熊本熊的日常

日常生活についての雑記

だって好きだから

2010年11月30日 | Weblog
テレビも新聞も縁がないのだが、唯一定期購読をしている雑誌がある。定期購読と言っても出版社から送られてくるのではなく、行きつけの書店に取り置いてもらっている。その発売日が25日で、陶芸で書店の近くに出かけるついでに買ってくるのである。それで、12月号は今日入手した。

毎月同じくらい面白いというわけではないのだが、今回はあるドキュメンタリー映画の紹介にひきつけられてしまった。「ハーブ&ドロシー」というこの作品は、伝説的アートコレクター夫妻を取り上げたものだ。何が「伝説」かというと、夫妻が目をつけた作家は、その後、必ずといっていいほど人気化する。しかも、彼等はコレクターにありがちな大富豪、というのではなく、ごく普通の公務員夫妻だったのである。夫のハーブは郵便局員、妻のドロシーは図書館司書だったという。私の親よりも少しだけ上の世代で、とっくにリタイヤしているが、今でもお元気だそうだ。

ふたりが作品を購入する基準はふたつ。給料で買うことのできる値段であることと、1LDKの自宅アパートに収まる大きさであること。「いいか悪いか分からなかったけど、今まで誰もやらなかったところがよかったので買った」のだそうだ。もともとふたりとも趣味で絵を描いていたらしい。作家と共有できる言語を持っていたということだろう。その上で、よくわからないけど好きだから、買っちゃうのである。

購読している雑誌はひとつだけだが、メルマガはいくつか読んでいる。偶然なのだが11月25日に配信されてきた「武相荘だより」も面白かった。「武相荘のひとりごと」では

「正子が銀座の「こうげい」と言う着物の店を始めた頃のこと、品揃えは自分の好みに囚われてはいけないと殊勝に考えていたが、現実は自分が気に入って注文し、もし売れなかったら自分で買おうと、覚悟したものから売れていったので、自分が好きなものを人さまに勧めるのが、本当のサービスだと悟ったと言っておりましたが、なるほど正子が次郎の為に着物を仕立ててもらったり、取引のあったちょっと変わり者の、福田屋千吉さんという仕立て職人さんや、有名な婦人服のデザイナーも、良いものを創るコツは唯ひたすら、自分の好みの女性に似合うものを作って着せようと思って、物づくりをするだけだと言っていたそうです。」

とある。結局、相手に気に入ってもらおうと思えば、まず自分が気に入るようなものであることが必要で、その上で相手がどう思うか、ということなのだろう。自分が好きになれないものを人様に押し付けてしまうようでは、物事はうまく運ばないという、至極当然のことのように思える。おそらく現実の多くは、自分が好きか嫌いかということを通り越して、それが売れそうかどうか、儲かりそうかどうか、という飛躍というか焦燥というかガッツキのようなものがあるので、うまくいかないということなのではないだろうか。

同じく「武相荘だより」のなかに白洲正子の「月謝は高かった」が紹介されている。そこにも興味深いことが書かれている。骨董の真贋についてのことだが、それが書かれた当時、骨董の贋物による詐欺のようなことが横行して社会問題となっていたようだ。その社会問題についての記述がよい。

「それらについては私みたいな素人まで、いろいろ意見をきかれるが、一度も答えたためしはない。というより、そのたびごとに私は、このように答えることにしているのだ。
『骨董を買いもしないで、ただ興味本位で贋物本物を云々する近ごろの風潮を私は好みません。それは推理小説の興味と、なんら異るところはないからです。社会正義の名にかくれて、美術品とは縁もゆかりもない人達までさわぐのは、そのこと自体が贋物のように思われます』と。」

いつの時代も、ろくにわけもわからずに他人のやることを声高に騒ぎ立てる奴が多いものだ。わけがわからないからこそ騒げるのであって、わけがわかっていたら様々な可能性が脳裏をよぎって思わず知らず沈黙すると思う。文句ばかっり、愚痴ばっかりという騒々しい奴ほど不愉快なものはない。

自分のモノサシというものをしっかりと持ち、軸の振れない姿を、美しいと感じる。こう書くととてもシンプルなことのように見えるが、これほど難しいことは無いと思う。社会のなかで生きていれば、それこそ無数の雑音があり、そのなかで軸が振れないというのはよほどしっかりとしたモノサシでないと揺らいでばかりになってしまう。粛々と自分の「好き」を追求して、気付いてみたら「カリスマ・コレクター」なんていうのは恰好が良い。贋物以前に、贋物にすらなれない雑音ばかりの世の中だからこそ、そうしたものに惑わされずに淡々と自分の「好き」を求めていけるようになりたいものだと思う。

習慣破壊

2010年11月29日 | Weblog
個展の案内はがきの草稿が上がってきた。思わず「うっ」となった。「うっ」の意味は敢えて明かさない。しかし、よくよく眺めてみると、これはこれで面白いかもしれないと思った。

校正を入れて、その確認をして、というようなことを2回ほど繰り返し、印刷へ出してもらった。パソコンの画面で見るのと、葉書という形になった実物とは、全く同じではないだろうが、印刷代を抑えるのに納期を長く取ったので、出来上がりは2週間後の予定だ。

陶芸展の案内はがきのデザインというのはある程度決まったものがあるように思う。それで、自分の個展はその決まったものとは違ったものにしたいと考えた。陶芸展に限らず、催し物の案内はがきというのは、気をつけてみてみると、街中の至るところで配布されている。カフェやギャラリーには当然に何種類ものはがきの束が並んでいるし、ダイレクトメールで送られてくるものも少なくない。ここ一年ほどの間、そうしたはがきを集めてみた。「集める」といっても積極的に蒐集するというのではなく、手元に舞い込んできたものを捨てずにおくとか、出先で目に付いたものをいただいてくる、という程度の「集める」である。

そうやって案内はがき類を眺めてみると、あまり面白いものが無い。おそらく自分でデザインしているのではなく、定型化されたテンプレートのようなものを使って部分ごとに入れ替えているだけだから、あるいはそうしたものを見慣れた眼に、案内はがきとはかくあるべし的な固定概念ができあがっているからではないかと思う。そうしたなかで目を引くものは、イラスト風のものだったので、自分の個展の案内状にイラスト風のものというのは当初から自分のなかでは候補のひとつとしてあった。

しかし、デザインの打ち合わせのとき、最初に検討したのは写真を使ったものだった。茶碗にご飯を盛って、どんと置いてみる、というようなことを考えた。写真を使うとなるとカメラマンを手配しないといけない、とか、撮影場所を考えないといけない、というようなこともあって、いろいろ大掛かりになってくる。今回は最初ということでもあるので、イラストということに落ち着いた。

私には絵心と言うものが無いので、イラストと言ってもイメージがあったわけではない。ただ、見る人の目を驚かせるような、既存のイメージとは違ったものにしたいという希望だけはあった。果たして、あがってきた案は、確かにその狙い通りではあった。但し、これが好きか嫌いか、というのは別の問題だ。

昔、「モンティ・パイソン」という番組があった。オリジナルはイギリスBBCの制作で、私が中学生の頃に観ていたのはテレビ東京が作った完全吹き替え版だ。ポニーキャニオンからVHSが出ていたので、見かけるたびに一巻ずつ買い揃え、1巻から7巻まで持っている。そのなかでオープニングの画面のなかで決まり文句のように使われているもののひとつに
“It’s something different.”
というものがある。この番組はコメディなのだが、誰もが思うことと何か違うことに人の感情を揺り動かすものがある、ということだろう。”Something”は日本語の「何か」以上に微妙に深い意味がある。何がしかの意味を持った「何か」なのである。ビートルズの曲で”Something”というのがあるが、そこで歌われているのはまさにそういう「何か」あるいはその「何か」を持った人のことだ。どのようなことであれ、日常のルーティンから外れて、何事かを世に問うてみるなら、そういう「何か」がなければ問う意味が無いと思う。何を問うのかは、敢えて語らないが、そういうことも考えながら、個展の準備をしている。

眼鏡絵

2010年11月28日 | Weblog
日本の近世後期、17世紀後半から幕末にかけての日本画界は、概ね4つの流れに分類されるらしい。
1. 伝統的画流を継承する
2. 装飾性を強く表出する
3. 写生画を基調とする
4. 写意性を重視する

円山応挙は第三の画流に属するとされ、この系統の先駆者には、以前にこのブログでも何度か触れている伊藤若冲も挙げられる。三井記念美術館で見た応挙展の作品展示は、眼鏡絵で始まる。これは「のぞき眼鏡」という玩具に仕組まれる遠近法を用いた風景画だ。「のぞき眼鏡」の実物を見たわけではないが、思い浮かぶものがある。それはロンドンのナショナル・ギャラリーのオランダ絵画のコーナーに展示されていたものだ。昔の25インチテレビよりも一回り大きいくらいの大きさの木箱があり、その側面に小さな覗き穴が開いている。中には照明が置かれていて、覗き穴を通して中を観ると立体に見える風景が広がっているのである。

応挙が働いていた玩具商の尾張屋では、その「のぞき眼鏡」の絵を日本の風景に差し替えたものも販売したのだろう。現在でも観光名所となっている京都の寺院やその周辺の風景を、応挙は遠近法を用いて細密に描いている。おそらく、眼鏡絵の制作を通じて、彼は写実ということになにがしかの意義を見出したのだろう。

こんな話を聞いたことがある。生まれつき目の不自由な人が、長じて後に、医学の進歩や本人の経済事情の改善などによって、手術を受け、晴れてその眼が本来の機能を持つに至ったとする。果たして、その人は視力を得たと言えるだろうか、というのである。このような書き方をすれば回答の想像がつくだろうが、その人に外界は見えないのである。機能としては、その人の瞳を光が通過し、瞳は光の強弱に反応して網膜上に正確に像を結ぶとしても、脳がそれを認識しないのである。なぜなら、それまでに視覚情報を処理した経験がないので、脳に視覚情報処理能力が無いからだ。視覚を得るには、少しずつ視覚情報を処理する訓練を積むよりほかに方法が無いのだそうだ。

私はしばしば「人は経験を超えて発想することはできない」という文言を書き散らしている。それは、この視覚の話によっても例証できよう。日記やブログを書くようになって、身の回りのことをつらつらと考えることが多くなったのだが、それで改めて感じるのは自分がどれほど自分の生きている場を知らないかということだ。

ところで、応挙の作品で興味深いのは、眼鏡絵から始まって、最後は墨絵に至るというところだ。そこに人の視覚というものに対する彼なりの発見があるように思う。墨絵は、所謂「写実性」とは正反対の表現のように見えるが、実はそこに写実の真髄があるということなのではないだろうか。

例えば気に入った風景に出会ったとして、その写真を撮るとする。出来上がったプリントを見て、そこに自分が見たはずのものが無いと感じるのはよくあることだ。3次元空間で、そこには当然に大気もあれば風も吹き、音も聞こえるはずなのだが、残念ながら写真はそこまで描写することができない。たとえ動画であっても、機材のマイクが拾う音声は自分が経験している世界とは違う。しかし、風景写真に自分が見たはずの風景がないのはそういう物理的な問題だけに因るのではないだろう。見るという行為が、外光を処理するだけのことにとどまらないということが、より大きな原因ではないだろうか。

応挙晩年の作品には、それまでに彼が試行錯誤の末に会得したノウハウや技術が集積されているはずだ。たとえば「松に孔雀図襖」は松や孔雀そのものを描いたのではなく、見る人が松や孔雀を感じるように描いている。金地に色調の異なる2種類の墨だけで描かれたこの作品は、実物よりも遥かに限られた色しか使われていないにもかかわらず、松は松のように、孔雀は孔雀のように感じられる。おそらく視覚の効果を計算した上で画面構成や描画がなされているのだろう。

平面に空間を描く場合、平面上だけでの工夫には限界がある。その平面を観る人との距離、観る人の視覚、心理風景、など平面を起点にした世界の広がりを応挙は意識したということだろう。

たぶん、これは絵画の世界だけのことではあるまい。事を成そうとするのに、その場だけを意識していたのでは、物事は完成に至らないということだ。肝心なのは、それを受け止める人の意識だ。自分が何を表現するか、ということよりも、相手に何が見えるか、ということをより強く意識することで観る人の心を動かすものが出来上がるのではないだろうか。その前提にあるのは、観る人の視覚や意識を信頼することだ。自分に見えているのと同じように他人にも見えている、と信じなければ、画面から離れたところの工夫など思いもよるまい。あるものをあるがままに表現する、ということの背後に、そうした見えないものへの信頼、相手に対する想像力、といった見えない世界が広がっているのだと思う。

源氏物語

2010年11月27日 | Weblog
五島美術館が改修工事のために11月29日から2年間ほど休館になる。休館前最後の企画展が「国宝源氏物語絵巻」だ。源氏物語は紫式部によって西暦1000年頃に書かれたとされているが、紫式部が何者であるかという人物像についてはかなり絞り込まれているようだが、正確に誰かということまでは特定できないらしい。何のために書かれたかということについては、一条天皇の皇子を生んだ、左大臣・藤原道長の娘、中宮・彰子の出産祝いの品として企画されたということらしい。紫式部はこのプロジェクトの現場責任者でもあったという。源氏物語絵巻は、この源氏物語に基づいて制作された絵巻で、現存しているものは源氏物語そのものの現存最古の写本でもある。その最古の絵巻が成立したのが12世紀前半頃と考えられているそうだ。現在、その最古の絵巻が徳川美術館と五島美術館に所蔵されており、今回は五島美術館の創立50周年と改修工事前最後の企画展という特別な事情があって、徳川美術館所蔵の絵巻と合わせて展示されることになったそうだ。

私は源氏物語を読んだことがない。日本で生まれ育ったのだから、高校の古文の時間にその断片くらいには接したかもしれない。それでも、なんとなく知っているような心持ちでいるのは、それだけこの物語の存在感が大きいということだろう。2007年にはフランスで豪華に装丁された仏語完訳版が刊行されたそうだが、総重量が10kgを超えているそうだ。フランス版には海外に流出した絵巻からの絵が多数おさめられているそうだが、日本で同じような装丁で、絵巻物の絵も含めて現代語の完訳版を作れば、やはり似たような規模になるだろうか。いずれにしても様々な意味において大きな作品だ。物語は三部構成で第一部と第二部の主人公は光源氏。彼は天皇、桐壺帝の子供、皇子である。長じて天皇になってもよさそうなものだが、そうはならない。しかし、彼が父帝の后である藤壷との間に子供をもうけ、その子が天皇になる。冷泉帝だ。息子が天皇になれば、当然に自分の権勢も強くなる。こうした光源氏の栄華が第一部なのだそうだ。第二部では、因果応報とでも言うのだろうか。齢を重ねた光源氏が、若き貴公子である柏木に、妻のひとり女三の宮を寝取られてしまう。最愛の妻であった葵の上は亡くなってしまう。そんなこんなで潮時を悟ったのか、光源氏は出家してしまう。第三部は光源氏の子供や孫たちがごちゃごちゃと好いた惚れたとか、権力の座を狙うとか狙わないとか、そういう話らしい。

今の時代に「源氏物語」というと、光源氏の色恋沙汰にばかり注目されるような気がするのだが、それはその部分が一番わかりやすいからというだけのことだろう。この物語はやんごとなき人々の世界を描いているので、恋愛のほかに、誰の娘をものにして出世を狙うとか、自分の子供を誰の子供とくっつけて権力を狙うとか、本人の意思とは無関係に婚姻が決定されるようなことも描かれているようだ。好きな相手と結婚する、というと当たり前のことのようだが、恋愛と結婚が直接結びつくようになったのは日本では近代以降のことだろう。

人間に限らず生き物の多くは種の保存を生存原理としている。人間の場合は他の動物とちがって、生まれてから生殖能力を持つに至るまでの期間が異常に長い。生殖能力どころか自立できない姿で生後数年を過ごさなければならない。そのために、種の保存を担うはずの無能力な個体が成長して自立するまで守り育てる仕組みが必要とされるのである。その仕組みが家庭であったり、社会であったり、国家であったりする。個人にとってみれば、恋愛だの結婚だのは一大事かもしれないが、種としてみれば、そこに必然性は無い。つまり、結婚相手が好きとか嫌いとか、家庭が円満であるとか不和であるとか、というようなことは取るに足らないことなのである。

もちろん、生存に適した環境にあるほうが、種の保存には都合が良い。絶え間なき闘争で生命が脅かされるよりは、平和に生産性を追及するほうが具合が良いのだろうし、ストレスに苛まれるよりは、精神的に平穏であるほうが、生産活動に集中できてよいのだろう。しかし、物事には適切な規模というものがある。今の人類は地球という環境のなかで、果たして適切な規模なのか。

源氏物語から話が飛躍するようだが、源氏物語が1000年もの年月を経て今なお存在感を放ているのは、そこに描かれている男女の物語に普遍性があるからということなのではないだろうか。男が女を求め女が男を求めるという直線的な構造のようなものが基本にあり、そこに「恋愛」という釈明を設けて家庭の生成を正当化させるのが、我々が生きている社会なのではないか。源氏物語の時代、文字の読み書きができる社会階層にとっては、天皇を巡る物語が身近であったので、あのような物語になったのだろう。あの時代、恋愛も権力構造も、そして国家という存在をも、男女の関係を軸に描写できる程度の社会の規模だったということだったということだ。

ところで、この夏に岩波文庫の「古今和歌集」を読み始めた。もともと和歌に興味が無い所為もあるのだろうが、あと一息で読了というところまできているのだが、なかなか進まない。古今和歌集は醍醐天皇の勅命によって撰進された最初の勅撰和歌集、つまり国家プロジェクトだ。その内容は、圧倒的に恋歌である。このことも読み進むことを遅らせている理由のひとつだ。和歌というのは、そこで語っているエッセンスは「花がきれいだ」とか「紅葉が美しい」というような自然を賛美したものと、「あなたがすきです」という恋心を表現したものだ。和歌に関しては宮中行事に「歌合せ」というものもある。これは男性チームと女性チームに分かれて互いに歌を送りあう、という宮中公務だ。今でも形式的なものが残っていて、その様子が報道されたりするが、もともとは夜を徹して行われたものだ。そして、和歌を上手く作ることができる能力というのも、宮中に生きる人々の出世に大いに影響したのだという。

「きれい」「すき」「やりたい」というような単純なメッセージを、どれほど古今東西の文物や美辞麗句に乗せ、しかもそれを三十一文字という形式にまとめて表現するか、というのは、確かに深い教養が求められることではある。しかし、そのことに莫大なエネルギーを費やさねばならなかったということの背後にあるものは何だったのだろう。そして、その背後にあるものが現代の社会を動かす基本原理のようなものと同じなのか、異質なのか。

確たる考えがあるわけではないのだが、私は人間の営みというものは、歴史を超えて継承される程度の至極単純なものに貫かれているような気がする。その単純なものを見失い、その単純なものが纏っている装飾やそれにまつわる枝葉末節に囚われたときに、とてつもない不幸に襲われるのではないだろうか。現代という時代が、その「とてつもない不幸」の真っ只中にあるような気がしてならない。

空腹か満腹か

2010年11月26日 | Weblog
会期終了間際となった五島美術館での源氏物語絵巻展を観て、三井記念美術館に移動してやはり会期終了間際の円山応挙を観てきた。渋谷でJRから東横線に乗り換えるのだが、渋谷に着いたのが11時半頃だったので、渋谷で腹ごしらえをすることにした。

2000年8月から2001年11月まで渋谷で働いていたので、渋谷から青山にかけてはランチエリアだったのだが、さすがに10年も経つと店は殆ど入れ替わっている。そうしたなかで当時と変らぬ佇まいを見せているところもある。「かつ吉」はそういう変らない店のひとつだ。ちなみに「吉」の字の上半分は「士」ではなくて「土」なのだが、そういう文字が私のパソコンに入っていないので便宜的に「吉」とさせていただく。尤も、この文字が入っているものは珍しいだろう。

明治通りに面したビルの地下にあるのだが、そこへ下りる階段から店が始まっている。この階段の石から店主はこだわったらしい。この石は店主が世田谷の豊前屋という銘石店でみつけたものだそうだ。この店で見つけたという石灯籠も据えられている。この石灯籠は江戸時代の終わりごろに茶人が自分の庭に据えるために白河石でつくらせたものだという。

その石の階段から店の入口に至るところが、ちょうど茶室の露地のような風情だ。店の入口は昔の大店の戸のような重厚な硬木製で、自動ドアなので開閉にその重厚さは感じられないのだけれど、入口前から店内へとつながる欅や栃や楢のような硬い木の一枚板をふんだんに使った内外装や建具類は古民家のような雰囲気を醸し出している。外食店に多く見られるMDFや合板にそれらしい木目プリントを施したよくある建材とは違って、その空間自体に店の主人の思いのようなものが表現されているように思う。テーブルの天板も耳付の天然木だが、さすがにあまりやりすぎると多少煩い感じがしないこともない。

ちょうど牡蠣の季節なので、カキフライと椎茸のコロッケとヒレカツが盛り合されたセットをいただく。味のことは書かないが、旨くなければ、目的地へ向かう途中であっても、わざわざ足を運んだりはしない。料理が盛られている器も堅木で作ったものや染付の陶器が多い。これらも店主の好みや考えがあって選ばれているのだろう。箸置も堅木で、箸置にしてはごついのだが、店の雰囲気には合っている。これを持ち帰ってしまう客もいるらしいが、この箸置が似合う家庭がそうそうあるとは思えない。欲しいと思うと衝動的に手が出てしまうという猿のような輩が多いのか、人を猿にしてしまうほど魅力があるのか。

ここは味噌汁、ご飯、サラダがお代わり自由で、他にキムチやナムルや香の物もお代わりできる。若い頃ならいざ知らず、50近くなるとそれほど代謝も活発ではなくなるので、お代わりなどしたくてもできない。一見するとカキフライもコロッケもカツも一個ずつなので、上品な印象だが、揚げ物ということもあり、美味しいということも勿論あって、十二分に満足感を得て食べ終えることができる。

満腹になったところで店を出て、東横線と大井町線を乗り継いで上野毛に行く。駅改札を出たところに五島美術館の入場までの待ち時間を書いた看板を持った人が立っている。90分だという。そのとき12時40分だったので、5分ほどで美術館に着いたとして、そこから90分だと展示室に辿り着くのは2時過ぎになってしまう。これではゆっくりと観ていられないかもしれない、と思いながら、行ってみなければわからないので、まずは美術館へ急ぐ。

美術館の入口でも展示室までの待ち時間は1時間30分と書いてある。しかし、一見したところ、行列はそれほど長いとは感じられなかったので、チケットを買って並んだ。果たして、実際の待ち時間は表示されていた時間の半分ほどで1時半過ぎには展示室の中に入ることができた。並びながら考えた。食事を済ましてから並ぶべきだったのか、食事は後にして並ぶべきだったのか、と。腹が減っていると、どうしても落ち着かないので、行列ができるものでもできないものでも、美術展に出かける直前に腹ごしらえをすることが多い。今回は実際に並んでみて、食べておいて正解だったと思った。ただ並ぶのもそれなりの体力は消耗する。少し並んで腹が落ち着いた頃に展示室に入場したおかげで、落ち着いて展示を観ることができた。

習慣

2010年11月25日 | Weblog
今週は火曜日が祝日で陶芸が休みだったので、火水と比較的早く起床しなければならない普段の週に比べると負荷が小さいはずなのだが、それでも今日は目が覚めたら昼近くなっていた。木曜日はゆっくりする、という習慣ができつつあるのかもしれない。

ゆっくりする、と言っても家事はある。腹が減るから炊事をし、月曜に洗濯をしたものにアイロンをかけ、などとやっているとあっという間に出勤時間になってしまう。家事というのは際限がないので、気になりはじめるといくらでもやることが出てくるのだが、億劫で手のつかないところはいつまでもそのままだったりする。これも習慣だろう。

欲望というものは際限がないので、不平不満というのはどのような生活にも何かしらあるものだが、これも思考や行動の習慣で自ら招いているものもあるように思う。時期外れの話題だが、敬老の日のアンケートで「今欲しいものは?」の回答で一番多かったのが「話し相手」だそうだ。話し相手を得るためには、子供や孫を説得することでもなければ福祉職員の巡回頻度を多くしてもらうことでもなく、まず本人が「あの人と話がしたい」と思われるような人物になることが最も有効な方法だろう。このアンケートの結果を見て、老人の孤独、というようなステレオタイプ風のイメージが湧くとしたら、それはものの見方の習慣であって、思考の欠如を反省すべきではないだろうか。不平不満は外部の所為にして、たまにの満足は自分の手柄のように考えるのも習慣だ。そういう習慣が強く身についている人と付き合いたいとか会話をしたいと思う人などないだろうが、それが本人にはわからなかったりする。それで、今欲しいのは話し相手、といわれても、外部からは手の施しようが無い。

習慣というものの厄介なことは、それが習慣であることに本人が気付かないことが多いということだ。健康的な習慣であったり、周囲の人々に感謝されるような習慣なら、それでも問題は無いのだろうが、その逆だと厄介なことになる。他人との関係ということでなく、自分自身の問題としても、無いものを有ると思い込んでいたり、有るものを自覚していなかったりすることは、案外多いのではないかと思う。閉塞感を覚えるような事態に陥ったとき、そこに習慣の悪弊がないかどうか、虚心に見直すという習慣をつけることは、生きる知恵として必要だろう。尤も、それで問題点がはっきりしたしとして、ほんの少しの決断で、そうした憂鬱を解消できるかもしれないのに、習慣に流されて決断できないことも多い。

習慣に満足するよりも、習慣を変える努力を怠らない習慣を身に付けたいものだと思う。

「自分」の領域

2010年11月24日 | Weblog
韓国と北朝鮮の間で武力衝突があり、韓国の延坪島が北朝鮮の砲撃を受けて犠牲者が出た。ということくらいは、テレビや新聞がなくてもわかる。今回の事件についての報道をネットで見ていて改めて驚いたのは、韓国の首都であるソウル、玄関口ともいえる仁川国際空港が南北軍事境界線にかなり近い位置にあることだ。砲撃を受けた延坪島は、ほぼ境界線上と言えるほど微妙な位置(添付地図の3番の島)だ。微妙な位置だけに、韓国側は1,000人規模の軍隊を駐屯させているし、北朝鮮側もこの島を射程に納めた平曲射砲群を構えているという。今回の北朝鮮側の砲撃もこの曲射砲によるものだという。

素朴な疑問として、そのような微妙な場所に住民がいるのは何故なのだろうか、と思った。軍隊とそれに付随する職業の住民は別にして、敵対する隣国から銃口を突きつけられているような場所に暮らすようになるには、どのような経緯があったのだろうか。

尖閣諸島の事件に際し、相手側は「歴史的経緯」というものを持ち出してきた。あの理屈に従うと、明朝と清朝から冊封を受け、その属国であった琉球王国も中国の領土ということになる。そのうち同じ理屈で元の時代に統治した現在のロシアも中国領か。歴史をどこまで遡るかによって、その時々の都合の良いように「正当」あるいは「正統」な領土というものを設定できてしまう。島の場合は領域が比較的明瞭なので、そういう暴論を振りかざすこともできるのだろうが、陸続きの土地の「歴史」を遡るとなると容易なことではないだろう。特に歴史が古く民族の移動が活発であった欧州から中東にかけての領域で「歴史的」などと言っても、誰も相手にしないだろう。

国家の成り立ちを考えるとき、そこには当然に構成員たる国民の自意識の構造というものが反映されているような気がする。誰しも、生まれようと思って生まれてきたわけではないのだが、生まれてしまうと、何の疑いも無く「存在する権利」なるものを想定する。意図せず生を受け、権利だの義務だのと言い出すのも妙なことだが、これを否定してしまうと、そもそも社会秩序というものが成り立たない。つまり、我々の生活が拠って立つところというのは、合意とか共同幻想のようなあやふやなものなのである。あやふやなものが集まって社会をつくり、それが小さなものは家族から、大きなものは国家に至る重層構造のようなものを成している。いわば幻想の幻想的な集合の幻想のようなものだ。そこに思い込みの対立が起こるのは当然のことなのである。本来、何者でも何物でもないところに「私」という幻想が絡むところから様々な問題が発生する。

例えば、大規模な公共施設の建設に際し、用地を確保しようとすると地権者のなかから反対や拒否の動きが出ることがある。時に「先祖代々伝わったものを守らねば」というような大儀を振りかざすこともある。日本の歴史においては、土地の所有をしていたのは一握りの権力者であり、数から言えば圧倒的大多数は小作人や漂流民だ。そんなにたくさんの「先祖代々守り抜いた」土地が存在するとは思えないのだが、戦後の農地解放で多くの土地所有者が生まれたのは事実である。「先祖」をどこまで遡るかによって、土地所有の正当性や正統性が決まるということだ。

個人の発想も、その個人が集団を成して作る国家の発想も、原理的には似たようなものということなのだろう。韓国と北朝鮮は「同じ民族」というようなことを耳にすることがある。学術的には「民族」という言葉の定義はあるだろうが、「民族」とはどれほど確固とした集団なのだろうか。集団の基礎が「私」にある限り、世に争い事はなくならないだろう。「私」は「私」が思うほどに理性的でも知的でもなく、けっこう本性は野蛮にできているものだと思う。それでなければ、これほど長く歴史を刻み続けてはいられないだろう。

食べる人生

2010年11月23日 | Weblog
芸術新潮に「高橋みどりの食道楽」という連載がある。11月号の記事に頷きたくなる記述があった。「誰しも一人で生きる覚悟が必要な時代に、料理は気負いなく楽しみを与えてくれるツールになり得ると思うんです」というのである。人それぞれの考え方があるので、一概に料理が楽しいとは断言できないが、自分で物事を決めて、その結果を自分で受け入れるという人生の基本は、日々の生活のなかの料理という行為に凝縮されているのは確かだろう。何を作るかを考え、それが決まったら食材を選び、調理方法を考え、盛り付ける器も選び、器と料理の組み合わせを考え、出来上がった料理を頂き、後片付けをする。美味くても不味くても、それは甘受しなければならない。また、食材や器から全て手作りということは不可能ではないが、実際の生活のなかでは現実的なことではない。当然に、目の前にあるものの向こう側に広がる果てしない世界に思いを馳せることになる。ひとつひとつの食材がどこからどのように来たものなのか、器は誰が何を考えて作ったものなのか、調理方法はそもそもどのような文化に由来するのか、調理器具は何か、きりがない。料理というもの、あるいはそれを作るということに関しては、物事を考えるきっかけの宝庫のようなものである。しかも、それは生活をしている限り毎日続くのである。

昨日の続きになるが、そうした毎日の食卓に登場する道具立てのひとつとして、器もまた、考えるヒントの塊である。挨拶口上のなかにはそうしたことも盛り込もうかとも考えたのだが、あまり挨拶が長くなるのも妙だろうと考え、一応、昨日書いたようなものにまとめるつもりでいる。

ところで、この連載記事は、筆者が蒐集している昔の料理本を毎回一冊乃至二冊ほど取り上げ、それに纏わるエッセイと、そこに取り上げられている料理の紹介がセットになったものである。11月号で10回目になる連載だが、正直なところ、自分で作って食べてみたいと思ったものは殆ど無い。それでも、そこに書かれていることの背景に、生活というものへの健全な姿勢が感じられて、毎回楽しく読んでいる。

日々の食生活というのは、その人の生きることへの姿勢そのものであるように思う。私は2007年9月下旬から一人暮らしだが、例えば一週間という時間の単位のなかでは、家事のなかで炊事の割合が一番大きい。「割合」というのは費やす時間だけではなく、そのために振り向ける意識のようなものも含めてのことである。先日、「塩一トン」ということをここに書いたら、「相変わらずですね」というメールをいただいたが、変りようがない。生きることは食べることでもあるのだから、そこに思考の軸が無いというのは、生きることを考える必要に迫られていない恵まれた人くらいのものだろう。食に関しては、いくら言葉を費やすよりも、一緒に食事をしたり作ったりすることで、手っ取り早く相手の思考の一端をうかがい知ることができると確信している。実際に、気の置けない相手との会食や茶飲み話ほど楽しいことはないのである。

口上案

2010年11月22日 | Weblog
今日も案内状の打ち合わせでデザイン事務所にお邪魔する。前回の話し合いのなかで、案内葉書の案内面は写真ではなくイラストにすることに決まった。それで、イラストを起こすに際し、なるべく多種多様の形や大きさの作品が見たいとの要請を受けた。前回の打ち合わせの時にも6個ほど持参したのだが、今回はさらに5個持参した。

タイトルも考えておくようにと言われ、デザインの関係からひらがながよいのではないかとの助言も受けた。それでいくつか考えてみて、一押しのものを伝え、他のものも参考までに2つほど提示してみた。一押しのタイトルに対するデザイナーさんの反応がよく、タイトルはそれに決まった。あと、こちらからの希望で、デザイン面の片隅に小さなポイントで「熊本熊的日常陶器」とキャプションを入れてもらうことにした。「熊本熊」というのは、それほど考えがあって使い始めたものではないのだが、もう4年半ほど使っているので、なんとなく愛着を感じるようになっているので、自分の表現活動の際には入れることにしたのである。

案内状は葉書形式なので、イラスト以外には最小限のテキストを使うだけにするつもりでいる。余計なことをごちゃごちゃ書くよりも、ものがそこにあるのだから、そこに敢えて雑音を差し挟むことはないだろう。

案内状のことをいろいろ考えながら、作品展当日には会場にあいさつ文と自己紹介くらいは書いて掲げておいたほうがよいだろうとも思い始めた。これも必要最小限にするつもりだが、あいさつ文のほうは以下のようなことを考えている。

初めて個展を開きます。
いろいろ思いがあります。
人と人とがどのようにつながるものなのか、
ということを考えました。
見ず知らずの人と知り合うというのは、
容易なことではありません。
人と人とが知り合うには何かきっかけが必要です。
その「何か」は必ずしもかたちのあるものでなくとも
よいのですが、かたちがあったほうがわかりやすいでしょう。
そこで、今回は自分が作った茶碗や皿を用意しました。
私は陶芸作家ではないので、作品としての完成度には限界があります。
それでも、気持ちよく使っていただけそうなものを選んだつもりです。
作った私の手を離れ、使う人に「いいな」と思っていただければ幸いです。
「どんな人が作ったのかな」と思っていただければ嬉しいです。
そこから言葉を交わすようになれば天にも昇る気持ちになるでしょう。

以上のような感じだ。ビジュアルとしては、短い文からはじめて、末広がりになるように文章やレイアウトを考えるつもりでいる。「初めての個展」という事実の提示を短く、「天にも昇る」という、大袈裟な感情を文末にして、読む人に「ふぅん」とか「へぇ」とか、凧の糸が切れて空に吸い込まれるように、なにかが飛んだり、吹っ切れたりする感覚になればいいなと思う。

ところで、今日はデザイン事務所のある恵比寿で昼食を食べた。以前、ヨガを習っていた頃、スタジオが恵比寿と代官山の中間にあって、ヨガの後は恵比寿駅前にあるビルの4階のTANDOORというインド料理屋で日替わり定食を食べることにしていた。今日は久しぶりにそこで日替わり定食を頂いた。ここのナンが一番ナンらしいと思うのである。大きくて、しっかりとしたボディがあって、味もシンプルでおいしい。このほかに恵比寿というとヴェルデという珈琲屋にも足を運んだことがある。店でも飲んだし、豆を買って家でも淹れていた。ここの深煎りがおいしい。勿論、深煎に向く豆とそうではないものがあるのだが、マンデリンやコロンビアは深煎のほうが豆の持ち味が発揮されると思う。今回は残念ながら、まだヴェルデのほうには訪れる機会に恵まれていない。これから個展絡みで何回か恵比寿を訪れることになるので、TANDOORの日替わり定食を食べることのできる時間帯に、打ち合わせの時間を設定するように心がけようと思っている。

狼煙か

2010年11月21日 | Weblog
明日、個展の案内状の打ち合わせでデザイン事務所を訪ねることになっている。会場となるギャラリーでの過去の催事の案内状の見本がないかと思い、夕方にFINDを訪ねた。

店に着いたのは午後4時頃だった。入口のところに見覚えのある自転車が停まっている。店の前に、ちょうど着いたばかりの町内会長がオーナーの岩崎さんと立ち話をしているところだった。そこに私が現れたものだから、岩崎さんに「待ち合わせですか?」と尋ねられてしまう。「いや、ちょっと狼煙が見えたもんですから」とは言わなかったが、なんとなく来てるかもしれないなとは思っていた。

店を出たのは午後7時半頃。まだ数えるほどしか顔を合わせていないオヤジふたりが、よくもまぁ、途切れることなく会話が続くものだと、当事者でありながら感心してしまう。尤も、私も羽生田さんの店にコーヒー豆を買いに行って、1時間ほども油を売ってくるのだから、私の側に問題があるのかもしれない。「問題」というのは店の側から見てのことであり、本人同士は気持ちよく会話をしているのだから何の問題も無い。

かつての社会には、居住地の隣近所の関係というのは当たり前にあった。買い物といえば近所の商店で食材毎に店を渡り歩いて済ませるものだったし、店屋物を注文するにしても店主の顔が見えている店ばかりだった。それが、気がついてみれば、買い物はスーパーで誰と会話するでもなく完了してしまい、店屋物も宅配専門店のようなところで、誰が作ったかわからないものを注文するのが当たり前になってしまった。この利点としては効率が良いということだ。あちこちの店に行かなくても一箇所で必要なものが全て揃い、しかも大量流通の商品ばかりなので個人商店の商品よりも相対的に安価である。安さを求めた結果、人間関係を失った、ということだろう。確かに、買い物で顔を合わせるだけの関係など「関係」のうちには入らないかもしれない。しかし、そこで挨拶を交わす、挨拶から世間話のひとつやふたつもする、という程度のことであっても、それが無くなったことで、他人との交渉事がすっかり日常生活から消えてしまった、というようなことは案外多いのではないだろうか。職場だけ、家庭だけ、学校だけ、というような限られた世界のなかで人間関係が完結してしまうと、そこで何事か障害が発生したときに修復の手立てが限られてしまう。結果として、金銭を支払って専門の業者に依頼することになり、ますます生活のなかに市場原理が入り込むことになる。気がつけば、習慣だけで行動する機械のような存在になり、他人との会話ができないというようなことに陥っていたりする。

ここは習慣には流されず、強く意識をして自ら会話の場を求めないと、人は自然に孤独に陥る。狼煙を上げるのは楽ではないが、楽をしていると楽しくはならない。

創作

2010年11月20日 | Weblog
子供と一緒に神楽坂の「てまめ」にお邪魔した後、ZIOで昼食をいただき、赤坂へ移動して花緑の独演会を聴いた。

以前にも神楽坂界隈の様子について、ここに書いたことがあるが、今日も多くの店舗が開店する11時前に着いたので、時間を潰しを兼ねて、けっこう歩きまわることになった。改めて気がついたのは、飲食店の多さだ。もともと割烹や小料理屋は多かったが、それにフレンチやイタリアンなどの比較的高めのグレードの店が目立つようになり、表通りは逆にチェーン店やカジュアル系が多い。それにしても、これだけの店舗が一様に繁盛するほど、街全体に来客数があるとも思えない。素朴に不思議な街である。

街の変化という点では赤坂見附界隈も同じような状況だ。2001年暮れから2005年3月まで勤務先が霞ヶ関だったのと、山王や赤坂に知人が何人か勤務していた関係で、このあたりはその当時の昼食エリアだった。相変わらず飲食店が密集しているが、その中身はかなり入れ替わっている。それがこの街の住人や利用者にとって良い結果をもたらいしているのか、そうではないのか、ということは体験していないで何とも言えない。

今回の落語会の会場である赤坂RED THEATERが入っている建物が竣工したのは2006年だそうだ。劇場以外の階上のスペースは赤坂グランベルホテルで、サイトを眺めていると、どこか見覚えがある内装だと感じる。「クラスカ」が手がけたのだそうで、よく言えば成功体験の移植である。劇場のほうは、落語のように、演じ手と観客との距離の近さが有効に機能しやすいものには適した規模だと思う。しかし、劇場というのは、劇を観るだけの空間ではない。休憩時間にトイレに行列ができるようでは、いくら劇場での公演が素晴らしくても、観劇体験としては興ざめの印象が拭えない。また、観劇中は演じるほうに負けず劣らず客もそれなりに緊張をしているので、休憩に一息つくことのできるような空間がないと、よほど素晴らしい内容の公演でない限り、疲労感で集中力を欠いてしまったり、不快な感覚が残ってしまったりする。要するに、この劇場の設計者には、劇場というものがわかっているとは思えないし、劇場を理解できていないということは、そもそも文化や文明を理解できていないとういことだ。赤坂に公民館以下のものを建ててどうする気なのだろうか。

花緑の独演会は、前座なし、本人のみ、中入り挟んで一席ずつ、一席目が古典で、メインはトリの創作落語、という構成だ。創作のほうは、落語というよりもひとり芝居のような体裁だが、噺家が全役をこなすという点では紛れも無い落語である。約1週間に亘って「我らが隣人の犯罪」という創作落語を演じるという、演劇のような公演でもある。

形式はともかく、公演としては実験的だとの印象が強い。宮部みゆきのメジャーデビュー作を落語にしたという点で、話の大筋を知っている上で口演を聴くというところは古典落語を聴くのと同じだ。しかし、短編とは言え小説を落語に起こすのは容易なことではないようだ。落語が伝統芸能として長い年月を経てもなお続いているのは、極端に単純化された様式に秘訣があるように思う。舞台装置も何も無い場所で、口演だけによって聴衆の脳裏に演劇空間を描き出すという、単純であるが故の難易度の高さがあるからこそ歴史の淘汰に耐えることができていたように思う。噺家は着物を着て座布団の上に座っていなければならない、とは思わないが、なぜそのようなスタイルが固定されたのかを考える必要はあるだろう。舞台装置が無いことや、演者が意味性の低い身なりをしていることで、聴衆の想像力の運動が余計な影響を受けないということがあると思う。ちょっとした小道具が観客に無用な先入観を与えてしまうことの、効果と危険とのバランスは演じる側が十二分に考慮しなければいけないことだと思う。小説が映画化されると、「原作のほうが面白かった」という声を聞くことが多いように感じる。落語の場合はどうだろうか。

最近読んだ小林秀雄の著作のなかにこんな一節があった。
「学生時代、辰野先生のモリエールの購読を聞いていて、私は面白くもおかしくもなかった。こんな高尚な喜劇は御免であると思っていた。或る時、これで見物は笑うんですか、と愚問を発すると、先生は答えた、笑うさ、ゲラゲラ笑うよ、君は落語を本で読んで笑うかね。私は飜然として悟る処があったのを思い出す。どんなに散文化されても台詞は散文にはならない。俳優の肉声に乗り一種の歌として聞えて来なければ、その本当の意味は現れる筈がないから。」(新潮社 小林秀雄全作品18「表現について」212頁 「ヘッダ・ガブラー」)

私も落語はある種の音楽であるように思う。落語で「間」ということがとやかく言われることが多いのが、その何よりの証左だろう。ストーリーもサゲも全て承知している噺を、飽きもせずに聴きにでかけるのは、リズムもメロディも承知の上でコンサートやライブに足を運ぶのと同じことなのではないか。演劇も同じなのだが、落語を書いたり演じたりする人がそうした音楽性と言語との関係や、演じ手の肉体の意味というようなことを、きちんとわかっているのだろうかと疑問に感じるときが、無いこともない。

ところで、私の子供が卒業した小学校では、毎年六年生を相手に花緑が落語を演じている。子供に「どうだった?」と尋ねると、「小学校の頃のことはよく覚えていない」と言う。「覚えていない」のではなく、「思い出したくない」ということだろう。4年生頃だったろうか、子供は所謂いじめにあっていた。1年生から6年生まで、毎朝子供の通う学校の最寄り駅まで一緒に通勤通学していたのだが、そのころ電車の中の会話でこんなことがあった。
「ねぇ、おとうさん、会社楽しい?」
「べつに楽しみにして行くところじゃないけど、嫌いじゃないよ」
「わたしはね、学校はそれほど楽しくないな」
よほど鈍感な奴でも、学校で何が起こっているか想像ができるだろう。幸い、いじめっ子集団のターゲットが別の子のほうに向いたことや、諸々の幸運もあり、事態が深刻化することはなく、なんとか卒業まで迎えることができたが、転校させなければならないかもしれないと考えたこともあった。

ときどき、いじめを苦にした子供の自殺があるが、社会集団がある方向性を持って動き出したとき、それを是正することができるのは集団の自律的な運動以外には無いと思う。教師にも親にも止めることはできないのである。親としては本人の生命力のようなものに期待するより他に、決定的に有効な対策というものは無い。親の側の行動のヒントになるのは、ボクシングやレスリングのような格闘技におけるセコンドの役割だと思う。集団は弱者と認識したものに対して残酷な牙を剥くものだ。とすれば、弱者とは思わせないことが必須なのである。あと、人間の行動は習慣に大きく左右される。この習慣を変えるのは容易ではないが、かといって無理なことでもない。案外、小さなきっかけで大きく習慣が変化することもある。いずれにしても、本人の思考や行動に変化を起こす契機が必要で、逆に、それ以上のことを下手にすると事態を悪化させることにもなる。格闘技で強い選手のセコンドがどのような行動をしているのか、観察に値すると思う。いつものように話題が脱線し始めたので、今日はもう筆を置くことにする。ただ、セコンドがしていることも、ある種の創作だと思う、とだけ記しておく。

演目

柳家花緑 「二階ぞめき」
(中入り)
柳家花緑 「我らが隣人の犯罪」

開演 14時00分
閉演 16時15分

会場 赤坂RED THEATER

縁を辿る

2010年11月19日 | Weblog
個展の案内状を作るのに、デザイン事務所を紹介してもらい、1回目の打ち合わせをしてきた。

この事務所は、羽入田さんにお願いして、そのお知り合い経由で紹介していただいた。会場となるギャラリーを予約し、こうして案内状の作成にも着手し、初めての個展開催へ向けて具体的に動き出した。これは作品そのものをどうこうというよりも、素の自分でどれだけの人間関係の広がりを持つことができるかという試みだ。案内状をデザイン事務所に依頼するほどの作品ではないことは百も承知しているし、自分で版を作ってネットのプリントショップに印刷を依頼すれば済んでしまうことも知っている。敢えてデザイン事務所を使うのは、人に頼むことができることは、できるだけ頼むようにして、この個展に関係する人を増やしたいからだ。

起点になっているのはコーヒー豆の焙煎業を営んでいる狩野さんが主宰するコーヒー教室だ。今は業者相手に特化しているが2005年当時は個人が家庭でコーヒーをおいしく淹れることを目的に、月1回程度の素人向け講座があった。そこに参加していた縁で、昨年4月にコーヒー豆のカッピング講座に誘っていただき、そこで当時はまだ自宅に焙煎機を置いて副業的に焙煎をしていた羽入田さんと知り合った。彼が勤めを辞めて焙煎を本業にし、今年6月に巣鴨に店を構えてからは、その店舗で豆を買うついでの立ち話のなかで、近隣のカフェや、地元で開催されるイベントなどを紹介してもらうようになった。そうしたところに足を運ぶうちに、橙灯のように常連のようになるところができたり、そこで客同士として知り合った町内会長のような人がいたり、能を舞う彫刻家と知り合ったり、というように徐々に知り合いが増えて今日に至っている。

そういうわけなので、あくまで既存の人間関係を介して、新しい人たちと出会う、というのが今回の個展の大きな趣旨だ。もうひとつの目的としては、美大の造形文化学科に入学したので、工芸や美術と社会の関係について考えるきっかけとして、自分の作った陶器類を使って、何事かを社会に投げかけてみるという試みをも兼ねている。まずは勉強を始める前に、工芸や美術と社会とのかかわりに関して何の予備知識も無い状態で、こうしたイベントを開いてみる。そして、勉強を進めながら、そこで得たことを自分なりに咀嚼した上で、2回目、3回目の催しを企画して、それがどのように変化するのか、ということを観察するつもりでいる。週一回の陶芸教室では、それほど作品の数が増えない上に、自分のなかの思考の進行とも絡むので、せいぜい半年に一回程度の頻度で、個展という形にはこだわらずに何かイベントを企画し続けたいと考えている。どのようにするかは追い追い考えるとして、実際に行動するということが自分にとってはなによりも重要なことである。

猫が退かない

2010年11月18日 | Weblog
昨日は木工の日。前に書いたように、ミニ箱膳を作っている。杉板を材料にしているが、幅の広いものを調達できなかったので、15cm幅のものを接いで部材を作るところから始める。

先週、切断して平面を出した板は、厚い別の板に挟んでクランプで留めておいたのだが、やはり多少は反りが出ている。接ぎ合わせる面を電動鉋で改めて調整する。

板どうしを接ぐのは接着剤だが、それだけでは強度に不安があるので、ビスケットジョイントを使う。板の接着面に溝を切り、そこにビスケットを嵌めたうえで板を接ぐのである。今回は板厚が9mmと12mmなのでどちらも10番のビスケットを使う。ビスケットの溝はビスケットジョイントカッターで切る。これは小型の丸鋸にビスケット用の位置決め装置をつけたものだ。その後、接着剤を塗り、ビスケットを嵌め、板を接ぎ、クランプで締め、端金で留める。これで接着剤が乾くのを待つのである。

私が作業に精を出している傍らで猫が寛いでいる。雌の虎猫だ。人間の年齢にすれば、けっこうなババアだ。以前は作業中に寄ってくることはなかったのだが、だんだんに距離を縮めてきた。私が、ではなく、猫が、である。近頃は作業台の上に座っていて、私がそこで作業を始めても動じない。木工の工房なので刃物があちこちにあるのだが、不思議なことにそういうものに触れて怪我をするというようなドジは踏まない。

板が反ったりして、平面を出し直すと、その分板厚は小さくなる。それに応じて図面に修正を加えるのだが、作業台の上に広げた図面を書き直していると、猫が図面を覗き込む。その度に猫の髭が私の頬に触れる。いまはそういう距離になった。

猫になぶられているような気がしないでもない。別に気にもならないので、好きなようにさせている。そういう緩い雰囲気のなかで、物事がひとつひとつ確実に形になっていく世界が、なんとなく好ましく感じられる。

真摯

2010年11月17日 | Weblog
菅野さんからのメールに、Aero Conceptの販売がイギリスで始まり、その最初の顧客がDuke of Westminsterだったということが書かれていた。今更Aero Conceptをセレブと呼ばれる人たちが手にすることには驚かないのだが、その名前が長いことには驚いた。Major-General Gerald Cavendish Grosvenor, 6th Duke of Westminster, KG, CB, OBE, CD, TD, DL, GCLJというのだそうだ。名前そのものより、それに付随する肩書きの類の所為で長くなっている「延陽伯」のようなものだが、伊達に名前が長いのではなく、イギリスはもとより、世界でも屈指の大富豪で、当然にそれ相応の鑑識眼を持った人だろう。

Aero Conceptというのは決して有名なブランドではない。しかし、知る人ぞ知る、とはこういうものを指すのだろう。既に内外の様々なメディアに紹介されており、菅野さんご自身もニューズウィーク日本語版の「世界が尊敬する日本人」のひとりに選出されている。しかし、どこにでも置いてあるような商品ではないし、原則として受注生産なので、誰もが気軽に手にすることができるものでもない。それでも、エリック・クラプトンのギターケースに使われていたり、F1の関係者が持ち歩いていたり、ユマ・サーマンがメイク用品を入れて持ち歩くケースとして使っていたりする。おそらく、ウエストミンスター公爵は、BENTLEYSというロンドンの店でその製品をたまたま目にして、それが気に入ったから購入した、というだけのことだろう。ここで注目すべきは、世間で喧伝されるような「マーケティング」だとか「ブランディング」だとか言うような、怪しげな「理論」などとは関係なく、真摯に真っ当な仕事をすれば、それを評価する真っ当な人がいるという、シンプルな世界があるということだ。

「マーケティング」だの「ブランディング」だのというような言葉の背後に、「楽して儲けよう」という狡猾さが潜んでいることが多いように感じる。さらに言えば、そこに客とか消費者を馬鹿にした態度が見え隠れする。所謂「名人」とか「匠」とか呼ばれる人の仕事のなかにも、「どうだ、すごいだろう」というような無邪気な見栄が感じられることがある。さらに言えば、その見栄の背後に、「この仕事がわからない奴は馬鹿だ」というような高慢さが見え隠れする。これでは技量がいくら高くても、人を感動させない。だから「ブランド」が必要になる。そうすれば有象無象が寄ってくるので、生計を立てることはできる。立てるどころか、大儲けもできるだろう。けっこうなことだ。

何がしかの才能があり、切磋琢磨して「名人芸」というような域の仕事をするようになれば、それを誇りたくなるのは極当たり前の人情だ。しかし、いくら高度な技巧であっても、これ見よがしに表現されると、そこにあざとさが出てしまうように思う。つまり、醜いのである。逆に、上手くもないが、真面目な仕事の美しさというものもある。理想としては、高度な技量を持ちながら、それを誇るというようなこともなく、さらりと人の心を打つ仕事をするというのが良い。醜いものは使う人に満足を与えないだろうし、美しいものは使う人に喜びを与える。有象無象相手にぼろ儲けをすることで自分の存在を確認するのか、たとえ限られた人が相手であっても、そういう人の喜びに自分の喜びを重ねるのか。結局はその人の生き方の問題だ。

どちらが良いとか悪いというようなことではない。どちらを自分が好ましいと感じるか、ということだ。ものづくりの分野では同じようなものを作りながらも「職人」と呼ばれる人達と「芸術家」と呼ばれる人達がいる場合がある。外から見れば「職人」と「芸術家」の区別というものは、作品の流通経路などに端的に表れるのだろう。しかし当事者は自分を「職人」と意識するのか、「芸術家」と認識するのか。私はそういうことはわからないが、永六輔の「職人」という本のなかに以下のような市井の「職人」の言葉が紹介されている。

「職人気質(しょくにんかたぎ)という言葉はありますが、芸術家気質というのはありません。あるとすれば、芸術家気取りです」(永六輔「職人」岩波新書 65頁)

「幼児の何事も無く笑う顔は、両親でない外ほかの人達にも満足を与える。この種の喜びを与え呉るる美術品を容易に造る人はいないか」とは、富本憲吉の言葉だ。私は人生の終盤を迎え、自分に残された時間の終わりが見えてきた。そうなってみると、ひとつでも多くの「何事も無い笑顔」に出会いたいとの気持ちが強くなってくる。どんなにささやかなことでもいい。どんなに短い時間でもいい。そういう笑顔に出会いたい。また、できることなら与えることのできる人間になりたいと思う。幼児の笑顔に出会うには、シンプルなことを大切にしないといけない。

前言を翻す

2010年11月16日 | Weblog
何に反応したのか知らないが、昨日はやけにこのブログのPVが多かった。尤も、訪問IP数は普段とそれほど変らなかったので、同じ人が何度もこのブログにアクセスしたということだ。ネットにアップしたものは当然残るし、削除してもキャッシュが残るので、尖閣ビデオのような騒ぎにもなったりする。このブログはああいうものと違って毒にも薬にもならないもので、嘘の無いようにということだけ心がけている。それで、考え直してみて、「やっぱり違ったかな」と思ったら、素直に訂正記事を書く。

先日、いきものがかりのことを書いたときに「聴いていて思わず赤面してしまう」とか「彼等の曲で描かれているような世界観を共有することはできそうにない」とか書いた。ところが、その後、気に入ってしまい、新たにCDも買って、たまたまGayo!にミュージック・クリップ集もアップされているので、それも暇さえあれば観て、職場ではひとりなので遠慮気兼ねなく口ずさんだりしている。あれはいい。

先日、雑誌の取材を受けたと書いたが、そのことが記事になって今週月曜に発売された号に掲載されている。そのなかで、ある種の決断について例え話を語ったのが引用されている。曰く
「何十万円もかけてハワイ旅行をするときに、成田空港まで電車かバスかで悩むか、タクシーに乗っちゃうか。悩む人は決断できないと思います」
言わんとしたのは、例えば50万円くらいかかる旅行に2万とか3万とか上乗せになってもたいして変らないと思うか、限界的な部分が気になってしまうか、という思考のパターンの差異のことだった。しかし、「ハワイ旅行」はまずかった。ネットで調べてみたら、年末年始ならいざしらず、1週間でフライトとホテルと合わせて10万円もしないパックなどいくらでもある。数万円の本体に2万とか3万の付属品となれば、「限界的な違い」とは言えない。電車かバスかで多少なりとも逡巡し、タクシーの利用は選択肢に入らないのが当然だろう。「ハワイ」じゃなくて「世界一周」くらいにしておけばよかった。たぶん、あの例え話では、殆どの読者が誤解する。

「世界一周」するのに成田まで電車やバスの奴はいないだろう、と思う人もいるだろうが、私はけっこういると思う。何故なら、レクサスのハイブリットが売れるからだ。高級車に乗るくらいなら燃費など気にしなくても良さそうなものだが、気になってしまうせこさを拭い去ることのできない人というのが少なくないように思うのである。「エコ」だの「環境対応」だのというのはお題目のようなもので、それ自体に意味があるわけではない。別の言い方をすれば、ものを買うのに、そのものの良し悪しよりも先に値段や損得が気になる種類の人間が多いのではないかと思うのである。そういう本質より枝葉末節に振り回されるのが多くなってしまったから、手間と費用のかかる真正直な職人仕事が廃ってしまい、「儲け」だけを意識してつくられられた不誠実なものばかりがまかり通るようになったということだろう。

自分というのは時間が経てば他人と同じ、というようなことをどこかで聞いたことがある。他にも訂正しておいたほうがよさそうなことが多々あるだろうが、とりあえず思いついたところを書いておいた。