り場で店員の説明を聴きながら品物を選ぶ。今は百貨店の売り場というと商品知識の頼りない店員が多いのだが、先日利用したときにここの売り場の人はしっかりしていたので、今日も真っ先にここにやって来た。子供のほうもある程度自分のなかにイメージがあったらしく、比較的短時間で買い物を終えた。旅行用カバンというのは出張の多い人のようなヘビーユーザーがある商品でもあり、素材の進化が著しいということもあり、売り場としては地味でも並んでいる商品の変化が大きい。しょっちゅう使うものではないが、だからこそしっかりとしたものを気持ちよく買い物のできる店で選びたいものだ。

買い物の後、松涛美術館を訪れる。現在開催中の展覧会は「渋谷区小中学生絵画展」。渋谷区の小中学校というと経済的に恵まれた良家の子女が通う学校という印象がある。実際はどうなのか知らないが、選りすぐりの作品が並んでいることを勘案しても力作揃いで、眺めていて楽しい展覧会だ。子供たちが描く絵というのは、指導する先生や美術館に並んでいそうな作品の影響を強く受けるタイプと、そうした世の権威とは没交渉に我が道を行くタイプとがあるように思う。もちろん、きっちりと分類できるわけではないし、同じ子が教科書的なものと飛んでるものとを描き分けることもあるだろう。どちらが良いとか悪いということではなく、絵画を描くという行為に正解も不正解も無いということを学校の先生方は教えてくれているだろうか、ということが素朴に気になった。同じ学校の児童や生徒が似たような傾向の作品を出品していることが、数は多くないが、いくつか見られたので、そういうことが気になったのである。

美術館を出て腹ごしらえをする。松涛のあたりには土地勘が無いので、駅から歩いてくる途中で気がついたレストランをいくつか記憶しておいたのだが、入ろうと思っていたところが満席だった。雨も降っていて、あまりうろうろしているわけにもいかないので、その満席のレストランの近くに偶然見つけたオーストラリア料理を謳う店に入った。こちらは私たちが今日のランチ時間で最初の客らしい。場所とスタッフの数の割にメニュー単価が低めであることが少し気になったが、出て来た料理を見て、量で調整されているらしいことがわかった。それとチェーン展開で食材原価を抑えていることが推測できる。同じグループの店が味は可もなく不可もなしといったところだが、店の人の応対は好印象だ。オーストラリアということで敢えてメニューに入れているのだろうが、カンガルー肉の料理がある。モモ肉を血抜きしてスパイスに漬け込んだものを金串に刺して焼いたものを頂いたが、肉自体の味は希薄でスパイスの風味が舌に残る感じだった。つまり、カンガルー肉というのは肉そのものの印象は薄い。カンガルー肉を食べるのは今回が初めてではない。学生時代に居酒屋チェーンのメニューに既に登場していたが、あの頃から調理に進歩が感じられないということは素材に問題があるということではないだろうか。

食事の後、たばこと塩の博物館へ行く。ちょうど「林忠彦写真展」を開催していて、これだけを見ると文士にたばこはつきもののように見える。この写真展について関川夏央が芸術新潮の2月号にこう書いている。
「著しく出版文化が隆盛した「戦後」は、林忠彦がそうであったように、作家たちも異常な多忙さに見舞われていた。元来居職で同僚のいない彼らは、出勤するように酒場につどった。そして過重な労働からくるストレスを軽減するため、酒、ヒロポン、睡眠薬に依存した。タバコはそのもっとも軽い依存対象だった。」(「芸術新潮」2012年2月号 117頁 関川夏央「タバコと「戦後」 林忠彦の文士ポートレート」より)
果たしてそうだろうか? ストレスの原因は「過重な労働」だろうか? 「過重な労働」をしなければならなかったのは何故だろうか? あるいは「過重な労働」を自らに課したのは何故だろうか?

この展覧会に登場する作品の多くは1940年代後半から50年代前半にかけて撮影されたものだ。この時代の所謂「知識人」を追いつめたのは、あの戦争と自分との関わりではなかったか。挙国一致とも言える異様な国家の動きと、戦後の黒塗り教科書に象徴される価値観の大転換のなかで、自己を見失ったのは中途半端に良識を持ち合わせた所謂「知識人」たちではなかったのか。文士というのはその典型ではないだろうか。自分がその時代を生きたわけではないので、あくまで想像の域を出ないのだが、結局何事かに依存しなければならないような精神状況に陥ったのは、あまりに正直で無節操な善悪の大逆転、例えばそれまでの敵国が崇拝の対象になるというような社会のなかの価値観の混乱によって、自分の立ち位置を見失ってしまったということではないかと想像するのである。

それにしても、タバコだの酒だの薬だのへの依存というのは生理的・化学的反応に拠るところが大きいのだろうが、現実を受け止めきれないという精神的な脆弱性というのも多少は関係しているのではないだろうか。脆弱というより繊細というほうが現実に即しているのだろうが、不確実性を生きるという現実をどのように了解し対処するかということについて、事細かに段取りをつけないと不安を拭えないということだろう。その事細かな段取りをつける構想力こそが作家や芸術家と呼ばれる人々の創造力の源泉になっているのではないだろうか。だから、そういう人たちには常人とは相容れないような行動に走るのではないか。社会が安定している時ならば、そうした創造力は社会にとっての刺激になり、更なる創造への期待を得て支持を集めることになるのだろう。社会が不安定な時期ならば、そうした創造力は社会のあるべき姿を示唆するものとして注目を集めるのだろうが、当事者は創造力の源泉たる構想に不安を覚えながら生きているのだから、外部からの期待とそれに応えることができない自分との乖離に苦悩することになるということなのではないか。その苦悩が現実からの逃避行動を誘発するのだろう。具体的には何事かへの依存である。「天は二物を与えず」という言葉もあるが、芸術というようなものに対する才能と平穏に生きる能力とは相容れないものであるように思う。

たばこと塩の博物館1階にあるカフェでクレープを頂いてから家路に就いた。