熊本熊的日常

日常生活についての雑記

バンガロール散策 3日目

1985年02月28日 | Weblog
マハトマ・ガンジー・ロードを中心に歩いてみた。ブリゲイ・ロード周辺には大きなホテルが多く、白人観光客が目立つ。マハトマ・ガンジー・ロード沿いのコーヒー・ハウスへ入ってみた。アラビア風の衣装を身にまとったボーイたちが忙しそうにいったりきたりしていた。店構えも店内もちょっと瀟洒な感じだが、コーヒーの値段は1杯90パイサというごく普通のものだった。近くの郵便局で絵はがきに貼る切手を買った。はがきを見せて、これに貼る切手をくれといっているのに、どうやって貼ったらよいかわからないような大きな切手をよこした。普通サイズの切手があるのに、何故こうなるのだろう。インドでは公務員というのはエライらしいので、外国人といえども彼等に逆らうとろくなことはない。なんとか宛名が隠れないように切手を貼ってみたものの、消印で宛名が見えなくなる可能性もある。そうなったら日本の郵便マンに頑張ってもらおう。

あまりオープンな国とは言えないインドでも、このマハトマ・ガンジー・ロード界隈では日本製品の広告看板が目立つ。マドラスでもバンガロールでも外国製品はあまり見かけないが、それでもオフィス街や市場には「XEROX」とか「ZEROX」といった看板を出したコピー屋がある。でも、そこにある機械はキヤノンやリコーであったりする。注意してみると、カメラ、フィルム、カセットデッキ、カセットテープ、ビデオテープ、乾電池などに日本製品が見られる。でも、日本では見たことがないブランドが多い。例えば、「MITUBISHI」のフィルム、「MAXELL」ではなく「MAXWELL」のカセットテープ、「NIPPO」の乾電池などである。しかし、日用品は殆ど国産であるようだ。インドは非同盟諸国の盟主だが、国産品愛用はそうした国家の独自性の象徴なのかもしれない。

インドは寺院で溢れている。朝夕は寺院にお参りをする人も多く、宗教が人々の心の糧になっているようだ。皆それぞれの思いを胸に一心に祈っている。それでも誰も救われない。少なくとも私にはそう見える。何のために、何を求めて祈るのだろう。死の向こうに何があるというのだろう。今日でインドに来て10日目だが、いったい何十人の乞食の手を見ただろう。何十回あの虚ろな眼を見ただろう。何回あの悲しげな声を聞いたことだろう。指の無い手、手の無い腕、下半身の無い身体、めくら。マドラスの地下道に横たわっていたあの乞食は寝ていたのか死んでいたのか、雑踏のなかで身動き一つしなかった。粗大ゴミのような寝姿。乞食だけではない、観光客相手に金をせびり取ろうとするリクシャーワーラー、彼等とぐるになっているヤクザな警察官。ボロをまとって食堂の床をはいずり回る掃除人。世界は自分を中心に回っていると思っている役人たち。みんな何を祈っているのだろう。でも、他人事ではない。自分も苦境にあるときは、この苦しみを乗り越えれば楽になれるなどと馬鹿なことを考えてみたりする。本当にそうなのだろうか。鴎外の『青年』のなかにこうある。
「一体日本人は生きるということを知っているのだろうか。小学校の門をくぐってからというものは、一生懸命にこの学校時代を駆け抜けようとする。その先には生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にありつくと、その職業を成し遂げてしまおうとする。その先には生活があると思うのである。そして、その先には生活はないである。」
今日が終われば明日が来ると誰しもが思う。でも、そんな保証はどこにもないのである。今日ももうすぐ日が暮れる。ビル工事の現場で我が物顔に振る舞っている猿たちにとっても、公園の木に住むリスたちにとっても、時々、部屋の窓から飛び込んでくる鳥たちにとっても今日という日が終わろうとしている。そしてたぶん誰にとっても明日は未知の世界なのである。未知の世界を生きるからこそ、我々は強くなければならず、自分の責任で生きてゆけるだけの自立した精神がなくてはならないのだと思う。しかし、現実は人間はあまりに弱く、愚かなので、祈ってみたり、駆け抜けようとしてみたりするのである。我々の存在はあまりに小さく、ひょっとしたら生きることは恐怖以外の何物でもないのかもしれない。そらだからこそ、人間は生きる恐怖を克服しようと、つまり、未知を既知に変えようと、営々と努力してきたのである。それが学問であり科学である。困ったことに科学は希望も絶望も具体化してしまう。科学を宗教のように信仰する者まで現れてしまう。祈りを否定して科学を信仰しても、それは別の祈りでしかない。我々はもっと自分のおかれた不確実性を直視しなければならないと思う。

夕食に街へ出たが、前から気になっていた林檎がどうしても食べたくて、食堂ではなく、果物屋の屋台へ足を向けた。林檎1個とオレンジ2個を買って、4.50ルピーだった。オレンジは1個50パイサだから、林檎は3.5ルピーということになる。高い!

そのままぶらぶらしていると、薬局の前に来た。ちょうど歯磨きがなくなろうとしていたので、コルゲートの歯磨きを買った。7.8ルピーもした。今夜は高い買い物を二つもしてしまったので、夕食はさっき買った林檎とオレンジ、それに街角の屋台で売っているバナナ、ホテルの1階にあるチャイのスタンドでチャイ、以上。ホテルへ戻る途中、停電になり店の明かりも街灯もすべてが消えてしまった。真っ黒い人影の海と屋台のアセチレンの光が混然となって、まるで大地が波打っているように見えた。

マイソールへの日帰りツアー

1985年02月27日 | Weblog
朝5時起床。マイソールへの日帰りツアーに参加する。昼間の暑さが嘘のように肌寒い。市内の観光局前には多くの観光客が集まっていたが、日本人は私一人であった。バスの隣の席には学生と称する私と同年代のインド人青年。マイソールへのバスの車内は私以外は全員インド人のようだった。私の隣の学生君は英語が得意ではないようだが、私の前の学者風夫婦と斜め前のホテルのオーナーと称するおじさんは流暢な英語を話していた。車内の雰囲気は、マドラスで参加したマハーバリプラムへのツアーより遥かに落ちついたものだった。

マイソールへ至る風景は田園そのものだった。緑が豊かで、心なごむものが感じられた。農家のおかみさんたちは手押しポンプで水を汲み、子供たちは何やら手伝いに忙しい。水溜まりでは牛が水浴びをし、おとっつぁんたちは野良へ出る。こんな風景が3時間ほど続くのである。やがて、緑は少しずつ茶色に変わり、殺伐とした感じになってくる。

最初の訪問地 SRIRANGAPANTA は、かつてこの地を拠点に王朝を築いたHYDER ALI とTIPPU SULTANのメモリアルである。広大な庭園のなかに彼等の生活や戦いの様子を再現した記念館がある。柱の1本1本から天井まで細工がなされ、豪華である。

次の訪問地 RANGANATHA SWAMY TEMPL あたりに来ると、観光客相手のうるさい連中が多くなる。ヒンズーの寺院というのは境内の至る所で賽銭を出さないといけないので、見学するのがおっくうになってしまう。バスで私の隣の席の学生君は信仰が厚いらしく、当然のようにして何度も賽銭を出し、僧侶からの祝福を受けていた。

このあと、キリスト教のPHILOMENA'S CHURCHを訪れた。さすがに教会では賽銭を出す必要はないが、入り口の前には喜捨を求める乞食の群があった。インドに着いた頃はこうした人々の存在の大きさにショックを受けたが、今はずいぶん醒めてしまった。

CHAMUNDI HILLからのマイソールの町の眺めは素晴らしい。ここから見るマイソールの町は土に埋もれかかった化石のようだ。どこまでも広がる赤茶けた大地にも人々の暮らしがあることに不思議さを感じる。個人は取るに足らない存在なのに、それが互いに関係を結ぶと、なかなかしぶとい存在に変容する。この丘のにもヒンズー寺院があるが、もうたくさんだ。それでも隣の学生君は生真面目に参拝に行ってしまった。ひとりでぼんやりと丘の下の風景を眺めていると、モノ売りが近づいてきた。珍しいことに白人だった。ミュージックテープを売っているのだが、いらないと断るとあっさり消えてしまった。いままでしつこい物売りに慣れてしまっていたので、たまにこのような諦めのよい物売りに出会うと妙な気分である。

再び、バスはマイソール市内へ戻る。Hotel Hysalaというところで昼食のターリーを食べる。かなり辛さを抑えた味付けで、私にとってはインドで初めて無理なく食べることができた食事であったが、インド人の間では評判が悪かった。

この後、Mysore Palaceへ行く。遠目には立派なのだが、夜間のライトアップ用に外壁に無数の裸電球が埋め込まれているのが少々痛々しい。屋内の装飾が豪華絢爛かつ繊細であることは言うまでもない。さらに、美術館、動物園を経てK.R.Sagarへ。

これはダム直下に広がる公園である。午後6時ごろになると陽はダムの向こう側へ沈んでしまう。ちょうどこの時分にイスラム教徒の祈りが始まった。人々が何列にも並び、同じ方向に向かってひれ伏すのである。その様はなんとも異様ですらある。何を祈っているのかは知らないが、いくら祈ったところで真の救済はなされないということは、祈りを捧げている彼等自身が一番よく知っていることであろう。人間というのもつくづく悲しい生き物である。祈りが終わる頃には辺りはすっかり暗くなっている。すると、至る所にある噴水が色とりどりにライトアップされ、軽快な音楽が聞こえてきた。こうして光と水と星空のショーが始まるのである。色とりどりの無数の噴水の美しさもさることながら、地上の光と好対照をなす満天の星空の美しさは言葉では尽くせない。それは、地獄の底から天国を見上げるような感じがした。

バスの出発時間が近づいてきたので、駐車場へ向かう。途中に公衆便所があり、そこで驚くべき光景を目撃した。なんと、小便用の便器の直下でしゃがんで小便をしているオッサンがいたのである。便器は立って用を足す構造なのだが、インドやスリランカでは、地域によっては、男性でも大小にかかわらずしゃがんで用を足すらしいのである。確かに、コロンボでもマドラスでもしゃがんで用を足している人々を何度も見かけた。それに、一部の人々が着用している巻きスカートのような衣服では立ったまま用を足すのは不可能である。それにしても便器という生活の基本に関わる部分での異文化の侵略に屈することなく、自分の生活習慣を押し通す彼の姿には胸を打つものがあった。

バスは予定より大幅に遅れて夜中の12時近くにバンガロールに着いた。こんな時間でも開いている店があったり、バナナ売りの屋台があったりする。生活必需品がなんでも揃っている小さな売店でバナナと洗濯用洗剤を買って宿へ戻った。

バンガロール散策 2日目

1985年02月26日 | Weblog
6時半頃起床。パジャマ代わりに着ているトレーナーを洗濯する。それから、ゆっくりと朝刊を読む。記事によれば、2月17日以来、バンガロールでは断水がないという。これは驚くべきことなのだそうだ。断水がない原因は、地方選挙が近いせいだと書かれていた。与党が都市票確保のため、水道の安定供給に注力しているのだろうという。確かに、駅前には国民会議派のシンボルである手のひらの形の巨大な看板が出ていたし、町中の至る所に手のひらや蓮の花の絵が描かれていた。いずこの国も、選挙というのは大変なことだと思った。

腹がへったので、8時半頃に駅のカフェテリアへ行く。昨夜、扇風機を強風にしたまま眠ってしまったせいか、少々下痢気味である。軽く食事をとった後、宿へ戻って持参してきた正露丸を飲んで休む。

そんなわけで、宿を出るのが昨日より遅くなってしまったが、市街地の南にあるLAL BAGHという公園を目指して炎天下を歩く。LAL BAGHには西門から入った。ここに至るまでの道中は、牛もいるし、適度に不潔な感じでインドらしい。今朝の新聞に、この西門周辺の悪臭のことが出ていた。公園の池にたまる滓のようなものが原因らしいが、なるほど臭い。そのまま公園のなかを歩いてゆくとやがて臭いもなくなり、爽やかな空気に包まれる。ずっと歩き通しだったので、どこかに休める場所はないかと探しているうちに北門へ出てしまった。

門のすぐ内側に大木が通路を隔てて2本立っており、その周りにベンチが並んでいた。木にはリスがいて、時々地上まで降りてきたりしていた。ベンチに座ってぼんやりと道行く人々を眺めていることにした。行き交う人々は学生風の若者が多い。西門の辺りは小学生風の子供たちが多かったが、こちらは大学生のようだ。そんな学生風の2人連れが近づいてきた。

確かに彼等は医科大学の学生だそうだ。日本から来たのかと話かけられ、自分たちは日本が好きなのでいろいろ話を聞きたいという。いきなり名前と住所の交換となった。日本はアジアで最もdevelopされた国だとしきりに感心して見せる。日本の何を知っているのかと尋ねたところ、真っ先に返ってきた答えはHONDAとYAMAHAのバイクとのこと。次ぎに出てきたのは、National-Panasonic、Sony、Sanyoといった電気メーカの名前だった。一人は、日本を紹介した映画と007シリーズの作品でも日本のことを知っているという。日本が舞台となった007シリーズは「007は二度死ぬ」である。これが公開されたのは昭和40年代の前半である。結論から言えば、やはり日本は顔の見えない遠い国ということであろうか。彼等は医学生なので、日本での医者の社会的地位のようなことも質問してきた。勿論、私も自分の主観でしか答えられないので、その旨は断りながら話を続けた。日本人の食事については身近なことでありながら答えに窮してしまった。いままで意識していなかったが、日本の食卓にのぼる料理は無国籍とも言えるほど多種多彩なのである。強いて特徴があるとすれば、米を主食にしていることぐらいではないだろうか。いずれにしても、外国の人と日本について話をすると、自分の無知を再認識することになり、少々恥ずかしい思いが残ってしまう。

私の方も彼等にインドについて尋ねてみた。気候、風土、衛生、治安どれを取ってみても、バンガロールがインドで最高であること。これが、彼等の話のエッセンスであった。確かに空気は乾燥していて、木陰などは快適である。街もよく手入れされていて、マドラスよりはるかに歩きやすい。また、町中に緑が多いのも印象的である。しかし、気温は連日30度を超えている。ここがインドで最もしのぎやすい場所だとすると、他はどんな所なのだろう。

これからどこを旅するのか、と聞かれたので、まだ決まっていないが、カルカッタから出国することだけは決まっていると答えた。すると、カルカッタは危険だから気をつけろとのことだ。ベンガル語を話す奴は信用できない、と思いきり顔をしかめたのが印象に残った。そういえば、コロンボで私にまとわりついていたオッサンも同じようなことを言っていた。カルカッタというところはろくでもないところらしい。

彼等とは1時間ほど話をして別れた。LAL BAGHの門の前に、スイカやジュースの屋台が並んでいたので、スイカやジュースで喉を潤した後、LAL BAGHを後にした。

マドラスほどではないが、暑さと埃と排気ガスはバンガロールでも場所によってはかなりひどい。そうした厳しい環境下を、LAL BAGHからシティーマーケットへ歩いていると、たまたま交通事故に遭遇した。前を走っている乗用車を追い越そうとした路線バスが対向車を避けようとして誤って追い越し途中の乗用車に接触してしまったのである。バスはいつものように乗客が溢れんばかりに満員だったので、運転手の視界が十分でなかったのかもしれない。そもそも、交通ルールなど殆ど無いような国なので事故は起こって当然なのだが、事故が起これば、例え珍しくなくても野次馬が集まってくる。事故の当事者である運転手と、目撃者や乗客の一部が集まって話し合いが始まった。そのまま成り行きを見届けようかとも思ったが、暑かったのでその場を後にした。

マーケットに近くなると、さすがのバンガロールもインドの街らしくなってきた。牛とハエが多くなる。人出もすごい。炎天下を歩いてきて、疲労もたまってきたので、食堂に入ってひと休み。冷たいものでも飲もうと思ったが、瓶入りジュースではつまらないし、生ジュースは高かったので、ホットミルクにした。とてもおいしかった。

マーケットから駅へ至る道には金物屋が多い。アルミの食器や水筒、弁当箱が並べられていたり、吊り下げられていたりする。弁当箱は円筒形の重箱型でである。三段くらいのものが多いが五段ほどの大きなものもある。恐らく飯またはチャパティ用に一段、カレー用に一段、ヨーグルト用に一段というように使うのであろう。

金物屋のほかに、果物の屋台も並んでいた。少し腹もへったのでバナナを食べることにした。屋台のニイチャンに1ルピー出したら2本よこした。バナナを頬張りながら、商店の店先を覗いて歩いていると、牛と正面衝突しそうになってしまった。つい、目と目があってしまい、お互いに少々照れて目をそらした。牛はすっかりインドの街角の風景に溶け込んでいた。そのまま歩いてゆくと、ミルクの屋台が出ていた。マドラスからの車中で飲んだ温かいミルクの味を思い出し、1本買って飲んだ。温かくはなかったが、おいしかった。この後、宿の近くの店で砂糖黍ジュースを飲み、長い散歩を終えた。宿の部屋に戻ると、午後3時ちょっと前になっていた。

昼寝をした後、夕食に昨夜行った食堂へ出かけた。今日は、チャパティとダルだけにして、近くのミルクスタンドでミルクを飲み、宿の1階にあるコーヒー屋でコーヒーを飲む。コーヒーの甘さは半端でなかった。あまり甘かったので口直しにスイカでも食べようと、昨夜、屋台が出ていた場所へ行ったが、今夜は誰もいなかった。しかたないので、リンゴを食べようとしたら、1個2ルピーもするので、これも食べず、そのまま宿へ戻った。

ところで、昼間、街角で古タイヤからサンダルを作っている少年を見かけた。インドでは何でも商売になるものだ。

バンガロール散策

1985年02月25日 | Weblog
朝8時半ごろホテルを出た。景色を楽しみながらブラブラとマハトマ・ガンジー・ロードの方へ歩いて行く。様々な宗教の寺院があり、学校があり、公園があり、オフィス地区があり、住宅地があった。全体的に緑が多く、空気が爽やかに感じられるせいか、歩いていて気持ちがよい。ただ、通りを行く路線バスの混雑はマドラスと変わらない。普通の大型バスからトレーラー型のダブルデッカーまでいろいろなバスが行き交うが、どれも溢れんばかりに客が乗っている。停留所では速度を落とすだけで完全に停車するバスはなく、客は器用に飛び乗ったり飛び降りたりしていた。

ホテルからマハトマ・ガンジー・ロードに出るまで1時間ほど歩いた。この通りは美しく、立ち並ぶ商店もきれいである。ブリゲイ・ロードに入ると少し賑やかになった。エアコン完備のスーパーもあればゲームセンターもあった。ちょっとしゃれた雰囲気のカフェもあり、インド離れした街になっている。そんなカフェのひとつに入ってみた。客はあまりいない。コーヒーを注文すると、見慣れたアルミのカップに入って出てきた。味も量も町中の屋台と変わらないが、1杯1ルピー25パイサもした。水も出てきたが、これは塩素臭が強かった。

カフェを出て再びマハトマ・ガンジー・ロードへ。マドラスで利用していたCorporation Bankがここにもあった。営業時間はマドラスよりも短く、午前10時半から午後2時までだった。そのまま銀行の前を通り過ぎ、州立博物館へ行ってみた。博物館の周りには水族館、美術館、科学技術館が建っており、ちょっとした遊園地のようなものもあった。博物館の展示は、動物の剥製、化石、古代や中世の遺跡からの出土品、仏像や絵画などだが、どれも中途半端な感じでテーマ性が感じられない。博物館の裏手には州政府の政庁舎、中央郵便局、高等裁判所、マイソール銀行、職業安定所などの公共機関が林立している。昼食時ということもあり、高等裁判所脇の軽食スタンドには黒い法衣のようなものをまとった人々や黒いブレザー姿の人々で賑わっていた。彼等にバクシーシー(喜捨)をねだる乞食の姿も少なくなかった。当地の公務員は黒のブレザーを制服にしているらしく、駅の職員も黒ブレザー姿だった。この暑いのに、よくブレザーなんか着ていられるものだと感心してしまう。ところで、州政庁舎はドラヴィタ様式の巨大な建物で、その白く優雅な姿は空の青に映え、美しいことこの上ない。まるでアラビアンナイトかなにか、お伽話に出てくる城のようである。

州政府庁舎を眺めているうちに、バンガロール滞在中に古都マイソールへも足を伸ばしたいと思った。早速、駅の観光局カウンターへ行き、マイソールへの日帰り旅行を申し込んだ。駅で観光案内を見ていたら背後から「日本の方ですか」という声がした。日本人男性二人組であった。これから市内観光のバスツアーに参加するとのことだが、バスが予定の時刻を過ぎても現れないと言って不安そうにしていた。あれこれ話を交わしているうちに、そのバスがやって来て、彼等は急いでバスに乗って消えてしまった。この後、駅のカフェテリアでコーヒーを飲み、ついでに水も飲んだ。駅舎の一角に"Drinking Water"という表示のある大きな箱型の機械が静かに唸っていた。蛇口が2つついており、そこから冷たい水が出てくるようになっていた。おいしかった。

ホテル近くの商店街へ行き、ブラブラした。屋台でバナナを買って頬張っていると、脇から黒い小さな手がヌウーと出てきた。バクシーシーを求める子供の手であった。無視して食べ続けた。いちいち乞食に気をつかっていてはインドの旅などやってられない。次ぎに、昨日のスイカの屋台へ行ってみた。昨日と同じ値段だったが、屋台のニイチャンは少し大きく切ってくれた。腹が膨れたところで、ホテルの部屋へ戻りひと休みである。

夕食は昨日と同じ店へ行く。ウェイターは私の顔を憶えていたようで、目が合うとニヤリとした。ほぼ昨日と同じものを食べた後で、この店のヨーグルトが食べてみたくなったので、「ダヒー!」と注文した。ウェイターの顔が一瞬明るくなったように思われた。何故だかわからなかったが、帰り際に"Do you know Hindu?"と聞かれ、納得した気になった。やはり、英語だけで通すのと、その土地の言葉に挑戦するのとでは体験の幅が全然違ってくるのだろうと思った。今更ヒンドゥー語など憶えられないが、もし、片言だけでもヒンドゥー語を話すことができたら、もっといろいろな話を聞いたり、普通の旅行者では経験できないようなことが経験できたりできるのだろう。

次の目的地を決める

1985年02月24日 | Weblog
朝6時頃、突然鳴り出した部屋のスピーカーに目を覚ました。どうもコーランの朗唱らしかった。スピーカーのスイッチを切ってベッドへ戻り、7時頃改めて起床する。驚いたことに、部屋の床に"DECCAN HERALD"という英字新聞がころがっていた。昨夜は気付かなかったが、部屋の入り口の上が空いており、そこから投げ込まれたようだった。1泊29ルピーでこんなサービスも受けられるのかと感激してしまった。

8時頃、ホテルを出て駅へ行き、次の目的地までの切符を予約した。最終的には3月17日にカルカッタを発つ飛行機に乗る予定なので、今はデリーへ向かって北上し、デリーからはカルカッタへ向かって東進するという大まかなイメージだけは持っていた。バンガロールの北にあって最も最短で行ける都市はハイデラバードである。従って次の目的地はハイデラバードということになった。日曜日の朝8時過ぎだというのに、駅の出札窓口はかなり混雑していた。ハイデラバードへの列車は3月1日以降でないと空きがなかったので、1日発の2等寝台を予約した。これで、バンガロールに1週間滞在することが決まった。マドラスとちがって居心地は良さそうなので気持ちは楽であった。今日は日曜日だし、次ぎの目的地までの切符も手にしたし、一日のんびり過ごすことにした。ホテルへ戻り、午後2時頃までうとうと横になっていた。

気持ちよいまどろみから抜け出し、朝配られた"DECCAN HERALD"に目を通す。観光地でのしつこい物売りや客引きは外国人だけを相手にしているわけではないらしく、インドの人からこれに対する苦言が寄せられていた。英字紙だが記事の内容はローカルで、あまりおもしろくない。しかし、広告は役に立つ。洗剤など日用品の名前がわかるので、買うときにまごつかなくてすむ。インドでは商品名を知らないと何かと不便なことが多いのである。

午後3時半頃、ぶらっと外出する。ホテルの周りにはたくさんの商店や屋台が並び、とても賑やかである。そんななかで、一際大勢の客を集めていたのは砂糖黍ジュースの店であった。マドラスでも砂糖黍ジュースの屋台はよく目にしたが、こんなに客を集めているのは見たことがなかった。確かに、ここは屋台ではなく、粗末な小屋ではあるが、店であり、ハエも少ないし、屋台よりは衛生的に見える。その大勢の客のなかに割り込んでゆき、カウンターのところにたどり着くと、指を一本立てて2ルピー札を差し出した。すぐに、大きいコップに溢れんばかりに注がれた緑色のジュースと1ルピー硬貨が戻ってきた。インドに来る前から噂に聞いて是非飲んでみたいと思っていた念願のジュースを今、手にしているのである。見た目は青汁のようで食欲をそそらないのだが、恐る恐る飲んでみると、これが実に美味なのであった。爽やかな甘さと、ライムの酸味、それにほのかな砂糖黍の青臭さが絶妙に混じり合って腑に心地よく染み込んでゆく感じがした。

うまいジュースで気分が良くなったところで、バスの行き交う大通りを東へ歩いてみた。マドラスではお目にかかれなかった、街路樹の美しい通りである。交差点には信号の他に、交通整理の警官もおり、交通はかなり秩序だっている。警官の制服姿はイギリスのそれを思わせるものであった。マドラス同様にバンガロールも日中は暑いが、標高900mに位置するせいか、風は爽やかで、朝夕は肌寒さを感じるほどである。また、マドラスに比べると路上生活者と牛の姿が格段に少ない。街もきれいで、普通に歩けるので疲れない。「普通」というのは、足下に転がる牛糞や、あちこちに座り込んでいたり寝ころんでいたりする路上生活者や家畜類に注意しながら歩く必要がないという意味である。どこか日本の地方都市のような印象すら感じられた。

人々の娯楽としては映画が一般的らしく、ホテルの近くの映画館の前には長い列ができていた。ホテルへ戻る途中、スイカの屋台が目にとまったので一切れ食べてみることにした。値段は50パイサと少々高めであった。なんと日本のスイカと同じ味だった。

ホテルに戻って風呂に入る。風呂といっても大きなバケツと蛇口があるだけでシャワーも浴槽もない。蛇口は2つ並んでいて、片方に"HOT"と手書きしてあった。しかし、昼間はどちらの蛇口からも湯が出るし、夜はどちらも水しか出ない。これはマドラスの宿と同じである。

夜7時半ごろ、夕食を食べるために外へ出る。ホテルの前の通りは人出が多く、どこの食堂も満員である。そのまま歩いていると、食堂街は商店街に変わり、その商店街のはずれに酒屋があった。なかを覗くと様々な種類の小さなボトルが並んでいた。客が一人、店のオヤジと何やら言い合っている。その若い男性客はビールを買いに来たらしい。ところが、店にはビールを置いていないようだ。ないものは仕方がないように思うのだが、その若い男性はなかなか帰ろうとしない。やがて、その男は諦めて店を去った。漸く私が相手をしてもらえる。『地球の歩き方』に「インドでは葡萄が豊富なのにワインを見たことがない」云々と書いてあったのを思いだし、ワインが欲しいと言ってみた。ワインはあった。オヤジは180㏄の小さな瓶に入った赤ワインを出してきた。ラベルには"GOLCONDA"とあり、まさしくインド・ワインであった。店のオヤジには「どこから来た?」とか「学生か?」とか尋ねられたりしたが、私とオヤジとの会話は極めて淡々と無表情に進行した。最後に、お互いに"Thank you"と言った時だけ、二人とも笑顔になった。

酒屋を後にして、ホテルの裏の通りを歩く。ちょうど自分が泊まっているホテルの裏辺りにこぎれいな食堂があった。客は何人かいたが、結構空いていたので入ってみた。メニューの"MEAL"の項目の最初に"DAL FLY"とあったので、それとチャパティを注文した。ガイドブックによれば"DAL"というのは豆のスープだそうだが、私の前に出されたのはいわゆるカレーであった。ダルは主食のカレーほど辛くないものであるようだ。つまり、スープとして食べることができるのである。日本ではカレーライスに福神漬けがつきものだが、ここでは付け合わせに玉葱のスライスとライムが出てきた。食事の後はチャイを飲む。チャイはインドの国民的な飲み物らしいが、マドラスやマドラスからの列車のなかではチャイよりもコーヒーのほうがよく飲まれているようだった。チャイもコーヒーも砂糖とミルクがたっぷり入っていて飲んだ後がさっぱりしない。食堂を出た後、昼間にスイカを食べたところへ行くと、スイカの屋台はまだ営業していた。口直しにスイカを食べた。屋台での買い物も漸く慣れてきた。

ホテルの部屋に戻ってからワインを開けた。日本の千円ワインのような安っぽい味がした。赤なのに甘みが強い。それでも久しぶりのアルコールだったので腑にじわっと熱く染み込むようだった。

マドラスからバンガロールへ

1985年02月23日 | Weblog
ようやく太陽と悪臭の町マドラスを去る。あまり良い印象はないが、どんな町であれ私にとって初めてのインドである。忘れ得ぬ町になることは確かであろう。路上生活者の群、屋台の下の犬の死体、地下道の階段にころがっていた路上生活者の姿、駅前の食堂のオヤジの笑顔、白人観光客の赤く腫れ上がった肌、毎日部屋に来てはたいした仕事もせずにチップだけはしっかりせびり取っていった便所掃除人、椰子の実の味、アルメニアン通りの銀行員、バナナの葉で食べたターリー、最初の晩に宿探しの途中で飲んだラッシーの味、宿代の精算をしている間に私のカバンを振り回して遊んでいたHotel Ittaの女の子、などなどどれも深く脳裏に刻み込まれていることだろう。

マドラス中央駅には列車の出発時刻の2時間前に着いた。列車を待つ間、ぼんやりと行き交う人々を眺めていた。駅には、街の多様性が凝縮されて、まるでひとつの世界のようにそこにあった。さまざまな階級、職業、宗教、そして恐らく人生が幾重にも織りなす世界である。どことなく上野駅に似た雰囲気もあるが、そこで展開されている世界の深さはとうてい比較にならないのである。

列車がホームに入ってくると二等車はすぐに席が埋まってゆく。一等車も発車10分前位には満員になった。インドの長距離列車は車両が一両一両独立しており、車両間を通り抜けることはできない。灼熱の太陽光を避けるため、窓は小さめで、無賃乗車を防ぐため、その窓には鉄格子がはまっている。指定席については、各車両の入り口に藁半紙にタイプ打ちされた乗客名簿が貼りだされ、乗客は自分の切符に打たれた番号と乗客名簿の番号とを照合して列車に乗り込むのである。
私が乗るはずのバンガロール行きの列車に貼られた乗客名簿に私の名前も切符の番号もなかった。車掌に切符とパスポートを見せて交渉したら、彼が席を確保してくれた。予約で満員の車両のはずなのに、何処からともなく空席が出てくるのが不思議だった。
12時30分、列車は定刻通りマドラス中央駅を後にした。程なく町並みが田園風景に変わり、後はそのまま単調な風景が続く。水田が多いが時折ココナツ林が現れたりする。潅漑用のため池で牛が水浴びをしている。エアコンのない車両には開け放たれた窓から外の熱気が飛び込んでくる。天井では扇風機が力強く回転していたが、熱い空気を撹拌するだけである。暑さを通り越した熱さと単調な風景が何時間も続くのである。
列車が駅に着くと、そんな単調さが嘘のようにたちまち喧噪と雑踏の寸劇が始まる。鉄格子の窓の向こうをコーヒー売りが通り、イッドリという饅頭のような食べ物の売り子が通り、豆売りもバナナ売りも通る。ホームにある水道には手に手に水筒や空きビンを持った乗客が群をなす。銅鑼が鳴り、汽笛が鳴って列車が動き出すと、すべてが元に戻る。物売りは列車から離れ、乗客は動き出した列車に次々に飛び乗ってくる。列車にそのまま残って営業を続ける物売りもいる。ココナツの車内販売もあった。私もJolarpettaiという駅でコーヒーとミルクを買った。コーヒーはマドラス駅で飲んだのと同じく、底に"Southern Railway"のマークがはいった小さなポリカップに入っていた。値段も同じ90パイサ。ミルクは清涼飲料の空きビンに詰められており、沸かしたものなのか、搾り立てなのか、単に日向に長いことおかれていたのか、温かかった。このミルクはこくがあってたいへんおいしかった。
Jolarpettaiという駅を出て間もなく、列車は激しく汽笛を鳴らしながら急停車した。もともとあてのない旅だし、列車が時刻表通りに運行されることなど期待していないので大して気にもならない。隣の席のおじさんが様子を見に出ていった。戻ってきたところで聞いてみると、大きな石のような障害物があったそうだ。列車は10分間ほど立ち往生した後、汽笛を鳴らして静かに動き出した。太陽はもうかなり西へ傾いていた。外には相変わらず水田が広がっていたが、そのなかに点在する民家の形が興味を引いた。土壁の藁葺き屋根で円筒形をしている。たまに四角いのもある。以前、今和次郎の本で見たアフリカのある地方の住居に似ていた。やがて耕地が少なくなり代わってごつごつした岩山や荒れ地が多くなる。夕陽に染まるデカン高原は少し荒涼とした感じがあってなんとも美しかった。

午後9時、列車は定刻より20分遅れてバンガロール・シティ駅に到着した。夜に宿を探すのは避けるべきであるという教訓をマドラスで得ていたので、ひとまず駅のリタイアメントルームに泊まろうと考えた。改札の駅員にリタイアメントルームに泊まりたいと言うと、彼の返事は"Why?"だった。リタイアメントルームというのは長距離を旅する者が乗り継ぎなどで暫しの休息をとるための施設であり、利用のためにはその駅から先への切符を所持していなくてはいけないのである。私の場合、切符はバンガロールまでなのでこの駅に宿泊することはできないのだ。それはわかっていたが、敢えてお願いしてみたのである。「自分はごらんの通り右も左もわからない旅人であり、夜が明けるまでなんとか泊めて欲しい云々」などと平身低頭懇願したところ、駅員氏は私に切符を返して無表情に「2階へいってみな」という慈悲深い言葉を授けてくれた。喜び、そしてホッとして2階への階段のとこへ行くと、リタイアメントルームが満員である旨が書かれた看板で階段がふさがれていた。

しかたなく夜のバンガロールへ踏み出した。駅前にはロータリーがあり、その先の通りを渡るとバスターミナルが広がっていた。そのバスターミナルを跨ぐように陸橋が通っており、そこを歩いてゆくと"HOTEL"というネオンサインが輝くビルの群が近づいてきた。少々宿代が高くても取りあえず今晩一晩の休息の場を確保することを優先しようと思い、どこでも泊まれるところに泊まることにした。幸い、2軒目に入ったホテルに空き部屋があった。しかも、1泊29ルピーというマドラスに比べたら半値近い嬉しい価格だった。部屋は広く清潔で、ここなら長居もできそうだった。但し、バスルームは狭く、シャワーは"HOT"へひねっても"COLD"へひねっても水しか出てこなかった。それでも29ルピーでこれだけの部屋なら文句はなかった。身体を水で洗って、パリッと糊の効いたシーツにくるまれた気持ちいいベッドに横になった。

長距離列車の乗車券を買う

1985年02月22日 | Weblog
朝食代わりに昨夜屋台で買ったパイナップルを食べた。葉のところにたくさんの蟻がついていたが、これは甘い証拠と思い、水道でさっと洗ってナイフを入れた。みずみずしくて、いいにおいがした。期待していた通りの味にすっかり満足した。

鉄道の切符を買う金がないので、T/Cの換金のために先日利用したアルメニアン通り(Armenian St.)のコーポレート銀行へ歩いて行った。まだ時間が早く、開店前だったので暇つぶしに近くのチャンドラ・ボース通りに並んだ屋台を見て回った。驚くほど多種多様な商品がならんでおり、日常の生活に必要なものはほぼここだけで賄える。日用雑貨、衣料品、食料品、と何でも揃うのである。ここではビジネス・アワーが午前10時から午後2時頃までのようだ。10時すぎに銀行に行くと今度は開いていた。今度はまっすぐに2階へ上がり、ガラス張りの部屋へ直行した。そこの行員氏は一昨日に会っただけなのに、私の顔と名前を覚えていてくれて、部屋に入るなり "How are you, Mr. Machida?" と来た。一昨日と同じように手続きを待つ間、いろいろ話をしてくれて、私が金融機関に就職することがわかると、話は日本の銀行のことやキャッシュカードの利用のされ方などにも及んだ。彼は数年前に第一勧銀のシンガポール現地法人が為替取引で大穴をあけたことまで知っていた。あたりまえのことなのかもしれないが、世界は確実に小さくなっているような気がした。

銀行で現金を手に入れると、中央駅へ急いだ。明日、この街を去ることは決めたのだが、何処へ向かうかはまだ決めていなかった。取りあえず駅で気の向いたところへ行こうと考えていた。ところが、駅の出札窓口の前で、そうした気まぐれは許されないと悟ってしまった。インドの他の駅がどのようなシステムになっているのか知らないが、ここでは列車ごと、座席の等級ごとに出札窓口が別になっているので、今回のような気まぐれは出札ビルを1周することを意味するのであった。しかも、どこへ向かう列車も指定席は3日から1週間先まで予約が一杯なのである。さらに付け加えると、窓口の職員の態度は民営化が間近に迫る以前の国鉄職員よりも横柄で不愉快なのである。しかし、下手に職員の機嫌を損ねては乗れる列車にも乗れなくなってしまうといけないのでひたすら我慢する。どうしても明日、この街から出たいので、ここから北か内陸へ向かう列車で明日の予約が可能な列車を求めて出札ビルのなかをさんざんうろうろして、やっとバンガロール(Bangalore)行きの1st Class Chairという席の切符を手にすることができた。117ルピーだった。

このあと、郵便局へ行って日本へ絵はがきを出そうとしたら、料金が2.70ルピーもするので手持ちの現金を整理してから出直すことにした。なにしろ、10枚も出すので郵便料金もばかにならないのである。今日はこのまま宿へ戻り、荷物の整理などで時間をつぶした。やっと明日は別の町を歩けるのだ。

マハーバリプラム日帰りツアー

1985年02月21日 | Weblog
マハーバリプラム (Mahabalipuram) への日帰りバスツアーに参加するため、朝5時に起きて観光局前へ行った。寝坊するといけないと思い、予約は入れなかった。あいにく政府観光局主催のツアーは満員で参加できなかったが、「捨てる神あれば拾う神あり」というわけで"KING TOURS & TRAVELS"という民間のツアーが拾ってくれた。料金は40ルピー。バスは一見したところ普通の大型バスだが、エンジンが運転手の隣にあるため、その分客席が少なく、40人弱しか乗れないようだ。こちらのバスもほぼ満席だったが、どうも外国人は私だけのようだった。私はいかにも飛び入りらしく、一番後ろの列の真ん中の席をあてがわれた。バスにはビデオがあり、出発直後からアクション映画のようなものが始まった。みんな、子供のように恍惚として画面に見入っていた。その様子は滑稽でもあり、不気味でもある。このくそ暑い中、エアコンもないのに、画面がよく見えるようにカーテンを閉め、音声が聞こえるように窓を閉めるという入れ込み方なのである。確かに、私にとってはこのようなツアーは初めてなので興味深くはあるが、ヒンズー語だか何語だかわけのわからない言葉で演じられているビデオを見ながらひたすら暑さに耐えるというのは難行苦行でしかなかった。
乗務員は運転手の他に3人おり、場所の説明や集合時間を乗客に説明する者、バスがバックする時などに合図を送る者、なんだかよくわからない者というように役割分担が決まっているようだった。停車地が近づくと、陸上競技選手のエドウィン・モーゼスに似た乗務員が立ち上がり、乗客に向かって
"Place, ○×△."
などと言うのである。最初の停車地は Sculpture garden で入場料が10ルピーとのことだった。手持ちの金があまりなかったのでここはパスすることにした。結局、乗客の半分ほどが私と同じように Sculpture garden の前でバスから降ろされ、残りの半分の乗客が見学を終えるまで門の外で待つことになった。みな、道端に腰をおろして思い思いにぼーっとしていたようだ。あたりには、この庭園以外に何もなく、目の前には今通ってきた道とその向こうには空き地が広がるというところなのでぼーっとする以外にやることがないのである。
1時間ほど待ったところでバスが帰ってきた。まずはおいていかれなくてよかった。次の停車地はワニ園であった。ここは入園料が1ルピーだったのでなかに入ることにした。入り口のところで椰子の実をピラミッドのように積み上げて売っていた。結構、マドラスの町中でも同じような光景を目にして気になっていたのでひとつ買ってみることにした。売り子の少年はその山の中から一つ取り上げると大きな鎌のような刃物で器用に外の皮を削ってゆく。果汁の詰まっているあたりにくると手の動きが慎重になり、ちょうどストローが刺さる程度の小さな穴をあけ、まさにストローを刺して差し出してくれた。大味でさっぱりしており、水代わりに飲めるような味だった。飲み終わった椰子の実を売り子の少年に渡すと、彼はそれを豪快に半分に割り、皮の一部をスプーン状に削ってくれた。これで椰子の実の内壁を削って食べるのである。白く弾力に富んだ内壁は固めのヨーグルトのような食感があり、冷たくておいしかった。この椰子の実は2ルピー20パイサであったが、小銭の持ち合わせがなく、2ルピー札と1ルピー硬貨を渡すと売り子のガキは"Just price"などとぬかして釣り銭をよこさなかった。ところでワニ園はつまらないところだった。
さて、いよいよマハーバリプラムである。ここはマドラスの南約60kmに位置し、7世紀ごろには交易の中心として栄えたそうである。ここの海岸寺院は当時の繁栄の名残で、もともと7つ並んで建っていたそうだが、現在はそのうちひとつだけがかろうじて残っている。「かろうじて」というのは、この現存する寺院も風化が進んでおり、嵐や地震がくれば容易に崩れ落ちてしまいそうなのである。それでも、ここは東京のインド政府観光局で手にいれた観光パンフレット"Discover Madras and the South"の表紙を飾っているほどの場所であり、多くの観光客を集めて7世紀とはまた違った繁栄をしている。
バスが海岸近くの駐車場に停まると、乗降口に物売りやバクシーシー(喜捨)を求める者が殺到する。商品はリスの剥製、鞄、サングラス、アクセサリーの類など様々であるが、「マハーバリプラム名物の」というような物は無かった。
バスのなかも暑かったが外も暑い。みんなの後について海岸寺院へ歩いて入る。「寺院」というより、「寺院」の名残のようなものである。様々の彫刻が施された大小の四角錐の仏塔で、中はそれほど広くない。寺としてはすっかり荒れてしまって、もっぱら観光スポットのようになっているが、きちんとお供え物はあがっていた。私の乗ってきたバス以外にも数台の観光バスから観光客が吐き出されており、白人も少なくない。寺院のなかで私の前を歩いていた白いノースリーブの女性の肌は日焼けで赤く腫れ上がっていて、そういう痛々しさのようなものにも南国を感じてしまった。
この海岸はマドラスと違ってドブ臭さもなく、水もきれいであった。スニーカーを脱いで少し海に入ってみると、冷たくて気持ちのよい感触がしてなんだかほっとした。なかには服まで脱いで泳ぎ出す人もいて、海岸の砂浜には彼等の服が点々としていた。
海岸寺院の他にも、ここには岩をくり貫いて造った寺院(Ratha)や「アルジュナの苦行(Arjuna's Penance)」という高さ15メートル、幅30メートルの岩に神々や動物を彫り込み、ヒンドゥー教の神話を体現したものなどがあった。残念ながらこれらをじっくり見る時間はなく、間もなくバスの出発時刻となってしまった。
次の休憩でバスが停まったところには果物の屋台がたくさん出ていたので、その一つでバナナを買ってみた。4本で1ルピーだというので、言われた通りに金を払うと売り子の少年は「してやったり」というような顔をした。マドラスの町中では2本とか1本で1ルピーだったので自分としては安いと思ったのだが、実はもっと安いようだ。さっそくバナナを頬張りながらその辺をうろうろしていると物乞いの子供が寄ってきたのでバスの他の乗客が集まっているあたりに避難した。今度は同じツアーの客でハイデラバード(Hyderabad)から来たというおじさんが私が肩にかけていたバッグに関心を露にし始めた。私が持っていたのはごく普通の黒いパラシュート・バッグだったのだが、確かにこちらではあまり見かけないデザインではあった。おじさんはここの物売りから黒いビニール・レザーの手提げ鞄を買いしきりに私のバッグと比べていた。
この後、いろいろな意味で待ちに待った昼食である。それまで写真でしか見たことがなかったが、実際にバナナの葉を皿代わりにして食事を頂くことになった。
まず、食堂の片隅にある流しで自分の手をよく洗う。インド料理は自分の手で頂くのであるから、この食前の儀式は大変重要である。尤も、石鹸は使わない。そして、威風堂々と自分の席につく。すると、カップ1杯の水と半分に折ったバナナの葉がテーブルの上に置かれる。おもむろに葉を開き、カップの水を少しずつ使って葉の表面を軽く流す。葉の上に残った水は当然のごとくに床の上に捨て、改めて自分の前に葉を広げる。間もなく、ご飯の鍋を持った者、カレーの入った鍋を手にした者、ヨーグルト(こちらでは「ダヒー」という)の入った容器を持った者が入れ替わり立ち替わりやってきて、葉の上の所定の位置にそれぞれの料理が並べられるのである。ご飯とチャパティーが盛られたところで、数種類のカレーの小鍋を持った給仕がやってきて、客に何かを尋ねながら鍋のカレーを配っている。どうもカレーの好みを聞いているらしい。私はそんなこと聞かれてもどのカレーがどういう味なのか皆目わからないので、なんと答えたらよいだろうかとドキドキしながら待っていた。給仕が私のところに来たとき、絶妙のタイミングで私の隣の席のおじさんが給仕に指示を出し、めでたく私のバナナの葉にはカレーが3種類ほど並べられた。なんとなくほっとして、隣のおじさんに目をやると、わずかに微笑んで頷いた。結局、私はたた食べるだけだったが、食べ方がよくわからない。なんといってもこのような食事は生まれて初めてである。まわりの人たちがするように、自分もご飯とカレーを手で混ぜながら食べる。味は辛いという以外によくわからない。とにかく辛い。こう辛いと水が飲みたくなる。生水は危険などと言っていられなくなる。みんな平気で飲んでいるのだから自分も大丈夫だろうと、、、などと考える間もなく手は水の入った大きなグラスを口にはこんでいた。でも、やはり不安である。日本から持参した正露丸はインドの水あたりにも効くだろうか、「下痢」を英語でなんというのだろうか、などと様々なことが頭のなかに浮かんでは消え、浮かんでは消えとしている間に、目の前のコップの水は空になっていた。食事が辛いせいか、カレーを食べた後に口にしたダヒーは美味に感じられた。
食べ終わって席を立つ時、やはり給仕にチップをあげなくてはいけないのである。しかし、このとき私は適当な小銭の持ち合わせがなく、どうしようかと思っていた。席を立とうとした将にその時、またまた隣のおじさんが私の方にそっと20パイサ硬貨を持たせてくれた。その硬貨を近くにいた給仕に渡し、隣のおじさんに礼を言うと、おじさんはやはり静かに微笑んだ。この後、食堂の片隅にある流しへ行き、手を洗い、口を濯いで外へ出る。外では、黒い鞄を買ってしまったハイデラバードのおじさんからココナツパウダーというものをひとつまみもらって口の中へ放り込んだ。これは食後に口臭を消すためのものだそうだ。おじさん曰く"The smell of your mouth make sensation."。
このあと、バスはカンチープラム(Kanchipuram)へ。ドラヴィタ様式と呼ばれる大きな塔のような門のある寺院を見学した。当たり前なのだが、寺院というところは神聖なところなので土足厳禁なのである。その大きな門のなかでは坊さんが1足10パイサで客の靴を預かっていた。ばかばかしい出費とは思いながらも中へ入るには金払って靴預けるしかないのである。門のなかから境内に眼をやると石畳の回廊が青空の下に伸びていた。炎天下にさらされた石畳の上を素足で歩くのは熱いどころではない。まるで舞いを舞うように、いや無様に飛びはねながら歩くことになってしまった。ふと周りを見れば、みんな平気な顔をして歩いている。足裏の皮膚が違うらしい。私はとても寺を見て回る気持ちになれず、日陰に腰をおろしてぼんやりと門の巨大な塔を見上げていた。
すると、日本人らしい青年が近づいてきた。どちらからともなく「日本の方ですか」ということになった。彼は今朝、私が乗り損なった政府観光局のツアーのバスでこちらへ来たそうだ。インドには北から入り、南下の途中とのこと。私はこれから北上するので北の様子をいろいろ尋ねた。彼は2月はじめからインドを旅しており、北部ではまだセーターが必要な陽気だったそうだ。あれこれ話をしているうちにバスの出発時刻が近づいてきたので、寺の外へ出て、バスの近くでジュースでも飲もうということになった。寺の前には数軒のライムソーダの店が並んでいた。そのなかで、一番冷えたソーダを出してくれそうなところを選んで一杯注文した。これは、コップに氷を入れ、ライム(インドの人たちは「ニーンブ」と呼んでいた)を絞り、"Limca"という瓶入りの炭酸飲料で割ったものである。一杯1ルピーと手頃である上に爽やかでおいしい。ふたりでライムソーダを飲みながら話をしていると、次から次ぎへと物売りが近寄ってきた。革製のサンダルは1足5ルピーと言っていたが、ライター3個でもよいという。いらない、と断るとライター2個に値下げした。しっかりした作りのものであるように見受けられたので、少し心が動いたが、特に必要もなかったので結局買わなかった。この時初めて、100円ライターが貨幣として通用することを体験した。そうこうするあいだにバスの発車時刻となり彼とは別れた。
次ぎの停車地も寺院だったが、暑さで観光意欲がすっかりなくなり、バスのなかでぼーっとしていた。バスのなかではタイ人かと尋ねられた。確かに私の顔は南方系だし、単独行動だし、「こいつ何者だ?」という好奇心が湧くのは至極当然だと思う。ところで、同じバスに乗っているインドの人々と話をしていて感じたことだが、こちらでは政府やその関連組織に勤務していることがある種のステイタスらしい。そして既に聞いていた通り、自分のカーストに対する誇りのようなものが非常に強く伝わってきた。インドの街を歩いていると、それこそ人々の生活の様はピンから切りなのだが、それぞれに生き生きとしていて私のような異邦人すら元気づけられてしまうようなところがある。その背後には、みんながそれぞれに自分の依って立つものをしっかり持っているからであると感じたのだが、どうだろうか。
バスツアーは無事終わり、マドラス中央駅の前でバスを降りた。次ぎの移動のことを考えようと、鉄道の予約カウンターの下見をすることにした。駅の敷地に入り、駅舎を正面にして向かって左手に工事中の中層ビルがある。看板によると、このビルが出札窓口であるらしい。今日は金の持ち合わせもなく、行き先も決まっていないので、出札口の場所だけ確認して宿へ帰ることにした。
駅前に出ていた果物の屋台でパイナップルを買った。小さいけれど、いい色つやで甘い香りがした。値切ったけれど、結局8ルピー以下にはならなかった。でも、訳もなくどうしても食べてみたくて買ってしまった。屋台のオヤジがサービスだといって葡萄をひと掴みくれた。皮がうすくて、甘くおいしい葡萄だった。このまま、オートリクシャーを拾って夜の街を宿へ急いだ。勿論、今回はメータチャージである。
宿に戻ってから、今朝、バスを待っているときに土産売りから買った絵はがきを書いた。

マドラスにて

1985年02月20日 | Weblog
マドラスの朝は思いの外涼しく、爽やかであった。昨夜、最後まで私と行動を共にしたのは雨宮さんという一級建築士だった。2ヶ月の予定でインドへ遊びにきたそうだ。雨宮さんも私もさすがに疲れていたので、今朝はゆっくりしてしまい、宿を後にしたのは午前10時半ごろだった。チェックアウトの時、受け付けにいた宿屋のおじいさんは朝飯を食べてゆくよう勧めてくれたが、もう陽が高くなりはじめていたので我々は先を急ぐことにした。といっても特に予定があるわけではなかった。
宿を出て線路沿いに中央駅のほうへ歩いた。昨夜は暗くてよくわからなかったのだが、牛が多い。インドで最もメジャーな宗教であるヒンドゥー教では牛は神聖な動物なのだそうで、誰も牛をじゃまだとは思わないようだ。尤も、牛自身が己の神聖さを自覚しているのか否かは別としても、私の目には横暴なところも卑屈なところも感じられず、自然に振る舞っているところが好ましく映った。
宿から駅へ至る道(Wall Tax Rd.)は、線路側に窓枠や車(自動車ではない)の部品などを作る小さな工場が並び、その向かいには宿や食堂が並んでいる。工場からはカンカンと金属音が響き渡り、なんだかみんな忙しそうである。通りには牛以上にリクシャーも多く、駅方面へ営業に向かっていた。我々はそのまま歩いて駅前までゆき、比較的構えの大きな食堂で朝食兼昼食を食べることにした。記念すべきインドでの最初の食事である。
何をどう注文して食べてよいものかわからなかったが、私は何故かアイスクリームが食べたくて、チャパティーとコーヒー、そして注文を取りに来た食堂のオヤジが自信たっぷりに勧めたなんとかアイスを注文した。全部で8.75ルピーだったが、このうち7ルピーがアイスの代金である。そのアイスは豆腐大でチョコ、バニラ、オレンジの三色構成になっており、上にアーモンドの粉末がかかっていた。オヤジが自信をもって勧めるだけあって、なかなか美味であった。でも、あまりに高額なので、しばらくはアイスを食べないことにした。チャパティーは通常、これだけで食べるものではなく、カレーをつけて食べるものである。そのことは私も知ってはいたが、メニューに「カレー」というものはなく、様々な種類のカレーがそれぞれに名前をつけられており、何がなんだかさっぱりわからなかったので、チャパティーだけを注文することになったのである。食べ終わって勘定を払った後、給仕が卑屈にチップを求めて近づいてきた。チップのことなど全く考えてもいなかったのでいくらぐらいが相場なのかもわからず、かといって「いくらが相場か」と尋ねるわけにもゆかず、10ルピー紙幣で支払ったおつりが1ルピー25パイサだったので、その半端の25パイサをやった。給仕は飛び上がって喜んだ。どうも多すぎたようだ。
食事の後、雨宮さんと別れていよいよ私のインド旅行が本格的に始まった。まず、政府観光局へ行き、マドラスの見所や宿探しをすることにした。食堂の前でオートリクシャーを拾い、マウント・ロード(Mount Rd.)にある観光局を目指す。リクシャーにはタクシーメーターのようなものがついていたが、機能していなかった。運ちゃんは20ルピーを要求した。20ルピーといえば日本円で約400円。ちょっと高いと思ったが、そのまま支払いを済ませて観光局へ。建物の中は冷房が効いていて気持ちがよかった。しかし、ここで働いている人にとっては必ずしも気持ちよくはないようで、私の相手をしてくれた職員はさかんに鼻をかんでいた。一通り聞きたいことを聞き、市街地図を手に入れた後、観光局を後にして、トラベラーズチェックを両替するために銀行へ向かった。ところで、観光局の職員氏によれば、中央駅から観光局まではオートリクシャーで4~5ルピーとのことだった。
昨夜、空港で両替した6ドル分のルピーも底をつき、何はともあれ現金が必要であった。最初、観光局と同じくマウント・ロードにあるState Bankへ入る。ここの支店でもアメリカンエクスプレスのトラベラーズチェックは両替してもらえなかった。両替のできる支店を教えてもらったところ、それはマドラス港の近くの支店であった。今いる場所からかなり遠いが金がないのでリクシャーにも乗れず、歩くしかなかった。昨夜着いたばかりの異国の街を、炎天下に大きな荷物を担いで歩くのはつらい。しかも、至るところに牛や路上生活者が陣取っていてまっすぐには歩けない。マウント・ロードを北へ進み、クーム川(Cooum River)の手前を右に折れる。川はどぶ川のような悪臭を発していて、暑さと臭いで頭がくらくらしてくる。そうしたことに耐えながらしばらく行くとマドラス大学のヨーロッパ風の建物群が右手に広がってくる。この道路は海岸沿いを走るビーチ・ロードに突き当たる。ここで左へ折れてノース・ビーチ・ロード(North Beach Rd.)を北上する。クーム川が流れ込んでいるような海なので、海岸も少し臭い。しかし、景色は良い。ビーチ・ロードには南国風の街路樹が植えられており、風にそよぐ姿がなんとも絵になる。それにしても暑いので、バス停の屋根の下でしばらく休憩することにした。バス停のすぐ後ろがセント・ジョージ砦(Fort St. George)という英国植民地時代の軍事基地である。赤茶けた石の壁が巡らされていて中の様子は見えなかった。マドラス大学も煉瓦色の建物が多かったが、ここの植民地時代の建物は煉瓦色が多い。再び歩き出し、しばらくすると港周辺のオフィス街に入った。昨夜のYMCAもこの近くである。観光局を出て一時間あまりがたち、既に時刻は午後1時半を回っていた。
State BankのOverseas Branchを目指してここまできたのだが、たまたまAmerican Expressの看板が目に入ったのでそこへ行くことにした。入り口には機関銃を持った兵士が二人で警備をしていたが、何事もなく二人の間を通り抜けて建物のなかへ進んだ。中では太った中年の婦人が二人、客の姿に気づかないはずはないのに英語でおしゃべりを続けていた。しばらく待った後、相手にしてもらったら、ここは旅行部門の事務所で現金類の扱いは行っていないとのこと。トラベラーズチェックの両替なら向かいのCorporation Bankへ行くようにと言われた。言われた通りに外へ出てみると、向かいに"Corporation Bank"という看板を出した建物があり、その入り口にはアメリカン・エキスプレスのステッカーが貼ってあった。こちらの入り口には兵士ではなく、路上生活者が構えていた。中へ入り、トラベラーズ・チェックの換金をしたい旨伝えると、二階("1st floor"という)へ行くようにいわれた。二階にあがるとすぐにそれらしいガラス張りの部屋があり、真ん中の机には米国大統領候補のジャクソン師に似た行員がいた。その部屋へ入ると、彼が椅子をすすめてくれた。トラベラーズ・チェックを渡すと一通りの手続きの後、チェックは他の部署へ回された。現金が出てくるまでの間、その行員とちょっとしたやり取りがあったが、その中でひとつだけ気になったことがあった。
行員:"Do you come to India alone?"
私:"Yes."
行員:"Oh, that's a hard decision."
この"hard decision"というのはいったいどういう意味なのだろうか。そうこうしているうちに現金が出てきたので、エアコンが効いていて快適なこの銀行を後にする。
現金が手に入ったところで宿探しを始めなければならない。銀行から外に出ると再び灼熱の世界である。銀行のある裏通りをNetaji Subhash Chandra Bose Rodeへ向かう途中に中学校のような学校があり、子供たちが校庭で遊んでいた。彼等のなかの数人が道行く私の姿に気づき、校門から外へ出てきた。彼等の中の比較的背の高い少年が私に向かって
"Excuse me, what time is it ?"
と声をかけてきた。私は最初、自分の腕時計を彼の方にに向けたが、折り悪く太陽の光が文字盤に反射して、それが彼の目を直撃してしまった。
"Excuse me, I can't see your watch. Would you tell me the time ?"
そりゃそうだろう。"It's one thirty."
"Thank you very much."
そんな短いやりとりがあって、私は目指す通りへ歩き出した。時間を聞いてきた少年が他の少年に取り囲まれて何となく誇らしげにしている様子が私の視界の片隅に残った。「外人相手に話しができたんだぞ」というような様子であった。ここでは私は異邦人であるという当然の事実を改めて感じた。誰でもない、ただの異邦人。
まずは冷たいもので喉を潤してから行動を始めることにした。YMCAの並びにあるジューススタンドで、パイナップル風味のシャーベットを食べながらガイドブックを開いてだいたいの目標地域を決めた。特別に理由はなかったがエグモア駅周辺の宿屋街をあたってみることにした。ジューススタンドを出てオートリクシャーをひろう。今度はメーター・チャージでエグモア駅へ飛ばした。
駅前から南へ伸びるKennet Laneに建つ宿を片っ端からあたってみたが、どこも満室だった。五軒目あたりを振られた頃、リクシャーのオヤジが近づいてきていい宿があるという。どうせろくでもない話だろうと思い、はじめのうちは彼を相手にしなかった。しかし、なかなか宿が決まらないので私にも焦燥感が芽生え始めていた。オヤジの勧める宿は一泊45ルピーだという。少々高いと思ったが、ボヤボヤしていると日が暮れてしまうので、その45ルピーという話に乗ることにした。リクシャーに乗って間もなくチェーンが外れるというアクシデントがあったものの、10分ほどでリクシャーはマウント・ロード近くの工事中の建物の前に着いた。工事資材の塊を縫うようにして一階を通り抜け、奥の階段を登ると宿の受け付けになっていた。宿の名は"Hotel Mallika"。幸い部屋は空いているというので、まずは部屋を見せてもらう。バス・トイレ付きでベッドも部屋もなかなか清潔だった。ただ、窓を開くと隣の建物の壁というのはちょっと難であったが、もう疲れていてこれ以上宿探しを続ける気力がなかったのでここに泊まることに決めてしまった。そのとき、リクシャーのオヤジがまだ宿の受け付けのところにるのに気がついた。彼が紹介してくれるという宿の値段は聞いたが、リクシャーの料金はまだ交渉していなかったのである。彼は15ルピーも要求してきた。これは法外な値段である。ちょっとカチンときたので、私のほうは4ルピーという安めの値段を提示した。五分ほどああでもないこうでもないとやり合った後、10ルピーで決着した。オヤジは不満をたらたら言いながら帰っていったが、この勝負は私の負けである。この程度の距離なら7ルピー以上の料金は払いすぎである。しかし、細かい現金の持ち合わせがなかったので4ルピーでだめなら10ルピーを出すしかなかったのである。こんな調子ではこれから約1ヶ月資金がもたなくなるかもしれない。この次はがんばらなければ。
部屋に落ちついてから、まずは洗濯をして、部屋のなかに洗濯物を干し終えた頃、宿の従業員が商売のネタを求めてやってきた。何か売る物はないかという。そんなものは無いといって断ると、今度は別の奴がトイレ掃除だといってやってきた。ほんの形だけ掃除をして、チップをよこせという。まあ、掃除をしたことは事実なので25パイサやるとなんともいやらしい笑みを残して出ていった。まったくインドに着いてからというもの、ほっとする暇がない。昼間の銀行員が言った"hard decision"という言葉の意味がなんとなく判ってきた。
午後五時頃、食事をしようと思い、宿の近所の食堂へ出かけた。言葉が全く通じないのでメニューを適当に指指した。何が出てくるかと思ったら、大豆をつぶして油で揚げたような団子状のものが二個とカレーの入った小皿が一つ、スパイスの効いた白いソースのようなものが入った小皿が一つ出てきた。辛くて味がよくわからなかったが、とにかく平らげて、口直しにコーヒーを一杯もらった。コーヒーは歯科医のブクブクコップのような金属製のカップに大きな金属製の受け皿がついて出てきた。他の客を見ると、みんなカップから受け皿へコーヒーを注ぎ、それをカップに戻し、、、というような動作を繰り返してから口に運んでいた。何故、そのようなことをするのかわからなかったが、私もそのようにして飲んでみた。味は普通のミルク入りコーヒーだったが、かなり甘かった。以上で2ルピー。日本円に換算すれば40円ほどでしかないが、ここでは高いのか、安いのかよくわからない。
インドに来る前に、インドの安宿は虫が多いという話を聞いていたので、取りあえず殺虫剤か蚊取り線香を調達することにした。食堂の並びの薬局へ行くと、結構混雑していた。木製の枠取りがしてあるショーケースのなかには薬品や歯磨きなどが並んでいたが、そのなかに亀の絵がかいてある四角い箱が目に入った。"Odoms"というその商品はガイドブックによれば蚊取り線香である。早速、それを買い求め、混雑した店を離れた。同じMount Road沿いにほんの数メートル駅方面へ行ったところにジューススタンドがあったので、口直しにりんごジュースを作ってもらった。子どもの頃、自分の家にもあったような旧式のジューサーにりんごの破片を次々に放り込んで押し込むと、クリーム色のジュースが出てきた。砂糖など余計なものを加えず、文字どおりりんごだけのジュースなので味はいたってあっさりしていてうまみが足りない気もするが、なんとなくほっとする味だった。
腹も気分も落ちついたところで、「市民の憩いの場」であるという海岸へ行ってみることにした。Wallajah Roadを15分ほど歩くと海岸の砂浜にたどり着く。もう、午後6時半をまわっているというのに、海から吹いてくる風は熱く、クーム川の河口に近いせいもあって、ドブ川の臭いがあたり一面に立ちこめている。周りを見ると、そんなことを気にする風でもなく、多くの人々がおしゃべりや散歩を楽しんでいた。
インドの他の町の様子はまだわからないが、少なくともこの町は多彩である。路上生活者からハイソサイエティに至るまで、実に様々な人々が様々に生活している。夕方、海岸へ向かって歩いているときに大きな競技場を見つけた。道路に面しているところは壁で囲まれているのだが、数カ所に入り口が開かれており、扉の鉄格子越しに中でクリケットを楽しんでいる人々の姿が見えた。この暑いのに真っ白の上下のウエアを着ていかにも余裕がありそうな人々であった。その扉のこちら側では路上生活者の親娘が猿のように髪の毛繕いをしていた。格子扉を挟んでのこの風景の対比が妙に心に残った。

コロンボからマドラス

1985年02月19日 | Weblog

むっとする暑さだった。現地時間で午前1時20分、コロンボに着いた。熱帯らしい重苦しい暑さのなか、タラップを降り、大韓航空のジャンボ機を後にした。ここで降りたのは30人ほどだったが、その殆どが日本人であった。このうち、私と同じマップの旅行で来ているのは井上、佐藤、佐賀、柳橋の4人だった。井上君以外は大学4年生である。井上君はまだ3年生とうこともあり、他の4人より帰国が2週間ほど遅い。佐藤、佐賀、柳橋の3人とは約1ヶ月後にカルカッタで再会することになる。タラップを降りたところで我々5人に10日間のスリランカ旅行にやってきた筑波大の女の子2人を加えて、大韓航空機をバックに写真を撮った。小さなターミナルビルのなかで入国手続きを済ませると、私たち5人は迎えの車でホテルへ向かった。

空港からホテルへの道には驚くほど何もない。街灯も殆どない真っ暗闇のなかを、車のヘッドライトだけが頼りなのに、恐ろしいようなスピードで突っ走った。外は暗くて様子がわからないのだが、窓から吹き込んでくる風がなんとなく南の島らしく感じられた。

ホテルはPalm Villageという少し高級な感じのするリゾートホテルだった。どんなホテルであるかなど、ここではどうでも良いことだ。私も同室の佐藤君も取りあえず寝た。私たちの部屋のテラスからはそのまま海岸に出られるようになっていた。朝方、海岸を散歩してみると、すぐ近くが漁村らしく、カヌーと筏の中間のような小舟が海老や小魚を載せて漁から帰って来るところだった。海岸では地元の若者が話しかけてきたりするのだが、私は警戒心が先にたってしまい、素直に打ち解けることもできず、少し戸惑ったまま適当に話をして、ホテルに戻ってしまった。

もともとスリランカに立ち寄る予定はなく、フライトの都合でたまたまコロンボ経由になってしまったので、少しでも早くインドへ行くことを考えた。私は他の4人より早めに朝食を済ませるとすぐにチェックアウトした。ちょうどカウンターのところに、昨晩、というか今朝の思いきり早い時間に空港へ出迎えに来てくれた現地の旅行会社の人がおり、コロンボ市街へ車で送ってくれるという話になった。まだ2回しか会ったことのない人からの誘いではあったが、迷うことなく好意に甘えた。彼はスリランカの人なのだが実に美しい日本語を話した。小田原で4年ほど暮らしたことがあるそうだ。今は旅行会社で主に日本人観光客の誘致の仕事をしているという。

ホテル周辺は漁村だそうだ。道端の風景はのどかである。牛車が行き交い、川では洗濯する人や身体を洗う人などが各自の行為に精を出していた。南の島らしいのは川岸に椰子の木が並んでいることだ。やはりこれがないと南の島という感じがしない。今、スリランカは内戦の最中である。空港に着いてから今まで、戦いが行われていることを示すような光景には出会わなかったが、コロンボ市街への入り口にあたる橋のたもとで初めてそれらしいものと遭遇した。兵士による検問である。トラックやバンのような荷物を運ぶ車を中心に厳しい検査を受けていた。聞くところによれば、これはヒンドゥー教徒で総人口の13%を占めるタミール人が独立を求めたのに対し、仏教徒で総人口の約9割近くを占めるシンハリ人が反発することによって始まった紛争なのだそうだ。タミール人、シンハリ人双方に言い分があるのだろうが、現状では事態の収拾は期待薄となっており、北部地域ではかなり頻繁に武力衝突が起こっているそうだ。我々の車は勿論、難なく検問を通過した。市街に入ると人も車も俄然多くなる。交通ルールのようなものは無きに等しく、人も車も互いに没交渉のまま自己主張をしている。それでも殺気立ったところは感じられず、どこか暢気な風でもある。

オフィス街風の所で車から降ろしてもらい、AIR LANKAのオフィスでインドへの航空券を求める。車を降りるとすぐに土産用の切手セットを売り歩いているオッサンに捕まってしまったが、殆ど無視してビルの中へ入って行く。入り口でセキュリティーチェックがあり荷物を預けさせられた。なかに入ると外の喧噪が嘘のようで、エアコンだけが静かに唸っている。空いているカウンターへ行き、最も安いインドへのフライトを所望した。一番安いのはトリヴァンドラム (Trivandrum) へのフライトだが、これは26日以降の便しかないという。次に安いのはティルチラパッリ (Tiruchchirappalli) だが、これも3日後以降の便しか取れないという。今日出発できる便のなかではマドラス (Madras) へが最も安いというのでそれを予約した。値段は1,400スリランカルピー、日本円で約1万4千円である。高い、と思った。

フライトを予約し、やれやれと思って外へ出ると、さっきの土産売りのオッサンがまだいた。あきらめもせずにつきまとってくるのだが、こちらもあきらめずに無視し続ける。ホテルの部屋に備えつけてあったレターセットを手に入れておいたので、それで早速日本へ手紙を書こうと郵便局へ入った。こういうところにはオッサンは何故かついてこない。郵便局のなかで適当な場所を見つけて手紙を書く。書きあがった手紙を封筒に入れ、備えつけのシロップのようにゆるい糊で封をして窓口に差し出す。
手紙を出し、やれやれと思って外へ出ると、さっきの土産売りのオッサンがまだいた。あまりのしつこさにとうとう根負けしてしまい、彼に食事を振る舞うことでお引きとり願うことにした。彼は迷うことなく裏道に面したこぎれいな食堂へと私を案内した。そこのオヤジとは顔見知りであるようだが、オヤジは彼を見下しているような印象を受けた。勿論、一目で外国人と判る私に対しては愛想が良かった。

席につくと湯を満たしたコップと大きな皿が一人にひとつづつ出される。テーブルの上には既に直径20cm程度のプラスチック製の赤いボールがのっていた。私にはこれらをどうするのかわからないのでオッサンの動作をそのまま真似ることになる。まず、コップの湯で皿をゆすぎ、その湯を赤いボールに捨てる。その時、ついでに自分の手も洗っておく。すると店のオヤジが筒状に固められたご飯ののった大皿を持ってくる。その筒状のご飯を一つ自分の皿に取り右手で崩す。その間に、オヤジはオッサンが注文したカレーのようなものが入った小皿を二つ持ってきた。崩したご飯の上にそのカレーをかけ、右手でこねくりまわしながら一口大のかたまりを作って、それをパワーショベルの腕のような動作で口に運ぶのである。慣れないと手がカレーにまみれてどうしょうもなくなってしまうのだが、オッサンの手は指の第二関節より先にしかカレーがついていない。やけに器用だなどと妙に感心してしまった。食堂のオヤジは気を利かせたつもりで、私にフォークとスプーンを用意してくれた。この食堂ではフォークやスプーンを使って食事をする客はとても珍しいようだ。私の前のフォークとスプーンには錆が浮いていた。私はカレーの味はわからなかった。とにかく辛くて一口分を飲み込むのがやっとであった。しかし、腹がへっていたので他の食べ物を頼んでみた。次に食べたのは春巻き状の揚げ物である。2~3mm厚の皮に包まれているのはカレー味の野菜炒めであった。カレーほどではなかったが、やはり辛かった。それでも一個食べた。仕方がないので食パンにバターを塗って食べた。「食べた」というよりファンタオレンジで流し込んだ。このファンタオレンジはオッサンのリクエストである。スリランカに来てファンタなんぞを口にするとは想像もしていなかった。食べ終わると大きなコップに水がなみなみと注がれる。これは飲むためのものではない。この水で手を洗うのである。こうしてほっとした気分になると、煙草を吸いたくなる人がいる。オッサンは私に断りもなく煙草を一箱注文してしまった。結局、ここの勘定は150ルピーとなり、空港税としてとっておいた100ルピーを使うはめになってしまった。ところでオッサンは22歳だそうだ。しかも妻子がいるという。同じ年に生まれながら、その場所が違うだけで片や日々の生活の糧を得るために四苦八苦している生活人、片やフーテンの観光客というのは少々衝撃的だった。食堂を出るとオッサンはご機嫌でどこへともなく消えてしまった。

街は多様な人々で溢れていた。東京では誰も彼も似たような格好で歩いているが、ここでは外見も動作もバラバラである。オッサンのように素足であるいているのもいれば、ピカピカに磨き上げられた革靴をはいてスーツを決めている人もいる。長いスカートのような民族衣装の人もいれば、裸同然の人もいる。乞食もいれば、それに小銭をやるのもいる。だけどみんな元気そうだ。私だけが暑さと土地への不慣れさで参っているように感じられた。空港税用にとっておいた100ルピーを使ってしまったので、アメリカンエクスプレスのオフィスへ行ってTCを換金する。エア・ランカと同様、ここでも建物の入り口で荷物のチェックを受ける。中はやはりエアコンが効いていたが、少々混雑していた。ここで10ドル分を現金化する。外に出ると陽はいよいよ高くなり、暑さも一段と厳しくなった。

空港へのアクセスを確認しようと思い、ツーリストインフォメーションへ行くことにした。ところが道を尋ねる人毎に答えが微妙に違っていていつまで歩いても見つからない。何人もの人に尋ねてようやく中央郵便局近辺であることまでは絞り込めたのだが、そこから先が特定できないのである。仕方がないのでツーリストインフォメーションは諦めて、中央駅へ行ってみた。駅前には様々な行き先のマイクロバスが停まっており、そのなかの一台の運転手に空港へ行くバスはどれかと尋ねた。彼が指さす方向へ歩いて行くと、ホテルから市街への道中に何度も見かけた赤いオンボロバスのターミナルに着いた。ここは新宿駅西口などのバスターミナルよりも大きく、どのバスがどこへ行くのか皆目見当もつかない。そこで、ここでも何人もの人に空港行きのバス乗り場を尋ねて回ることになった。やっとターミナルの片隅に「187 KATUNAYAKE AIRPORT」の表示を見つけた。行き先を示す表示はあるものの時刻表のようなものにはどこにもない。行き先と料金だけが表記されていた。料金は4.50ルピー。私の前には若奥さん風の女性が二人、無表情にバスを待っていた。

10分ほどでバスは来た。料金は先払い。ここが始発ではないらしく、既に座席が8割ほど埋まっていた。木の床は隙間だらけ、座席も板ばりであった。まだ、フライトまでには時間があるのだが、すっかり疲れてしまったので、このまま空港へ向かう。朝に見た風景を夕方にこうして眺めながら、バスの車体が軋む音とエンジンのうなりを聞き、窓から飛び込んでくる風を感じ、ぼんやりと未だ見ぬインドの街を想った。空港に着くまでにバスはほぼ満席となったが、空港が最終目的地ではないらしい。空港に着いても誰も降りようとする気配はなく、私がバスを降りた唯一の乗客であった。空港ターミナルの入り口にも兵士が立っており、航空券の提示を求められた。尤も、私が一見して外国人であるためか、その若い兵士はにこやかで、緊張感のようなものは感じられなかった。ターミナルビルのなかは閑散としており、3階分吹き抜けの天井まで届く超長の箒のようなもので天井を掃除している人が妙に印象的だった。フライトまで時間があったので、空港内のレストランで紅茶を飲む。スリランカで飲む紅茶なのでそれなりの感動のようなものを期待していた。私はいわゆる「通」ではないのでよくわからないが、一杯5ルピーもする割にはあまりに普通の味と香りに思われた。

コロンボからマドラスへのフライトはB737で約1時間であった。簡単な機内食も出されたが、それがヴェジタリアン用とノンヴェエジタリアン用の2種類から選択するようになっているところにインドを感じてしまった。機内は殆どインドかスリランカの人々のように見えたが、おもしろいのは彼らが一眼レフのカメラをケースに入れずにむき出しのまま機内に持ち込み、大事そうに膝の上に置いていることである。カメラはお守りなのか、見せびらかしなのか。日本人乗客は私を含めて3名であり、皆旅行者であった。機内での座席は3名ばらばらであったが、それほど大きな飛行機ではない上、6割程度しか座席が埋まっていなかったので自然とお互いを認識し、マドラスに着いた時には自然とその3人で今晩の宿を探すことになった。空港内の銀行では何故かアメリカンエクスプレスのトラベラーズチェックは換金してもらえず、たまたま持っていた6ドルの現金だけインドルピーに両替した。どこに行くあてもなかったが、取りあえずマドラス市街へ行かないことには話にならないので、空港ターミナルの前に停車していたリムジンバスに行き先も確かめずに乗り込んだ。料金は15ルピーだった。結局、バスの終点はエグモア駅(Egmore Sta.)だった。あまり大きくなさそうな駅で駅前に商店街のようなものは見あたらなかった。ただ、駅前の道路に沿って果物の屋台が何台か並んでいるだけだった。ちょっと道をはずれた暗がりには白い大きな塊がいくつも転がっている。牛だった。なにはともあれ我々3人はなんとなく歩き出した。

夜でもかなり蒸し暑く、喉が渇いてきたところで"Lassi"という看板が目に入ってきた。3人のなかで一人、インドへは2回目という人がおり、彼によればこのラッシーとは飲むヨーグルトのことだという。おいしいらしいので、我々はひとまず喉を潤してひと休みすることにした。屋台に毛の生えたような粗末なその店ではまだあどけない少年が店番をしていた。ラッシーを3人前注文すると、一抱えほどの大きさの陶器の壺のなかにスコップのようなものでヨーグルトを放り込んだ。そこへ砕いた氷をやはりスコップ一すくいと大きなスプーン数杯の砂糖を入れ、木の棒で激しくかき回す。大きなコップへ壺の中身を流し込んで出来上がりである。一口飲むと、冷たく爽やかな甘さが口腔から胃袋にかけてさっと広がる。言葉では形容しがたいおいしさであった。ラッシーを飲みながら一服しているとリクシャーという自転車と人力車を足して二で割ったような乗り物が次から次ぎへと近づいてきて「宿は決まっているのか」などと声をかけてきた。私はこういう誘いに乗ると絶対にぼられると思い、あくまで自分の足で宿を探そうと決意を新たにした。しかし、インド2回目氏はリクシャーに乗って消えてしまった。残った二人は取りあえずYMCAを目指すことにした。リムジンバスを降りてから歩くこと1時間あまり、夜10時半を回ろうとするころ、ようやくYMCAにたどり着いた。ところが、その入り口は無情にも固く閉ざされていた。とたんにラッシーを飲みながらの決意もどこかへ吹き飛び、二人とも目はリクシャーを求めて通りの上をさまよっていた。リクシャーに乗って中央駅周辺の宿街を走った。リクシャーのオヤジも一生懸命に仲間に声をかけたりして探してくれ、11時半ごろにやっとHOTEL ITTAというこじんまりとした宿に落ちつくことができた。ツインで一泊50ルピーだった。