熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2017年10月

2017年10月30日 | Weblog

宇田川妙子『城壁内からみるイタリア ジェンダーを問い直す』臨川書店

みんぱくのフィールドワーク選書。このシリーズのなかで唯一の欧州を舞台にしたものだ。

これまで読んだフィールドワーク選書はどれもそれぞれに興味深い内容で、もし自分が若い頃にこうしたものに出会っていたら人生がもっと違ったものになっていたのではないかと思わないこともなかった。ただ、参与観察というものは自分には無理なのではないかとも思うのである。本書では、はっきりと書かれているわけではないのだが、調査対象との距離の取り方の難しさというか、要するにフィールドワークにおける人間関係の難しさが語られている。このシリーズの他の巻ではそういうことを書いてあるものが無かったように思うのだが、こうしてそうした記述に出会うと、やっぱりそうだよなぁ、と妙に得心する。

言葉の問題はフィールドワークに限らず、様々な場面で見聞きするし、自分自身も言葉で難儀することはよくある。しかし、言葉の問題と語学の問題は似て非なることのように思う。自動翻訳で意味が通じるものと通じないものがある。通じないものが訳出できていないものは何なのか。単にソース言語の慣用語句であったり比喩的表現であったりという、それを知っていれば解決できる問題も当然にあるのだが、書き手と読み手が暗黙のうちに共有し了解し合っている非言語的な内容の場合、非言語的であるが故にちょっとやそっとでは訳出できないのである。知っているとかいないという問題ではなくて、経験を通じて互いに了解されているような感情のようなものはソース言語においてすら言語化できず、そうなると翻訳という行為そのものが成立しえない。それは言語力というようなことではない。例えば、落語を別の言語に翻訳できるだろうか。同じ噺であっても、噺家によって違った内容やニュアンスを持つことになる。そうした違いは日本人であっても分かる人ばかりではない。そういうものが別の言語に置き換えられるのだろうか。そもそも、A語とB語が相互に完璧に翻訳できるのなら、A語とB語の両方が存在する意味はない。遅かれ早かれ一つの言語に統合されるだろう。どうしてもA語でないと表現できないこと、B語でないと表現できないことがあるからこそ、ふたつの言語が存在し、相互に翻訳するという行為が成り立つのである。

つまり、日本人どうしであっても人間関係が360度円滑円満な人などおそらくいない。それが他所の文化圏で、社会や文化の調査などできるものなのか、という素朴な疑問を抱かないわけにはいかないのである。「人類学者」とか「民族学者」などといかにも権威がありそうな看板を掲げられると目眩ましを投げかけられたようになるのだが、ほんとうのところはどうなのだろう、と思わずにはいられない。

 

白川千尋『南太平洋の伝統医療とむきあう マラリア対策の現場から』臨川書店

みんぱくのフィールドワーク選書の20巻目。これで全20巻読了。どの巻もそれぞれに興味深い内容だったが、調査者と被調査者、見る側と見られる側の対称性に課題があるように思う。調査する側が書いたものなので、見方にバイアスがあるのは当然なのだが、それで終わってしまっては「学」にはならない。かといって調査される側の視点をどのように見いだして記録、分析するかというのは、たぶん無理な話なのだろう。要するに、「客観性」とは幻想なのである。

 

高野秀行『謎のアジア納豆 そして帰ってきてた<日本納豆>』新潮社

もっと普通に書けないのかと思うような文体なのだが、今まで読んだことのないような内容が詰まっている。このブログにも時々書いているが、我が家では仕込物の食品を切らさないようにしている。そうすることを決めたわけではなく、やってみようと思いついたものを仕込んでいる。結果として、現在在庫しているのは梅酒、梅干、味噌、カリン酒で、数日から数週間といった短いサイクルで仕込と消費を繰り返しているのが甘酒と納豆である。納豆は市販のものを種にしているので自家製とは呼べないのだが、市販のものとは違う我が家だけのものであることに間違いはない。そういうこともあって、冬に納豆関連の本を何冊かアマゾンで購入した。本書はその一冊だ。

インターネットの存在が電気や水道のように当たり前の生活インフラになって久しい。あれなんだったかな、と思いついたことをすぐに検索できるのは便利なことには違いない。しかし、そこで得られることが常に全てほんとうのことであるかどうかはわからない。勝手な印象だが、メディアが伝えることを無批判的に信頼する人が妙に多い気がする。国会でも何年か前に偽メール事件と呼ばれる騒ぎがあって、関係者のなかに自殺した人もいた。メールなんていくらでも偽造できるのに、その真偽を確かめもせずに国会という公式の場に持ち出す神経は理解できない。メールという私的なメディアでさえこの調子なのだから、マスメディアともなると神様並みの信仰を集めていても不思議はない。

社会というものは信頼を基礎に成り立っている。例えば、商取引において貨幣で決済をするが、その貨幣の真偽というものを問うことは滅多にない。紙幣は何も印刷されていなければ紙切れだ。今は安価なプリンタでもかなりな画質の印刷物を制作できるが、紙幣の印刷ともなるとさすがに様々な技巧が凝らされ、紙だって当たり前に漉いたものではなく、なかなか真似のできない技巧を駆使して抄紙されている、と数年前に王子の紙の博物館でボランティア説明員のみなさんに教えていただいた。とはいえ、紙幣自体は紙に何事かが印刷されているだけのもので、それ自体にン万円とかン千円の価値があるわけではない。今はあまり聞かなくなったが、かつては命懸けで銀行を襲ってその紙切れを盗み出そうとする人がいた。尤も、フィンテックとやらで現物の貨幣をやったりとったりすることなく取引ができる時代になったので、もう貨幣の真偽などどうでもよいのかもしれない。信じるものが救われるのである。

話は一向にこの本のことにならないが、本書の値打ちは取材の蓄積にあると思う。聞きかじったことを好き勝手につなぎ合わせるというような面白くもなんともない売文ではなく、書いている本人が誰よりも面白がっているからこそ、読むだけのこちら側も面白いのである。食というのは人の生活の根幹であり、それが社会や歴史を動かすものなのに、その源を探ることが思いの外困難であったりする。やんごとなき人々の食生活というのは記録があるから推定できる。圧倒的大多数の市井の人々の食生活は記録がないから断片的なものをつなぎ合わせて想像するしかないのである。よく「ソウルフード」とか「伝統の食」という言葉を耳にするが、よくよく話を聞くとずいぶん薄っぺらな「ソウル」だったり、けっこう最近の「伝統」だったりする。「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されたが、その「和食」を食べている日本人がどれほどいるのだろうか。コンビニやスーパーの出来合いの惣菜で食生活が構成され、健康も自然も年中行事も知らずに豚のような体型でうろうろしているやつのほうが多数派なのではないか。要するに、食は誰にとっても身近な経験なので、それを軸に何事かを展開しようとすると何でも書けるのだと思う。

というように話が一向にこの本のことにならないのだが、納豆という切り口で日本各地と東南アジアの紀行をまとめる発想とか構想力に感心した。各地の納豆を訪ね歩くことそれ自体が筆者は楽しいのだろう。書いている本人が面白がっている、というところが本書の値打ちだと思う。

 


今年の奈良から

2017年10月09日 | Weblog

今日は奈良から帰る。朝、荷物をまとめて宿から自宅宛に宅配便に乗せる。身軽になったところで宿周辺を散策して、午後3時ちょうどに出る京都行きの近鉄特急に乗り、京都から新幹線で東京に戻る。

先月、新しい職場に移籍してからはこれまでとは違って午前4時半に起床して5時40分には家を出る生活になった。あまりそういうことを気にして遊びたくはないのだが、体力があるわけでもなく無理はできないので午後3時頃には奈良を出て家路につくことにしていた。そうなると、移動に時間を費やさずに奈良市街で過ごすことを考える。まずは宿から近い元興寺を訪れる。

元興寺は昨年も一昨年も訪れた。現在の「ならまち」と呼ばれる地域がかつての元興寺の境内で、興福寺と同規模の寺院だった。そもそもこの寺は法興寺という名で、現在の地ではなく飛鳥に建立された。平城京遷都で法興寺は現在の場所に移り元興寺と名を改めた。飛鳥の元の寺は飛鳥寺として継承されて今日に至る。現在の元興寺はかつての東室南階大房という僧坊の一角だ。屋根の一部にその当時の瓦が残されている。その区画の瓦はまだら模様だ。同じ色に焼こうにも当時の技術では焼けなかったのかもしれないし、意図してそうなったのかもしれない。しかし、計算された模様には見えない。再現しようにもできないランダムなまだらだ。こういうのが良い。秩序があるようなないような、意図があるようなないような、どのようにも捉えることのできそうな様子が視界に四次元のような超次元のような深さ奥行きを与えるように思えるのである。

元興寺から興福寺の境内を突っ切っって国立博物館へ。企画展の端境期で常設のみの営業だが、ここの常設は仏像館。初めて訪れたが、ここに並んでいるのは艱難辛苦を乗り越えてようやく落ち着いたといった風情の仏様ばかりだ。なかには由来が不明の仏様もけっこうある。国宝や重文になるような仏様は寺のほうに任せて国立博物館はそういうところから漏れてしまうけれど放ってはおけない仏様をしっかりと守っていく、という考えに基づいてこういうことになっているのだとすれば、至極真っ当なことだと思う。仏様を創り拝んだのも人間なら、粗末に扱ったのも人間だ。傷だらけの仏様は、人の心の美しさも醜さもすべてをひっくるめて体現している。そういう仏様を目の前にすると、手を合わせるというよりも抱きしめたくなってしまう。

国立博物館から東大寺戒壇院へ向かう裏道に飲食店がいくつかあったのを記憶していて、そういう場所で昼をいただこうということになった。県庁東交差点の地下道を通って細い道に入り、しばらく行ったところに「お茶処」という看板が出ている民家風の建物が目に入り、そこを覗いてみたら席が空いているようだったので中に入る。メニューの選択肢は少なく、野菜雑炊をいただくことにする。家族でやっている食堂というような風情で、正直なところ期待はしていなかった。ところが、こういう店でもハズレがないので驚くのである。家庭料理のような雑炊なのだが、しっかりと出汁が引いてあり、あたりまえにきちんと作られている。一昨日の昼からこちらでいろいろなお店で食事をいただいているが、どこもそれぞれにあたりまえの仕事をしているように感じられる。もちろん商売なのだから、そこに原価計算もあれば利益の捻出という発想も当然にあるだろうが、狡さがないように思う。こういうものを作ろう、ああいうものを出そう、というプラスを積み上げる発想の仕事で、ここを削ろうとかあそこで抜こうというマイナスの余地を探るしみったれたところがないように感じられるのである。生活というものはそうありたい。どれほど儲けがあるとしても、しみったれは貧しい。貧しい発想の生活はおもしろくない。

東大寺は戒壇院と転害門だけ拝見する。戒壇院の四天王は仏像界のアイドル4人組といったところ。俗界ではなく仏像界なので「アイドル」といっても誰が騒ぐでもない。所謂イケメンで果てしなく凛々しい。昨年も一昨年も私たちのほかに見学者がいなかったのだが、今日は履物を脱ぐ場所が靴で埋まっていた。といっても、私たちを含めて5組10人程度でしかない。大仏殿のほうはかなりの人出だが、同じ境内にあるとは思えないほど穏やかな時間が流れている場所だ。ここの四天王は手を合わせるでもなく抱きしめるでもなく、少し離れたところからじっと見つめる仏様。

戒壇院も人が少ないが、転害門はもっと少ない。門のほかに人寄せ場所になるようなものがない所為もあるのだろう。それでも門の周りをうろうろしているとどこからともなくボランティアガイドが現れて説明をしてくれる。よく見ると、門の前、通りに面したところに観光案内所がある。この案内所の建物は昭和15年に建てられた南都銀行手貝支店だったそうだ。昭和47年に支店が移転した後、病院の看護師寮や店舗として利用され、平成14年に奈良市土地開発公社が購入、耐震改修等を施した後、現在の姿になったそうだ。そういうことの書いてあるチラシをそのボランティアの方からいただいた。

転害門の前にバス停があり、そこからバスで駅のほうへ行こうかとも思ったが、道路が渋滞していることもあり、歩いてもたいした距離でもないので住宅地の路地へ入りぶらぶらと歩く。住宅地には違いないのだが、そこに商店や鉄工場といった商工業を営む家が点在している。古い街ではそれが当たり前だろう。自分が子供の頃に暮らしていた土地では、基本が農地あるいは元農地で、住宅地があって、そのなかに商店があり、鉄工場や金属製の部品類の加工をしている家や小さな印刷所などが点在していた。それと同じなのだが、今でもそういう風景があることが新鮮なことのように感じられる。

近鉄奈良駅から15時ちょうど発の京都行きの特急があった。京都への車中で、スマホを使って新幹線の予約を試みるが連絡の良い列車は満席で、京都駅で1時間近くも待ち合わせの時間ができてしまった。夕飯は新幹線のなかで弁当を食べることにして、駅ビルの伊勢丹の地下にある弁当売り場を覗いてみる。車中でいただくにはいまひとつといったものばかりで決めかねているところで、ベーカリーが目に入る。サンドイッチにしようということになり、そこでミックスサンドとバゲットサンドを買って勘定を済ませると、新幹線の時間にちょうどよい塩梅になった。時間はかなり余裕があるのだが、とにかく構内が混雑していて、そういう人混みのなかを歩く分にはちょうどよい塩梅ということだ。新幹線の改札を抜け、駅弁売り場が目に入ったのでチラリと覗くと明石名物のタコ飯があった。こっちのほうがよかったかなと若干後悔する。

京都からは新幹線もその後の在来線も定刻通りの運行で、自宅に着いたのは午後8時少し前だった。


今年は奈良で

2017年10月08日 | Weblog

天理の駅前でレンタカーを借りて長谷寺、室生寺、談山神社、安倍文殊院、大神神社を巡ってきた。奈良でレンタカーを借りてもよかったのだが、桜井線に乗ってみたかったのと、多少なりとも目的地に近いところまで鉄道を利用したほうが身体が楽かと思って天理までは桜井線を利用した。奈良=天理の往復とも105系の2両編成だ。105系は8月に福塩線でも乗った。福塩線ほど楽しく揺れないのだが、先頭車両の運転席の後ろに立って線路を眺めると、枕木がコンクリートのものと木製のものが不規則に敷かれている。こういう風景がまた楽しい。

天理駅前から長谷寺までは車で30-40分だ。初めて訪れる土地で車を運転するとき、カーナビはほんとうに便利だ。ただ、目的地周辺で駐車する場所を探すのは、やはりある程度の勘が必要だ。参道に接近あるいは参道に入ると駐車場の看板が目立つようになる。なかには客引きをしているところもある。料金はどこも同じだ。ここで駐車してしまうか、もっと寺の近くまで行くか。秋の行楽日和の三連休の中日、それなりに人出はあるが、賑やかというほどではない。そのまま寺の駐車場に行く。ガラガラだ。

8月に福山・倉敷・吉備・岡山を歩いたときも大小さまざまの神社仏閣に参拝したが、どこも駐車場はガラガラだった。おそらく、施設の性質上、こうしたところのこういう施設はピーク稼働時に照準を合わせて作られている。神様仏様が近隣住民に迷惑を撒き散らすわけにはいかないからだ。土地の費用が大きくない地域なら大らかに施設を準備できるが、そうではない地域だと費用対効果を考えないわけにはいかなくなる。神様仏様はこの世のものではないからそんなことは気にもしないだろうが神社仏閣を運営するほうは生活があり遣り繰りを考えないといけない。生活というのは、それぞれに工夫が要求されるのである。

寺は山と関係があるらしい。寺の名前には山号というものが含まれていることが殆どだ。長谷寺には豊山という山号がある。大きな寺というと、山門(三門)があって、その先に長い階段とか坂道が続き、登りきったところに視界が開け、立派なお堂が目に入り、なんとなくありがたいという気分になる、という印象がある。「ありがたい」という気持ちにさせるのは、ちょっとした苦行なのだろう。苦があって楽がある、楽があって苦がある、楽は苦であり苦は楽である、というような印象の陰影や緩急が人の心に何事かの作用をもたらすのは確かだろう。寺とはそもそも何か、という認識を寺の側が持っていないと、人を惹きつけることはできない。信仰を集めたいのか、信仰は取っ掛かりでそれを集めた上でやりたいことがあるのか、信仰は方便であって存在意義や目的は全く別のところにあるのか。そういうことがビジュアルにも反映されているはずだと思うのである。

長谷寺は686年、道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を初瀬山西の岡に安置したことに始まり、727年に徳道上人が聖武天皇の勅願によって御本尊十一面観音菩薩を東の岡にお祀りした(寺発行のパンフレットによる)そうだ。現在の御本尊十一面観音菩薩は1538年の作で、さんざん古い仏様を拝んでみると、新しいものに感じられる。御本尊が収められている本堂は徳川家光の寄進によって1650年に建立された。実はけっこう新しい寺だ。でも起源は7世紀にさかのぼるので、境内には源氏物語のネタになった場所があったりする。境内駐車場から細い道を少しだけ登ったところに「二本の杉」という杉の大木がある。「にほんのすぎ」と読んではいけない。これは「ふたもとのすぎ」という。根元が繋がっているのである。これが源氏物語に登場するのである。源氏物語はフィクションだ。しかし、なにかしらネタがないと物語というものを紡ぐことはできない。紫式部が長谷寺を訪ねたのか、長谷寺が京でも有名だったのか、そのあたりのことは知らない。源氏物語の「玉鬘」という段で、光源氏と夕顔との間の子である玉鬘が長谷寺に籠るらしい。玉鬘が旅の途中で夕顔の侍女で夕顔亡き後は光源氏に仕えている右近と出会い、どうしてそうなるのかはしらないが、二人で長谷寺に籠るのだそうだ。そのなかで、右近がこの「二本の杉」を「二本の 杉の立ちどを 尋ねずは ふる川のべに 君を見ましや」と詠み、玉鬘が「初瀬川はやくのことは 知らねども 今日の逢う瀬に 身さへながれぬ」と返す場面があるのだそうだ。建物は江戸期の新しいものでも、寺自体は源氏物語に登場するくらいのものなのである。

駐車場から初瀬川沿いの道を少し下って長谷寺の総受付に行く。「受付」といいながら、無人である。ここから石段を登ったところに参拝受付があり、参拝料を納める。今日は長谷寺、談山神社、大神神社の3箇所を訪れるつもりでいたが、細い予定は立てていなかった。参拝受付で「奈良大和四寺巡礼共通拝観券」というものがあるのを知った。これは長谷寺、室生寺、安倍文殊院、岡寺がセットになった拝観券だ。セットになっているからといって割引があるわけではない。四寺の拝観料の単純合計の価格が付いた拝観券だ。有効期限は無期限で、今回巡礼できなかったところは別の機会に、という使い方もできる。なんとなくそのセット券を買おうと思った。

長谷寺は、参拝受付のすぐ脇に仁王門がある。ここを過ぎると登廊が本堂まで続いている。この屋根付きの通路はどういうわけで作られるのだろうか?昨年、京都の東福寺を訪れたとき、森の上を歩くかのような屋根付きの橋を渡ってたいそう気分がよかった。今年8月に吉備津神社を訪れたときも、なにがどうというわけではないのだが、なんとなく感心した。長谷寺もなんとなく良い雰囲気だ。屋根があるということで安心感が醸成されるのだろうか?

「清水の舞台」という慣用語句があるので木造の大規模な舞台状の建築は京都の清水寺の専売特許のような印象があるが、規模の違いこそあれ木造舞台はけっこうあちこちにある。長谷寺の本堂にも比較的大きなテラスがあり、そこから境内を一望できる。しかし、本堂で注目すべきはテラスではなく御本尊の十一面観世音菩薩だ。先に記したように16世紀前半の作で、全国の長谷観音の根本像である。御身の丈三丈三尺で大盤石に立つ。先日、根津美術館で仏様の乗り物に焦点を当てた企画展を観てきたが、石の上に立つ仏様というのは珍しいのではないか。写真ではわかりにくいが、だいぶ平べったいお姿だ。立体像であるには違いないのだが、自立像というよりも板に浮き彫りを施したようなスタイルである。このため、光背が御本尊に負けず劣らず肉厚で、御本尊も自立することについての気遣いが薄いので頭上の十一面像の存在感がかなり強い。結果として、御本尊を見上げたときに、視線が御本尊の頭上に吸い寄せられる。頭頂仏の存在感が強いのは度重なる火災で頭頂仏だけが焼け残ってきたことも関係あるのかもしれない。御本尊全体は16世紀の作でも頭頂仏はそれ以前の作なのである。また、御本尊が参拝者の視線を強力に吸引するあまり、脇侍の存在感が弱くなってしまう。寺院によっては、須弥壇に並ぶ仏様のなかで、御本尊よりも脇侍とか壇の端のほうの仏様のほうが存在感を放っていたりすることもあるのだが、ここは断然御本尊だ。

長谷寺の後は室生寺に向かう。長谷寺から国道165号線に出て、30-40分で室生寺に着く。長谷寺も山の中の寺だったが、こちらはもっと奥だ。国道から寺の間の道は山道で、沿道には何もないのだが、寺の周りは少しだけ賑やかだ。寺には室生川に架かる太鼓橋を渡って行くのだが、橋の袂に飲食店や宿が集まっている。寺に詣でる前に、こうした店を覗いてみる。きちんと数えたわけではないが、門前の商店のうち約3割あるいは4割は営業していない。今日は連休の中日、陽気も良く天気も良い。バス停にはバスを待つ人の列がけっこうな長さであるのだが、駐車場はガラガラで旅館は飲食のほうの客は賑わっていても宿泊のほうはどれくらいいるのか、というところだ。東京で暮らしているとわからないのだが、たまに地方の観光地などを訪れるとゴーストタウンのような街があちこちにあることに愕然とする。おそらく日本全体の人口はそうした街が当たり前に賑わっていた頃のほうが少なかったし、一人当たりの国民所得とかGDPも今のほうが多い。それなのに、大都市圏から少し離れると、廃墟進行形のような街や集落に容易に行き当たるのである。恐ろしいことだと思う。

室生寺は太鼓橋の袂から仁王門の間が工事中である。仁王門の前にお札などの授受所があり、それなりに人出はある。全体にこじんまりとした印象だ。仁王門をくぐると左手に石段がある。石段を登ったところが弥勒堂と金堂。弥勒堂も工事中だが金堂は公開中。

金堂は建物の朱が剥げてだいぶ寂びを感じさせるが参観者が絶えることがなく、建物の風情の割には賑やかだ。ここに御本尊の釈迦如来が薬師如来、地蔵菩薩、文殊菩薩、十一面観音を従えて立ち、その前には十二神将が一列に並んでいる。この十二神将は伝運慶だ。御本尊の背面には帝釈天曼荼羅があるのだが、釈迦如来と薬師如来の間にちらっと見えるだけだ。仏様は如来がいい。しかし、いかんせんお堂の中には入ることができず、庇の内ではあるが外からの拝観なので仏様との距離が大きい。長谷寺の十一面のように大きな仏様ならそれでもよいのだが、ここはもう少し近くで拝ませていただきたい。

金堂の裏手の石段を登ったところが本堂。こちらの御本尊は如意輪観音菩薩。さらに本堂の脇の石段を登ると五重塔。ここの塔はこれまでに見たことのないような軽やかな塔だ。塔からさらに階段を登っていけば奥の院だが、ここで引き返す。

門前の旅館で昼食をいただく。温かい素麺。店の自家製だという柚子唐辛子が付いている。旅館のほうに客がいる様子はなく、食事の客ばかりの店に見えるが、メニューは至ってシンプルなものばかり。しかし、素麺の汁は丁寧に出汁が引かれていて大変美味しい。柚子唐辛子を入れても入れなくても美味しい。柚子唐辛子は持ち帰りもできるとのことだったので1パック買い求めた。勘定の時、店の人に柚子唐辛子の作り方を教えていただいたので、使い終えたら自分で作ろうと思う。

門前の 煮麺に香る 柚子辛子

室生寺の近くに龍穴神社というそれほど大きくない神社がある。禰宜が常駐しているような神社ではないのだが、境内は手入れが施されて清潔な印象だ。その名が示すように龍が住むと言われる洞穴があり、ここの本殿はその洞穴に対する拝殿のようにも見える。尤も、その洞穴までは足を伸ばさなかった。龍穴神社は室生寺よりも古く、室生寺がこの神社の神宮寺であった時期もあったそうだ。私たちは室生寺に向かう途中、たまたまこの神社の幟を目にしたので、室生寺の参拝の後に立ち寄ることにしたのだが、次から次へと参拝客が現れるところを見るとこのあたりでは有名な神社なのかもしれない。

室生寺から一時間ほどかけて談山神社に移動する。ここは塔が有名だ。神社に仏塔があったり寺に鳥居があったりするのは珍しいことではない。そもそも神社と寺を分けるということが明治以降のことである。信心に妙な形式を持ち込む馬鹿なことをよくも国を挙げてやったものだと感心してしまうが、それで大量の仏像や仏具がタダ同然で国外に流出したのは誰もが知るところだ。明治維新を切欠にこの国は迷走し続けている。先人が築き上げた文化が古い地層のように強固に堆積しているから、まだなんとか持ち堪えているようなものの、この調子で皮相な合理主義に侵食され続ければそのうち消滅してしまうだろう。その前に人口が消滅するだろうから、どう転んでも消えてなくなる。今ここに生きていることを喜ばないではいられない。

談山神社はその日本の素となった場所と言ってもよいかもしれない。ここの地名は多武峰。「談山」の由来はこの地で誰かが何事かを談じたことにある。談合の主は中臣鎌足と中大兄皇子。何を談じたかといえば政治改革。当時、朝廷の実権を握っていた蘇我蝦夷・入鹿親子を討伐して政治を変えようというのである。討伐ということは殺すということだ。実際の政治がどのようなものであったのか、今となってはわからないが、結果として武力による政権転覆は「大化改新」と呼ばれ、その後の天皇中心の統一国家成立となる。中臣鎌足は天皇から藤原姓を賜り、その後の藤原氏の栄華へとつながる。鎌足の死後、長男の定慧が弟の不比等とともにこの地に鎌足の墓所を定め、妙楽寺と称し明治の神仏分離で談山神社となった。と、書くと、「ん?」と思うだろう。藤原氏の氏寺は興福寺だ。藤原氏がどうでもよい氏ならその始祖の墓所と氏寺が別であっても問題はなかったのかもしれないが、日本の政治の実権を握る家となると元祖と本家の争いというか、まぁそういう争いになるのは自然なことなのである。坊主も人間だ。俗世間とは違うというような顔をしていても腹の中は俗世間以上に俗なのである。要するに興福寺と妙楽寺の争いが絶えず、坊主なのに問題を平和裡に解決することができなかった。仕方がないのである。人間だもの。

ところで藤原鎌足と中大兄皇子がどのようにして知り合ったのかというと、法興寺の蹴鞠会で知り合ったらしいのだ。法興寺は現在の飛鳥寺で、蹴鞠会は今でいうとさしずめゴルフだろうか。そういうことに因んで談山神社には「蹴鞠の庭」と呼ばれる広場があり、今でもここで蹴鞠会が行われるのだそうだ。権力というのは一人では握ることができないし、特定個人に集中する権力というのは長続きしない。権力が権力たりうるには仕組みが不可欠だ。つまり、適度な規模の集団によってチームとして運用され、適度にメンバーの交代を容認しながらも堅牢なギルド組織のなかで機能が完結するようにしなければならない。日本の歴史を見れば、統一国家成立後ほぼ一貫してその核に天皇がある。天皇があるから統一国家が持続しているとも言える。武士の世の中だという時でも、政治行政軍事の長は天皇から征夷大将軍に任命された人が担う仕組みになっていて、明治になると天皇は天皇大権と呼ばれる広範な権限を行使したが、第二次世界大戦後は実権はなくなったが日本国の象徴として君臨している。つまり不動の地位を得ている。天皇とは何か、というのは興味深い問いだと思うのだが、あまり表立ってそういう研究をする人は聞いたことがない。たぶん、現在のこの国ではそういう問いはタブーなのだろう。

天理駅前で借りたレンタカーは午後6時までに返さないといけない。営業所が6時までしか営業していないからだ。レンタカーというものはどこでも24時間借りたり返したりできるものだと思っていたが、それができるのは限られた営業所だけだそうだ。それで、談山神社からはそろそろ天理へ向かって移動しないといけないことになった。長谷寺で四寺拝観券を買ったので、そこに含まれている安倍文殊院に向かう。

安倍文殊院の「安倍」は安倍晴明の「安倍」だ。安倍晋三は関係ないらしい。安倍文殊院の拝観料には僧侶による当院の説明と抹茶が含まれている。その説明のなかで「安倍といえば皆さんが思い浮かべる方はおひとりだけだと思いますが」というところがあり、その時私の脳裏には安倍晋三しか思い浮かばなかった。話は前後するが、実は談山神社と安倍文殊院はつながりが無いわけではない。安倍文殊院を創建したのは大化改新で左大臣になった安倍倉悌麻呂である。安倍倉悌麻呂は当然、中臣鎌足や中大兄皇子と知り合いだったのである。その安倍一族からは遣唐使でもあった安倍仲麻呂、陰陽師として高名な安倍晴明が出ている。寺としては安倍晴明ブランドで押したいらしく、他の寺院ではあまに目にしたことの無い陰陽師関係のお札やお守りが授与所に並んでいる。せっかくなので魔除札を頂戴してきた。

安倍文殊院の御本尊は文殊師利菩薩で、快慶の作だ。文殊菩薩といえば獅子に乗り普賢菩薩は像に乗っているわけだが、ここの文殊菩薩の獅子は不必要に立派な気がする。本堂の中央、一段高い須弥壇に渡海文殊菩薩群像が並んでいる。その群像を見上げるように僧侶が読経する。ちょっと珍しいスタイルではないか。それにしても、かなり個性の強い仏様だと思うのだが、絶妙な組み合わせだとも思う。以前、東京の美術館で善財童子が展示されたことがあったが、善財童子はこの群像のなかにあってこその存在感だと思った。それにしても、獅子がこれだけ大きいのは何を意図しているのだろうか。

時刻は午後4時、日がだいぶ傾いている。文殊院の本堂の周りにはコスモスが夕日のなかで揺れている。

秋桜で 結界を結ぶ 文殊様 

安倍文殊院から大神神社までは車ですぐだ。大神神社の大鳥居をくぐるとすぐに神社の大きな駐車場や民間の駐車場が視界に入ってくる。車の入ることのできるぎりぎりまで行くという選択肢もあったが、午後4時を回っているのに思いの外道行く人の数が多かったので、ガラガラの駐車場に入れてしまった。

歩き始めて間もなく桜井線の踏切を渡ると、参道に露店の姿が目立つようになるのだが、片付けに入っている店が多い。それでも、二の鳥居から拝殿方面へ向かう人の流れが絶え無い。その流れに乗って参道を行く。今日これまでに参拝した神社仏閣と比べると日本語以外の言葉を話す人が多い印象だ。

大神神社には本殿がない。御神体が三輪山で、拝殿から三輪山を拝む。しかし、境内の様子としては本殿があるとかないとか、あまり関係がないように思う。これほど大きな神社ともなると参拝者の視界に映る境内の様子は個々の建物が何であるかを一見して認識できるようなものではない。神社仏閣を扱うメディアには必ずといっていいほどに登場する神社だけに、先入観が大きいということもある。正直なところ、期待を満足するようなところではなかった。

無事に営業時間内にレンタカーの返却を完了。天理から桜井線で奈良へ戻る。

今日は宿を出るときに夕食の予約をしておいた。駅からぶらぶらと宿へ戻り、一服してから宿のレストランで洋食のコース料理をいただく。フロアのウエイターやウエイトレスの数が多い割に右往左往していて傍目に動きに無駄が多く、身だしなみも今ひとつなので少し不安になったが、料理は大丈夫だった。さすがに奈良を代表する宿屋のレストランだけのことはある。コンソメスープが美味だ。コンソメが美味いと、とりあえずほっとする。たいていはそこでその後の料理が想像できるからだ。酒はあまり呑まないので、ソムリエに料理に合わせてグラスワインをいくつか選んでもらい、そこから自分たちで選んだが、これも良かった。奈良では食事にハズレがない。


今年も奈良へ

2017年10月07日 | Weblog

以前なら休日に遠出するときは普段よりも早起きをして出かけていたのだが、今は普段が早起きなので休日の遠出はなんとなく余裕がある。しかし、その余裕が実は幻想だったりもする。東京駅までは1時間を見れば十分だと思っていた。確かに1時間弱で東京駅には着くのだが、それでは弁当を買ったりトイレに行ったりしているほどの余裕はない。緊張感が足りなかった。

今年も奈良に出かける。この時期に奈良に出かけるのは今年で3年目だ。奈良は楽しい。東京から奈良に至る経路はもちろん一様ではない。一昨年は京都からJR奈良線で、昨年は伊勢神宮に寄ったので名古屋で近鉄に乗り換えて伊勢を経て、今年は京都から近鉄の急行に乗った。毎回この時期に出かけるのは興福寺で塔影能を観るためである。能を鑑賞する趣味はないのだが、たまたまそういうことになっている。だから能以外には何の予定も入れずに、宿だけ予約して出かけるのである。さすがに昨年の伊勢神宮は出かける前からお参りするつもりだったし、奈良の後に京都に出かけたのも、事前に桂離宮や修学院離宮の見学を申し込んだ上でのことだった。今年は職場を変わったばかりで、いきなり長期の休暇は言い出しにくいので、土日休日の範囲内での旅行だ。

年一回3年程度では行ってみたいと思うところを回りきることなどできない。その時々の思いつきに任せて訪れる先を決めるのである。今日はなんとなく秋篠寺に行こうということになった。京都から乗った電車が橿原神宮前行きだったので、大和西大寺で下車しないといけない。大和西大寺では到着したホームに奈良行きの電車も停車していたが、それには乗らずに改札から出て荷物をコインロッカーに預ける。秋篠寺までタクシーに乗ってしまおうと思ったが、コインロッカーがあるほうの出口のタクシー乗り場にはタクシーがいなかったので線路を渡って反対側の出口に行く。タクシーはたくさん停っていたが、押熊行きのバスも停車していた。バスに乗る。車に乗ると西大寺から秋篠寺まではすぐである。

秋篠寺に参るのは初めてだ。雨上がりという所為もあるのだろうが、境内に広がる苔に覆われた林は別世界のようだ。その苔の林を抜けたところに小さな門があり、そこで拝観料を納めて本堂を拝む。そう思って観る所為もあるのだろうが、品のある建物だ。

奈良というと「古都」であり、都であった時代には「平城京」という碁盤の目のように区画整備が成された都市が営まれていた、と社会科や歴史の時間に習った気がする。大化の改新を機に日本に国家体制が確立し、初めて首都というものが造営されたのが7世紀の終わり頃のことだそうだ。そのときの首都が藤原京で、現在の飛鳥地方に造営された。一昨年は近鉄の飛鳥駅前で自転車を借りて、飛鳥寺とか石舞台古墳とか、そのあたりを一回りしてきたのだが、それらは藤原京よりも前の時代に作られたもので位置も都の中心からは外れており、あまり関係ないようだ。今、これを書いていて、ふと飛鳥寺あたりのことを思い出しただけのことである。それで、藤原京が首都とされたのが694年から710年にかけてのことで、そこから平城京へ遷都する。平城京が首都であったのが、710年から740年と745年から784年だ。短い。尤も、首都機能が他所へ移ったからといって、そこで暮らしていた人たちが丸ごといなくなってしまうわけではないだろうから、遷都が頻繁であることをあまり心配する必要はないのかもしれないが、それにしても平城京というのは大きい。そんなに大きな都市を作ってどうするのか、と思ってしまうほど大きい。自動車も鉄道も無い時代、移動や距離の感覚は人の身体感覚に拠るはずだ。重機が無い時代の土木や建築にしたって人が材料を持ち運んだり加工したりする身体感覚に拠る発想をもとに行われるはずだ。そう考えると、昔の人の発想というのは今の時代に比べて段違いに大きいと言えないか。都市を計画したり建築物を設計したりする人たちは自分でどうこうするわけではないから、好き勝手に発想できたということだろうか。それを作る現場の人たちには難儀なことだろうが、他人の難儀を気にしていたら平城京だの平安京だの、そのなかに今でも残る神社仏閣だのを造ろうなどとは思わないだろう。人は経験を超えて発想はできないはずだ。当時すでに大陸との交流があり、文明が栄えて人知を超えているかのような巨大建造物がゴロゴロしていた中国の都を目の当たりにした人たちが日本の都市計画の中核を担っていたのは確かだろう。それにしても、自分ではできないことを他人にやらせる神経というのはどのような発想に由来するのだろうか。

奈良の都は朱雀大路を挟んで西が右京、東が左京となっていてほぼ左右対称だが、多少のでこぼこがあり、さらに左京の外側に外京という小ぶりな区画があり、その外側に東大寺がある。しかし、西大寺は右京のなかにある。何を基に都市計画が立案されたのか知らないが、風水的な要素は組み込まれているはずなので地理地形的な要素はしっかりと考慮されているだろうが、強引なところもあるような気もする。秋篠寺は西大寺の北側に隣接している。東大寺のほうは、都の中心から見て少し手前に興福寺が隣接しているが、これは外京に位置し、興福寺の南に元興寺がある。外京はいわば興福寺と元興寺のためにあるような区画で、東大寺・興福寺・元興寺をひとまとめにしたような重さが都市図の右上に据わる。これにバランスするのが、秋篠寺・西大寺から川沿いに連なる唐招提寺・薬師寺という縦長のゾーンであるように見える。シンメトリーを少し崩すところに日本的なテイストを感じるのだが、それはテイストなのか別の事情なのか私は知らない。

秋篠寺は776年、光仁天皇の勅願により造営され、完成は平安遷都の頃と拝観時にいただいた略記にある。本堂とされている建物は創建当初の講堂で、1135年に兵火に罹災した後、鎌倉時代に焼残った講堂を本堂として大修理を受けたという。現存する本堂は実質的には鎌倉時代の建築ということになるが、雰囲気としては奈良時代の建築物だ。何が奈良時代を感じさせるかというと、屋根の勾配だ。仏教は大陸から伝来したもので、当然に関連施設の様式も大陸から伝来している。しかし、建物というのはそれぞれの土地の風土に適応するように設計されている。風土抜きで建物だけ他所にそっくり移すと、何かと不都合が生じる。大陸と日本の風土の違いはたくさんあるだろうが、建物に関する大きな要素は降水量や湿度だろう。何かで聞いた話なので出典を明記することはできないが、大陸由来の建物は屋根の勾配が緩く軒が浅く雨の吹き込みや水はけの悪さといった難点があったそうだ。それでも、鎌倉時代に大修理を施された旧講堂の本堂は、創建当時の様子をかなり忠実に受け継いでいる気がする。

堂内の須弥壇には本尊である薬師如来を中心に十二神将や伎芸天が並ぶ。京都の大寺だと拝観する者を圧倒するが如くに多くの仏像がこれでもかと居並ぶところもあるが、ものには程度というものがあると思う。闇雲に、「どうだ、どうだ」という姿勢を示すのは、マーケティング手法としてはそこそこに効果はあるかもしれないが、どこか胡散臭いものを感じてしまう。先ほど、「品のある建物」と書いたが、この寺は堂内の様子も上品だと思う。ところで、ここの伎芸天は芸能関係の人々の信仰を集めているらしい。そう思って拝む所為かもしれないが、華のある仏様だ。

秋篠寺から西大寺まで歩く。昼時でもあり、途中の飲食店に入ろうかとも思ったのだが、これはと思うような店がなく、西大寺の前に至る。東門門前にガトー・ド・ボワという立派な構えの洋菓子店があり、昨年も気になり今日も気になったのだが、今ここでケーキをいただくと昼食が食べられなくなり、食事のサイクルとして中途半端なことになるということで今回もご縁がなかった。とはいえ、是非一度はここのケーキをいただいてみたい。

西大寺は昨年も参詣し、今年5月には三井記念美術館で開催された「奈良西大寺展」を拝見し、同展関連イベントの大茶盛式体験にも参加させていただいた。ただそれだけのことなのだが、そんなことでもありがたいご縁のように感じられる。東大寺と比べると、寺の名前の一文字の違いをはるかに超越した賑わいの差があるのだが、どちらも参詣に価する立派な寺だ。西大寺で好きな仏様はなんといっても愛染堂におられる興正菩薩叡尊坐像である。座敷で気軽に迎えられているような親しみを感じる。

結局、昼食は奈良の街中でいただくことにした。昨年、塔影能の後に夕食をいただいたベトナム料理屋があり、今日はそこで昼食にする。腹が膨れて落ち着いたところで、ボチボチと宿に向かう。とりあえずチェックインを済ませて、荷物を部屋に置いてから興福寺にお参りする。5時半から塔影能だが、その前に境内を散策したり仮講堂の仏様を拝んだりする。

中金堂の落成まであと1年だ。土曜日は建築作業は休みではなく、足場に囲われた中だけでなく屋根の上にも作業員の姿が見える。自分にはあまり関係がないのだが、なぜかわくわくする。興福寺では中金堂の再建工事以外にも国宝館の耐震補強工事や北円堂の回廊整備など複数の工事が進行中である。国宝館が工事のために閉館しているので、そこに収められていた仏様が別の場所に移されたり、出稼ぎに出ていたりする。仮講堂には阿修羅像をはじめとする八部衆像、十大弟子像、金剛力士像、梵天・帝釈天像、阿弥陀如来像といった仏像が並んでいる。阿弥陀如来の前には華原磬という金鼓が据えてある。興福寺といえば阿修羅といった観がなきにしもあらずだが、やはりここの八部衆と十大弟子は独特の華があるような気がする。

塔影能は東金堂前に設営された舞台で奉納される。座席は指定されているので急ぐことはないのだが、開式直前になると東金堂への立ち入りができなくなってしまうので、時間に余裕を持って会場に入る。東金堂の仏様も立派なものばかり。興福寺は格が違う。とはいえ、日本の寺院は単なる宗教施設ではなく、殊に時代の古いものは政治と密接に関係した権力装置でもある。当然に権力闘争のなかで破壊の対象になることも少なくなかったわけで、それぞれの寺院の創建当時からの仏様が残っているのはそれほど多くはない。興福寺東金堂もご本尊は薬師三尊像だが、薬師如来は室町時代、両脇侍の日光菩薩と月光菩薩は奈良時代の作で、創建当時のユニットではない。当然に彫刻の道具類も製作者の技量も時代とともに変遷するので、特にお顔の様子にそれぞれの時代の個性が現れるように思う。

塔影能の後、鶴福院町の小料理屋で食事をして宿に戻る。夫婦と思しき若い二人が切り盛りしている小さな店で、おまかせのコースをいただいた。真面目な仕事ぶりで、いただいていて幸せな気分になった。毎年、奈良のいろいろなお店で食事をいただいているが、食事を終えて店を出るときに単に腹が膨れるだけでなく気持ちも充実する。そういうところも奈良を気に入っている理由のひとつだ。