熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2021年9月

2021年09月30日 | Weblog

『文選 詩篇(二)』 岩波文庫

今年最初に読んだの本は岩波文庫の『文選』の第一巻。短歌や俳句を読むのに何か足しになるものでもあるのではないかと思って、漢詩を読み始めた。流石に漢詩を白文で読むことはできず、読み下しと注と解説を頼りに読むので、容易に読み進めることができない。だから手に取るのが億劫になる。一巻目を1月に読んで、二巻目を読み終えたのが9月だ。全部で六巻ある。今年中には読み終わらない。しかし、そんなものを読むのも、それはそれで不思議と愉しい。

いきなり顔延之の「秋胡の詩」というすごい詩から始まる。何がすごいかというと詩に歌われている物語だ。夫婦の話である。美しい娘と君子と誉高い美男の夫。新婚早々、夫が遠方へ出張を命じられる。時代は4−5世紀、そこその官位にあるので、移動は牛馬が引くのか人が引くのか知らないが車である。それでも、今と比べれば荒野を行くが如きの大移動だ。命懸けといっても過言ではない過酷な移動である。無事に勤めを終え帰路についた夫は、大命を果たし終えて気が緩んだのか、車窓から農作業に精を出す美しい女性を見つける。移動の隊列を止め、その女性に話しかける。話しかけるという穏やかなものではなく、いわゆるところのナンパをする。しかし、その女性は堅い。全く相手をしないのである。男は諦めてそのまま帰宅する。帰ると母親しかいない。妻の行方を尋ねると農作業に出ていて直に戻るという。戻ってきた妻は、さっきナンパをした女性だった。女性はそれが夫であることに気づいていた。この後修羅場を迎えたらしいことが示唆されて、最後はこう締める。

愧彼行露詩
甘之長川氾

こんな男と夫婦になるとは恥である。こうなったら川に身を投げるほかはない。絶縁宣言だ。当時の倫理観の基礎にある儒教の考え方を反映したものらしいのだが、こういう作品が残るということは実情がその反対だったということでもある。一夫一婦というのは誰が決めたのか知らないが、社会の単位として家庭を捉えれば、そこに厳然たる秩序がなければ社会も安定しないと考えるのは当然だ。しかし、集団の特性とそれを構成する個別要素の特性は無関係である、というのは数学の集合論の常識だ。

よくいろいろなところで使われる蟻の集団の話がある。蟻の群は、よく働く2割の蟻が8割の食料を集めるとか、本当に働いているのは全体の8割だとか、よく働いている蟻とそうでもない蟻と働かない蟻の割合は2:6:2になるとかいうものだ。そして、そのよく働く蟻だけを集めて群をつくると、やはりそのような比率の群になるというのである。なぜだろう。

60年近く生きてみた実感としては、まぁどうでもいいんじゃないの、ということになるか。人は生まれることを選べない。気がつけばここにいる。それを周りからああせいこうせいと言われてもねぇ、と思うのである。

命というものが何なのか、というのは誰にもわからないことで、だからこそ宗教が必要なのだろう。わからない、というのは生きる上で大変マズイことなのだと思う。確たる真理のような秩序があって、その中に自分を位置付けることで人も、おそらく他の生物も、平穏な日常を営むことができる。その拠り所の一つが家庭という集団だと思う。知覚し認識する世界を自分なりに理解して構成する世界観の基礎となる実体験が家庭だ。だから、家庭の構成員は必ずしも生物的な繋がりがなくても良いし、実体があったという記憶が残っていれば良いので今ここにいる必要もない。

何もないところに自分一人しかいないとすれば、そもそも自己を認識できないので他者が例え妄想の中であっても必要だ。その他者との関係性の中に「自分」があり、その「自分」の集合として「世界」が生まれるのである。当然、私が認識している世界は「あなた」(=私以外)のそれとは違う。しかし、どのように違うかは互いにわからない。私はあなたではないからだ。そこで私とあなたが共に生きるためには共有する「正解」が必要になる。世の中はそういう「正解」でできている。ただ往々にして私の「正解」はあなたのそれとは一致しない。そこで諍いが生じる。そして、その不一致が私の生存の基盤となる世界観に重大な脅威となると認識されれば、あなたには消えてもらわなければならない。かくして世に争い事は絶えないのである。

この文章をパソコンの液晶画面を見ながら打っている。画面には文字が現れ、自分が考えたことが文として表示されている。この画面を物理的に分解すればただの液晶の点でしかない。一つ一つの点だけを見ても文字はわからない。人はこの点のようなものなのだと思う。

『文選』に収載された作品は1500年ほど前のものだ。そのままかどうは知らないが、それをこうして読むことができる。漢詩というと山水画の世界を詠んでいるイメージを持っている。そういう平穏な世界が詩に詠まれ、それが後代に受け継がれているということは、現実がその正反対であったということでもある。

『文選』の詩人たちも同様の悲劇には事欠かず、嵆康、潘岳、陸機などは讒言により処刑された。それが本当に讒言であったのか否かはさておき、文学が讒言を被ったとされる側から生み出されているのは確かだ。259頁
だからこそ、山水画の世界のように、山奥の静かな土地で気の合った友人同士集まって、釣りをして遊んだり、酒を酌み交わしたり、というようなことが漢詩には描かれている。その本意は、酒を飲むということや隠遁することの記号性を読み解くと別の世界が見えてくる。1000年やそこらで人間というもののありようが変わるとも思えないが、身の回りがざわついている時にこそ、漢詩の世界はありがたいものに感じられる。

中国の文学において、飲酒はしばしば世俗や体制に対する反発、抗議の意を含むものであった。59頁
富と権力への欲望に支配された世間に背を向け、清貧に甘んじて高潔を貫く態度は、士大夫の精神の拠り所としてその後も継承されていく。68頁

謝霊運は山水詩の祖とも称されるが、その詩はただ単に山水の風景をうたうだけではない。政治の混乱に翻弄された人生の軌跡が、直接あるいは間接に反映されている。260頁

ところで、今の中国の人たちも漢詩を読んだり詠んだりするのだろうか。習近平の詠んだ詩があれば是非読んでみたいものだ。

 

 

小菅宏 『小松政夫 遺言』 青志社

街で芸能人を見かけることはあまりないのだが、少ない経験では皆それとわかるオーラのようなものを発している気がする。もちろんメディアへの露出で、こちらが視覚情報を持っている所為もあるだろう。しかし、世に出る人というのは、それだけではないと思う。小松政夫をみかけたのは2016年7月17日、芦花公園駅前のバス乗り場だった。杉並公会堂での喬太郎と三三の二人会を聴くのに荻窪行きのバスに乗るとき、彼がバス停で誰かと立ち話をしていた。客をバス停まで送ってきたようで、その客とおぼしき人がバスに乗った。小松政夫はこのあたりに住んでいるんだと思った。それだけのことでこの本に興味を覚えた。

小松は「芸人」と呼ばれることを嫌ったという。喜劇役者であることに拘りがあったというのである。憧れたのは堺駿二とジャック・レモン。堺のほうは知らないが、ジャック・レモンは私も好きで、『アパートの鍵貸します(原題:The Apartment)』は劇場で何度も観て、DVDも持っている。1960年に公開された作品なので、ロードショーではなくて、名画座でのリバイバルだ。今は映画館が少なくなったが、私が学生の頃はちょっとした街には名画座の一つや二つはあった。『アパートの鍵貸します』は荻窪とか新宿で観た記憶がある。公開から20年ほど経っていたが、けっこうあちこちの映画館でやっていた記憶がある。

どのようなものでも創作というのは既存のものを乗り越えないと価値が認められないという厳しさがある。その所為かどうか知らないが、1960年代くらいまでのアメリカ映画は伸び伸びしている印象がある。もちろん、時間は連続しているのだから、当時は当時なりの創作のハードルがあったはずだ。それでも今から見れば、多分創造の余地が大きかったとは思う。ハリウッドの作品だけでなく、テレビ黎明期の日本も、映画や番組の雰囲気が今とは違って素朴に明るい気がする。小松の師匠である植木等がいたクレージーキャッツも然り。

役者としてキャリアを積む中で小松が考えたことは、自分の日常の所作を意識することだという。役者に限らず、なんでもない毎日をきちんと過ごすことが生きるということだと思う。どのような職業であろうと、どのような人生であろうと、人として守るべきはそれしかあるまい。

昨日の日曜日はこの本を読んだ他に、You Tubeでジャズ番組を観た。1995年2月にNHK衛星第2で4夜連続で放送されたものらしい。『タモリのジャズスタジオ』、司会はタモリと大西順子。ゲストは日替わりで毎回複数名、林家こぶ平、景山民夫、糸井重里、細川ふみえ、安部譲二、清水ミチコ、ピーター・バラカン、桑野義信、斉藤晴彦、八木橋修といった面々だ。ジャズに詳しい人もそうでない人もいて、それがまた楽しい。本書では、植木等以外では高倉健と萩原健一に多くのページが割かれているが、タモリについても数ページを使っている。小松はタモリがプロになる前からの知り合いで、互いに刺激を受けたらしい。

本番でのタモリは自分から振った話を他人に強要しない。分かる人が分かり、笑える人が笑うに任せるタイプ。しかし彼の話には必ず「裏」があると知れば、テーマによって発せられる蓄積された知識での話題の時宜と見解の広さが半端でない。それを小松は評価した。キャリアと芸域の違いはあっても小松は己の喜劇を見つめる教唆にしたと語る。(73頁)

若い頃、教養として音楽を好きにならないといけないのではないかと思って、意識してクラッシックとジャズを聴いた時期がある。何年かコンサートやライブハウスに通ってみたりしたが、5年くらいしか続かなかった。記憶に残る演奏は一つや二つはある。しかし、それをきっかにどうこうというふうにはならなかった。

それでも昨日の番組は面白いと思って4夜分(約30分 X 8)一気に観た。4時間一気に観ることができるくらい面白かったということであり、また、ヒマであったとも言える。番組の中で言及されたアルバムの中の何枚かは持っている。そういうものを聴こうと思って聴いていた時代が、今にしてみれば、ちょっと苦い記憶に感じられる。背伸びして何者かになろうとして、結局何者にもなれなかった虚ろな感じと表裏一体の記憶、とでもいうのだろうか。今はただ笑うしかない。

 

内田百閒 『大貧帳』 中公文庫

初めて内田の本を読んだ。これはいけない。癖になってしまうかもしれない。通勤の電車の中で読んでいて、しばしば声をあげて笑ってしまった。

内田はぼんぼんだ。世に名前の残る人というのは、余程卑しいか、余程高貴であるか、いずれかだと思っている。それは自分の人生経験に基づくもので、今や確信だ。

人は生まれることを選べない。気がつけばここにいて、さぁがんばれ、などと身近な人に焚き付けられ、えーっ、と思いながらも、それが当然のように生きる。好き好んで生まれたわけでもないのに、基本的人権などとほざいて、まずは己の存在の正当性を主張し、自分以外の命を食い散らかして、命は大事です、と澄ましている。「進化」などという階層概念を拵えて人をその頂点に据え、己の傍若無人を正当化する。階層概念で自己を正当化するのは、人どうしの関係でも同じことだ。人間の脳の物事の理解の仕方がそういうふうにできているのだろう。差別はいけません、という主張と、物事を数値化してその多寡で良し悪しや善悪を判断する価値観とは矛盾しないとでも思っているのだろうか。

まず、世に名前が残るのは、その階層の底辺から頂点への変位を成し遂げた人だろう。相変位に多大なエネルギーを要するのは物理の常識。それくらいのエネルギーを持つ人なら何でもできる。それ以外で名が残るのは、無条件で自分が頂点にいると揺るぎない確信を持っている人。卑しいところのない人は成りが粗末でも、相手を圧倒する気のようなものを発している。内田はこれだ。会ったことないけど。

これは内田の貧乏譚。だから面白い。貧乏を恥だと思う人の貧乏話は身につまされるだけだが、全く違う視点で貧乏だの借金だのを捉えるから、そこにあっと言わせるものが現れる。世間では稼ぎや資産という金銭で表記されたものでしか物事を判じることができない知的不具者が多い。数字の多寡が唯一の尺度というような思考では、生きるのが窮屈だろうと思うのだが、世間はそういうものを好むようだ。私も実は窮屈だ。

無心者や押売りが悪態をついて、これだけの構えに二円や三円の金がないと云う筈はないなどとと云い出すと、蔭で聞いていても可笑しくなる。そう云う俗物にはそんな気がするかも知れないが、無いとなったら洗ったようになくなるのであって、煙草代に窮する事も珍しくない。いつもお金を絶やさない様に持っているのは、私などよりもう一段下の貧乏人である。そう云う人達は貧乏人根性が沁みついていて、お金を持たなければ心細くていられないのであろうと思われるが、私などはお金はなくても腹の底はいつも福福である。(9-10頁)
目次などが終わって最初のページでいきなりこれなのである。私も貧乏だが、内田先生(ここからは先生と呼ぶ)のような福福という心境には至らないので、「もう一段下の貧乏人」の類だ。修行が足りないのだと読み始めていきなり反省させられる。毎日朝4時時半に起床して、小一時間も電車に乗って賃労働に精を出しているのだが、いまだに築50年の団地でエアコンもなく、テレビもなく、車もなく、自転車もなく、というないない尽くしの暮らしから抜け出せずにいる。石川啄木はそこでじっと手を見るわけだが、私の場合は1年半ほど前から手が攣るようになったので、暇さえあれば手を開いて閉じてというグーパー運動をしていてじっと手を見る余裕すらない。

内田先生の貧乏の不思議なところは、人並み以上の所得があることだ。それはつまり出費が尋常ではないということを示唆している。今、我々の生活では感染症の世界的な流行で右往左往している(あくまで気持ちが不安に揺れ動く様を形容してのことだ。多くの人は移動を自粛していることになっている)。内田先生の時代にも似たような状況があったらしい。

月手当四十円の時、運悪く西班牙風がはやって、私の家でも、祖母、母、細君、子供、私みんな肺炎のようになって、寝てしまったから、止むなく看護婦を雇ったところが、その日当が一円五十銭で、一月近くいた為に、私の月給をみんな持って行っても、まだ足りなかった。(13頁 「俸給」)

学校を出て官立学校の教官になり、月給が貰える様になったと思うと、西班牙風が流行して、雇った看護婦に支払う給料が私の俸給額より高くなったから、忽ち借金が出来た。それから何年か後に出世して、年収は手当を別にした本棒だけで六千円に二十円足りないと云う身分になったので、お金が残るかと思うとその反対で、一生の大貧乏の基礎をその当時に築いた。(46頁 「金の縁」)

ちょっとしたきっかけで負の連鎖に陥ることはよくあることだ。先生は原稿も書くので、俸給は増えても、そちらがうまくいかないこともある。些細なことで生活の調子が狂うのである。

夏じゅうは団扇を使うのと、汗を拭うのとで、両手がふさがっていたから、原稿が書けなかった。それで見る見る内に身辺が不如意になり、御用聞や集金人の顔がささくれ立って来た。(52頁 「錬金術」)

そして、借金を重ねることになる。習慣とは恐ろしいもので、借金を重ねると借金が気にならなくなるらしい。

「(前略)借りた方の気持から云うと、証文を入れた借金は、むしろ返さなくてもいい様な、そんな気のする点もあるのではありませんか」と云ったので、いくらか思い当たるところもあり、かたがた、その話に就いては、それ以上にこだわらない事にした。(63頁 「揚足取り」)

やがて無恒債者無恒心と云う心境に至る、らしい。

百鬼園先生思えらく、恒債無ければ、恒心なからん。お金に窮して、他人に頭を下げ、越し難き閾を跨ぎ、いやな顔をする相手に枉げてもと頼み込んで、やっと所要の借金をする。或は所要の半分しか貸してくれなくても不足らしい顔をすれば、引込めるかも知れないから、大いに有り難く拝借し、金額に相当する感謝を致して、引下る。何と云う心的鍛錬、何と云う天の与え給いし卓越せる道徳的伏線だろう。宜なる哉、月月の出入りを細かく勘定し、余裕とてはなけれども、憚り乍ら借金は致しませぬ事を自慢にしている手合に君子はいないのである。君子たらんとするもこの手合には、修養の機縁が恵まれていないのである。お金をもつという事は、その人間を卑小にし、排他的ならしめ、また独善的にする。厭うべきはお金である。お金があっては、道を修め、徳を養う事は出来ない。就中やっと、どうにか間に合うと云う程度に、お金を所有する事が、最も恐ろしい。そう云うお金は、一番身に沁みて有り難いから、従って、お金の力が一倍強く、故に一層修養の妨げとなる。しかし、そう云うお金の力と云うものは、実は、真実の力ではないのである。人はよく、お金の有り難味と云う事を申すけれど、お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存するのである。汗水垂らして儲けたお金と云うのも、ただそれだけでは、お金は粗である。自分が汗水たらして、儲からず、乃ち他人の汗水たらして儲けた金を借金する。その時、始めてお金の有り難味に味到する。だから願わくは、同じ借金するにしても、お金持からではなく、仲間の貧乏人から拝借したいものである。なお慾を申せば、その貧乏仲間から借りて来た仲間から、更にその中を貸して貰うと云う所に即ち借金の極致は存するのである。(193-194頁 「無恒債者無恒心」)

すごい、内田先生。冗談はさておき、しかし、内田はやはり物事の本質が見えている気がする。

百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或いは、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。(218頁 「百鬼園新装」)

これはその通りだと思う。別の機会にこのことに関して考察したい。

 

 

真鍋真 『深読み!絵本『せいめいのれきし』』 岩波書店(岩波科学ライブラリー 260)

『せいめいのれきし』とは、1962年にバージニア・リー・バートン(Virginia Lee Burton)が発表した絵本 "Life Story" のことである。日本語版は石井桃子の訳で1964年に発行。バートンといえば、自分の中ではこの本よりも『ちいさいおうち』なのだが、最近、生物の進化のことが気になっているので、勉強するつもりで購入した。"Life Story"はバートンの最後の著書だ。1968年10月15日、肺癌のため逝去。享年59歳。なんだか自分の今の年齢で亡くなった人の仕事が妙に気になるのである。

本書はその解説書。絵本というと子供の読むものと思いがちだが、そんなことはない。自分の娘が小さい頃は毎週末、夜寝る前に絵本の読み聞かせをしていた。毎回違う絵本を読むとなると年間100冊ほど買うか借りるかしないといけないことになるといけない勘定だが、お気に入りで何度も読まされる本が数十冊はできてくるので、言葉を覚え始めた2歳くらいから小学校に上がる前後くらいまでの間でそれくらいの冊数かもしれない。数えたことがないのでわからないが。その中にこの手の科学系はほとんどなかった。

バートンは絵本作家であって、生物学者でもなければ考古学者でもない。"Life Story"は彼女の最後の作品だが、最後と決めて書いたわけではないだろう。それまでの作品と同じように熱心に下調べをし、毎日のようにアメリカ自然史博物館に通ってスケッチをして、読者に正しい話を伝えようと真摯に取り組んだであろうことは、出来上がった仕事が雄弁に語っている。

そうやって描かれた生命の歴史は地球が誕生した約46億年前から原生代の終わりである約5億4100万年前までをプロローグとしている。「原生代」というくらいなので、既に生命体が現れていたことはわかっている。そして、その直近5億4100万年の間に5回の大量絶滅があったことが知られている。

絶滅の原因は火山の爆発だったり巨大隕石の衝突だったりする。つまり、突然の変化だ。理屈としては、噴火や隕石衝突で地中にあった二酸化炭素やメタンガスが大量に噴出、また、噴火や衝突の衝撃で大気中に大量の粉塵が舞いそれらが核となって大気中の水蒸気が凝固して地球は雲に覆われる。雲には当然に地中からの噴出物も含んで、大量の酸性雨を降らせることになる。雲に覆われた地表では光合成ができなくなる。また、太陽光が遮断されることで寒冷化する。大気の組成急変と寒冷化でほぼ全ての生物が絶滅する。

過去5回あった大量絶滅の最大のものは古生代末、というか古生代を終わらせたものだ。これが2億5200万年前、火山の大噴火によるものだ。生命の歴史はここで一旦仕切り直しになる。この時、もう一つ重要な変化が生じた。大量絶滅を引き起こすほどの火山の噴火ということは地殻変動も派手に起こったわけで、世界の大陸が陸続きになった。超大陸バンゲアの誕生だ。

雨が降れば雲は減る。雲が減れば太陽光が地上を照らす。太陽光が降り注げば地表に多少残っていた藻とか苔とか、生命の原初的なものが息を吹き返す。そこから生命の歴史が巻き直される。そして今度は恐竜が登場する。

スピルバーグ監督作品で『ジュラシック・パーク(原題:Jurassic Park)』というのがある。私は映画館で観た。怖かった。断っておくが、私は怖がりだ。原作はマイケル・クライトン(Michael Crichton)の同名の小説。映画は1993年公開の作品なので、登場する恐竜たちの彩色は地味目だ。恐竜の姿を想像させるものは化石くらいしかない。化石からは色がわからない。わからないのなら、何でもあり、でよいと市井の者は思うかもしれないが、ガクモンの方はわからないものを勝手に決め打ちとはいかない。それで博物館などにある恐竜の姿は地味目の彩色となり、それを眺めている市井の者が恐竜に抱くイメージもそれに準じたものになる。

ガクモンの決め事は理屈が立つようになっているが、なるほどなと思わせることが起こる。2010年に新たな知見を得るのである。鳥類との関連が言われる始祖鳥のような翼を持った恐竜もいた。翼には羽毛がある。

2010年、羽毛の化石の表面に粒状の組織が残っていて、これがメラニン色素に関連した物質で、その形や大きさ、密度を、現代の鳥類と比べることによって、羽毛の色を復元できることがわかりました。(46頁)(Paterson, J.R. et al., 2011. Nature, 480(7376): 237-240)

恐竜が色彩豊かであろうとなかろうとどうでもよいのだが、ガクモンのおかげで人の知見は増え続けているということが言いたかっただけだ。

恐竜は6600万年前に絶滅する。しかし、完全に絶滅したのではなく、一部は鳥類として進化を続けているらしい。言われてみれば、ハシビロコウなんかは恐竜っぽい。

今から約6600万年前のある日、現在のメキシコのユカタン半島のあたりにあった浅い海に、直径10kmと推定される隕石が衝突し、隕石と衝突地点の岩石が粉々に壊れ、水蒸気とともに空中にまき上げられ、それが地球全体をおおうように、大気圏に層を作ったと考えられています。太陽光線の地表への到達量が激減し、地表の寒冷化や、植物の光合成の停止などが全地球的に起こり、そのような状態が長期間にわたって続いたとされています。(62頁)

過去5回あった大量絶滅のうち、この約6600万年前のものが5回目である。現在、地球は第6回目の大量絶滅期に既に入っているそうだ。実際に絶滅種の数が急速に増えているという。また、地球の天体としての運動サイクルから、時代は氷期に向かっているというのである。

現代は間氷期です。間氷期とは氷期と氷期の間の時代で、第四紀の後半の約60万年間は、氷期と間氷期を繰り返しています。なぜ氷期と間氷期を繰り返すのかは、自転軸に傾きがありコマが首振り運動をするような動きをすること、地球が太陽を周回する軌道が正円ではないことなどによって生じる、北半球の夏の日射量の周期的な変化によるというミランコビッチ仮説が知られています。しかし、この周期性はミランコビッチ仮説だけでは説明できない部分もあります。地球温暖化を実感する現代ですが、氷期と間氷期のこれまでのサイクルを見ていると、また氷期が来ることが想定されます。(88-89頁)

本書あるいは生命の歴史で注目すべきは絶滅と繁栄を繰り返しながら変化を続けるこの地球上の生命のダイナミズムだ。地球の自転軸が、などと言われれば永遠だの普遍だのという概念が無意味に見えてしまう。それならそれで、互いに多少は我を抑えて譲るところは譲り合い友好を宗に生きていこう、となっても良さそうなものだと思うのである。そのことは以前にも書いた。現実は真逆なのである。それは何故だろう。

 

 

内田百閒 『東京焼盡』 中公文庫

東京が空襲に遭うようになってから終戦までの日記。

本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ツタノハ昭和十九年十一月一日デアル(13頁)

内田の筆致が淡々としている所為もあるだろうが、焼夷弾が降るなかも淡々とした世界のように感じられる。時に内田は57歳。今の私と同世代だ。兵隊に取られる年齢ではなく、それどころか、おそらく当時の平均寿命間近といったところだろう。そういう人生の時間軸での位置も関係あるかもしれない。それでも儒教文化のお零れとか世間の習慣などのおかげで、年長者を敬う気風のある社会ではそこそこに存在感もあったはずだ。日記によるといろいろな人が物資の乏しい中でいろいろな差し入れをしている。差し入れとは要するに食料だ。「差し入れ」と書いたがタダではなかったようだ。日記の記述も食に関することが圧倒的に多い。生きることは食べることなのである。

当時、内田は既に教職を辞め、文筆業に専念しながら、日本郵船の嘱託となり毎日のように丸の内にある郵船本社に出社している。住まいは東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)。通勤には省線を利用。省線とは現在の首都圏JR線だ。国鉄時代には国電と呼ばれていた。当時は鉄道省の管轄だったので省線。東京が空襲されるようになると、建物がしっかりしている郵船ビルに大事な私物を避難させている。その出し入れで奥さんが職場に来ることもあったようだ。

「東京大空襲」と呼ばれる大規模な空襲が何度かある。何の説明もなく「東京大空襲」と言う時は三月十日の空襲を指す。この日の日記で注目すべき記述がいくつかある。

表を焼け出された人人が列になつて通つた。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行つた。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ツ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持ちでゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。(95-96頁)

東日本大震災の日のことを思い出した。当時、私は巣鴨の国道17号の旧道に面した小さなマンションの2階で暮らしていた。「とげぬき地蔵」として知られる高岩寺がある通称「地蔵通り」。江戸六地蔵尊のひとつである眞性寺もある。東京でも震度5強を記録し、鉄道は地震以降終日運休した。私は夕方から夜間にかけてのシフトだったので、出勤は諦めて家の中にいた。携帯電話は通じなかったがメールは通じた。翌日の夜にかつての職場の同僚二人と飲み会の予定があり、夜になってメールで連絡を取り合ったところ、私と目黒区在住のもう一人は出かけるつもりでいたのだが、千葉在中の奴が家の中が大変なことになっていて飲み会どころではないと言うのでキャンセルすることになった。私は幹事役だったので、予約を入れていた店にキャンセルの電話を入れようと思った。携帯が通じないので、とげぬき地蔵境内にある電話ボックスまで行こうと外へ出たら、地蔵通りは都心から板橋方面へ向かって人が川の流れのようにぞろぞろ歩いていた。白山通りは車の大渋滞で、その歩道も人がぞろぞろ流れていた。鉄道が運休しているので徒歩で帰ろうとしている人たちだ。中には勤務先と思しき社名入りのプラスチックのヘルメットを被った人もいたが、表情はやはり平気な様子に見えた。

午後遅く三時を過ぎて省線電車にて出社す。(96頁)

2011年の震度5では終日運休となった首都圏の鉄道網だが、昭和二十年三月の大空襲の際には、空襲が終われば鉄道は動いていたのである。総じて昔に比べてライフラインは脆弱になった気がする。管理にかかる様々な仕組みや仕掛けが電子制御になり、便利にはなったもののブラックボックス化した為に、平時とは違うことが起こると対応できなくなるのである。殊に停電に対して弱くなった。電気が止まると何もできない。また、それらを動かす人の扱いも、当事者の意識も随分変わったことだろう。

毎日のように空襲があると、天気予報のように空襲予報が人々の間で習慣となる。三月二十八日の日記。

考へて見るに、この頃は毎朝の新聞が面白い。特にB29に関する記事は本気で読んで、こちらへ来るか来ないかの判断をする。眼光紙背に徹するの概がある。(114頁)

流石に毎日のように空襲があれば、戦況も凡そ把握できる。四月五日、小磯内閣辞職。既に沖縄は落ちている。翌六日の日記。これだけ読むと敗戦を意識しているようには思われない。

東条がやめた後の小磯内閣は昨日辞職したる由なり。琉球は敵が上陸して大変な時に大変な事なり。(126頁)
四月になる頃には既に省線はあちこちで寸断されている様子。電力やガスも不安定で、郵便が機能不全に陥っている。郵便が使えないと自ら手紙を相手に持っていくようになる。四月十五日の日記。

午後遅く省線電車往復にて千駄ヶ谷の立退先の小林博士へ行く。今日も亦留守の時の事を考へ要件の手紙を認めて行った。出かける時間から考へて多分留守だらうと思ひながら手紙を持つて行つたのは、この頃郵便があてにならず、速達もちつとも速くない。こなひだ美野のよこした速達は杉並方面から麹町まで四日かかつた。(140頁)

五月三日の日記にヒトラーとムッソリーニの死亡のことが書かれている。ムッソリーニは逃亡中にパルチザンに捕まり四月二十八日に処刑された。ヒトラーは四月三十日に自殺。五月七日、ドイツは連合国への降伏を決定、八日に降伏文章署名、即日発効。五月三日の日記。

独逸終に潰滅しヒトレルは戦死す。ムツソリーニは一両日前に殺されたり。(164頁)

ここで日本は名実ともに世界で孤立するわけだが、日記の方は食い物と酒の心配ばかりである。実際はそういうものなのだろう。五月十三日の日記に入浴のことが書いてある。空襲はなくとも毎日のように敵の飛行機が飛来する下で入浴という無防備な状態を自ら選好するわけにはいかない、という事情もあるだろうし、水道や燃料が思うようにならないという事情もあるだろう。

こなひだ半歳振りにお風呂に入這つて以来、三四日目か長くても一週間はおかずに入浴してゐる。(174頁)
戦時中は食べるものにも不自由しただけでなく風呂にも入れなかったんだ、と思うと、今の感染症にまつわる不自由はどうなんだろう思う。私の母は宇都宮で焼け出されているし、父も川口で戦災に遭っている。子供の頃で記憶もないのだろうが、あの戦争を生き延びた張本人であることには違いない。その割に頼りないところを見ると、人は雰囲気を生きるのだと結論付けないわけにはいかない。つまり、どのような状況でも「そういうもの」と思って生きると、その場はやり過ごすことができるものなのだろう。その雰囲気が醸成されない中にあって、自分で判断をしないといけないとなると、的確に動くことのできる人とそうでない人と大きく分かれることになる。そんな気がする。

また、そこから何がしか教訓を得るなり学ぶなりするのは、そういうことができるに足る素養のある人だけであって、そうでなければ、どれほど素材として豊かな体験であっても風景として通り過ぎてしまう。「馬鹿は死んでも治らない」というのはそういう古来からの人の暮らしぶりから導き出された観察結果なのだ。よく、子供にたくさんの習い事を強制する奴がいるが、、、ま、この話はやめておこう。

連日のように空襲で東京はだいぶ焼けてしまったようだが、それでも燕がやってくる。五月十六日の日記には四谷駅の麹町口の軒に燕が営巣していることが書かれている。そして三月十日とは別の「東京大空襲」を迎える。五月二十五日から二十六日未明にかけてのことだ。この空襲で内田は焼け出され、たまたま焼け残った隣の屋敷の庭の隅にあった小屋を借りて住む事になる。この空襲で東京駅も焼けた。この後しばらくは屋根のない状態で営業を続けることになる。

東京が焼け野原になると、爆撃する側からすればそれ以上東京に爆弾を落としても意味がない。爆弾もそれを落とすために飛ばす飛行機の燃料も兵隊の命もタダではない。アメリカはじめ連合国のほうも懐は火の車だった。戦争が続いているのだから、反撃らしい反撃がなくても攻撃の手を緩めるわけにはいかない。だから、爆撃の対象は東京など大都市を焼き尽くした後、まだ手を付けていない地方都市に移る。

そうなると、空襲を避けるために地方へ疎開することが意味を成さなくなる。実際に戦争末期には疎開先から東京へ戻る動きも見られた。疎開先から戻るのは、空襲のリスクのことだけではなかっただろう。親類縁者を頼って疎開したとしても、疎開先では所詮余所者だ。自分たちも楽ではないところに他所から大挙して土地に馴染みのない人たちがやってきたら、その人たちに対してどのような感情が起こるか、考えるまでもない。きっかけがあればそんなところから脱け出して、焼け野原であったとしても自分のホームグランドに戻りたいという人が少なくなかったということでもあろう。人間というものは嫌なものである。つまらないことで人を選り分けて、その分類の中で己を位置づけないと不安でいられないようだ。

いよいよ敗戦まで一月。焼け出されて隣家の敷地の隅の小屋に住まいするのは変わらず。栄養状況は悪化の一途で、体調が良くない。どうも慢性的に良くないようだ。栄養が足りないくらいだから医薬品も足りない。病気になったら手の施しようがない。それでも、まだ満洲は余裕がありそうだ。七月二十日の日記に、仕事で満洲から上京した人が登場する。

こなひだ新京の浜地が来た時、あちらへ帰つたら新京には未だお酒の都合がつくからお酒を送つてくれると云つた。又高梁酒の一種にて白酒と云う強い支那酒あり。アルコホル度は七十とか七十五とかなればそれを送るから薄めて飲めと云つた。(280頁)

その後、満洲から酒が届いたのかどうか、日記には書かれていない。しかし、現代を生きる我々は昭和二十年七月には本土よりは余裕のあった満洲がソ連が宣戦布告をした八月九日以降にどうなったか知っている。私は身近に満洲から引き揚げてきた人の関係者がいないので関心もなかったのだが、森繁久彌の著作集を読んでかなり衝撃を受けた。そのことは別の機会に書くかもしれない。

七月二十一日の日記に内田の郷里である岡山が六月終わり頃に空襲に遭ったことが書かれている。私は自分が生まれ育った生活圏内で60年近い歳月を過ごしているので「郷里」というものの感覚がよくわからない。

八月九日の日記に広島のことが書かれている。遠く離れた東京で広島の状況がどこまで伝わっているのか定かではないが、空襲の規模は飛来する敵機の数とは比例しないという教訓を強く残したようだ。

又午前八時十五分警戒警報。B 29一機なれども去る六日の朝七時五十分B 29二機が広島に侵入して原子爆弾を投じたる為瞬時にして広島市の大半が壊滅した惨事あり。その後だから一機の侵入にしても甚だ警戒す。(321頁)

日記には書かれていないが、その後に長崎にも原爆が投下されたことは伝わっているのだろう。次は東京か、という噂が流れていたらしい。八月十一日の日記。

又唐助は美野から聞いた話なりとて亜米利加は明十二日東京に原子爆弾を落とすと云つてゐる。この頃は敵の予告がその通り実現するのだから用心しなければならない。その話は美野が新聞記者から聞いた事にてその記者は十二日一日だけどこか東京を離れる切符を手に入れると云つてゐたが露西亜の参戦で戦争が終局に近づいたらしいから或いは敵はその予告を実行しないかも知れない。しかしもしさう云う事になつたら自転車に乗つてどこか家並を離れる方角へ一生懸命に走ると云う事にしてゐる由である。(323頁)

いつの時代も新聞記者というものにはロクなのがいない。そして迎える八月十五日。

昨夜より今日正午重大放送ありとの予告あり。今朝の放送は天皇陛下が詔書を放送せらると予告した。誠に破天荒の事なり。午まへしやもじ小屋に来りてラヂオを聞きに来る様案内してくれた。正午少し前、上衣を羽織り家内と初めて母家の二階に上がりてラヂオの前に坐る。天皇陛下の御声は録音であつたが戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱として止まらず。どう云う涙かと云う事を自分で考へる事が出来ない。(331頁)

戦争が終わったからといって急に焼け跡が元に戻ったり、食べるものが出てくるわけではない。内田の日記は続くのだが、本書の締めは八月二十一日だ。空襲がない、戦争がないというのは人の気持ちには大きく作用する。尤も、この後もそう平坦な道ではなかったことは、現代を生きる我々は知っている。知らない人は知っておくべきだと思う。

空襲は毎日のことではあるが、同じところに毎日というわけではない。しかし首都が毎日空襲を受けるようになっているにもかかわらず、戦争の終わる気配がなく、空襲が日常生活のなかに組み込まれる不思議は、最近の感染症騒動とも重なるものがある気がする。

人類が撲滅を成し遂げた感染症は天然痘だけなのだそうだ。死病と言われたものが治療可能になった、というのはいくらもあるようだが、何年も発症した人が存在せず、WHOが撲滅宣言を行ったのは天然痘が唯一のものだ。天然痘を克服できたのは種痘によるところが大なのだそうだ。インドや中国では天然痘患者の膿を健康な人に接種して免疫を得る人痘法が古来より行われていた。しかし安全性に難があったらしい。1796年にイングランドの医師エドワード・ジェンナー (Edward Jenner) は、天然痘にかかった牛の膿を用いた牛痘法を考案、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果を発揮した。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。ワクチン (vaccine)、予防接種 (vaccination) の Vacca は雌牛を意味するラテン語由来だ。天然痘撲滅確定記念で日本でもなんかお祝いしようか、というので東京国立博物館の敷地にジェンナーの銅像(見出し画像)を建てた、かどうかは知らない。銅像のことはともかくとして、つまり、病気の根絶など軽々にできるものではないのである。流行病の所為で近頃影が薄くなったがインフルエンザは毎年のように型を変えて流行する。今度の流行病もそういうローテーションに組み込まれて日常化するのではないだろうか。今はなんとなくそんな気がする。

参考:1944年以降の主な空襲一覧(当時の日本領)
 Wikipediaの記事から抜粋要約編集

1944年
6月15日(木)八幡(福岡県)製鉄所 中国成都の基地からB29飛来
10月10日(火)那覇(沖縄県)沖縄全域
10月25日(水)大村(長崎県)東亜最大規模といわれた第21海軍航空廠
11月21日(火)熊本(熊本県)
11月24日(金)東京(東京都)マリアナ諸島基地のB29による初空襲
11月27日(月)東京(東京都)中島飛行機武蔵製作所
12月13日(水)名古屋(愛知県)軍需工業地帯
1945年
1月3日(水)神戸(兵庫県)
1月6日(土)京都(京都府)
2月16日(金)東京(東京都)
2月26日(月)大阪(大阪府)
3月1日(木)台南(台湾)
3月10日(土)東京(東京都)関東地区の航空基地、軍需工場
3月13日(火)大阪(大阪府)
3月17日(土)神戸(兵庫県)
3月18日(日)大分(大分県)航空隊施設
3月18日(日)鹿児島(鹿児島県)海軍航空隊
3月19日(月)名古屋(愛知県)
3月19日(月)呉(広島県)軍港
3月19日(月)京都(京都府)
3月27日(火)小倉(福岡県)
4月4日(水)立川(東京都)陸軍航空廠、飛行場
4月8日(日)玉野(岡山県)
4月12日(木)郡山(福島県)
4月13日(金)東京(東京都)
4月15日(日)東京(東京都)
4月15日(日)川崎(神奈川県)
4月16日(月)京都(京都府)
4月20日(金)倉敷(岡山県)帯江地区
4月21日(土)鹿児島(鹿児島県)時限爆弾使用
4月21日(土)大分(大分県)
4月22日(日)京都(京都府)
5月5日(土)呉(広島県)
5月5日(土)大分(大分県)
5月10日(木)徳山(山口県)海軍燃料廠
5月11日(金)神戸(兵庫県)
5月11日(金)京都(京都府)京都御所被災
5月14日(月)名古屋(愛知県)名古屋城焼失
5月24日(木)東京(東京都)
5月25日(金)東京(東京都)国会議事堂周辺や皇居の一部、東京駅が被災
5月29日(火)横浜(神奈川県)
5月31日(木)台北(台湾)
6月1日(金)尼崎(兵庫県)
6月1日(金)奈良(奈良県)
6月5日(火)神戸(兵庫県)
6月7日(木)大阪(大阪府)
6月9日(土)名古屋(愛知県)熱田空襲
6月10日(日)阿見(茨城県)海軍航空隊
6月10日(日)日立(茨城県)
6月10日(日)千葉(千葉県)
6月15日(金)大阪(大阪府)
6月17日(日)鹿児島(鹿児島県)
6月18日(月)浜松(静岡県)
6月18日(月)四日市(三重県)
6月19日(火)福岡(福岡県)
6月19日(火)静岡(静岡県)
6月19日(火)豊橋(愛知県)
6月21日(木)名古屋(愛知県)
6月22日(金)姫路(兵庫県)川西航空機姫路製作所
6月22日(金)水島(岡山県)
6月22日(金)各務原(岐阜県)
6月22日(金)呉(広島県)
6月26日(火)京都(京都府)
6月26日(火)奈良(奈良県)
6月28日(木)呉(広島県)
6月29日(金)岡山(岡山県)空襲警報なく被害増大
6月29日(金)佐世保(長崎県)
6月29日(金)下関(山口県)
7月1日(日)熊本(熊本県)
7月1日(日)呉(広島県)
7月2日(月)下関(山口県)
7月3日(火)姫路(兵庫県)
7月4日(水)高松(香川県)
7月4日(水)徳島(徳島県)
7月4日(水)高知(高知県)
7月6日(金)千葉(千葉県)
7月6日(金)甲府(山梨県)
7月7日(土)清水(静岡県)
7月7日(土)明石(兵庫県)油脂焼夷弾使用
7月9日(月)和歌山(和歌山県)
7月9日(月)堺(大阪府)
7月9日(月)岐阜(岐阜県)
7月10日(火)仙台(宮城県)
7月12日(木)宇都宮(栃木県)
7月12日(木)鹿沼(栃木県)
7月12日(木)敦賀(福井県)日本海側初の空襲
7月13日(金)一宮(愛知県)
7月13日(金)川崎(神奈川県)
7月14日(土)釜石(岩手県)
7月14日(土)北海道全土(北海道)青函航路途絶
7月15日(日)室蘭(北海道)
7月16日(月)大分(大分県)
7月16日(月)平塚(神奈川県)海軍火薬廠、海軍航空廠、海軍工廠
7月17日(火)沼津(静岡県)海軍工廠、海軍技術研究所
7月17日(火)桑名(三重県)
7月17日(火)日立(茨城県)
7月18日(水)野島崎(千葉県)
7月19日(木)福井(福井県)
7月19日(木)日立(茨城県)
7月19日(木)銚子(千葉県)
7月19日(木)岡崎(愛知県)
7月23日(月)犬山(愛知県)
7月24日(火)大阪(大阪府)
7月24日(火)半田(愛知県)中島飛行機半田製作所
7月24日(火)津(三重県)橋北地区工場地帯
7月24日(火)桑名(三重県)
7月24日(火)呉(広島県)
7月25日(水)保戸島(大分県)授業中の国民学校が直撃される
7月25日(水)串本(和歌山県)艦砲射撃
7月25日(水)川崎(神奈川県)
7月26日(木)松山(愛媛県)
7月26日(木)平(福島県)
7月26日(木)徳山(山口県)
7月27日(金)鹿児島(鹿児島県)
7月28日(土)津(三重県)
7月28日(土)呉(広島県)
7月28日(土)青森(青森県)M74六角焼夷弾使用 東北最大の被害
7月28日(土)一宮(愛知県)
7月28日(土)宇治山田(三重県)
7月29日(日)浜松(静岡県)艦砲射撃
7月31日(火)清水(静岡県)艦砲射撃
8月1日(水)水戸(茨城県)
8月1日(水)八王子(東京都)
8月1日(水)川崎(神奈川県)
8月1日(水)長岡(新潟県)
8月2日(木)富山(富山県)
8月5日(日)前橋(群馬県)
8月5日(日)佐賀(佐賀県)
8月5日(日)今治(愛媛県)
8月6日(月)広島(広島県)原子爆弾リトルボーイ
8月7日(火)豊川(愛知県)海軍工廠
8月8日(水)福山(広島県)
8月8日(水)八幡(福岡県)
8月9日(木)長崎(長崎県)原子爆弾ファットマン
8月9日(木)大湊(青森県)
8月9日(木)釜石(岩手県)艦砲射撃
8月10日(金)花巻(岩手県)
8月10日(金)熊本(岩手県)
8月10日(金)大分(大分県)
8月11日(土)久留米(福岡県)
8月11日(土)加治木(鹿児島県)
8月12日(日)阿久根(鹿児島県)
8月13日(月)川崎(神奈川県)
8月13日(月)長野(長野県)
8月13日(月)上田(長野県)
8月14日(火)大阪(大阪府)
8月14日(火)岩国(山口県)
8月14日(火)光(山口県)
8月14日(火)熊谷(埼玉県)
8月14日(火)伊勢崎(群馬県)
8月14日(火)小田原(神奈川県)
8月14日(火)土崎(秋田県)
8月22日(水)豊原(樺太)ソ連軍機による爆撃