熊本熊的日常

日常生活についての雑記

インドを発つ でもまだダッカ

1985年03月17日 | Weblog
朝6時にモーニングチャイのおじさんがドアをガタガタ揺さぶる音で目が覚めた。昨夜もかなり暑く、汗びっしょりだ。チャイを受け取り、シャワーを浴び、荷造りをしてから朝食を済ませ、8時5分過ぎにチェックアウトをして宿を出ると、外で佐賀君と佐藤君が待っていた。チョーリンギー通りでタクシーを拾い空港へ向かう。タクシーの運ちゃんは最初40ルピーと言ったが、我々は30ルピーを主張し、結局35ルピーで話がまとまった。市街からダムダム空港まではかなり遠く、40分ほどかかった。空港はそれほど混雑しておらず、国際空港の華やかさもない。両替カウンターで出国税を支払い、手持ちのルピーをドルに換える。そうこうするうちに日本人旅行者が次から次へとやって来た。みな、私たちと同じフライトでダッカへ行くようだ。

10時過ぎにチェックインが始まる。日本人旅行者の間では、ビーマンはいつもオーバーブッキングしているのでチェックインは先着順だとの噂が流れていたが、それは噂でしかなかったようだ。カウンターにはタイプされた乗客名簿があり、手続は順調に進んだ。しかし、用心のため、荷物は機内持ち込み1個にまとめた。建物の窓から外を見ると、飛行機は3機しかない。搭乗時間になるとターミナルビルからバスで飛行機まで行く。B707だ。乗客はタラップをぞろぞろと登り、少しずつインドの大地から離れていく。特にどうということもなく淡々とした気分だ。

ダッカへのフライトは約40分。あっという間に着いた。ただ、ダッカに着いてからが大変なのである。私たちが乗ってきた692便の乗客の7割程度が明日の070便でラングーンやバンコクへ向かうようである。この人たちの今夜の宿は航空会社が面倒をみてくれることになっている。ただし、そのためには航空会社が航空券を発券したときに同時に発行したホテルのクーポンが必要であるらしい。空港のカウンターにはこのクーポンを持っている人とそうでない人とが入り混じり、職員とああでもないこうでもないとやりあっている。私たちはクーポンを持っているので問題はないはずだが、カウンターの職員に渡したクーポンが無事に処理されるのを念のため見届ける。結局、全員の分のホテルの手配が終わったのは午後3時頃だった。それから航空会社のバスでホテルに向かい、ホテルに着いたのは午後4時近くだった。

4時半頃、ランチが出た。カレーライスと特大プリンだ。この後、午後7時過ぎに夕食が出た。カレーとプリン。このプリンがたいへんおいしい。食事の後、部屋でバスタブに浸かった。風呂に入るのは久しぶりである。気持ちいい。

カルカッタも暑い

1985年03月16日 | Weblog
今頃のカルカッタは真夏の東京に似ている。空気がそっくりである。バンガロールやハイデラバードのような乾いた暑さではなく、むっとする暑さである。夜になっても気温は下がらず、汗びっしょりなって目覚める。汗の不快さとカラスの鳴き声。カラスの声も一羽なら「カァー」だが、群になると「フギャー」となり、まるで赤ん坊の泣き声のようだ。この「フギャー!フギャー!」が朝の4時頃から始まるのである。眠いのに暑さとカラスのせいで眠れない。帰国も近いことなので、日本時間に合わせるつもりで午前4時に起床することにする。シャワーを浴びて汗を流し、身の回りの整理をしているとノックの音がする。まだ6時である。
“Who?”
“Tea.”
なんのことだかさっぱりわからない。
“What for?”
我ながらばかげた質問だ。チャイは飲むためのものに決まっている。
ドアの向こうは静かになってしまった。それがモーニング・ティーのサービスであることは朝食の時に知った。昨夜の2人と話をしていて、チャイのサービスのことが話題になったのである。

さて、その2人は今日のタイ航空機で帰国の途につく。タイ航空であることが羨ましい。私はビーマンなのである。とにかくバンコクまではなんとか無事にたどり着きたいものである。バンコクまで行ければなんとかなる。

明日の朝はやくに宿を出なければならないので、実質的に今日がインドでの最後の日である。少しは土産も買って帰らなければならないので、今日はエンポリアムでも見てまわるつもりだ。

10時半頃宿を出て、ニューマーケット近辺の店をのぞいてみるが、品数が少なく、しかも品揃えがシルク製品に偏っている。シルクは軽くて場所もとらず見てくれが良く、値段も手頃なのだが、どうも気が進まない。ニューデリーで見た象牙製品が頭を離れず、なんとかひとつくらいは手に入れたいと思っていた。そこで、オベロイグランドの一階にある店をのぞいてみた。日本人客が多いようで、入り口に「ようこそキュリオの店へ」という看板がぶら下がっていた。店員もけっこう上手に日本語を話す。やはり象牙は高い。店員は宝石を勧めた。彼が特に熱心に勧めたのはムーン・ストーンと名前は忘れたが黒くて光をあてると縦横に2本ずつ光の筋が入るなかなか美しい石だった。私にはこういうものの良し悪しはわからないが母親への土産なので、それほど深く考えずに黒い石のほうを買った。ほかにもいろいろ品物を見せてもらったのだが、やっぱり象牙製品が欲しかったので、ひとまず銀行へ行ってTCを換金して出直すことにした。銀行の帰りにベンガル州のエンポリウムをのぞいてみたが、さっきの店のほうが安かったので再びオベロイへ。まず象牙を使って作った小物入れを1つ買った。木彫製品もいろいろ見せてもらった。象牙も木彫もたいへん繊細な加工がなされている。さんざんいろいろ引っぱり出させた挙句、木彫の置物を3つとキーホルダー3個を買った。店員に100円ライターをあげて安くしてくれるよう頼んでみたが、あまり効果はなかった。今日、土産物に使った金額は568ルピー。一昨日の紅茶を含めると800ルピー近くになる。昨年、オーストラリアへ行った時の土産代とほぼ同水準だが、内容は今回のほうがはるかに上だと思う。

買い物も終わり腹も空いたのでサダル・ストリート界隈の中華料理屋へ行って食事をする。今日はもう手持ちの現金がないので、屋台に毛の生えたような小さな店に入った。そこではヨーロッパ大陸からバスを乗り継いでインドまで来たという日本人青年が中華丼を食っていた。私も彼が食べているVeg. Chow Chow Riceを注文した。値段は6ルピーで香港飯店と同じだが、味も量もこっちのほうが上である。飲み物はラッシー。中華丼とラッシーの組み合わせというのはいかにもカルカッタのチャイナタウン風である。ヨーロッパからの彼の話によれば、イランとイラクの国境は楽に通過できたが、インドとパキスタンの間を陸路で越えるのは面倒らしい。彼はそこだけ飛行機を利用したそうだ。近代化という点ではイラク、イラン、パキスタン、インドのなかでインドが最も遅れているとも言っていた。彼も間もなく帰国だそうで、これからタイ航空のオフィスへ行ってチケットを買うという。暇だったので、私もついていった。

タイ航空のオフィスは高級ホテルやレストランがテキトーに並ぶパーク・ストリートにあった。インドでは珍しく冷房が効いていて快適である。カルカッタから東京まで400ドル。バンコクまでは112ドル。彼は取りあえずバンコクまで行って、そこで改めて安いチケットを探すという。彼はモダンロッジに泊まっていて、宿へ戻るというので、途中まで一緒に歩いて行った。

ニューマーケットに立ち寄り、果物売りのオヤジに西瓜の値段を尋ねたら5ルピーだという。そんな高いはずがない。
「3ルピー」
と言ってみた。オヤジは思い切り顔をしかめてみせた。オヤジ曰く、
“This is a good one.”
西瓜じゃなく、オレンジにしようかなと思い、
「ハウ アバウト オレンジ?」
オヤジは
“Orange is not good. This is good.”
と言って、西瓜をひっぱたく。
「でも、高いよね」
すると
“4 rupie”
よし、買っちゃえ。
「オールライト アイル バイ イット」
するとすかさず
“You buy these banana? 8 rupies”
たぶんバナナ一房5ルピー程度だろう。それにしても高い西瓜を買ってしまった。

予定以上に買い物に時間と金を使ってしまった後、宿へ戻って荷物の整理をする。夕方、涼しくなってから明日の同じフライトで帰国することになっている佐賀君と佐藤君に会いにモダン・ロッジへ行ってみた。我々は航空会社負担でダッカに一泊することになっている。3人分の宿泊予約券の代表者名義が私なので、3人がまとまっていたほうが都合が良いのである。

モダン・ロッジは宿というより合宿所のようである。部屋が5つか6つあり、各部屋にベッドが2つないし4つある。客のほとんどが日本人で、帰国を直前に控えたやつが多いみたいだ。宿のオヤジにミスター・サガを訪ねてきたと言うと、宿帳をよこして勝手に探せという。それで佐賀君の部屋はわかったが、生憎、外出中だった。そこへ、コロンボまで同じフライトで来た井上君が外出から戻ってきた。ついでに、そこにいた何人かの日本人と少し話をしてから帰ることにした。みな格安航空券の類で来ているのだが、思いの外、航空券のトラブルが多いことに驚いた。入れたはずの予約が入っていないというのが最も一般的なものである。下痢で動けないやつもいた。これからハッシッシー・パーティーが始まるというので、井上君に明日の集合についての伝言を託して宿へ引き上げた。

夕食を終え、部屋で西瓜をたべようとしていたら、ドアをノックする音がする。
「ふー?」
“I’m your neighbor.”
「なんかよう?」
“I just want to talk with you.”
おかしなことを言う奴だ。無視してしまおうかとも思ったが、多少の好奇心もあり、両足を踏ん張って、恐る恐るドアを開けてみた。そこには20代後半から30代前半くらいの知的な風貌のインド人が立っていた。筑波の科学博に行くので日本についての情報が欲しいという。悪い人ではなさそうだったが、部屋に入れるのは気が進まなかったので、私が彼の部屋に行くことにした。同じ階にある彼の部屋は、中央に机、部屋のいたるところに本や雑誌が並び、その上、いつもドアが開け放たれていたので、宿のオフィスだと思っていた部屋だった。彼は日本のことを一番良く知るにはどこへいったらよいか、とか、生活費や交通費のことを知りたがった。やはり、日本を知るには東京が一番だと思うのでそう答えた。費用についてはインドとは比べ物にならないので、少々答えにくかった。ちなみに、彼の日本での滞在予算は4日間で7万円とのこと。去年、私が東北地方を旅行したとき10日で5万円ほどだったので、贅沢をしなければ十分である。結局なんだかんだと2時間ほど話をして午後10時過ぎに部屋に戻った。

さて、西瓜。割ってみたら熟していなかった。

大都市 カルカッタ

1985年03月15日 | Weblog
朝5時頃、向かいの博物館に住み着いているカラスたちの鳴き声で目を覚ました。今までインドというところは昼間がどんなに暑くても朝夕が涼しいので東京よりも住み良いかもしれないと思ったこともあったが、ここカルカッタは日が沈んでも気温が下がらない。おかげで目覚めた時には全身汗だくだった。シャワーを浴び、昨日の分の日記を書いているうちに7時半になったので朝食を食べに食堂へ降りた。

食事付の宿はインドでは初めてだったので、どんなものが出てくるのか楽しみだった。さすがに一泊130ルピーも出すと食事も立派で、オートミール、トースト、オムレツ、バナナ、紅茶という具合である。とにかく空腹というのはよくない。腹がへると心が落ち着かない。人間は空腹でない限り、たいがいのことには耐えることができると思う。昨年、オーストラリアを旅行してそう思ったし、歴史に残る革命の直接の引き金は人々の空腹である。フランス革命もロシア革命も太平天国の乱も主役は空腹な大衆であった、と思う。

今日はこれからタゴール・ハウスとカルカッタ大学にでかけた。まずは距離的に近いタゴール・ハウスへ向かった。カルカッタ市街の北部にあるので、なにはともあれ北に向かって歩いた。オベロイを過ぎ、リッツを過ぎ、エスプラネードを後にする。まだ地下鉄の工事が終わったばかりで、道路のアスファルトがはがされたままになっている。地図を見ながら、タゴール・ハウスのあるRABINDRA SARAINという通りに出るために、二つの目印を考えた。ひとつはB.B.D.BAG、もうひとつがナコダ・モスクである。ナコダ・モスクもRABINDRA SARAINにあるので、このモスクが見つかれば容易にタゴール・ハウスにたどり着くことができるだろうし、ナコダ・モスクはインドでも指折りの規模のモスクらしいので、すぐに見つけることができると思ったのである。

チョーリンギーを歩いて、エスプラネードを過ぎたところでGANESH CHANDRAを左折しB.B.D.BAGへ出る。近くのOld Court Houseの前にいたココナツ売りからココナツをひとつ買う。小粒で1ルピーだったが、実がついていなかったので損をした気分になった。ここで昨日、観光局で入手した地図を広げ、自分の位置を確認する。目指すRABINDRA SARAINがチョーリンギーの延長にあることがわかる。再び歩き出し、東京銀行の前を過ぎ、シティバンクを前にして右折し、RABINDRA SARAINに入った。あとはこの通りの右手に注意しながら北上するだけである。この通りは片側一車線しかない狭い通りであるにもかかわらず、路面電車が複線で走っている。人通りも激しい。路面も石畳がはがれていたり、陥没していたり、そこに水道管から漏れた水が溜まっていたりして、とても歩きにくい。このどうしょうもない通りでも数多くの屋台が営業しているのだから、インドの人々のエネルギーというのは驚異的である。YMCAを出て一時間ほど歩いて、ようやくナコダ・モスクの銀色のドームが視界に入ってきた。かなり大きな建物だが、道路に面しているところは商店になっているので、うっかり通り過ぎてしまった。ふと気がつくとドームと尖塔が自分の後ろにあった。しかし、タゴール・ハウスらしき建物は現れない。せめて住所があればよいのだが、そこまで調べておかなかった。だんだん道路が狭くなり、人通りも少なくなってきた。Cotton St.との交差点を過ぎたあたりに、果物の屋台ばかりがたくさん並んでいる一角があった。そのいかにも新鮮そうな西瓜やマンゴー、オレンジが視界に入ってきた瞬間、タゴール・ハウスのことはどうでもよくなってしまった。マンゴーはインドの代表的な果物だが、シーズンは4月から8月くらいだそうだ。カルカッタほどの大都市になると3月中旬でも豊富に出回るらしい。どの屋台にも山のように積まれている。私はどうしてもマンゴーというものが食べてみたくなった。通りに面した屋台のオッサンに値段を尋ねたら一個5ルピーと吹っかけてきた。私は値切るのは下手だが、下手は下手なりに努力してみた。しかし、奴は一歩も譲らない。そこへ地元の人らしい客がやってきて、やはりマンゴーを指差して何やら交渉を始めた。私は黙ってその成り行きを見守っていた。交渉は決裂したようだ。その客は何も買わずに立ち去ってしまった。インド人が交渉してもだめなのだから私がいくら頑張ってみてもどうなるものでもない。引き止める声を振り切って別の屋台へ行く。今度の屋台では言葉が通じない。爺さんに向かって「マンゴー!」と言いながら商品の山を指差す。爺さんが「これか?」というようにマンゴーの山を指差す。そうだそうだと頷くと、爺さんはしわしわの指を三本立てて見せる。天秤を取り出し、片方の皿にマンゴーを三つ、もう片方に重りを乗せて重さを量る。どう見ても釣合っていないのだが、彼はこのマンゴーに4ルピーという値段をつけた。まぁいいやと思い、黙って頷いて5ルピー札を出したら、紙袋に入ったマンゴーと1ルピー札をよこして首を横に振った。これはインド人のOKのサインである。私も彼に応えて首を振り、屋台を後にしてタゴール・ハウスへ向かう。この市場からさらに北へ歩いていくとK.K.TAGORE St.という通りにぶつかる。地図ではこの辺りにあるはずなのだが見当たらない。しばらくうろうろしてみると、この通りの5mほど手前に小さな路地があることに気がついた。路地の向こうに鉄格子の門があり、その向こうに赤レンガの建物が見える。門のところには貼り紙がベタベタと貼ってある。恐る恐る門を抜けると、通りの雑踏から切り離された静かで落ち着いた空間が広がっていた。庭を突っ切って正面の赤レンガの建物まで行くと、右手にタゴールの胸像があることに気がついた。どうやらここがタゴール・ハウスのようだ。人影はまばらだが、これでも大学である。大学の一部、即ちタゴールが暮らした建物がそっくり博物館として開放されているのである。階段をのぼって2階にあがるとガイド役の人が近づいてきて、いろいろ案内してくれた。タゴールが亡くなった部屋、彼の妻が亡くなった部屋、彼が書いた本、絵、手紙などが可能な限り生前の状態に近くして保存してある。小さな博物館だが、ガイド付のため、一通り見学するだけで1時間以上かかってしまった。見学してみて、タゴールが上流階級に属していたこと、インドで成功するためには財力とカーストに恵まれていることが必要であることを知った。

タゴール・ハウスを出たのは11時15分。来る途中、マンゴーを買った市場で小さな西瓜を買う。3ルピー50パイサだった。カルカッタ大学へ向かったが、Mahatma Gandhi RoadをChittaranjan Av.まで来たところで暑さと荷物の重さに耐えられなくなり、一旦宿へ戻ることにした。途中、G.P.O.に立ち寄りインドから出す最後の絵葉書を投函した。アメリカン・エキスプレスでトラベラーズチェックを換金し、宿へ向かって急いでいるとエスプラネードのところで日本人の女の子3人組みがお互いの写真を撮りあっていた。通りすがりに挨拶をしたらフリースクールストリートはどこかと尋ねられた。中華でも食べにいくのかと聞いたらそうだというので一緒に行くことにした。彼女たちは12日間のパックでインドへ来ており、おととい日本からカルカッタに入ったばかりだそうだ。今夜の列車でヴァラナシへ行くそうだ。香港飯店という店に行きたいというので店の前まで案内し、自分は同じ通りにあるHOW HUAへ行った。エアコンが入っていて店内は照明を落としてあり高級感を演出しているつもりのようだが、どこか大衆的な感じの店である。店の主人らしい中国系の人が注文をとりに来た。蟹と野菜の炒め物とご飯と中国茶を頼んだ。味はなかなかのもので、昨日の香港飯店よりもおいしかった。中華にすっかり満足して宿に戻ったのは午後3時過ぎだった。3時のおやつというわけでもないのだが、さっそくマンゴーを食べてみた。皮は薄く、果実は少々臭みがあるがみずみずしくて美味である。西瓜はシャワールームのバケツに水を張ってそこで冷やして明日の朝にでも食べようと思う。

4時過ぎ、Map Sales Officeに行って土産に地図でも買おうと思った。手元にあるガイドブックによればPark St.にあるはずなのだが、いくら歩いてもそれらしいものを見つけることができなかった。仕方が無いので予定を変え、プラネタリウムを観ることにした。

レクチャーはヒンドゥー語、ベンガル語、英語の三ヶ国語で行われ、英語の回は午後6時半からとのことである。まだ時間に余裕があるので、近くのヴィクトリア・メモリアルに行ってみた。これはヴィクトリア女王の即位を記念し、タージ・マハールを模して建設したものでシンメトリックなデザインである。もう内部の開放時間は過ぎていたので外から見るだけになってしまったが、広大なものなので時間つぶしにちょうどよかった。

プラネタリウムの入場料は5ルピーもする。レクチャーは30分しかなく、内容も寂しいものだった。外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。街灯は暗くてその用を成さず、時々無灯火の車が走っているので通りの横断にも昼間以上に用心しなければならない。そんな夜道を歩いて宿に戻ると夕食の時間であった。食堂に行くと、今朝、宿の前で見かけた日本人がいた。彼はDSTのカルカッタ往復便で来ていて明日帰国の途に着くそうだ。出川君も明日インドを発つ。そこで、私は今日買った西瓜とマンゴーを二人に振舞うことにした。3人で西瓜とマンゴーを食べながら夜遅くまで旅の思い出を語り合った。

やっと着いた カルカッタ

1985年03月14日 | Weblog
列車は午前8時50分、ハウラー駅のホームに滑り込んだ。ここで出川君と別れ一路YMCAを目指す。駅から一歩外へ出ると正面でオバちゃんがココナツを売っている。空腹のあまり、吸い寄せられるように近づき、ひとつ買い求めた。南のものより小粒だが味は同じである。一息ついたところでトラムに乗ってカルカッタ市街へ向かう。トラムは二両編成で一両目が一等、二両目が二等車である。料金も当然別なのだが、見た目はたいして変わらない。ちょうど朝のラッシュ時間帯で、私が乗った一等もかなり混雑していた。私は荷物を椅子の下に収めて座っていた。すると私の斜め前方に立っていた男性が私に対して怒りだした。私の前に立っている婦人に席を譲れという。インドはレディファーストなのだそうだ。今日、初めて知った。トラムはのろのろと走っていたが、ハウラー橋を渡りきったところでとうとう前がつかえて動かなくなってしまった。交通事故があったらしい。仕方なくトラムを降り、数珠繋ぎになっているトラムに沿って歩いてゆくと、トラムの列の一番前でトラックが横転していた。これはもう歩くしかないのである。道に沿っていろいろな屋台が並んでいる。ココナツ、サトウキビ、生ジュース、などなど。こういう風景を見ているとなんとなくほっとする。市電と市バスのターミナルであるエスプラネードまで来るとホテルリッツやオベロイグランドホテルが見えてくる。オベロイの前を通り過ぎると間もなくYMCAである。オベロイやYMCAが並ぶチョーリンギー通りは古くから栄えていたらしく、沿道に並ぶ建物はどれも古めかしくてなかなかいい味を出している。オベロイといえばカルカッタ屈指の超高級ホテルだが、見た目は古ぼけたヨーロピアンスタイルの普通のホテルである。中から数名のお供を従えたお偉いさん風の日本人が出てきて、ホテルの前に止めてあった日本車に乗り込むのを見ると、やはり高級なのかなと思う。YMCAも古い建物である。一泊二食付で130ルピー。ちょっと高いが、インドの旅はここで終わりである。懐に余裕もあったのでここに泊まることにした。値段が高いだけのことはあり、天井も高く、部屋の手入れも行き届いていて清潔である。まずは満足である。荷物を置いてすぐにビーマンのオフィスへ行く。

航空会社のオフィスも鉄道のリザベーションオフィスも職員が横柄で非効率である点は同じである。予約客の管理がコンピューター化されていないことにも驚いた。あいにく、カウンターは全てふさがっている。待つこと数十分。その間、日本の若いツーリストが次から次へとやって来た。格安航空券でインドへ来た人はビーマンを利用するケースが多いらしい。どの顔も不安そうである。ビーマンは日本人ツーリストの利用が多いだけに、かえってそのいい加減な事務が悪い評判となって広まっているらしい。そうこうしているうちにカウンターが空き、私の番になった。ここにいる日本人のなかで、私が最初にカウンターに座るのである。たちまち他の日本人ツーリストが私の背後に群がった。幸い、私の予約再確認作業は滞りなく完了した。あとは当日、出発2時間前までに空港へ行くだけである。

宿へ戻る途中、道端で売っていたココナツとバナナを買った。宿へ戻ったら洗濯である。

昼ごはんは、宿の裏手、フリースクールストリートにある香港飯店という中華料理屋で食べた。カルカッタは華僑が多いところで、この界隈には数多くの中華料理屋がある。香港飯店の店内はいくつかの個室に分かれていて、音はすれども姿は見えない、妙な雰囲気である。”Egg Chow Chow Rice”というのを注文した。中華丼だった。味はまあまあである。絵葉書が欲しかったので、食事の後、ニューマーケットへ行ってみた。たいへん大きな市場だが、観光客が多いせいか値段が高い。絵葉書一枚1ルピーもする。今までの倍である。それに、客引きがうるさい。とてもおちついて買物などしていられない。ここを出てチョーリンギーを歩いていてもやはりうるさい。外貨の交換、マリファナ100gで15ルピー、何か売るものはないか、などなどいろいろ声をかけてくる。そんな声の間を通り抜けて国立博物館へ行ってみた。上野の国立博物館のようなスタイルの建物だが、中はちょっとひどい。内部に鳩が住みついていて、展示物が糞で汚れていたりする。それでも、ニューデリーの国立博物館に比べると立地が良いせいか人が多い。かなりいい加減に見て歩いたが、それでも1時間半ほどかかった。もう時刻は4時半。ツーリストインフォメーションへ行って市街地図を手に入れる。

国立博物館の南側にはパークストリートやチョーリンギーストリートに沿って航空会社のオフィスが並んでいる。地下鉄の駅もある。ここの地下鉄がインド唯一の地下鉄である。1971年に着工し、昨年11月になってようやく中心部分の4kmが開業にこぎつけた。地元の人々にとっては縁が薄いところらしく、人影はまばらである。そんな地域の一角にブルックボンドの本社がある。せっかくなので本場インドの紅茶を有名なブルックボンドの本社で購入しようと思った。門のところで守衛に入館証を書いてもらい、中へ進む。受付の人に紅茶を売っているのはどこかと尋ねると2階(”second floor” つまり3階)だというので上がってゆく。それらしい雰囲気ではないので通りがかりの社員に尋ねると奥へ通された。机や椅子の間を縫ってセールスマネージャーのところへ行き、紅茶を買いたい旨を告げる。彼は机の下から”SPUREME”という表記のある赤い缶を取り出した。これは500g入りで船便で日本に送ると104ルピー30パイサもする高級品である。売店のようなものを勝手にイメージして、ただショーウィンドーを眺めるつもりで来たのに、こうしてセールスマネージャーと向かい合うと買わないわけにはいかない雰囲気になってきた。それで2缶注文してしまった。注文を終えて帰ろうとしたら、コロンボまで一緒だった佐賀君がやって来た。こんな場所で再会するとは思いもよらなかった。彼が紅茶を買うのを待って、一緒にサダル・ストリートまで戻り、食堂でジュースを飲んで、17日午前8時にYMCA前で待ち合わせることにして別れた。

佐賀君はスリランカで一週間過ごし、ボンベイへ飛んでエローラ、アジャンタ、アグラを経てカルカッタへやって来たそうだ。スリランカのほうがインドよりものんびりできて良かったとも言っていた。彼もビーマンのリコンファームが心配でカルカッタに早めに来たそうだ。病気もせず、元気にカルカッタの街を歩き回っているという。彼が泊まっているのはサダル・ストリートにあるモダン・ロッジだそうだ。

宿に戻って絵葉書を書いているうちに眠くなってきた。目が覚めると午後9時だった。せっかくの夕食を食べ損なってしまった。一泊130ルピーも払って肝心の食事を食べ損なうとはドジな話である。今さら外に出る気もしないので、このまま寝ることにした。

ガンジス川のガート

1985年03月13日 | Weblog
何事も度を過ぎるというのは良くない。昨日は昼寝をしすぎたのでよく眠れなかった。午前6時頃起き出して、荷物をまとめ、7時頃には荷物を部屋に残してガートへ向かう。

結局、一時間半歩いた。はじめの40分は比較的人通りの多い賑やかな通りなのだが、やがて迷路のような路地に入り込む。手元の地図はあてにならず、自分の方向感覚を頼りに歩く。交差点や分岐点では、迷った時に引き返せるよう、目印となる建物や看板を逐一頭に叩き込む。なんとも心もとなく、外人ツーリストとすれ違うと妙に安心してみたりする。そんなふうに歩いてゆくと路地の向こうに明るい光が見えた。水面に陽の光が反射しているのである。なんとかガンジス川にたどり着いた。さっそく遊覧ボートの客引きが近づいてくる。もちろんそんなのは無視する。さすがに聖地というだけあって、その風景には心を和ませるものがある。三途の川というのはきっとこんなふうなのだろう。ガートに腰掛けてぼんやりと川を眺めてみる。沐浴に来ている人たちもなんだかんだと話しかけてくる。子供も多い。ここはあまり有名なガートではないようで、観光客は私の他に、ガイドを連れてビデオカメラをぶら下げた白人の老人だけであった。彼はビデオの撮影を終えるとすぐにどこかへ消えてしまった。ガートの下では家族連れが沐浴をしている。奥さんらしい人が私に手招きをして、その手で水面を指す。一緒に沐浴をしろということらしい。「ナーヒン!ナーヒン!」と叫んで手を横に振る。笑っていた。背後から小さな男の子が近づいてきた。私の顔を覗き込んでなにやら話しかけてくるのだが、私にわかるはずがない。ただ、「キャ」という音で始まっているので疑問文であることはわかる。「ごめんねぇ。わからないんだよ。」と言ってやる。すると彼は「ABCの歌」を歌い始めた。言葉は通じなくてもこうしているととても楽しい。こうして1時間ほど過ごし、宿へ戻ろうとガートを後にした。沐浴をしていた家族の男の子が走って追いかけてきた。立ち止まって振り返ると彼も止まった。「Good-by」そう言って手を振ると、彼は黙って微笑んだ。

来るときに通った細い道を歩く。来た時より人出が少し多くなっている。急にトマトが食べたくなって屋台のオッサンにトマトが欲しいと言ったが通じなかった。別の屋台のニイチャンに言ったら、とんでもない値段をふっかけてきたので、トマトはあきらめた。大通りは人で溢れていた。通りが人の頭で黒い筋のように見える。来る時は商店がまだ開店していなかったのだが、今はどこも営業中である。魚屋の店先には名前もわからない川魚がゴロゴロしていたり、切り身になって並んでいたりする。それはたいへんグロテスクな風景だが、それに輪をかけてグロテスクなのが肉屋である。店先には四本足の比較的小型の動物が皮を剥がれてぶら下がっているのだが、それが私には犬に見えてしょうがないのである。インドの町にはたいへん犬が多く、至る所で犬の死骸に遭遇する。生きている犬はどれも不健康そうで、毛の色艶が悪い。

暑いなかを歩き続けたので喉が渇いた。学校が近くにあるらしく、制服姿の子供たちが道を急いでいる。彼等の流れが吸い込まれてゆくところが校門であった。その前にはかき氷の屋台が出ていた。大きな氷の塊を鑿のような刃物で削り、それを素焼きの容器に収めてシロップをかけるのである。25パイサだったが、量が少ないので割高な感じがした。駅前の果物屋を覘いて見るとパパイヤが目に付いた。小さいのを計ってもらったら2ルピーだった。これを買って昼飯にすることにした。

宿へ戻ってパパイヤを食べた。一個を丸ごと食べるのは初めてである。まだ十分に熟していなかったが、かえってあっさりとした甘さが心地よい。しかし、食べ終わってみると、さすがに物足りなくて、再び駅前へでかけ、食堂で定食を食べることにした。

朝のうちは午後からサルナートへ足を伸ばすつもりでいたが、この暑さですっかり出かける意欲を失ってしまった。駅のホームとホームを結ぶ連絡橋の上でサルナートへ行こうかリタイヤメントルームで昼寝をしようか考えてみた。とにかくホームにいるのは耐え難い。蒸気機関車が通るたびに煙に襲われるのである。これから夜行の旅が始まる。いくら休養を取っても取りすぎるということはない。結局、リタヤメントルームへ行った。3時間ほどしか使わないのに10ルピーも払うのはアホ臭い気もしたが、この炎天下を歩き回るよりマシだと思った。リタイヤメントルームを利用するのは初めてだったが、評判どおり清潔で気持ちよかった。

午後4時半にホームへ出た。日本人が3人ほどいた。その一人である出川君は東大の教養学科の学生で、今春卒業するのだそうだ。日興で私の同期となる永岡君やソニー英会話教室で机を並べた若林君とは知り合いだそうだ。世の中結構狭いもんだと思ってみたりする。

カルカッタへ向かう列車のコンパートメントは出川君と一緒だった。いつものように、コンパートメントには定員を上回る数の客が乗っていたが、4人を残してみな途中で下車してしまった。席が決まるとすぐにボーイが食事の注文を取りに来た。チキンカレーとオムレツから選ぶようになっている。二等車では無条件でターリーだったのに、一等車ではえらく待遇が良くなった。昼にカレーを食べたので、オムレツを選んだ。しばらくして運ばれてきたのは、オムレツとトースト2枚、ポットに入った紅茶だった。食器も陶器で、上品な感じがした。

違うといえば、一等のコンパートメントは広々としていて、しかも定員は二等よりも少ない4名である。寝台には読書灯もついているし、扇風機は風力の切り替えができる。二等に比べるとはるかに快適である。ただし、埃に関しては状況はあまり変わらない。とにかく、これを最後にインドの鉄道とは縁が切れるのがなによりもうれしい。明日はいよいよカルカッタである。

ヴァラナーシー 1日目

1985年03月12日 | Weblog
朝5時頃目が醒めた。ビニールシートに包まって寝たのは正解だった。寝台も、その上に置いてあるカバンも、露出していたものは埃で白っぽくなっていた。列車は定刻より5分遅れて午前6時30分にヴァラナーシー・カントメント駅に到着した。まだ時間が早くて商店が開いていないので、しばらく駅で時間をつぶす。昨日の残りのバナナを食べ、駅前の屋台でチャイをすすりながらチャパティを食べる。なんと立派な朝食だろう。セカンドクラスのリザベーションはもうオープンしていたが、ファーストクラスは8時半からである。たぶんセカンドクラスの予約はかなり先まで詰まっていると思い、最初からファーストクラスでカルカッタへ行くつもりでいた。8時頃、リザベーションの窓口に並んだ。私の前に並んでいるおじさんはロンドンから来たという。キャンセル待ちで何度か駅に足を運んでいるらしい。英国籍なのだがインド人で、今は仕事の関係でこちらへ来ているとのことである。彼はインドの鉄道の非効率さに立腹していた。イギリスでもアメリカでも、こんなに客をないがしろにすることはありえない、などと憤懣やる方無いといった様子であった。私はインドという国はこういう所なのだと思っていたのだが、こうして怒っているインド人を目の前にしてみると、やはり改善すべきは改善したほうが良いのかなとも思う。日本の国鉄もひどかった。当然のようにストは打つし、駅員の態度は横柄だし、でも、ダイヤは正確である。駅員の態度は、民営化が近づいてきて、ちょっと腰が低くなってきたような気がする。インドの鉄道はこれから変わるのだろうか。

列車の切符は手に入った。これで14日の午前中にはカルカッタに到着できる。あとはビーマンのリコンファームが済めば、日本に無事帰ることができそうである。切符を買ってから、駅の構内にあるツーリストインフォメーションでベナレスの地図をもらい、宿も教えてもらった。

教えてもらった宿は駅のすぐ近くにあるはずなのだが、なかなか見つからない。だんだん陽が高くなり暑くなってくると疲労がたまってくる。いろいろな人に道を尋ねるのだが、答えが一致しているとは思えないのである。革製品の工場のオヤジ、ガソリンスタンドのオッサン、タバコ屋のニイチャン、チャイ屋のボウズ、などなど。結局、暑くて、疲れてどうしょうもなくなって、その時、目の前にあった宿屋に入った。幸い、部屋はいくつか空きがあり、一泊35ルピーだというので、ここに決めた。ところが、案内された部屋のトイレが詰まっていた。あわててフロントへとんでいき部屋を換えてもらった。これでホット一息である。

ほっとしたところで、そのまま眠ってしまい、眼が覚めたら午後5時頃になっていた。まだ、外は暑い。駅前へ出かけて行って、そこらに並んでいる屋台で腹ごしらえをする。茶パティだけというのも寂しいので、じゃがいもをつぶして団子状に丸めたものをカレーに漬けたもの、同じものをカレー味にして焼いたものを食べてみた。なかなかおいしかった。ガンガーへ行くには時間が遅いので、宿の近くをうろついてみた。今まで歩いた町に比べると道も狭く、家並みも低く、いかにも田舎っぽい。しかし、田舎といえども聖地であり、人はやたらに多い。1時間ほどブラブラして、駅前の果物屋でみかんを買って宿へ戻る。戻る途中、奇妙なものを売っているのに出くわした。おおきなトカゲを焼いて、そこから出てくる肉汁を瓶詰めにして売っているのである。なんだこりゃ!

宿に戻って洗濯をし、それからシャワーを浴びた。髪を洗ったら泥水が出てきた。

ニューデリーからヴァラナーシーへ

1985年03月11日 | Weblog
朝9時にチェックアウト。列車の時間までまだかなりあるので荷物を駅のクロークに預けようと駅へ行く。生憎、クロークの前には長蛇の列。このまま荷物を担いで1時まで頑張ることにした。

駅でかわいらしい日本人の女の子に出会った。DSTで昨日ニューデリー入りをして、今日から一人でまわり始めるという。今日はこれからアグラへ行くとのことだった。切符は買ったが予約はしていないというので、リザベーションオフィスへ行くことを勧めておいた。今日これから行くのだから予約など取れるはずもない。でも、インドでは乗車券の他に座席指定が欲しければ改めてリザベーションオフィスへ行く必要があることを教えてあげたかったので、敢えて予約云々と言ってみたのである。ニューデリーではファーストクラスとセカンドクラスのオフィスが別棟になっており、彼女が必要としているのはファーストクラスなのだが、建物が見つからない。仕方なく、先に両替のためにコンノートへ行くことになった。ただ、チェックの発行体が私のはアメックスで彼女のが三菱銀行だったので、同じ銀行では両替できず、コンノートで別れることになった。8日に会った京都のOLさんも三菱銀行だったが全く不自由はなかったという。私のは、マドラスの空港でいきなり両替拒否に遭い、けっこうたいへんだった。銀行で1039ルピーという大金を久々に手にし、このあいだコンノートで会った日本人のグループが言っていた「コーヒーハウス」というレストランへ向かった。名前はいかにも気軽に入れそうだが、構えは高級そうだった。メニューを見ると印刷ミスではないかと思われるほど高かった。そのなかで一番安かったのがマンゴージュースのスモールだった。安いといっても5ルピーである。でも、さすがにおいしかった。ここを出てからまたセントラルパークへ出かけてみた。日本人らしい人はいなかったがバナナ売りが何人か店を出していた。1ルピー分だけ、と言って2ルピー札を出したら3本よこした。適当なところに腰をおろし、バナナを食べ始めると、さっきのバナナ売りが連れていた小さな女の子がやって来た。私が支払いに使った2ルピー札を差し出し、
This is not good.
という。インドでは古くてしわくちゃになった札は受取を拒否されることがしばしばある、とは聞いていたが、自分が経験するのはこれが初めてだった。ポケットからさっき銀行で手に入れたばかりの新札を出したら、その子は飛び上がって喜び、母親のところへ飛んで帰っていった。思わず私の頬も緩んでしまった。

列車の時間まではまだ余裕があったが、やることもないし、暑くなってきたので駅へ移動することにした。歩いていると太ったインド人が日本語で話し掛けてきた。またか、と思ったが商売を仕掛けてくる様子もない。彼の言うには、彼の兄弟の一人が日本人女性と結婚して大阪に住んでおり、たいへんハッピーなのだそうだ。彼自身も4月に日本へ行くという。職業を尋ねたら、カーペットの輸出をしているそうだ。彼の事業が順調であることは、その天真爛漫な顔つきと、腹が雄弁に物語っていた。

駅前の市場でバナナを一房買って駅の待合室に入る。このバナナは今日の昼食と夕食である。待合のベンチに座ってチャイを啜っていると隣のオジサンが話し掛けてきた。
「インドの町はオマエの国の町とずいぶんちがうか?」
「全然違う」
「インドの料理はオマエの口に合うか?」
「たいへん辛いが、おいしいと思う。」
「ほう、そりゃ珍しい。ところでオマエはどこから来た?」
「日本だ。」
「東京か?」
「そうだ。」
「大学生か?」
「そうだ。」
「東京大学か?」
「いや、違う。」
「じゃぁ、どこだ?」
「○○だ。」
「あぁ、そうか、○○か。」
「知っているのか?」
「うん。兄弟が東大で教えているから、東京の大学のことはいろいろ聞いている。」
というような会話だった。インド料理といっても、これだけ大きな国ともなると地域によって様々である。一般に南へ下るほど味付けが辛くなる。このオジサンは人と待ち合わせでもしているのかしきりに時間を気にしていて、ほどなくどこかへ行ってしまった。もう1時なので私もホームへ出ることにした。ホームには既に私の乗る列車が入線していた。自分の乗るコーチは幸いにも階段を下りてすぐのところにあった。入り口に貼られたリザベーションリストには確かに私の名前があった。列車は定刻どおり13時40分に動き出した。

私の寝台は上段だった。どんなに混んでいても寝る場所が確保できるという点では良いのだが、狭くて頭が天井につかえてしまうのと、扇風機に近すぎるのが難である。このコンパートメントは、私と家族連れによって占められているのだが、検札が終わると例によってチケットもろくに持っていないような連中が入り込んできた。気が付けば定員6人のコンパートメントに10人座っているのである。その不法侵入っぽい連中のなかに、ビーチサンダルを大量に持ち込んできた人相の悪いニイチャン二人連れがいた。

インドの列車は何故か駅でもないところでしばしば停車する。今日はたまたま砂糖黍畑の真っ只中で停車した。早速、何人かが列車から畑へ飛び出してゆき、それを見て次から次へと畑へ人が出て行った。そして、誰もが何本かの砂糖黍を手に列車へ戻ってくるのである。みな思い思いにもぎたての砂糖黍をしゃぶっている。汽笛が鳴り、列車が動き始めると、畑から列車へ人々が走って戻ってくる。私のいるコンパートメントのサンダル屋もそうした砂糖黍泥棒の一味である。彼は私の寝台で昼寝をしている相方に1本、自分用に1本、計2本の砂糖黍を持って戻ってきた。昼寝をしていた相方は目が醒めると砂糖黍にむしゃぶりつき、私が寝るはずの寝台は砂糖黍のしゃぶり滓だらけになってしまった。当然のことながら、彼等は後片付けもせず、途中の駅で降りてしまった。インド人の公共心の無さは日本人以上である。

砂糖黍の喰い滓はなんとか片付けたが、さすがにここにじかに寝る気はしない。こんなとき、持参してきたビニールシートが役に立つ。もともと安宿の南京虫対策として持参したのだが、幸いなことにこれまで使う機会がなかったのである。これに包まって寝れば扇風機の風を直接受けることもないので風邪もひかずに済む。まだ外の景色を眺めていたかったのだが、夕方になって寝台を占拠され、寝たいのに寝ることができないという事態は避けたかったので、早々と寝台に上がってしまった。間もなく、少し大きめの駅に着いた。大きな荷物を担いだり引き摺ったりしながら乗客が降りたり乗ってきたりする。車内はたちまち埃にくもり、乗降が一段落した後もモヤモヤしている。そのモヤモヤもおさまった頃、列車は駅を離れた。すると、さきほどの駅から乗り込んできた車内販売のオッサンが営業をはじめた。

彼は大工が使う道具箱のようなものを担ぎ、なにやら商品名を連呼しながらうろうろしている。どうやら「ダヒー!」と言っているようだ。その箱にはダヒーつまりヨーグルトが収まっているのである。寝台の上から他の客が買うのを見ていたら、箱のなかには凍ったヨーグルトの塊と天秤が入っていて、そのヨーグルトを計って1ルピー単位で売るのである。私も彼を呼び止めた。「ダヒー!」手馴れた手つきでヨーグルトの塊を1cmほどの厚さに切りとり、天秤に計って、新聞紙の切れ端に載せ、木のスプーンを添えてよこした。ぱっと見は葛餅のようでもある。これが1ルピーであった。しかも美味。

4時頃から少し眠り、目が醒めたら午後7時を回っていた。周りの人々は食事の真っ最中である。私もニューデリーの駅で買ったバナナを取り出し食べ始める。バナナだけの食事というのも少し寂しいが、毎日というわけでもないので気にしない。

アグラへ日帰りツアー

1985年03月10日 | Weblog
朝5時に起きて荷物をまとめてロビーへおりた。宿代を清算したら25ルピーの追加を要求された。何の料金だろうと思って尋ねると昨日の昼食代だという。昨日、ボーイに払った25ルピーは奴の懐に直行してしまったのである。おかげで、今は25ルピーだけしか手元に残らず、このままアグラへの日帰りツアーに参加することになった。

6時20分に来るはずのバスは、やはり遅れ、7時近くになってやってきた。デリー市内のホテルをまわって客をピックアップすると、バスは順調に田園地帯を走り、昼過ぎにアグラ市内に入った。

大河をはさんでアグラ城とタージ・マハールが対峙しているように見える。実際には川の同じ側にあるのだが、川が大きく蛇行しているのでそのように見えるのだ。バスはアグラ城に止まった。城のなかにはモスクがあったり、巨大な宴会場があったり、まるでひとつの宇宙のようである。大理石がふんだんに使われている。マイソールで見学した寺院や宮殿にも大理石でできたものが多かった。外がたいへん暑くても大理石で囲まれた城の内部はひんやりとして気持ちが良い。

タージ・マハールは思っていたよりずっと大きかった。これはシャー・ジャハンというムガル帝国の王様の奥方の墓である。日本の古寺のように塀で囲まれ、そのなかに宇宙を示唆する伽藍の配置がなされている。本殿を中心にシンメトリックに副殿が配され、敷地の中央には十字に水路が掘られて、建物が水面に映り、上下にも対称なのである。細かいところまで入念に作られており、世界一美しい墓ではないかと思う。アグラにはこうした名所の他にも朽ち果てた寺院跡が目立つ。これはこの地がかつて栄えていたことの名残なのであるが、現在でも工業の拠点として重要な位置付けにあるのだそうだ。ただ、工業化に伴う大気汚染も深刻で、タージ・マハールも傷みがひどいらしい。ただ見た目にはどこがどう傷んでいるのかさっぱりわからない。

ここもインドの他の観光地と同じく、しつこい物売りがたくさんいる。アグラ城の前におもしろいお婆さんがいた。とても元気で、観光客の前に立ちはだかって強引に鞭を売りつけていた。すごい迫力で、外国人であろうとインド人であろうと相手かまわず鞭を売ってしまうのである。こういうところの物売りは外国人を狙い、つまり安易に流れる傾向が強いのだが、この婆さんはそういう妥協をしないのである。バスのなかから彼女の商売を眺めていたら、こちらへ向かってきた。もうバスは動きだしている。窓の外では、大理石でつくった小物入れを私に売ろうとしているオヤジがいたのだが、婆さんはそのオヤジを払いのけると私に向かって叫んだ。
「イチライター!」
思わずポケットから百円ライターを取り出して彼女に差し出してしまった。次の瞬間、ライターを差し出した私の手には革製の鞭が握られていたのである。すばらしい商売人、プロの技を見た思いだった。それにしても、私はこの鞭を何に使ったらよいのだろう。

今回のバスツアーでも私が唯一の外国人であるようだった。私の隣と後ろの数列がバンガロールから来た家族連れ。通路をはさんで向こう側が同じくバンガロールから来た学生。その前の二人はデリー在住の夫婦。なんとなく居心地のよいバスであった。これまでに参加した2回のバスツアーに比べると時間に余裕があり、気候も穏やかで快適だった。これで懐具合に余裕があれば申し分がないのだが、何かしら難があるのがインドの旅なのである。しかし、この点については昼食を8ルピーでクリアし、峠は越えた。

道中、隣の席のおじさんとはよく話しをした。彼はバンガロールのメディカルスクールの先生なのだそうだ。ヨーロッパを旅したこともあるといい、海外の事情には確かに明るいようだった。「ナカソネはうまくやっているか?」などと尋ねられた時には狼狽してしまった。

タージ・マハールの次の見学地はモスクだった。停車時間も短いし、もう寺院はたくさんだという気持ちもあり、バスの近くの木陰で一休みすることにした。今日はクリケットの試合があるようで、客のなかには木陰でラジオに耳を傾ける人も少なからずいた。

バスはアグラを後にしてマトゥラーへ向かった。マトゥラーではヒンドゥー寺院を見学するのだが、みんな疲れてしまったようで、それぞれ好き勝手に散ってしまった。せっかくガイド付なのにガイド氏もやる気を失い、4~5人で寺院のなかを見学する。この寺院は1956年に建立されたが予算の都合でいまだに未完成な部分を残している。寺院は街を見下ろす高台にある。いかにもインドの門前町というのんびりした感じがあたりに漂っている。ひとりでバスへ戻ったらまだ誰もいなかったので通りへ出てみた。食堂や土産物屋が並ぶ賑やかな通りである。ここで日本人二人組と出会い、一緒にラッシーを飲むことになった。しばし話し込んだ後、バスへ戻ると、バスがいなくなっていた。

別のバスの運転手に聞いたら、ちょっと前に出発したよ、と物憂げに答えてくれた。とりあえず私は走り出した。道路は渋滞している様子もなく、どんなに走ったところでバスに追いつくはずはなかった。そこで、駅へ行って鉄道でニューデリーへ行こうかと思ったが、駅は自分の視界には全く入ってこなかった。そこで、別のバスに便乗させてもらおうと考え、さっきまでバスが停まっていた寺院の駐車場へ戻ろうとした。ところが、よほど一生懸命走ったらしく、ちょっと歩いたくらいでは寺院の姿が見えてこない。太陽は既に西へ傾き、あたりは無情にも暗くなる。この際、バスでもなんでもいいから交通手段を確保するしかない。踏切の脇に立ち、徐行する車を手当たり次第止めようと試みた。
1台目 乗用車 ダメ
2台目 バス ダメ
3台目 ダンプ ダメ
4台目 バス とにかく停まってくれた。
私はバスツアーの半券を見せながら、自分が日帰りバスツアーでニューデリーから来たこと、そのバスに乗り遅れて困っていることなど大声で頭上のバスの窓に向かって話した。すると、バスのドアが開き、じゃぁ、乗っていきな、ということになった。これでとりあえずニューデリーには戻れる。まずは一安心。今日、宿を換える予定だったので荷物がバスのなかに置きっぱなしだったのだが、そのことをこのバスの乗務員に言ったら、バス会社がわかっているから心配はないとのことだった。しばらく走って、バスがマトゥラーの町を出たあたりで私が乗っていたバスに追いついた。そのバスは路肩に停車し、バスの外で数人の乗客と乗務員がなにやら議論している最中だった。

私は乗せてくれたバスの人たちに礼を言い、その議論している人々のところへ近づいていった。もう、「I’m sorry」を連発する以外なにも言葉が出てこなかった。みんなの顔が私のほうを向き、ある人はやれやれというような表情を見せ、ある人はニコニコし、議論は止まった。みんなで私を拾いにマトゥラーへ戻るべきか否かを話し合っていたのだそうだ。バスに乗り込み、みんなの前で「I’m sorry, everyone.」とにこやかに言うと、何故かドッとうけた。私の席は後ろのほうだったので、そこへたどりつくまでの間、花道を往く相撲取りのように、みんなから肩や尻をたたかれて実にいい気持ちだった。なんとも言えないあたたかな雰囲気で、その場の空気はきっと生涯忘れないのではないかと思われた。

これを機に隣のオジサンとの会話も一層弾みがついた。インドからの帰路について尋ねられたので、私もインドと韓国の外交関係について聞いてみた。大韓航空がインドに乗り入れていれば、面倒な乗り継ぎをせずに済むのに、インドへはスリランカでエア・ランカに乗り換え、インドからはバングラディシュ国営航空でバンコクまで行かなければならないのである。彼曰く、インドはイスラエルと南アフリカを除く全ての国と何らかの関係があるそうだ。彼は、日本の選挙での平均的な投票率、電話の普及率、食生活、住生活など我々の生活のあらゆる面に興味を持っていろいろ尋ねてきた。私も自分のわかる範囲内のことは一生懸命答えたつもりである。日本のことについてこんなにたくさん語ったのは初めてであった。

帰路は1回だけ夕食のための休憩があった。もう金がなくてもなんとかなるので、バナナとみかんをそれぞれ1ルピー分ずつ買い、水飲み場で水を飲んで夕食にした。ポケットに残ったのは6ルピーだった。休憩中、バスの斜め前の席にいたオジサンから文通してくれと言われた。彼とは道中一度も話をしていなかったので少し驚いたが、快く応じた。彼はデリーで会計事務所を経営しているそうだ。外国の様々な文化を知るのがおもしろくて文通を趣味にしているそうである。

バスはニューデリーに着いた。今度の宿はニューデリーの駅から近いので、夜遅い時間だったが歩いていくことにした。宿の看板が見え、もう少しで着くというとき、数匹の野良犬に取り囲まれてしまった。引き返して、近くで立ち話をしていたオッサンたちにあの犬どもをなんとかしてくれと頼んでみた。お安い御用といわんばかりに、そのオッサンのひとりが犬を追い払ってくれた。

宿の部屋は1泊100ルピーとは思えないくらい汚く、不快だった。あのリクシャー野郎め、この恨みは忘れない。

ぼったくられる

1985年03月09日 | Weblog
宿を移ろうと思い、荷物の整理をしていると午前9時頃にあのリクシャー運転手がやって来た。昨日、約束をすっぽかされた割に、相変わらず陽気で少々気味が悪い。宿を変えることを話すと、紹介してやるという。彼が紹介してくれた宿はコンノートの中にあった。一泊150ルピーと高いのだが部屋が清潔なので決めることにした。

その後、彼にクトゥブミナールへ連れて行ってもらった。たいへん有名な場所なのでさぞかし観光客がごった返しているだろうと思ったら、そうでもなかった。朽ち果てた寺院跡というせいもあり、どこか侘しい風景であった。どことなく、奈良の古寺に雰囲気が似ているように思われた。

再びコンノートに戻り、アグラへの日帰りバスツアーの予約をしたり、駅へ行って列車の切符の確認をしたり、明後日の宿の予約を入れたりして宿へ戻った。宿の近くの酒屋でビールを強請られた。この運ちゃん、ちょっと厚かましくなってきたなと思った。ホテルのルームサービスで昼飯を一緒に食べ、宿のボーイに法外なチップを払えと言い出した。とうとう本性をあらわした。親切にしてはしつこいと思っていたが、ちょっと気を許しすぎた。そもそもリクシャーの運ちゃんと大学生というのは両立し得ないのではないか。ここでは、学生というのはエリートなのではないだろうか。リクシャーワーラーから銀行員への転進などあり得ないのではないだろうか。確かに、彼の身なりはきちんとしていた。そこそこのスニーカーを履き、ちゃんと靴下も履いていた。だが、ニューデリーでは果物売りの屋台のオヤジだって靴を履いているのである。これまで旅してきた地方都市とは明らかに違う場所である。もっとはやくこんなことに気づくべきだった。そして、私が責められるべきことは、心にできた隙である。インドに来て初めて近代的な大都市の姿を目の当たりにして、思わずホッとしてしまったのである。また、日本人が多く、やはり安心してしまったのである。インドで何日かを過ごし、慣れが出てしまったこともある。体調を崩して心身の緊張を持続できなかったこともある。少しぐらい親切にされたからといって、どこの馬の骨だかわからぬ輩の言いなりなるとは、私の馬鹿さ加減は尋常ではない。奴は私に宿紹介や観光案内の手数料として100ルピーを要求してきた。ああでもないこうでもないと口論の末、50ルピーで話がついた。でも、ビール代やら飯代を入れれば100ルピーくらいになっているだろうし、フィルムやTシャツまでくれてやっているのである。そもそも金など払う必要はないくらいだ。

この一件のおかげでいろいろ学習をしたこともある。自分のアホさ加減がよくわかったということが最大の収穫だが、他にもある。都市下層民のネットワークの一端を垣間見ることができた。リクシャーワーラーが宿とつぐんで、客を紹介するごとにいくらかの謝礼を受け取っているのはこれまでにもあった。宿だけでなく、土産物屋や旅行代理店、ホテルの従業員など様々なつながりがあるのだ。

また、この一件で、インドで旅行者たることに対する後ろめたさのようなものがなくなった。インドは貧しい国である。彼等からすれば大金を持った若造がふらふらとやって来て金を湯水のように使う状況というのは人々の反感をかうのではないかという気持ちが常にあった。今はそれがなくなったのである。少なくともやましい行為をしなければ、自分の良心に照らして恥ずべき行為をしなければ、堂々と自分を主張してよいと思う。生活や考え方の違いはあって当然なのである。無理に相手に合わせようなどということを考える必要はないのである。

奴と別れてからオールドデリーへ行く。鉄道のガードをくぐるとそこはオールドデリーと呼ばれる地域である。ここはニューデリーとは街の様子が全然違う。インドをまるめて饅頭にしたような街なのである。たくさんの人、牛、車、埃、排気ガス、屋台、糞、ヒンドゥー語の看板、路上生活者、寺院、祈り、などなど。オールドデリーはラールキラーとジャマー・マスジットを囲むように城壁が巡らされていたようだ。今も残るデリー門、トルクメン門、アジメーリー門などの城門がその名残をとどめている。夕方、日が沈むころになると人々は祈りを捧げるために寺院へ集まってくる。ジャマー・マスジットでは外に設置されたスピーカーからコーランの朗誦が響き始めた。夕陽に照らし出された人々の群れは大地を流れる血流のようにも見え、そのエネルギーが伝わってくるようだ。

再びコンノートのセントラルパークへ戻ってきた。ここに来ると必ず日本人のひとりやふたりはいるのである。今日は6日にジャンパトホテルの近くで出会った帰国間際の彼がいた。途中から3日ほど前にインドに来たばかりという二人組みも加わり四人でインド人に負けないためにはどうしたらよいか、ということについておもしろおかしく語りあった。

宿へ戻る途中、カトマンズから会議に出席するためにやってきたというネパール人にYMCAへの道を尋ねられた。私は持っていた地図を広げ、わかりやすい場所まで移動して、地図を見せながら説明してあげた。彼は、私が自分の目的地とは反対方向であるにもかかわらず途中まで案内したことにとても感激した様子でとても喜んで何度も礼を言って去っていった。こういうのが日本人なのだ。リクシャーの運ちゃんごときには絶対に真似のできないことなのだ。

病み上がり

1985年03月08日 | Weblog
昨夜はよく眠ったせいか、朝5時半頃に目が覚めた。身体の調子はまだ全快とは言えないが、熱は下がったようだ。5時半に起きても洗濯に追われ、一息ついたのは8時過ぎだった。

腹が減ったのでメインバザールの安食堂へ行く。駅前広場に面したところにあり、蝿たちに歓迎されながらチャパティを食べていると、インドを旅しているという実感が湧いてきて大変良い心持ちである。チャパティ、サブジー、チャイ、ダヒー。これこそインドの味だと思う。腹いっぱいたべても5ルピーでお釣りが来るのである。

食事を終えてから駅へ行き、ツーリストインフォメーションの窓口で時刻表はどこで手に入るのか尋ねてみた。すると、今の時期は入手困難とのことだった。4月と10月がダイヤ改正の時期なので、この時期は新たに刷ったものが無く、在庫が無くなればそれっきりなのであろう。

今日は昨日の運転手と会う予定だったので少し現金を用意しておこうと思い、銀行に寄ってから宿に戻ることにした。まだ銀行の開店時間までには少し余裕があったので、コンノートのセントラルパークで時間をつぶすことにした。ベンチに腰をおろしてボケッとしていたら変なオッサンが近づいてきた。日本から来たのか、と尋ねるので、そうだ、と答えると、懐から手帳を取りだし、日本語が書かれているところを見せてくれた。そこには、このオッサンが耳掻き屋であること、彼に耳を掃除してもらうと気持ちが良いこと、などが書かれていた。断るとその手帳の別のページをめくって見せた。やはり似たようなことが書かれている。1回3ルピーらしいのだが、下手に頼んで鼓膜でも破られたら洒落にならないので断った。彼はそれでも諦めずにまた別のページを見せる。こんな調子のやり取りが暫く続いた後、彼を呼ぶ奴がいて、私は不毛な商談から解放された。変わった商売もあるものである。

場所を変えようと思い、ぶらぶらしていると日本人がいた。もうすぐ帰国するのだが、フライトのリコンファームが遅れて彼の予約がキャンセルされてしまい、今まさに予約を入れなおしてきたところとのことだった。ちなみに、彼のフライトはタイ航空だそうである。

10時になったのでアメリカンエクスプレスの銀行へ行く。60ドル換金して宿に戻ると10時20分であった。10時に昨日のリクシャーの運ちゃんと会うはずだったが、彼はいなかった。ちょっと悪いことをしてしまった。

一応11時まで部屋にいて、それから出かけることにした。まず、ヴァラナーシーまでの切符を買いにバローダハウスへ行く。ニューデリーの街のつくりはキャンベラに似ていると思いながら、ひたすら歩いた。暑いには暑いのだが、南インドに比べたらはるかにしのぎやすい。バローダハウスの入り口にはたくさんの人々が列を作っていたが、外国人は並ばずに中に入ることができた。門を抜けるとすぐに”Tourist Office”という看板のある平屋の建物があった。外国人専用の出札窓口であり、そこでの切符の買い方は駅と同じである。周りにいた連中はみんな明日とか明後日の列車の切符を買おうとしていた。私が欲しいのは11日の切符なので楽勝だなと思っていると、その通り楽勝だった。これで一安心。バローダハウスを出ると、チャパティの屋台があったので、そこでチャパティを食べ、その近くのチャイの屋台でチャイを飲み、今日のランチは終わった。2.6ルピーだった。

ここからインド門をくぐって国立博物館へ向かった。博物館の手前に会議場があり、その入り口でハイデラバードから列車で隣の席にいた人に出くわした。彼は今日、この会議場で開かれる教育関係の会議に出席するそうだ。

国立博物館は思ったほど大きくはなかった。主な展示物としては石器時代の遺跡からの出土品、モヘンジョダロやハラッパの遺跡についての史料、南部の藩王国の史料、仏像、楽器、絵画、衣料品などである。ハムラビ法典のレプリカなどもあり、なかなか興味深い。仏像を見て気づいたのは、どれも髷を結っていて、それがシーク教徒のそれと似ているということだった。日本の仏像はどんなヘアスタイルだったろう。

博物館で今夜のフライトで帰国するという日本人の女の子に会った。コンノートに宿があるというので、二人で歩いていった。道々いろいろ話を聞いたら、北インドとネパールを一ヶ月ほどかけてまわったという。インドよりネパールのほうが好きだとも言っていた。友人と二人連れだそうで、相方は宿で休んでいるという。さすがに一ヶ月も旅行をしていると疲労もたまり、昨日は一日中眠っていたそうだ。使い残したルピーで象牙細工を買うというので、私もついていった。私はこのとき初めてインド土産として象牙があることを知った。彼女と別れてから街中をぶらぶらして再びコンノートのセントラルパークへやって来た。ここでは煙草を吸いながら「歩き方」を読んでいる人がいたので声をかけてみた。京都から勤めを休んで来たというOLだった。12日間のパックツアーに参加していて明日帰国するそうだ。今日、この時間から行けるところでおもしろいところはないかというので、メインバザールを勧めておいた。私もこの後メインバザールへ行き、屋台で夕食を済ませて宿へ戻った。

ニューデリーはインドの玄関であるため、多くの日本人観光客と出会う。その殆どはインドに来たばかりか、帰国間際であるかのどちらかである。南インドという日本からのゲートウエイから外れた場所から旅行を始めた身にとっては、なんとなく安心してしまう。病み上がりでもあるので少し気持ちを引き締めないといけない。

医者にかかる

1985年03月07日 | Weblog
昨夜はひどかった。熱が高いようで、幻覚のような夢にうなされた。たくさんのむさ苦しいオッサンたちに囲まれて大嫌いな煙草の煙にむせているのである。夢か現か混沌とした意識のなか、ふらふらと起き上がって部屋の窓を開ける。そこには、鳩が。こんなひどい夜は初めてだ。

朝になっても熱が下がらないので医者に診てもらうことにした。宿のフロントに行って近くに医者はいないかと尋ねると、隣のカニシカ・ホテルへ行ってみろという。行ってみると、今はいないから、タクシーで駅の近くの病院まで行けという。仕方がないので、タクシーではなく、リクシャーの運ちゃんに事情を話したら、YWCA近くのWillingdon Hospitalというところへ連れて行ってくれた。外国で医者にかかるのは初めてである。簡単な問診と脈を計った後、医者はすらすらと処方箋を書き、二日分の薬を出してくれた。なんと無料だった。

外に出ると、リクシャーが待っていてくれた。宿の前まで来て運ちゃんが言うことには、ここのホテルはサービスも悪いしエアコンもないから病人には良くない。もっと静かでいいところを知っているから、そちらへ移らないかという。もっともだと思い、とりあえず、その宿を見せてもらうことにした。

その宿はコンノートプレースの中心部にあり、1階と2階がレストランで、3階と4階が宿泊施設になっている。部屋数が10ほどの小さなホテルである。部屋は手入れが行き届いていて、エアコン付きである。一泊200ルピーは少々高いが、1日か2日、こういうところで休むのも悪くはないと思った。早速、宿へ引き返して二泊キャンセルしてチェックアウトした。

新しい宿の部屋で、そのリクシャーの運ちゃんとしばらく話しをした。彼は23歳で学生、商業を勉強しており、この9月から銀行で働くことになっているそうだ。リクシャーの運転はアルバイトだそうだ。なかなか高そうなスニーカーを履いているのが印象的だった。彼が帰るとき、他に何か用はないかというので、絵葉書を出したい、というと、郵便局まで連れて行ってくれた。料金は取られなかったが、Tシャツとフィルムを5本、持って行った。かえって高くついたが、英会話の練習料と思えば惜しくもない。結局、彼と明日も会う約束をして、午前11時半ころ別れた。それからベッドで休んだ。目が覚めたら午後4時半を回っていた。汗びっしょりで、着ていたトレーナーも湿っぽくなっていたが、おかげで熱は下がり、身体のだるさもなくなり、鼻水も止まった。

ところで、今日はホーリーというヒンドゥー教の祭日で、街はゴーストタウンのように静かだった。この祭りの日には、人々が色粉を水に溶いたものを相手かまわず掛け合うのである。だから、街行く人々は赤や緑で彩られた不思議な顔色をしていた。

夕食は階下のレストランを利用した。こんな立派なレストランは日本でも使ったことがない。トマトスープ、ナーン、チーズのカレー、サラダ、マンゴージュース、紅茶を注文したら驚いたことに70.85ルピーもとられた。日本円にして1400円ほどなのだが、南インドからはるばる北上してきたオノボリサンのような私は、請求書を見て動揺してしまった。ニューデリーに来るまでは、1回の食事に10ルピー以上払ったことがなかったのである。ただでさえインドの食事は量が多いのに70ルピーも注文したら、物価が高いニューデリーといえども、食べきれるはずはないのである。一番口に合わなかったサラダ(玉葱のスライス一個分と人参一本分のスライスなど、メニューには”Green Salad”となっているのに緑色野菜が入っていない)を残してしまった。それでも腹が異常に重くなった。

それにしてもニューデリーというとことは不便である。今までなら、ちょっと人通りの多いところに出れば、なにかしら食べ物の屋台が出ていて、気軽に空腹を満たすことができた。ところが、ここで見かける屋台は水とアイスクリームくらいである。もう少し、うろうろしてみれば、印象も変わるのだろうか。

やっとニューデリーに着いたけれど

1985年03月06日 | Weblog
列車のなかで二晩も過ごすと、鞄も身体も埃だらけである。列車の終着駅はニューデリー郊外のニザムディンという駅だったので、そこでマドラスからやって来たニューデリー行きの別の列車に乗り換えた。ニューデリー駅のホームに降りると、早速リクシャーの勧誘が始まる。改札を抜けると、勧誘合戦は一段と激しさを増す。しかし、ただひたすら無視して歩き続ける。こういうのにかかわっているとろくなことはないのである。

3日間にわたる列車での移動に身も心も疲れ果てていたので、少しくらい値段が高くても清潔で、湯の出るシャワーがあるホテルに泊まりたいと思った。持参していた「地球の歩き方」によればAshok Yatri Niwasというホテルが値段も手頃で条件に合うようなので、迷わずそこへ向かって歩いた。駅前を離れ、しばらくしてもリクシャーのオヤジが
“Cheap Hotel!”
などと声をかけてくる。やかましい。

コンノートプレース界隈は、以前に何かの本とか写真で見たロンドンの街並みに似ている。ここは、かつてイギリスの植民地だったので、街並みが宗主国のそれに似ているのは当然といえば当然だ。

駅を出てから歩くこと30分ちょい。ようやく目的のアショク・ヤトリに着いた。20階建てくらいの高層ビルである。フロントも立派で、職員も身だしなみが整っており、なかなか高級そうなのだが、料金はシングル一泊80ルピーである。但し、外国人はドルでの支払となる。前金で宿泊料金を支払うと部屋の鍵とレジデント・カードを渡された。カード付きはインドに来て初めてである。ホテルの中はインド人が多いのだが、白人や東洋人の姿もある。こういうコスモポリタンな雰囲気も、インドに来て初めて体験した。

部屋はさっぱりとしていて明るい。何はともあれシャワーを浴びる。外が晴れていても雨でもお湯が出るシャワーを使うのはインドに来て、これまた初めてである。シャワーがこんなに気持ち良いと感じたことは今までになかったかもしれない。シャワーを浴びてホッとしたら急に腹が減ってきた。1階へ降りて、食券制の食堂でトースト、オムレツ、紅茶を頼んだ。どれもインドに来て初めて口にするものである。どれも珍しいものではないのに、3週間ぶりに、しかも2日間の苦行の後に口にすると、これがとんでもなく旨いのである。部屋に戻って洗濯に精を出す。量が多いのでなかなかの大仕事である。一仕事終えて用を足す段になって、またまた驚いた。トイレットペーパーがある。インドに来て、初めてトイレットペーパーのあるトイレに入った。もう時刻は午前11時半。少し横になる。

午後になって街へ出た。ホテルを後にしてすぐ、ジャンパトホテルの角で日本人青年と出遭った。私と同じく学生で、4日後に帰国するという。土産の紅茶を買い込んで来たとのことで、大きな袋を抱えていた。日本人と話をするのは2月25日以来のことなので、何故だかとても嬉しかった。

その後、街の観光地図を手に入れようと思い、ツーリストインフォメーションへ立ち寄った。そこにも日本人旅行者がいた。昨日インドに着いたばかりだという青年は、早くもサンダルを履いていた。値段を尋ねると60ルピーだという。これはかなりボラれたようだ。インドの人々の多くはサンダルを愛用している。それはこのクソ暑い気候のせいでもあろうが、経済的な理由もあるのだろう。バンガロールの靴屋では、スニーカーが50ルピーから100ルピー、普通の革靴は150ルピー以上していた。マハーバリプラムの寺院前にいたサンダル売りは、最初、5ルピーまたはライター3個と言ってきた。どう考えても60ルピーのサンダルというのは高い。物価が日本の10分の1というのは感覚としてピンとこないのである。多少の高い買い物はやむを得ない。その彼が言うには、つい先ほど、持ち物を全て盗まれた日本人に会ったそうだ。リクルートのツアーで来た人で、必至で大使館やら警察やらを走りまわっていたそうだ。

さて、次にコンノートプレースへ向かう。薬局へ行って風邪薬を買おうとしたら、まず医者に診てもらえという。とりあえず、今夜一晩様子を見て医者へ行くか否かを決めることにして、これから昼ご飯を食べにNirulaというサラダバイキングの店に入った。この店は「21」というサーティーワンそっくりのアイスクリーム屋の2階にある。客の多くは外国人で、特に白人女性が目立った。お値段は一食30ルピーだった。

コンノートプレースをほぼ一周してから、メインバザールへ行ってみた。コンノートプレースからニューデリー駅への道は、朝通った時には糞が適当に転がっているだけの道だったが、今はちがう。客待ちの馬車が並び、道端には床屋、手相見、歯医者、などいろいろな商売が並んでいる。この道をはさんで駅の向いに広がるメインバザールはたいへんインド的な風景であった。つまり、今までさんざん見てきたインドの街並みであった。

再びコンノートプレースへ戻り、エアコン完備の地下街Palika Bazarへ行ってみた。日本の地方都市の地下街のようである。どこか裏寂れた感じがするのだが、人通りは激しかった。並んでいる商品は衣料品から電気機器まで様々である。ここの一角に絵葉書を売っている店があった。店番の婆さんは、はじめ切手を出して買えと言ってきた。絵葉書が欲しいというと、冊子になっているものを出してきて、”It’s cheap”という。20枚で10ルピーなので全然安くないのだが、値切りもせず買ってしまった。

ホテルへ戻る途中、ジャンパト通りのチベット民芸品店の前で、気弱そうな日本人と出遭った。元気がなく暗そうな奴だった。私と同じく4月から就職で、トヨタに内定しているという。もうインドはこりごりだと言っていた。

ホテルに戻ると、熱のせいか身体がだるくてどうしょうもなくなってしまった。ホテルの1階のレストランで暖かいトマトスープを飲んで、そのまま床に着いた。

北上する車中にて

1985年03月05日 | Weblog
午前5時頃、子供の泣き声で目が覚めた。目は覚めても、私の寝台は中段なので、下段の人が起きてくれない限り、身動きがとれない。普通に座っていられる状態になったのは、午前8時近くなってからだった。窓の外は相も変らぬ田園風景である。牛が犂を牽き、人々は井戸で水を汲む。煉瓦でできた瓦葺の家屋が点在する。家の外見などは、南部のそれより多少は立派に見える。生活水準も多少は違うのだろうか。

午前9時頃、列車がナグプールに近づくと、車内は俄かに活気付く。私の乗っているコンパートメントでも、乗客の半数が入れ替わった。約30分ほどの停車時間に、掃除小僧が埃をまきあげながら車内を掃いて周る。私はホームに出てバナナを買い、持っていたワインの空き瓶に水を詰める。

水を汲むのはなかなか大変な作業である。みんなが大きな水筒に水を詰め込もうとするので、時間がかかる。順番などおかまいなしにどんどん割り込んでくる。こういうときは、始めに蛇口ありき、である。いくつかある蛇口のなかから、ひとつに狙いを定め、まず、その蛇口に手をかけることに専念する。私の前にいる人の水筒が一杯になる。すかさず、蛇口に手を伸ばし、場所を確保する。と、思ったら、前の人と入れ替わるほんの一瞬の隙に脇から首がぬっと出てきて、ゴクゴクと水を飲みだした。コノヤロウ!水を止めてやろうかとも思ったが、気が弱いのでそのまま待つ。首が引っ込むのと同時に瓶を蛇口へ。

列車に戻ると間もなく、さっきの掃除小僧が金集めに来た。今日は小銭の持ち合わせがあったので、10パイサで済んだ。

それにしても長い一日である。午前11時頃になると気温も高くなり、座っているだけでも息苦しくなる。コンパートメントにナグプールから乗ってきた人が私に話し掛けてきた。たいして印象に残らない会話が、BGMのように軽く流れてゆく。ボパールのユニオン・カーバイドの爆発事故のことを聞いてみたが、あまり知らないし、興味もないようだった。彼からオレンジをもらったのだが、それはまるで日本のみかんのような味がした。

午後になると暑さは一層耐え難いものになった。車内の埃もひどい。とうとう鼻水が止まらなくなってしまった。まったくとんでもないところへ来てしまった。列車は時々、駅でもないのに停車する。そんなとき、線路に下りて対向列車が通過するのを見ていると、列車がまきあげる埃の量に圧倒されてしまう。一瞬、脱輪しているのではないかと思ったほどだった。車内が埃っぽい理由がよくわかった。

午後6時頃、列車はボパールに到着した。大勢の人が乗り込んできた。指定席であろうがなかろうが関係ない。6人掛けのコンパートメントに10人以上座っているのだから窮屈でしょうがない。インドの旅は疲れる。その後、名も知らぬ駅で、素焼きの茶碗に注がれたチャイを飲んだ。素焼きの茶碗というのは初めてだった。いままでは、プラスチックのコップで、後からチャイ売りが回収に回ってくるのだが、素焼きの茶碗は使い捨てらしい。周りの客を見ていると、みんな飲み終わった茶碗はそのまま窓から投げ捨てている。茶碗は線路脇で土に還ってゆくのである。周囲を観察していると、インドの人々は実に無造作に不要品を車窓から投げ捨てる。私の隣の席にいるレーガン大統領に似た感じの人は、食べ残しの食事を捨てていた。

ところで、このレーガン氏には何かと世話をやいてもらった。彼は英語をしゃべらず、私もヒンドゥー語がわからないので、会話は成立しないのだが、夜遅くなると指定席券を持たないコンパートメント内の居候を追い出し、ベッドを吊るのを手伝ってくれた。居候連中に寝台を占拠されてしまうのではないかと心配だったので、彼のおかげでたいへん助かった。

ハイデラバード最終日

1985年03月04日 | Weblog
6時半頃起床。昨夜、バスルームでゴキブリを2匹撃退。配水管を伝って侵入してきたようだ。それと、昨夜は隣の部屋の人と話しをする機会があった。背が高く、体格のよい人だったが、バスケットボールの選手だそうだ。

朝、荷物をまとめ、ベランダに出てぼんやりと通りを眺めていると、通学途中の子供たちの姿が目に留まった。女の子の制服が二種類あり、サリーの子と、ブラウスとスカートの子が1対2の割合といったところだった。マドラスでもバンガロールでも、制服としてサリーを着ている子供は見たことがない。

こんな風景を見ながら、急速に近代化が進むこの国の未来に思いを馳せる。インドの工業力はまだまだ低いが部分的には最先端を行くものもある。しかし、強固な身分制、多数の宗教、多様な民族からなる複雑極まりない国家には社会全体のコンセンサスを得て何物かを成し遂げることなど期待すべくもない。

9時半頃、チェックアウトし、荷物を駅のクロークに預け、スカンディラバードへ行く。駅の事務所には思いっきり偉そうなオッサンが一人、それほどでもないのが二人おり、その偉そうな奴がキャンセル待ちの客一人一人に席を割り振っていた。私の乗る列車のリストはまだ彼の手元にはなく、12時にもう一度来いという。時間つぶしに駅前の屋台を見て歩く。葡萄がとても多いので、ちょっと買ってみることにした。売り子(文字どおり子供)相手に2ルピー分だけ欲しいと身振り手振りを交えて一生懸命伝えようとするのだが、どうもうまく伝わらない。やっと話が通じて、じゃぁこれで、と5ルピー紙幣を出すと、釣り銭がないという。彼も周りの屋台を駆け回って小銭を集めようとしたが、どうも金のことになるとシビアなようで、結局釣り銭が集まらなかった。そこで、彼いわく、2ルピーなら手元にあるので、3ルピー分買えという。仕方ない。彼はうれしそうに天秤を取り出し、3ルピー分計ってくれた。大きな房が3つあった。とても一人では食べきれる量ではなかった。それでももったいないから、一心不乱に葡萄を食べた。マスカットのような色だが、マスカットよりずっと甘く、皮が薄い。一房食べ終えたところで場所を替え、駅前のベンチに腰をおろして12時を待つことにした。

隣に座った20歳代後半から30歳代前半くらいの男性が話しかけてきた。彼の泊まっている部屋がダブルなので一人分ベッドが空いているから一緒に泊まらないかという。1泊30ルピーだから15ルピーずつということにしょうと続ける。自分は今夜の列車でニューデリーへ行くんだと言ってもしつこく誘ってくる。とうとう彼は自分のアタッシェケースを開いてエロ本を取り出し、自分の部屋には別のがたくさんあるという。そんなものは珍しくないじゃないかといって取り合わないでいたが、それでもしつこく誘い続ける。そこへもう一人、やはりビジネスマン風の人がやってきて腰を下ろした。隣の彼はさりげなくエロ本をしまった。今来たほうの彼は、やはりアタッシェケースから本を取り出した。こちらは英会話のテキストのようである。彼はそれを片手に私に話しかけてきた。何を言っているのかよくわからなかった。彼も頭を抱えてしまった。気を取り直してもう一度。今度は短いフレーズで
“Where’s your home?”
“Oh, it’s in Japan.”
彼は満足そうな顔をしていた。ちょっと変だなと思ったのは、エロ本の彼と英会話テキストの彼との間に会話がないことであった。どうも言葉が通じないらしい。我々3人の間の会話はへたくそな英語で行われることになった。そうこうしているうちに12時になったので、私は彼等に別れを告げ、階上の事務所へ向かった。相変わらず偉そうなオッサンが席の割り振りをしていた。私の番がきたが、あいにく彼の手元にあるのは別の列車のリストだった。10分待て、そう言われて10分待ったが彼は何もしようとしない。こうなったら自分で列車のリストを探すしかない。立ち上がって、オッサンの机に積んである乗客リストを覗き込む。オッサンの向かい側の席の奴が持っていたリストの上のほうに”Train No. 21”とある。これだ。あった、俺の名前!
“Excuse me, sir. This is my name.”
“Oh, yes, your seat number is G-18.”
これで私の持っている切符の裏に「G-18」と書き込まれ、手続きは完了した。
“Thank you, sir.”
“sir”なんて使うのは生まれて初めてだ。インドでは公務員がたいへん偉いのである。事務所を出て下に降りると、
“There he is!”と素っ頓狂な声。さっきのテキスト氏であった。手を振って笑顔を交わして別れた。

リクシャーで帰ろうと思い、駅前に停まっているリクシャーを一台一台覗いていく。どのリクシャーにも主がいない。たまにいると、20ルピーなどと法外な値段をふっかけてくる。このクソ暑いのに余計な手間をかけさせないで欲しい。10ルピーでいってやるというリクシャーがあった。それでも高いが法外というほどではなかったのでそれに決めた。

ハイデラバードでは、まず、駅で列車の出発時刻を確認し、それからベンチに腰掛けてさっきの葡萄を食べ始める。まったく、とんだ昼飯になった。1時間近くかけて全部平らげ、ミルク屋へ行って口直しにラッシーを飲む。時刻は2時ちょっと前。列車の発車は夜8時。公園でぼんやり時間の経つのを待つことにした。

午後7時頃駅に行った。大勢の人がそれぞれに列車を待っていた。列車は出発の約1時間前、遅くとも30分前にはホームに入線する。私の乗る列車とほぼ同時刻にボンベイ行きの列車も出発するので、ホームの番号と発車時刻を入念にチェックした。列車は既に入線していたが、電気が入っていなかった。車内は真っ暗。ライターの火を頼りに、まず、車両の入り口に貼ってある乗客名簿で自分の名前を確認して中へ入る。間もなく、電気も入り、あとは出発を待つだけ。ただ、不幸なことに、私の席は3人がけの真ん中だった。

ハイデラバード 2日目

1985年03月03日 | Weblog
インドは夜が遅い割に朝が早い。部屋がシャワールームの隣なので、6時頃からたいへんにぎやかである。昨夜はちょっと暑苦しかったが睡眠を妨げるほどではなかった。

8時頃、宿を出て隣町のスカンディラバードへ向かう。まだ、時間が早いせいか、風が爽やかである。リクシャーを利用しようかとも思ったが、歩くのが苦になるほどの暑さではなかったので、歩いていくことにした。昨日のスタジアムを突っ切っていくのだが、バナナの屋台が目に入り、思わず足がそちらへ向く。
“How much?”
“One dozen or half dozen?”
“Half dozen.”
“Then one-fifty.”
砂糖黍ジュースの屋台もあり、ジュースも頂く。これが今日の朝食。
スタジアムを後にして15分ほど歩くと湖に出る。この湖岸を北へ行く。水は汚く臭い。それでも、その広々とした風景が心の疲労を癒すようだった。湖のはるか彼方をハイデラバード空港を離陸したインディアン航空機が遠ざかってゆく。インド滞在は残すところ約2週間だが、なんとか飛行機の厄介にならずに済ませたいものだ。やがて湖を後にして、スカンディラバード市街へ入って行く。朝食を終えたコジキ連中もそろそろ営業開始らしく、いつものように黒くて細い腕が私に向かって伸びてくる。そんななかを15分程歩くとスカンディラバード駅に着く。切符の予約窓口にいって切符を見せ、どうしたらよいのか尋ねたら、リタイヤリングルームの4号室へ行けという。行ってみると、そこは事務所になっていて、名前、行き先、切符の番号を申告させられた。そして、明日午前11時30分に再び来るよう言われた。たかが夜行列車の切符一枚手に入れるのに、なんで何度も駅に足を運ばなくてならないのか。用が済んだ頃にはすっかり気温も上がってしまい、とても歩いて帰る気はしなかった。リクシャーを拾って宿へ戻った。

宿に戻ると、オヤジがシングルルームが一つ空いたけど、そっちに移るかという。ダブルからシングルに移れば宿代が軽くなるので、迷わず移ることにした。今度の部屋は窓があり、ベッドも清潔、バス・トイレ付き。今までの部屋よりはるかに条件がよい。さっそく、その気持ちのよい部屋で昼寝をした。慣れない土地を歩くのに無理は禁物。旅行者が絶対失ってはならないもの、カネ、パスポート、健康。
午後2時半頃、再び宿を出て、旧市街へ向かって歩き出す。途中、街角の食堂で魚のフライを食べる。インドで初めての動物性蛋白質である。味は、まずくもなく、うまくもなく、値段はやや高い。旧市街へ至る道には屋台が並ぶが客は少なく売り子も手持ち無沙汰な様子。コジキの数も少ないような気がする。昨日、メロンジュースを飲んだところから少し旧市街に進んだあたりには果物屋ばかり何軒もかたまっていたが、棚に並んでいる果物の種類はマドラスやバンガロールに比べると少ない。ただ、やたらと葡萄が目立つ。さらに歩いて行くと、蛇遣いとすれ違った。片手に笛を持ち、もう片方の手に蛇のはいった籠を持ってゆっくりと歩いていた。蛇は機嫌が悪いらしく、籠のなかからスクっと頭を出し、首を膨らませたりしていた。私は蛇遣いというのは架空の大道芸、少なくとも遠い昔の芸だと思っていた。
宿を出て40分くらいたっただろうか、ようやくイスラム寺院やイスラム風の建物が目立つようになる。さらに行くと、Musi Riverという川に出る。この向こう側が旧市街である。ここまでくると、イスラム風のモッコリ屋根が急に増える。それは寺院の屋根であったり、大学の校舎の屋根であったり、政府の建物であったり、時には給水タンクだったりする。旧市街に入ると往来の数も増え、屋台の種類と数が俄然多くなる。屋台だけで日用雑貨から衣料品、食糧まですべて揃ってしまうほどだ。街全体に活気が漲り、自分のなかの「インドの街」というイメージに近づく。いよいよ、正面に門が見えてきた。この門をくぐると、さらに同じような門がもうひとつあり、その向こうがチャール・ミナールという尖塔である。そのくすんだ象牙色が歴史の重みと排気ガスのすごさを語っている。とにかく、車が多い。チャール・ミナールの螺旋階段を登り、塔のテラスから市街を眺めると、今までの雑踏が嘘のように遠くへ去り、夕陽に照らされたイスラムの町並みの静かな鼓動が伝わってくる。チャール・ミナール自体、すばらしい建物である。インドの古い建物全体に言えることだが、細部まで手の込んだ装飾が施され、丁寧な仕上げがなされている。この塔のすぐ隣にはメッカ・マスジットがある。ハイデラバード最大のイスラム寺院であるが、祈りの時間まではまだ1時間もあるので、人影はまばらである。
この塔では二人組みのオッサンに声をかけられた。テラスにいたる階段の踊り場だった。中国から来たのか、といういつものパターンではじまり、カメラを見せろだの、パスポートを見せろだの、うるさいことを言い出す。何か売るものはないのか、などと物乞いまがいのことを言うかと思えば、インドは広くて長い歴史を持つすばらしい国だ、などと愛国者面をしてみせたりする。私としては疲れるだけなので、早いところ彼等から解放されたい。そこで、インドはすばらしいと誉めそやし、自分のカメラを見せながら、インドのカメラはこんなのより大きくて立派だろう、などとひたすらヨイショに徹して、握手して別れてしまった。私は今までインド製のカメラなどみたことがない。

暗くならないうちに果物でも買って宿へ戻ろうと思い、チャール・ミナールを後にする。果物といっても特に食べたいものもなかったので、そのまま歩いていく。旧市街へ来る途中ですれ違った蛇遣いは、ちょうど営業中でたくさんの見物客を集めていたが、蛇の機嫌は悪いままで、芸になっていなかった。宿の前に着いたときには6時15分になっていた。そのままハイデラバードの駅前へ行き、屋台で食事を済ませた。