熊本熊的日常

日常生活についての雑記

宿替

2013年05月27日 | Weblog

休暇を取って宿替をした。近頃はネットで引っ越し業者の相見積を取るのが容易だが、敢えてそんなことはせずに某大手運送会社に頼んでしまった。転居先がエレベーターの無い4階なので、下手なところに頼むよりは大手の看板があるところのほうが面倒が少ないだろうと考えたからである。

今日は女性1人、男性2人の3人チームで作業が行われた。事前の下見のときに先方には陶器と書籍が多いことを伝えておいた。わずか30㎡の部屋にしては妙に細々としたものが多いようで、見た目以上に荷造りに時間がかかっていた様子だった。午前9時頃に作業を開始して、トラックに積み終わったのは昼近くになっていた。仕事の関係で別居中の家内が手伝いに来ていたので、引っ越しの立ち会いは彼女に任せ、私は住民票のある実家のほうの役所に出かけて転出手続きを済ませた。住基カードを持っているので、カードのチップ内の書き換えだけで、転出証明のようなものを受け取るわけではないのだが、20分ほどかかった。その後、作業現場に戻る。トラックの移動と作業員の昼食で、転居先に荷物が着くのが午後2時頃の予定とのことだったので、トラックを見送った後、転入先の役所に立ち寄って転入手続きを済ませた。これは思いの外時間がかかり役所で小一時間過ごすことになった。

今回の宿替では、荷物の梱包は依頼しておいたが、荷解きは自分でやるようにしておいた。それでもベッドや書棚などの大型の家具の設置はやってもらえるので、作業を終えて料金の支払いを済ませる頃には午後4時を回っていた。昔は宿替をすると一家の主婦が寝込むと言われるほど大事業であったというが、これほどサービスがいきわたった現代でも、個人の生活のなかでは大事業の部類に入るのは間違いあるまい。 今、室内は段ボール箱が積上っている。家内は実家へ戻ってしまった。ひとりで日常生活の合間にひとつひとつ片付けていかなくてはならない。室内からこの段ボール箱が消えるのはいつのことなのだろうか。


相手の了見を想う

2013年05月12日 | Weblog

今更だが、落語は同じ演目が演者によって全く違ったものになる。内容は同じでサゲまで承知しているのに、いつ聴いても感心してしまう演者もいれば、将来に期待を残す人もいる。そういう違いが何故生じるのか、今日の小三治のマクラのなかで、登場人物の「了見」をどこまで掘り下げて理解した上で演じるかの違いだというようなことが語られていた。

「ご隠居、こんちは」 「おぉ、だれかと思えば八っつあんかい」 ただこれだけの会話にどれほどの演じ分けができるか。ご隠居と八っつあんとの関係、互いの相手に対する感情、この場の前後の文脈、など会話の背後に考慮すべき無数の要素がある。それをどのように想定するかによって、同じ筋立てが全く違った印象を与えるものになる。その考慮すべき要素をどれほど自分のなかに用意できるかというのは、結局、演者の日常生活のなかで蓄積していくよりほかにどうしようもないのである。大袈裟な言い方をすれば、演者の人生が噺の登場人物の一言に凝縮されているのである。

観客のほうも、噺家が語る物語にどれほどの深さを感じることができるのかは、各自の人生経験と感性や知性によって様々である。古典落語となると噺に登場する名詞がわからないというようなこともままあるのだが、それをどこまで前後から想像できるか、細部にこだわるあまり全体の噺の流れについていけなくなるのか、というようなことも面白いと思うか思わないかを分ける要素となる。演者同様に観客のほうにも、登場人物の言葉に響く自分自身の人生経験がどれほどあるのか、といったことも当然に問われる。芸事というのは本来的に一方通行ではない。演者と観客との相互作用があってこそ、芸が芸として成り立つ。

今日の小三治のマクラは、自身の経験や姿勢について語っているようでありながら、聴いているほうも考えさせられるところが多分にあり、これを聴いただけでも来た甲斐があったと思った。

本日の演目
柳家小はぜ 道灌
柳亭燕路  笠碁
(仲入り)
柳貴家小雪 太神楽
柳家小三治 厩火事

開演:13時30分 終演:15時55分
会場:北とぴあ さくらホール


再始動

2013年05月06日 | Weblog

役所の休日窓口に婚姻届を提出。守衛さんのような人が預かってくれるだけなのかと思っていたが、ちゃんと職員が2人もいて、しっかりと書類のチェックをしてくれた。今日は日柄が良いので窓口には長蛇の列ができているかと心配しながらやってきたのだが、そもそも人の気配が希薄だった。もちろん、休日窓口の役割は婚姻届の受け入れだけではないのだが、他に敢えて休日窓口を利用する用事も思い浮かばない。

ポータルサイトや公共の場には必ずと言ってよいほどに婚活や結婚式にまつわる広告が出ているから、さぞかしそういう需要が多いのだろうという錯覚に陥りがちだが、人口の減少に歯止めがかからないという現実がある。卵と鶏の関係かもしれないが、先々の生活に希望を持ちにくい世の中だから、所帯を構えることを躊躇する人が増えるのだろうし、少子高齢化が進むから、それが暮らしの場の雰囲気に閉塞感を与えて漠然とした不安ばかりが大きくなるという面もあるだろう。自分も、もう先が無い年齢になったからこそ、最後ぐらいは楽しく終ろうと思う潜在意識があって、改めて伴侶と生活を共にするという決心がついたのであって、仮に10歳若かったら同じことになったかどうかわからない。

ただ、かなりの確信を持って言えるのは、結婚は一緒に暮らしたいという相手があってこそ決心するものであって、結婚という形式が先にあるのではない。よく買い物リストのようなものを想定し、あれこれ条件を設けて人を見るという考え方を見聞きするが、果たしてそんなふうに人間という不定形のものを見ることができるものなのだろうか。人と人との関係は、多分に相互作用である。自分の身の回りの人間は自分自身のある部分を投影しているはずである。自分自身があるべき姿勢を保持できるなら、必ずそれに呼応した縁が構築されるはずだと思うのである。ありたい自分、好ましい自分というものを意識することができるなら、共に暮らしたい相手、好ましい相手と出会うものだと思うのである。