熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ゆれる」

2006年07月25日 | Weblog
ゆれた。凄い作品だと思った。家族といえども他人であるという当たり前の事実を丹念に描いている。

地方都市で家業のガソリンスタンドを切り盛りする兄。東京に出てカメラマンとして活躍する弟。母が亡くなり、弟は葬儀に出るため久しぶりに実家にやってくる。たまたま立ち寄った実家のガソリンスタンドでは昔の彼女が働いていた。彼女は兄と仲良さそうにしている。兄弟仲は良い。兄は弟を暖かく迎える。しかし、彼等の心の奥底には、互いに対する嫉妬、不信感、信頼感、好意、憎悪が渾然一体となって渦巻いているのである。

その心の奥に秘められた感情の表出のさせかたが巧みである。台詞とカットに無駄がなく、ひとつひとつシーンやひとことの台詞が語る世界に広がりがある。監督が雑誌のインタビューのなかで語っていた「尻切れとんぼのようなラスト」も印象的だった。全く「尻切れ」ではなく、深い余韻を感じさせるものだった。

今日こそは映画

2006年07月12日 | Weblog
性懲りも無く今日も映画を観に出かけた。口腔の状態はかなり落ちついたが、長いこと慣れ親しんだものを突然失った喪失感は避けることができない。これは心情的なものではなく、舌先の感覚のことである。今日は、無事、映画を最後まで観ることができた。

「美しい人」は原題”Nine Lives”が示す通り、9つの短編を集めた作品で、それぞれがワンショット、ワンシーンで構成されている。10分間で表現される、人の心の美しさと醜さ、人生の豊かさと儚さ。改めて、一言の饒舌さを思い知らされる。

しかし、先日観た「報道写真展」の戦火のなかを必死に生きる人々の姿が記憶に生々しく、映画の中の主人公たちが抱える問題が、薄っぺらなものに思われてしまう。映画の舞台はアメリカであり、どの主人公も日々の生活に不自由はない。彼女たちが抱える問題は、結局は我が儘でしかないのである。自分の欲求が満たされないからと己の不運を呪う姿は傲慢にさえ映る。そうしたなか、9つ目の作品は、晴天に映える芝の美しさも相まって、悲しくもほのぼのとしたものを感じ、後味が良かった。

弱運の持ち主

2006年07月11日 | Weblog
昨日、コーヒーを飲み過ぎたのだろうか? 午前中は頻尿に悩まされた。午前中、といっても昼に近い時間帯である。映画館で映画を観ていたら尿意を催した。最初は、作品の終わりまで我慢できるだろうと思っていたのだが、やがてそれは困難であるように思われてきた。映画は半分ほどまで進捗していたが、ついに耐えきれず、客席後方の扉から外に出た。目の前には別の扉があり、その扉を抜けると、階段だった。トイレはない。一旦、階段に出てしまうと扉は外からは開くことができず、客席に戻れない。しかし、そんなことを気にしている状況ではなかった。階段を降りると、建物の外に出た。向かいの商業ビルに入り、そこの2階のトイレに駆け込み、ことなきを得た。

さて、映画館に戻るべきか? けっこう面白い作品だったが、ここで戻っても中途半端なので、そのまま上野の国立西洋美術館へ向かった。

まずは一服。「すいれん」でケーキセットを頂く。気分が落ちついたところで、展示室に入ると、時を同じくして修学旅行中とおぼしき中学生の集団が賑やかに入場して来た。今日は運が悪い。最近、不愉快なことが続いており、今日は死んでしまいたい気分である。逆境の時は悪あがきはせず、じっと耐えるのが結果として損失を極小化できる、と何の根拠もなく信じている。だから、今日も子供たちが立ち去るのをじっと待った。

中には絵が好きな子もいるだろうが、殆どは感想文かなにかのネタが集まればさっさと歩みを進めていく。15分ほどすると静寂が戻って来た。今日は常設だけなので、来館者も多くはない。それは美術館の経営にとっては厳しいことなのだろうが、自分にとっては貴重な安息の場が確保されているということでもある。それにしても、ここは居心地が良い。気分を取り直して美術館を後にし、職場へ向かった。

十人十色とは言うけれど

2006年07月10日 | Weblog
コーヒー教室に通うからといって、コーヒー好きであるとは限らない。コーヒーの「苦さ」というものがどのようなことなのか知りたい、濃いコーヒーは飲めない、という人が「おいしいコーヒーを飲みたい」と言ってコーヒー教室にやってくる。かなり年配の御婦人だが、この年齢で「苦いとは?」という味覚の根本について疑問を抱えているということは、これまでどのような人生を歩まれてきたのだろうと素朴に疑問に思ってしまった。

しかし、味覚に限らず、主観というのは個人毎にばらつきがあるのが当たり前である。みんなが「おいしい」というものをまずいと感じたり、「まずい」というものをおいしいと感じるのは奇異なことではない。むしろ、一般論やその場の雰囲気に飲まれて本当に感じていることを表明できないことのほうが不健全なことだと思う。

コーヒーを淹れるとき、自分なりの「おいしい」イメージがあり、それを他の人もおいしいと感じてくれるものと思いこんでいた。今日は、当然のことなのに、自分が失念していたことを再認識することができて、本当によかったとお思う。やはり、自分の行為を他人に見てもらうということは、物事の道理を知る上で重要なことである。